運命の出会い

朝倉章子

第1話

 恋に落ちた。

 それはショーウィンドウに秋の新作が並び始めるブティック街でのことだった。女は久しぶりのデイオフに、お気に入りの黒スーツとサングラスで決め込んで、午後の日差しを楽しむために街に繰り出していた。気の赴くまま店から店へ、ショーウィンドウを渡り歩くその姿は蝶のようでもあり、楽しみたいという確たる意志を感じる足取りは歩兵のように勇ましい。今日という日を精一杯堪能しよう、そう決めていた彼女の前に、唐突にそれは訪れた。

 彼女はその時、高級そうなバッグ専門のブランド店の前を通り過ぎようとしていた。そこのディスプレイに目をやったのに、行きがけのついで以外の理由は無かった。しかしその一瞬で、彼女の運命は変わった。その視線の先には、他のより一段高いところに神々しく飾られているひとつのバッグがあった。彼女は射抜かれたように立ち止まった。そして僅かにサングラスをずらすと、それをしっかり視界に捉えた。

 少し小ぶりのショルダーバッグ。黒い色、それも、今まで見た事もないような深いブラック。まるで夜の闇。微妙な丸みを帯びた、貴婦人のような輪郭。そしてそこから上にしなやかに伸びる、官能的なショルダーベルト。

 意識がその黒に吸い込まれ、心臓が儚く震えた。

 あれが欲しい。湧き上がるマグマのような想いが、前触れも無く生まれていた。身体の最奥の部分から熱がこみ上げ、赤い塊になって身体中を這いずり回っているような、激しい欲求だった。心が身体が、あれを自分のものにしたがっている。何故こんなに心臓が震えるのか、彼女には判っていた。片想いの独占欲。自分の手中にないものに対する、異常なまでの執着心。あれはまだ、私に属していない。でも欲しくてたまらない。これほどまでに、ひとつのものを強烈に、一途に欲するなんていつぶりだろう。あれは私のものだ。他の誰にも渡したくない。

 私はあのバッグに恋をしてしまった。

 でも、あれを自分のものにするなんて、そんなの無理だ。

 彼女の心は、その欲求の強さと同じぐらいの深い悲しみに襲われた。その理由はあの値札。一体いくらだと思ってるの? 今の収入の三か月分に、ゼロが一つ多くついているような額だ。バッグひとつのために、身を滅ぼしかねないローンを組むわけにもいかないし、この店に押し込み強盗に入るわけにもいかない。でも、そうでもしない限り、あれは永遠に自分のものにはならない。

 女の胸が切なさに鳴った。禁じられた恋に身を投じたヒロインも、きっと、こんな気持ちになるに違いないと思った。見えるのに、手を伸ばせば届くところにあるのに、二人の間には厚い防弾ガラスが立ちふさがり、触れることすら許されない。彼女の心は、引きちぎられんばかりに激しく軋んだ。あれを自分のものにできないのは判っている。でも、どうしてもここを立ち去ることができない。別れなければならないのに、あきらめることができない。

「恋をしましたね?」

 バッグに見入るばかり、彼女は声をかけられるまで自分の隣に見知らぬ男が立っていることに気がつかなかった。彼女は頭上から降り注ぐテノールに、身体をびくんとさせ、低い声をあげた。

 振り返るとそこには、すらりと背が高い若い男がいた。彼は上品な笑顔を彼女に振りまき、愛想良さそうに会釈した。

「あのバッグに」

 男は、突然声をかけられて驚く彼女に指差して見せた。

「え、ええ。とても素敵だわ」

 彼女は曖昧な笑みを浮かべると、男に答えた。

「特にあの黒。あんなに美しい色は、今まで見たことがないわ」

 言いながら彼女は、さっと男を見回した。

 あらゆる面で、全てが整っている男だ。長身に良く映える上質のスーツ、それも、素人が見てもそうだとすぐに判る、老舗の仕立屋の逸品。学者風でもビジネスマン風でもないルックスは、水の滴る果実のように甘いのに、闇夜のフクロウのように鋭い。そして、その顔立ちに絶妙なバランスであわせられた清潔そのもののヘアスタイル。どこを見ても非の打ち所のない男。紳士とか貴族とかがどういうものなのかは知らないが、目の前の男は、もしかしたら彼がそうなのかもしれないと思わせるような雰囲気を漂わせていた。

