終章


 いくつか重なる少女たちの笑い声。夕暮れの時間、学校からの帰りに、少女たちは笑いながら帰路を歩いている。

 笑い合って小突き合って、時には肩を抱き合ったりして……楽しそうに楽しそうに。


 やがて少女たちの中の一人である由芽が、「ばいばーい」と手を振って、自宅の玄関のドアを開ける。

 かちゃん。

 元気よく飛び跳ねるような、そんな音を立てながら。


「ただいまーっ」

「あら、お帰り由芽ちゃん」


 母親が夕飯の準備を少しだけ中断して、娘に答える。


「ただいま」


 と、由芽がもう一度返す。そのやり取りがとても幸せなことだという風に。

 階段が、とんとんとん、と軽快な音を立てる。少女の心が明るいことを、表現しているような音だ。

 外で強い風が吹いた。風が音を鳴らした。


「クク君……?」


 風の音が、自身を呼んでいる声に聞こえたのか、少女はドアノブを回した。扉を開いて中に入る。

 中に入った途端、落胆したような、諦めのような、複雑な表情を由芽は浮かべる。


「やっぱり……いないよねぇ……」


 あはは。と小さく笑い、閉じた扉に背をもたれさせた。ひとつ溜息をついて、机の方に近づく。机においてある写真立てに手を伸ばす。

 どこかへ旅行に行ったときに写したのだろう、家族で写っている写真だ。

 後列に両親が立っており、前列には実来と由芽。両親の手は前列の娘たちの肩に置かれており、由芽は姉と腕を組んでいる。幸せな笑顔で溢れてる写真だ。


「お姉ちゃん。……クク君、ぜんぜん来てくれなくなっちゃったねぇ……」


 ポツリと呟いて、写真立てを手にしたまま、ベッドの上に跳ねるように、セーラー服のスカートを広げて座った。その隣で、赤髪の青年はポツリと呟く。


「不正解。ホントは毎日来てる」


 由芽に声が届くはずがないと知りながら、声に出した。

 あの時、あの白い空間で、赤髪は自分は死ぬのだと確信していた。由芽を外に出すために死ぬつもりでいた。


 暴走に身を任せ、己を壊し続けた。途中で意識が白み始め、トドメとばかりに喉に刃を突き刺そうとした。だが突き刺す前に、意識がフッと飛んだ。次に意識が戻った時には、青い空が目に入った。ビルの屋上に寝転がっていた。


 体のいたるところについていた傷はすべてふさがっていた。辺りを見回したが、由芽の姿は見当たらず、もしかすると何かが起こって自分だけが出てきてしまったのかと、焦燥に掻きたてられた。

 どれだけ体を具現化させてみようとしても、人間の目に赤髪の姿は映らなかった。《陽を取り込む場所》が崩壊したのだということを実感したが、そのとき、そのことはどうでも良く感じ、由芽が無事かどうかを確かめることしか頭になかった。


 病院で安らかに眠っているのを見て、目を覚ますのを見て、体が溶けて崩れ落ちそうなほどに安堵した。ふにゃふにゃになって病室の床に座り込んでしまった。

 何故自分が死なずとも、二人ともがあの空間から出てこられたのかを考えた。


 由芽がつけていたはずの、実来の《心寿》の指輪がなくなっていることに気がついた。

 もしかしたら……――由芽が実来の《心寿》を発動させたのかもしれない。

 人間が《心寿》を発動できるなどという話は聞いたことはないが、できないという話も聞いたことがない。人間が無理矢理発動させると《心寿》は消えてしまうのかもしれない。


 そして、実来の《心寿》の能力は、心の底から助けを求めている者に手を差し伸べること。絶望から抜け出す希望――なのかもしれない。その希望が、あの空間を切り裂いて、希望のある外の世界へと解き放ったのかもしれない。


