少年と少女は、一歩踏み出せたのか?
8
嗚呼、こんなに苦痛な月曜日は今までなかった。
朝一番で松葉杖をつく女子を迎えに行き、肩を貸しつつ同じ高校の生徒だらけのバスに乗り、当たり前だが生徒だらけの校門をくぐり、生徒だらけの校庭を歩き、生徒だらけの昇降口で靴の履き替えを手伝い、階段は階段で抱っこを要求されたが、それは却下して遅刻取り締まりをしている生徒会の委員に声をかけてエレベータを使わせてもらった。
教室に入った瞬間の痛い沈黙はしばらく忘れないだろう。
そして、ついに一番きついだろう瞬間が訪れた。
「何をためらっているの?」
見抜かれた。
「い、いや、ためらっている訳じゃ」
ためらうに決まっている。
彼女が脱いだコートとブレザーをハンガーにかけるのを手伝うだけでざわめきが起きるとは。
僕も覚悟を決めてコートを脱ぎ、ブレザーも脱いでハンガーにかける。
「あれー? 学校指定じゃないの着てるの珍しくなーい?」
「そうね。これは学校用に買ったカーディガンではないから」
ああ、我が親友の彼女と仲良かったのを忘れていた。小学校から一緒だったと言っていたっけ。しかし言葉がぎこちない。
「あれー? ワイシャツの第二ボタン一個違くなーい?」
いや、ちょっと待て。先程から台詞が全て棒読み過ぎる気がするのだけど。
「あれー? お前胸ポケットのボタンおかしくなーい?」
「な、なんで大きい声で言うんだよ!」
我が親友もなんで棒読みなんだ。
隣に松葉杖を使って立つ少女がニヤっと笑った。
「陰湿な女が三枚あるワイシャツの内、たったの一枚だけで容赦してやってるのに何が不満なの?」
僕の胸ポケットには赤い文字で学校名の後に『JH』と書かれたボタンが付けられていた。
女子のセーターは色さえ守れば学校指定でなくても良い。今彼女が着ているベージュのカーディガンは丸首の指定セーターとは違って、上から二つ目のボタンまで露出する。もちろんわざとだ。
僕の胸ポケットのボタンが、僕が誰に所有されているのかを示しているかのようだった。
色々な言い訳を考えた。ちょうどこのボタンはJHと書かれているのだから、妹のボタンを拝借した、なんて。
でも、その言い訳を潰すために彼女はわざわざ指定外のカーディガンを着てきたのだ。こんなにいたたまれない気分は始めてだ。
「何暗い顔してんだ!安心しろよ、これを見るが良い!」
「へ…?」
やはり、彼こそ僕の最高の友だ。
その胸ポケットのボタンも、女子のワイシャツのボタンだった。
何を示し合わせたのか知らないが、僕が好きになった相手は尋常ではない少女だったという事を忘れていた。
身近に同じことをしてくれている人間がいると、気恥ずかしさがかなり和らぐ。いや、分かってる。これも彼女の策略の一つだ。
でも、こんな目立つ真似をしていて大丈夫なのかといえば、そんなはずは全くない。
「あのさぁ、そこの四名、職員会議室まで来てくれるかなぁ? エレベータ使っていいから。ロングホームルームは自習にします!」
顔に満面の怒りを湛えた美人担任閣下に招集を食らうのは必定だった。
9
何をくどくど話しているんだろうなあ先生は。
そういえば、彼女のお母さんって僕より身長高かったなぁ。やたら歓迎してくれて、食事まで御馳走してくれた。
娘の彼氏なんて歓迎しないのが普通だと思っていたんだけど、彼女が十歳の頃から男の子を連れて来るのを待っていたと、大げさな事を言っていた。
本当に僕みたいな手合いで良かったんだろうか。妹が僕みたいな冴えない鶏ガラを連れてきたらどうしよう。ああ、なんだかすごく泣けてきた。最近僕の事をアニキと呼ぶようになった蓮っ葉さも可愛くてたまらないのに、その妹が彼氏だと。あんなことやこんなことをしちゃう相手を連れてくるだと。
いやいや、思考に埋没してる場合ではなかった。目の前の事に集中しなければ。
「私としてはあなた達はとてもしっかりしているから交際自体は全く反対しないわ。でもおおっぴらにそういう事をされたら注意せざるを得ないでしょう! 何考えてるのよ!」
荒れてるな先生。自分の交際は順調なのに。今朝も校門の数百メートル前の道で彼氏様の車から降りているのをバスに乗っている生徒全員に目撃されていた。
