4 Alter Ego

 〈聖十字総合病院〉に入院してから五日後の正午近く。

 麗らかな初春の陽射しの中、わたしは広大な中庭のベンチで日向ぼっこに興じていた。

 隣にいるのは、もちろん愛しの姫島さん。病院指定の、お揃いの柄のパジャマなのでなんだかペアルックみたい。嬉しすぎるのと恥ずかしすぎるのが一緒にやってきて、テンションはいつになく高い。看護婦さんにコーフンしすぎちゃ駄目って言われてるんだけど、姫島さんの前でそんなこと無理無理。


「ええっ、じゃあ明日には退院できるんですか?」

「そうだね」姫島さんははにかみながら、「ごめんね。僕のほうが一足お先にって形になっちゃうけど」

「そんなことないですよぉ。おめでとうございます! でもお見舞いには来て下さいねっ」


 姫島さんはわたしをつけ狙っていたストーカーの逆恨みを受け、ハサミでお腹を刺されてしまったのだ。可哀想な姫島さん。忌々しい二つの刃は胃袋を完全に裂いていたというけど、幸い致命傷には至らず、縫合手術も無事成功した。さっすが姫島さん、強運な上に回復も早いのね。

 で、問題のわたしはというと、慢性的な寝不足が祟ったのと精神的な負担が続いたせいで、最低のストーカー野郎から逃げ切った直後から、長らく昏睡状態に陥っていたらしいのだ。

 五十時間もの長い長い眠りから醒めた後も、体力の回復待ちと予後の経過を診るため、両手の指でも数え足りない日数の入院を余儀なくされた。絶対姫島さんより早く退院できると思っていたのに。身体の具合も別に悪くないし、第一ここ数日は脳波とかの検査と問診しか受けていない。ここでも飼い殺しってわけ? なんだかなあ。この分だと両足の指使っても数え足りなくなるかも。

 わたしに厭な視線を送り続けたストーカーは、自称探偵によって見つけ出され、次に同様の行為をしたら身分と住所を警察に明かすという脅しの下、放免となった。自称探偵の奴がそいつの正体を明かしてくれないのがちょっと気懸かりだけど、その辺は今後が安泰なら特に問題なしということで。

 盗まれた自転車もストーカーの仕業だったみたいで、結局それも戻ってはこなかったんだけど、まあ今後盗まれる虞がなければ心置きなく買えるわけだし、別にいいか。

 旅行先から素っ飛んで来たという祖父母はもちろんのこと、学生時代の友人らのほか、元〈すたじお・トランセンデンタル〉スタッフのマリンと御船さんも、わざわざお見舞いに来てくれた。あんな忌まわしい事件が続いたせいで、当然職場は存続不可能、御船さんはソーダケイク本部の事務へと異動、マリンはフリーのデザイナーになることを選択した。気に病んでいた失踪中の兄貴も無事実家に帰宅し、別人みたいにしおらしくしているそうだ。退院したらまた一緒にご飯食べよっか、と提案したら、シイちゃんそれだけはやめて、と有無を言わさぬ口調で返された。あんな怖い顔のマリン初めて見たかも。

 そうそう、元バイト君も一度だけ顔を見せたっけ。事件の真相が判明して、すっかり気が大きくなっていたのが最高に笑えた。

 最初の二件の犯行はプロデューサー神埼によるもの、そして神埼自身の最期はどうやら他殺に見せかけた自殺らしい、という警察発表を、まるで自分の手柄みたいに語るその姿はなんとも滑稽で、病室という少々陰気な空間に笑いをもたらすのに一役買っていた。

 後で姫島さんに確認したところ、例の自称探偵が証拠発見のために少なからず活躍したのだという。あんな捜査がなんの役に立ったのか、さっぱり判らないし未だに信じられない。いや、あの男のことだ、少しは偽証や裏工作だってしているはず。

