政治化される経済


 資本主義の本当の敵は、「独占」である。そしてこの「独占」は、人間の原始的な欲求の一つとして始まり、「勝者」たちの「負け」に対する恐怖が招く、必然的結果として、固定化される。


つまり、資本主義の敵は究極、そういった欲や恐怖に飲まれる、弱くてもろい生の人間たちである。だから、資本主義は、人殺しを厭わないばかりか、むしろ、率先して行う。

その過程はいたって簡単である。まず、一国の経済を豊かにして人を増やしてから、その国内にいる商売敵同士を競わせ、金の取り合いをさせる。


そして、極めつけは人数の増えすぎによる食糧問題、つまり「餓え」と、環境破壊、そしてそこと無関係ではありえない健康被害による大量死である。


薬害も、資本主義のおかげである。もちろん、金を集めようとする人間の争いは、直接的に内戦や戦争と言う形で、人を簡単に合法的に殺してしまうし、為政者の任意による虐殺にも、資本主義は技術的な援助をしている。


人間は、いったい何のために、こんなにも「人間を嫌うシステム」を創りだしたのであろうか。おそらく人は、どこまでも人が嫌いなのである。


しかし、直接的に人を憎んだり、殺したり、罵ったりするのは骨が折れるし、面倒で、あんまりやりたいとは思わない。


しかし、間接的になら、簡単である。資本主義はおそらく人殺しのエイジェントである。それも腕は、プロ中のプロである。


ただ、サービスの継続には、コストが半端なくかかる。しかしそれも、だんだん資本主義の請け負う仕事の規模が拡大するにつれ、一人殺すあたりの単価が、安くなっていくので、長期的に見れば、いい投資になる。私たちは全員で、人殺しのプロを雇っている。近代はむしろ工業ではなく、代行業の時代であると言いたい。


「代わりに」の一言は、甘く響く。どんなことも「代わりに」。そして「簡単に」。ただし、お金はかかる。資本主義が私たちに差し出す金は、最終的に人殺しの賃金として、ほどなく資本主義に返すことになる。


だから金持ちたちは、つまり、これからたくさんの人を殺す予定で、あれだけの金を持っているだけなのだ。私は、貧乏人が、懐の寒さと引き換えに持っている、あの正体不明の「いい人意識」が、ここからきていると思うのだ。


貧乏人は、持っている金では、自分一人くらいは殺せても、人殺しを他に頼めるほどの金は持っていないことを、常に良心の担保にしている。私も、そんなところがある。できれば、せいぜい自分を殺すくらいの金で、十分生きていける時代になってほしいものである。


資本主義は、最後に残るのが独占意欲をもたず、また負けることに対して何の恐怖も抱かない、非人間的な人間であることを望む。


しかし、そんな人間がさいごに生き残るかどうかという問題に、資本主義は答えることができない。人間の皆さんに言っておくべきは、別に、資本主義は自然界のように、生物の選別を行っているのではないと言うことだ。


資本主義は、殺すべき人間とか、殺してはいけない人間とか、そんなことを区別するような「不公平さ」は持っていない。資本主義に選べるのはせいぜい殺す順序に過ぎないのである。


資本主義は、その創造主に比べても、なお頭の悪いシステムであることは間違いがない。なぜなら、資本主義の残したいタイプの人間はおそらく、資本主義によって、まっさきに死んでいくタイプの人間であり、残るタイプの人間ではないためである。


むしろ、資本主義が続けば続くほど、そこに残るのは、一番資本主義が殺したいタイプの人間である。だから、資本主義は人殺しをほぼ永遠にやめられないともいえる。


私たち人間は、この出来の悪い人殺し装置のために、いったい何をするだろうか。


いや、装置の「頭の悪い」状態は、創造主の当初よりの「ねらい」によるものであると言うべきであろう。


何度も言うが、人間は、人間が嫌いである。それも、悪意がある人間よりも、欲が無くて、恐怖心が無いような「非人間的な」人間を好まない。


そんな人間がいると、真逆の人間、すなわち欲があって、恐怖心に苛まれている人間が「バカみたい」だからである。


だから、多数派の人間、すなわち欲があって恐怖心に苛まれている人間は、資本主義をつくった。


資本主義にとって都合の悪い人間たちが、資本主義を創ったのである。資本主義は、創造主殺しを永遠に望みはするが、実行は難しい。人間はまことに都合のいい装置を生んだものである。


しかし、それは、ほんの一部の「英雄的資質」を持った人間を、この世界から排除するために作られている。だから、仮に、手段としての装置の完成度に賞賛を送ったとしても、目的自体は言うまでもなく陳腐であり、非常につまらない話である。


私たちは、英雄的資質を持った人間を、俗に、「非社会的人間」とか、「危険人物」とか呼んでいる。間違えてはいけないのは、彼らが「犯罪者」と同義ではないということだ。


私たちは自分たちに都合の良いように、常に呼び方を考える。だから、なんでも「いっしょくた」にしてしまうのだ。英雄的資質、それは、私たちに常に自分の卑小さを思い知らせる、あの高等なホモサピエンスの資質である。それは遡れば、古代人の理想であったが、いまはどうであろうか。


私たちは、あれほどギリシャやローマの古代人を称賛するが、やっていることは、その時代の英雄たちの「子孫」をみんなでよってたかって、殺すための装置を金で雇っているということなのである。


ここまでいうと、あらためてニーチェの著作には、思うところがある。いまの私たちが殺し、資本主義が求める資質とは、はるか時代のかなたに追いやられた、「英雄的資質」もしくは「超越」なのである。

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『ある軍人の肖像』 ミーシャ @rus

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