(株)地獄 亡者管理部移送課 死神

青出インディゴ

第1話

 なにかを終わりにすることを「ピリオドを打つ」って言うけれど、適切な慣用表現じゃないと思う。日本語で書くなら「句点を打つ」と書かないと。もしくは「まるを書く」。

 このたび、私は自分の人生にピリオドを打つことにした。いや、句点かな? この期に及んでどっちでもいいけど。だけど「まる」だけは書けないな、私の人生。

 断崖絶壁。寒い。年の瀬のこんな季節によくここまで歩いてきたよね。自殺の名所って言われてるらしいけど。ネットで見つけた。東京のアパートから電車に乗って数時間。いなかの駅から歩いて数時間。移動してるあいだに決心がにぶるかなって思ってたけど、そんな気配は全然起こらなかった。

 崖の下で海が荒れてる。すごい音。カモメ一匹飛んでやしない。落ちたらすっごく冷たいんだろうな。一瞬で心臓が麻痺してくれたらいいけどそうじゃなかったら……。苦しいのはいや。でも、な……。

 そうやってもう半日くらい悩んでる。ブーツで崖の上を行ったり来たり。こんなブーツ、ばかみたい。ほかの女の人たちの真似して、ヒール付きなんて履いてさ。そんなことで人生が上手くいくと思ったの? メイクもコートも香水も、全部全部ばかみたい。似合うと思ったの? いまさらそんなことしても、過ぎた二十代は取り戻せない。

 もう終わりにしたい。でも苦しいのはこわい。どうしたら、どうしたら、どうしたらいいの。

 日がかげってきている。沈む太陽と、灰色の海。スマホを見る。四時だ。死ぬにはちょうどいい時間じゃない?

 行け、行け、行け! 死ね、死んでしまえ、私!

 私、走り出した。景色が上下に揺れる。崖。あと一歩。

 その時だった。

 信じがたい衝撃に体が襲われて、私は地面に転がった。

 最初は茫然として動けなかった。なにが起こったのかさっぱりわからない。意味不明。なにかがぶつかったみたいだけど。でも近くには木も生えてないし、進行方向上に大きな岩もない。

 それから体に痛みが襲ってきた。昔酔って駅の階段から落ちたことを思い出した。全身あざだらけで、内出血でしばらく動けなかった。あの時も誰も助けてくれなかったっけ。

「あっすいません、だいじょうぶですか?」

 上から声が聞こえて心臓がとまりそうになった。だってほんの十秒前まで崖には誰もいなかったのだ。“すいません”? それはいかにも、街の人ごみで思いがけず他人にぶつかってしまった男の声だった。

 私は顔を上げる。

 場違いな人間がいた。

 三十代くらいの男。黒いスーツ、黒いネクタイ、黒い革靴で葬式帰りみたいな服装。私、すぐ左手の指輪チェック。していない。

「すいません、立てますか?」

 彼は言って、私に手を差し出す。私はその手を取らずに立ち上がった。見ず知らずの人に体重をかけるのは申し訳ないし、思ったより重いんだなって思われたらいやだから。

 階段から落ちた時より痛みは少なかった。コートについた土を払えば元どおりな感じ。よく見たら、場違い男も自分のズボンの土を払ってる。たぶんこの人とぶつかったんだろうな。

 せっかくやる気になったのにひどい。しかもいったいどこにいたの、この人?

 無言でにらみつけると、彼は不思議そうにこちらをじろじろ見ている。

「あれ……おかしいな。あの、失礼ですが、まだご存命で?」

 私はキレた。

「なに、その言い方。あなたが邪魔したんじゃないですか。ご存命ですって? 私が死ぬの期待してるの? 死体マニア?」

 ひょっとすると興味本位で自殺を見に来た愛好家じゃないかって思った。そういう変な趣味の人って、今の世の中多いから。

 でも彼はあわてたようにそれを否定した。

「実は僕、こういう者でして」

 差し出された名刺に書かれていたのは

“(株)地獄 亡者管理部移送課 死神”

「つまり?」

「文字どおり死神ということですね。しかし少し早く出て来てしまいまして……。もうお亡くなりになったあとだと思ったんですが。僕たちは亡者の魂を閻魔大王のもとへ連れて行くのが仕事なんです」

