君の名は

伊東デイズ

第1話

 今日は二学期末のテスト最終日。

 一握りの出来すぎ連中を除けばほとんどが沈鬱な顔をしているものと相場が決まっている。俺も午前中のダメージで食欲が半減している。

 国木田ですら、

「古文がねぇ、想定外の問題が……」と言ったきり、黙って弁当をつついていたくらいだ。

 だが意気軒昂な男が約一名。

「ぐふふふん」

 鼻先を潰されたクロコダイルのような含み笑いは谷口である。俺と国木田は同時に箸をとめた。今朝からこいつの調子が右斜め上に上昇しており、怪訝に思っていたのだ。開き直りかと思ったがどうやらそうでもないらしい。

 国木田がずばり言った。

「甲陽園学院、だろ?」

「あ、わかる? わかるかもしんねぇな。この身体から出る喜びのオーラがよ」

 ほんと、わかりやすいヤツだな。まだ懲りないのか。

「今度はどんな人?」

「それが聞いて驚け。今回はなんと三年だ。容姿は俺ランクでも余裕で上位獲得。頭もいいし、いわゆる知的美人ってやつだ。しかも性格も申し分ないんだこれが。キョンの後ろに居すわっているのとはえらい違いだ。」

「で? 参考までにどこで出会ったか聞いていいか」

 別にあやかるつもりはない。俺は今、テストの話題以外なら何でもいいのだ。

「キョンよぉ、お前に言っても参考になるかどうか。大体、お前はあの女がいる限り、他校の女子とお付き合いするのは無理なんじゃね?」

「そうだね。この頃はキョンと涼宮さんは何となく馴染んで自然な感じがするし。キョンといえば凉宮さん、みたいな。逆もまた真なり、だね」

 勝手に言ってろよ。

「まあ、深くは追求しないけど。で、谷口の話の続きは?」

 あまり関心がなさそうに言った。国木田もテスト以外の話題ならどうでもいいらしい。

「先週、神社にお参りにいったときに会った。お互いに制服姿で、学業成就の祈願に来たってのがわかったんだな。俺の真摯な祈りが通じたというところだ。俺は期末さえしのげれば良かったんだが」

「それって学業成就とはいわないよ」

「まあ、そう妬くなって。それから後メールをやりとりして、試験が終わったら、軽く食事とか映画とか……、まっ、いろいろと計画しているわけだ。彼女もこのところずっと受験勉強で、ラストスパートに入る前に、ちょっと息抜きしたいらしい」

「結果については後で訊いていいかな」

 国木田は弁当のふたを閉じて、俺の方をちらっとみた。こいつも昨年の谷口のひどい落ち込みを思い出しているに違いない。

 俺のその頃の記憶は、破天荒な超時空逸脱的な出来事で上書きされたせいでおぼろげだ。意識的に封印しているところがあるのかもしれない。

……やめよう。

まだ午後は一つだけテストが残っている。弁当箱をしまってから、俺は教科書を取りだした、無駄な抵抗と解ってはいるが。かといって戦闘放棄で開きなおりもしたくない。




 最後の科目は数学だった。

 数学、いや期末テスト全体でもそうだが、昼食後にテストをするのはやめてもらいたい。昨夜は四時間しか寝てないし、俺の脳髄は午後から睡眠不足を解消しようと全力を尽くしたらしい。抵抗むなしくサクラチルで、テストスケジュール組んだヤツちょっと来いって感じだ。

 寝ぼけ状態の俺の背にシャーペンがいきなり刺さった。

「なにすんだよ!」

「眠そうだったからね」

「おまえもだろうが」

 もちろん刺したのはハルヒでこっちも今起きたばかり、という様子だった。もちろんいつものことで、瞬く間に解答用紙を埋めると寝ていたらしい。俺とハルヒで仲良く眠っているのに、誰ひとり注意すらしないのはいまだに謎だ。

「今日でやっと終わったわね。ここんとこ、ほんと退屈だったわ」

 両手を上に上げて、うーんっ、と伸びをした。

 たちまち普段のハルヒに戻ったが、その目は何かを企んでいる。もうこいつとのつきあいも一年以上だ。絶対間違いない。

 二年目の文化祭は例によって我々の怪映画パート・ツーで映研部を蹴散らす大ヒットを飛ばし、それ以来表向きには何のトラブルもなく期末を迎えた。水面下では話は別だがいま思い出すことでもないだろう。

 まあ、俺としても成績は相変わらず危機的だったし、ハルヒも勘弁してくれたのかもしれない。しかし、である。

「団の活動もそろそろ気合いを入れなきゃね」

 ニヤリ、とチェシャ猫のような笑みをたたえ、後ろからいきなり俺の両肩にぱしっ、と手を乗せた。何のまねだよ。ハルヒの親指は俺の背骨のあたりで、広げた人差し指は肩にふれている。ツボに入ったのかハルヒの体温高めの指先がなんとなくすぐったい。

 何の除霊だよ。オカルトに目覚めたのか?

 ハルヒはふっと鼻先で笑うと同時に俺の目に直撃アイコンタクトをすると言う器用な表情で、

「除霊なら、みくるちゃんに任せるわよ。まだ袴もとってあるし」

 そういえば、今年の二月は幽霊騒動に始まって、山盛り激うまシュークリームで終わった奇妙な事件があった。あのとき朝比奈さんを無理矢理、巫女さんに仕立て上げたのがこの女だ。

 巫女さんが除霊できるかどうかは今もって知らない。

 あの事件の末尾、長門の謎フレーズを未だ確認していないことをぼんやり思い出していると、いつの間にかハルヒの手は離れ、教室に岡部教諭が元気よく入室、ホームルームが始まった。

 テスト終了直後の浮ついたざわつき感がただよう中、岡部は試験が終わったからと言って気を抜くな、帰宅時はまっすぐ帰れとか中学生相手じゃあるまいし、な文言を垂れた。たぶんネタ切れなんだろう。

 俺は掃除当番のハルヒを残し――不思議にハルヒは当番は守る。なぜだろう――教室をでた。

 俺はいまだ目覚めた直後のモーロー感が抜けない。筋肉に乳酸がたまると疲労するなら疲れた脳細胞には何がたまるのかは解らない。

 脳内疲労物質は散発的に舞い落ちる雪片をぼーっと眺めながら、朝比奈印のお茶をすすることでしか消え去らないはずである。



 今や強固に習慣化したノックを忘れずに、廊下で部室からの返事を待った。

「どうぞ」

 柔らかい声が帰ってきた。着替え完了ということで、俺は古びたドアノブをゆっくりまわす。

 中は朝比奈さんだけだった。

 理系クラス九組の古泉は一科目多いからまだ試験中だ。なぜか長門も部室窓際の定位置に姿がない。ただ一人、朝比奈さんが茶筒のふたを開けようとしている。

 今年は寒気が厳しいから、もう電気ヒーターをつけている。俺は出力が小さめのヒーターにかじりついた。

 朝比奈さんは寒くないんだろうか。それとも未来人謹製の加温テクノロジーがあるのかもしれない。俺はと言えば、朝比奈さんのふんわりしたウィンターバージョンメイド服を見るだけで、体温が少し上がる。

 フリルの着いた長い裾のちょっと重厚な生地と、きゅっときつめのエプロンの拘束がなんとなく胸を強調しているようで、つい目が泳いでしまう。

 すべてハルヒの好みだったが、どうやってこんな衣装を入手しているのかは不明だ。ネットでもこんなのは売ってないような気がする。もしかして自作とか? あの女は何をやらせても器用にこなすからな。性格以外は減点要素はおよそ見当たらない。

 俺はむりやり自分の視線を朝比奈さんから引き剥がし、黒板を背に椅子に座った。背中をじんわりとヒーターの遠赤外線があぶっている。

 全国的に暖冬だとか予報士が得意げに話していた記憶もあるのだが、世界の改変を無頓着に行う特異点こと、涼宮ハルヒが俺のそばにいる限り何かが予想通りいくことはない。

 この天候もあの女の望みなのか知らないが、なんか近いうちに雪がらみでまたどっかに遠出することになるような気がする。もうこんな時期だってのに。いや、どんな時期だってハタ迷惑な話だ。

 朝比奈さんが茶葉を密封パックから茶筒に移しかえているかすかな気配を除けば、カセットコンロの上でヤカンのお湯が沸いている音しか聞こえない。

 狭いはずの部室も二人だけだと何となく空虚な感じだ。窓の外は風も止んで、やる気のなさそうな雪が異様にゆっくりと落ちていく。

 ……何かがおかしい。

 俺が部室に入ってから朝比奈さんは黙ったままだ。

 朝比奈さんは急須に茶葉を入れ、お湯を注ぐ自分の所作に集中しているようだが、そうではない。なにかを言い出しかねているのがわかる。

 朝比奈さんは茶碗を俺の前において、真正面に座った。

 狭い部屋に女子と二人きり。女子は上級生、しかも校内随一の美少女だ。ときおりちょっぴり辛そうに目を伏せては俺を見つめる亜麻色の髪の乙女。静まりかえった密室を満たすのは二人の息づかいだけ……というような状況で平静を保っていられるほど俺は強くない。心頭滅却しても熱い物は熱い。かわいいものは可愛いのだ。

 俺の心臓は心音をダイレクトに内耳に送信することを決めたらしく、自分の心拍が半端ない。

 だが、緊張の原因は一つではない。

 経験上、こんな時は俺の関知できない世界で密かに事態が進んでいる可能性があるのだ。

 今の二人だけの状態ですら、時間的トリックによる人払いかもしれない。そういえば、去年の七夕事件もこんな始まりだった。

 ずっと後になってよーく考えてみれば、あの時俺はまかり間違えば過去に島流しだったわけで……。そう、朝比奈さんだって、長門ほどではないがその種の能力はあるのだ。なんたって未来人だし。

 ひょっとして俺が部室に入ってから、時計の針は動いておらず、この静けさは時間が糖蜜のようにゆっくり流れているせいなんじゃないか?

 本来の時間の流れだと、あと三十二秒くらいでハルヒや古泉が入ってくるはずなのだが、朝比奈さんの時間操作で実は一時間くらいに水増しされているとか。

 その間ずっと二人だけで見つめ合っていると言うのも切ないが、なんか話そうにもネタがない。

 一口お茶をすすって、次に出てきた言葉が、

「朝比奈さん、今日の試験はどうでした?」

 なに言ってんだ俺は。

 しかし俺の問いは部室内の空気中の分子運動をわずかに活発にしただけで、むなしく消滅した。相変わらず部室内は薄ら寒い静けさのままだ。

 朝比奈さんの答えはない。

 我ながら茶碗を持つ手もぎこちなくなってきた。


「あの……キョン君、お願いがあるの」

 ああ、部室に二人だけの状況というのは、やはりこうなるのか。

 うるんだ瞳と、きゅっと握りしめた机上の小さなこぶしで、朝比奈さんがかなり無理をして言ったのがわかった。つまり、アレなのか。

「お願いばかりで本当にごめんなさい」

 前回お願いされたのはいつだったかもう覚えていないが、そんなにあったっけ。実は週一回くらいで頼まれて、ミッション終了と同時に記憶が消去されている、ということではないだろうな。

 俺が若干キョドりぎみなのは仕方ない。

「ど、どんなお願いでしょうか」

「あ、あのう……、その、最初に上着を脱いでほしいの」

 はい? そういうお願いですか。三年前にすっ飛べとかそんなんじゃないのは大いに結構だが。いや、でもしかし上着だけですよね。というか、あと何を脱げってんでしょうか。

 それに最初にって言わなかったか。最後はどういう状態なんだ?

「ネクタイも」

 なんか暑いですよね。ヒーターの温度を下げましょうか。このままワイシャツとかズボンとかはないよな。

 朝比奈さんは丸テーブルに置いてあった大きめのバッグからセーターをとりだした。

「これを着てくれないかしら」

 朝比奈さんの差し出したセーターは、ターコイズブルーのしゃれたハイネックで、寸法は俺にはちょっと小さい。左の胸元に名札くらいの大きさのローマ数字でIという流麗な飾り文字が金糸で刺繍してある。

 なんだ。着るだけでいいんですか。朝比奈さんの手編みですか? 俺なんかが着ていいんですか。これはこれでうれしい気もする。俺はセーターを手に取った。

「いえ、買ってきてちょっと手を加えただけ。是非、というかお願い」

「ちょっときついですね、サイズが。ワイシャツの上に着ているからかな」

「あ、ごめんなさい。大体このくらいかと思ったんだけど。もしかしてキョン君、太った?」

 うっ。確かにこのところ運動不足だが、これは明らかにサイズが足りないのだ。そうに違いない。

「これだけでお願いは終わりませんよね。一体これからどうすればいいんですか」

「ええ、行ってもらいたいところがあるの」

「いつです?」

 出発時刻を問うたわけではない。朝比奈さんの依頼であれば、これは行き先を指しているのだ。

 以前の俺なら即断していただろうし、今だって断るつもりもないのだが、すこしは事情を知った上で話を受けてもいいんじゃないか?

