第4話 記念日
道彦は、思った。
そうか、きょうは結婚記念日だった、と。
奈良で知り合った彼女と結婚を機に、自分の住む町へ連れて来たのが、ちょうど二年前のことだった。
前妻と別れて十余年、その期間ずっと独りで気楽にしていた。
稼いだお金も自分一人のものだったから、総ては自分の好きに使えた。
彼女と結婚し、その彼女から愛をもらい、慰みも癒しも得たけれど、一緒に暮らすとなればその引き換えとして、二人分の給与を稼がなくてはならないのは男の常と思っている。
道彦は独りでいることよりも、再びかみさんを得て、茨の道を選んだのだ。
少しの我慢をすれば、いずれ給与も上がるだろう、と仕事でへとへとになろうとも濡れ雑巾のようにボロボロになろうとも、かみさんの笑顔を守るために、ぐっと堪える毎日を送っている。
たが一向に給与は上がらない。
きょうも、ふらふらの足取りで家路に辿り着いた。
夜も更け、十時になろうとしていた。
駅を降りて五分も歩くと、家にほど近い場所に遅くまでやっている一軒のケーキ屋があった。
その日もそのケーキ屋は開いていた。
前を通り過ぎるだけで、いままで一度も入ったことはない。
いつも遅くまで頑張っているな、とは感じていた。
道彦は店の中を覗く。
客はない。
普段、ケーキなど余り食べない道彦であったが、結婚記念日にケーキくらいないと様にならないだろう、かみさんには、苦労ばかりかけてきた。
少ない給料に文句も聞いたことがない。
遠く住み慣れた奈良を離れ、こんな自分に着いてきてくれたのだ。
そんな、かみさんの顔が浮かんだ。
道彦は、店のガラス扉を引き開けた。
扉に付けられた鈴の音が誰もいない店内に響いた。
「いらっしゃい」
と店の奥から嗄れた声がした。
出てきた店主は、七十を過ぎた白髪の似合う小綺麗な紳士だった。
店内をよくみてみると、一つひとつの装飾も、この店主同様に洒落た取り付けをしていた。
きっとヨーロッパのどこかの国で修行したのだろう。
店には西欧を感じさせる装飾品で溢れていた。
道彦は屈み加減でショーケースを覗きみた。
やはりこの時間ではホールケーキはないようだ。
「なにをお探しで」
嗄れた声で店主は道彦に問いかけた。
「実はきょう結婚記念日でして、その……、ホールケーキをと思ったんですが、やっぱりないですね」
道彦は、いかにも残念、という風に、少し大袈裟かなと思うくらいの演技を入れて、店主に訴えてみる。
道彦としてもかみさんの喜ぶ顔がみたいと思っていたから、まんざら大袈裟な演技でもなかった。
「そうですか、それはおめでとうございます」
店主はそういうと、目を瞑り、しばらく考え込んだ。
二人の間に言葉のないまま時間が過ぎた。
店の壁に小さな鳩時計があるが、その時計の振り子の秒を刻む音だけが妙に大きく聞こえた。
振り子の揺れる一定のリズムに、そろそろ時空がねじ曲がるのではないか、と思っていたときだった。
店主の目が見開かれた。
「お客様、少しお時間を頂ければ、なんとか致しますが、ご予算は如何ほどで」
店主も案外役者だった。
「夫婦二人だけなんで、そんなに大きいのはいりませんが」
道彦は店主の歳のわりにしっかりとした相貌を見詰めていった。
「明日の予約分のケーキのスポンジが先程一つ、焼き上がったところでして、いま冷ましておったところです。十五分ほどお待ち頂ければお渡しできます」
店主の嗄れた声も聞きようによってはいい声に感じた。
諦めかけた欲望が叶うかもしれぬという期待に、そう聴こえただけかもしれない。
道彦は店主のいわれた通り待つことにした。
誰もいない店内に道彦一人がいた。
することのない道彦は、店内を散策した。
散策するというほど広くもない店内だ。
二分もしないうちに総て行き尽くし見終わってしまうほどである。
ショーケースの向こう側の包装用のカウンターにあるカレンダーに目が行った。
そこには、赤ペンで書かれた花丸が一つあった。
よくみてみると、きょうの日付のところに、それはあった。
店主にとっても、きょうは特別な日なのだろうか、と道彦の想像力は幾ばくか掻き立てられた。
店内にする音は、一定のリズムを奏でる鳩時計の振り子の音だけだった。
静かな夜だなあ、と道彦は、店の外に視線を移し、帰路につく人の各々の足取りをみていた。
そのとき、突然、鳩時計から鳩が飛び出してきて、十の数を刻んだ。
一瞬驚いた道彦であったが、厨房に引っ込んだ姿のみえない店主に向かって声を掛けた。
「夜遅くまで大変ですね」
道彦にしてみたら大きな声で話し掛けたつもりであったけれど、店主からの返事はなかった。
また、静寂が訪れた。
本当になにもするのことのなくなった道彦は、用意されている椅子に腰掛けると、いつの間にやら、眠ってしまっていた。
「お客様。お待たせいたしました」
道彦は、嗄れた声に起こされた。
「あっ、すみません。眠ってしまいました」
道彦が慌てて椅子から飛び起きていうと、
「いいえ、大変お待たせいたしまして、こちらこそ申し訳ございませんでした」
店主はどこまでも紳士であった。
こちらです、とみせられたケーキは、いちごたっぷりの生クリームのケーキだった。
真ん中には板チョコが添えられ、
「祝・結婚記念日」と記されている。
道彦は、大満足だった。
代金を支払うと道彦は店を出た。
夜中に初めて訪れたのにも関わらず、こんなにもしてくれた店主には、感謝の気持ちでいっぱいであった。
かみさんの喜ぶ顔が目に浮かんだ。
家の前に着いた。
台所の明かりが点いている。
まだ起きて待ってくれているようだった。
これは食事のあとに二人で一緒に食べよう、そう呟きながら道彦はケーキの箱を撫でた。
そういえば、きょうはあの店主にとっても特別な日だったはずだが、それを聞くのを忘れたことにも気付いた。
まあ、またこんど聞けばいいか、といつもは重たい家の鉄扉も、きょうは軽く感じるのだった。
町はすっかり寝静まっている。
ただ一軒のケーキ屋だけを除いて。
店の奥から明かりが漏れている。
「なあ、かあさん。きょうはごめんな。折角の誕生日だというのに、ケーキがないんじゃ」
ケーキ屋の店主の嗄れた声だった。
奥の厨房に飾られてある、一枚の写真に向かって話し掛けていた。
「来年は、二つ作っておかないとじゃね」
写真の中の女性は、笑顔でいた。
ほんのり頷いたように感じたのは幻だっただろうか。
鳩時計の中の鳩が飛び出してきた。
鳩は十二の数を刻んで、また元の寝蔵に帰っていった。
ケーキ屋の明かりも、いまようやく消えた。
総ての人の一日の終わりの合図であった。
道彦の住む町は、新しい一日の始まりをゆっくりと時間を掛け、静かにそして静かに迎えるのだった。
道彦が歩けば物語が始まる 星ひかる @hoc
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