 守衛さんから借りたビデオテープには何も映っていなかったというけど、案外別の誰か……真犯人とか? 映っていたんじゃないかしら。

 いずれにせよ、あの三日間以降、一人の犠牲者も出ていない。それはつまり、殺人事件が解決したということだ。とても喜ばしいことじゃないか。


「とにかく、にっくきストーカーとも話がついて、事件も解決して、めでたしめでたしですね」

「うん、そうだね」


 そう、何もかも終わったのだ。謎の視線も、殺人事件も、そしてわたしの仕事も。凡てが。

 あ、いっけね、お見舞いに来たといえば、忘れちゃいけないのがお隣の名犬シド。なんといっても、姫島さんの命の恩人ならぬ恩犬なんだから。

 このシドの首環、何かの拍子に外れてしまうことがあるらしく、前にも家を離れてどこかをうろついた末、心配する家族の許に宵の口ひょっこり戻ってきたことがあったという。

 そして今を遡ること数日、通算三度目となるシドのオス犬一匹ぶらり旅の旅行先が、なんとストーカーに襲われた姫島さんとわたしが倒れていた、あの地下倉庫だったのだ。動かないわたしたちの異常を察知して吠え立てるシドを怪しんだ近所の方が、大慌てで救急車を呼んでくれたってわけ。シドが見つけてくれなかったら、正直姫島さんの命はなかったかもしれない。わたしが連れていた散歩コース、相当シドのお気に入りだったみたいね。自転車置き場の百円均一の自販機で、休憩がてら栄養ドリンク買った後、地下倉庫で飲んで家に戻るっていう。

 だから、お見舞いに来たお隣さんがシドを連れてきたときは、長すぎて愛嬌振り撒くのをやめちゃうくらい、いっぱい頭を撫でてあげたよ。サンキュー、シド! 最高のワンちゃんだよ、あんた。


 ただ、凡てが終わったとはいえ、腑に落ちないことがないでもない。

 休憩室から取り寄せたわたしのパジャマを洗濯していたうちのお婆ちゃんが、ポケットの中から千円札を一枚見つけた。滅多に使わないポケットだし、多少のゴミならあっても不思議じゃないけど、千円札というのは妙だ。お札なら必ず財布に仕舞うし、そんな服で買い物に出るはずもない。

 あの思い出すのさえ恐ろしいストーカーが、匂いを嗅いだ駄賃に置いていったのだろうか。ああ気持ち悪い。どうせならもっと奮発しなさいっての。


「無双もお見舞いに来たらしいね」

「はあ」

「お土産置いてきたとか言ってたよ」

「あー、あの本ですか」

「本? あいつらしいや」眼を細めて微笑む姫島さん。

「はあ。まだ一ページも読んでないですけどね」

「茉莉ちゃん、すごい悔しがってたね。無双に会えなくて」

「ですねえ。あんな男のどこがいいんだか。口を開けば意味不明なことばっかだし」


 そうだった。あの日もあの男は、通常時の奇妙な言動に輪をかけた不可解な発言を連発していた。


「元気かい、電脳探偵嬢」


 病室に入ってくるなりそう言い、マリンのハンドミラーと少し大きな文庫サイズの本をサイドテーブルに置いた。


「マリンに直接返せばいいのに。すっごい逢いたがってたんだから。超個性的な探偵さんとやらに」

「二度手間。不合理だ」

「あ、そう。で、その本は?」


 表紙に眼をやると、〈捜神記〉の文字が。ああ、こないだ言ってた……。


「退屈してると思ってね。暇潰しに読んでみるといい。全部とは言わないが。君は犬と相性が良さげだから、槃瓠のエピソードとかお薦めかな。ちなみに我輩イチ押しの三つの頭の話は二百六十六話」

「わざわざどうも」わたしはテーブルから眼を離して、「あとさ、その電脳探偵っていうの、いい加減やめてくんない? わたし別に探偵じゃないし」


 ていうか最初から探偵なんて柄でもなかったんだけど。


「そうか。いい呼び名だと思うんだが、本人がそう言うなら……ところで、ええと、なんだっけ名前」

「もういいわ。好きに呼んで」

「取り敢えず君と呼んでおくよ。ときに君、本を読むに当たって、眼のほうはもう大丈夫なのだろうな?」

 は? 眼?