「僕もそう思います。この街だけでも黒いバッグなんて溢れかえっていますが、あんな神秘的なブラックは皆無です。それに、あの女性の身体を思わせるしなやかなベルト。僕ですら、恋に落ちてしまいそうです」

 女は驚き、サングラスを外して男をまざまざと見上げた。まさかこのバッグを、私と同じような眼差しで愛でる男が、こんなところにいるなんて。

 男は呆けたように自分を見つめる女に、にやりと笑って見せた。

「やっと、素顔が見られました」

 唐突に、女は気分が悪くなった。馴れ馴れしい男。私を品定めしてるつもり? 女はもう一度サングラスをかけたい衝動に駆られたが、それをぐっとこらえた。こんな男の言葉にいちいち反応するなんて馬鹿馬鹿しいことこの上ない。

「私に何か御用ですか?」

 固い声で女は言った。男はそれに動じることなく答えた。

「あなたはあのバッグが欲しくてたまらない。そうでしょ?」

 女は僅かに動揺した。

「どうして判るの?」

「あなたを見てれば判りますよ。もう二十分近く、ここに釘付けになっていますよ」

「そんなに?」

「ええ、それはそれは、とても物欲しそうに。あのまま放っておいたら、このガラスを叩き割ってあのバッグにかぶりつきそうなほどの気配でしたよ」

「それで私が犯罪者になりかかっているのを止めて下さったの? ご親切にどうも」

「半分は当たっていますが、半分は違いますね。あなたがあれに釘付けになっていたのと同じように、僕はあなたに釘付けでした。そしてあなたを手中に収めたくてこうして近づいたというわけです」

 あまりにもストレートな物言いに、流石に彼女も面食らった。

 嫌な男だと思った。こいつは、自分が笑顔を振りまけば、女が誰でも足を開くと思っているのだろうか。おそらくはそうなのだろう。確かにこの男なら、頬をなでただけで女をとろけさせられるだろう。彼はそれだけ魅力的で、魅惑的だった。

 その自信たっぷりの顔面にアッパーカットを食らわせて逃げてやりたい。彼女は思った。だが、彼女の中の何かがこう、告げていた。これこそ、運命の出会いなのだと。運命には逆らわず、ただ従え、と。

「ご評価どうもありがとう」

 彼女はアッパーカットの代りに、ありったけの不愉快な顔を作って言った。

「ただ、残念ですけど、私はあなたのご希望に沿うつもりはありません。私は、ショーウィンドウの中の品物ではありませんので」

「ええ、知っています」

 男は女の反応を楽しんでいるかのようだった。

「ただ、そうは言ってもあなたが欲しいのは事実なわけで。いくら欲しがっても、手をこまねいてみているだけでは自分のものにはなりませんからね。僕は、欲しければ行動します。あなたと違ってね」

「行動に出られるのなら、私だってとっくに出ているわ」

 彼女は吐き捨てるように言った。

「あなたのような育ちのいい人には判らないでしょうけど、私みたいな女の稼ぎでは、どうやったって手に入らないもののほうが、世の中には多いのよ」

「つまりあなたには、あれを手に入れるに相当する代価がないと」

「ええ、そうよ」

「わかりました」

 そう言うと男は、飛び切りの笑顔を彼女に向けた。

「僕とひとつ、賭けをしませんか? 場合 によっては、あなたのキューピットになってあげられるかもしれない」


 二人は昼下がりの少しきつめの陽射しの中、オープンカフェのテラス席でひとつのテーブルを囲んでいた。彼女は目の前に運ばれてきたアイスラテに口をつけることもせず、ただしげしげと男を見つめた。彼はこの暑い中、ホットティーを涼しげに啜っていた。

 あの後、男のとった行動はにわかには信じられないものだった。彼は少し待っていてくださいと言うと店の中に入り、売り子を即座に捕まえて、ディスプレイの中身を下げさせた。そして件のバッグを簡単でいいからと包装させると、キャッシュで買い上げてしまったのだ。