 朝比奈さんの願いとあらば、国内ならばどこでもいい。できればこの界隈、学校周辺ならなおのこと好条件だ。だが行き先がいつなのかははっきりしてもらいたい。

 予備知識のあるなしで事態は大きく変わるのだが、大抵は禁則事項となっており、それは朝比奈さんの施錠された心的領域なのだった。

「朝比奈さんの頼みなら喜んで、と言いたいところですが、よければ目的も教えてもらえませんか。滞在時間はどれくらいですか」

「行き先は、今夜十時少し前くらい。場所はこの部屋です。滞在時間は大体一時間くらいかな。目的は……まだ言えません」

「長門に頼んだらどうですか。俺よりずっと能力があるし口も堅いし」

「キョン君しかできないことなの」

 つまり時間への干渉ということらしい。

 未来人は直接過去に干渉出来ないからだ。けれどその干渉した後の世界が俺にとって、いや人類にとって望ましいものであるかどうかはさだかではない。端的に言うと人類の未来は俺の双肩にかかっている、ということなのか?

 いつもながら重すぎる。ハルヒだけでも手一杯なのに。

 俺はかなりキツキツなセーターを着終わって椅子に座った。

「向こうに着いたら、私はすぐに戻ります……そのう、私がいると混乱すると思うの。だからあとで迎えに行きます」

「どこで待ってればいいんですか」

「十時五十分になったら正面玄関で待っています。絶対に遅れないでね。……ええと、もう一つあるわ。この任務……というか行動中は、キョン君が経験したことを誰にも話さないでほしいの。誰に聞かれても絶対に」

 たぶん、誰にも話すような気にはならないと思いますが。

「この件のおと……上の人の命令ではこれだけですか」

「ええ、最優先事項なの。キョン君、くれぐれも気をつけてね。無理をしないでね」

 朝比奈さんは俺の手をぎゅっと握った。やわらかい手のぬくもり感じつつも、なんか気になる。俺を案じてくれるのはうれしいが、無理をするなと言いつつ無理をさせる朝比奈さんもどうかと思う。まあ、ミッションの元締めはあの人、なんだろうけど。

「そんなに危険なところなんですか」

「確率的にはごく少ないけど……本当よ。ほ、ほんのわずかなんだけど」

「なにがわずかなんでしょうか」

「死んじゃう可能性も、ゼロじゃないの」

「…………」

「いえ、きっと向こうの人たちも守ってくれるわ。キョン君の命がほかの何よりも重要なんですから。そのことをよくわかっている人たちよ」

 俺が答えを返すより、朝比奈さんの手が俺の目を覆う方が早かった。

「キョン君、ごめんね」




 朝比奈さんの言葉がかすんで、気がつくと俺は部室棟のすぐ外に立っていた。雪はやんでいたが、残雪がまだ部室棟と校舎をつなぐ渡り廊下の下には結構残っている。

 すっかり暗くなっているから、時間移動は成功したんだろう、と当たり前のように考えている俺が少しイヤだ。

 朝比奈さんの姿はない。元の時刻に戻ったのだ。俺ひとりを未来に残して。

 何回目かは忘れたが、何回であろうとこの感覚には慣れない。おまけにひどく寒い。見上げると俺たちの部室だけ薄明かりが付いている。

 部室棟の階段を上り始めたが、なんか身体がふらふらする。今回の跳躍は以前よりダメージが大きいような気がする。暗がりで階段の手すりをつかんでから、這い上がるように部室のある階にたどりついた。なんで俺、こんなに息が切れてんだ?

 酸欠? 部室棟の三階で高山病なわけもないだろうし、どう考えても時空跳躍が原因に違いない。

 年単位の移動で到着時は意識を失ってはいたけれど、俺が朝比奈さんの膝枕から目を覚ました時はこんな重い疲労感はなかった。移動する時間と身体的影響は相関があるとしても、たかが数時間だ。大きな影響はないはずだ。

 この理屈だと、朝比奈さんが遠い未来から初めてこの時空に到達したときは相当ひどかったはず。それとも実はそんなに遠い未来からではないのかも。

 なんか思考が散漫でとっちらかってる。

 今は妄想している場合じゃない。時空跳躍は精神にも影響をあたえるみたいだ。

 部室のドアの隙間から光が漏れている。ドアを開けると、定位置に長門がいるのはすぐ解った。

 だが、一斉にこちらを見た奴らは、全員が俺だった。



 はい、狂った、ついに俺狂いましたよ。それともたぶん時間ループが全部いっぺんに重なっちまったとか。朝比奈さんがとんでもない間違いをしでかしてくれたのか。

 それになんでここに長門がいるんだ? 長門も時間旅行をしたのだろうか。それともこの時点の長門なのか?

 本棚のある側に座っている俺が言った。

「遅いぞ一回目」

 なんだそりゃ。

「ここでは跳躍回数で呼ぶことになっている」

そいつは一番疲れた感じだった。右目のまわりは薄黒く腫れて、心持ちこけたほおには絆創膏を貼っている。なんだこのやつれようは。

 もう一人、黒板に背を向けて座っているのがいる。

二人とも同じセーターを着ているが、胸元の数字はそれぞれ違う。本棚の側が三、黒板側のやつは二だ。それぞれ俺と同じ金糸の刺繍で、作り主は朝比奈さんに違いない。

 確かに回数で呼ぶのが合理的だろう。第三者からみて俺が自分の名前を連呼してたら、心の不自由な人と思われかねない。いや、回数だってそうだが。

 部屋の光源は机の上のアンティークなランプだけだ。今の時刻だとこの部屋だけ電灯をつけると校内で目立つからだろうが、こんなの部室にあったっけ。

「全員がそろったので説明する。俺も三回目だからイヤなんだが、最初の説明がなければ事は始まらないからな。一回目のお前に始まって、一定の間隔を置いて時間遡行したした三人の俺がいる。つまりここに集まったのは異時間同位体ってわけだ。ここまではわかるよな?」

「俺はあと二回も、来なきゃならんのか」

「そうだ」

「なんでだ」

「ここに始めてくるときに朝比奈さんに言われただろ。自分の体験を話すなって」

「自分に話すくらいいいだろう?」

「俺は知っている。お前はまだ知らない。だから未来の自分はもう自分じゃないんだ。俺とお前は別人なんだよ」

「なんでいま教えないんだ? そうすりゃ同じだろう」

「なぜなぜ君だな、お前は。理由は……禁則事項だからだ。これでもまだ聞くか? それとも朝比奈さんを悲しませたいか」

「いや、いい」

「我々の活動は十時から約一時間だ。この任務は一人では出来ない。しかし知る人間が最小限でなければならない」

「ちょっと待て。お前的には目的が達成されてんだろ? ならなんで俺が」

「われながら馬鹿だな、お前は」

 黒板側に座っていた二回目の青あざ野郎が俺の言葉を遮った。

「お前的にはまだ事態は始まってもいない。一回目のお前が目的をクリアしないと、次の俺がここにこれないんだよ」

「まあいい、このときの俺はなにも知らないんだから。こっから先は、二回目に説明してもらう」

「なんで俺が」

「俺は疲れてんだよ」

「えっとだな、お前はというか俺たちは、これから一時間ほど活動し、それぞれの出発時刻から少し過ぎた時刻に戻ることになっている。出発時間と帰着時間は同じに出来ないからだ。個人視点で見ると、都合三往復というわけだ。最終的にはここで過ごした約三時間だけ歳を取った状態で、通常の生活に戻れるはずだ」

「はず? はずってなんだよ」

「だから俺が無事に帰還しないと完結しないんだよ」と三回目の俺が言った。

「まあいい」と二回目の俺が間に入る。

「俺もちょっと前までそんなだった。そのうちわかる」

「現在、九時五十六分だ。まもなく始まる」

 にわかリーダーを気取った三回目が言った。

 何が始まるんだ。何か準備がいるのか。

「うっとうしい。ハルヒの気持ちがわかってきた。お前はくどいんだよ」

 お前は俺だろうが、なんてことを言いやがる。俺め。

 それまで彫像のように黙っていた長門が読んでいた本をパタリと閉じた。それがなんかの合図でもあるように、俺たちは押し黙った。

「あなたたちを守るのが私の任務」

 守る? 何から俺を守るんだ? お前がここにいるってことは朝比奈さんから連絡でもあったのか。

 長門は否定も肯定もしないまま、淡々と言った。

「午後三時以降、この部室を中心に空間情報が不安定化していた。このノイズは長期的には人体に悪影響を与える」

「もういいだろう。初回のお前にはこれ以上の知識は不要だ。行くぞ」

 三番目の俺が先を切って部室を出ていく。足を引きずりながら二番目の俺が続いて暗い廊下に出ていく。仕方なく俺も後を追った。

 俺を守るはずの長門はなぜか部室に残ったままだ。

 ときおりお隣のコンピ研の連中が遅くまでプログラムをデバッグしていたりするのだが、今日はいないようだ。無論そうなることはわかった上での時間選定なんだろう。

 足元もはっきり見えない廊下を一列になって移動する。窓から遠い町の灯が見えた。

 歩く順番が自然と変わって、先頭は足下が危なっかしいふらついた三回目の俺で、次が俺、そして二回目のやつだ。俺が逃げ出すとでも思ってるんだろうか。

「どこに行くんだ?」

「屋上だ。この三人で学外に出られると思ってんのか」

 そういやそうだが。それにしても、二回目の俺はずいぶん冷たい口調だ。

 本校舎の屋上階段までは結構ある。押し黙った二人を相手に一人しゃべりをするわけにも行かず、ついていく。

 渡り廊下に来たときだった。いきなり、三番の俺が倒れた。

「おい! 大丈夫か」

「これを見て大丈夫と思うのか?」

 俺が助けてやったのに礼すら言わない。二番の俺は腕組みをしたまま黙ってみている。

「手伝ってやらないのか?」

「これはこんなふうになるつもりはない。絶対にな」

「いったい何の話だ?」

「ほっとけ、こいつはまだ解ってないんだ」

 三番の俺が手を振り払って前に進んでいく。同じ俺たちなのに犬猿の仲とは。

 やがて、普段は施錠されているはずの屋上へ向かって階段を上った。先頭の三回目の俺がよろめきつつ屋上に通じるドアを開けると、薄く積もった雪と、月明かりに照らされた一人の男のシルエットが浮かんだ。

 振り向いたのは制服姿の古泉だった。

「お待ちしていました。まさに壮観ですね。こんな形でタイムトラベルを実証していただけるとは」

「ごたくはどうでもいい。もう聞き飽きた」と三回目が言った。

「僕的には初めてで、これが最後のつもりなんですがね」

 古泉は軽く笑った。いつもの偽善的仮面笑いはどこへやら、これは心からの笑いだろう。

 では、と言って古泉はしばらく視線を彷徨わせた。

 一番新しい俺をさがしているらしい。二回目が俺の肩に手を乗せた。

「こいつが最初の俺だ」

 古泉は俺の方を見ながら話し始めた。

「キョンの皆さんが時間移動したのは、朝比奈さんの依頼ですが、我々『機関』は未来人に対するある協力と引き替えに、情報提供をいただきました。これにより、かねてからの懸案事項を解決するべく今回の計画が発動し……」

「前置きが長い。長すぎるぞ。俺はもう三回目なんだ。早くしろ」

「わかりました。皆さん手をつないでください」

 月明かりの下、学校のてっぺんで三人の俺とフォークダンスでもやるのか。まさに奇々怪々な眺めだろうよ。

「目をつぶってください」

 俺が古泉と二番目の俺の手をにぎった瞬間……まさか。この全身を走査されるような感覚は……




 微かに燐光をおびた灰色の空がどこまでも広がっている。月は消え、遠く見えていた街灯りは海のような暗黒に沈んでいた。

「閉鎖空間へようこそ。涼宮さんに選ばれた人間なら、僕と身体的接触があれば連れてこられます。それも僕の能力の一つ。お忘れですか?」

 いらいらした様子の俺以外の俺達を尻目に、古泉はさわやかに語り始めた。

「我々『機関』の能力を持ってしても閉鎖空間の出現を完全に予測することは不可能ですが、未来から情報があれば、あらかじめ準備できます。現在、この学校から少し離れた場所を中心に半径五キロが閉鎖空間になっています。皆さんはこの空間内で四十分ほど、わが『機関』に協力していただきます」

「三回目のあなたは」と一番疲れた俺を見ながら古泉は言った。

「僕と同行してもらいます。残りのかたは、おわかりですね? 機関員が待機していますので、そちらへ」

 まるでツアコンのように行き先を指示する古泉に訊きたいことは多々ある。

 しかし、こいつは単に俺たちを一つの集団として対応することはあっても俺個人としては相手にしないんじゃないかという気もする。従うほかはない。



 今度は二回目の俺を先頭に俺は移動をはじめた。階段を下りながら話す二回目の声がこだまして自分の声とは思えない。

「これからのことを説明する。説明は一度だけしかしないからな」

 ずいぶん投げやりというか、ちょっとばかり未来の人間だからって先輩風ふかすなよな。

「先輩風ふかすなこの野郎、とか思ってるよな。一回目」

 そうだった。こいつは俺なんだった。

「忘れるな、お前はまだ何も知らないんだ。だから俺の言うことを聞け。そうすりゃお前も俺の回になってちゃんとこうやって言い返すことが出来る」

「そうならない可能性もあるのか」

「お前が最初に戻ったとき、朝比奈さんが詳しい事情を教えてくれる。こうなったからと言って彼女を責めるんじゃないぞ」

 もちろんそんなことはするつもりはない。だがしっかりした理由を聞くまでは次のジャンプは遠慮するかもな。

「誰にも話すなって言われたろ」

「自分ならいいんじゃないか」

「互いに情報を持たないことが重要らしい。その辺はわかってあげろよ」

「朝比奈さんとの約束は守るさ」

「それでいい。お前はこれから正門にいけ。『機関』の連中がそこに待機している」

「お前はどうするんだ」

「俺はこれから体育館に行く」

 さっき古泉は体育館なんて言わなかったぞ。

「俺が初回のとき、二回目がそう言ってたんだから間違いない。忘れるなよ」



 正面玄関から正門にくだる坂は、積もった雪が昼間のうちに融け、夜に再凍結という最悪の路面状態で俺は二度ほど尻から着地した。転倒だって打ち所が悪ければ大事に至る。でも朝比奈さんの言っていた命の危険は、こんなもんじゃないような気がする。