「な、何ニヤニヤしてるのよ?」
一人パイプ椅子に腰掛けている手負いの獣が不敵な笑みを浮かべている。
「先生、質問があります」
始まってしまった。彼女の時間が。
「交際とはどのような行動を指すんでしょう? 日本の文化についてあまり詳しくないもので」
先生の綺麗な眉間に無粋な皺が寄った。
「まーたそうやって論破出来るとでも思ったの? 並の日本人の高校生より語彙力あるくせに……あ、そうだ、ちょっと訊きたいんけどなんて告られたの? 案外男らしく? 教えなさいよ、ん?」
精神的に揺さぶってきた。
心の貧しい先生だ。
まあ、今まで何度もしてやられているから、ここぞとばかりに復讐を果たしたいんだろう。
少女の顔は笑みから一転、冷たい表情に変わった。先生は果たしてこの少女から一本取り返せるんだろうか。
「一体、告白とはなんでしょうか? その告白という文化に則った場合、私は告白などという行為をした事もなければ彼もありません。後ろの二人についても、私は関係性を『察して欲しい』と求められたに過ぎず、この両者に何らかの特殊な関係性にあるかについては明確に分かっておりません」
まあ確かに、この二人は僕達の前で、『そういう関係になりました』と宣言しただけだ。はっきりとした言葉は聞いていない。
先生の顔がどんどん今日の天気のように曇っていく。先週まではコートもいらない程の暖かさだったんだけど、今日は遅めの初雪が降りそうだ。
「ボ、ボタンの交換なんてしといて何言ってるのよもう!」
「ご存知無いかと思いますのでお伝えしておきますが、私の出身地には告白という文化はありません。大体の場合、片方が家族や友人に対し、恋人であると紹介するなどし、周囲の人間が認知した瞬間に男女交際という状態が始まるんです。ですから、私と彼、並びにこの二人は、私の見解では不純異性交遊には該当いたしません」
「う、うわぁ、出た謎理論…」
お、我が友人の彼女も分かっているのか。僕よりずっと付き合いは長いし、当然か。
でも、この論法から言えば、僕達は男女交際の状態だ。彼女の母親にはそう紹介されてしまっている。いや、彼女はお母さんにはっきりと紹介していないから嘘は言っていないか。
「え、その……な、ならそのボタンはなんなのよ!」
先生、生徒に押されちゃ駄目だよ。はぁ、僕はどっちの味方なんだか。
「ボタンですか?そうですね、予約とお考えください」
「よ……よやく……?」
いや、僕はあくまで先生の味方ではないな。この謎理論をずっと聞いていたいだけだ。先生は怯んでいないで抵抗してくれないと困る。
「ええ、先生に誓います。在校中は表向き清い関係に終始致します。この人畜無害な冴えない男二人を見てください。何か間違いを犯すとお思いですか? ま、その相手が揃ってもっと冴えないのも見ての通りですが」
言っちゃった。表向きって言っちゃったよ。
「ちょ、ちょ!その冴えないってあたしも入ってるの!?」
ああ、それは入ってると思う。僕ですら思う。
「出会って何年って言っていたかしら? 両手の指の数では足りない年数をかけるとはなかなかね。いつまでも彼のいいところを私に語るだけという不毛な行為に終始していたのだから、冴えないと評価されて当然でしょう?」
「ぐぬぬぅ……!」
相思相愛の幼馴染って憧れだよなぁ。ほんと。
「あの、ちょっと、先生を差し置いて話をしないでくれるかなぁ…?」
「先生うるさい! この屁理屈娘はあたしが倒す!」
可哀想に先生。そろそろ泣きそうだ。
「大体からしてさ! あんたが焼却炉の前ですごく荒れてたから振られたのかと思ってあんたの旦那誘って尋問しようと思ってたのに!」
「じ、尋問?」
先生同様、話から完全に取り残されてて寂しい。何の事だろう。
「いや、ありえないとは思ったんだけど、もしかしてお前が振ったんじゃないかって」
「そ、そんな訳無いだろ!」
まずい、先生が本当に泣きそうな顔をしている。早く話を戻してあげないと。ああ、一体僕は誰の味方なんだか。
