理不尽な世界
母からの暴力や暴言が日常的になる中、梨里杏は小学2年生になった。
梨里杏は幼稚園の年中の頃からピアノ、体操教室へ通い、小学校に入学した時から習字と塾が追加され、体操教室に通う事は無くなった。
何故、体操教室が無くなったのか、理由はわからない。
多分、母が必要と思わなくなったからであろう。
習い事の中で、体操教室は好きだった。
ストレス発散のように身体を動かし、その時間はとても充実していた。
おかげで運動神経は抜群に良くなった。
だが、今はもう無い。
梨里杏はストレス発散の対象に、今度はピアノを選んだ。
怒り、孤独、寂しさ、喜び、その全ての感情をピアノの演奏で表現した。
目覚ましい上達ぶりに、母は梨里杏を絶賛し、ピアノ教師も驚きながら梨里杏を褒め称えた。
課題曲はどんどん難しくなるが、小学校高学年レベルの曲でさえ、梨里杏は弾きこなしてみせた。
才能があるわけでは無い。
何時間もピアノに向かう梨里杏の努力があってこその上達だった。
褒められたい、という気持ちが半分。
残りの半分は、ピアノを弾くことで感情をコントロールしているのだ。
そう、こんなにも虐待が日常的になっているのにもかかわらず、梨里杏は母の愛情、温もりを心のどこかで欲していた。
心の中で欠けてしまった愛情という部分を、褒められる事で満たしていた。
何故そんなにも母の愛情を求めるのか梨里杏にもわからない。
優しかった頃の母を思い出し、布団の中で泣く事もあった。
そんな中、梨里杏にとって、予想外の事が起きてしまった。
梨里杏は天才だ。
素晴らしい才能を持った少女だ、とピアノ教師が母に熱弁し、次の発表会ではピアノ教室の代表として出てもらいたい、と言い出したのだ。
全国にいくつもあるピアノ教室の代表だけが演奏できる発表会。
母はすっかりその気になり、家でピアノを弾こうとすれば、必ず干渉してくるようになった。
梨里杏が気持ち良くピアノを弾き始めると、母は何をしていても部屋に飛んでくる。
そして、リズムが違う、テンポが遅いなどなど執拗に責めてくる。
定規で手を叩かれ、何度も同じフレーズをやり直しをさせられる。
梨里杏の心がどんどん黒く染まっていく。
そんな日々が、どれだけ続いたのか…
発表会まであと1ヶ月。
母の異常な『レッスン』は更に熱を増していくばかり。
梨里杏の手はキズだらけになっていた。
母が定規で手を叩くたび、目に見えない重石が増えていく。
悔しい、指が動かない…
悔しい、指が重い…
違う…
リズムが違う…
音が違う…
感情が音と噛み合わない…
違う、違う!
こんな曲が弾きたいんじゃない!
心の中で小さな爆発が何度も起きていくのがわかる。
もう嫌だ、もう嫌だ、もう嫌だー!
誰か助けて!
もう嫌だ!
ここから出して!
誰か私をここから出して!
瞬間、目の前が真っ暗になった。
そのまま、梨里杏は意識を無くした。
梨里杏が意識を取り戻した時、何が起きたのか理解ができなかった。
血だらけの手。
破かれた楽譜の本。
壊せるものは全て壊しました、と言わんばかりの部屋。
部屋の所々に点々と血の跡があり、壁には血の付いた手形。
『偶然付いた』というより『わざと付けた』、そんな手形だ。
部屋を見渡しながら鏡に誰かが写った。
誰?
一瞬誰かわからなかった。
鏡が割れていたから?
いや、違う。
ハサミを握りしめ、殺気に満ちた瞳。
頭から血を流し、髪は乱雑に切られている。
コレは、私だ…。
梨里杏はその場にへたり込んだ。
まるで別人ではないか!
何が起きているの?
誰がこんな事を…。
「あんた…、頭おかしいんじゃないの?」
聞き覚えがある声の方へ目を向ける。
血は流してないものの、痛むのか、腕を庇うように母が立っていた。
眉間にしわを寄せ、厳しい顔つきだが、動揺しているようにも見えた。
ママ、腕が痛いの?