 正門に出ると外国映画に出てくるような大型トレーラーが道をいっぱいに占有している。たしかこの道路は大型車両進入禁止じゃなかったっけ。

 よくわからないまま、俺はトレーラーの後部に置いてあるアルミ製の階段に登り、架台の扉を開けた。

 一歩足を踏み入れると、伸びた手が俺を引っ張り上げてくれた。

 見上げると、多丸裕さんだ。昨年の夏、孤島ミステリー事件以来、古泉の属する『機関』の人員として俺たちとはかかわりがあった。

「久しぶりだね。キョン君」

 柔和な笑みは以前とかわらない。なぜここに、という質問は聞くだけ野暮だ。

 以前会ったときはバイオ関係で一山当てた大富豪の弟役だったり、警官姿を目撃したこともある。ほんとうは機関員で、それなりの重要人物なのかもしれない。

「余り時間がない。中に入って」

 少し傾斜のついたトレーラーの中は、見たこともない機械がところ狭しと並んでおり、多丸さんと同じ白衣を着た女性が一人、ディスプレイを見つめている。一番奥には検査台がある。

 俺の問いたげな表情を察したのか、裕さんはあっさり言った。

「これから君に超能力があるかどうか調べる」

「俺に超能力なんかないことは『機関』が一番よく知っているでしょう」

「通常空間で調べられることは調べ尽くした、という意味ならその通り。でも閉鎖空間内ならどうだろう? 我々のほとんどはここでしか能力を発揮できない。そして今まで誰も君をこの空間内で調べたことはない。だろ?」

 声は優しいが、なんか事務的だ。なれた調子で得体の知れない機械のパネルを操作している。去年病院で見たCTをずっと小型にしたような機械だ。ドーナツ型のリングがトレーラーの奥に見えた。

 俺は促されるまま検査台に横たわった。

「君はこれまでは古泉の手引きでこの空間に入ったけど、実は自覚していないだけで本当は自力で侵入できるんじゃないかな。そして閉鎖空間限定で実は隠された能力があるのではないか、と『機関』の上層部は疑っていたんだ」

今度は淡々と、横たわった俺の手足を固定している。そのあいだかすかな笑みはずっとたやさない。なんとなく古泉に雰囲気が似ている。

「なぜかというと、君も涼宮さんに選ばれたはずだからさ。だからまったくの普通人であるとは考えられない」

 裕さんは慣れた手つきで俺の右腕に圧迫帯をつけ、消毒した後、サクッと何かを注射した。痛みはない。病院で受けるより上手なくらいだ。看護師の資格でもあるのだろうか。

「実は未来人、と称する連中には『機関』もいろいろと貸しがあってね。詳細な検査は同一条件のもとで行う必要がある。つまり同じ閉鎖空間、同じ人物、同じ環境で多数の検査をしなければならない。それでこんな機会をずっと待っていたのさ」

「いま注射したのは放射性同位体だ。君の脳の活動を調べるために必要なものだ。それからこれは、CTとかPETのようなもの。解像度は現行の一千倍もあるし、重さは百分の一以下」

「どう考えても数十年先の技術みたいですが」

 ちらりと長門の顔が頭に浮かんだ。朝比奈さんかもしれない。大人のほうだが。

「ま、そんなところかな」

 突然、トレーラーの外から大音響が響いた。雷鳴なんかではない。ここにはおよそ気候というものがないはずだ。だから……。

「多丸さん?」

「気にしない。あれが始まったみたいだね。僕はこれから君をモニターしないといけないから、担当が変わる。検査中は彼女の質問に答えてくれないか」

 横になった俺の右隣にさっきの女性が座った。年齢はよくわからない。見た目は若いのだが、髪は白髪交じりで、なんか疲れたような目をしている。肌は、生まれてこのかた日の光に触れたことがないような白さだ。ギリシャ彫刻のような整った鼻梁と形の良い額がぞくっとするような知性を感じさせる。日本人なんだろうか。

「これは一体何の検査なんですか」

「少しばかり、あなたの心を覗かせてもらうわ。その間にいくつか質問に答えてね」

「質問なんかせずに、さっさと調べてもらっていいですよ」

「私の能力では、心があまり活動していない状態では踏み込めないの。だから、いくつか質問をして、あなたの心が開くきっかけを作る」

 ……超能力者なのか。燐光を放つ空を舞う以外の超能力者は初めてだ。すると『機関』にはまだまだいろんな能力者がいる、のだろうか。

 横たわった台がスライドして、俺の妄想は断ち切られた。上半身が円筒の中に入っていく。もう検査は始まっているようだ。病院でCT検査を受けたときはものすごい稼働音がしたのに、ここでは微かなホワイトノイズしかない。

「質問には、あなたはイエス、とだけ答えること、いいわね」

「はい」

「では、最初の質問。自分は、涼宮ハルヒのことが好きである」

 くそ、最初から、なんて質問だ。

「イ、イエス」

「以前、閉鎖空間内に二人でそのままずっと残っていたいと思った」

 んなわけあるか。

「イエス」

「まだ古泉に話していない秘密がたくさんある」

 大抵のことは話している。よってノーだが。

「イエス」

「自分には超能力があると思う」

 これも断固としてノーだ。

「イエス」

「自分は朝比奈みくるに操られている」

 たぶんノーだ。いや、そうかも知れない。

「イエス……だ」

 さらに続けてアホみたいな質問が延々と続いて、ドーナツ型のスキャナーは俺の頭から去った。

「結構よ。なかなかユニークね」

 いったいなにが特異なんだ? 結果は教えてもらえないんですか。

 女性は腕時計をちらりと見た。

「いいわ。私はあなたを調べて報告しろと言われたけど、結果を教えるなとは言われなかったから」

「一言で言うと、あなたは正しい方に間違う、という妙な才能があるみたいね。常識と非常識の間での選択が、結果的に正しくなるという」

「どうして今の質問でそこまでわかるんです」

「質問は単なる鍵でしかない。人は何かを必死になって考えていると、他の部分がお留守になるものなの。それで心に入りやすくなる。いつか、涼宮ハルヒも閉鎖空間内で調べてみたいものだわ」

 たぶん、頭の中を引っかき回されていたんだろうが、なぜか不快感はない。むしろこの人に調べてもらっていたあいだ、ずっと暖かい感じがした。

 おそらく相手に不快感を与えるようでは、心の中に入っていけないのかも知れない。

モニターから離れてきた裕さんが言った。

「最初の検査はこれでおわり。お疲れさん」

「いっぺんに全部済ませるわけにはいかないんですか」

 手足のモニター機器を外しながら、裕さんは言った。

「閉鎖空間の長期化は危険だ。今回に限って神人をすぐに倒さずに空間を維持している。しかし、三、四十分が精一杯だ。この短い期間を最大限利用するには君に繰り返し時間旅行をしてもらうしかない」

扉の所で振り返るとさっきの女の人がこちらを見ているのに気がついた。この人とはまたどっかで会うような気がする。

 トレーラーの架台を降りて校庭の方をみると、あの青い巨人が二体、ちょうどグラウンドに侵入したところだった。敷地境界にある柵をあっという間に踏みにじっている。巨人の頭上に紅い光点群が旋回しはじめた。

 多丸さんはこの異常な光景を平然と眺めている。

 実はこれが初めての実験じゃないんじゃないか。そうすると俺のような超能力者候補が他にもいる、のだろうか。

「そろそろ神人を始末しないといけない。戻った方がいいね。朝比奈さんとの約束があるんじゃないのかい」

「どうもありがとうございました」

 感謝がこの場合適切かどうかは解らないが、ともかく俺は正面玄関に向けて急いだ。遅れるわけにはいかない。遅れたら罰金、どころではない。

三人の俺がこの時点に取り残されたら収拾不能だ。親も息子がいきなり二人増えたら困るだろう。長門方式で……いや、あの方法は今回は使えないんじゃないか?

 背後から強烈な赤色光がさしたかと思うと、俺の頭上を赤い閃光とともに球体が神人めがけて飛んでいく。俺は思わず前のめりにこけ、冷たい路面に叩きつけられる。振り返ると裕さんはいない。

 依然として神人の周囲には赤い光点が激しく動いている。この間は気がつかなかったが、それぞれの赤い色が微妙に違う。

 たった今、飛翔したばかりの光球が巨人に接近したのを機に、残りの光球も次々と巨人に突入していく。

 正面玄関の少し手前で、上空の色調がさっと変わった。天空に走る聞こえない亀裂音を確かに感じつつ、俺は玄関に着いた。

月明かりの下、心配そうな朝比奈さんが正面玄関の門柱の背後から姿をあらわしたところだった。いつからここで待っていたんだろう。




 酷いめまいと頭痛が仲良くセットで大活躍しているところをみると時間旅行をしたことはわかるが、本当に出発時刻に戻ってきたんだろうか。いま何時ですか?

「三時十分です」と朝比奈さんは時計も見ずに言った。

 部室には誰もおらず、机の上にはさっき見たのと同じ青いセーターが何枚か重ねてある。

「キョン君、本当にありがとう。無理なお願いしちゃって。あのなんともない? 大丈夫?」

 いいえ、かまいませんとも。始まった以上、全力を尽くします。とはいえ、まだ俺の三半規管が軽快にタップダンスをやっていて、歩くのもままならない。朝比奈さんに肩を借りてようやく椅子に座った。

「朝比奈さん。説明してもらえませんか」

 何が何だか解らないまま、次の跳躍をするのは無理だ。ある程度わかった上でなら、全力も尽くせるというものだ。

 朝比奈さんは俺の前に準備していたかのようにお茶碗を置いた。いやこれは出発前に飲んだお茶の二杯目か?

「……私にも詳しい指示はなかったの。この任務が危険なことと、目標の時空間座標と跳躍のタイミングだけ」

「むこうに俺がもう二人いる、ということはわかってますよね」

「ええ、ほぼ同じ時間をめがけて何度も跳躍するんですもの」

「詳しく話してもらえませんか」

「時間がないので、簡単に話します。いつだったか長門さんが言ったの覚えてる? TPDDにはノイズが生じるって」

「覚えています」

 さっきも本人から聞いたばかりだし。

「TPDDはもともと遠距離用なの。だから、同じ日に何度も使用するなんて、隣の家に宇宙ロケットで行こうとするようなもの。強大なノイズが時空間に発生し、いろんな所で障害が出るわ。だから、」

 突然、朝比奈さんは口パクになって話せない。

「……ごめんなさい。この部分は禁則ね。ただ、これからのことは現時間内の人間の協力が必要なの。そこで古泉君にも助けてもらうことにしたわ。すると条件付きで協力してもらうことになったの」

「つまり、あの検査ですね」

「ええ」

「『機関』は何を協力するんですか」

「それはまだ教えられません。でもあなたと涼宮さんを巡るそれぞれの思惑が一致した、とだけ言っておきます。いまはこれが精一杯。ごめんなさい」

 メイド服姿の朝比奈さんは頭を下げた。朝比奈さんに謝ってもらうと、こちらが何か悪いことをしたような気がしてくるのは何故だろうか。実際に被害に遭っているのは俺なのに。もちろん許すけど。当然だろ。

「今の話だと行き先の時間はほぼ同じだから、現時点にとどまるほど、跳躍間隔が短くなって、もっと酷い状態になるんですね」

「だから、この時間に長くいるのはとても危険なことなの」

 また朝比奈さんは時計も見ずに言った。

「待機時間がまもなく終わります。出発の前にこのセーターを来てください」

 そう言ってローマ数字で二と刺繍されているセーターを取り出した。

 まだすっと立てない。おまけに周辺視野が狭くなっているような……。一往復でこんなに影響が出るなら、この先どうなるんだろ。

 全体的に動作も鈍く、一回目のセーターもなかなか脱げない。

「あの、こんどはワイシャツを脱いでからセーターを着たら? わたし、部屋から出てますから」

「いや、向こうはかなり寒いんで」

 寒さじゃなくて、神経から来る震えなのでは、と言う考えがちらりと浮かんで、不安のツボをみずから押したような気がする。考えない。今は考えてはダメだ。やる気がそがれる。

