第8話 兆しー赤



 ピクっと肩を動かした気配を感じたのか

 「おっ ごめんな」と席を立った男が声をかけた。

 「こちらこそ すいません」と応える。

 過敏になってると自分でも思う。


 目の前のカクテルグラスを緩く持ち上げる。


 「お代わり、作りましょうか」


 そう言われて初めて自分のグラスが空になっているのに気がついた。


 「う〜ん…今日は…やめておきます。悪い飲み方しそうやけん。」

 「悪い飲み方?悪酔いなんてしそうにないに。」

 「悪酔いやのうて、悪い飲み方」と訂正する。

 「なんか今日は…お酒に集中できんの。お酒に悪い気がして。」

 「集中してお酒を飲むなんて、実紗子さんらしい」釣銭を渡しながら田鶴子が笑う。

 「私、らしい…、かな。」といってカウンター席を立つ。

 「おやすみなさい。」

 「おやすみなさい。お気をつけて。」

 扉を開ける背中に。

 「実紗子さん」

 ん?と振り返る。

 「雨、まだ降ってるみたいよ」と田鶴子は続けた。

 「ありがと。傘、あるけん」

 そういうと、エレベーターの中から手を振った。


 五月半ばの雨続き。こういう天気を「卯の花腐し」というのだと、前の上司から聞いたことがあった。

 <十和子さん>

 胸の内側にすっと冷たい風が吹き込んだ気がする。急にうそ寒くなった気がして、実紗子は携帯傘の足を速めた。



 翌朝。

 まだ雨が降っているのか、日のささない窓は鈍色である。

 目が覚めたものの、ぼんやりと天井を見ていた。

 身体が重だるくて、起き上がる気になれない。

 熱があるのかと思ったが、そうでもないようだった。

 <なんだか…この頃、変>

 

 そのまま実紗子はぼんやりと天井を見続けた。天井の向こうには二階がある。伯母と住んでいた古い家の二階を実紗子は趣味の作業場にしていた。そこには、今も塗料の小さな缶や刷毛、エアーブラシが置かれている。天井を見つめたまま、実紗子はぼんやりと作業場のことを思っていた。

 <あそこもええ加減、綺麗にしてしまわんと>

 作業場を使わなくなって2年以上、いやそろそろ3年が経とうとしている。一人になっても続けるつもりの趣味だったが、なんとなく、気乗りのしないまま、かといって、全てを片付けてしまう気も起きぬまま、作業場はそのまま薄埃を溜め込んでいる。

 <さっさと片付けたらええのに>と自分でも思う。

 

 実紗子さんの気性は百合さん似やね。

 そうですか?
 

 置いておいて仕方がない物を残そうとせん。

 百合さんもそういう気性やったな。

 

 確かに、とその時実紗子は思った。年をとって膝を悪くした伯母は、それまで丹精込めて育てていた前栽をバッサリと処分してしまった。勿体無い、とか、折角ここまで育て上げたのを、といったことは一切なかった。もう世話をすることができないのだから、置いておいても仕方がないというのが伯母の理屈だった。


 その伯母はずいぶんあっさりと死んだ。「見越しておられたんやねぇ…しっかりした人やったけん」葬式で誰かがそういった。伯母が死んだ時、残された方が始末に困るような細々としたものがなかったからだ。伯母は4年ほどの間、病院を出たり入ったりを繰り返していたが、最後は一人でひっそり自宅で死んだ。見つけたのは、大学から帰った実紗子だった。実紗子は、古い厚紙の表紙がついた電話帳を開いて、「きんきゅうのとき」と書かれたページに書かれてあった電話番号に電話をした。電話番号は大きく書かれてあって、その横には平仮名で「こうのさん」とあったが、インクは年を経てぼやけていた。電話を受けてやってきたのは80前と50過ぎの弁護士二人連れであった。二人して、葬式やら相続やらの手配一切を取り仕切ってくれた。実紗子は喪主といわれながら、ちんまりと座っているだけだった。


