博多日記

AWA

令旨(りょうじ) プロローグ1

                一

鎌倉幕府3代将軍、源実朝みなもとのさねとも公暁くぎょうによって暗殺あんさつされると、鎌倉幕府かまくらばくふ実権じっけん源氏げんじから北条氏ほうじょうしヘ移った。そして、その権力を手にした北条一族ほうじょういちぞく地方豪族ちほうごうぞくあがものという一面をむき出しにして、これまで経験したことの無い贅沢ぜいたくを好み、持ったことの無い権力けんりょく乱用らんようし、今まで満たされなかった欲望よくぼうかぎりをくした。執権しっけん北条高時ほうじょうたかときの毎日は、金色こんじきまとい、闘犬とうけん田楽でんがくきょうじ、行われている政治は高時たかとき都合つごうに合わせられた。そうして、たみの生活はないがしろにされた。


みやこでは人々がかげ高時たかときを「暗君あんくん」とののしり、うら軽蔑けいべつした。しかし、遠い鎌倉の地に高時たかときはその声に聞く耳を持たなかった。そういう意味では聾君ろうくんでもあった。


次第しだいに、その北条一族の権力けんりょく脅威きょうい天子てんし(天皇)にまでおよんで行った。


この時代に天皇として即位そくいした御醍醐ごだいごは、北条ほうじょうが自分の権力を彼らのために利用されていることにいきどおっていた。そして、彼らの思うがままにあやつられ、行動こうどう支配しはいされて行くことに我慢がまんが出来なくなっていた。


ちんみかどである、どうしてあのような者の言うことを聞かねばならぬのか、」


みやこに住んでいる者はみな天子様てんしさまのお気持ちを分かっていた。またみやこうごきを警戒けいかいする北条ほうじょう役人やくにん達も天子様てんしさまのお気持ちを知っていた。しかし、だからと言って、まさかみかどが北条の鎌倉幕府に対抗たいこうする行動こうどうを起こされるとは誰も思わなかった。


ところが、御醍醐ごだいごはその北条幕府ほうじょうばくふ討幕とうばく行動こうどうに移されたのだった。


ひそかに忠臣ちゅうしんを集め、仲間を増やし、準備が整ったところで一気に北条ほうじょうたおそうという計画がられた。


この計画は、遠い鎌倉の地に北条高時ほうじょうたかときにはまったく気が付かれずにいた。


そのため、全ては順調じゅんちょうに進み、計画は固まりつつあったのだが、


ある日、仲間のうちの一人 土岐頼員とき よりかずが自分の妻に秘密をらしてしまい、その秘密を聞いた妻は、北条の世にあって北条を倒すという、余り《あまり》に恐ろしい所業しょぎょうに、自分達の身を守ろうとする気持ちが働き、おっと説得せっとくして、北条幕府ほうじょうばくふ討幕とうばく計画けいかく通報つうほうさせてしまったのだった。


寝耳ねみみみず北条ほうじょう幕府は、あわてて後醍醐ごだいご包囲ほういし、計画に加わった後醍醐ごだいごたちつかまえてしまった。このようにして後醍醐ごだいご緻密ちみつり上げた計画は仲間内なかまうちから出た裏切うらぎりという形で失敗に終わってしまったのだった。


鎌倉幕府かまくらばくふ見逃みのがしてはならないこのみかどの大計画を、裏切うらぎり者が出てくれたお陰で偶然ぐうぜん取り押さえることが出来た。しかし、これまでみかどを甘く見ていたことを大いに反省はんせいし、みかどたいして忠誠心の強い取り巻き達をみかどから遠ざけた。


この後醍醐天皇ごだいごてんのうの起こした事件は、正中しょうちゅう元年がんねん九月に起こった事件なので、のち正中しょうちゅうへんと呼ばれる様になった。


                  二


一方いっぽう御醍醐ごだいごは、この計画けいかくは失敗してしまったが、この時の多くの忠誠ちゅうせいな者たちのはたらききや幕府の対応たいおう、世の中の反応などを見て、討幕とうばく手応てごたえを感じ、この一度の失敗でめげることにはならなかった。


その七年後、再び強い意志を持って計画をり直し、またしても忠臣ちゅうしんあつめた。 この時、正中しょうちゅうの変で、みかどに加担した忠臣ちゅうしんたちに刑を科してうまく天皇と忠臣達を引き離したと思っていた北条の目論見もくろみは外れ、天皇は正中しょうちゅうの変の時の忠臣ちゅうしんに加え北条に不満を持つ新たな有力武将達をも味方に加え、ついに武器までも準備じゅんびととのえるほどに計画を進めた。


「今度こそ北条一族を千尋せんじんたにおとし、二度とがって来られない様にするのだ。ついに、その時がやって来る。」権力を取り戻したあかつきには自分が望む理想の政治をおこない皆を平和に導びくつもりで胸をはずませる御醍醐ごだいごであった。