 店を出てきた男は目配せして「さあ、行きましょう」と言うと、すたすたと先を歩き出してしまった。残された女は、付いていくしかなかった。

 そして今、二人の飲み物を乗せた中央のテーブルには、そのバッグが黒い手提げ袋に包まれて、何気なく置かれている。

「僕と、賭けをしませんか?」

 おもむろに、男は言った。

「あの目の前の路地、次にあそこから現れるのは男性か女性か。ここの飲物代を賭けて」

「え? じゃあ、男で」

 突然吹きかけられ、女は慌てて答えた。

「では僕は女性です」

 しばらく待つと、目の前の狭い路地から、小さな女の子が駆け出してきて、後から追いかけてきた母親に車に気をつけなさいとガミガミ叱られた。

「ほら見て、僕の勝ちです」

 男は瞳を輝かせながら母子を指差した。

「そのようね」

「では、ここはあなたの奢りということで」

 彼は心の底から嬉しそうに微笑んだ。小さな男の子が思いがけずおもちゃを手に入れて喜んでいるような、屈託のない笑顔だった。

 悪い男ではないのだ。女はこの紳士を装った女たらしに対し、初めて警戒心を解いた。

「あなたは一体何者なの?」

 女は初めて男に笑顔を見せた。

「あんな高価なバッグをぽんとひとつ買ったかと思うと、こんな些細な賭けに勝って喜んでみたり。私には理解できないわ。アラブの王子様か何か?」

「あなたには、何者に見えますか?」

「そうね、アラブ人には見えないわね。賭け事好きな所から察するに、あなたはイギリス人かしら? それにとっても大金持ち。時間と暇を持て余して旅行に来たのはいいけれど、やっぱりここでもやることがなくて、戯れに女を賭けに誘ってる貴族ってところでどうかしら?」

「あなたはそう思うのですね? ではそういうことにしておきましょう」

 それを聞いた女は微笑んだ。それに釣られ、男もまた笑った。

「そろそろ本題に入ってもいいですか?」

 男は姿勢を正すと、改まって言った。

「このバッグを賭けて、僕と勝負してくれませんか?」

 男は野望を秘めた瞳で、視線を送ってくる。女はそれにある種の真剣さを見た。 

「今このテーブルには、僕とあなた、それぞれ欲しいものがあります。あなたは僕のこのバッグが欲しい。そして僕はあなたが欲しい。そこで、お互いの持つものを賭けて勝負しましょう。あなたが勝てば、このバッグを差し上げます。そして僕が勝ったら・・」

 男はそこで言葉を切ると、彼女にぐっと顔を近づけた。

「一晩の情事を、僕に約束してください」

「一晩? たった一晩でいいの?」

 驚いて、女は聞き返した。

「ご不満ですか?」

「いいえ、ただ、払った代償の割にあなたには見返りが少ないんじゃないかと思って」

「忘れないで、僕はイギリスの貴族ですよ。それに、あなたほどのいい女をモノにしようとしているのです。この程度のリスクは当然でしょう」

「たった一晩の相手が欲しいだけなら、もっと安くて手っ取り早い方法があるでしょう」

「金持ちの暇つぶしは奇妙で奇特なものなのですよ。さあ、この勝負、乗りますか?」

「……乗ったわ」

「いいんですね?」

「勿論よ。それで、今度は何に賭ければいいの」

「そうですね」

 男は腕を組んでうなりながら考え込んだ。そして、テーブルに据え付けられているパラソル越しに見える空を見上げると、言った。

「今これから、ここに雨が降るかどうか」

「え?」

 彼の言葉に、彼女もつられて見上げた。

 見事なまでに晴れ渡った、真っ青な空だった。一点のかげりもなく、雨の気配はおろか、雲ひとつ見当たらない晴天だ。

「雨といっても色々ありますからね。ここで勝負ラインをきめておきましょう。一、二滴顔にかかるというのはなしです。土砂降りとまではいかなくても、このパラソルがパラパラ音をさせるぐらいでなければアウト。虹でも出れば尚可。ただし、僕たちの真上にさえ降れば、継続時間は問わないことにしましょう。そして期限は今から一時間です」

