第7話 微かな

 春を告げるという祭りが終わったというのに、この地方では珍しくみぞれ混じりの雨がベシャベシャと歩道を濡らしていた。

 夜の街には人通りも少ない。

 傘を傾けながら歩いていた足がふと、止まった。

 雨を避けながら出されている小さな看板を見つめている。

 と、足がビルの中に入っていった。

 エレベーターのすぐ横にSの字のドアノブが大きく横たわった扉がある。

 傘をたたむと、そのドアをゆっくりと開けた。


 「いらっしゃいませ」

 応えた声は少しハスキーな女声。

 何も言わずに腰掛けた客に向かって、少し厚手のおしぼりを差し出した。

 「あの、外の看板にあった金柑のカクテル」

 「はい、ホットになさいますか?」
 「ええ」

 バーテンダーはL字型のカウンターの端にある袋から品定めをしながら、金柑を取り出す。

入れられた包丁から、金色の粒が見えるような香りが飛び出す。

 「あっ」と小さな声を客があげた。

 何か?というかのようにバーテンダーが客の顔を見る。

 声の割に童顔で小柄なバーテンダーである。

 客ないいえと首を振った。


 「金柑のホットカクテルです。意外と熱いですのでお気をつけて」と、スプーンを添えたホットグラスが差し出される。

 「美味しい…これ、生の金柑ですよね」

 「はい。たまにタネが残っているかもしれませんから、ここに」とショットグラスを差し出す。

 「金柑って生でも食べられるんですね」

 「はい。…失礼ですけど、ご旅行か何かで来られたのですか?」

 「ここに住んでるんですけど…小さい頃は大阪の方やったんで。金柑、生で食べるなんて…」

 「へぇ、大阪の方でも金柑は生では食べないんだね」奥の方から中年過ぎの男性が声をかけた。

 「僕は、東京の方だけど、あっちでも金柑は生では食べないんだよ。

 子供の頃は熱だ、風邪だというと、金柑の煮たのを食べさせられてね。苦酸っぱくて閉口ものだったが、まぁ民間薬というのかな。

 だからこちらに来た時には、今のお嬢さんのようにびっくりしたものさ。」

 「この辺りのは、甘いですから。金柑は生で食べるのが当然なので、私もお客様から言われるまで、気が付かなかったんですよ」とバーテンダーがニコニコと笑う。


 「お嬢さんも、小さい頃に薬で飲まされた口かな。」

 「ええ。たぶん。蜂蜜と混ぜてくれたけど余計に苦かったような覚えがあります。」

 「へぇ〜蜂蜜と混ぜてね…母親の知恵っていうか。…愛かな」と男は話を促すかのようにグラスを口に持っていく。


 「生まれてすぐに母はいませんでしたから、母親の…というのは違うと思います。」


 「それは悪いことを聞いてしまった。小さい頃にお母さんを亡くしたとは気の毒に。さぞ寂しかったろうね」とわけ知り顔に続ける。


 「はじめからいませんでしたから、『母がいなくて寂しい』というのはよくわかりません。」グラスの中の金柑を潰すようにしながら、淡々と答える。

 

 男はさらに話が続けられるものとばかりに、グラスを傾けていた。が、一向にその後の話は出ない。グラスの縁を指で玩びながら、何度か女の方を見るのだが、女の方は真剣な顔して金柑を食べている。一つ一つ味を確かめるかのように。

 静かに流れているBGMの音が男の周りでは渦巻いているかのようだ。


 「タッちゃん、お勘定」というと、少し大きめの音を立てて男は椅子から立ち上がった。

勘定を済ませた男は、女の方を振り返ったが、女はやはり真剣な顔をしてグラスの中身と格闘していた。


 「ご馳走様でした。…カクテルってお酒とお酒を混ぜるとばかり思ってたんですけど、生のフルーツも使うんですね。」

 「ええ。飾りなんかにも使いますけど、このカクテルみたいに潰して中に入れたり、ジュースを絞ったり…昔は生の果物が高かったけん、少なかったんでしょうけど。

 こういう感じのカクテルは初めてですか?」

 「初めてではないんですけど…。前は連れて行ってもらって」といって客はクスっと思い出し笑いをした。「その時、カクテルって面白いなって。色が変わったり、名前が変わったり…。金柑のカクテルって書いてあったけん、きっと金柑をつけたお酒かなんかのカクテルやって思って。」

