悪魔の微笑み

「梨里杏、あなたは本当に可愛いわ」

そう言って母が梨里杏の髪を撫でる。

「本当に、お人形さんみたい。大きな目、長い睫毛、可愛いわ」

満面の笑みで梨里杏は母に擦り寄る。

母にとって、梨里杏は絵に描いたような自慢の我が子だった。


梨里杏は小さい頃から元気に走り回るヤンチャな子。

とても賢く、幼い頃から出来ない事があっても『どうやったら出来るのか』と自分で考える事が出来た。

そして、好奇心旺盛で気になる事は何でも母に聞いていた。

その度に母は教えてくれるのだが、3歳の梨里杏には難しい言葉や、大人の世界の理屈は、理解出来なかった。

理解できないと納得しない性格だった為、必死に考えるのだが、到底理解できるわけもなく、何度も「なんで?」「どうして?」と母に聞いていた。

しかし、母から帰ってくる言葉は、いつも同じで、

『大人になれば理解できるから大丈夫よ』

と、何とも腑に落ちない答えだった。


梨里杏には3つ離れた弟、悠人がいた。

梨里杏が小さい頃の母は、いつも笑顔だった


幼稚園に行く時は、小さな森のような公園の脇道を通る。

今では、なかなか見る事ができなくなった、みの虫、カタツムリ、木の実や不思議な葉っぱ、それらを拾い集めては、幼稚園に持って行き、先生に見せて驚かせる事が多々あった。

そんな自由な梨里杏を、母はニコニコと見ていたり、時には一緒に拾う事もあった。


幼稚園の帰り道も同じ場所を通るが、いつもオヤツの話をしていた。

母は毎日、手作りのお菓子を作ってくれていた。

1番大好きだったのはマドレーヌ。

何個食べても食べ足りない!と思わせるほど絶品だった。

お祝い事があれば、必ずケーキを焼いてくれる。

一度に3種類のホールケーキが出てきた時は、梨里杏も友達も大はしゃぎして喜んだ。


でも、悠人が歩き始めるようになると、2人の世話で手一杯になり、だんだんと笑顔が少なくなっていった。

そして、ヒステリックに喚き散らすようになった。

「ねぇ、ママ。どうして怒ってるの?」

いつも笑顔だったが母が変わってしまった事が悲しくて寂しくて、梨里杏は素直に聞いてみた。

「あのね、梨里杏。どうしてもっと上手にご飯が食べられないの?毎日毎日ママは掃除が大変だわ。小さい頃は上手だったのに…」

母の言葉は梨里杏の心を締め付けた。


私がママを困らせてる!


それから、母は常に梨里杏に完璧を求め、完璧じゃない梨里杏を怒るようになった。

その度に泣きながら謝っていた。


ママが怒ってるのは私のせい…


小学生になると梨里杏は必死に頑張った。

お手伝いをしたり、母の為になることなら、なんでも頑張った。

洗濯をしたり、食器を洗ったり…。ひ

梨里杏が頑張ると母は褒めてくれる。

「ありがとう、梨里杏」

そう言って笑って頭を撫でてくれる。

母に褒められると、とても幸せな気分になった。

でも、母が喚き散らさない日は来なかった。

喚き散らす母は、梨里杏には別人に見えた。

表情も、言葉遣いも、全てが違った。


気づけば両親の喧嘩が増え、梨里杏は気付かぬうちに母の声にビクビクするようになった。

そして、母に近づかなくなった。

物に怒りをぶつけ壊す母が怖いのだ。

優しい時は近付けるのに…。

そんな梨里杏を母は許さなかった。


ある日、

「梨里杏、お手伝いお願い。冷蔵庫から卵取ってくれる?」

梨里杏が本を読んでいると台所から母の声が聞こえた。

その声は明るく優しい声だった。

梨里杏は安心して「はーい」と返事をすると台所へと急いだ。

「卵、何個?」

冷蔵庫を開けながら母に聞く。

「3つよ」

梨里杏は小さな左手で玉子を2つ持ち、3つ目に右手を伸ばした瞬間、左手から1つ、卵が落ちてしまった。

「あっ!」

床に落ちる前に取らなきゃ!

