第3話 「水底」
プヴリ・アヴィディの写本を見つけた日は、ナサニエルにも、特別な風が吹いたように感じた。
あまりに美しい陽光と、木々がもたらす影の涼しさ。色とりどりの光。
侵しがたい神聖さにみちた昼下がりの一幕の中では、自身の心も、決して疚しい想いに穢されてはいないと信じてしまいそうになる。
だが言うまでもなく”誓って”、自分は神の許しなど得るべきではない。そんな資格は自分には無いのだと、彼はもはや、誰に何を釈明するでもなく、習慣としてその言葉を小さく口にした。
写本を傷めないよう、わずかな掌の汗もぬぐう。巻き目の付いたそれを机の上に広げ、四方の端は、日ごろ持ち歩いている文鎮代わりの丸石で止める。意識が文字に向かう時ばかりは、ナサニエルも、闇の様に続く内省を忘れられる。
獣の血入りの伝統インクは、上等な鉄粉が手に入らない時に多く作られた。高価な羊皮紙に代わり、裏に蝋をひいた亜麻紙は丈夫で、ブナの木の、薪にされる幹のうちでも、その芯部から削り出して作るペンを、うまく慣らしてくれる。
それでも、思う儘文字を連ねるには、インクの継ぎ足しからペンの削りだしに握り方、紙の使い方まで、すべてにおいて熟練が必要で、ましてやその技術の集合が、一個の物語を完成させているとなると、あまりに貴重な「書」だった。
もっぱらこうして図書室で「読む」権利を与えられるのは、そうした技術の習得に前向き、かつその素養に、教父のお墨付きを得ている学徒だけである。
礼拝や講義は、おもに教父たちの暗記された教典を、耳から習得するもので、ごくまれに、これまた高価な個人用の黒板を持っている者がいても、早々にほかの欲求の足しに売ってしまうのが常であった。
「書く」ということがまさに、「文献」の保存と保管を意味し、また「読む」ということは、それを「記憶する」「学ぶ」と同じことを意味した。
したがってナサニエルも、今日はこれと定めた写本を前に、じっと、食い入るようにその痕跡を目と思考で追いかけ、韻律の美しい並びと、そこに秘められた「表現」は言わずもがな、間違いのない「文字」を、頭の中に、じりじりと"焼き付けて”いるのであった。
記憶する、という行為は、様々に例えられるが、ナサニエルにおいては、藁を燃やす様にじっくりと、艶めかしい細い炎が上がるその奥に、炭化し縮んだ、小さな「房」を眺めている感覚だった。
ふと、何かの陰影が意識の暗がりから逆光の様に浮かび上がる。チクリと額が痛んで手をやる。ほどほどの集中は心地よい忘却へと誘うが、炎のイメージは、呼び覚ましてはならない記憶にも繋がっている。
ナサニエルは、いまの自分が誇れるような能力の根元には、共通してその忌まわしい記憶があることを、その記憶こそが、自分を構成する種々の性質を生んでいることを知っている。呪わしくも、離れられない。そうした類の命綱のように、神の救いさえ退けてしまえるような。
三分の二ほどまで読み進めたところで、もぐもぐと口を動かし、気に入った節を口に含むように朗読する。
「彼の声は、澄んだ空気に似て、甘い水仙の香りを思わせた。エコーは彼に寄り添い、その声の幾分かを、自分のものにできないかと、同じように尋ねた。『君は誰?』と。出来ることならば、たくさんのことを、彼に伝えたかった。いかに自分が彼に心奪われ、いまもその瞳の輝きから、離れがたく思っていること。もどかしさのあまり、気が狂いそうになっていることを」
ナサニエルはこれが、恋の物語だと気付いた。もし、実際にこれを写すとなると、覚悟がいる。駄目ではないが、教父たちに自分がそういうものを好む人間だと、思われるからだ。
この聖堂に来てから、自身の感覚では相応の時間が過ぎ、年少の学徒からは兄のように、慕われてもいる。ただ、そうした周囲とはそぐわない自身が常につきまとう。彼の関心とはいったいどこにあっただろうか。
喉の奥、その名前の最初の音が舌先に、静かに弾むように落ちてきて空気に触れる。
”R”。
つづく後の音は、草を食むような苦い、ざらざらとした食感を運び、唇のところで、しかと止まる。
“ZY”。
ナサニエルは頭を抱えた。それでも、写本を吐息で傷めないように距離を保ちながらの姿勢で、ほかならぬその人の面影に支配されそうな思考を、全身で支えた。背骨を伝って大腿部へ流れた緊張の電流は、足先の感覚を麻痺させた。
呼吸が苦しくなり、噛んだ人差し指の腹は堅く、自分がそうして自制を保ってきた日々を想うと、少し落ち着いた。
「だめだ、今は」
日が落ちれば、夜がやってくる。それからでいい。ナサニエルは残りの部分をじっと、息を殺す様に読み進めた。
筆跡に残された、前任者の心の機微を追いながら、自身がペンを握る感覚を、右の手の平の上に想像する。そのしっとりとした木肌は、手の中に食い込むようにして馴染んでいく。ナサニエルは既に3本のペンを持っていたが、この前ようやく、自身で削り出したものを所有したところだ。
話の終わりには、水面に映る自身の影に魅入られた、美しいナルキウスの最後が描かれていた。だが実際彼は、何故「死んだ」のではなく、「花になった」のだろうとナサニエルは考える。
まるでこれでは人の身が、自身の恋情にも耐えないような安っぽい代物のように思えるではないか。
もし彼が本当に水鏡の中に、自身の窶れて衰えていく真の姿を認めることができたなら、彼は「死ねた」のだろうか。恋い慕っても、自分を顧みてもくれないような相手を、想い続ける不毛さに気づくことも、出来たのだろうか。
ナサニエルは、もう一度最初から最後まで読み直し、書棚の元あった位置に、そっと戻した。
図書室は、奇跡の様に輝く陽光に包まれ、格好の写本日和だったが、彼の他には、決まった机のある古参の教父が一人いるのみだった。
胸の上で、いつもよりゆっくりと、深く刻み下ろした十字は、間違いなく彼の人への”手向け”であった。ナサニエルだけが最期を看取った友人ロジーへの、永劫消えない後悔の印だった。
A MONDAYーある月曜日の懺悔ー ミーシャ @rus
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