これ、私がやったの?
全部、私がやったの?
ママがやったんだよね?
いつもの様に私を痛めつけたんだよね?
聞きたくても声が出ない。
代わりに大粒の涙が流れ落ちる。
完全に頭が混乱していた。
母は梨里杏を立たせると風呂場へ連れて行った。
何も考えられず、そのまま母に従う。
服を脱ぎ、洗い場の椅子に座る。
母はシャワーで梨里杏の髪を洗った。
梨里杏は、切れた髪が排水口へ流れていくのを茫然と見ていた。
シャンプーの時、痛みが走りビクッと身体が震える。
梨里杏の反応で怪我の場所がわかると、母は何かを確認するかのように髪を掻き分け見ているようだった。
シャンプーが終わると母は、さっきまで梨里杏が持っていたハサミで髪を切り始めた。
「せっかく綺麗な黒髪だったのに」
母はブツブツ言いながら、梨里杏の髪を切り揃えた。
1番短い場所に揃えた為、胸あたりまであった髪はショートカットになった。
「まぁ、髪はまた伸びるし、ショートも可愛いじゃない」
そう言って母が笑う。
梨里杏は無言で頷いた。
それしか出来なかったのだ。
あの部屋で何が起きたのか?
なぜ、母が優しいのか?
わからないことだらけだった。
血の付いた手を洗い流し、ガラスの破片を少しづつ取りながら
「手を怪我したら、ピアノが弾けなくなるわよ?」
と母は言う。
ピアノ…
『手を怪我したらピアノがひけなくなる』?
梨里杏は自分の両手を広げた。
幾つもの切り傷がある。
手のひらを返し、手の甲を見る。
痣、腫れた指。
梨里杏の中で何かが弾けた。
「ママが私の手を痣だらけにしたのよ?
ママが私の指が腫れるまで定規で叩いたのよ?
ママのせいで私はピアノが弾けないのよ!?」
初めは静かな声だったが、段々と悲鳴のような声で母を批判し始めた。
「どうして?!なんで叩くの!?叩く必要があるの?!私の手、痣だらけじゃない!見てよ、ねぇ、誰がこんな手にしたの!?」
こんなにも感情的に母を責めるのは初めてだった。
そのせいか、母は少しばかり狼狽えた様に見えたのだが、それは梨里杏の気のせいだったのかもしれない。
なぜなら、梨里杏の訴えに対し、母は冷たい声で、
「そうやって出来ないことを人のせいにして、楽しいの?ママは梨里杏の為に…、発表会で梨里杏が失敗しない様に、練習に付き合ってあげてるのよ?ママがどれだけ梨里杏を大事に思っているか、わからないでしょう?大事な子だから、ママも一生懸命なのよ?それなのに、完璧に弾けないのをママのせいにするの?ママのせいにしたら気が済むの?親の期待を裏切り、親のせいにして気が済むなら、一生そうやって生きていきなさいな。誰かのせいにすれば楽ですもんね」
そう言い放ち、梨里杏1人残して風呂場から出て行った。
シャワーから出るお湯を浴びながら、梨里杏の思考回路は完全にオーバーヒートしてしまった。
それでも、俯きながら自問自答を繰り返す。
私が大事な子?
嘘でしょ?毎日毎日叩くのに。
私が悪いの?
何もかも、私が悪いの?
どうして私が悪いの?
何が私の為なの?
ママのせいにして私は楽してるの?
楽じゃない、楽なんかじゃないよ?
違うよ。
だって、ママが…。
そう思った瞬間、何かに気づいた様に梨里杏は顔を上げた。
『だって、ママが…』
と言う自分の声と、
『そうやって人のせいにして…』
と言う母の声が頭の中でグルグル回る。
これが人のせいにするっていう事なの?
そういう事?
ママが叩くから指が動かないのではなく、指が上手く動かないからママは叩くの?
叩く必要はあるの?
叩かなきゃダメなの?