 「ああ、それで生やったから」

 「そうです。金柑、生で食べたことない、っていうのもほんまですけど、お酒を混ぜるとばっかり思ってたから。」

 「カクテルっていろんなものを混ぜるんですよ。ソーダやジンジャーエールは定番ですけど、フレッシュジュースに牛乳、バターなんかも入れるんですよ。」

 「牛乳?バターa?なんだかお菓子みたい。」

 「確かに」そう言うとバーテンダーもクスッと笑った。「卵白も使いますし、生クリームも使いますから。」

 「卵白を使ったカクテル???泡立てるんですか?作ってもらえます?」

 「ええ、もちろん。ただ先ほどの金柑のカクテルもウォッカが入っていて、ソフトですけど強いお酒でしたし、ホットでしたから…今度は少し弱めの感じにしましょうか。」

 「はい。でも…甘いのは苦手です。」

 「わかりました」

 そういうとバックバーから酒瓶を取り出し、シェイカーに卵白を入れた。

 強めのシェイクの後、ふわりとした白色に緑のかかった液体がカクテルグラスに注がれた。

 客はバーテンダーの一挙一動を興味津々と見守っていた。

 そして「カクテルグラスを手に取ると、上から下から眺め回した後、ゆっくりと口をつけた。

 「?」

 「変な…味ですか?」

 「…えっと、薬っぽい…。けど、お薬って感じじゃなくて…歯磨き粉でもないし…」

  真剣な顔をしながら、何事か自分の中に尋ねている。

 「ちょっと酸っぱくて苦くて…何に似てるんやろ。すごく複雑。でもすごく懐かしい感じです。」

 「シャルトリューズって、修道院で作ってるリキュールです。昔はお薬代わりやったんでしょうね。この香り、キライやという人もおるけん、どうかなって思ったんですけど、さっき色が変わったり、名前が変わったりって。少し変わったところがお好きみたいやから。」

 「変わったんてゆうより、知らんこととか知らん味とかが、面白いんです。卵白とお酒がこんな風に混ざって、柔らかくてふんわりして。それにお薬見たいって思ったら、修道院で作ってたやなんて、すごい面白いです。自分が知らんことばっかり。ものすごくワクワクして、楽しくて。」

 そう言ってバーテンダーを見た客の顔は子供のようだった。

 「よかったです。喜んでもらえて。」

 「前に連れて行ってもらったお店、テーブルやったから、お酒とか見えんかったけど、いっぱいあるんですね」とバックバーを眺める。

 「小さい店ですから、そんなにたくさんは置けないですけど。」


 客はゆっくりと並んだ酒瓶を見回しながら、カクテルグラスを傾けていった。

 ふわりとした草の香りにソフトなBGMが混じり合う。

 外の冷たい霙はもうやんだようだ。


 「ご馳走様でした。ほんと、いろんなお酒があるんですね…」

 「面白いです。作っている方も。工夫のしがいもあります。失敗も多いですけど」といって、バーテンダーはクスッと笑う。嫌味も媚びもないふわりとした真綿のような笑いである。

 

 「また、来てもいいですか…あの、マスター…さん?」

 「もちろんです。来ていただければ嬉しいです。あ、遅くなりました」といってバーテンダーは名刺を差し出した。

 「た、づ、こさん?」

 「多い鶴って書くのは珍しいそうですけど。たづこです。どうぞよろしく。」

 「あ、私こそ。実紗子って言います。果実の実と糸偏に少ないって書きます。色々聞いたりしていいですか。」

 「はい。全部は応えられんと思いますけど、それでかまんのでしたら。私も勉強になりますし。」

 「よろしくお願いします」

 「こちらこそ」


 そんな別れの挨拶を交わして、客は出て行った。

 

 

 それから一月に一度か二度、実紗子は店に顔をみせるようになった。

 といっても、他の客がいる時は黙って黒板に書かれているカクテルを飲んでいる。そういう時は小一時間ほどで帰ってしまう。途中で他の客がいなくなると、多鶴子にカクテルの中身を尋ねたり、バックバーに並んだちょっと変わったお酒を飲んだりする。全く一人の時は、同じレシピでシェイクとステアを頼んだり、奇妙な組み合わせのレシピを頼んだりー時には頼んだ実紗子自身が「まずい」と顔を顰めることもある。


 多鶴子にとって実紗子は「常連客」ではあったが、話はいつも「酒」と「カクテル」。同業者ではないし、酒量が多いわけではない。酒が好きという以上に、「新しい何か」「知らない何か」が好きという点で、変わった客であった。時々あまりに細かいことを聞いてくるので、鬱陶しいと思うこともあった。かといってこちらが答えにつまっても、プロなのにと馬鹿にした様子もない。多鶴子が話した説と別の説を見つけても、それで議論をするというわけではなく、淡々と報告するといった感じである。情報で自分の知識を増やすのも、実際に飲んでみるのも面白いらしく、時々「あれ〜本で読んでおもてたのと、全然違うわ」といって笑う。

 なんとも奇妙な客であった。良い客とか悪い客、嫌な客と客を区別するのは、この商売では決してやってはいけないことではある。といっても自然と店に集まる客には、その店特有の色合いというものが付いてくる。そういうものだと先輩が言っていた。それを思うと多鶴子は、実紗子が来てくれるのは多鶴子にとっては面映いことであった。自分よりもっと研究熱心で、技術も素晴らしいバーテンダーがこの街にはいる。実紗子はそういったバーに行ったことがないから、自分のところに来ているのではないかと思う。だから一度、実紗子からの質問に答えられなかった時、先輩の店を紹介したこともある。けれど実紗子はちょっと首をかしげただけだった。それからその店に行ったとも、行っていないとも実紗子は言わなかった。客に聞くことでもないので、多鶴子も聞いていない。だから、知識やカクテルの腕前だけで来ているのではないのだろうと、思うことにしている。とはいえ、やはりなんとなく面映いのだった。