「そ。だから先週の金曜日は焼却炉の前でなんか英語で叫びながらゴミ箱に八つ当たりしてたアホ娘を誘おうと思ってたんだけど、もういなくなってて」
「わ、わああああ! あだだ!」
椅子から飛び上がった我が恋人を急いで取り押さえる。まさかそんな理由で怪我をしていたとは。
うわ、先生打って変わって満面の笑みだよ。
「ああ! やっぱりそうだ! 掃除当番あなたの班だし! うちのクラスのゴミ箱ボッコボコにしたのあなただったのね! 最近全然一緒に話してなかったもんね! フラれたって勘違いして足折ったの? ダッサー!」
なんて教師だ。生徒と同じ高さの目線で接してくれる良い先生なのは確かなんだけど。
しかし、先生もよく話していた事を知っていたとは恥ずかしい。
「い、言うなあ!」
「た、頼むから暴れないでよ!」
そりゃあこんなに細くて小さい足で、トタン製のしっかりしたゴミ箱を蹴飛ばしまくったら骨にヒビくらい入るよ。
しかし肌が白いって損だな。もう顔がゆでダコみたいに真っ赤だ。
「えっへへー! 先生初めてあなたから一本取っちゃったー!」
高校生と同レベルって。しかも先生は今まで論破されていたのではなくて、ただ煙に巻かれていただけだという事に気付いて欲しいんだけど。
「Hey, how are you feeling now? Huh? Come on tell me!(ねぇ、今どんな気分? 教えなさいよ!)」
出たよ器の小さい英語教師の英語煽り。ねえどんな気分?とか訊いてるんだろう。
「How do I feel!? I'm just curious how much did you pay to be an educator that's all!(私の気分ですって? アンタみたいなのが教育者になるためにいくら金を積んだのか気になっているだけよ!)」
早口で聞き取れない。
「ああん? 言ってくれるじゃないの!」
「教えなさいよ! いくらよ! いくら払えばあんたみたいなのも教師になれんのよ!」
ああ良かった。日本語に戻った。
「先生と仲良いところ悪いんだけど……その辺にしておいてよ」
まだ一限目が終わる前だというのに雲が厚い。放課後に第二ラウンドに突入されてしまったら、雪が降り始めてしまうかもしれない。僕は君を家まで安全に連れて帰る義務があるんだよ。
「はぁ、そうね。先生との相性は最高よ。今日のところは負けを認めるわ」
「え? まじ? ほんとに良いの? やった! なら昼休みに今から言うペナルティだけ宜しく。あと二人は放課後職員室来てね。今日のところは車で送ったげるから!」
送迎まで勝ち取ってしまった。
ん? どうして先生の車があるんだろう。
「ふん。金曜日の夜からお楽しみだったってワケ? 最近の教師は随分とお盛んね」
「なんとでも言いなさい。あんたらと違ってオ・ト・ナなの」
ああそうか。先生、週末ずっと自分の車を学校に置いて彼氏と遊んでいたのか。大人だなぁ。
結局そこから話はぐだぐだになってしまい、僕達はベコベコになったゴミ箱をゴムハンマーで修繕するという罰だけで済んだ。
それにしても先生、気付いてよ。今簡単に負けを認めたのは、先生の気分を良くして量刑を軽くするための策略だったって事に。
ああ、僕の愛する少女は、邪悪な笑みも可愛いな。
10
目まぐるしい月曜日はまだ続いていた。
その要望を訊いた時、自転車二人乗りよりも天に登る気分だった。しかし、実際やってみると、これは単なる苦行でしかなかった。
「……動かないで」
「む、無茶言わないでよ」
僕は全く分かっていなかった。腕枕という行為がこんなに難しかったという事に。
小洒落た一軒家のアクリルガラスに覆われたサンルームは、
でも、ちらつき始めた雪がアクリルガラス越しによく見えて、すぐ横には自分が一番好きな子の顔がある。それは最高の気分だった。しかし、もう限界だった。
「あ、あのさ、もう結構指先が痺れてて限界なんだけど…」
「なるほど…これだけ頭で圧迫すればそうなるのは自明の理ね。何か工夫が必要だわ。実際問題私もあなたのか細い腕に頭を載せたところで痛くて何にも良い事が無いし。痛めつけることで支配欲が満たされるだけだわ」
最後の一言が凄く気になるけど、まあ良いか。