「信じると思いますか?」

「なんともはや、タイミングをミスってしまって申し訳ありません。どうぞ気になさらず続きを」

 彼はしどろもどろだった。仕事で失敗したとき私もこんな感じ。演技にしろ、だいぶ真に迫ってる。

 どっちにしろ、人が見ている前でやる気になると思う? しかも誰だか知らない、こんなうさんくさい人の前で。女性だったらまだしも、男なんか絶対いや。なんでそう思うのかわからないし、今までに見ず知らずの人に観察されながら自殺した人がいるかは知らないけど、なんだか絶対いや。婦人科のお医者さんが女性だったらいいなって思うのと同じ感じかな。すごくプライベートなことだって気がする。

「今はもうできません」

「いや、本当に恐縮です。どうかお願いします。助けると思って。あなたの魂を運ぶのが僕の仕事なんですから。ああそうか。見ていられるとやりにくいのかな。どうも人間の感覚はよくわかりません。それならこれでどうです」

 彼は言うと、突然ヒュッと息を吸いこんだ。と同時に、目の前から消えた。

 私は悲鳴を上げた。

 一瞬にして人が消失した。そういうことよ。うしろ、横、どこ見てもいない。崖、木、岩、それだけ。夕焼けが不気味に輝いている。

 腰抜けた。立てない。

 突然空中でハーッと息を吐く音がしたとたん、さっきの男が姿を現した。前触れなく、まるでスイッチを入れたみたいに。

「まだですか? 息を止め続けるのも限界です。死神だって呼吸するんですよ」

「そ、そ、そんなこと言われても……」

「お願いです。どうか僕にこの仕事をまっとうさせてください。僕、本当に業務上のミスが多くて……いえ、それはこっちの話ですが、あなたの計画を邪魔するつもりはなかったんです。だからどうか続けてください。それとも死にたい気持ち、なくなっちゃいました?」

 死神に懇願されるなんてどういうこと? この世の最期に及んで、突然意味不明な世界の扉がひらいた。

 死神はしゃがみこんで私の目線と同じ高さでのぞきこんできた。本当に困ってる。彼も資本主義社会の労働者なんだ。地獄が株式会社制とは知らなかったけど。たぶん上司がいて、ノルマがあって、それを日々必死にこなしてるのかな。なんかいやね。

 私はため息をついた。

「死にたいですよ。でも人の見てる前ではできません。あなたが本当に死神なら、べつにかまいませんから、私の魂を今すぐ持って行ってください」

 死神はますます困ったような顔になった。

「それはできないんです。肉体が完全に亡くなってから魂を運ぶというのが規則なので。だからまず死んでください。それからお連れします」

 彼は営業スマイルなのか、自信なさそうに微笑んで見せた。

 彼は死神だと思う……たぶん。もしそうでなくても、私自身が死にたいって思ってることには変わりないはず。だから死ねばいい。でも彼の言葉に私はへそを曲げた。私っていつもそう。自分でも自分が思いどおりにならないの。

「もう無理です」

「そっ、それじゃあこれからどうするんですか?」

 立ち上がろうとすると、死神は追いすがるように両腕をつかんでくる。奇妙なほど冷たかった。やめてよ、触れられたくない。私は乱暴に薙ぎ払って、

「さあ……とにかくいったん東京のアパートに戻ります」

「本当に戻りたいんですか?」

 言葉に詰まる。そんなわけない。

 動きのとまってしまった私を見て、彼はしめしめと思っただろうけど、そんな感情は面に出さず、必死な様子で続けた。

「わかりました。確かに一方的でした。それでは取引しませんか。お互いウィンウィンになるように」

「取引? 死神なんかと……。だいたいそんなことしたら魂を売り渡すことになるって決まってる」

「どっちにしろ同じでしょう。これから死ぬんですから」

 ウーン、確かに。と悩んでいたら、死神、とんでもないことを言いはじめた。

「お亡くなりになるかわりに、ひとつだけなんでも願いを叶えてさしあげます」

 信じられる? この期に及んでも私は彼をホンモノだとは思っていなかった。でももしホンモノだとしたら……?