 なんとか一回目のセーターを脱いで、二回目のセーターに取りかかった俺に朝比奈さんが手を貸してくれた。

 うつむいたまま、「えいっ」と小声でセーターの裾をひっぱる姿が愛らしい。なんかしばらくこのままの向かい合っていたい気がしたそのとき、朝比奈さんの動きがフリーズした。

 振り向くと、入り口にハルヒが立っていた。いつもはドアをぶち破るように入ってくるんじゃなかったのか。後ろには古泉を従えている。ついで入ってきた長門は、その宇宙色の瞳を珍しく朝比奈さんに向けているようだ。

 セーターを引っ張る朝比奈さんの両手は俺の腰のあたりで、俺はセーターを通した右手を朝比奈さんの肩に乗せている。後ろから見たら、ちょっと誤解を招かないとも限らない、というか、誤解するなといってもむりだなこりゃ。

 ハルヒはその場で、しばらく俺たちの様子を見ていた。この冷ややかな空間で、そのまぶしい日差しのような微笑みはなんだ。

「あ、あの、これはあたしがキョン君にちょっと試着してもらおうって……」

「お黙り。キョン、これはなんの真似?」

「いや、べつに俺から頼んだ訳じゃない。試着してるだけだ。それくらいはいいだろ」

 自分の声が先細りになっているのがわかる。説得力ゼロだ。

 ハルヒはごく軽い感じで俺の目を見つめている。俺のまつげの本数でもかぞえている、といった様子である。

「あたしね、以前にも言ったけど、アホなラブレターを書いて団員に送ったりとか、着替えごっことか、そういった小児病的痴態はここでさらしてほしくないの。ここ以外でも団員同士では」

 そう言いながらもじりじりと俺との距離を詰めてくる。

 ハルヒが軸足に力を入れ、猛禽のごとく俺につかみかかろうとするその瞬間、

「なにやってんだ、ハルヒ」

「えっ」

 開け放たれたドアから俺と朝比奈さんが入ってきた。セーターの文字は二番目だ。そんな馬鹿な。

 しかも目は腫れあがり、唇は切れ、鼻血までたれている。古泉は硬直した笑みを浮かべたまま、俺と俺を交互に見つめた。

 ハルヒがふたたびこちらを向こうとする姿が、柔らかい手で隠されたところまでは覚えている。




 俺は渡り廊下の支柱によりかかっていた。背中が痛い。しかもまだ左腕はセーターの袖を通していない。朝比奈さんもこんな状態の俺を置いていくなんて。

 一回目のやつが現れる前に部室に着いていたほうがいいんだろう。だが前回よりさらに身体が重く、階段を上る脚が自由に上げられない。靴先に鉛でも入っているかのようだ。

 おまけに、さっきの俺のケガの様子が目の前にちらつく。これからあんな目に遭うんだろうか。なんとしてでも回避してやる。絶対にだ。

「あっ! 痛ってえ!」

 部室のドアを開けたが、なぜかぬれた床ですべってそのまま倒れこんだ。転倒するのはこれで何回目だ?

 本棚側に座っていた三回目の俺が湯飲みを持ったまま深刻な顔をしている。

「二回目でこんなに影響が出てたんだな。俺は意識してなかったが」

 何の話だ、一体。

 そいつのセーターには三とある。つまりここに来る前は二で、ハルヒを振り向かせた俺だ。

「お前さっき、戻る場所を間違えなかったか」

「あのままハルヒにとっつかまって、お前が出発出来ない可能性があったからだ。おまえが今回戻るときは、一回目を助けにいかないとな」

 何故かニヤリと笑っている。不快な俺だ。

 おかしい。あらかじめハルヒが来ることを朝比奈さんはわからなかったんだろうか。

 何とか這い上がって椅子に座った。こいつは手を貸そうともしない。自分が助けてもらわなかったから自分もそうしないって理屈なんだろうが。俺は違う。こんどは絶対、俺を助けてやる。

「初回の俺が来るまですこし間がありそうだからお茶でもくれ」

 三回目の俺が飲みかけのお茶を差し出した。

「俺なんだから気にするな」

 確かに俺の茶碗で俺が口をつけたんだから無問題なんだが、なぜか不快だ。たとえ数十分未来の俺であっても未来の俺はすでに俺じゃない、という以前の俺の言葉を実感した。

 若干の抵抗を感じつつも、ありがたくぬるいお茶を飲んでいると、ひやりとした手が俺の額に添えられた。相変わらず何の気配も感じさせない長門が俺を見つめている。痛みとめまいがやわらいでいく。

「応急処置。ノイズが神経系に与える累積的欠損をすべて是正するには時間がない」

 そういって淡々と説明すると自席に戻った。

 時間のないことは解るが、もう一押し訊いてみる。

「一体ノイズのエラーっていったい何なんだ」

「TPDDは、一時的に時間平面を砕破し、プランクスケールの時間間隙を連続的に跳躍し、目標時間内で時間平面を再構成して停止する。しかし、現行のTPDDでは再構成が不完全。微細な再構成エラーの蓄積が有機生命体の知覚に悪影響を与える」

 まったくにわからん。

「つまり繰り返すほどに体が壊れていくるわけだ」と三回目が言った。

「そう」

 だとすると、何十回も跳躍している朝比奈さんには何の支障もないのだろうか。

「朝比奈みくるは、TPDDと不可分の存在であり、彼女は影響を受けない。あなたはその外部因子。だから、当該時間における干渉者であるあなただけに顕著な障害が生じる」

「つまりこういうことか。朝比奈さんがボートの漕ぎ手で俺たちはオールのようなもんだと。実際に時間の水面を引っかき回しているのは俺たちで、朝比奈さん自身には悪影響はない」

「違わない」

 背後でガチャリとドアが開いた。

 戸口で、一回目の俺が驚いている。我ながら間抜け面だ。

 三番目の俺に話を振られた俺が、解ってる範囲でだいたいの説明をしてやってから、三人で部室を出た。長門が部室に残るのは、俺たちを定期的にここでケアするためらしい。

 屋上階段へ向かう途中、三番目がこけたが、なんとなく支えてやる気にもならない。この先どうあろうと俺はこんな痴態をさらすつもりはない。

 屋上での古泉の説明は、普通の会話でも冗長かつ曖昧なのに、二回目だ。飽きる。三回目がまた文句を言い、俺たちはお手々をつないで閉鎖空間にダンスした。

 燐光を放つ薄明かりの中でそれぞれの目的地に向かう。

 三回目の奴を古泉とともに屋上に残し、階段を降りた。途中で初回の俺が不埒なことを考えてるようだったので小言を言ってやり、俺はさっきの俺に言われたとおり、体育館に向かった。



 体育館の重い扉を開けると、中は薄暗い。ステージ上の二灯しか、ライトが付いていない。

 入り口側には正体不明の観測機械が移動式台座に乗っかっていて、モニターをのぞき込んでいる研究者風の男が二人いた。さっきの多丸裕さんと同じく白衣を着ている。

 広い体育館の真ん中には、柔道部の畳が敷いてあり、その四隅にアンテナみたいなものが立ててあった。

 アンテナのそばに立っていた女性が振り向いた。小柄で、実年齢がさっぱりよく解らない女性……森園生さんだった。着衣はどう見ても格闘着のようで、即座にこれからろくでもないことになりそうなのがわかった。

「お久しぶりです、キョン君」

 以前とはちがって張りのある声で言った。これが素の声なんだろうか。いかにも切れ者という感じがする。ま、怒らせると怖いところは確かなんだが。

 あの孤島の別荘での可憐な面影はない。あれも演技だったんだろうか。

「大体のことは多丸から聞いたと思いますが、ここでは身体的な能力変化があるかどうか調べます。そのためにちょっとした運動をします。いそいでこれに着替えてね」

用意されているのは同じ格闘着とフォームラバーの防具だ。着替えると白衣の男がヘッドギアを持ってきた。うしろに携帯のアンテナみたいのものがある。これもなんかのモニター機械らしい。よく見ると防具にも所々薄暗がりで光るマーカーみたいなもんが付いている。

 控えていたもう一人の担当者がだまって俺にグローブを装着し始めた。それとマウスピース。

 俺と森さんは闘技場の中央で互いに一礼した。別に何の武道の心得もあるわけもないが、つい雰囲気にのまれて礼をしたのだ。

「キョン君、私に勝とう思わなくていいわ。私に触れるだけでも合格よ。ただし、畳の外に出てはダメ。正確にモニターできなくなるから。さっ、かかってきなさい」

 そうは言っても、相手は俺より小柄な女性だ。経験的には森さんがひ弱でも何でもないことは解っているが、ギャップが埋まらない。男の俺がか弱い女性に襲いかかる、というイメージが払拭されなくてなんか動きづらい。

 森さんは待つのに飽きたのか俺に飛びかかってきた。

 俺は運動能力はもとよりない。相手は華奢な女性であるとはいえ、何かの訓練を受けているようだ。で、さわれるかって?

 近づくことすらできやしない。

 森さんの拳は早い。が、拳の引きはもっと早い。防具に当たった瞬間引いている。これは相当上級者だ、くらいのことは俺にも解る。

「私を涼宮さんだと思ってうっぷんをはらしてもいいのよ」

 この野郎!

 脳からの命令が身体に伝わるより早く、俺の無想の拳が森さんの顔面に当たる瞬間、ひらりとよけた森さんの突きが俺の鳩尾に入った。

「今のはよかったわよ」

 全然よくない……です。

 森さんは膝を突いたまま動けない俺の腕をとって立たせてくれた。

 俺だっていつものんびりムードって訳じゃないぜ。今の一撃で頭の中で何か解錠され、ふっきれたような気がする。ここは戦っていいのだ。

 俺はやぶれかぶれで足を旋回させ、回し蹴りを……

 突如出現した赤い閃光とともに、俺の脚の回転半径内から森さんが消えた。あり得ない高さに跳躍しているのが見えた。赤い球体となった森さんが急直下で……。


 気がつくと森さんが俺のほおを軽く叩いている。

「ちょっときつかったかしら? さっきの蹴りもなかなかいいですよ。閉鎖空間の外だったらあたっていたかも」

 今ので精一杯です、という言い訳は通用しないんだろうな。

「あんまり痛いようでしたら、長門さんに処置をお願いしてください」

 とは無責任な。大体なんで長門がここにいることを知ってるんだ?

 体育館の外から一瞬青い光がさし、轟音が響いてきた。森さんは振り向きもしないで言った。

「まだ十五分はあります」

 十五分位の運動が軽いとか言うヤツがいたら、狭い畳の上を十五分全力疾走してみろってんだ。しかも容赦なくぶん殴られながらだ。森さん、あなたすこし楽しんでません?

 時間ぎりぎりまで殴り倒しておいて、

「残念ですが、時間です。キョン君、急がないと約束の時間に遅れますよ」

 とはあんまりだろう。

 汗でシャツもぐしょ濡れ状態だがかまわず、窮屈なセーターに着替えた。森さんの視線が何だってんだ。

 ヘッドギアを研究員が外して持って行く。

「こんなんでなんか解ることでもあるんですか。俺にはさっぱりわかりませんよ!」

「検査の結果が出てみないとなんとも言えません。もしかすると、キョン君の能力はぎりぎりのピンチにならないと発現しないのかも知れません。今度はもっと負荷を上げてみましょう」

 というとんでもない森さんの発言を聞き流し、俺は机にあった発泡ミネラルウォーターの瓶を一本もらって、外に向かった。後ろから声がかかる。振り返ると笑みをたたえた森さんだった。

「こんどは通常空間でレッスンして差し上げます」

 もう充分ですって。



 体育館からでると、ちょうど天空に亀裂が走って閉鎖空間が崩壊していくところだった。とにかく正面玄関に行かねば。朝比奈さんが待っているはずだ。

 まてよ。一回目も朝比奈さんは正面玄関で待っていた。それとも俺を置いてから元の時間に戻らずに、待ち合わせ時刻にさらにジャンプしているということだろうか。頭がこんがらがってきた。いまは正常にものが考えられない。なにかおかしい感じがつきまとうのだが。

 俺がやっとの思いでたどりつくと、朝比奈さんはちょうど玄関から出てきたところだった。紙袋を持って立っている。中には次のセーターが入っているらしい。

 俺に気づいた朝比奈さんが駆け寄ってくる。

「キョン君、大丈夫?」

 大丈夫じゃありません。この状態でわかりませんか。森さんの最後の膝蹴りで頭がガンガンする。朝比奈さんは俺がどんなに過酷な「検査」をされているのか知らないらしい。

 俺は玄関のステップに座り込んだ。朝比奈さんは何も言わず、俺のすぐ横にぴたりと並んで座った。

 ちょっと休ませてもらえませんか。

 水を飲んでおいた方がいいかもしれない。ノイズとやらで脳に血栓が飛んで、長門でも手遅れ、みたいなことだけは絶対に嫌だ。

 無味の炭酸水が喉を下っていく。こんな寒空の下でもまだ汗は引かない。

「これから、どこに戻るんでしたっけ」

「えっと、あたし達を涼宮さんの目からそらすために、三時二十分に行きます」

 だんだんややこしくなってきたな。ただ単に理解力が低下しているだけかもしれないが。

「そろそろ行きますか」

 俺は飲み干した瓶を玄関の階段に置くと、朝比奈さんはコクりとうなずいて身を近づけた。そのままの姿勢で俺の背後に手をまわし、抱きしめるように俺の目をふさぐ。彼女のふわっとした体温が俺を包んでいく。