必死に手を伸ばすが、卵はあっけなく床に落ちて割れた。

母の動きが止まり、雰囲気が変わるのがわかった。

「ごめんなさい!!」

咄嗟に梨里杏は謝った。

でも、梨里杏の謝罪は母の耳には届かない。

「何てことしてくれるの!あー勿体無い!玉子を取るだけなのに、そんなこともできないの!?本当に情けない!どーすんのよ、この卵!拾って食べなさい!」

梨里杏は泣きながら謝った。

何度も、何度も…。

母は茶碗を出すと梨里杏に渡し「拾いなさい!」と怒鳴りつけた。

泣きながら玉子を拾う。

でも、拾い方が悪かったのか、割れた箇所から中身がつるんと出てしまった。

慌てふためく梨里杏に母は更に追い討ちをかける。

「本当に何にも出来ない子ね!手で掬いなさい!」

中身が出てしまった生卵はつるつると指の間から抜け落ちる。

母の舌打ちが聞こえた。

焦れば焦るほど上手く行かず、何とか茶碗に入れ終わった時には床も手もベトベトだった。

茶碗に入った卵もグチャグチャで、髪の毛やゴミも入ってしまった。

母が終わった事を確認すると

「さっさと手を洗って床を掃除しなさいよ!」

次の指示がが来る。

梨里杏は泣きながら母の指示に従った。


掃除が終わる頃、食事の時間になった。

梨里杏が席に着いた時には悠人と母は楽しそうに食べていた。

梨里杏の席に用意された食事は卵焼き。

目玉焼きでもない、いつもの卵焼きでもない。

グチャグチャになった目玉焼きのような物。


私が玉子を落としたから…


何も言わず食べようとした時、髪の毛が入ってることに気づいた。

思わず梨里杏の手が止まる。

「食べなさいよ!」

母の声にビクッと体が反応する。

「でも、髪の毛とか…」

「あんたが落としたからでしょ!?食べないの?」

「だって…」

泣きそうになりながらも母に抵抗するが、それは無意味だった。


母は梨里杏の髪を掴むと椅子から引きづり下ろした。

「痛い、いたいよー!やめてー!」

髪を掴む母の手を梨里杏がつかんだ。

必死に逃れようと母の手を掴む。

梨里杏の爪が母の手に食い込む。

そんな抵抗も虚しく、梨里杏はリビングまで引きづられ、床に叩きつけられた。

訳がわからなくて泣き叫ぶ梨里杏を見下ろして母は鼻で笑った。

「使えない子は要らないの」

冷たく言い放つと、窓を開け、母は梨里杏をベランダへ蹴り飛ばした。

ピシャリと窓が閉まる音がする。

慌てて梨里杏は起き上がると窓を叩きながら

「開けてー!ごめんなさい、もうしないから開けて!」

必死に叫んだ。

何度も何度も。

でも、部屋の中から聞こえてくるのは悠人と楽しそうに食事をする母の声。


なんで…?

ママは私が嫌いなの?

ねぇ、ママ。

外は寒いよ…


冷たい風から逃れるように梨里杏は室外機の横に縮こまる。

12月の冷たい風が梨里杏の心を凍らせていく。


ママ…

ママ…


どれぐらい経っただろうか?

そっと部屋の様子を確認した。

窓越し、カーテンの隙間から、悠人がお風呂から出てきた姿が見え、後からタオルを持った母が部屋に入ってきた。

一瞬、母と目が合った様な気がして、慌ててしゃがみ込む。

すると、窓が開いた。

「まだ外にいたの?早く入ってきなさい。寒かったでしょう?お風呂で温まりなさい」

優しい母の声、優しい微笑みだった。

「ママ、もう怒ってないの?」

「ママは始めから怒ってないわよ?梨里杏がご飯いらない、外で遊ぶって言うからベランダへ出してあげたんじゃない」

にっこり笑う母。

「ほら、早くお風呂はいっておいで」


梨里杏は母の言葉が理解できなかった。

にっこりと微笑む母の顔が恐ろしかった。

顔にお面でも貼り付けたような微笑み。


それから、どうやってお風呂に入ったのか覚えていない。

気付いたら朝だった。

きちんとパジャマを着て、布団に入っていた…


1つ、いつもと違う事があったとすれば、身体のだるさ、酷い頭痛。

ベランダにいる時間が長かった為、高熱を出した事だった。

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