 願い。

「そんなことできるんですか?」

 前髪の中から上目づかいで尋ねると、死神は自信なさそうに笑った。

「普段はしないんです。でもぶっちゃけ切羽詰まってますんで。誰にも内緒ですよ」

「私、ナミヒラを殺したい」

 たぶん憎悪のかたまりみたいな顔してたんだろうな。死神はギョッとして私を見た。

「ナミヒラ?」

「私の死に場所は知ってたくせに、個人情報は調べてないの?」

「あっいえ、もちろん存じてます。えーとどこだったかな」

 死神は上着の内ポケットから黒い手帳を取り出してペラペラめくりはじめた。

「ああナミヒラ氏。三十五歳。移送対象者マサコさんの同僚。経理部。年収四百五十万。中肉中背のやや平凡な男。対象者との交際歴二年」

「そんなことまで書いてるの?」

「平凡というのは、あくまで調査係の印象です。僕じゃないですよ」

「じゃなくて年収」

「ああ」

 少し無言状態が続いたあと、私は唇をとがらせて言った。

「できるの?」

「殺すこと?」

「そう」

 死神は一瞬目を泳がせて、

「さきほども申しあげたとおり、僕ら死神は人間の生死に直接手出しはできないんです。しかしその代わりと言ってはナンですが、不幸にすることはできますよ」

「たとえば事故に遭わせたり?」

 死神はうなずいた。

「病気にさせたり?」

「少し時間はかかりますけどね」

「女と別れさせたり?」

「それなら簡単でしょう」

 私は息をついた。大きく大きく。人生最期になって、ようやく運が向いてきたってわけじゃない?

「取引してください」


 崖の上で目をまたたいたとたん、私たちは都内のマンションの一室にいた。

 なにこれ、モデルルームでも気取ってるの? ばっかみたい、ばっかみたい、ばっかみたい!

 そのマンションは、いかにもアーバンなオシャレ生活っていうのを再現しようとして、物にうずもれて失敗してるような部屋だった。どんなにオシャレなモノトーンのソファセットが置いてあっても、部屋に洗濯物が干してある時点でだめじゃん。

 心の中で盛大に難癖をつけて少し溜飲を下げていると、床にとんでもないものを発見した。

 子供のガラガラのおもちゃ。

 私、倒れそうになった。

 そこはナミヒラのマンションだった。ナミヒラと……彼の妻と、子。

 一度も入ったことがない。私と別れてから、彼はいつの間にか一人暮らしの部屋を引っ越していて、連絡さえもらえなかったから。

 奥のドアがあいた。

 出て来たのは、中肉中背のやや平凡な男。私は息をのんだ。嫌い、嫌い、大嫌い! 彼は見たことのない黄色のカーディガンを着ている。悪趣味!

「安心してください。僕らはある種の結界の中にいます。結界の向こう側の人間から僕らは見えませんよ」

 死神がなにかうしろでささやいているけど、頭がふわふわしてなんにも耳に入らない。目の前がぼやけていく。一年ぶりに見た彼の顔。少し老けた? 白髪が増えた? わかんない。そうであればいいなと願ってるだけかも。

 ナミヒラの目の前の床に私たちは立っているのに、彼は本当に気づかず、不審げな顔も見せずに、キッチンコーナーに行ってペットボトルのお茶を出して飲んでいる。

 立ってられない。

 ソファにうずくまっていると、死神が寄ってきた。

「だいじょうぶですか? おつらいようです」

 私は顔も上げずに首をふった。本当はわめきだしたい。でもできない。

「あいつが憎いんです。憎くてたまらない」

「僕は死神だからわかりません。非常に奇妙なように見えます」

 見上げると、隣に座った死神は眉毛を寄せたような表情をしている。

「彼は私を捨てたの。二年も付き合ってたのに……二年もよ! 三十代の二年がどんなに大事なものかわかってる? 私はもう一生ひとりぼっち」

「なんと言えばいいのか……」

「なんにも言わないで。どうせわかんない。私の気持ちなんて誰も。私のことなんて誰も考えてない。私は魅力がないから。昔からそうだった。学生時代は友達がいなくて。就活も苦しんで。やっとありつけた職は派遣。同級生はみんな上手くやってるのにさ。全部私が悪いの。人間的魅力がないから。要領が悪いから。本当にそう。だから一生彼氏なんかできるわけないと思ってた。でも三十を過ぎてやっと彼と出会ったの。彼は映画に行かないかって誘ってくれたの。それがきっかけ。私、結婚できると思ってた。人並みじゃない私でも、やっと人並みの人生のイベントを体験できるんだって。結婚式は呼ぶ友達がいないからどうしようって本気で悩んでたのよ。ばかでしょ? でも彼は私にプレゼントをいろいろしてくれたけど、指輪だけは決して渡さなかった。私、心待ちにしてたの。去年のクリスマスに近い頃だったわ、彼から呼び出しがあって、私ひょっとしたらって思ったの。でも告げられたのは……」

