○ 白く白く染まっていって―― 〈高科由芽〉


 涙の乾いていない顔をククに向ける。

 跪いて手で胸を押さえていた。由芽は反射的に立ち上がり、ククに近づこうとしたが、ククがもう片方の手を掲げ、由芽が近づくことを静止する。


「ク……ク……君……?」


 ――逃げろって……何から……?


 不安に胸を押さえて、由芽はその場から進むことも退くこともできずに立ち尽くした。


「あ、あああああああああああああ!」


 ククの掲げていた方の手が、なにやら複雑な動きをした。瞬間、由芽の数十メートル向こうで散らばる砂が、跳ね上がった。

 目の端で捕らえたそちらを見ると、白い地面が大きな円の形で窪んでいた。

 息を荒げたククが、何度も悲鳴を上げるのと同時に、窪みが数を増していく。


「あ、あ」


 由芽は力の入らない足で、よろめきながらも走り出した。ククの理性のない悲鳴が、由芽への『逃げろ』という警告、あるいは懇願にも聞こえた。

 一際高い悲鳴が上がる。走りながらも反射的にそちらを見る。ククが刀を手にしていた。


 刀の切っ先が、クク自らの手で、クク自らの腹に向けられていた。押し込められ、切っ先が背中から突き出る。

 由芽は目を見開いた。逃げていた方向から身を翻して走り出した。ククが口からおびただしい量の黒い体液を吐く。刃を引き抜き、もう一度腹に突き立てる。また引き抜く。ククの元にたどり着いた由芽がその手を押さえるが、少女の力では抑えることができなかった。咆哮をほとばしらせると共に振り回された腕にはじかれて、由芽は地面に倒された。

 ククの手は、無心に己を傷つける作業を再開した。


 彼の体内からあふれ出る黒い飛沫が飛ぶ。由芽はその黒を浴びようとも、動くことができなかった。


 ――なんで? クク君何やってんの? どうして……?


『クク君がこの空間で生きてる限りは、由芽ちゃんはここから出らんないってワケ』


 ユキマサの言葉が思い出された。

 だからなのか。だから自分のために死のうとしているのか。


 ――やだ。


 ククが、自らの腕を切り落とした。

 腿に刃をつきたてる。

 白い地面が、足元が、黒い液体で染まっていく。


 ――やだ。


 恨め、と言われた。

 許せるのか、と問われた。

 律子が、トモキが、ユキマサが死んでしまった時の様を思い出すと、違う道もあったのではないかと思える。

 けれど、なくしたくなかった。想いを。否定したくなかった。彼を大切だと思った自分の想いを。他のみんながいなくなってしまったからこそ、もうなくしたくなかった。


 ――クク君がなんて言ったって、クク君が死んじゃうのはイヤなの……!


 立ち上がり、ククにしがみつく。またしても弾き飛ばされ倒される。


「やだっ……!」


 また立ち上がり、またしがみつき、また弾き飛ばされた。


「いやあ! クク君死んじゃヤダ! 死んじゃヤダぁぁああ!」


 何度も叫んだ。何度もしがみついた。だが彼は由芽を認識していないようで、そこに存在していないように、ただひたすらに己を壊し続けた。

 黒い飛沫が由芽の顔にかかる。服を汚す。手を汚す。体が黒く染まりきってしまっても繰り返し――ふと。

 手を見た。


 ――お姉ちゃん……。


 指輪が嵌っている。ククに渡された実来の“形見”だ。ククが、『それは実来自身だから』と言っていた指輪だ。


 ――お姉ちゃん……!


 指輪が嵌る指を、もう片方の手で包み込み、胸に抱く。


 ――助けて……!


 黒い飛沫を浴びながら、祈った。


 ――わかってる。あたしがもうお姉ちゃんを頼りにする資格がないなんてこと、わかってる。お姉ちゃんが生き返ること、願わなかったのに、今さら頼りにしようなんて酷いことだってわかってる。でも、あたしじゃクク君を止められないの! ダメなの、あたしの声じゃクク君に届かないの! わがままだけど! あたしはどうなってもいいから、お願い、クク君を止めて!


 ククの、自身を傷つける音だけが聞こえる。耳を塞ぐことなく、姉を握り締めて祈った。

 死んだ者が生き返らないのは知っている。祈るだけでは生き返らないのは知っている。けれど――だけど――――


《――ボクはわがままだ――》


 頭の中で声がした。懐かしい懐かしい声がした。


《――誰かの役に立っていないと、不安になるんだ。存在価値があるのかな、って、思ってしまう。役に立っていないと、生きてちゃいけないんじゃないかって……存在してていいのかなって、思っちゃって、怖かったんだ。由芽もボクとおんなじに、誰かの役に立ちたいって、想ってたなんてまったく気づかずに。由芽の“役に立ちたい”って想いを踏みにじって、役に立つチャンスをボクが奪ってたんだ。わがままだね。でもね、それでも。ボクは由芽の役に立ちたいんだ。役に立ちたいんだよ――》


 ククが膝から崩れ落ちて、黒い水溜りの中央に倒れた。それでも彼は右手の刃を虚ろな瞳で見つめ、ゆっくりと刃を喉にあてがった。


 懐かしい声が眠りに誘うように、由芽の意識が白み始めた。真っ白な空間の中でも色を持っていたモノ――散らばっている砂や、ククの体から出た夥しい量の黒い液体や、ククの体も、白くなっていく。

 白く白く染まっていき――――――――――























 白が晴れると、天井があった。

 白い天井ではあるが、白だけの空間ではなく、蛍光灯が光を放っている。見慣れない天井だった。


「あれ……?」


 布団に包まれていることに気づく。ベッドの上に寝ていた。

 朝、目が覚めた時のような倦怠感がある。嫌な夢を見て、目覚めた時のような……。


「由芽ちゃん?」


 女性の声がして、由芽の顔を覗き込んできた。母だ。


「由芽さん? よかった。目が覚めたんだね……よかった……」


 もう一人、由芽の顔を覗き込んでいた。父だ。


「お父さん……お母さん……。あたし……?」

「あのね、由芽ちゃん。昨日の夕方、喫茶店で倒れたって聞いてね。ここ、病院なんだけど。由芽ちゃんも、もしかしたらお姉ちゃんとおんなじ病気なんじゃないかって……お医者さんに言われてね。ママ……ママ、本当に……」


 母は声を詰まらせて目頭を拭った。拭いきれずに一筋の安堵の涙がこぼれ落ちた。


「昨日の…………喫茶店で……?」


 母の言葉に違和感を覚えて呟いた。

 喫茶店からククに抱えられ、連れ出され、どこかの建物の屋上でトモキにあの白い空間に閉じ込められた。そのはずなのに……。

 枕に頭を預けたまま、部屋の中を見回してみた。

 白以外の色があり、砂が散らばっているわけもなく、赤い髪の青年もいなかった。


 ――……夢…………?


 律子が砂になったこと。ユキマサが砂になったこと。トモキが自分を殺そうとしていたこと。ククが喉を貫こうとしていたこと。

 すべて夢だったのだろうか。


 ――これが夢オチってやつかなぁ……。


 いつだったかユキマサが大騒ぎをして嘆いていたのを思い出し、そんなことを思った。



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