第6話 緑と赤

BAR 緑と赤


 日付が変わる頃、激しい雷雨がやって来たかと思うと、生暖かい風が吹き付けてきた。夜の街に人影はない。それでもいつものように、木の扉はうっすらとオレンジの灯りを路上に投げかけていた。

 キィ〜と静かな音を立てて扉が開く。いつもなら「いらっしゃいませ」とマスターの声がするのだが、カウンター端に座った若い男性の前にボトルを並べていて、気がついた様子がない。

 「もう、お仕舞いかね」

 「失礼いたしました。どうぞ」とマスターは温かいおしぼりを差し出した。

 ゆっくりとカウンターに腰をかけたのは、初老のとば口を過ぎた様子の男性である。マスターが受け取ったコートは電球の灯りをうけて上質の光を浮かべている。傘も受け取ろうとしたマスターの手は空振りに終わった。

 「さて…何をいただこうか」と呟きながら客は店内を見渡した。

 と、カウンターの上に並べられたボトルに目が止まった。

 「ベルモットとチンザノに、その二つはどちらもジンだね。どんなカクテルなのかね。面白そうだ。それを…」

 「あ、これは…」と端の若い男が慌てたような声を上げて、腰を少し上げた。

 「申し訳ございません。近くの同業の若い子なんですが…」

 「失礼しました。ここのマスターにマティーニを指導してもらおうと…。マスター、また今度でも」といって席を外そうとする。

 「いやいや、なんだか面白そうだね。マティーニの名前はさすがに知っているが、プロのマティーニ教室とはなんとも珍しい機会に出会ったものだ。よかったら続けてもらえないかね。」   

 若い男はすかさず席に座りなおす。

 マスターは少し苦い顔になりながら「お客様の前でお見せするほどのものではないので」と受ける。

 「いや、是非見てみたいものだ。近くに泊まっているのだが、さっきの雷で目が冴えてしまってね。寝酒でもと街に出たものの、どこも閉店で弱っていたところだ。一人でむっつり飲むよりは、はるかに面白い。どうだろう、客の私が質問したとして、やってみてくれないかね。」

 客の声は軽げである。が、なにやら底があるようでもある。


 ちょっと考えるかのように俯いていたマスターだったが、それではとでもいうように、カウンターに並べたボトルを、バックバーに戻し、カウンターのあれこれを片付けて少し広めのスペースを空けた。


 「さてと、改めてや」と若い男の方を向く「なにが知りたいやった。」

 「美味しいマティーニの作り方。ほやけど、マスター、マティーニってなんやって」

 「そうやったな。お客さんもご存知やと思いますが、マティーニはジンとベルモットをステアする単純なカクテルですが、どれが最も美味しい作り方かとなると…」

 「そういえば、ベルモットの分量で口がうるさいとか、小耳に挟んだことがあるね。ベルモットの瓶を眺めながらジンを飲むので十分といった偉い人がいるとかいないとか」と客が受ける。
 

 「どれくらいドライにするかという点では、そういう話もありますし、ジャングルで道に迷ったらマティーニを作れば良い。『その作り方は間違っている』という奴がきっとやって来るから。なんていう小話もございます。千差万別、好みといってしまえば、それまでなんですが…」といいつつ、若い男の方を見る。

 「お前は普通どう作る。」

 「どうって…その…ジンはビーフィータで、ノイリーと8、1ぐらいで、ステアして香りが立ってきたら…」

 「で、どこが自分で気に入らん?わざに聞きにくるんやけん、納得できんのやろ。」

 「ステアの感覚というか…なんかよう言われんですけど、ピタっと決まらんけん」


 マスターはバックバーを振り返ると

 「ビーフィータとノイリープラット。それに…ゴードンとチンザノにビタース。

 今からこれでマティーニ作るから、飲み比べてみ。

 お客さんも、よろしかったら飲み比べられますか。量が多いようでしたら、半分にいたしますが。」

 「喜んで。然し確かに一度に二杯は味も変わるだろう。構わなければ、半分ずつにしてもらおうか。」

 では、という風にうなづくとマスターはミキシンググラスを二つ取り出した。


 並んだカクテルグラスは4つ。控えめにショットグラスが置かれているのは、半杯分を取り置くため。ピンを刺したオリーブも4つ。幕開け前の舞台のように、しんと静まりかえっている。


 ミキシンググラスに氷を入れる音。

 ゆったりと弛むことないステアの無音の音。

  BGMさえ心得顔に音を消している。


 先に注がれたのは、檜というには松脂のかかる、けれど重さのない、木立の中から吹き上げていく風のような香りだった。早春にはまだ早い。それでもどこかに春を思わせるような冷たい風の香りである。

