樹海に閃く一片の鱗

櫻井水都

序章 海神祭・点景

 祭囃子を背中に聞きながら、ミズハはひとり海を眺めていた。

 今夜の海は穏やかだ。真円の月が鏡のような水面に映り込み、かすかな波のさざめきにゆらゆらと弄ばれる。

 食べ終わった水飴の棒の先を口の中で弄びながら、ミズハは鼻歌を歌っている。節は適当なものだ。どこかで聴いたものか、それとも全くのでたらめなのかも判然としない。

 届かない足を水面の上でぶらつかせながら、ミズハはひとつ伸びをした。

 天空と酷似した、もうひとつの地上の空だ。空が漆黒の時には闇に沈み、晴れ渡った時には青くどこまでも澄む、天空の双子。そして、よく似たこの兄弟は、ミズハの視線の遥か彼方でひとつになる。

 この海は彼女の生活の一部だった。否、彼女の村のほぼすべてとすら言ってよかった。

 この村の糧を、信仰を、娯楽を、まるごと引き受けた存在。前方にこの海、後方に奥深い森、両者の狭間に途方に暮れたようにたたずむわずかな平地、それが彼女の村である。

 ──胸の奥が、ざわ、と波立った。

 ミズハは上着の中に手を入れ、小さなものを取り出した。

 彼女の首から胸に下げられたそれは、〈人魚の鱗〉と呼び習わされていた。光の当たる角度によって目まぐるしく変わる色味が玄妙で美しい。

 ──こんな綺麗な鱗をつけて、海神うながみさまはどこまで泳いでゆくんだろう。

 目の前の海が広大であればあるほど、彼女の息は詰まった。広い世界の入口はここにあるのに、こここそがまさしく彼女の世界のどん詰まりなのだ。

 闇に沈んだ水平線の彼方に、彼女の意識は吸い込まれていくかと思えた。

「……さま。ミズハさま」

 遠慮がちな細い声が、ミズハの意識を呼び戻した。

 ミズハは振り向いた。振り向く前から分かっていた──物心ついて以来聞かなかった日はない声だ。

「ああ、ナミノ」

「ミズハさま、おいで下さいませ。もうそろそろ、スズカゼさまのうたいが始まります」

 ミズハより二、三歳年長と見える少女は、そう言ってかすかに目を伏せた。沈んでいるのではなく、それがナミノの普段からの癖であることを知っていたので、ミズハは別段気にしなかった。

「分かった、ありがとう」

 腰掛けていた岩場から、軽やかに草むらに飛び降りる。裸足にごわごわとした草の感触が心地よかった。

 ミズハはナミノの手を取った。

「じゃ、すぐ行こう!」

 そのまま、祭囃子の聞こえる方へ駆け出してゆく。きゃあ、と小さく叫ぶナミノを引きずるように。


 年に二度の海神祭うながみまつりは、この村の数少ない娯楽のうちのひとつである。

 枝から枝へ縄を渡し、そこに色とりどりの提灯をぶら下げる。暗緑の森は華やぎ、夜であるにもかかわらず子供たちの遊び場になる。それぞれの家からわずかな蓄えを持ち寄り、飴を煮たり、餅をついたり、とうきびを焼いたりする。

 普段は洒落っ気もない若者たちが、この日ばかりはこぞって色づく。少年は着飾り、少女は目尻や唇に紅を差し、そうして、見慣れすぎた互いの顔の中に思いがけず異性を見つけるのだ。

 ミズハはちらりと、隣に腰掛けるナミノの横顔を見た。

 風に揺れる提灯が浮かび上がらせるナミノの頬は、どこまでも白くきめが細かい。長い睫毛が目元にわずかな影を作り、鼻筋は形良く通り、唇は小振りで瑞々しい。腰まで垂らした黒髪には、細い組み紐を編み込んである。

 とびっきりの美人だ、とミズハは思う。惜しむらくは、常に自信がなさそうにうつむいていること、だろうか……ミズハが自分のことのように悔しがった、ちょうどその時。

 ──トン、トトン、トトトトトトトト……

 広場の片隅から、太鼓の音が響いた。それと同時に、灯籠の明かりにゆらりと浮かび上がるようにして、ひとりの人物が現れた。

 村人の視線が、一点に集約された。

 それはどちらかと言えば小柄で、一目見たら容易に忘れることができないほどに痩せた、子供、に見えた。暖色の灯籠に照らされていてなお、かれは青白かった。気紛れに揺れる炎の下で、かれの削げた頬は痛ましいほどにあらわだったが、大きく輝くふたつの瞳と、唇に塗られた強い朱が、そのたたずまいにかろうじて生気を与えていた。

 華やかな文様の布を幾重にも重ねた衣装は、かれにはいささか重そうに映る。身体の線は判然としないが、袖口からかいま見える小枝のような手首から推して知るべしであろう。

 皆の注目を一身に受け、子供──少年?──は手に握った鈴をしゃらんと鳴らした。それに追随して太鼓がひとつ鳴り、振り切るようにまた鈴が鳴った。両者のせめぎ合いはしばし続き、場の空気は緊迫をきわめた。

 一瞬の静寂。そして。

 ──トン!