 動けない。物理的に足の感覚が希薄だ。法事で二時間ばかり正座して、動けなくなったあの感じに近い。

 場所はどうやら階段の踊り場らしい。一つ上がると部室のフロアだ。

 鼻からなんか生暖かいものが流れている。これは森さんに殴られたからじゃないことは確実だ。時間平面を破るついでに副鼻腔のどっかが切れたんじゃないか。

「キョン君!」

 泣きそうな声で朝比奈さんが言った。

 すみませんが肩を貸してください、と言うより早く、朝比奈さんが俺の腕を取った。肩をかしてくれた朝比奈さんもよろよろしている。

 またしてもしばらくこの態勢でいたい、と言う気がしたが事態はそれを許さない。いま部室内では俺の生命が猛禽ハルヒよって危機に瀕しているのだ。

 俺と朝比奈さんはどうにか部室の外に立った。窓際で着替え中の俺に、今にも飛びかからんとするハルヒの後ろ姿が見える。

「なにやってんだハルヒ」

「えっ」

 一瞬振り向いたハルヒはふたたび窓側を向いたがすでに俺と朝比奈さんはいない。窓の外はわずかな雪片が舞っているだけだ。

「今確かにあんたとみくるちゃんが……あんたその顔」

 あ、まだ言い訳を考えていなかった。

 森さんに殴られたとは言えない。くそ、いつも考える余裕なく回答を迫られるのはなんとかならんか。

「えっとその……、また階段から転げ落ちた」

 出てきた答えがこれかよ。実際、主観的にはもう何回も転倒しているわけだが。

 ハルヒが瞬間移動して俺のセーターをひっつかんだ。確かに瞬間移動だ。キョンと叫ぶその声はドップラー効果で圧縮されていた。間違いない。

「また? あんた馬鹿じゃないの。去年大ケガしたこと忘れたの?」

 するとナニか、怪我した人間の首を思いっきり締めあげると怪我が快癒するとでも思ってんのか?

「保健室に行きなさい。いや、あたしが連れて行くわ。もしなんかあったらどうするつもり?」

「古泉、今何時だ?」

「三時二十三分ですが」

 保健室に行っている時間はたぶん、ない。

「保健室はもう閉まっているんじゃないのか」

「あけてもらうわ。中に湿布と消毒薬くらいはあるでしょ。これから大事なクリスマス準備をするのに、あんたが入院したら大迷惑だわ」

 準備なんか聞いてないが。そのつもりもないぞ。

「いいから来なさいよ!」

 引きずられるように保健室に向かう俺のあとを、紙袋を持った朝比奈さんがすまなそうについてくる。

 古泉は、俺より朝比奈さんに話しかけたくてうずうずしているようだが、俺の視線に押されたのか、部室の入り口を出たところで長門と一緒に俺たちを見送った。古泉の後ろにいた長門は何を思ったか部室にすっと姿を消した。

 今の時点でこいつらがどこまで知っているのか解らないが、事態をこれ以上複雑化したくない。



 保健室は開いていたが、誰もいない。当然、医薬品棚は施錠されている。

「あたし、職員室に行って鍵をもらってくるわ。まってなさいよ」

 ハルヒは高校生短距離走日本新(女子)みたいなダッシュで、保健室から消え去った。

 丸いすに座り込んだ俺のツラは打撲痕と擦過傷による出血でたぶんすごいことになっているにちがいない。ウェットティッシュのパックを開きながら、朝比奈さんは言った。

「こんなことになって……。本当にごめんなさい。でもあと一回だけがんばって欲しいの」

 俺は朝比奈さんが紙袋から取り出したセーターになんとか着替えた。

「これからが、私の本当のお願いです。最後の古泉君の要望がおわったら、こんどは部室に行ってください」

「それで本当に終わりなんですね」

「私は、それからもう一度キョン君を迎えにいくほかはなにも聞かされてないの。それとあと一つだけやらなきゃならないことがあるわ」

「なにをするんです?」

 その質問の答えは、俺の背に体を寄せる朝比奈さんの重みだけだった。その瞬間、保健室のドアがガラリと開いた。


「あんた達ここでも仲良しね」

 今の俺は戦闘能力ほぼゼロで二人のあいだに割ってはいる気力はない。

「みくるちゃん先に部室に戻ってなさい」

「ええと、でも」

「戻りなさい。これからあたしは団長としてキョンに話すことがあるの」

 ハルヒの声は、極地を吹き荒れるブリザードのように冷酷だ。事態を正直に説明することは論外だ。いったい、どんな言い訳をすればいいのか。

 そのとき、意外なことが起こった。

「涼宮さん、あんまりじゃないですか」

「えっ」

「私ならともかく、どうしてキョン君をそんなにいじめるの? こんなにひどい怪我なのに。なおってからでもいいじゃないですか!」

 俺とハルヒの間に立って朝比奈さんが抗議している。それもかなり強い口調でだ。

「みくるちゃん、キョンをかばい立てするの?」

「あたしは怪我が治ってから話しましょうって言っただけです」

 ハルヒは、無表情に俺と朝比奈さんを交互に見つめた。

「そう……。それならそうしましょ。キョン、消毒してあげるからこっち向きなさい。落ち着いてからあんたに時間をかけてみっちりと説明してもらうからね。とにかくキズを見せなさいよ。血だらけよ、あんたの顔」

 キズなんかないって、と言いかけて、もっと頭の奥深いところにあるんじゃないかとか考え始めた自分が怖い。

 ハルヒは脱脂綿を俺の鼻に容赦なく押し込み、傷口に消毒薬を遠慮なく吹き付け、絆創膏を右ほおの擦り傷にほおにぴしゃりと貼り付けた。

 猛烈に痛い。このキズは確か森さんにやられたときのだ。

「本当になんともないのね。鼻血だけなの? まさか内出血とか。めまいはない? 気分が悪いなら救急車を呼ぶわ。去年の後遺症が出たのかも知れないし……」

 朝比奈さんの顔色が変わった。俺も焦る。予定滞在時間なんかもうとっくにすぎている。後遺症の件も気になる。

「ところでキョン。さっきあんた着てたセーターと違わない? 番号が」

 思わず朝比奈さんと目を合わせたのは失敗だった。

「ふーん。そうなの。あんたは血が止まるまでここにいなさいよ。みくるちゃんもここにいたいなら好きなだけいるといい。なんなら着せ替えごっこの続きでもやるといいわ。あたしは、部室に戻ってるから。調子が良くなったら来なさい。まってるからね」

 そういってイラついた足取りで部屋を出ていった。

 朝比奈さんはくたりと床に座り込んだ。そして泣いている。

 任務と自分の優しさが心のなかでせめぎ合っているのが俺にも解った。そっとその手を握りしめてあげた。さっき一瞬見せた強い表情は、やがて優秀な上司となる大人の朝比奈さんの片鱗にちがいない。

 朝比奈さんはこぼれる涙を拭こうともせず、

「今のが原因で、涼宮さんは強力な閉鎖空間を出現させるわ」

 あれはわざとなんですか?

 朝比奈さんは答えないまま、涙に濡れた頬をそっと寄せて、その小さな手を俺の目に当てた。




 俺は部室の床に四つんばいになっていた。

 俺の中では頭痛、めまい、アンド震えの三馬鹿トリオが仲良くファルセットで叫んでいる。

 床にたーっと流れ落ちる鼻血が鮮やかに床を染めていく。立ち上がれないどころか、震えが止まらない。だんだん酷くなっている。次の時間跳躍でロクヨンくらいの割合で死ぬんじゃないか。

 原因は向こうにいた時間が長すぎたからにちがいない。別の意味で俺はハルヒに殺されかけてる。どんどん血だまりが広がっていく。立ち上がろうとして横転した。

「動いてはいけない」

 一瞬途切れた意識が元にもどると俺は膝枕で、視線は見下ろす長門の瞳と交錯していた。俺の長門表情解釈機構は少しばかりそこに同情を見いだしたような気がする。

 長門は俺の頭を静かに支えている。そうしていると不思議に耳鳴りが消えていく。

「障害の累積により、あなたの生命は危機にさらされている」

 そういって長門は俺の腕を取って軽く噛んだ。

「あなたの細胞再生能力を一時的に強化した。しかし絶対ではない。過信してはいけない」

 もっと早くこの処置をしてもくれた方がよかったんじゃないのか。

「これほどの悪化は予想外」

 お前の予想外は最悪な方向に振れるみたいだな。

 辛うじて這いずるように椅子に座ったころ、二回目の俺がやってきて、入り口で派手にこけた。こうして俺は、未来の自分が垂れ流した鼻血で滑りこけるという人類史上初の快挙を成し遂げた。因果律を完全無視でやれやれだ。

 助けてやろうかと思ったが、なんか反抗的な目つきだったのでやめた。

 おまけに二回目がお茶をくれとかほざくので湯飲みを渡すと嫌そうな顔をしやがった。ついで一回目がやってきたが、こいつもアホ面で態度がでかい。これから起こることも知らないくせに。まあいい、屋上で古泉が待っている。めんどくさいので説明は二回目にやらせることにした。



 淡い燐光を放つ閉鎖空間内で、屋上に残るのは俺と古泉だけになった。

 一番目の奴はトレーラーへ、二番目は体育館へ、俺は川に洗濯にでも行けばいいのか?

「ずいぶんお疲れのようで」

「ああ、本当にお疲れだよ。時間旅行はともかく、この検査とやらは全部お前の発案か。だとするとちょっと許せないな」

「僕は閉鎖空間の発生が事前に判明した、と報告しただけで、計画を発動させたのは上層部です」

 笑顔を張り付けたまま、相変わらずしれっと他人ごとのように言いやがって。腹がたつが、いまはそれを表に出す気力もない。

 轟音とともに、校庭のずっと向こう側、いつもの通学路の坂下あたりで青い光柱が二つ上空に伸びて、一度に二体の巨人がゆっくりと現れた。

 僅かの間を置いて、待ち構えていたように青い巨人めがけて地上から赤い光点が次々と上昇していく。超能力者たちだ。

「さて、これからが今夜のメインイベントです。彼らは可能な限り、閉鎖空間を持続させるために神人を抑止しします。苦しい戦いですが、それだけの価値はあります。まだ他のあなた方を検査中なので、倒すわけにはいかない」

 赤い光球群は巨人の行く手を阻むかのように高速で旋回している。

「こんな機会はもう二度とないかも知れません」

 俺は一度でこりごりだ。

 この事態が始まって以降、俺はぶん殴られ、内蔵はたぶんぼろぼろで、血管系・神経系に深刻なダメージを受けているにちがいない。古泉だってそれはよくわかっているはずだ。

「なぜ、自分がこんな目に遭うのかと考えていますね」

「まあな」

 まるで巨人達を誘う蛍のように赤い光の球が舞っている。

 青い巨人たちも気がついたのか、ゆっくりその触手のような腕を振り回しはじめた。この距離だから、その先端速度は相当あるに違いない。だが赤い光点の群れはそれを上回るスピードと異常な鋭角ターンで回避している。

 古泉は平然と眺めながら言った。

「涼宮さんをめぐる僕たち『機関』と朝比奈さん、長門さんの立場は、当初から峻別されていました。互いに自分たちの信条について妥協はありえない。おそらくは涼宮さんの中で、宇宙人や超能力者といった役割が完全に決まっているからだと思います」

「それとこの状態がどう関係するんだ」

「当初、『機関』は、自分たち以外の二つの存在を疑ってきました。現在は長門さんをはじめとする端末の存在を疑う者はいない。だが未来人についてはあまりにも証拠が薄弱すぎる」

 じゃ、お前は毎日誰にお茶を入れてもらってたんだよ。それに……といいかけて俺は黙った。こいつはリアルで時間旅行をしたことはない。いつも俺の証言か、おそらくは背後で手を結んでいるかもしれない協力的な端末からの情報だけなのだ。疑っているのも無理はない。

「『機関』は、この問題について全力で検討してきました。結論から言うと、厳密な意味では朝比奈さんは現時点に存在しない」

 いまさらそれはないだろう。去年の超駄作映画の撮影中、お前は彼女を抱き上げたりしたろうが。そのとき重さがなかったとでもいうのか?