 次に注がれたのは、ゆらゆらと木の香ともカリンの香ともとれぬ香りである。どこか人にまといつくようで、すっと離れていく。甘いかといえば甘くなく、キツいかといえばキツくはない、中途半端でいながら、「それ」としての香りを持つ捉えどころのない香りである。


 どちらの香りもほんのりととろみを帯びて、グラスの中で電灯の明かりを映え返している。心持ち色合いも違って見えるのは、気のせいだろうか。


 マスターは若い男と客に向かって、それぞれのグラスを差し出す。

 

 「えっ、おっ」と小さく呟くように声を上げ、右から左と二つのグラスを何度も飲み比べていたのは若い男である。ようやっと、怪訝そうな顔でマスターと目を合わせた。

 「どっちが美味しい。」

 「そりゃ、俺やったらこっちのビーフィータの奴やけど。マスター、これどっちもマティーニですよね」

 「ほうや。」

 「お前、美味しいマティーニってどうやって作るんですかって聞いたけどな、その美味しいって誰にとって美味しいマティーニや。自分の店で、自分の納得するマティーニ作って、『どうです、美味でしょう』ってのも、まぁありやとは思う。

 けどな、お客さんにとって美味しいマティーニってのはまた別や。初めてなんか、何かこだわりがある人か、暑い日か寒い日か、その人の気分によっても違うやろ。それをうまいこと、汲み取ってその人にとって『美味しいマティーニ』を作るんもバーテンダーや。

 ま、もうちょっと自分で考えてみ。」

 「はぁ…勉強します。ありがとうございました」なにやら釈然としない顔つきでもあったが、そう礼を言うと若い男は勘定を済ませて、出て行った。


 カウンターを一拭きしたマスターは改めて客の方に向かった。

 「えらい、ご面倒なことで。申し訳ございませんでした。何か新しくお作りいたしましょうか。」

 「いや」と客は空になった二つのグラスを眺めていた。そしておもむろに


 「マスター、ちょっと話を聞いてもらえるかね。


  実は同期入社の友人が此処の山の方に引っ込んでいてね。そいつのところを訪ねた帰りなんだが。

  奴とは同期も同期、同じように地方から東京の大学へ進んで、そのまま東京で仕事について…。向こうは西、私は東と地方の違いはあれ、故郷とは遠くにありて思うものでは一緒だった。日本の経済と一緒に一心不乱に拡大成長して、石油ショックをくぐり抜け…まぁ、私と同年代のものなら誰しもが、場所は違えど「同期の桜」みたいなね、変な連帯感を持っているものだ。でも彼とはことに気があってね。それに合わせたわけではないんだが、結婚も、子供が生まれたのもほぼ同時、みたいなものだったから、そのまま一緒に定年を迎え、子会社の一つへでも出向し…と、生涯同じ道行きの友と思っていたんだ。」

 と言葉を切ると、マスターが出してくれたチェイサーをぐっと飲む。


 「ちょうど15年前になるか。あいつの父親が急に亡くなって、葬式やら何やら1週間ほど有休を取って、こっちに戻ったことがあった。戻るといったが、こっちはあいつの本当の故郷ではないそうだ。父親の代に引っ越してきたらしい。有休が終わった後も、何かと奥さんと二人してこっちへ来ていたようだったが、それも村落の中では新参者、母親一人では何かと不便なことやら、解決のつかないことがあるのだろうぐらいに思っていたのさ。

 それがさ、段々とこう、なんだか様子がおかしい。仕事はきちんとするんだが、それ以上ってのがなくってね。部下も戸惑って、私に相談に来たこともある。何か聞きに行っても『で、どう思う』とか『で、どうしたいんだ』って調子で、明確に指示がもらえないんで困っているって言ってね。私も体の調子でも悪いのかと心配になったものだから、仕事帰りの一杯にかこつけて誘い出して話を聞こうとしたりしたんだが、これがまた取りつく島がない。そのうちに妻の方から、いやなんとなく妻同士も友達付き合いになっててね、奴と奥さんとが離婚するのどうのと騒ぎになっているという話が聞こえてきた…。

 男も50を過ぎると色々とあるもんだ、そのうち元の鞘に納まるもんさとわけ知り顔で妻をなだめてみたものの、浮気をするような奴でもなし、いったい何がどうなっているのだが、全く要領が得ない。本人をとっ捕まえてとっちめようにも、定時退社で姿形が見えない。休日に誘い出そうと思っても、奥さんを残して一人で何処かへ行っている始末。向こうの奥さんには、こっちが誘い出しているんじゃないかって痛くない腹を探られるわで、腹が立つやら、歯がゆいやら。」