「眼って……眼はどうもしてないけど」

「なんだ、すっかり忘れてるようだな。大丈夫じゃないのは頭のほうか?」

「あんたにだけは言われたくないわ」

「地下倉庫の調査のとき、我輩が駆け足をしたせいで砂埃が立ったことがあったろう。あれ、わざとやったんだがね」

「知ってるっての。悪質な厭がらせよね」

「理由がある。ああすることで、〈獲物を引き摺った痕跡を消していた〉のさ。君らが勝手に〈獲物〉を見つけて、場所でも動かされたりしたら、あのニブチン男の囲い込みができなくなるからね。いや、あのときは済まなかった」


 獲物? ニブチン男?


「あのさ、何の話してんの? 全然判らないんだけど」

「なんだって? じゃあ我輩の謝り損じゃないか。今の取消し」


 謝ったにしては、謝意がちっとも籠もってない。

 男の奇言はそれだけに留まらなかった。わたしが憶えているだけでも、


「あのストーカーがしっかり見張っていれば、殺人事件はもっと早く解決してたかもしれない。肝腎なシーンを見逃す、とんだ役立たずだ」


 ?


「しかし、奴がそこを目撃していなかったおかげで、思いつきのしょうもないヘボ推理を警察に明かすことも可能となったわけだが。もし全部見られていたら、さすがの我輩も推理の捏造はお手上げだったろうな」


 ??


「そうそう、君自身は気づいてなかったと思うが、君には我輩の捜査にかなり協力してもらってたんだ。姫島くんのスマートフォンに送ったという顔写真のデータを使わせてもらったり、体臭を嗅ぐふりをして実は前日の食事の内容を調べたり……ま、それも体臭の一種にはなるのか」


 ???

 な、何を言ってるんだろう。わたしの顔写真をどうやって捜査に用いるの?

 次のもひどいぞ。わたしの体臭を嗅いで、前日の食事の内容を調べる?

 なんだそりゃ。なんのために?

 訳が判らなさすぎて、訊き返す気にもなれなかった。

 パジャマの件もそうだ。あれきっとストーカーが置いていったんだ、気持ち悪いったらありゃしない、と愚痴るわたしに、置いていったんじゃなくて、使う必要がなくなったから戻しただけだろうが、とつまらなそうに言い捨てたのだ。戻すも何も、あたしゃパジャマ着てお金使う機会ないっつーの。ったく何が言いたいんだか。


「そろそろお暇させてもらおうか」

「はいはい、さようなら」

「その本は君にあげよう」

「あ、そう? 要らないなら貰っとくけど」

「できたら、彼女たちにもよろしく伝えておいてくれ。ま、無理にとは言わないが」

「彼女たち?」

「〈麟音〉嬢と〈ヤー!〉君さ」

「は? それなんのジョーク?」

「なんでもない。では、ごきげんよう」


 そして男はそれっきり、わたしの前から姿を消した。

 姫島さんから頂いたベルギー土産と、わたしたちの記憶の中以外には、己がいたという痕跡をどこにも留めることなく。

 男はその後すぐに日本を離れ、また放浪の旅を再開したらしい。用が済んだらさっさといなくなる。恐ろしく合理的な男なのだと改めて思った。

 姿を見せないといえば、〈麟音〉も〈ヤー!〉も、結局のところわたしの前に現れることはなかった。一度として。わたしが一人で勝手に盛り上がって、騒ぎ立てていただけのようだ。こればっかりは自称探偵に顔向けできない。

 書置きの正体も、筆跡を調べていない鵜飼さんとプリンスのうち、時間的に可能だったプリンスということで落ち着きそうだった。

 とはいえ、彼がそんなことをした理由は不明だし、真相も未だ闇の中。改めて筆跡を調べてもいいんだけど、はっきり言ってそんな気は更々ない。過去は過去。過ぎ去ったことに拘泥してもしょうがない。