「りっこちゃんもユキちゃんもいなくなって……クク君もぜんぜん来てくれなくなっちゃった……」


 律子は部屋で、死体となって発見された。

 由芽はあの白い空間の出来事が夢だと思っていて、律子の死因は例の奇病だと聞かされている。

 律子の葬儀には由芽も参列したが、律子の両親には涙もなかった。律子との関係は芳しくないものだったことが一目でわかる葬儀だった。

 ユキマサは律子の家族とは何の関係もなく、トモキと一緒に存在していないはずの存在だった。


「もうね。どうしたらいいかわかんないくらい寂しいんだ。あたしもね、お姉ちゃんや、りっこちゃんのところへ行っちゃいたいって思うときもあるんだ……」


 世の中は悲しいことや鬱屈したことばかりが転がっている。作り話以上に悲劇が転がっている。それを苦しいと感じる者がいる。

 あの白い空間に残りたがっていた由芽を、苦しいことのある世界に連れ戻してよかったのかと思うことがある。


「でもね、でも。あたし、思うの。今のあたしを作ってるのは、みんながいてくれたからだって。あたしの側にいてくれたからだって。あたしがあたしでいることが、みんなが生きてた証拠なの。その証拠をなくしたくないから、だから――がんばるからね!」


 連れ戻してよかったのかと思うこともあるが……由芽の頑張る姿を見ていると、彼女はきっと前を見据えて歩いていけるのだと信じられる。


「新しく出来た友達のユウちゃんにね、お料理クラブに誘われたの。今まで帰宅部だったけど、入ってみようかな、って思うのっ! お姉ちゃんが教えてくれたお料理法、いっぱい使っちゃおうって思うんだ!」


 写真の中の姉を見て、由芽は小さくガッツポーズをとってみせる。意気込みが、笑顔から溢れていた。

 夢だと思い込んでいるが、夢で起こった出来事と同じように友人たちを亡くして、それをどう捉えているのかはわからない。大きな傷になっているのかもしれない。本当に絶望しかけたのかもしれないし、この世界で生きていくことを望んでいなかった時もあったかもしれない。


 が、彼女の笑顔を見て思う。彼女が外の世界に出てきたのは、間違いではなかったのだろうと。きっと、あの白い空間にはない、幸せへの道を歩いていけることだろう。


 《陽を取り込む場所》が壊れ、時間が経つごとにこの街を離れる《残骸》が多くなり、数を減らしている。奇病といわれた現象も、今はほとんどなくなっている。

 実来が歩こうとした幸せの道は絶たれてしまったが。由芽の目の前に、道は大きく開いているはずだ。由芽はきっと歩いていける。


 立ち止まることはあるかもしれない。後ろを振り向くこともあるかもしれない。けれど。一歩一歩、ゆっくりと。精一杯に歩いていけることだろう。


 由芽はそのまま、姉に聞かせるようにいろいろと話を続けた。勉強のこと、体育の授業でうまくいかないこと、友人のことや先生への愚痴、最近はお菓子のことで頼りにされることが少し増えたこと。それ以上にみんなを頼りにしてしまっていること。でも、お姉ちゃんみたいにいろいろなことを全部頼りに出来る人はさすがにいないね。やっぱりお姉ちゃんはすごいよ――などなどのいろいろなことを姉に報告した。今日という日がとても充実していたのだと、心から顔を輝かせていた。


 それを見て赤髪は、胸に暖かいものを宿して由芽の頭に手を伸ばす。

 頭をなでてやりたくて、少女の頭に手を置こうとする。

 だが手には何も感触がなく、幻であるかのようにすり抜けてしまう。


 目に涙を浮かべて苦笑した。

 写真の中の実来を見た。

 由芽の笑顔をもう一度見た。


 触れてみようとして、どちらにも触れられず、一筋涙を零した。

 あの独占欲の《残骸》が持っていた《心寿》。あれは白い空間から出てきた次の日に、壊れてしまった。

 肉体のある人間から、精神体を切り離すことが出来る能力を持っていた《心寿》だ。それを持っていれば。発動させれば精神体同士、触れることが出来た。話しをすることが出来た。


 だが例え、あの《心寿》が壊れていなかったとしても、使うべきではなかったと思う。

 彼女と話しをすれば、触れることが出来れば、きっとすがりついてしまうことだろう。

 前を向こうとしている彼女を、引き留めていたことだろう。

 邪魔などは、決してできない。


「実来……。由芽…………」


 少女たちに聞こえるはずのない声で呟いて腰を上げ、壁の方へと歩き出す。


「じゃあな」


 壁をすり抜けて外に出る。

 澄んだ空が広がっている。青い空の端っこで、太陽が一日の別れを告げていた。月が、夜の訪れを告げている。

 時が進んでいる。未来へと進んでいる。

 人間たちが歩いている。《想いの残骸》の気配は感じない。


 ――俺が、やったんだよな。

 ――《残骸》を、排除した……。

 ――俺が。


 一度目を伏せる。顔を上げて、跳躍する。

 行き先は決まっている。街に別れを告げた。



    * * * *



 何年ぶりになるのだろうか。この場所に戻ってくるのは。


 相変わらず腐った臭いのする街だった。建物はどれもこれもが古く、変色していてぼろぼろになっている。道を歩けばすえた臭いが鼻をつく。路地では昼間から酔っ払っている男たちが喧嘩をしていた。


