第一章 客、海原より来る(一)

 ──大海神おおうながみさまのお通りだよ。

 この季節になると、島長ユラが必ず口にする言葉だ。いや、何もユラに限ったことではなく、村の者は誰もがこの言葉を口にし、また耳にする。

 猛暑もきわまる夏の盛り。空一面に厚く垂れ込めた雲が、海を自身と同じ濃灰色に染め上げる。海を作るのは常に空だ。雨をはらんだ雲が、持ちこたえきれずに最初の一粒を落とすと、すべての家が戸窓を閉ざす。大いなる風が波を呼ぶ。ひとつの波は水面を奔り、いくつもの波を取り込み、膨れ上がる。

 我らが村は大海神さまの通り道だと、村人は囁く。

 稲穂はなぎ倒され、家はきしみ、運が悪ければ屋根が飛ぶ。人々の汗をあざ笑うように、高潮が防波堤を乗り越えてくる。さらに、それらは、年に一度では済まない。

 村人は、ひたすら耐える。そして祈る。

 大海神は荒ぶる神だ。海の彼方から嵐を携えてやって来て、島をゆるりと旋回して通り過ぎるまでの間、ささやかな村の営みを蹂躙し尽くす。

 大海神が恵みの神の顔を顕すのは、この後である。猛る波は、海に息づくものたちを村へと誘い込む。また、嵐に耐えて残った作物こそは、嵐によってもたらされた潤いを充分に吸い込み、実りの季節へ向けて最後の命を生きる。

 だからこそ、村人は、こぞって迎え入れるのだ。

 ──大海神さまのお通りを。


                * * *


 煙幕のような雨と、虚空を縦横無尽に駆けめぐる稲光、狂おしく暴れ続ける帆。

 そして、ぐらりと揺れる足許。墨を流し込んだような海の水面が、急速にせり上がってくる。あらがう暇もあらばこそ。黒く巨大な怪物がうねり、迫り、弾けた。

 彼は怒濤の海原に投げ出された。あらゆる感覚が闇の中に塗り込められてゆく。

(──ラリー……──)

 ……遠ざかりゆく意識の底にたゆたうのは仲間の声か。

 三度の食事よりも乱を好む、彼の悪友たち。この無謀な冒険の共犯者である。そう、ほんの少しの理性さえあれば、これがいかに無謀な企てであるか簡単に分かるはずだったのだ。乾物と酒とポケットにねじ込んだわずかな銭、そして小さな帆船。すべてがありあわせだ。ただ、見果てぬ夢。それだけが周到に用意されたものだった。

 実際、彼らにしても、分かっていたのだ。自分たちの計画の無鉄砲さなど。

 早い話が、彼らは、無鉄砲でないものになど飽き飽きしていたのだ。彼らの日常は穏やかで、変わり映えもなく、まるで起きながらにして眠っているようだった。なるほど、それでこそ日常なのだろう。しかしそれならば、彼らがそんなものに耐えられるはずもなかった。

 だが、しょせん夢は夢。明日のパンに困ったこともないような坊やたちに手加減をしてくれるほど、嵐の海は甘くない。

 そもそも、この時季のこの海域に決まって訪れる大時化について、何の知識もなかったことが、彼らの敗因だった。

(──……ラリー、お前は、またどこへうろうろ出歩いていたんだ)

 ああ──死に際にまで説教かい、親父。

 しかし、今やそれすらも切実に恋しい。こんなことならば、もう少しまともな家の飛び出し方をしてくるべきだったか。

 彼の父は、もうこの類の小言を一切口にのぼらせる必要がないだろう。そのことは父にとっては悲しみであってくれるだろうか。いや、それ以前に、自分の消息は故郷に伝わるのだろうか。こんな大海原のただ中で、波間の藻屑と消えてもなお?

 可能性は、きわめて薄そうだ。

(──ここからずっとずっと遠い南の島の、ある村の伝説だよ、ラリー。そこには、〈森の人魚〉が住んでいたんだ……──)

 ああ、ただ、それだけが。

 ……それを一目見ることだけが、おれの望みだったんだ、親父。


                * * *


 ……薄く霞がかった声が、彼女の意識を手招く。

 彼女は心許なさげに辺りを見渡す。立ち尽くした彼女の足元にはさざなみが遊んでいる。その小さなきらめきのひとつが、彼女の瞳を射た。

 ぼう、と霧笛が鳴った。それが合図であるかのように、白い闇はさっと開けた。

 どこまでも青く澄んだ空に、純白の帆を誇らしげに張りつめて、一隻の船がたたずんでいる。

 船室の扉が開いて、一人の男が現れた。彼は靴音を高らかに響かせて歩み寄ってきた。船尾で立ち止まった彼の顔は見えず、言葉も聞こえない。ただ、日に焼けて浅黒く、堅牢な筋肉に覆われた腕を差し出すのだ。

 ──あたいを呼んでるの?