 ──しゃらん!

 せき止められていた熱情は一気に氾濫した。

 少年の、射干玉の闇を紡いで糸にしたかのような漆黒の髪が、夜風に舞う。

 三線の音が耳元をたゆたい、笛の音が潮風を切り裂き、太鼓の刻む拍が弾んだ。少年が息を吸い込んだ。すると線も笛も太鼓も一瞬にして止んだ。残響も消えやらぬうちに、少年の喉は旋律を紡ぎ出した。

 すべての音が、絶えた。ただひとつ、かれの声を除いては。

 男性のものとも女性のものともつかない声。身体に似て細い声だが、奇妙によく通る。それは静寂をうち破る声ではなく、静寂に染み入る声だった。


  海より出でし 人の子らよ

  人魚の宴を 見るがよい

  清かな月も 波間に遊ぶ

  神の御園の 篝火のごと


 呼吸をおさめて聴衆に向き直ったかれは、もはや痩せこけた子供ではなかった。いや、謡などなくとも、かれはもとより一種の神性を帯びていた。

 かれこそは、島長しまおさユラの初孫にして〈海神さまの申し子〉と評判の──スズカゼ、であるのだから。


 謡の後も、饗宴は続いた。

 祭りの日は、村人は誰もが眠りを忘れ、夜通し騒ぐのだ。海神の息吹に感謝を捧げ、さらなる豊かな実りを祈り、語り明かし、酒を酌み交わす。それが建前でしかない子供たちにとっても、甘い水飴を口いっぱいに頬張ったり、どさくさに紛れて酒を舐めたりできるこんな日に、おとなしく寝床に引きこもる道理などあるはずがなかった。

 両手に持ちきれないほどの水飴を掴み、ミズハは満面の笑みを浮かべてやって来た。木陰で所在なげに立ち尽くしていたナミノに、そのうちの一本を差し出す。

「あ……すみません、本当は、わたくしが取りに行かなきゃいけませんでしたのに……」

 ミズハはかぶりを振った。彼女は既に一本くわえている。ナミノの手にまっさらな飴を握らせてから、舐め尽くした飴の棒を口から出した。

「いいよ、あたいが好きでもってきてんだからさ」

 ミズハの快活な笑みにつられるようにして、ナミノもようやく微笑んだ。

「──けっ、まったく、うざったい女だな」

 吐き捨てるような声とともに、背の高い影が二人の横に差した。

「何かっちゃあ二言目には、あ、すみません、ってさ。謝る必要のないことで謝んな。謝るぐらいなら最初っからやるな。どっちかにしろってんだ」

「ハヤト、何てこと言うんだよ!」

 ミズハは目をむいた。ゆうに頭ひとつ分高いハヤトの顔を睨み上げる。

「ナミノはね、心優しいの。あんたみたいな乱暴で自分勝手なやつとはわけが違うの。あんたこそ少しはナミノを見習えよな」

「冗談じゃねえ、っつう、の!」

 ミズハの目の前を、ハヤトの腕が掠めた。不覚なことに、何が起こったのか一瞬分からなかった──気付いた時には、空であったはずのハヤトの手に、二本の水飴が握られている。

「あ、ちくしょう! この盗っ人! ちょっと待て、止まれよ、ハヤト!」

 怒鳴って止まるぐらいなら最初から掠め取っているはずもなく。

 長い手足を持て余したような風情の少年は、その外見を裏切らない俊足で駆け去り、あっという間に人混みの中に紛れ込んでしまった。

 紛れる直前に、ミズハの目は捕らえた。ハヤトの首の付け根で小さく結わえられた黄土色の髪に、見慣れぬかんざしが揺れているのを。

「……へぇ、柄にもない」

「どうかなさいましたか?」

 気遣わしげな視線を向けてくるナミノに、ミズハは手を振った。

「や、あんな男でもめかし込むことがあるんだなーと思ってさ」

「お祭りですもの」

 少女たちは顔を見合わせ、再び笑み交わした。


 ──海神祭は、夜もすがら。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る