 以前そうしたように、当たり前に何の困難もなく飛行機に密航し、ここにたどり着いた。懐かしいだとかの感慨はないが、当時の記憶を呼び起こしながら街の中を歩いた。


 ひとつのアパートの前で脚を止める。記憶よりも老朽化が進んでいる建物を見上げて、扉をすり抜けて中に入る。

 階段を上り、うろ覚えな階数を数える。廊下に出て、うろ覚えな部屋番号を確認する。扉をすり抜けて中に入る。


 中に居たのは以前住んでいた主とは別人だった。机に向かってなにやら勉強をしている。もちろん中に入ってきた赤髪に気づくことはない。

 部屋の主の隣。まるで家庭教師ででもあるように、勉強している男の手元を覗き込んでいる漆黒のコートの男がいる。


「よぉ」


 声をかけると、漆黒のコートの男だけが高速回転する勢いで振り向いた。


「は、は、破壊屋さん……」

「まだしぶとく生きてたな、斧手ヤロー」


 赤髪が皮肉っぽく言うと、斧手と呼ばれた男は目から涙を溢れさせた。

 涙を流しながらも顔に笑みを滲ませ、


「は、破壊屋さん……!」


 両手を喜びの抱擁のために広げて赤髪に駆け寄り――


「げふっ」


 腹を押さえてよろめいた。


「俺は男に抱きつかれる趣味はねぇんだよ、斧手ヤロー」


 赤髪は今しがた斧手の腹に入れた拳を開閉しながら、見下した瞳で、うめいている斧手を眺めた。それでも斧手は顔に笑みを浮かべて、痛みでなのか喜びでなのかわからない涙を流している。


「ああ。ああ。そうですね。そうですよね。相変わらず容赦のない……。ああ、しかしそれすらも懐かしい。それにその呼び方。私はもう斧手にはなれませんが、なんと懐かしいことか……」


 斧手は、この部屋に住む人間が三回連続で適合者であったことから、適合者であろうとなかろうとこの部屋の住人の生活を眺めるのが趣味なのだと、昔、赤髪に言ったことがあった。赤髪はそのことを思い出し、この部屋を訪れたのだが、まさか何年も経っている今でも、本当にその趣味を続けていたとは思わなかった。


 赤髪にとって、この街は己が生まれた街であり、目の前の存在は初めて出会った同胞だ。

 帰ってきたのは別に故郷を懐かしんで、だとか、寂しくなったから、だとかの理由ではないが。しかし、以前と変わらない様子の同胞に、安堵のようなものを感じているのも事実だった。