「そんなのフェアじゃないわ」

 女は抗議した。

「こんな青い空から雨が落ちてくるかどうかなんて。それに、条件を何でもかんでもあなた一人で決めてしまっている。私には不利そのものよ」

「確かにあなたの言うとおり。では、公平を期すために、どちらに賭けるかはあなたが先に決めてください」

 その瞬間、女の瞳が怪しくきらめいた。

「……いいのね?」

「勿論」

「それじゃあお言葉に甘えて」

 そして彼女は思いをめぐらすように瞳をくるくると動かすと、意を決して言った。

「降るほうに賭けるわ」

「降るほうに?!」

 男は叫んだ。

「本気で?」

「ええ、本気で」

 平然と女が言い放つと、流石に男は戸惑った。

「自分で決めておいて何ですけれども、あなたには、そのリスクをきちんと理解してもらっているのか不安になります」

「理解しているつもりよ。こんなに空が青いんですもの」

 女はにっこり微笑んだ。

「でも、私だってこんなに高価なものをいただこうとしてるんだもの、このぐらいのリスクを負う義務はあるわ。それに、今から土砂降りになる可能性だって、完全に否定できないでしょ?」

「自信、あるのですか?」

「安直な方法が嫌いなだけよ」

「判りました」

 女の挑戦的な態度に男はにやりと笑った。

「では、今から一時間です」




 正直、彼は女は降らないほうに賭けるとばかり思っていた。というより、それを見越した上で、片方の勝ちが完全に見えているこんな賭けを持ちかけたのだった。

 彼はギャンブルが好きだった。そしてどんな些細な賭けでも、勝つことを何よりも重要としていた。しかし今回のような場合は、勝とうが負けようが、どうでもいいのだ。

 この賭けは、要は女の意思確認だ。

 普段なら、声をかけたいとも思わない女だった。視界の端にこの女の姿が映った瞬間、彼はこんな暑いに日に黒いスーツなんぞ小賢しく着こなす姿に嫌悪すら抱いた。この女は自分のことが世界で最も愛しくて仕方ない人種の一人だ。挙句、他人の干渉を拒絶するかのように一部のすきも見せようともしない。こんな、ガードばかり固い面倒そうな女は、横目でちらりと見て、その自己愛に相応しい容姿なのかをチェックしつつ、素通りするのが一番だ。

 その女が立ち止まったのは、とあるバッグ専門店のショーウィンドウの前だった。たまたまその後ろを歩いていた男は、いつものようにちらりと盗み見て素通りするつもりだった。だが、それは出来なかった。

 一目見た瞬間、男は自分の心臓が震えるのを感じた。

 サングラスのフレーム越しにバッグを見つめる瞳は、神をあがめる無垢な少女のようだった。立ち姿は小賢しく生意気な女なのに、それを羨望するその心のみが純真。男は惹かれた。そのアンバランスな美しさに。

 この女はバッグに恋している。恋する女が美しいというのは、今のこの女の事を言うに違いない。

 彼はこの美しい女を手に入れたいと思った。だが、この女が軽い気持ちで遊べる女でないのは一目瞭然。だから彼はまず、彼は女が崇めるバッグを自分のものにしたのだ。

 賭けをしよう。そう切り出すのは、この男が女を誘う時の流儀だ。物品と引き換えに女を抱くなんて、娼婦を買うのと本質的には同じ事。そんなことは彼のプライドが許さない。だが、女にその気があるのに時間を費やして口説くというのも馬鹿馬鹿しい。だから彼は女を口説く時、女の欲しがる物をちらつかせた上で、こんな一方に極度に有利な賭けを必ず持ちかけて、女の意思を図る事にしているのだ。