 全てが終わった後、伯母の形見をどうするかと言われて、自分が使える物以外はいらないと答えた実紗子を、伯母に似ていると評したのは、年かさの方の河野だった。

 伯母の形見に限らず、実紗子は自分が使わない物、使わなくなった物は、さっさと始末してしまう方である。


 <さっさと片付けたらええのに>と今度は声に出してみたが、自分でも気の乗らない余所事の声だった。


 休日をいいことに、そのまま実紗子はぼんやりととりとめもなく考え続けた。


 <すっかり人が入れ替わったけん、なんか調子が狂ってるだけ…やろ…>


 前の上司が始めた申請文書の運営内規の整理と新書式の設定には、かれこれ1年以上の時間がかかったが、結果的に実紗子がいる総務係の仕事は大幅に減少した。残ったのは省庁関係の書類のチェックと整理、各部署が共通に注文する文具品等の発注と在庫管理ぐらいのものになった。そして当然の結果として、部署の再編成が行われ、総務係は人事部の盲腸みたいな人員4人の「総務課」となった。前の総務係から残ったのは実紗子と山本だけ。その山本もこの秋、結婚退職する予定である。

 新たにやってきたのは50歳前の菊池「課長」と新入社員の上山だった。


 <新入社員の方はね…>実紗子の頭の中で山本の声がリプレイされる。なんでも内定後の新人研修時についた仇名が「うえさま」。「かみやまではなく、うえやまです」が自己紹介の第一声だったからではない。他人のミスには厳しく、自分のミスは押し付けるか華麗にスルー。この世で重要なのは自分のことだけ。だから「うえさま」。とこれは人事部へと横滑りした同僚から聞き込んだらしい。

 一方で、菊池課長の異動は一種の驚きを持って受け止められていた。課長から課長への異動というだけでも異例だが、元々財務部のエリートで次期役員候補と噂されていたからだ。誰しも今度の異動では、しかるべき部署の部長になるだろうと思っていた。ところが蓋を開けてみれば「盲腸」部署の名前だけ課長である。何があったのか憶測ばかりで埒があかない。というのが、山本さんが財務部に移動して係長になった鈴木さんから聞き込んだ話。


 山本がそういう噂を実紗子に話すこと自体が常ではない。実紗子は社内の人事や噂には無頓着だし、相槌を打つこともなかったからだ。



 <休憩室に二人だけやからわざに聞こえんふりもでけん>

 実紗子は大抵弁当を作って休憩室で昼食をとる。そこに山本が「料理の練習なんよ」とやはり弁当を作って仲間入りするようになった。人事の噂話もその席で出たことである。山本は一人で喋って、満足していた。だから実紗子も山本と一緒に昼食をとること自体は苦にはならない。


 けれどである。

 <…いつの間にか相槌打ってしまうけん>


 実紗子自身、不思議でならない。一方的にしゃべっている山本が、「ほやけんな」とか「思うやろ」とか言ってちょっと間をあけると、「ほうやね」とか「うん」とか返事してしまうのである。

 挙げ句の果てに昨日

 「実紗子さんのこと、誤解しとったわ。無口やし、仕事一筋って感じやったけん、話しにくいなぁってずっと敬遠しとったん。けど、こうした二人になったら、ものすご聞き上手やけん。びっくりした。早うに仲良うしとったらよかったわぁ」と言われてしまった。


 実紗子にとってはそれこそ想定外。

 ポカンとした顔をしたらしい。

 「いやぁ!実紗子さん、可愛らし」と言われたのである。


 何もかもがいつもと同じようで、どこか違う。
 

 それに敏感になっているのだと、実紗子は結論付けた。

 

 <靴の中の砂粒みたいなもん。気にしたらその分気になる。私が変わったわけやないんやし>

 やっと実紗子は起き上がった。


 雨の日の外出先はきまって大型書店である。目当ての本がなくても、何かしら新しい事柄を知るのは楽しい。実紗子はいつものように科学書コーナーを目指してエスカレーターに乗った。各階のエスカレーター脇はちょっとしたコーナーになっていて、本が平積みにされている。
 

ふと実紗子の目に鮮やかな色が映った。


 緑の地に赤い風船

 タイトルはひらがなで赤く「あかいふうせん」


 その彩りに惹かれて実紗子は手にとって見る気になった。

 ページを開く。


 白地に黒い細い線。赤い風船を膨らませるこども。

 こどもの口から離れた風船。

 木の枝で赤いリンゴに。

 赤いリンゴが落ちて割れる。

 と、赤い花に…


 同じ赤が形を変える。

 文字は一切なかった。


 実紗子は絵本を手にとったまま、動けなくなった。

 「それ、つい見惚れますよね。すごく不思議で。評判いいんですよ。」

 「単純なのに、奥が深いって、大人の人にも人気なんです。」


 実紗子は声をかけられるまま、レジに行って絵本を買った。



 田鶴子は丁寧にカウンターを拭き清めた。
 

 カウンターいっぱいを占領して、ひとしきり盛り上がった一団が帰った後。


 空気までもが森閑として、冷え冷えとしていた。

 <もうすぐ梅雨入り…>
 田鶴子にとっては少し気鬱な時期である。


 客足がどうこうではない。冷えたグラスに露がつきコースターを濡らし、カウンターやテーブルの濡らす。それで別に味に関わるわけではないのだが、グラスの足にコースターがベットリとくっついた風情がなんとも…なのである。