「ああ。破壊屋さんは相変わらず容赦がありませんが。しかし……少し……物腰が柔らかくなったというか……なんとなく、そんな気がします」


 痛みから立ち直った斧手は、鼻をすすりながら涙を拭う。

 部屋の住人の男が、伸びをして立ち上がり、カバンを持って出て行く。斧手は目で見送るが、それ以上男の観察を続けることをせず、赤髪に向き直る。


「この地から離れて、旅をして……探していたものは見つかりましたか?」


 目じりを和みで垂れさせて、斧手は赤髪を見つめた。赤髪は一瞬驚いたように見つめ返し、すぐに目を逸らした。


「別に……なんかを探すためにあちこち行ってたわけじゃねぇけど……」

「でも……何か区切りがついたから、ここに戻ってきたのではないのですか?」


 目を逸らしたまま、窓の外を見た。

 ビルが、廃墟が、人の生活する場所が、入り乱れていて。不幸を一緒にして、ぐちゃぐちゃにかき混ぜたみたいな景色だった。

 けたたましいようなコミカルなような、リズムのある音が聞こえる。ぐちゃぐちゃな街の中を器用に走っていく、鉄の塊が走る足音。

 幸せも不幸も喜びも悲しみも運んでいるのかもしれない、電車の音だ。


「ああ、しかし、あれですね。あなたに会えたとなると……やはりジュリーさんとも、お会いしたくなりますね」


 赤髪の隣に斧手が並んだ。窓の外に思い出が浮かんでいるかのように空を眺める。


「ジュリーさんも……この街を離れていってしまいました。私がこの部屋の住人を観察することを趣味とし、それが私の精神的な安定につながっているということを知って。もっと他の誰かも幸せにしてあげたいと、出て行きました。一年ほど前でしょうか。懐かしいです。よく思い出していたんですよ、あなたたちのことを。ジュリーさんは包容力のある心であなたを包み込もうとしていて――だけど、あなたは素直ではなく、いつもジュリーさんをはねつけて、とんがっていて……。なんだかそれが、反抗期の息子と母親のようで、微笑ましかったな……と」


 ――母親……?


 斧手を見る。懐かしさに目を細めていた。赤髪の視線を勘違いしたのか、斧手は少し困り顔で苦笑した。


「……って。あんなに若くて綺麗なジュリーさんを、あなたみたいな大きな息子を持つ母親みたいだ……なんて言ったら、怒られてしまいますかね」

「母親……」


 赤髪は呟いて、目を閉じた。

 娘を守ろうとしたあの母親の《心寿》を思い出す。あの《心寿》の暖かさを思い出す。


 ジュリーの接し方は、今思い返せばあの暖かさに似ていて……。あの暖かさは無意識にずっと、求め続けていたもので……。

 体が、心が、冷たく震えている。顔を手で覆い、何度も深呼吸をする。しかし体の震えも心の震えも収まらなかった。

 競りあがってくる嗚咽を飲み込む。飲み込むと今度は叫びたい衝動が体を引き裂こうとする。口を押さえてこらえると、頬を涙が流れ落ちていく。


「は……破壊屋さん……?」

「ジュリーをっ……ジュリー……っを…………ころっ……たっ」

「えっ?」

「ジュリーを……殺した……」


 赤髪の言葉の意味が届いていないかのように、斧手は疑問符の浮かんだ表情をしている。

 外でまた、不幸を運んでいるかもしれない電車の音が走っていく。赤髪は、自分は斧手に不幸を運びに来てしまったと、長い前髪を掻き毟った。


「会ったんだよ。あいつに。ジュリーに。《陽を取り込む場所》って、とこで。その《陽を取り込む場所》ではっ……人間、が、いっぱい……死んでて。本当はこの街みたいな危険な街じゃなくて平和な街なのにいっぱい人間が死んでて。俺は、それを……みて……見てるのが、イヤ……で。《陽を取り込む場所》を、壊そうって……ぶっ壊そうって。それには……それにはジュリーを殺さなきゃならなくて……殺さなきゃならなくて……俺は、おれは……なんの、ためらいも、なく…………ころっ…………」


 斧手は目を見開いて赤髪を見る。『本当ですか』とも『嘘でしょう』とも言わず、ただ赤髪を凝視する。

 無理矢理に出てこようとする叫び声を、無理矢理に押し殺そうとして、えずくような音を立てた。歯を食いしばり、止めどなく流れてくる涙を堪えようとしてうまくいかず、涙を流す権利がないとでも言うかのように、必死になって涙を拭い続ける。


「殺してくれ」

「え?」

「覚えてる……だろ、お前はあんなに必死だったんだから。俺とお前は賭けをした。お前が俺の勝ちだって言った。俺がお前のことを好きにしていいって言った。だから、お前は俺を殺せ」


 涙を拭い続ける赤髪を、斧手は自身も泣き出しそうな顔をして見続けた。


「俺は……《陽を取り込む場所》で、絶望してるのに、それっ……でも、生きていこうっ……てっ、前向いてる、姉妹に、会っ……た。カイ・ヴェルバーは――俺は……絶望したら、そこで、終わりで。なんもかんも恨んで……でもそいつらはそんなんじゃなくて。そんな風に生きられたらどんなにいいかって……思ってた。けど……俺には無理だ、資格なんかない。俺は人間殺して《残骸》も殺して、人間側にも《残骸》側にも立てなくて、“母親”殺して――……アイツらっみたいに……前だけ向いて生きてていいわけない!」