 もし自分が女なら、いや、自分以外の誰がこの女の立場でも、降らないほうに賭ける筈だ。一晩の情事を、自分に許すつもりがないのなら。

 少し、この女を買いかぶりすぎたか。男は思った。案外、この小賢しいスーツも伊達で、誰にでも足を開くタイプの女なのかもしれない。彼女を口説くために相当な気合を入れていた彼は、内心拍子抜けしていた。当然降らないほうに賭けると思っていた彼は、どちらかと言うと、その場合の対策のほうに力を入れて、これからのプランを練っていた。だが、女にその気があるのが判った今は、タイムアップを待って型通りのデートを楽しみ、夜になるのを待てばいいだけ。こんなにあっけない幕切れ、想像もしていなかった。

 いづれにしてもバッグの出費は多少痛かったが、このぐらい、真剣に遊び、真剣に楽しむために必要な代価のうちだ。さてはて、ギャンブラーからギャンブルの楽しみを奪ったこの女、後でどれほど真剣に遊ばせてくれることだろう。

「こういう賭けはよくするの?」

 ほくそ笑みたいのを必死にこらえていると、女がそう聞いてきた。

「それは、女性を口説くのに、これと同じ手口を良く使うのかと言う意味ですか?」

 男が聞き返すと、女はどうぞお好きな意味に取って下さいと言いたげに肩をすくめた。

「これが初めてですと言って、あなたは信用しますか?」

「いいえ」

「お察しのとおり、初めてではありません。でも、この手を使うのは、あなたの想像以上に少ないはずですよ」

「どうして?」

「ギャンブラーにとって、ギャンブルはただの遊びではありません。真のギャンブラーは賭ける時、金品と共に自分の運命も一緒に賭けます。そして、そんな運命を賭けられるような出会いは、そう多くはありません」

 この口説き方をする時の常套台詞を男は披露した。これを言われると、大抵の女は頬を赤く染めるのだが・・

「じゃああなたは今まで、賭けに負けっぱなしだったのね」

 女のにべもない言葉に、彼の片眉がすっと上がった。

「なぜ、そう思うのですか?」

「だって、そんな大勝負に勝っていたのなら、こんなところでまた同じ手口で女を口説こうなんてしないんじゃないの?」

「ご心配をどうも。でも、それはあなたの杞憂です。負けたことがないわけではありませんが、その運命の賭けに勝利を収めることのほうが、今まで断然多かったですよ」

 それは間違っていなかった。彼は確かに賭けそのものでは負け続けだったが、最終目的は女を落とすことだ。目標とする戦利品を必ず得ていたと言う意味では、彼はこの手の賭けでは負け知らずだった。

「そして僕の勝ちを認めると、大抵の女は、同じように僕との出会いに運命を感じ、一晩か二晩、僕に付き合ってくれたものです」

「そんなのを運命の出会いって言うのかしら?」

 しかし彼女は、辛辣に言い返した。

「その女たち、あなたと一緒で後腐れなく遊べそうな気軽な男を探していただけだと思う」

「そうでしょうか?」

 女の遠慮ない言葉に、男は怒りを抑えながら言った。

「もしそうだとするならば、彼女たちは自分が必ず勝てるほうに、例えば、今回の場合雨が降らないほうですが、自分の運命を託したりしなかったはずです。彼女たちは必ず自分が勝てるほうに賭けていました。しかしそれでも最終的には、僕との一晩を楽しんでくれたものです」

「判ってないのね。それって彼女たちの策略よ。彼女たちは、品物も、あなたも、どっちも欲しかった。だから、どっちも手に入れられるよう、自分が勝てるほうに賭けていたのよ」

「それなら、あなたはどうなのですか?」

「私が欲しいのはバッグだけ」

「ではなぜ、雨が降るほうに賭けたのですか?」

 その問いに、女は答えなかった。

 何という侮辱だろう。怒りに胸が震える思いだった。バッグだけ、なんていきがっても、雨が降るほうに賭けた段階で結局は他の女たちと同じ穴の狢だろうが。そう言ってやろうと、彼は口を開きかけた。が、その一瞬前に、女がポンと手を叩いて「あ!」と声を上げた。

