3‐〈2〉 真の救済
始まりは見渡す限りの黒・黒・黒。
己と周囲の区別もつかない真の闇。自分という存在すら訝しく思うほどの黒一色に塗り固められた世界。
風の戦ぐ微かな音。聴覚がある。耳を持っていることが判る。
やがて己の肉体を取り巻く感覚に気づく。背中に、頭の後ろに感じる強張った感触。
自分が仰向けになって寝ていることが判る。いつもの蒲団とは明らかに異なる弾力。そこでようやく、周囲の暗闇が閉じた瞼の裏側であることを悟る。
眼を開ける。
視界から取り払われた漆黒に代わったのは、これまた黒の世界。まだ両の瞼を開き切っていないのか。
眼を擦りたい。腕は……ある。動かせる。腕を持ち上げ、睫毛のラインをなぞって目尻を擦る。
もっとしっかり眼を開けてみる。
未だ闇の中。ただし外界を判別できない無闇矢鱈な暗さではない。辛うじて眼につく物影。天井すれすれを真っ直ぐに這い進む、あれは配管のようだ。
見知らぬ一室にいた。
積み上げられた金属の資材。廃棄物だろうか。
何かの工場? 片隅に何かがが並べて置いてある。自転車だ。全部で三台。
風の音の臨場感が凄い。横に首を捻ってみて、納得した。この広大な空間は一方の壁がない。部屋が外に開放されており、表の風音が直接聴こえていたのだった。
壁側に顔を向けてみる。
……誰かいる。
声を上げそうになった。
誰かが、頭の辺りに座っていた。それもかなりの近距離だ。意識もなく横になっていたその傍らで、明かりも点けず一体何をしているのだろう。
起き上がろうと床に手を突く。感触が普通の床と違う。剥き出しの地面に直接敷かれた、厚手のビニールシート。
「気がついた?」人影がゆらりと動いた。男性の声だ。
「……ここは……」
続きを言おうとして、軽い眩暈感に額を押さえる。男性の手が、そっと肩口に触れた。
「無理しちゃ駄目だよ。君は疲れてるんだから。少し横になってたほうがいい。水要る?」
天然水入りのペットボトルを差し出してきた。封も切られていない新品。丁重に断り、改めて疑問点を質すことにする。
「ここは、どこですか? それに貴方は」
「僕は」
男性は一旦口を閉ざし、そして意を決したように顔を上げた。仄かに見える青みを帯びた相貌は、今まで眼にしたどの男の人よりも柔和で、けれども何故か辛そうに見えた。他人に言えぬ痛みを怺えているかのような。
「僕はキジマ。姫に島と書いて、姫島」
「姫島さん、ですか」
横座りのまま、今一度周囲を見渡した。やはり記憶にない場所。
「ここは地下の倉庫跡。君の家の真下に当たる、と思う」
「この上に、〈家〉が?」
自らを姫島と名乗った男性は、力なく頷いて、
「君は、〈麟音〉だよね」
衝撃だった。後頭部を殴られたような。
この人、名前を知っている……!
愕然とした。その瞬間の驚きようは、この数日に経験したあらゆる驚愕を、遥か彼方に追いやってしまうほど鮮烈なものだった。
「どうして、それを?」
そうか。書面で助けを求めた〈彩羽理央〉なる女性の、知り合いの人なのか。
「もしかして、彩羽理央さんのお知り合いの方ですか?」
「え、あ、うん」幾分狼狽気味に男性は答えた。明らかに迷いの生じている口調。「君が知らないのも無理ないよね、うん……理央ちゃんは、僕にとって大切な娘なんだ」
助かった……心の底から思った。
驚きの後に到来した安心感は、全身をくまなく包み込んで満ち足りた歓喜を呼び起こした。とうとう助かったのだ。謎の追跡者の毒牙にかかる前に、この男性は〈家〉を捜し出し、そして自分を救い出してくれたのだ……。
瞳が自然と潤んでくるのが判った。見られたら恥ずかしい、と一瞬思ったけれど、この暗さなら平気な気もする。
指の甲で眼許を拭っていると、出し抜けに男性が立ち上がった。
「誰か来る」
遠くに聞こえる乱雑な印象の靴音が、次第に音圧を増してきた。
「君はここにいて。出てきちゃ駄目だよ」
ペットボトルを地面に置き、男性が表のほうへ歩き出す。
どうも一人の跫音ではなさそうだ。しかもそれに混じり聞こえるのは、口論じみた人の声。
「痛いよ……ちょっ、痛いって」
「つべこべ言うな。ほかに手頃な紐がなかったんだ。有刺鉄線じゃないだけありがたく思いたまえ」
粘着質な若い男の声と、もう一つは朗々と響くこちらも若い男の声。
鉄骨の山が邪魔で、丁度人の集まりつつある出入り口の一帯がよく見えない。隙間から顔だけ覗かせる。
天井の果てた更に先にある緩やかな坂道を下りてくる、二つの人影。
一人は野球帽を浅めに被り、レンズの大きなサングラスを着用した背の高い男性。向かって右側に、手を腰の後ろで組んだ無精髭の男性。後ろ手に縛られているらしく、その鋼線の先を野球帽の男性がしっかと握っている。
「無双、もう捕まえたのか」
「こいつが無駄な抵抗をしなければ、あと十五分は短縮できたんだが」朗らかな声のほうが、出迎えた男性に声をかけた。「我輩の捕物帖、君にも見せてあげたかったよ。西部劇のロープ使いもかくやの見事なワイヤー捌き。手首の返しにコツが要るんだ」
「お前、その帽子……」
「戦利品。似合うか?」無双と呼ばれた野球帽の男性は、中指でサングラスのブリッジを押し上げニヤリと微笑んだ。
あれ?