「あなたはこれまで相当な重傷を負っているはず。しかし彼女は全くの無傷。おかしいと思いませんか」

 長門から聞いた話だと、俺はあくまでも外部因子でしかない。だから俺だけに障害が発生する。そんな説明だった。

 俺は階段の踊り場で必死に支えてくれた朝比奈さんの献身を疑うことはできない。彼女自身も任務と自分の優しい心のはざまで苦しんでいるんだ。

「あなたに関しては、その説明で事足りるかも知れません。しかし、朝比奈さん自身については我々の考えは違います」

「朝比奈さんを疑うおまえを俺が信じると思うか」

「では、すこし遠回りして外堀から埋めていきましょうか」

 俺が少しばかり強めに言葉を返しても、全く動じない。それどころか全然余裕の笑みを浮かべている。少し間を置いて、足下の雪塊をかるく蹴って話し始めた。

「現在のわれわれでも3D技術をもっています。もちろん特別な投影装置を装着したり、背景処理が必要ですが」

「アホか。朝比奈さんが立体映像とでも言うのか。食事をしたり、泳いだり、弁当まで作ってくれる立体映像なわけあるか」

「いいえ、今の技術では不可能です。しかし、五十年後、百年後ならどうでしょうか。われわれの想像もできないような技術で投影され、周囲に影響を与えることができるとしたら?」

 俺だって彼女を背負って延々と東中学まで歩いたことだってあるんだぜ。重さまでどうやって“投影”できるんだ。

「ホログラフィック理論、というのをご存知ですか。」

「ホログラフなら知ってるぞ。それこそ立体映像だろ。レーザー光線を使うやつ」

「違います。ここでいうホログラフィックという言葉は単なるアナロジーに過ぎません。この最新の宇宙理論は大まかに言うと、この宇宙のすべては情報に還元できる。そして三次元というのは幻想で、二次元の究極の情報主体の影に過ぎない、ということです」

 さっぱりわからない。

「この理論では原子より遙かに下の極微レベルでは重力も含めたあらゆる量子は物理的存在としての形を失い、無形の情報に還元されます。つまり時間旅行とは、ある情報を任意の時点で三次元に投影したものにすぎないのではないでしょうか。物理的実体は時間移動していない。単に姿や質量さえ投影されているだけなのです。故に朝比奈さんはこの時空に直接干渉できない」

 古泉は言葉を切って俺に向き直った。

「しかし、干渉目的であなたと言う“実体”が時間移動するときは話が別です。当然、深刻な影響を受ける」

 古泉の言葉は俺の理解を超えている。ただ、今年の四月のあの事件で、朝比奈さんや未来人たちが現時点の俺たちを利用していることはうっすらと感じていた。

 校舎を揺るがす振動が足下に伝わり、俺は我に返った。

 深く考える余裕はない。旋回する赤い球体を振り切って、巨人が轟音と共に校舎に向かってくる。打ち下ろした触手が野球場のネットを粉砕し、破片が宙を舞っている。

 なぜこいつらはこの学校を壊したがるんだろう、とふと思った。いつもハルヒが夢の中で壊したがっている何か。それっていったいなんなんだ?

 古泉は腕時計をみた。

「そろそろ最終テストです」

「これからあいつと戦うのか。それなら前に一度みたぜ」

 古泉はちょっと不気味な笑みを見せた。

「あなたには、各種の潜在能力を確かめるために検査を受けてもらいました。でもたった一つ、僕に出来てあなたに出来るかどうか解らないことが残っています」

 まさか、おまえ……ひょっとしてアレか。

 逃げ場はなかった。動きのにぶい俺は、古泉に後ろから両脇をしっかり押さえられた。感じたくもない古泉の体温が背中に伝わる。

「我々が神人に突入できるようにあなたも突入できるかどうかを確認したかった」

耳元でささやく古泉の声は妙に明るい。

「やめろ。何の意味があるんだ!」

 すでに俺も古泉も赤い光に覆われている。それも以前見たのよりずっと輝きが強い。もう手遅れだ。

「離陸します。シートベルトをお閉めください!」と言うなり、急上昇した。

 ベタな冗談を言っている場合か。俺の同意ぐらいとれって。

 あっという間に校舎が小さくなった。これだけの勢いをつけているのに、よく支えていられるな、とちらっと思った。

「僕の能力を一部つかっています。以前はとても無理でしたが、今は……」

 上空の風にあおられてよく聞き取れない。

 みるみるうちに、神人に近づいていく。近くで見ると相当でかい。古泉が速度を落とした。

「ちょっと周回してみましょうか」

「遊びに来たワケじゃないだろうがっ!」

「こんな経験は滅多に出来ませんよ」

 そうほがらかにいわれてもな。

 妙にハイな古泉と一体の巨人の上空を回っていると、ちょうど正門のあたりから、赤紫に輝く球体が、急上昇してくる。

 それが合図でもあるかのように、隣の巨人に群がった光球が次々に突入していく。

 古泉も、突入を開始した。俺は目をつぶった。

 思わず叫んだはずなのに、突然の静寂……。

 まばゆい光の中を俺と古泉は通り抜けていく。まぶたを通してすら貫く輝きの中で、かなたの遠雷のような悲痛な重い声……が聞こえたような気がする。

 その間一、二秒だったろうか。あっさりと神人の背中から突き抜けた。

 振り返ると、神人の背中にできた通過痕が薔薇のように燃え、ゆるやかに閉じようとしている。

 一瞬の間を置いて、神人の右足が切断され、次に頸部に強烈な紫の輝線が走った。あれは多丸さんにちがいない。

 巨人は切断面から燐光を放つ流動体を噴出させながら崩れ落ちていく。

「もう少し一緒に飛んでみたいですか?」

「もういい。とっとと下ろせ」

 古泉は俺を気遣うかのように校舎の上空ではごくゆっくりと降下し、ふわりと俺を下ろした。

 そのまま冷たい屋上にへたり込んだ俺の姿を見つめている。

「今日一日で大変な経験をしているところ申し訳ありませんが、最後に一つだけ質問してもよろしいでしょうか」

「……ああ」

「神人に突入したときあなたは何を感じましたか」

 そういうことなのか。

 この男が涼宮ハルヒの心理エキスパートをもって任じているわけが今わかった。こいつは神人を通じてハルヒの心をのぞき込むことが出来るのだ。

「すごく悲しい感じがしたな」

 燐光の輝度が変動した。すでに天空には亀裂が走っている。やがて閉鎖空間の崩壊とともに、穏やかな月光が俺たちを照らし出した。

 古泉はしばらく俺を見つめていたが、

「これで我々の調査計画は完了しました。大成功です」

「どこが成功なんだよ」

「あなたが少なくとも我々と同じく涼宮さんから選ばれた存在だということが実証されたからですよ。ほかの検査もどんな結果が出るのか楽しみです」

 古泉は依然としてよろけ気味の俺に手をさしのべた。

 ハルヒの悲しみのかけらみたいなものがまだ俺には引っかかる。このままでいいはずがない。それに朝比奈さんの願いはまだこれからなのだ。

「今何時だ」

「十時四十五分です。何とか約束の時間に間に合います」

「ここから先、お前は無関係だ。任務の後片付けでもしてろ」

「実は僕も部室に行くように指示されています」

 何故こいつが一緒に行く必要があるのかは知らない。朝比奈さんが俺に言わなかったのはそれなりの理由があるんだろう。だが、階段を駆け下りるこの男の足取りは軽く、楽しそうだ。こんなに楽しそうな古泉をこれまで俺は見たことがない。もしかして……。



 月光の差し込む部室には長門はいなかった。

 そのかわり、穏やかな笑みを浮かべて俺たちを迎えてくれたのは、大人の朝比奈さんだった。やはりあなたでしたか。

「キョン君、お疲れ様。協力に感謝するわ。……古泉君は、今の私とははじめてだったわね」

 古泉はちょっとどぎまぎしている。

 そりゃそうだ。つい数時間前まで話していた超級美少女がその面立ちを変えて、超弩級美女になって姿を現したんだから無理もない。

 朝比奈さんは、女性士官風のぴっちりしたスーツを着ていてた。髪も短くまとめてある。コスプレ、じゃないよな。

 月光に浸る大人の朝比奈さんはちょっと神秘的な感じがする。なにもかもこの人は知っているはずなのだ。

「ここまでは『機関』の依頼で、朝比奈さんのはこれからなんですね」

「そのとおり。私たちの未来はあなた方の行動にかかっているの」

「何で今頃こんな依頼をするんですか」

「キョン君の閉鎖空間内での可能性についてはっきりするまで、そして古泉君の能力向上が確認できるまでは頼めなかったわ。つまり今回の検査は我々の要請でもあるの」

「で、俺に何をしてほしいんです」

「キョン君だけじゃなくて、古泉君の力も必要だわ」

「呼ばれたからには僕も協力を惜しみませんが、その理由を知りたいですね」

 こいつはこんな時でも情報収集を忘れないと見える。だが、朝比奈さんに向けた視線はなんだか熱っぽい。

「図に描いて説明します。お二人に解る程度にね」

 朝比奈さんは、ランプに火を灯してから黒板の前に立った。古泉と俺は、黒板に向かって座ったが、まるで出来の悪い生徒二人が、補習を受けているみたいだ。実際それに近いのかもしれない。

 朝比奈さんは黒板に横線を一本、すっとひいた。

「これが時間の流れ」

 その上に平行に短い線をもう一本。

「これが私たちの考えている閉鎖空間」

最初に引いた線の基点側にバツ印を一つ。

「これは、涼宮さんによる“何か”」

「このモデルだと、未来からは閉鎖空間が感知できない。なぜかというと、我々の時間線の外に閉鎖空間が存在するからなの」

「それは平行世界と考えてもいいのですか」

「厳密に言えば違う。平行世界ならその始まりは元の時間線と必ずつながっているはずなの。しかし、閉鎖空間は我々の時空とは完全に独立している。ゆえに私は入ることができない。でも古泉君、あなたならできる」

 朝比奈さんはついで、起点側のバツ印に短く垂直な線をひいた。

「私たちの考えでは、時空の断裂とは一種の閉鎖空間らしいの。発生した時点で幼い涼宮さんは、自分が生み出したものと現実の区別がついていない。だから、現実と一体化して、過去への跳躍を阻害していると我々は考えている。だから……」

 俺たちに四年前にもどって、時空の断裂を抑止してほしい、と言うことか。

「仮に僕たち二人がそれを解消したとしましょう。すると、われわれは存在しなくなる。われわれが存在しない以上、過去に戻って時空断絶を解消するものはいなくなる……完全なパラドックスです」

「たぶん、その時点での閉鎖空間を除去することは無理。でも彼女の能力が芽生え始めた時点なら、」

 朝比奈さんは、さっきの図に一本の曲線を書き加えた。ちょうどハルヒの時空何とかが起こった点を迂回するかのように。

「まさかそんなことが!」

 何がまさかなんだ。お前一人で納得するな。

「涼宮さんの時空断絶が存在しない時間線に迂回路をつくるんですね。すでに起こった事実は変えずに、今後過去にさかのぼるときには別の時間線の過去をたどることになる」

「その通りよ。そうすることによって過去への遡行が可能になる」

「正確には過去への投影と、解釈でしょう?」と古泉。

 朝比奈さんはそれには答えず、

「具体的な話に移りましょう。時空の断絶が始まった直後に戻って二人で閉鎖空間に侵入し、その空間を一時的に抑止してほしい」

「しかし、そうすると我々は存在しなくなるのでは?」

「時空バイパスが成功しても涼宮さんがいる限り、あなたの超能力は失われない。『機関』も存続する。失うものは何もない」

「俺たちでどうやって迂回させればいいんですか」

「発生した直後にあなたたちを送り出します。そこで一時的に彼女の注意を引いて欲しい。特に感情を強く喚起するように。そうすれば涼宮さんの断絶がないほかはまったく変わらない歴史の時間線と接続できる」

「それじゃどうやって俺たちは戻ればいいんですか?そっちの時間線がメインになるんでしょう?」

「そのとおり、あなたたちが抑止してから我々の量子時空工学処理が開始されるまで二分三十秒しかないわ。そうなるといかなる手段でも脱出不能になる」

 ということでまたしても命がけになりそうだ。今晩だけで一体何回生命の危機に遭遇する事になるんだろう。

 朝比奈さんは俺たちの真向かいに立って、言った。

「四年前に遡航し、古泉君の力を借りて閉鎖空間に侵入し、そこから先はキョン君におねがいするわ」

 ついで古泉が俺を見て言った。こいつもいつもの笑みはない。

「あなたはかつて超大型の閉鎖空間から彼女を引き戻した経験がある。事実上、あのときあなたは人類を救ったんですよ」

 俺がレム睡眠とノンレム睡眠の狭間でハルヒと二人っきりになったあの事件。我ながら大胆すぎる行動で、いまもフロイト先生爆笑必至のトラウマとなっている。

 いや、待て。以前と同じというかあの手は使えないんじゃないか。

 行く先のハルヒはまだ小学生じゃないか。俺に何をしろって? たとえ人類が滅びようとも俺には出来ないことがある。考えてみれば、その時点のハルヒはいまの俺の妹と同い年だろうが!