 問いかける声も、真綿に吸い込まれるようにかき消えてしまう。男がさらに腕を伸ばすと、虚空がふっと揺らいだ。次の瞬間には、どういった仕組みでか、甲板から彼女の足元へゆるやかに降りるきざはしが現れている。

 階の上から彼女を見下ろす男の顔は、依然そこだけがぼやけて見えない。しかし、彼女には、何故か彼が微笑んでいると判っていた。

 ひときわ強い潮の薫りが、彼女の胸の中を駆けめぐった。

 見たこともない広い世界を彼女は夢想した。入り江に停泊するや否や、帆船は大勢の船方に出迎えられる。颯爽と降り立つと、そこは大きな港町だった。行き交う人々、商人あきんどの売り声、露店に並ぶ果物のかぐわしい匂い。目抜き通りを駆け抜けると、町の出口は草原の入口だ。視界を遮るもののない萌黄色の大地である。どこまでも、果てしなく!

 ──ねえ、あなたの海はどこにあるの?

 あたいの知らない海をこの人は知ってる。その確信は、彼女を歓喜に震えさせた。

 ──この風景はあなたのもの?

 そうならば。ああ、もしそうであるのなら……。

 彼女が足を前に運びかけた瞬間、遥かなる草原の幻は、風に吹かれた砂の城のように崩れた。

 彼女は振り返った。白い闇の中に、小さな集落のたたずまいが浮かび上がる。

 まさに、絵師が薄い色彩をいくつも重ねて、しだいしだいに鮮やかにしてゆくさまに似ていた。描かれてゆくのは、目を閉じていても間違えずに歩けそうな、自分の村である。そして最後に現れたのは、小柄で華奢な少年の姿だった。彼は微笑んだ。見る者の胸を締めつけるほどに優しい笑みだった。

 風に乗って、彼のか細い声が届いた。

(………。おいで、………)

 ──兄さま、あたい……!


 目が覚めると、嵐はどうやら止んでいた。

 掛け布団からわずかに顔を出し、暗がりの中で耳をそばだてる。戸はもう軋んでいないようだ。風の啼く声も雨の叩きつける音も聞こえない。

 ぴったりと閉ざした木窓の、ほんのわずかな隙間から、ほのかな光が漏れ差している。ミズハはそろそろと手探りで窓枠へ寄り、音を忍ばせて少しだけ窓を開けてみた。明け方の空気はまだかすかに涼気を含み、海の方から立ちのぼる霧が、夢の中の風景のように世界を淡い青に染め上げている。

 起こしてしまってやいないだろうかと、ミズハは後ろを顧みた。

 今さっきまで自分が寝ていた場所の隣に、もうひとり、少年のような人物が横たわっている。彼の瞳は景色を映すことはないが、光をぼんやりと感じ取ることはできるのだから。

 瞼を動かすこともなく、彼は依然、静かな寝息を立てている。ミズハは安堵して、窓をやや細くした。

(……兄さま)

 痩せこけた彼の頬は、なけなしの光に照らし出されていっそう落ちくぼんで見えた。布団の襟元からのぞく首筋も、ミズハですら手折ってしまえるのではないかと思えるほどに細い。

 一朝一夕に、そうなったのではなかった。ミズハが覚えている限りでは、彼女の兄は昔からずっと、人並み外れて華奢である。走ることができず、歩くのも一歩一歩、ゆっくりと足元を確かめるような速さが精一杯だ。

 だが、言ってみれば、それだけのことだった。

 骨と皮ほどに痩せており、身体能力が著しく低いことを除けば、彼は普通であると言ってよかった。いや、むしろ、ずば抜けて優れていた。生まれながらにしてこの世の光のほとんどを奪われてしまってはいるものの、彼の内面の知性は見えないふたつの目から溢れ出して、それ自体が光り輝いていた。

 だからこそ、村人は、彼を称えた。海神さまの申し子だと。

 村の誰からも、彼は、村長ユラの跡継ぎと目されていた。彼はユラの孫に当たり、ユラの娘夫婦は他界しているのだから、彼が跡継ぎとされるのは何ら特別なことではないのだが、そういった家系の問題以上のものを、彼は持っていた。

 ──「海神さまの申し子」。

 彼は、物心ついた頃には既に〈神語〉を操り始めていたという。今となっては、ユラよりも流暢に話す。ユラよりも流暢ということは、この村でもっとも海神の意志に近しいということだ。