一体どうすれば正しく出来るんだろう。このままでは夢が破れてしまう。要研究だ。
「なら膝枕を試してみましょう。ただし、私の足はこのザマだから、枕はあなたの膝だけど」
うん。異存などある筈がない。
上半身を起こし、アクリルガラスの窓に上半身を預ける。
「これは正解ね。もう少し肉が欲しいけど」
「善処するよ」
うん。これなら長時間やってられそうだ。ただ、腕枕はお互いの顔がとても近くなるので、再挑戦したいところだ。
「こ、こんなバサバサの髪触って楽しいの?」
無意識に彼女の髪の毛を指で梳かしていた。一瞬気まずさに
「この髪の毛がいいんだよ」
「そ、そう。なら好きにして」
許可が降りた。かなり狼狽した表情をしているけど、その顔もなかなかだ。
たった数日前までは、こんな事になるとは、夢にも思っていなかった。今まで会話してきた時間はあまりにも短かった。昼休み、授業の合間。それくらいだ。
本当に、単なる友人の一人。
でも、ゆっくりだけど、ちゃんと時間をかければ、僕のようなどうしようもない人間の思いが伝わることもあるのだ。
今日も昼休みの間は会話する事ができた。なんせボタンのお陰でクラスの腫れ物扱いだった僕達は、二人で話さざるを得なかったからだ。
コミュニケーション能力に長けた親友カップルは他のクラスメイトにいじられまくっていたが、この理屈屋の少女に矛先を向けてくる無鉄砲な奴はいなかった。
「起きた?」
眼鏡を放り出してうとうとしていた少女が、何かの物音で目を覚ました。体を仰向けにしてこちらへと視線を向ける。
水色の瞳が近付いて来た。
お互い目を見開いたままで唇が重なった。そのまま、彼女の顔はその場から動こうともしない。
でも、待って、今玄関の扉が開く音がしたんだけど。どしんどしんと足音を立ててこちらへ向かってくるんだけど。
「ん、んぐ!」
引き剥がされてしまった。そりゃあそうだよなぁ。はぁ、ブロンドヘアが眩しいお母様、お早いお帰りで。
「ちょっと娘に説教するから借りるね」
え、娘に説教って。責めるべきは僕だろう。
「Ah! Stop pulling me! (痛い!引っ張らないで!)」
うわぁまた英語だ。母親に少女が腹ばい状態で引き摺られていく。
頭が回らない。どうしよう。見られたよね、娘さんの唇を奪っている、いや、娘さんが僕の唇を奪っているところを見られた。ああ、恥ずかしいなどというレベルじゃないよ。ああ、家への出入り禁止くらいで済めばいいけど。
「I can't believe my own eyes! A high school girl, kissing her boyfriend like a kindergarten child! What? Wanna pretend to be an innocent baby? You gotta be a lady not a girl!(本当に信じられないだけど! 女子高生ともあろう者が彼氏に幼稚園児みたいなキスして! それとも何? ウブな女の子とか演じたいの? アンタは少女じゃなくて女になれよ!)」
あまりよく聞き取れないけど、思いっきり説教をしているんだろう。
「Are you telling your daughter to be a dirty bitch!?(自分の娘に汚いビッチになれって言うの!?)」
うわあ、すごい勢いで言い合ってるよ。
僕も英語勉強しないと駄目かなぁ。
「ごめんなさいね。この子幼稚園児みたいなキスしか出来なくて」
「うるさい!」
「え? ええと……?」
何も返事出来なかった。そんな事言われるとは思わなかった。こんな発想日本人にはないよ。
しばしの言い合いを終えてから、僕の方へと片足で跳ねながら戻ってきた彼女は、そのまま膝枕の姿勢に戻る。
お母様ににすごく見られてて恥ずかしい。
「Oh, by the way, don't forget to contracep...(ああ、そうそう、忘れないでね、避に…)」
「Leave us alone ! (もうほっといて!)」
少女の怒声にケラケラ笑いながら、彼女のお母様は洗面所へ行ってしまった。