眼許に手をやる。ない。眼鏡がない。にも関わらず、周辺の様子をはっきり目視できている。
視力が回復している。
どういうこと? 寝ている間にレーシックでも受けたのだろうか。不思議な日だ。今夜はなんだか次から次へと不思議が押し寄せてくる。
「そっちはどうだ? まだおねんねか」
「いや、起きたよ。安静にしてる」
「あの、お取り込み中申し訳ないんだけど」無精髭の男性が身をよじって訴えた。「ちょっとワイヤー緩めてくんないかな。もう逃げたりしないからさ」
「散々逃げておいて何を言うんだ」野球帽の男性は唾を飛ばしそうな勢いで、「全く手を焼かせてくれる。こっちだって警察に追われて大変だったのに」
「警察に見つかったのか?」最初の男性が尋ねた。
「ああ、我輩を追ってくるもんだから、しょうがない、自転車は途中で乗り捨ててどうにか撒いてやったが。なんだって犯罪者を追跡中の我輩が、警察に追われにゃならんのだ。そもそもあの自転車は〈ヤー!〉の奴が盗んだのであって、我輩はそれを拝借しただけじゃないか」
ヤー……
ヤー……!
〈ヤー!〉!!
胸許のざわめきが収まらない。
〈彼〉だ。〈彼〉の名前だ。きっとそうだ。
「そういやブレーキの調子も悪かった。〈ヤー!〉に突き倒された際、どこかブレーキの一部が壊れたんだろう。いい乗り心地だったし手放すのは惜しかったが仕方ない。むしろそんな故障車を乗りこなした技量に、我ながら眼を瞠るよ。暴れ馬を手懐ける名ガンマン的なね」
〈ヤー!〉……耳にするたびに、心にその三文字を認めるだけで、背筋が寒くなる。間違いない。自分を追っていた人物だ。それまで浮かれていた気持ちが一気に塞いだ。
やはり実在したのだ。謎の追跡者は。
〈彼〉は、今どこに?
「最近は影を潜めてたらしいが、今日はまた派手にやってくれたな。姫島くんがご立腹だ」
野球帽の男性の言葉に、縛られた男性の肩が小刻みに震えた。
「お、男がいたのか? そ、そんな様子見せなかったのに」独白めいた呟きは続く。「そうか、ここんとこパトカーがいたりして、俺が監視できなかったから、その間にくっついたんだな。畜生」
「監視とか言うな」
鋼線を引っ張られたのか、無精髭の男性が短い悲鳴を放ち膝立ちの体勢になった。髭以外には取り立てて特徴のある風貌ではない。多少陰険な印象は受けるものの、極悪非道な感じでもない。
「完全なストーカー行為じゃないか。その上彼女が購入した新品の自転車を二度までも盗み出して。このまま窃盗罪で警察に突き出してやろうか」
「窃チャなんて誰でもやってる。か、彼女だって」
無精髭の男性は絞り上げるように声を発した。たびたび口頭に上る〈彼女〉とは、一体誰のことだろう。
「彼女だって盗んでたんだ。俺と同じだ。俺と彼女は同類なんだよ。俺はこの眼で見たんだぞっ。わ、忘れもしない三日前。ビルを出ようとした彼女が急に引き返したもんだから、俺は仕方なく近場のファミレスで飯喰ってマンガ喫茶に戻ろうとしたんだ。そしたら、お店の駐輪場にあった自転車を、か、彼女が人目を盗むように持ち出してたんだ。俺は先月の終わりからずっと店にいたから、そのチャリが彼女のものじゃないことは知ってる。そんときは彼女のチャリが早すぎて行方を追えなかったけど、きっと彼女は自分の家以外のどこかに、盗んだチャリを隠してたに決まってんだ」
平板な口調で、無精髭の男性は訥々と語った。
片隅に並ぶ自転車に眼を向ける。あの自転車のことだろうか?