 朝比奈さんは俺の考えを見透かしたようだった。

「同じ手法はやめておいたほうがいいかもね」

「あなたが幼女に関する特殊な容疑で捕まってもその時点では『機関』は組織化されていないので助けるすべはありませんよ」

 と古泉も冷たい。目は笑っているが。この野郎。

「ひとつ疑問があるんですが、朝比奈さんは、この結果がどうなったか知っているんでしょう?」

「いいえ、まだ遡行は可能になっていないわ」

「じゃこれからの任務というか依頼は失敗したのでは」

「まだ挑戦してないからよ。これから時空断絶の縁へ限界ギリギリまで近づきます。そこからはお二人に任せるわ」

 大人の朝比奈さんは黒板側から俺たちの後ろに回り、両の手をつかって優しく俺たちの視野をふさいだ。柔らかい感触が右側の後頭部にあたった感覚は、たぶん死ぬまで忘れない。



 列車の軽快な断続音で意識が戻った。

 古泉は俺の肩に寄りかかったまま目を覚まさない。駅の時計は夜九時を指している。

 制服姿の高校生が、こんなところで二人仲良く熟睡しているのはいかがなものか。しかも男同士で。俺は古泉を肘で続けざまに小突いてやった。快適な目覚めとは行かないぜ。さっきのお返しにはまだたりないくらいだ。

 ぱっと開いた古泉の瞳は、瞬時にシリアス顔になって警戒モードで辺りに目を走らせた。

 こいつはいつもこんな目覚め方をするのか。なんか特殊な訓練でも受けているんじゃないかと思った。

「ここはどこです?」

「見てのとおり、駅前のいつもの集合場所だ」

 正確にはこの時点から数年後にはそうなるはずの場所だけどな。

 しばらく、辺りを見回していたが、

「僕が大人になった朝比奈さんにあった、と言ったら信じますか」

 これが夢かなんかと思っているらしい。こいつらしい慎重な物言いが今の事態とミスマッチすぎておかしい。

「ああ、さっき会ったろ。時系列的には四年以上未来だが」

「ではやはりここは」

「そうだ。おまえらのいう、この世界が作られて間もない時点、朝比奈さん的には時空の断絶付近、ということになる」

 しばらく古泉は黙っていた。あれほどあこがれていた時間旅行があっさり実現したもんだから拍子抜けしたんだろうか。だが古泉は急に態度を硬化させた。

「閉鎖空間のようなものが発生しています。しかも通常空間とほとんど重なっています。だから」

 古泉は手のひらを見せた。ぼうっと赤いもやのような輝きを見せたかと思うと、手の周りを赤い球体が覆った。

「通常空間でも僕の能力が使えます」

 時空の断裂か世界の創世か知らないが、それはすでに発生しているようだ。だが、ハルヒは現実との分離がまだ出来ていない。

 そもそもこれは、ハルヒが父親と野球観戦に行って大観衆の中、たった一人の孤独を初めて実感したのがきっかけだった。そのときにたぶん“何か”が生まれたんだ。

 いつだったか、踏切で一気にまくし立てて去っていった寂しげなハルヒのうしろ姿を俺は忘れない。あの夜のことも。

 改札口からどっと人が出てきた。さっき到着した電車の客だろう。その中を父親らしい男に引かれてやってきた女の子。トレードマークのカシューチャは見まがうはずもない。当然ながら校庭侵入事件の時よりはかなり幼い感じがする。

 きつい大きな瞳でまっすぐ前を向いて歩く様子は、はじめてあったときと変わらないが、父親の手をしっかり握っているところはやはり小学生だ。

「彼女のようですね。どうします?」

「入れるか。その空間に」

「これだけ近接していれば、たぶん。しかし中でなにをすればいいのか」

 俺たちが座っている場所をすれ違いざま、一瞬ハルヒと目が合った。

 小さな身体にそぐわないぎらついた目が一瞬俺をとらえたが、そのままぷいっとまた前を向いて、横断歩道を渡っていく。

「通常なら閉鎖空間の中心は固定点です。しかし今は涼宮さんを中心に移動している。その中が安全とは言い切れません」

「そうなら、あいつが家に入ってしまえば、これ以上近づけない。いま侵入するしかない」

「余りにも通常空間と重なっているので、僕に接触するだけで見えると思います」

 古泉は俺の手を握った。

 急に小さなハルヒが振り向いたような気がした。



 目が痛くなるような青い光の塊が前方で脈動している。

 あの暗い燐光を放つ空はまだないが、星一つ見えない。ここにいるのは俺たちと輝く存在だけだ。

 どういうわけか、俺は去年の冬に謎の洋館の扉を開けた瞬間を思い出した。あちこちさまよったあげく、ようやく見つけた光。

「あれが、涼宮さんのようですね」

「これからどうすりゃいいんだ」

 以前、俺が超閉鎖空間から脱出できたのは、曲がりなりにもハルヒが俺のことを知っていたからだ。いまは見知らぬ高校生だ。どうやって影響を与えるってんだ。

「凉宮さんの潜在意識が具現化した神人でも現れてくれれば、何とか対処のしようもあるのですが。今はそれすら出来ずにエネルギーをあたりに放出させているようです」

「あの光の中に入れば何か解るかも知れない」

 俺は止まった光点へ近づいた。少しずつ。何故か走ってはいけないような気がしたからだ。

 近づくにつれて、楽しげに世界を鳥瞰する心が浮き立つような歌声の中に、耐え難い不安と絶望、そしてかすかな希望のようなものが垣間みえる。

 これは小学生が抱えるには大きすぎる。何とかしてやりたい。

 あと少しで光に触れる……。


 突然、俺の肘を小さな手がしっかりとつかんだ。


「長門!」

「我々の観察対象への干渉は認められない」

 北高の制服に眼鏡。小柄な女子高生が直立不動で俺の腕をつかんでいる。

「思念体に送り込まれたんだな。ハルヒの情報爆発を感知して」

 長門はちょっと首をかしげたまましばらく黙っていた。

「この事象に干渉することは許されない」

「なぜだ」

「我々の自律神化に不可欠の存在であると考えられている」

「それは見解の相違でしょう」と古泉がいった。

「これが神としての涼宮さんの意志なのか、それとも情報爆発なのか」

 だめだ。こいつは聞いちゃいない。この時点の長門には何を言っても通じないような気がする。

 長門は俺の方を見ていった。

「あなたは速やかに元の時空に戻らねばならない」

 前方の光の輝きがさっきより明らかに増光している。まるで何かを期待するかのように。

 俺の手は長門のちっこい手にしっかり握られている。

 俺が何をしようとしても、必ず長門は阻止するだろう。

「わかったよ。長門。もどることにする」

 古泉は何かを言いたそうだったが、俺は手を放した。

 気がつくと、俺は横断歩道の真ん中に立っていた。

 そうだ、ハルヒの空間に入ってからしばらく移動したんだった、と気がつくより早く、車が俺の視野いっぱいに飛び込んできた!


 古泉が赤い閃光をあたりにばらまいた瞬間、俺を空中に引き上げた。

 同時に長門が伸ばした手が車体に触れ、車が大きく屈曲した。下を見下ろすと、甲高い摩擦音と共に夜でもはっきり解るほどのタイヤ痕を路面に刻んでいる。しかも進行方向に対して直角にだ。

 なんか俺の知っている長門と違って直接的で粗雑だ、とか言っている場合ではない。

 古泉と俺は路肩に降り立った。車の運転手は気を失っているようだ。後部座席の子供が大きく口を開けてこちらを見ている。大丈夫なのか。

 いきなりどっと車の前部から煙が出始めた。このままじゃやばい。

 駆け寄った古泉は運転席のドアを開けておっさんを引っ張り出している。俺も煙が充満した後部座席から半泣きの子供を出して歩道にすわらせてやった。


 そのとき、いきなり俺のセーターを引っ張ったヤツがいる。

「いまの、どうやったの?」

 ガキのくせにものすごい力だ。俺はしゃがみ込んでハルヒの顔を見た。

 この頃からこんな顔つきをしていたんだな。なにか面白いことを渇望するハルヒの顔はいつだってこんなだった。

「いま、あんたたちが消えたら、次に横断歩道の真ん中にでたでしょ?」

「そしたらこのお兄さんがぱーっと赤く光って、あんたを持ち上げて、その女の人が車をぶっ飛ばした。確かに飛ばしたわ。ね、どうやったの!」

 ああ、わかったよ。そうだったんだ。

 これが俺のさだめなんだろう。

「こいつは超能力者で、あの女の人は宇宙人さ」

 俺は嘘いつわりのない事実を伝えてやった。

「あんたはなんなの。なんかできるの」

「俺は……未来から来た」

 これも嘘じゃない。なんかこれが目的でここに来たような気がする。

 長門は俺たちを離れ、横断歩道を渡っていく。たぶんあのろくな家具もない空虚な部屋に向かっているんだろう。これから俺達が現れるまで、ずっとひとりぼっちで待っているはずだ。

 

 早くも野次馬が集まり始めた。ここを離れなければ。

「まって! ほんとなの?」

 俺のセーターからこいつを引きはがすのは、未来のハルヒより難しそうだ。

 追いすがるハルヒを父親がつかんだ。

「ハルヒ。まちなさい……どうもすみません。ご迷惑をおかけして。大丈夫ですか」

「いえ、いいんですよ」

「あんた名前は? 名前くらい教えてよ!」

 引っ張られていくハルヒが叫ぶように言った。

 小さなハルヒはなぜか泣いていた。必死ですがるような、懇願を込めた目が俺に突き刺さる。

 俺はここで何といえばいいんだ?

 ……やめておこう。そのうちお前は俺の口からきくことになる。ジョン・スミス、と。そのときまでとっておこう。

「古泉?」

「ええ。いきましょうか」

 俺たちはなおもこちらを振り返りつつ父親に引きずられていくハルヒを見送った。



 朝比奈さんがここに迎えに来ないと言うことは、作戦は失敗したんだろう。となれば、例の公園で待っていればそのうち迎えに来るに違いない。

 道すがら、以前ハルヒが俺に話したことを古泉に教えてやった。

「ということは、その群衆の中での孤独感が、決定的な引き金だったと」

「たぶんな。超能力者、宇宙人、未来人という分類がされて、閉鎖空間がああいう形になるのも俺たちが原因かもな」

「朝比奈さんにはなんて言いましょうか。あの大人のほうですが」

 例のベンチまでやってきた。たぶん、もうすぐ現れるだろう。

 俺はやれやれといった調子で座り込んだが、古泉はまったく疲れを見せてはいない。

 じっとりとした汗は今の騒動だけが原因じゃなさそうだ。いまは野球のオンシーズン、つまり六月くらいだろうか。

 ……いや、空を見上げると懐かしのベガとアルタイル。そうか、この日だったのか。あと何年かして、ハルヒは校庭に忍び込むんだな。

「朝比奈さんには正直に話そう。詳しく知りたければ、長門に聞いて下さいってな」

「任務に失敗、ということでこのまま放置にならなきゃいいですが」

 後ろで枝を分ける音がした。

「その心配はないわ」と大人の朝比奈さんが言った。

「残念だったわね」

「長門に阻止されました」

 朝比奈さんは俺と古泉の間に座った。

「こうなることは、まあ可能性としては予想されていたけど、こんなに直接的に阻止されるなんてね」

 少し溜息をついた朝比奈さんは空を見上げた。

 夜空を仰ぐ大人の朝比奈さんを見るのもこれで二度目だ。いつみても溜息が出るような美形で、しかも任務のために過去の自分にとてつもない課題を与え続けている。そしてそれを乗り越えたのがこの人なのだ。

「今回の作戦が成功すれば、情報統合思念体の存在しない時間線と接続するはずだったの。そうすれば、我々は彼らの干渉を受けない時空を手に入れることになる」

 今、さらっと恐ろしく重大なことを朝比奈さんは言わなかったか。

「ということはこの時点から始まった思念体との関わりはずっと未来まで続くんですね。そして朝比奈さん達はその裏をかこうとした。違いますか」

「古泉君、あなたはなかなか想像力が豊かなのね。気に入ったわ。これからも仕事をお願いしようかしら。でもこれ以上は禁則よ」

「そろそろ帰りましょう。ちゃんとあなたたちの時間にお届けするわ」

 大人の朝比奈さんが俺たちの肩に手を回し、俺と古泉の目をふさいだところまで覚えている。それと豊かな胸のふくらみは再び永久に俺の海馬に刻み込まれた。



 部室に戻った。いつの間にかランプは消えている。月明かりの中で古泉はなんかぐったりして椅子に座っている。

 到着した時刻は古泉との空中飛行を終えて、大人の朝比奈さんの時空講義をきいてから十分後、ということになる。俺はもう一度、高校生の朝比奈さんと跳躍して、三時四十分くらいの時刻に戻らないといけない。

 古泉の顔色が悪いのは月明かりのせいばかりではないだろう。どうだ気分は、とか言っている余裕も俺にはない。

 大人の朝比奈さんは俺の手をちょっと強めに握ったかと思うと、ドアの所で振り向いていった。

「キョン君。古泉君。残念な結果だったけど協力を感謝するわ。またいつか」

 ドアの向こう側で虚空に空気が流れ込むような微かな音がして、人の気配は去った。そのうち落ち着いた場所と時間で会うことはあるんだろうか。

 俺はあいかわらずつらそうな表情の古泉と別れ、朝比奈さん(小)の待つ正面玄関へと向かった。




 帰還した直後のことは覚えていない。

 冗談抜きで半分くらいは死んでいたらしい。助かったのは、長門曰く、

「細胞の再生能力が強化された痕跡がある」

 からだそうで、それはお前がこれから俺に処置するはずなんだが。

 かすれがちの意識の片隅で、朝比奈さんが真っ赤に泣きはらした目で俺をみていたような気もする。長門の回復処置のあいだ、意識が戻ったり戻らなかったりと記憶はあいまいだ。