それにしても英語の喧嘩って怖い。さっきもお母様は歯を食いしばりつつ、腹から思いっきり声出してたし。
「はぁ……もう……ごめんなさい。うちの母親は私をからかうのが趣味なのよ」
「そ、そう……ほとんど何言っているか聞き取れなかったよ」
心底ほっとした顔をしている。よほど知られてはマズい内容だったんだろうか。
「はぁ、お母さんは認めてくれてるってことでいいのかな?」
「ええ、もちろんよ。難癖つけたら私がこの家を出るだけだわ」
そんな怪我をしておいてずいぶんと強気だ。
またしばらく沈黙が走る。
シャワーの音と、調子が外れた演歌っぽい歌が聞こえた。かろうじて聞こえる「キサス」ってどういう意味なんだろう。
「これ、何の歌?」
「うるさいでしょう? ムード歌謡とかいうのにはまってるの」
もう根っから日本に染まっているんだな。アクセントは多少特徴的だけど、日本語も完璧な人だ。
それからお母さんはそのまま仕事へと戻っていってしまった。シャワーを浴びて着替えるためだけに帰ってきたんだそうだ。
再び静かになった空間は、こうして少女の頭の重みを感じるまでの事を思い出させた。
「偶然だけど、こうなって良かったな」
思わず、口を衝いて出てしまった。
こんな風に、望むことすら憚られた仲になれるまで、沢山の偶然に助けられたのだから仕方ない。彼女の顔を見ようと下を向くと、僕の胸ポケットのボタンと、少女の第二ボタンの両方が見えた。
「あら、本当に全て偶然かしら? 初めて会話を交わした時、あなたは本当に自分一人で私に話しかけた? 偶然、そんな気分になったから?」
何を今更。しかし、記憶を紐解いてみると、確かに違った。
あの子なら学校の事をよく分かっていると、今は親友となった初めての友達に言われたからだ。
そう考えてみると、うまく誘導されていたのかもしれない。まあ、彼とその彼女も、ここまでの関係になる事までは予想していなかっただろうけど。この少女の友人として、なんとかしてあげたいという気持があったんだろう。
「日本に来て以来、一緒に女子がいないと男子と話すことすら出来なかったのよ。でも、あなたみたいに華奢で辛気臭い男とは普通に話せたわ」
それは喜んで良いのか悪いのか。
「そ、そっか。そうだよね」
そうだよ、僕みたいなヘタレを絵に描いたような奴が自分から話しかけるなんて、恋愛漫画みたいな事は出来やしないんだ。
「ああ……そっか。帰るのにわざわざあの農道を通ったのも、あそこにバス停があるって知ってたのも、前にあの道を自転車で通ってるって聞いたからかも……」
「そう、未練くらいはあったのね」
あったよ。多いにあったよ。話せなくなったのは僕が悪いんだけど、僕も辛かったという事は分かって欲しい。
「それに、もしあなたが発見してくれなくても、あなたに助けを求めたと思うわ。怒りに任せてね。この足は誰のせいで痛むのかって」
「え?ああ、えっと…ごめん」
「嘘よ。自分で八つ当たりして怪我した事を謝罪させるなんて、そこまでヤバい神経は持ちあわせていないわ」
本当かなぁ。いや、実際それくらいヤバかったとしても、僕はこの子への思いを曲げる事なんてない。
じっと水色の瞳が、僕を見ていた。
「……他に、好きな人とかいなかったの?」
「え? い、いないよ。なんで急にそんな事」
あ、そうか、急に話しかけなくなったからか。
「他に好きな人なんていなかったよ」
言うのは恥ずかしいけど、この子にははっきりと伝えななくてはならないことも分かっている。
「こんなのよりも性格が良くて可愛い子なんて山程いるのに?」
「だから、僕の大事な人をこんなの呼ばわりしないで欲しいんだけど」
ああ、本人に向かって何を言っているんだろう。
「こんなのだからよ……熱に浮かされてたり、変な幻想を抱いたりしていない?」
そんな事を言われても、とにかく否定するくらいの事しか思い付かない。
「抱いて無いよ……いや、無いとは言い切れないけど」
青い瞳が別の方を向いてしまった。
「ねえ、やっぱり、全部のワイシャツ…冬も夏も全部のボタン、付け替えていい?」
「駄目に決まってるでしょ」