オーバーヒートした頭では、なんの答えも出なかった。
ただ、『叩く』という行為が本当に必要なのか疑問で仕方がなかった。
シャワーを止め、バスタオルを頭からかぶって母に聞きに行った。
だって、気になったから。
これだけでいい、これだけで良いから聞きたかった。
「ねぇママ。叩くのは私の為なの?」
母はキョトンとしながら答えた。
「もちろん」
「どうして叩くのが私の為なの?」
「だって、梨里杏は叩かないとママの言う通りにしないじゃない」
「ママの言う通りにするのが私の為なの?」
「そうよ、ママはいつだって梨里杏の味方だし、いつだって心配してるのよ」
「でも叩かれるのはイヤ…」
「じゃぁ叩かれないように言う事を聞いてなさい。梨里杏がママの言う事を聞いていればママは叩かないわ」
「私、自分で考えたり頑張ったりできるよ?」
「何が言いたいの?」
母の声色が変わる。
怒り始めたのがわかる。
それでも、梨里杏は止めない。
「私の気持ちは?自分で自分のやりたい事をしちゃダメなの?」
「働いてもないくせに、よくそんな贅沢な事が言えるわね…やりたい事をしたいなら…好きにしたら?」
「好きに?そう言いながら私が本当に好きにしたら絶対叩くじゃん!」
「なんなの?喧嘩売ってんの?」
「違う!本当の事を言ってるの!」
「本当の事?ふふふ、良い事教えてあげる。パパは絶対ママの話を信じるし、他の人だってママの言葉を信じるわ。どうしてだと思う?それはね、あんたみたいな子供の言葉より、ママのように大人の言葉の方が正しいから。つまり、ママの言っている事は正しい事なの。だから、ママが怒るのは正しい事なのよ。あなたは親に反抗する面倒な子って思われるだけ。」
勝ち誇ったような母の顔。
何も言い返せない梨里杏。
既に論点は完全に変わっている。
より、複雑な方向へ話が進んでいる。
「まだ疑ってるの?それなら、ママの言っている事が本当だってわからせてあげる。今日はね、パパがもう帰って来るのよ」
そう言うと、母は嬉しそうに夕飯の支度を始めた。
母は自信たっぷりだった。
あの自信はどこから来るのだろう?
部屋で1人、梨里杏は荒れた部屋を片付けながら考えた。
パパなら、ちゃんと話を聞いてくれる…
そうだ!パパに話せば大丈夫!
梨里杏は自分に強く言い聞かせた。
小一時間ほどで父は帰ってきた。
身体に緊張が走る。
すると母の声が聞こえてきた。
「ねぇ、パパ、聞いて〜。梨里杏ったら酷いのよ。見てよ、これ。もうママ悲しくて…」
甘える声の後に泣きそうな声。
梨里杏は愕然とした。
これが自分の母親なのか?
そして、凄い勢いで部屋のドアが開いた。
父が立っていた。
その後ろには、相変わらず勝ち誇った顔の母がいる。
「お母さん、酷い痣が出来てるじゃないか!お前何したんだ!?それに、この部屋はなんだ!」
梨里杏は立ち上がると父に訴えた。
「毎日毎日ママが叩くの!」
そう言って梨里杏は手を見せる。
「ママはそんな事しないわ」
泣きそうな声で母が言う。
え?
何言ってるの、この人…
茫然としていると頬に激痛が走った。
父の平手打ち。
梨里杏は父を睨むと、
「パパも私を叩くんだ。叩けば良いじゃない、好きなだけ!ママと同じようにね!!」
そう吐き捨てるように言った。
「なんだ、その言い方は!」
もう一度、平手打ちを食らう。
「本当の事を言ってるだけ!私は何も間違った事は言ってない!」
目に涙を溜めながら訴える。
悔しいから泣きたくない!
泣くな!
息が荒い。
自分が殺気立ってるのがわかる。
母の味方をする父が憎い。
私の話を聞かない父が憎い。
父を上手く操る母が憎い!
「反省しろ!」
それだけ言うと父は扉を閉めた。
憎い。
許せない。
憎い…憎い…憎い!
目の前がグルグル回る。
そのまま梨里杏は床で眠り込んだ。
ご飯も食べずに…。
それでも私は生きていく。 @T-A
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