 彼を褒め称える言葉は数多く存在したが、それらのほとんどすべてが、ミズハにとっては関係のないことだった。

(……スズカゼ兄さま)

 声に、あるいは心に呼びかける時、ミズハは決まって、胸がきゅっと締めつけられるほどの感慨を覚える。あたいと同じぐらいの背丈の、あたいより薄い肩をした男のひと。小枝のような腕を伸ばして、あたいの髪をいつも誰よりも優しくなでてくれる──あたいの、兄さま。

(あたいが走ってあげる。あたいが見てあげる。兄さまの分まで)

 ミズハにとっての彼は、そのことに尽きた。

「行ってくるね、兄さま」

 ほとんど唇の動きだけで呼びかけ、ミズハは足音を忍ばせて寝室を後にした。


                * * *


 何度この季節を経験しても、恐いものは恐いのだ。

 夏の大雨、換気もできずに澱んだ空気。本来ならば、腹に布団の端を乗せるのも億劫なのだが、大海神さまのお通りになる晩となれば、悠長なことも言っていられない。こんな窓の騒ぐ夜は、爪先から頭まですっぽりと布団をかぶって、にじみ出る汗の心地悪さに耐えながら朝を待つのがミズハの常だ。

(兄さま、おやすみ)

 呼びかけるミズハに、彼女の兄はふんわりと笑いながら、おやすみ、と返したのだった。昨晩。月も星もない闇夜。村の表の浜辺に、沖合からゆっくりと大海神が降臨し始めていた。

 兄さま、とミズハは兄の背中に再び呼びかけた。振り返って首をかしげる兄に、いたずらの言い訳をする子供のような口調でミズハは言い募った。

(……に、兄さま一人じゃ心細いだろうから、あたいが一緒に寝てあげる!)

 スズカゼはくすくすと声を漏らし、頷いた。

(そうかい、ありがとう。それじゃあミズハ、布団を持って、早くおいで)

 まりが弾むように、ミズハは頷いた。

 下働きがせっかく敷いた布団を、敷布ごと引っ張って隣の兄の寝室まで運んでいった。ふたつの布団が揃って並び、行燈が消え、部屋は闇に包まれた。

 暗がりの中で聞く風のうなり声も、兄と一緒ならいい子守歌だった。兄妹はぽつりぽつりと会話を交わしながら、やがてゆるやかに眠りに引き込まれていき……。

 そして嵐の去った朝、ミズハの一日は決まって太陽よりも早く始まる。

 〈大海神〉の通り過ぎたあと、まだ寝静まった村を駆け抜け、裸足のままで海に飛び出してゆくのが、ミズハの大のお気に入りである。

 村の出口から一面に、ハマヒルガオやヒガンバナの繁みが広がっている。もっとも、ミズハが名前を知らないだけで、生えている草はもっとたくさんの種類があるはずだった。湿った土が、足の裏にひんやりと心地よい。くるぶしをくすぐる草むらが途切れると、そこは既に真っ白な砂浜だ。

 昨晩の嵐が嘘のように、水面は凪ぎわたっている。太陽はまだ、この水平線の下にあるのだ。

 かすかな潮風に頬をさらして、ミズハは手早く髪を結わえた。どんな手の込んだ結い方をするわけでも、乙女らしい綺麗な髪飾りをつけるわけでもなく、ただ頭の高い位置でひとつにくくるのが、ミズハの常である。

 首筋の汗が風にさらわれてすっと引いた。ミズハは大きく伸びをした。

 波打ち際には、昨晩の嵐を証明するかのように、木屑や布切れ、ちぎれた海草が打ち上げられている。ミズハが本当に気に入っているのは、実はこれである。

 荒れ狂う波濤に乗って、遥かな旅路の末にここへたどり着いたさまざまなものたち。海の彼方に、こことは違う風の吹く、あたいの知らない大地があって、この木屑や布切れや海草は、まさにそこからやって来たのだから!

 ミズハは、小さな布切れのうちのひとつを拾い上げた。

 思いのほかそれは固く頑丈で、もとは真っ白だったと思われるが、今では嵐になぶられるだけなぶられて、茶色とも灰色とも緑色ともつかない色合いを呈している。

 薄汚れた布切れを胸に押し当て、ミズハはいっぱいに息を吸い込んだ。目を閉じて、そうやって、深い呼吸を繰り返していると、世界は繰り返すさざなみの音だけで構成されているようにすら思えてくる。


 ──どのぐらい、そうしていただろうか。

 ずいぶん長い時間がたったようにも思えたが、太陽がまだ水平線から頭をもたげていないところを見ると、ほんのひとときのことだったのだろうか。あるいは、立ったまましばし眠ってしまっていたのかもしれない。脈拍を思わせる、単調な波の音楽は、海の子である人間を眠りへ誘うから。