ところが「あと少し、」と思った矢先やさき悪夢あくむかえされてしまった。


今度は御醍醐ごだいご乳父めのとそだての父、大納言吉田定房だいなごんよしださだふさみかど大胆だいたん計画けいかく危惧きぐし、・・もし、失敗したら・・と思う気持ちから、「事の起こる前に鎌倉幕府に通報つうほうすれば、前回同様、みかどへはたいしたとがめもなく許されるにちがいない」と考え、みかどを守ろうとする気持ちから、実行に移す寸前すんぜんのところで、計画けいかく幕府ばくふらしてしまったのだった。


度重たびかさなるみかど倒幕計画とうばくけいかく、二度目は簡単に許されるものではなかった。鎌倉幕府の大軍がみかどに対する罪状ざいじょうを手に、鎌倉からみやこへ向かって大軍が攻め上げて来た。その罪状は、後醍醐ごだいごは島流し、日野 資朝(ひの すけとも)日野俊基ひのとしもと死罪しざい後醍醐ごだいご皇子おうじ達も処分の対象となって島流しなどとなっていた。その中でも特に護良親王もりながしんのう大納言吉田定房だいなごんよしださだふさ密告書みっこくしょの中で首謀者しゅぼうしゃ護良親王もりながしんのうであると書かれてあったので、護良親王もりながしんのうは他の皇子おうじ達よりも深刻な状況に置かれてしまった。


護良親王もりながしんのう後醍醐天皇ごだいごてんのう皇子おうじで、出家しゅっけして尊雲法親王そんうんほっしんのうと呼ばれ、それまでに天台座主てんだいざす地位ちいを経験され比叡山ひえいざんにいた。仏法ぶっぽうよりも武芸ぶげいを好んで鍛錬たんれんおこたりがなかったようだ。この度の元弘げんこうへんでは、天皇に地位ちいであったため密告書みっこくしょに父である後醍醐ごだいごの身代わりに首謀者しゅぼうしゃと書かれてしまったのだ。もちろん護良親王もりながしんのう後醍醐天皇ごだいごてんのうの計画に大きく関わっていたことは明らかであるが、親王しんのう天皇てんのうの上に立って首謀者しょぼうしゃになるなどという事はあるはずもなく、鎌倉幕府もそこを間違うほどおろかでは無かったので、密告者 大納言だいなごん吉田定房よしださだふさ思惑おもわくとは裏腹うらはらに、後醍醐天皇は二度も反乱はんらんを起こそうとしたつみまぬがず、幕府は天皇を捕縛ほばくするように命を下した。


ところが、そのめいけて天皇と親王をたかまえに来た追手おって意気込いきごみは、ただ命令通りに捕まえるだけの勢いではなかった。天皇にとって二度目の発覚である。何をされるか分からない。


「大変です。我々は殺されるかもしれません。」一早いちはやく幕府の本心ほんしんを察した大塔だいとうみや護良親王もりながしんのうは少し離れた場所にいた父の後醍醐ごだいごと連絡を取り、それぞれの道を逃げ始めた。

御醍醐天皇は都を落ち笠置山かさぎやままで逃げて行った。大塔だいとうみや護良親王もりながしんのうは弟の天台座主てんだいざす宗澄法親王そんちょうほうしんのうと共に比叡山ひえいざんに立てもり、鎌倉幕府かまくらばくふむかつことにした。


この時、大塔だいとうみや護良親王もりながしんのうは父の身を案じ、幕府軍を比叡山ひえいざんおびせる目的で、比叡山の中ににせものの天皇をおとりとしてまねれていた。このことは味方の兵にも秘密にしていたので、比叡山の僧兵そうへいたちは本当に天皇が居るものだと思って意気いきがり「どんなことがあっても、死ぬ気でみかどをお守りするぞ、」と守りを固めていた。全軍の士気しきを上げる効果は絶大ぜつだいであった。


この効果があって、比叡山ひえいざん大塔だいとうみや護良親王もりながしんのう宗澄法親王そんちょうほうしんのうは幕府軍との間で善戦を続けていた。


そして、ついに河内かわちでは、後醍醐からあつ信任しんにんけ、後醍醐天皇から直々じきじきにお声がけをいただいた楠木正成くすのきまさしげ天皇てんのうみことのりによりいきおいよくにしき御旗みはたを振りかざし討幕とうばく狼煙のろしを上げた。


大塔だいとうのみや護良親王もりながしんのう宗澄法親王そんちょうほうしんのう、そして楠木正成くすのきまさしげは連携して、

「このままの勢いで、北条鎌倉をせ、」と勢いに乗った時、運悪く秘密にしていたにせ天皇のことが比叡山ひえいざん仲間内なかまうちに気が付かれてしまった。天皇を守るために必死になっていた比叡山の僧侶たちは、うそをつかれ、だまされ、裏切うらぎられ怒りを通り越してたたかうのを止めてしまった。そして、大塔だいとうみや護良親王もりながしんのう宗澄法親王そんちょうほうしんのうを相手しないで寺の門を開き普通の生活に戻してしまったのである。