 いつだったか、筆跡について話していたとき、姫島さんがこんなことを言っていた。


「僕はね、過去っていうのは、以前あった出来事を漠然と指しているわけじゃないと思うんだ」

「え?」

「今の、今現在の自分が過去を創り出すものなんだってね。だから、過去を振り返って後悔しないためにも、今をしっかり生きていくことが大事なんだと思う」


 んもう、姫島さんってば。どれだけわたしを惚れさせれば気が済むのかしら。こっちはいよいよ破顔しすぎて顔崩れちゃってたかもしれない。今も当時のことを思い出すだけで胸がドキドキする。この過去は、この過去だけは絶対に忘れないようにしなきゃ。

 ストーカーの件も、三人もの死者が出た連続殺人事件も、今や過去のこと。

 そしてわたしはもう、次のステップに向け構想を練り直しているところだ。ゲームソフト制作は頓挫しちゃったけど、企画自体は余所に持ち込むこともできるし、いっそゲームから離れてもいい。小説の原作なんかに使えるかもしれない。

 形は違えど〈オルター・イーゴ〉の骨格は、精神は生き続けるんだ。わたしが不屈の意志を持ち続ける限り、新しい衣をまとって、何度でも、何度でもね。


「……ちゃん……理央ちゃん、どうかした?」


 姫島さんの声に、はっと我に返った。いかん、姫島さんの前で考え事に集中してしまうとは。要反省だなこりゃ。


「ご、ごめんなさい。なんでもないッス」


 姫島さんはにっこり微笑んで、


「前々から知りたかったんだけど、〈オルター・イーゴ〉って、どういう意味なの?」

「う。意味ですか」


 実はわたしも知らなかった。同名の音楽ユニットが大好きで、響きが良かったから採用したんだけど、意味は調べたことがない。元々外国語には疎いし。

 わたしは専らストーリー先行型なので、タイトルに関しては割とその場のノリや思いつきで決めてしまうことが多かったりする。そう考えると、就業以来最大の入魂作にしてはちょっと適当すぎたかもしれないけど。ただ、それもまあ個性の一つってことで。ああ便利だなあ個性って言葉。


「姫島さん、スマホ持ってます?」

「うん」

「じゃあ、それで調べましょー」

「そうだね」


 ここで自分の携帯を使っちゃうのは大間違い。調べられないこともないけど、スマートフォン覗き込みつつのボディタッチという自然な流れが真の狙いだからだ。さり気なく肩に凭れかかって、腕でも組んじゃおうかなーなんて。フッフッフッフッ、このゲームわたしの勝ちね。姫島さん覚悟っ。


「綴り憶えてる?」

「もちろんです。エー・エル・ティー・エー・アールの、イー・ジー・オー。多分ドイツ語ですね。ドイツのユニットなんで」

「独和だとネットで調べなきゃだね。英和辞典ならすぐ呼び出せるけど」

「英語っぽい綴りなんで、英和にも載ってるかもしれないですよ」

「そうだね、一応見ておこうか……Alter Ego、と。イーゴは英語のエゴのことかな」


 小さいキーを少しも苦にせず文字を入力する姫島さん。なんか可愛いかも。


「出た。えーと……」

「わたしにも見せて下さいっ」


 ぴったり寄り添って画面を覗き見る。

 辞書ツールの見出し語検索に入力された、〈Alter Ego〉の表記。その右側に発音記号。英語の発音はそのまま〈オルター・イーゴ〉となっている。ユニット名の読みは、英語圏のほうを採用しているのかもしれない。クラフトヴェルクをクラフトワークと読むように。

 文字が小さくてよく見えない。訳語がしっかり見えるところまで、わたしは顔を近づけた。


 ……自分も顔を近づけた。

 ……俺様も顔を近づけた。


 ん?


〈Alter Ego ――名詞(文語的)―― 他我・別の自己・分身・親友〉


 ……今の、何?


 ……今の、何??

 ……今のはなんだってんだおい???



(了)

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電脳の外の三つの革命《ドラマ》 空っ手 @discordance

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