「家以外と言ったな。君は彼女の家にも行ったのか」
「おうとも、行ったさ。行くに決まってら。中に入ったことはないけどな。一昨日もだ。たまたま彼女を見かけて後をつけたんだ。彼女は郵便受けから何か取り出して、裏庭のほうに消えていった。俺は塀から身を乗り出して自転車置き場を視察したんだ。チャリは一台もなかった。隣の犬に吠えられて、慌てて逃げた。彼女の監視も断念せざるをえなかった」
「だから監視と言うな」
「あいたたたたっ! い、痛いです」
「で、盗んだ自転車はどうした」
「サ、サドルだけ外してほかは捨てた。俺の窃チャは崇高なフェティシズムに基づくものだ。彼女の肌が触れたものにしか興味ないし、意味もない。本当はハンドルも欲しいが、簡単に取り外せないから……いてっ! いててててて、手がもげる……」
「犯罪行為に崇高も糞もない。勝手に美化するな気色悪い」背中を靴底で押さえつけながら、野球帽の男性は手綱の要領でワイヤーを引っ張り上げた。「大体、君の美的感覚は女性選びの段階で既に狂ってるんだ。姫島くん、君だって例外じゃない。彼女のどこに美のイデアが備わってる。君らの美的感覚はどうにも理解に苦しむ」
「お、俺を馬鹿にするのか」項垂れる男性の瞳に、憤怒の炎が宿った。「俺は、妹と違って人を見る眼は人一倍あるんだ。彼女を紹介してくれたことは妹に大いに感謝してるけども、あいつ自身の趣味はとんでもない。最悪だ。昔からろくな男を好きにならない。今だって下らない男に熱を上げてるに違いないんだ」
「そうか、そりゃ災難だ。ろくでなしを見分ける能力は生きていく上で不可欠なのに。妹さんにはご愁傷様というほかないな。さ、立つんだ」
すげなく言い返し、野球帽の男性はもう一人を立ち上がらせた。
「長居しすぎた。姫島くん、後は任せる。我輩が対峙した自称天才狩人と違って、彼女はきっとデリケートな人格なのだろう。ミラーリング戦法は通じないと思ったほうがいい」
「判ってる。それに鏡なんか持ってない」
「ふむ。じゃ、こいつに見咎められないうちに退散するか」
腕を引かれ、無精髭の男性は厭々歩き出した。
「お、おい、どこに連れて行く気だ。警察か?」
「そんなんで心を入れ替えるとは思えないな。取り敢えず家族に連絡して身柄を引き渡す」
言われた男性の顔つきが豹変した。
「ま、待て! それはちょっと」
構わず踵を返すと、野球帽の男性は鋼線を持つ手をポケットに仕舞い込んで、すたすた坂を上り始めた。慌てて後を追う無精髭の男性。
「それから悪行の数々を全部暴露して、二度とここいらをうろつくことがないよう、家の人に監視してもらう」
「お、おい、やめてくれよ」後を追う男性も喰い下がる。「頼む、それだけは……じ、実家だけは」
「こういうタイプは、最終的に歯止めが効かなくなって暴走するのがオチなんだ。家で大人しく『堕落論』でも読んでるんだな。君はまだまだ堕ちきるだけの修養を積んでいない」
「勘弁して下さい……あっ痛い痛い! 助けて……」
弱々しい声がどんどん小さくなり、謎の男性二人は視界からも消え去った。
実際に起きたことだというのに、なんだか映写幕の向こうの出来事を見ているような、現実離れした感じだった。
「ごめんね。ちょっと長引いちゃって」
済まなそうに後頭部を押さえながら、男性が戻ってきた。
鉄骨に手を沿えて徐に立ち上がる。少しふらついたが、このくらいなら。
「大丈夫?」
「はい……あの、訊きたいことがあるんです」
「ん、なんだい」
しばしの逡巡ののち、覚悟を決めて口を開いた。
「先ほどの会話の中で、〈ヤー!〉という人の名前を耳にしたんですが」
「うん」男性の表情が俄かに曇った。
「なんだか、その人に追われている気がするんです。その人の行方、ご存知ではありませんか?」
「ああ、それなら心配要らない」複雑な顔つき。言葉を選んでいるのか、視線が宙を漂っている。「〈ヤー!〉は、もういないんだ。さっきのあいつが、完璧に追い払ってくれたからね」