頬を膨らませて黙ってしまった。
どうして突然そんな事を要求したのかは分かった。僕が彼女に不安を覚えさせたからだ。
「そんな事しなくたって大丈夫な事くらい分かってよ」
「分かってるわ。でも、でも……」
無理やり彼女の上体を起こさせ、唇を重ねた。
そうだ、僕は少し自分に自信を持たなくちゃならない。
真っ直ぐに感情をぶつけてくれたんだから、真っ直ぐに返さないと。
「大丈夫だよ。その、出来る限り、大事にするから」
彼女の目が大きく見開かれた。
「くっさい台詞」
露骨に目を逸らされてしまった。まあ、僕もそう思う。
でも、こういう言葉は大事だと思う。まずは虚勢くらい、張りすぎない程度に張って見せないと。
「ごめんなさい…大事にし過ぎないで。適度に欲望をぶつけてくれる方がいいわ。繊細に扱われるのは遠慮されるみたいで嫌なの」
「え?ああ、うん」
予想外の返事をされてしまった。
そうか。自分に自信がないのはこの少女も同じなんだった。
「そこは、安心していいと思うよ」
青い瞳が再び僕の方を向く。
「頭悪い女が言いそうな事お願いしてもいい?」
奇妙な前置きだ。
「何でも言ってよ。無理なら無理っていうから」
「ずっと一緒にいて」
「うん」
思わず即答してしまった。あまりにも子供っぽくて言い辛い台詞を言ってもらえた気分だ。
これからどうなるかなんて分からない。今、この子に抱いている気持はどんどん変化していく事も分かっている。だけど、別に言う分には良いじゃないか。
今やっと、膝に乗っている重みが増えた。全てを僕に任せてくれている。そんな気がした。
「……良い相手に出会えたと思うわ。自分を偽る必要がないって、私にとっては最高だわ。もう一つ、お願いがあるんだけど、いい?」
「何?」
また、瞳が違うところを見ていた。
「お互い、自分をよく見せようなんてしないようにしましょう」
なんとなく、予想していた。僕が安心していいよとか、大事にするなんていう気障ったらしいな台詞を吐いてしまったからだ。無理はしなくていい、暗に言ってくれているんだ。
少女の両手が、僕の顔を挟んだ。
「今、思ってる事を正直に話すわ。私にもっと可愛げがあって、肉付きが良かったら、髪がサラサラだったら、肌がすべすべだったら、毎日、悔しいくらいそう思ってるの」
そうだった。悩んでる事は一緒だった。僕だって人並みに背があって、肩幅もあって、見れる顔で、その時その時に、気の利いた言葉をかけられるコミュニケーション能力があれば、なんてことを考えてしまう。
「同じこと思ってたよ。でも、たまに思うんだよ。本当にその、もっと違う姿をしてたら、こんな関係になれたかなって」
「なれない」
言い切られた。
そして、膝枕の姿勢のままで僕の腰に両腕ですがりつく。
「これくらい華奢で、頼りない見た目で…そうじゃなかったら、話しかけられた瞬間に逃げていたわ。本当よ」
「僕も、その、僕の中のアメリカ人のイメージそのままだったらきっと、近寄る事も出来なかったよ」
僕に縋り付いたままの少女が、大きく息を吐いた。
「そう。少し、自分が好きになれそうだわ」
なるほど、そうか。
背が低くて、華奢で、気弱。そんな自分が心底大嫌いだったのに、そこに惹かれる人に出会えた。
お互いが自分の嫌いな部分を好きだという相手に出会えて、その相手を好きになるばかりか、自分自身も好きになれた。
だから、もっとこの子を好きになる前に、この子が好きだと言ってくれた自分を、もう少し好きにならないと。少しでも好きになれれば、こんな僕を好きだと言ってくれる相手をもっと理解出来るかもしれない。
色々なことがとてもうまく重なって、こんな関係になれたけど、この状態に甘えては駄目だ。この少女が自分を好きになろうと頑張っているように、僕ももう少し、自分も好きになるように頑張らないと。
そう思った瞬間、やっと僕は彼女と二人、一歩前へと踏み出せた気がしたんだ。
この少年と少女が、互いに一歩踏み出すには アイオイ アクト @jfresh
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