「もうひとつの可能性を見つけたわ。あなたの運命の女たちが、一夜限りであなたの元を去っていった理由。もしかしたら、あなた自身に問題があったのかも知れないわね」

「何だって?」

 先手を取られ、男は声を裏返した。女はちょっぴり頬を赤らめると、言った。

「例えばね、ほら、よくなかったとか」

 彼は刹那、この女を殺してやりたいと思った。しかしそれをぐっと押さえ込むと、不敵の笑みを漏らした。

「その本当のところがどうなのか、今夜証明して見せますよ」

「あなたが勝ったら、ね」

 女もそれに対抗するように、にやっと笑って見せた。

 なんて生意気な女なんだ。男は女への怒りを煮えたぎらせていた。

 まあいいさ。その分楽しみも増えたというものだ。ベッドを共にして、一番楽しめるのはこういう女が相手の時だ。服装にも態度にも一分の隙もなく、男への対抗心の強い女。そんな女をねじ伏せて、無理矢理快楽を与える時の高揚感は格別だ。

 よかった。雨は降るほうに賭けられた時は失望したが、やはりこの女は当たりだ。

 ゲーム終了まで後三十分。

 空は相変わらず、青々と晴れ渡っていた。


 それから二十分立経ち、タイムアウトまで後五分となっても、空模様は一向に変わる気配はなかった。

「そろそろ、これからのプランを考えましょうか?」

「プランって?」

 男が話を切り出すと、女は、まさぐっていたサングラスから目を上げた。

「もしよろしければ、これからお芝居にでも行きましょう。あなたが嫌でなければ、競馬場でもいいですね。夕食はフレンチではありきたりだから、スパニッシュにでもしましょうか。それから、ご案内します」

「どこへ?」

「僕は大抵旅行の時は、一流ホテルのスイートしか使いません。それとも、先に済ませてしまったほうがいいですか?」

「ちょっと待って」

 彼女は困って顔をしかめた。

「一時間には、後五分あるわ」

「正確には四分二十四秒です」

「どっちにしても、その間はまだ勝負は決まらないわよ」

「決まったも同然ですよ。後五分足らずで 積乱雲が発生して、スコールが降るなんてことはありえません」

「それはどうかしら?」

 女は不思議な含み笑いを見せた。

「賭け事って、最後まで何が起こるかわからないから面白いんじゃないの?」

 男は戸惑った。

 一体何を考えてるんだ、この女は? この後に及んでまで、勝負をまるで捨ててないその様子。降るほうに賭けた時点で、今夜の情事を承諾したという読みは間違っていたのか? いいや、常識的に考えれば、そんなことはあり得ない。仮にそれが間違っていて、彼女に一晩遊ばせるつもりが全くないのだとしても、今、自分の貞操が危機にあることぐらいは判るはずだ。そんな状況下で、何でこんな余裕すらある笑みが出てくるんだ?

 何か勝算があるのか? まさか!

 彼は自分の疑問を否定するために、パラソルの向うの空を仰いだ。

 その時、

 強烈なブレーキ音が、耳に響いた。

 男だけに限らず、オープンテラスに居た全員が、驚いて音のほうに目を向けた。

 その車は、テラスに面する路面を、道幅にはどう考えてもそぐわないスピードで飛ばしていた。それが先ほど女の子が出てきた狭い路地に差し掛かったとたん、急ブレーキをかけてハンドルを派手に切ってきたのだ。

 青空をも切り裂くブレーキ音、

 驚き叫ぶ通行人、

 そのまま硬直するテラスの客。

 そんな中、車は狂ったように道路を逸れ、歩道内の消火栓に体当たりした。

 男は思わず息をのんだ。自分たちの頭上から、バラバラという音が聞こえてきた。慌てて見上げて、彼は驚愕した。衝突の衝撃で緩んだ消火栓から、大量の水がスプリンクラーのように溢れ出てきたのだ。

「キャーッ! 雨よーっ!」

 テラスは大混乱だった。ウェイトレスはキャーキャー叫んで店の奥に逃げ込み、初老の男は慌てて折り畳み傘をバッグから取り出し、パラソルの下の老婦人は飲み物に滴が入らないようにと読みかけの本でふたをした。