「あの、帽子を被った方ですか」
男性は小さく頷くと、
「奇抜な奴だけどね。なんていうか、こういう普通と違う事件のときは、本当に頼りになる。今回もあいつの力がなければ、間違いなくもっと悲しい結果になっていたと思う」
「事件、ですか」とだけ呟き、黙り込む。
男性も何も言わない。完全な無音の故に、却って耳を圧するような静けさ。何から話せばいいのだろう。
「あの事件のこと、知ってるんですね」
男性は鼻の頭を軽く掻いて、
「うん。教えてもらった、と言ったほうが正しいかな。君が一縷の望みを託した書置きも、見せてもらった」
「……恥ずかしいです」
見られる心配はないのに、紅潮した頬を悟られるのが厭で、わたしは俯いてしまった。
当時のことを思い出す。あのときは必死だった。ただただ恐ろしかった。
「とても怖かったんです。あのナイフを見つけて」
ナイフの刃の形状を見て、居ても立ってもいられなくなったのだ。
〈刃毀れしているはずのない〉ナイフが。
「刃が欠けたナイフのことだよね」男性が口を容れた。凡て知っているようだ。
「はい。自分に関係のありそうな住所を、運良く〈家〉の中で見つけたんです。それでコンビニの地図で場所を調べて、そこへ向かうことにしました。手記と、ナイフを持って」
「余った年賀状に印刷されていた、差出人の住所だね。段ボール箱に入っていた」
「はい。本当は玄関のドアに挟んでおきたかったんですが、ナイフの置き場所に困ってしまったので、郵便受けに入れたんです」
思い出す。手記と共に受け皿に落ちたナイフの、コトンという硬い音を。
「彼……さっきの帽子の男が、僕にこう言ったんだ……この連続殺人は、計画的な犯行とは違う、殺人以外の行動が不可能な状況により生み出された、本意でない連続殺人なんだと。そして、その証拠があのナイフだとも」
一度口を噤んだ男性は、何かを振り切るように背筋を伸ばし、真剣な眼差しで前方を見つめた。前方にいる、この自分の顔を。
「犯人はそれ以上人を殺すつもりはなかった。だから、現場から持ち出した凶器をほかの人に託すことができた」
あれさえ見なければ。謎の刃毀れさえ生じていなければ、そのままナイフを処分してしまっても良かった。ボロボロに朽ちた刃を敢えて提供することで、その謎を解明してくれることを自分は願ったのだ。
「どうして、刃が欠けていたんでしょうか」
男性はその点についても説明してくれた。
恐れていた通り、あれは追跡者〈ヤー!〉の仕業なのだという。〈獲物〉を狩るための道具として利用したけれども、結局は使いこなせなかったということだった。
しかし、それでも疑問は晴れない。服のポケットに入れていたナイフを、忌まわしい〈ヤー!〉はどんな方法で持ち出し、のみならず元あった場所に戻しおおせたのだろう。
寝ている隙に? それなら何故そのときに、直接手を下さなかったのだろう。尋ねてみたい。訊いてみたいけれど。
突然、風景が大きく揺れ動いた。足許が揺れているのか? 判らない。
男性を見る。平気そうだ。ならば、揺れているのは……。
色彩が変わる。閃光。フラッシュバック?
視界が変わる。
暗い小径。今と似た時間帯。裏路地に入る。一人の男性が声をかけてくる。聞き慣れない名前で呼んでくる。
〈シイナ〉……椎名?
人違いだと告げる。男性は引き下がろうとしない。立ち去ろうとする。男性が追いかけてくる。追いつかれた。両肩を掴まれ、猛烈な勢いで問い詰められる。まさに鬼の形相だった。
「なんで逃げるんだ。シイナ、お前……まさか、俺のことを突き止めたのか? 俺の、俺が不正に……会社の金を……そうだな、そうなんだろ? だから逃げるんだな」
知らないと答えた。本当に知らないから。なのに、興奮の頂点にあった男性は追及の手を緩めない。いつの間にか、その右手にはナイフが。
「殺してやる。くそっ、殺してやる!」
殺される。
厭だ。単なる人違いのはずが、どうしてこんな目に?