 きぃ〜っと静かに扉が開いて実紗子が入ってきた。

 実紗子がこんな夜中に来るのは珍しい。顔色もなんとなくすぐれないようだ。こんな雨の晩にわざわざ出かけなくてもよかろうに、と田鶴子は客商売を離れて心配になってしまう。実紗子にはそんな危うさがあると田鶴子は感じていた。


 「田鶴子さん。赤い色のカクテルってある?」

 「赤、赤色…ねぇ。オレンジ、やないんね。ほうねぇ…クランベリーかグレナデンを使って色の綺麗なの…。いくつかあるけど、どんな感じのがいい?さっぱりとか、甘口とか。」

 「なんでもええん。見た目は同じ赤色で違うカクテル2つ。」

 「…??」実紗子の変わった注文に田鶴子は慣れている。モヒートをアイラウイスキーやジンで作ったりと、定番レシピを変えて味の違いを楽しむことも多い。ヨーグルトリキュールにとミントというのもあった。

 その田鶴子の目の前に実紗子は『あかいふうせん』を置いた。

 パラパラっと眺めて、田鶴子はそういうことやったんねと思った。

 「綺麗な赤で2つ。きついけど、大丈夫?」

 「うん」実紗子は俯き加減にうなづいた。



 しばらく氷や、シェーカーの音がしたかと思うと、カウンターに二つのグラスが置かれた。


 どちらも同じぐらい赤く、どちらも同じように煌めいていた。


 実紗子は手を伸ばさず、じっと二つのグラスを見つめていた。


 「こんばんわ。というより、お久しぶりやね。」

 そう言って客が入ってきた。

 真っ白な髪は短く、直線裁ちのチュニックから銀鼠色の長袖と濃いブルーのスラックスが覗いている。 
 

 「田鶴ちゃん、相変わらずそうやね」

 「おかげさまで」

 「久しぶりやけん、懐かしのジン・フィズ、お願い。」

 田鶴子は実紗子の前を離れた。


 「あら、イエラ・マリの『あかいふうせん』。
  

  あぁ…ほやけん、赤いカクテル。それも2杯。

  若いのに、粋なこと。」


 「粋な、こと、ないです。」実紗子の硬い声が響いた。


 「大事なこと、なんね。」


 実紗子の方を向いて女性は言った。呟くようでいてよく通る低い声だった。

 その声に思わず実紗子はうなづいた。

 彼女の目と実紗子の目があった。

 ふぅっと彼女の顔が緩んだ。


 「せられんかったねぇ…。

  赤のカクテル二つ。大事なことは見つかった?」

 実紗子は小さな子供のように首を振った。

 「わからんけん。何が大事なんかわからんのです。調べようもない、手がかりもわからん。ほやけん、カクテル飲んだら何か分かるかもって。けど…」


 「この本、どっちで読みよった?」


 「この本、赤い色が違う形になっていくって物語作ったりするけん、そっちで読んだ?
 それとも…」といって女性は絵本を手に取った。

 「違う形が同じ赤色に染まっていく。私ね、昔そう読んでなんか妙な気持ちになったけん、よう覚えてる。ほやけん、どっちで読みやったんやろってね。」

 「同じ赤が違う形になる。違う形が同じ赤になる。」

 「赤のカクテル二つやったけん、違う味が同じ赤色やろか。」


 「同じ赤が違う形…違う形が同じ赤…」実紗子は繰り返した。

 「どっちなんやろ…どっちでもかまん…ほうやない。やっぱり違う。けど…」


 「なぁ…どんな味しよった。そのカクテル。」


 その言葉に実紗子の顔は息を吹き込まれた。


 「こっちの赤みの強い方。針葉樹の森それも山の中の森。そこを吹く風。でも、日向にある藪の陰で実ってる、赤い実の香りが混ざってる。濃い緑を筆に含ませて、さっとかすらせたところに、ほんの少しだけ紅が混ざった感じ。