「別れの言葉だったんですね。それくらいはわかります」

 苦しくてしょうがなかった。私は泣き出していた。

「びっくりした。そんな気配感じとれなかった。もし私にもっと恋愛経験があったなら、もっと前から察してたのかもしれないけど。誰も私を好きになってくれなかったから。私は主役になれないの。社会の脇役。よく自分を好きにならない人のことを好きになってくれる人なんていないって言うでしょ。そんなの無理。誰も好きにならない自分のことを、自分だって好きになれるわけないでしょ!」

「人間は複雑ですね」

 死神は神妙に言って、黒いハンカチを差し出してきた。私は思いっきり顔をぬぐってやった。

「ナミヒラ氏はここで新婚生活を営んでいるわけですか」

「女の子が生まれたそうよ。どうでもいいけど」

「どうでもよくないからここに来たんでしょう。さあ立って。どうやってあいつらを苦しめます?」

 死神にうながされて私は立ったけど、どうしたらいいかすぐに思いつくわけじゃなかった。

「あなた偉いね。仕事に忠実で」

 かっこ悪いところを見せた照れ隠しもあって、少し世間話してみたくなった。死神は頭をかいた。

「実は最後のチャンスなんです」

「どういうこと?」

「この仕事をまっとうできなかったらいよいよクビだと上司に宣告されてまして」

 私は眉をひそめた。

「そう言えば、さっき自分はミスが多いって言ってたね」

「多いんです。僕、向いてないのかもしれません。別人の魂を運んだり、今回みたいに出現のタイミングを間違ったりして、怒鳴られてばっかりなんです。もういやです。でもほかの仕事もできないし……。とにかく今回だけは死ぬ気で、あ、いや、死神が死ぬことはありえないんですが、とにかくそういうような気持ちでです、やりとげなくちゃなりません。泣き落としみたいになっちゃってるかな。でも死神でなくなっちゃうと、強制的に転生させられてしまうんです。数百年間ずっと死神しかやって来なかったから、今更そんなことできっこないです」

 なんだか同情したくなった。上手くいかないのは彼も同じなのね。妙にシンパシーを感じる。けど、好きになっちゃだめ。どうせ私には魅力がないんだから。

「わかった。それじゃ、どうする?」

 ナミヒラはいつの間にか、私たちの向かいのソファに腰を下ろして新聞を読んでいた。

「あそこのナイフで刺すなんてどうです? あなたの姿は今、向こう側からは見えませんから、まるっきり事故だと思われますよ」

 死神はキッチンを指して言うけど、私はピンとこなかった。

「それならガス爆発は? 後遺症もなかなか」

「それはなかなか派手だけど、もっと苦しめたいのよ」

「手指を一本ずつ切り落として……」

「うーん、悪くないけど。そうじゃなくて、彼が私にしたことを反省させたい」

 考えこんでいると、死神がいいことを思いついたっていうような明るい顔で提案した。

「本人じゃなくて、家族を苦しめるというのはどうですか? 結婚できなかったことがつらいんでしょう? それならあなたを捨てたことで彼が得たものを苦しめたら」

 私は手を叩いてはしゃいだ。「それなかなかいいわ!」

 どうして気づかなかったんだろう。そうだそうだ、あいつの妻子を傷つけてやればいいんだ。私から彼を奪ったもの。私が得られないもの。そうだ、それしかない。

「行きましょう」

 そう言って死神は私の手を引いて、寝室へ向かった。

 部屋の中は暗くて、ダブルベッドに見知らぬ女が寝ていた。ショートカット。こんなのが好みなら、私だってしたのに。女らしくしないとモテないと思ってたからずっと髪を伸ばしてたのに。ムカムカしながら見回していると、隣にベビーベッドがあることに気づいた。

 赤ちゃん。

「どうします? 毛布をのどにつめて窒息させましょうか?」

 私は立ち尽くしていた。

 世の中なんて大嫌い。この世のすべては私の敵。早く命を捨てて楽になりたい。

 この一年ずっとそう思ってきた。それは今も変わらない。

 人間が嫌い。それ以上に、誰も惹きつけられない自分が嫌い。

 すべてぶち壊すチャンス。

 震えてるのはうれしいから? こわいから?