 もう時間旅行はお断りだ。古泉が行きたいなら俺のかわりに行ってくれ。

 横たわっていた長机からようやく起き上がると、朝比奈さんと古泉が何かひそひそ話をしている。どうやら古泉への依頼はたった今ここで行われていたらしい。

「……わかりました」

 机に座っている俺の方にくると、

「今日は大変おつかれのようで」

 それはさっき屋上で聞いたぜ。主観的にはついさっきまでこいつと話していたが、それはまだ先の話だ。古泉にとって全てはこれからなんだから。

「いつからそこにいたんだ」

「あなたと朝比奈さんが保健室に行くのを見送って、部室に入ろうとしたら、先に飛び込んだ長門さんがあなたを介抱していました。なんといっていいか、一種の感動とでもいえますかね」

「何を感動するってんだ」

 古泉は俺に肩を貸し、よろける俺が立ち上がるのを助けながら言った。

「タイムトラベルの実例を僅か数分の間に二回も目撃出来たことに対してです」

 そのうちお前も体験できるから、とは言うつもりもない。ここでもまだ、誰にもしゃべってはいけないルールが生きているんだろう。

「もうすぐ涼宮さんが保健室から戻ってきます。キョン君はここにいてはいけないわ」

「ま、まってください。もうタイムトラベルは絶対に嫌だ!」

 自分でも声が裏返ってんのがわかる。すがりついて朝比奈さんの制服を握りしめる俺。情けねーとか言う奴がいたら時間旅行してからいってみろ。

 もう朝比奈さんの任務はすんだんだから、いいでしょう。ナイフを持った有機アンドロイドを相手にするワケじゃない。たかがハルヒだ。さっそく逃げ……ではなくて。

 いや、もうこの辺ではっきりと対決しなくては。逃げてばかりじゃしょうがない。朝比奈さんは今晩の準備もあるんでしょうし、先に帰ったほうがいいと思いますよ。ハルヒは俺が何とかしま……。

「あんた保健室にいたんじゃなかったの」

 声の主が戸口に立っていた。ハルヒの顔には何の感情も浮かんでいない。そしてこういうときはたいていの場合、ハルヒのどこかにマグマのような熱源があることを俺は身にしみて解ってる。言葉が返せないでいると、古泉が助け船を出した。

「身体の調子が良くなったとかで、カバンを取りに戻ってきたんですよ。僕はこのまま帰らずに涼宮さんが戻るまで待った方がいいと言ったんですが」

 そんなこと言ってねぇだろが。人を助けつつ、自分は安全圏にとどまるのか。狡猾野郎め。

「そうなの? 頭を冷やしにちょっと外をまわってたから、あんたに気がつかなかったのかもね。そんだけ元気なら、心配して損したわ」

 ハルヒはまだ目の縁が薄く朱に染まっている朝比奈さんをちらりと見て、

「でもまだ普通に団活動が出来るレベルではなさそうね。特にみくるちゃんがそんな状態だとね。今日はこれでお開きにするわ」

 助かった……のか?

 ハルヒの後をすまなそうに朝比奈さん、その横にはエスコトーとするかのように古泉が位置を確保して出ていった後、長門も帰宅する支度をしている。読みかけの文庫本を鞄に入れおわると、まだ何か俺の異常をスキャンしているような視線を送っている。

「ありがとう。長門。いつもすまない。というかまだこれからだけどな」

「いい」

「長門」

「なに」

「一つ聞いていいか。俺とお前が初めてあったのは正確にはいつなんだ?」

「私が最初に接触した人類があなただった」

 やはり覚えていたのか。

「長い間、情報統合思念体は人類の観察を続けていたから、情報爆発の瞬間に私を送り出すのは造作もなかった。そしてすぐあなたに会った。いわば、あなたは私の名付け親」

 長門はそれ以上語らず、部屋を出て行った。

 下の名前は誰がつけたんだろう。そんなことを思いつつ、きつめのセーターを脱いでからブレザーに着替え、ハルヒたちを追った。



 傾いた寒々とした夕日が俺たち五人の影を坂に長く伸ばしている。

 散発的に粉雪をぱらっと弱気に舞わせていた雪雲は消えていたが、相変わらず寒い。

 途中で朝比奈さんは寄るところがあるとかで、申し訳なさそうに頭を下げ、先に別れた。たぶん場所、じゃなくて時間だと思うのだが、それはともかく残る俺たちは再び帰宅の途についた。

 ハルヒはついさっきの出来事がまだ心に残っているのか、部室を出てからもずっと唇を固く結んだままだ。

 俺も神人の中を通過したときの事を忘れたわけじゃない。古泉は当然だろう。心理エキスパートなんだし。長門はいつも通り文庫本を読みながら歩いている。

 坂を下り終えて、もうすぐ古泉と別れるいつもの交差点に近づいた頃、向こうから歩いてくる谷口に気が付いた。テストが終わってから速攻で帰ってめかし込んだらしい。その隣には、黒い甲陽園女学院の制服を着た女子がいる。谷口が言っていたのはこの子か。

 谷口より少し背が高く、目鼻立ちがくっきりした一般的には美人の部類に入るのだろうと思うが、俺の感度はハルヒと朝比奈さんのおかげで目が肥えてる。まあまあってところ。

 それにしても、谷口にはまったく釣り合っていない。そごうをくずしっぱなしの谷口は、にやけ顔でみてられない。

 プランニングも費用もこちら持ちで、適当に遊ばれて捨てられるみたいな昨年のパターンを踏襲しているのか。哀れというほかはない。

 つと、おもてを上げたハルヒがいった。

「あれ谷口じゃない?」

「そうみたいだな」

 今日初めてのまともな会話だが、しかし俺も男だ。谷口の恋路を妨げようとは思わない。

 ここは他人のふりで生暖かく無視してやろう。ハルヒにも横やりを入れさせない。むこうから話しかけられたときは別だが。

 狭い道を相手に譲って、ふたりが通りすぎるのを待った。谷口は依然として自分の一人トークに陶酔していて俺たちに気がつかない。

「あれっ?」

 学院女子が古泉を見て声を上げた。

 こっちも何が何だかわからない。古泉もこちらを見ている女子に気が付いたが、戸惑ったような顔をしている。

「どうした古泉。お前のお友達か」

 これは期待していいとこか?

 古泉の昔なじみが谷口のガールフレンドになって目の前に現れたとか。あるいは古泉の元カノがハルヒを古泉の連れと勘違いしたとか。そんなシチュエーション? これはおいしすぎる。久々の快事だといえるのではあるまいか。古泉の知られざる一面がいま明らかに、ってことなのか。

 女子の方はしだいに興奮で顔を真っ赤にしている。谷口はだんだん目がつり上がって不穏な雰囲気でなかなかよろしい。古泉がんばれ。

「ひょっとしてあのときの? でも全然年を取ってないわ。ひょっとしてキミたちお兄さんとかいる?」

 いきなり思い出した。あの長門にふっとばされた車の中にいた子だ。ってことは俺も当事者なのか?

「あなたも確かいあのときいたわ。ふたりであたしを助けてくれたんじゃ……」

「え、ええまあ、その」

「キョン、この人だれ?」

「なんだキョン、他人の逢瀬を冷やかすなんざ、らしくねぇぜ」

 古泉は何を思ったか小走りに歩き去ろうとしている。

「古泉待て! 逃げるんじゃない。お前も当事者だろうがっ!」

「僕はこれから重要なバイトがあるので。失礼!」もはや駆け足に近い。

 俺の左腕は万力のようなハルヒの手に握られて動かない。学院の女もしっかり俺の手を握っている。谷口はもう爆発寸前だ。

「キョン、あたしはあんたの説明を聞きたいわ。今すぐ。全部。みっちりとね」

 最強にめんどくせー状態……ってか、どうすんだよこれ。

 つーか誰か助けろ。長門! 待ってくれ!


***


 冬休みまで、あと数日となった。

 残りの授業をまじめに受けるやつがいるとも思えないが、さりとてサボる理由も思いつけないでいる月曜日の今日。

 谷口は休みだった。あの修羅場で、俺はあの子にはひたすら人違いで知らぬ存ぜぬを貫き通したが、谷口はなんらかのわだかまりを残したらしい。

 今朝、自席についてまもなく、ハルヒが俺に嫌みを言ったところを見るとまだ疑いは晴れていないようだ。

 あの日、甲陽園学院の女の子との出会いが、ハルヒのフラストレーションの内圧にとどめの一撃となったんだろう。神人が二体も現れたのも不思議ではない。

 今日は採点疲れのせいか知らないが、教師も気の抜けた感じで、今一つ身に入らない。後ろの席も静かすぎた。こちらから突っ込みを入れるつもりもない。たぶん部室に行ってからまた今朝の続きでお小言ってことになるんだろう。

 授業は六コマ瞬く間に過ぎた。先週末の疲労が癒えきっていない俺にとっては絶好の休息時間と言えた。そう、あからさまに眠ったわけではない。シャーペンもちゃんと動いて自動筆記だ。判読は不能だけどな。



 部室には朝比奈さんだけがいた。

 窓際の物入れからお茶碗を取り出しているところだった。

 窓からゆっくり降下しつつ舞っている雪片が見えた。またか。入り口に立ったまま中に入る気がしない。

 連中の不在理由が明らかになるまでは入りたくない。

「ほかの連中はどうしました?」

「涼宮さんはちょっと用事があって遅れるって。長門さんはさっきコンピ研の人がかけこんできて、一緒に出て行きましたけど。古泉君はまだ」

 入ってよし、だ。

 何らかの時空的トリックでもなく、これから朝比奈さんのお願いもないようだ。

 ところでなんで長門は連中に呼ばれたんですか。

「パソコンが全部こわれてたっていってました」

 どうやら時空跳躍の影響で変調を来したのは俺だけではないらしい。

 ま、部室のパソコンはこの際どうでもいい。朝比奈ギャラリーは秘密裏に別の媒体にバックアップしているし、ハードディスクの中はワケのわからんハルヒ製未来予想図だのZOZサイトがあるだけだ。まあ、長門なら何とかするだろう。


 やがていつものごとく勢いよくドアを開けて部室に入ってきたハルヒは、通学バッグの他に大きな紙袋を手に持っていた。またここで朝比奈着せ変えショーでもやるんじゃなかろうな。それともお小言の続きか。

 だが、ハルヒの口から出たのは、昨日の件ではなかった。

「キョン。みくるちゃんと過ごせるクリスマスは今回で最後なのよ。忘れたの? だから、みんなで楽しく過ごそうと思っていろいろ腹案があったのよ。別にあんたがみくるちゃんに親切にするのは悪い事じゃない。でも団員としてどうなのその態度は?」

 またもや返す言葉もない。そのとおりだから。

 だが、この危機また危機の俺を察してくれと言いたいがそれも言えず。

「すまない。誤解を与えるようなことをしたかも知れない」

 とだけ言った。事を荒立てるつもりもない。

「わかったらならいいわ。じゃ、キョン。了解の印としてあたしの言うことを今から実行するのよ」

 何をするって?

「ほら、また目が少し反抗的だわ。すなおにこれを……」

 といって紙袋から取り出したものを俺に投げた。

「……受け取りなさいよ」

「えっ?」

 飛んできた包みを開くとセーターが入っていた。何の予感か知らないが色は青。胸には団員一号とでかでかと刺繍されている。なんてこった。朝比奈さんを見ると首を微かに横に振っている。彼女も知らなかったらしい。

 そういや、テスト直後の除霊だかなんだか知らないが俺の背に手を這わせていたのは採寸か。気がつかなかった。にしてもこれを校内で着て歩くのは勘弁してもらいたい。

「メリークリスマス。ちょっと早いけどね。団長おんみずからの手編みよ。実は今月に入ってから、ほんの気まぐれで編んでたの。さあ、感謝感謝!」

 ちっ、しかたがない。感謝の強要だが喜んでもらってやる。

「あ、それからみくるちゃんにもプレゼントよ。高校生活最後の忘れ得ぬ思い出にしてもらうわ。さあ制服を脱ぎなさい」

 取り出したのは、クリーニングしたての甲陽園学院の制服だった。どこで手に入れたんだ、そんなもん。

「ちょっとしたコネとツテでね」

 ちょっとしたゴリ押しと脅迫のまちがいじゃないのか。学院に今年入学した後輩から借りたんだろうか。

「先週の帰り道、古泉君の様子を見て思いついたの。この制服をみて古泉君がなにがしかの反応を示せば、いろいろと謎の転校生こと副団長の知られざる話を聞けそうじゃない? そのあとは仲良くクリスマス準備といきましょ」

 言うなり、ハルヒは制服の透明なシートをはぎ、クリーニングタグを取っ払った。

 そういや、古泉のやつが以前どこの学校にいたかも知らないし、交友関係に至ってはさらに謎だ。それに去年の暮れの消失事件で甲陽園学院にこいつが在学していたのは何か理由があるんだろうか?

 ということで、珍しく俺とハルヒの意見が一致した。こんな事は滅多にないぜ。SOS団開闢以来と言えるのではあるまいか。

 俺は部室の外に出てドアを後ろ手に閉めた。すぐに中では相変わらずの騒動がはじまったが、もうなれっこだし、朝比奈さんが甲陽園学院の制服を着るのも期待大だ。

 もうそろそろ古泉も来るころだ。


 これは……本気で楽しいクリスマスの幕開けになりそうだった。

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