「じゃあ、あなたは……」


 斧手が震えた唇から、震えた声をつむぎだした。その震えは悲しみや同情や怯えなどではなく、怒りからの震えだった。


「私にあなたを殺せと言うあなたは……自分の罪悪感から逃れるために、私に罪悪感を植え付けるつもりですか」


 怒りに満ちた表情を見る。怒りの表情ではあるが、目には涙がたまっていた。赤髪は涙を拭うことも忘れて、斧手の涙がどういう涙なのかを理解できずに戸惑った。


「この話に救いがあるとすれば……人間も同胞も殺すことを厭わなかったあなたが、変わったことでしょうか。何もかもを嫌いだったあなたに、好きなものができた。自ら死を選ぼうとするほどの罪悪感を抱えるくらいの、想いを……」

「だからって、許されるわけじゃないだろ」

「そうですね」


 言葉が途切れた。沈黙に押しつぶされそうになりながら、涙を振り払った。

 窓の外には重苦しい曇天が広がっていた。重苦しい空に、そのまま押しつぶされてしまいそうだった。


 街にはゴミが散らばって腐っていた。人に悲しみを植え付けても厭うことのない人間ばかりがいて、腐っていた。赤髪自身も、己が腐っていると思った。

 悲しいことはどこにも転がっていて、腐っていくのだと思った。


「一度はあなたを殺そうとしたことがある私です。怒る資格がないかもしれません。ですが、それでも。彼女は私のかけがえのない恩人で、あなたがジュリーさんを殺したことは、とてもとても悲しいし腹が立つし、恨みに思います」


 言葉を再開した斧手を見る。彼はまだ、怒りの表情をしていた。先ほどと違うことがあるとすれば、目から涙を零して、怒りではない感情で声を震わせていることだ。


「許すことはできない。ですが、私は、彼女が注いでいた愛情に……遅すぎると言えど、やっとあなたが気づいてくれたことが嬉しくもあるのです!」


 泣き叫ぶように告げられた彼の言葉を聞いて、思った。

 彼を……友と、呼んでも良いだろうか、と。

 恨みに思われることをしてしまった今は、友などと呼べないとわかっている。

 けれど、昔の彼との関係は、友だったといっても、いいのではないかと、思った。


「なぁ……斧手。俺の名前、つけてくれないかな」


 これからも罪悪感に苛まれながら、人間ではない存在である自分は、人間ではない存在として、これからも人間を殺して生きていくのだろう。だから、彼女たちとの思い出は、なるべく綺麗なまま、心にしまっておきたい。彼女がつけてくれた名前と共に。


「お前が俺を恨みに思ってるなら、今日で縁を切ってもいい。けど、最後に、お前につけて欲しいんだ」


 涙を拭い、ハナをすすりながら、斧手は怒りの表情を消して、軽く目を見開いた。


「……まだ自分の名前を決めていなかったのですか?」

「うるせぇな、早くつけろよ」


 気のせいかもしれないが。

 斧手の呆れる声で、少しだけ、昔の空気が戻った気がした。賭けに頭を悩ませうねり合い、怒ったりも笑ったりもした時間が。


 斧手は眉間にシワを寄せ、人差し指を額に押し付け「うー……ん」と唸った。

 そのうち額に玉の汗が浮かぶ。それでも唸ることをやめずに斧手は一生懸命、考えていた。


 昔の自分ならば、自分に向けられる“一生懸命”を、重く感じてしまって、跳ね除けてしまっていたことだろう。けれど、今は……たぶん、その重くも暖かいものを、快く受け止められることだろう。


「それじゃあ、こういうのはどうでしょう。ええっと――――」


 結局のところ、愛情というもはよくわからない。フィクションのような、綺麗で一途な愛情は存在しないのかもしれない。


『あなたはあなたの愛し方を見つければいいのよ』


 ジュリーの言葉を思い出す。確かに、それでいいのかもしれない。

 窓の外は腐っている。腐っていはいるが――腐っているような街でもきっと。探せば、どこかに。さまざまな形の愛情や、さまざまな形の喜びは、転がっているのかもしれなかった。



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破壊を想う 破滅を想う 想うことを想う あおいしょう @aoisyou

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