 そのとき、背後でドアがひらいた。明かりが漏れ入ってくる。ナミヒラが部屋に入ってきた。彼は私たちの横を素通りすると、ベビーベッドをのぞきこんで、それから寝ている妻のひたいにキスをした。彼女が少し眉を寄せて身じろぎするのが目に入った。

「まだ起きてたの」

「今寝るところ」

「キスしたでしょ」

 彼女はいたずらっぽく笑う。

「どうかな」

 と、彼はベッドにうしろ向きに座ってカーディガンを脱ぎながら言う。

「したじゃない」

 赤ちゃんが泣き出した。彼女は飛び起きてベビーベッドから赤ちゃんを抱き上げる。彼も歩み寄って、ふたりで泣き叫ぶ赤ちゃんをあやしはじめる。おろおろして、手慣れてない大人たちは、さかんにミルクだオムツだと騒ぎ立てている。赤ちゃんって本当に真っ赤。目をぎゅっとつぶって、小さな口をいっぱいにあけて、なにかを必死に訴えている。両親は小さな体をつぶさないように優しい手で、唇で、その子に触れる。その寝室には、かけがえのない時間が流れていた。今までもきっとそうだったんだろうし、これからもずっと。

 私は部屋を出た。あとから死神もやってきた。

 リビングにいても、赤ちゃんの泣き声はしばらく続いていて、私は両手で耳をふさがなければならなかった。それはしばらく続いて、やがてやんだ。私はボロボロ泣いていた。死神は困った表情でチラチラとこちらをうかがっていたが、なにかを察してはいるようでずっと黙っていた。

「取引はやめる」

 言うと、彼はあんぐり口をあいた。

「そんな殺生な」

「気の毒だけど」

 私は本心からそう思った。だけどあんな場面を見て、この家族を苦しめるなんてできるわけなかった。

「こんな気持ちになるなんて自分でも思ってもみなかったの。ごめんなさい」

「あ、いえ……ハハハ、はあああ……」

 最後は死神のため息だった。


 気づくと、私たちはあの断崖絶壁にいた。すっかり夜だった。寒空に星が広がり、雪がちらつきはじめている。

 闇の中、溶けこみそうな黒ずくめの男が言う。

「後学のために教えてください。なぜ苦しめるのをあきらめたんですか」

「愛してたから。彼のこと愛してたから」

「憎いんでしょう?」

「私認めるのがこわかった。でも言うわ。彼のこと愛してた! 本当に、心の底から! でもいつか自分のもとを去ってしまうんじゃないかと思って、自分でも認められなかったの」

「なぜ今そのことに気づいたんです?」

「あの目よ。彼女や赤ちゃんを見るあの目。あれが一年前までは私のものだった。あの目を愛してた。でも私、自信がなかった。自分からは言い出せなかった。こんなにもあなたを愛してるって!」

 死神は納得したようなしていないような表情で聞いていたけど、やがてあきらめたようにうなだれた。

「仕方ありません。最後の仕事は失敗だ。これでクビです」

「私の魂を連れて行かないってこと?」

「あなた死ぬ気がなくなったんでしょう」

 言われて初めて、私は自分がそうであることに気づいた。どうして? なぜ? 理屈じゃない。でも妙にすっきりした気分。

「行くところがないの?」

 私はおずおずと切り出す。家に誘ってみる? 今なら言い出せるかな……。

 でも彼は首を振った。心が張り裂けそうになる。同時に、言わなくてよかったとも思ってしまう。そんなにすぐ積極的に変われるわけじゃないし。

「一度地獄に帰ります。強制転生が待ってるので」

「転生って?」

「簡単に言えば生まれ変わることです」

 死神の姿が薄らいでいく。現世から消えようとしているのだ。完全に消えてしまう前になにかのつながりを保ちたくて、私は言葉をつむぐ。

「なにに生まれ変わるの?」

「人間ですよ、マサコさん。この姿のままでね。ではまた近いうちに」

 死神は完全に消えた。

 あとに残るのは闇だけ。波の音が遠く聞こえてる。本当にあったことなのかしら。でも胸の中にほのかな炎がうずまいている。

 もう一度崖の先を見た。そこにはもうなんの誘惑もなかった。私は背を向けて歩き出した。また数時間。きついでしょ。それでもこの足で歩いて帰ってみせる。もうそれしかできないもの。そうするしかできない。明日のことはわからない。でも自分をあきらめなくてもいいのかな。私、人を愛してたんだ。愛することができてたんだ。

 そう考えるとなんだかうれしくて、ヒールの付いたブーツで岩場を駆けだしていた。空から星がこぼれ落ちそうよ。

 これで私の体験したことは終わり。この先望みのものが手に入るかはわからないけど、もう少しだけ歩いてみよう。今日くらいは自分の人生に「まる」を付けてみてもいいかなって思うの。

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