 こっちの、ちょっとピンクっぽい方。こっちは…もっと穏やかな暖かい…秋?ううん、夏の終わりで秋の始まりのほんの一瞬だけ。お日さんの赤みがもう秋の色になっている夕焼け。でも空の上の方はまだ夏のスカイブルー。」


 女性の方はひどく驚いた程で

 「ええねぇ、その表現。お酒で風景が出てくるって…。

 田鶴ちゃんは、慣れとうの。あんまり驚いた顔、しとらんけん。」

 「実紗子ちゃん、いつもはこの調子やけん。

 赤みの強いのはジンベースのコスモポリタン、もう一つはアイリッシュ・ローズ。ほやけん、実紗子ちゃんの表現はぴったりやと思います。」


 「お酒、好きやの?」
 

 「そんなに飲めんけん。けど色々調べたり、想像したり、組み合わせてみたりできるんが好きです。」

 「ほうなの…。で、さっきの赤い色が違う形になるんか、違う形が同じ赤なんか、でいうたら、コスモポリタンとアイリッシュ・ローズ、どっちやと思う?」

 「えっと…違う形が同じ赤…ううん、ほんなことない。同じ赤なんてないわ。こっちの赤は木の実の、ベリーの赤。こっちの赤は大きな夕日の赤。赤って言葉は一緒やけど、色は全然違う。香りも違う。」

 「ほうよね…。ほんまにある赤は一つやないけんね。いろんな赤がある。花の色にしたって、お酒の色にしたって、赤ゆうても色々やけん。

 けど、この本は同じ色にしてある。

 ゆうたら、誤魔化してる。

 それでも、同じ赤で不思議やない気になる。
 なんでやろねぇ…。」


 そう言うと、女性はまた実紗子の顔をじっと見つめた。


 「赤

  …あ、か…

  赤色っていうけん、赤色って色があるって思うから…やと思います。」


 「ほうかもしれんねぇ…。赤色ってね。言葉では一つやけん。かもしれんね。

  …いろんな赤があるって、毎日のように見とるに、こうやって一つの赤だけで塗られてても、それらしいに見てしまう。ほんまにしようの無い、頼りの無いもんやねぇ…人間て。



  けど、頼りの無い、しようの無いもんやけん、愛おしいとか悲しいとか、言葉にできんところで、つながったりしとる。そんな気ぃもするんは、年、とったせいかもしれんね」



 そう言って女性はころころと笑った。

 

 実紗子はなんだか肩の力が抜けたような、はぐらかされてしまったような、なんとも言え無い気持ちになった。

 そしてそんな気持ちになった自分自身が、何か妙に新鮮な生き物のように思えた。


 「実紗子ちゃん、チェイサー飲む?」

 実紗子はコクっと頷いた。

 「無理せんで。チェイサー飲んだら、今日はおかえりよ。」

 実紗子は素直に言葉に従った。



 チェイサーを飲み干して、ゆっくりと店を出て行く実紗子をいつものようにエレベーターの前まで見送ると、田鶴子は店に戻った。


 「忘れもん」と女性が微笑しながら本を手に持っていた。
 

 「すいません、気が付かんで。」

 「田鶴ちゃん、あのお客さんに肩入れしとろ。」

 「ええ、まぁ常連さんやけん。」

 くすっと女性が笑った。

 「深入りはせられんよ。女同士は業が深いけん。色事でのうても。カウンターは超えたらあかんけんね。」

 「はい」と神妙に頷く田鶴子に

 「…ふふっちょっと耳が赤うなった、せられんよ。

  真面目な客に真面目なバーテンダー。安全安心、やけんね。思わずからかってしもうただけやけん。

 …にしても、アイリッシュ・ローズよりジャック・ローズの方が似合いそうな子やったねぇ。
 

 あの年頃にしては珍しい。媚びも照れも何もない。素っぴんな。」

 「お酒に真剣って、お客さんには変な言葉かもしれませんけど。そんな人です。」


 「ほうなん。真剣なん…ね。

   …その分…しんどいのもわからんのかも…」


 「え、何か?」

 「ああ、何でもないよ。お代わり、お願い。」

 「はい。何にしましょう。」

 「…クロウのソーダ割り、ちょっと強めでお願いするわ。」



ビルの外では音もなく小糠雨が降り続いていた。

優しいけれど、体の芯まで冷たく濡らすような梅雨の雫だった。

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BAR なつき船 @natsukifune

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