 

 そんなこんなで1年が経とうという頃である。

 正月気分も抜け、風の冷たい夜、もう客も来ないだろうと思いつつ多鶴子はカウンターを拭いていた。

 きぃ〜と静かに扉が開く音がする。

 見ると実紗子が顔を覗かしている。

 「いらっしゃい。誰もおらんけん、遠慮せんと」といつもに似合わず扉のところで、くずくずしている実紗子に声をかけた。


 「何にしましょう」といつものように多鶴子はおしぼりを差し出しながら聞く。

 いつもなら、早速カクテルの名前かベースのお酒の名前を口にするのが実紗子である。

 ところが今日は妙に黙ってバックバーを見ている。

 そっと多鶴子は実紗子の前を離れた。


 たった二人だけの店の中に、BGMがゆっくりと漂う。


 「多鶴子さん。寂しい時、一人で寂しい時って何を飲みます。」

  引きずるような声だった。


 「アードベック、ストレートで。チェイサーたっぷり。」

 「それ、ください。」

 多鶴子はショットグラスにウィスキーを注ぐと、たっぷりと水を入れたグラスとともにカウンターに置いた。ショットグラスからは強いピートの燻の効いた香りが漂う。




 ゆっくりと傾けられていたショットグラスが半分を過ぎる頃。実紗子は話を始めた。


 「うち、小さい頃母親がおらんようになって、父親も頼んない人やったらしくて。頼んない男やったけど、女の人には人気があって、母親が出て行ってから、何人か女の人が出入りしてて。代わり番こに育てられた感じ。そない言うて、あんまし誰も覚えてないん。一番覚えてるんが蜂蜜入りの金柑作ってくれた人。真っ白な綺麗な手の人やった。顔は覚えてないのにね。

 小学校になった頃には父親もあんまり家に寄り付かんようになって…。色々あったらしいけど、4年生の頃に伯母さんに引き取られてこっちへ来て。伯母さんも独り身やったから、家の中の決まりごと、整理整頓、家事の手伝いのことで話すだけ。でもそれで十分やったけん。

 ええ人やったんよ。伯母さん。大学に上がってすぐに亡くなってしもたけど。


 ずっと独りやったから、学校でも、家でも。


 仕事始めてからも、人と喋るのは苦手。用事で喋るんはええけど。余分な話ってようせんし。


 けど、1年ほど前、歳は離れてるけど趣味が同じ人らと一緒になって。そこやったら、ここと一緒。趣味の話してたら、それでかまんけん。すごく楽やった。面白かった。

 一所懸命、同じことしてるけん、間違えとったり、ミスがあったら、そういうたらええ。素晴らしいとこがあったら、そういうて感心するし、褒めるし。歳が上とか下とか、男とか女とか、好きとか嫌いとか、そんなこと関係ないし…って。

 せやけど、そうやないんやなって…。それだけやったら、あかんねんなって。

 なんかギクシャクし始めて。けどどうしてそうなったんか、どうしたら上手くいくんか、全然わからん。みんな言ってることと、思ってることが違ってきてるらしい。それはなんとなくわかるんやけど。どうしていいのかわからん。そんな感じ。

 


 先週、ホンマにバラバラになってしもうたん。


 しょうがないなって、その時はあんまりどないも思わんかったん。


 けど、今日…。今日になったら、妙に独りが寂しなって…。

 こんなん、初めてやの。

 独りがさみしいって。

 寝付けないの。どうしても。


 それで来たん。

 だれもおれへんかったらええな。

 多鶴子さんやったら、そっとしておいてくれる。けど独りやない。

 そうやったらええなって。」


 実紗子はそういうと、ようやっと顔を上げた。

 泣いているのでもなく、笑っているのでもない顔だった。

 そしてまた、グラスをゆっくりと傾けた。


 


 「アードベック、強い?」


 「うん。強いお酒。巨きな岩山みたいにがっしりしてる。海が近いとこにある岩。厳しいけど…でもなんかほっとする。奥の方に柑橘…ううん、オレンジとかグレープフルーツの香りでもなくて…すっきりじゃなくて、ほんのり甘い。近づかないとわからないぐらい。でも気がつくと、本当にほっとする。すっごく大きなひとにふんわり抱きしめてもらってるみたい。」

 そういうとチェイサーをぐっと大きく一口飲んだ。

 「お水、飲んだ後。また戻って来るのが風みたいやね。ほわっとする。」


 最後の最後まで愛おしそうに実紗子はアードベックを飲み終わった。


 「ご馳走さま。」

 「チェイサー残ってるし、まだ店開けてるから。」

 「ううん、アードベックの香りが残っているうちに帰りたい。そしたら寝れそう。」


 二人は一緒に店の扉を開けた。

 「風邪ひかれんよ。」

 「ありがと。また来ます。」

 「いつでも。待ってるけん。」


 二人が立っているビルの上には雲ひとつない夜空が広がっていた。

 オリオンがゆっくりと西の空へに横たわっていた。

 

  

 

 

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