第3話

「おやまぁ」


 四、五日ぶりに、私がいつもの身支度を終えて戸を開けると、ご近所の婦人と、目が合ったような気がした。


「何日も床に臥せってらしたようだから、そろそろお伺いしようかと思っていたのに。宜しいのですか」


傘を下げて、はにかむ顔を隠しつつ、私は答える。


「えぇ、もうだいぶ。はやり病というわけではないですが、日ごろのなんとやらで、少しばかり」


「それはそれは、あまり御無理はされませんように。お気をつけて、行ってくださいまし」


ほろほろと春のような笑みを浮かべて、ご婦人は帰って行かれた。腕には小さな菓子包が、私のために四つほど寄せてあった。お気持ちだけを頂戴する。私は、人の食するものを、殆ど口にすることができない。


「ちりんちりん」

子どもが一人、私の錫杖の音に合わせて、自転車のベルを鳴らしながら、横を走り抜けた。


「ちりん、ちりん」


補助器具が外れたばかりのような危なげな走りだったが、その目は輝きに満ちていた。私は彼がケガをしないようにと、車道と交わる三つ先の角に目をやる。

 

制服に身を包んだ二人の子女が、手に飲み物を持ちつつ、右の大通りから、その角へ歩いてくるのが見えた。


このままでは、ぶつかってしまいそうだと思った私は「ふう」と一つ、息を吹く。ほんの僅かでいい。彼女たちの首筋に、冷ややかな風が流れた。


「あれ、寒い」

「そう?」


その気付きに歩く速さが遅れて、自転車の彼が、先に角を回る。事故にならずにすんでよかったと安堵する。この芸当は、親代わりの男にいつか学んで、私のほうが上手に出来るようになった。



 

 それはひどく澄んだ湖面に見えたが、鼻には潮の匂いがはっきりと感じられた。初めて嗅いだときは、ぞわぞわと背筋に虫が這うようなにおいだったが、あれから少しずつ慣れた。


「むずかしいことを言うと、きりがないからなぁ」


男は、笑いつつ、言葉にするのに困ったようであった。


「ここは海の水も混じる。さっきからお前さんも、ぴりぴりしているようだが、心配ない。潜れと言っているんじゃないからな」


私は、自身でも思う以上に、その水の底に沈んだ青緑に、心をかき乱されていた。知らない色、慣れない味。そのことを思うと、どきどきと胸が鳴った。


「かたちは変わっても、お前さんは変わらんなぁ。まぁ、四つ足の獣を教えた時よりも、きっと見込みはあるろうが」


 男に連れて歩かれるようになってから、私は今の形である人の社会はもとい、水の外で息をして歩き回る獣の、なんと多いことを知った。


 また、そうしたものに、逐一呼び名を付けていて、それを私に教えるのを有意義にしている男も、不思議でならなかった。それほどに人というものは、他の命に関心があるものらしい。


「さかなは、ヒレで水をかいて息をするのとは違う。胴体をこう、左右に器用に振る。それで前に進みよる。口もこう、ぱくりと開けて、水をエラに通す。それで息をしているんやなぁ」


私は首を傾げつつ、とりあえず頷いて見せる。“さかな”と、男が言ったので、自分のことを言われているのは分かった。だがそれが、男から見てどういうものかといえば、ひどく難しいことのように感じる。


“感じる”ということは、私がすでに人である証左である。私は男を見て、もう一度深く頷いた。


「そうか、分かったか。それでなぁ、儂が教えたいのはなぁ、腕を使わず、胴を振るう。それもほんのちょびっと振るって、空気をこうな、ぎゅっとつかむ芸」


男はおもむろに、湖に向かって、ふっと力強く息を吹きかけた。


私には、男の足からその付け根を通って、むくむくと大きく広がって上ってきたものが、ぼわんと口から吐き出されたのが見えた。


「ピシャッ」


 目をこらして、ようやく見えるほど遠い湖面に、魚が一つ跳ねた。ひとつ跳ねると、ピシャリ、ピシャリと立て続けにいくつも跳ねる。それをも同じところを跳ねる。


 何かとても美味いものが寄らなければ、ああも強く跳ねないなぁと私は思った。男があんな遠くに何を吐き出したのかと、じっと男の腹の辺りを見つめたのを覚えている。

 

 男はへっへと、得意そうに鼻をこすると言った。



「なぜかなぁ、空気に溶けた遠くの匂いも、この鼻でわかるけど、遠くの空気に、こちらから気持ちを飛ばすのは、少しコツがいるからなぁ。ほれ、風もないから、正直にお前さんに応えてくれる。ちょっとやってみやれ。ほれ」


 ポンと私の背を押した男の手のひらは、じんわりと暖かった。じわりと焼けるような気がして体を思わず反らしたが、要らぬ心配だった。その熱はみるみる私の中に広がって、のどから溢れそうになった。


「ほらなぁ、怖いことは何もない。水とおんなじ」

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花林 かりん ミーシャ @rus

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