 路地の角では灰色のネコが一匹、目の前の参事の原因がまるでわからないまま、その場から去って行った。

「ねえ、見て」

 唖然としたままパラソルの下から青空に舞う滴を眺めていた男に、女は指差した。その先には、小さくても七色に輝く虹が、テーブルと路地の間に掛かっていた。

「虹、出たわね」

「ああ」

「パラパラどころかバラバラね」

「ああ」

「じゃ、そういうわけで」

 阿呆のようにぽかんと口を開けて虹を眺めていた男は、はっと我に帰った。

「ま、待って!」

 彼女はテーブルの上の紙袋に手をかけると、そのまま持ち去ろうとしていた。

 男は慌てて女を止めた。そして、柄にもなく自分が焦っている事に気付くと、それを悟られまいと、にっこり苦笑して見せた。

「今のは雨じゃないでしょう」

「雨といっても色々あるわ」

 しかし女は、勝利の笑みも満面に言った。

「霧雨、みぞれ、お天気雨、そして今のは、あなたが決めた勝負ラインにぴったり当てはまる雨だったわ。パラソルが音を立てる以上の雨で、虹でも出れば尚可。ただし、私たちの頭上に降れば継続時間は問わない。そして時間は・・たった今、一時間経ったわ」

「でも今のは違う。消火栓の水だ」

「じゃあ聞くけど、ギャンブル的に言って、雨って何?」

「天が気まぐれで降らせる水、とでも言いましょうか?」

 自信なく、彼は言った。

「天の気まぐれ、つまり、運命の意思と言うのであれば、これだって立派な雨だわ。あのタイミングであの車が事故を起こし、消火栓にぶつかって水を撒くなんて、誰にも予測つかなかったことですもの」

「しかし・・」

「見苦しいわよ、ギャンブラー」

 それでもすがり付く男に、女はぴしゃりと言い放った。男は返す言葉を失った。

 消火栓の前では、車を運転していた男がおろおろしていた。カフェのオーナーがそこへ飛んできて怒鳴り散らす。今警察を呼んだから覚悟しろとダミ声が喚くと、運転手はひたすら頭を下げて、済みません堪忍してくださいというようなことを呪文のように繰り返した。テラスのほかの客たちは落ち着きを取り戻し、濡れた荷物を拭くなり支払いを済ませるなり、それぞれ身支度を整え始めていた。

 いつのまにかその場には、滴る水が日差しに輝く以外は普段と何も変わらない午後が戻ってきていた。

「あなたはもしかしたら、あの車が事故を起こすのを知っていたのですか?」

 やがて男は口を開いた。口調には、納得しきれない彼の心境が、ありありと浮かんでいた。

「まさか、私、エスパーじゃないもの」

「それなら何故、雨が降るほうに賭けたのですか?」

「さあね。でも、もし私が降らないほうに賭けていたら、あの事故は起こらなかったと思うわ」

「何故?」

「これが私たちの運命だったからよ。私とこのバッグとの」

 男は阿呆のようにあっけにとられた顔で、女を見上げた。彼女は続けた。

「このバッグは私のものになる運命だった。一目見た時、私はこれに運命を感じたわ。私には、これを自分のものにする金銭的余裕はなかったけど、運命の出会いって、その程度の障害では覆ったりしないのよ。そうしたら案の定、あなたが私の目の前に現れた。そしてこの賭けを持ち出してくれた」

「つまり僕は、あなたとそのバッグの運命を、運命たらしめるためだけに出現した男だと?」

「運命の出会いって、それほど強力で偉大なものなのよ。これは私の持論だけど」

「それじゃあ、こう考えることはできませんか?」

 去り行こうとする女に追いすがるように男は言った。そこにはすでに、ギャンブル好きなイギリス貴族はいなかった。

「僕とあなたの出会いもまた、運命だったと。あなたに声をかけたその時から、僕とあなたは、お互いを手中に収めるよう、運命付けられていたと」

「それじゃあ、私の持論をもうひとつ」

 女は男を見下ろすと、言った。

「この世に、運命じゃない出会いなんて、存在しないわ」

 そして女は飲物の代金をテーブルの上に放ると、サングラスを再びかけ、紙袋を持って去っていった。

 後には、今の言葉の意味を理解できずに悩む男が一人、青空と雨の滴るパラソルの下に取り残された。

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