 「そうこうと5年ほどたったころだろうか。社内で早期退職の応募があった。真っ先に手を挙げたのが奴でね。正直言うと同期とはいえ、仕事の出来では奴の方が一歩も二歩も上、さっきは定年も一緒でなんて言ったが、奴は役員として本社に残るだろうと、私も周りも思っていたものだ。そこへ早期退職だ。派閥争いがどうの、奥さんとの離婚騒動の裏に何かスキャンダルがあったんじゃないかとか、まぁ社内雀のうるさいこと、うるさいこと。私もね、せめて私にぐらいは事情を話してくれてもいいんじゃないかとなんども詰め寄った。奴は『いや、単に飽きたんだよ』としか返事をしない。仕事に飽きるってのはわかる、が奥さんにまで飽きるはないだろうってね。そしたら『所詮他人だからね。一緒にできなきゃ仕方がないさ』でね。

 正直、裏切られた!って思ったね。むかっ腹もたった。一緒にやってきた年月を踏みにじられた思いもした。友人だと思ってたのは私の方だけだったのかって虚しいような寂しいような思いもあったよ。」



 「早期退職後、奴がどうしたのかがはっきりしたのは、翌年だったかその次の年だったかの年賀状だった。父親が亡くなってから、母親も後を追うように亡くなっていたようだ。『両親の墓に見守られながらの百姓仕事。日々是平凡。晴耕雨読。』ってね。狐につままれたような心持ちだったよ。大都会の東京で一緒に戦ってきたはずの戦友だ。田舎に引っ込んでしまうとは思えなかった。そのうちまたぞろ都会に戻ってくるだろう、いや戻ってくるに違いない…と思っているうちに、こっちも定年過ぎて暇を持て余す身。この機会に一度訪ねてみようかと思って、やってきたんだよ。」


 「行ってみて驚いたねぇ。人一倍お洒落だったのに、なんだか着古したズボンにもっさりとしたセーターで。立て付けが悪いのかガタピシいう扉の向こうも雑然として。正直、なんと言葉をかけていいのやら。『落魄』という言葉がよぎったのは確かだった。

 だけどね、嬉しそうなんだよ。奴が。会社にいた頃よりね。周りの婆さん連中からは結構頼りにされているらしい。晩ご飯のおかずなんかは、そんな婆さん連中の差し入れで、田舎風ではあるがじんわりといい味でね。百姓仕事は自分の食べる分だけ、作業はきついし、お天道様次第だから中々上手くいかんと困り顔ではあったが…。

 昨日がちょうど土曜日だったろう。仕事があると言って出かけるのさ。なんの仕事かと行ってみれば、農道の整備やら石積みやら。『おまえ、もう60過ぎてしんどいだろうに』といえば『俺なんぞ若い方よ。まぁ元からの百姓やないけんな、しんどいはしんどいけどな』と腰をさする。晴耕雨読は文字通りではあるのだろうが、決して楽そうではなかった。

 けれどね。」

 と、客は言葉を切って、しばし沈黙した。



 「羨ましかったんだよ。私はね…。結局、そういうことなんだろうさ。昨日はなんだかわけも分からずむしゃくしゃして、顔を見ているのも嫌になっちまってね。止めるのも聞かずにこっちのホテルに移ったんだが…。

 羨ましい、そう、本当はそうなんだろうね。」


 「でも、私には無理だ。絶対に。さっき、二つのマティーニをもらった時に、つくづくそう気がついたのさ。私は奴も私も同じマティーニだと思ってた。ドライな都会で生きて、年をとっても服装は若々しく、洒落ててね…。だが、マティーニはマティーニでも、奴と私とじゃベースのジンもベルモットも全く違っていたんだろうね。」


 「美味しかったよ…。ゴードンとチンザノのマティーニ。」

 

 客は改めてマスターの顔を見た。そしてニヤッと笑うと


 「好みじゃないけどね。」


 「好き好きですから。好みは変えられません」とマスターが受ける。

 「ドライのマティーニをお作りしましょうか。お口直しに。」


 「いや、ブルームーンがいいね。こういう時は」

 マスターは頷くと、止まっていたCDを変えて、シェイカーを用意した。

 やがてカクテルグラスの中に青く白く輝く一杯が注がれた。


 柔らかいドラムのブラシの音、粒の際立ったピアノの音が静かに流れてきた。


 扉の外では生暖かい風は一転して、底冷えの様相を見せ、濡れた路面に響く靴音もなかった。

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