護良親王もりながしんのう宗澄法親王そんちょうほうしんのうは一緒に戦ってくれる仲間がいなくなってしまったので比叡山ひえいざんから逃げて行く他になく、みじめな二人は二手に分かれ落ちて行った。護良親王もりながしんのう赤松則祐あかまつのりすけ村上義光むらかみよしみつを連れて熊野方面へ落ち、澄法親王そんちょうほうしんのうちち後醍醐天皇をたよって笠置山かさぎやまへ向かった。


急に比叡山からの攻撃が無くなり、寺の門が開かれたことにより、すぐに比叡山の天皇がおとりだった事を知り、ただちに本物の天皇の隠れていた居場所いばしょを見つけ出し、笠置山かさぎやまで後醍醐をあっけなくつかまえてしまった。そして、天皇と一緒にいた尊良親王たかながしんのう比叡山ひえいざんから落ちて来た澄法親王そんちょうほうしんのうも一緒につかまってしまった。


ただ一人、元弘の変で首謀者しゅぼうしゃとされた護良親王もりながしんのうだけが、幾度いくどつかまりそうになりながら、熊野くまのを通って命からがら高野山こうやさんまで逃げびて行った。


これらの状況じょうきょうを見て、楠木正成も自陣じじんしたふりをして赤坂城あかさかじょうて姿をくらませてしまった。


そして翌年、後醍醐天皇は北条高時ほうじょうたかときからの処分で隠岐おきに流され、後醍醐と一緒に笠置山かさぎやまで捕まった後醍醐の第一子だいいっし尊良親王たかながしんのうは土佐に流された。その他、捕まっていた天皇の側近たちは次々と天皇から遠くに離され、あるものは処刑された。


天皇の地位も強制的きょうせいてき後醍醐ごだいごから光厳げんこう移譲いじょうされてしまった。


こうして一件落着いっけんらくちゃくした正中しょうちゅう元弘げんこうへんではあったが、後醍醐は何度失敗しようとも執拗しつよう執念しゅうねんと、その子供達、 親王しんのうたちの協力によっていきつく間も無く再び強い炎を舞い上がらせるのだった。

                 

                三

「よし、これからだ、」


護良親王もりながしんのう高野山こうやさんかくまわれると、休むことなく次の戦略せんりゃくを考え始めた。そして、翌年、天皇が隠岐おきに流されたと聞くと、天皇を救うために全国に決起けっきうながし、仲間を集めるため、全国各地の有力武将ゆうりょくぶしょう権力者けんりょくしゃ令旨りょうじを書き始めた。令旨りょうじとは、天皇に次ぐ地位の親王しんのう皇太后こうたいごうによって書かれた公的こうてき要素ようそふくまれる命令書のことであり、この令旨りょうじの上には、天皇の書かれる綸旨りんじ以外にない。


護良親王は令旨りょうじに「ただちに朝敵ちょうてき北条幕府ほうじょうばくふを打つべし」という意味の文言もんごんを書いた。


この令旨りょうじを受け取った者は、鎌倉幕府に対して攻撃こうげきする大義名分たいぎめいぶんあたえられたことになる。幕府に対して反乱はんらんを起こすのではなく天皇のために正義せいぎの戦いをするということになるのだ。


護良親王は一度書き終った令旨を読み返して一旦筆いったんふでを置き、しばし考え、再び筆を取ると、書体しょたいを変えて、ある文章ぶんしょうくわえた。

それは「後醍醐天皇のお気持ちもここに書いたものとまったく同じでいらっしゃる。」という意味の一文いちぶんだった。

この一文は、この令旨りょうじが天皇からたまわ綸旨りんじと同じおもみを持っように意図いとして付け加えられたものであった。


護良親王もりながしんのうは令旨を何枚何十枚と書き溜めながら、様々な姿に身繕みづくろいした密使みっしに数枚ずつ令旨りょうじを渡し、一人ずつに「よいか、この令旨りょうじを相手に渡す時は『護良親王もりながしんのう隠岐おきに流された後醍醐天皇のお気持ちをんで今も戦っております。この令旨りょうじには天皇のお気持ちが含まれています。親王しんのうから令旨りょうじを受け取ったというよりも天皇から綸旨りんじを受け取ったと思って下さい。』と言って渡せよ。」と強く言いふくめ全国にばした。


このようにして護良親王の令旨りょうじは全国にばらかれた。


それが一通り済むと、護良親王もりながしんのうほとけみちから還俗かんぞくして、打倒だとう北条ほうじょう旗揚はたあげの準備にかった。そして後醍醐天皇が隠岐おき幽閉ゆうへいされてから一年がころ準備じゅんびととのい、再び楠木正成くすのきまさしげ河内かわち赤坂城あかさかじょう決起けっきすると同時に護良親王もりながしんのう吉野よしの決起けっきした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

博多日記 AWA @AWA

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