 ミズハの放心をうち破ったのは、物音だった。

 かすかな、しかしさざなみとは明らかに異質な物音。何か重いものを引きずったような、ざらついた音が下のほうから聞こえたのだ。

 ミズハは足元に視線を落とした。その瞬間、反射的に後ずさった。

 青年と思われる人間が一人、頭から爪先まで、全身ずぶ濡れになって横たわっている。彼は張りのある浅黒い肌と、村では滅多に見かけない、白みがかった金の髪を持っていた。

 昨日の嵐で、流れ着いてきたのだろうか。

「……お兄さん、大丈夫?」

 揺すり起こそうとミズハがかがみかけた時、青年の腕がわずかに動いた。引き締まった肩にうっすらと筋肉が浮かび、力無く開かれていた掌が砂をぐっと握りしめる。そのまま彼は寝返りを打った。すると、うつ伏していた顔があらわになる。

 眉根にしわを寄せ、瞼を二、三度けいれんさせてから、彼はゆっくりと目を開いた。

 ミズハは、それをまじまじと覗き込んだ。

(夜明けの海みたい……)

 彼の双眸は、折しも差してきた朝日を受けて黄金色に閃いた。まるでこの大海の水面から顔を出した、生まれたての太陽そのものの色だ。

 覗き込むミズハの視線に気付いたか、彼ははっと瞳を見開いた。

 胸の奥をかき回す感慨に任せて、ミズハは右腕を差し出した。青年はしばらくの間それをまじまじと見つめていたが、やがてかすれた声で何事かを呟いた。上体を起こし、力強くミズハの手を握ると、そのまま彼は立ち上がった。

 彼は長身だった。間違いなく、ハヤトより高いだろう。ミズハは彼の顔を見上げたが、逆光になっていてよく見えない。それでも何故か、ミズハには彼が微笑んでいると判っていた。

 ああ、この人は、あたいの知らない海を渡ってきたのだ。そう思うと、ミズハの全身の血が騒いだ。どこから来たのだろう、どうして来たのだろう!

「あたい、あなたを見たことがある……夢の中で」

 ミズハの呟きに、青年は首をかしげた。明らかに反応に困っている風情だったが、やがて何かに思い当たったのか視線を落とし、打たれたようにぱっとミズハの手を解放した。

 言葉が通じないのかもしれない。彼が本当に海の向こうの人間なのだとしたら、それは当然考えられることだ。

 ミズハは掌の動きで自分と青年を指し示しながら、できる限りゆっくりと尋ねた。

「あたいの名前はミズハ。あなたは、誰なの?」

 ややしばらくの間があったが、ミズハの意図するところはなんとか伝わったようである。青年はがさついた呼吸の狭間から、一言一言、絞り出すように言葉を紡いだ。相変わらず聞き取れない言語だが、その中にあって一片の音の塊だけが、まっすぐにミズハの耳に飛び込んできた。

“……ラルダール”

 遠い異界からの呪文を思わせる、短くも美しい音の連なりに、ミズハは大きく息を呑んだ。

 ミズハの目をまっすぐにとらえ、彼は親指の先で自分の胸を叩き、もう一度異界の言葉を繰り返した。そうして、唇の端を少し上げた。笑ったものらしい。

「『らるだーる』?」

 おうむ返しに聞き返した、その直後に、ミズハは得心が行った。

「ああ、あなた、ラルダールって名前なんだ。そうなんだね?」

“おれはラルダール・ディンゴ。きみは誰で、ここはどこなんだ?”

 青年は、あくまでミズハの問いかけとは無関係に、自分の名を名乗り続けている。あたいはミズハで、ここは海神さまの村だよ──ミズハは答えようとし、唐突に気付いた。

 あたい、この人の言葉が聞き取れるんだ!

 そのことはまさしく不思議な出来事だった。彼の紡ぐ言葉は、ミズハの村で使われているものとは似ても似つかぬ発音を持っている。現に、ミズハの話す内容はラルダールという青年には通じていないようだ。にもかかわらず、ミズハはラルダールの言葉が理解できた。

 それは取りも直さず、ミズハの知っている言語に非常に近い響きを帯びたものであったから。

 ミズハの知っている言葉のうち、村人の間で使われていないものといえば、残りはただひとつしかない。だが、ミズハの常識が、目の前の現実をなかなか容認してくれなかった。

 何となれば。

 彼の話す言語は、この村の祭祀の一切を司る村長一族の者しか扱うことはできないはずの、清らなる言霊を繋ぎ止める力に満ちた……〈神語〉に、あまりに酷似していたのだった。

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樹海に閃く一片の鱗 櫻井水都 @sakuraiminato

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