死にたくない。
死にたくない。
殺されるくらいなら。
いっそのこと。
……動かなくなった男性の服で刀身に付いた鮮血を拭い、〈家〉に帰った。
洗面所でナイフを丹念に洗い、部屋に戻って後悔と不安に全身を苛まれながら、想念は程なくフェードアウトしていく。
ポケットにナイフを入れたまま……。
閃光。フラッシュバック。
陽が没する直前。手記を彩羽理央の許へ託した帰り道。
またしても〈シイナ〉の名で呼び止める、銀縁眼鏡の男性。眼鏡なんて珍しいな、と言われたけれど、これはいつもかけている眼鏡で明らかに人違い。しかし男性は話したいことがあると言って、無理矢理トンネル脇の花壇へ。そこで訳の判らないことを早口に捲し立てられた。
今の仕事に満足がいかないので新しい会社を立ち上げることにした、ついてはこっちの創立メンバーになってくれないか、まだ人員は少ないが軌道に乗ったら幹部にしてやる等々。身に憶えのないことばかり。人違いですと言うと、それが相手の自尊心を傷つけてしまったらしい。口調も内容も攻撃的なものに変わった。
つけあがるな、職場の女性連中とバイトの小僧のコンピューター処理能力は最低なんだぞ、特にお前は態度も横柄で生意気、せめてAVGスクリプトエンジンぐらいは使えるようになれ等々。これまた身に憶えのないことばかり。
疲れていたせいもあり、返事もそこそこに帰ろうとすると、それが相手の闘争心を刺激してしまったようで、両肩を掴まれて、さっきの新しい会社の話、誰にも言うなよ、と釘を刺された。ですから人違いですとやり返す。ふざけるなと怒鳴られる。人違いです。ふざけるな。人違いです。その繰り返し。いつしか男性の口から罵声が迸り出る。
「うるさい! 口答えするんじゃない!」
肩を掴んでいた手が、首に伸びた。
「どいつもこいつもバカばっかりだ! お前もか! お前も……うおおおおおおお」
極限まで釣り上がった目尻。下がった口の端。どんどん握力を増していく手の感触。
苦しい。殺す気だ。男性が食い縛った歯の、キリキリという軋りが尋常じゃない。邪気を含んでいる。殺される。
上からぐいぐい押さえつけられ、花壇に頽れる。地に触れた指が、割れた花壇の破片を探り当てた。後はもう、この狂気に囚われた男性の頭に、握った破片を打ちつけることしか考えられなかった……。
光は失せていく。溶暗。
夜。人気のない自転車置き場横の路地。救急車を呼んだのち、意識を取り戻した大怪我の男性。その開いた瞳に宿る驚愕の輝きが、
「なっ何しに……あ痛ッ……戻って、来たんだ……」
次第に恐怖に変わり、
「こ、こ、こ、殺す、気か……いててて……くそっ」
やがて殺意に変貌していく……。
「ちく、しょう……殺して、や、る、からな……」
まただ。昨日と同じの、一昨日と同じの、狂暴な眼光。
また殺される。もう厭だ。もうたくさんだ。
動けずにいる男性の頭を持ち上げる。砂利に叩き落とす。意味を成さない悲鳴。持ち上げる。叩きつける。悲鳴。持ち上げる。叩きつける。無言。持ち上げる。叩きつける。持ち上げる。叩きつける……。
「最初に気がついたとき、この建物の上の部屋にいました」
口を衝いて出る言葉を、半ば他人事のようにぼんやりと耳にする。
「二段ベッドの下で眠っていたんです。名前以外の一切の記憶を失って。翌日も、その次の日も、同じベッドで眼を醒ましました。ほとんどの時間を寝て過ごしたまま、相変わらず記憶の戻らないまま、ただ、自分を違う名で呼ぶ人だけが……殺した人の数だけが、増えていったんです」
脚に力が入らない。ポケットの上から太腿を強く掴む。
「教えて下さい。貴方なら、知っているはずです。自分は……自分は誰なんですか? 何者なんですか? 自分は、一体……」
男性の眼差しが優しい。風景は最前の地下空間に立ち戻っていた。見られているだけで安心できる、どこか懐かしい、そんな眼差し。
「確かに僕は知ってる。だけど、それは〈麟音〉ちゃんも気づいているんじゃないのかな」
語り口は穏やかだが、臓腑を抉るような言葉。やめて。そんなこと言わないで。
「思い出せない記憶の意味、別の名前で呼ぶ人々の意味、同じベッドで目醒めることの意味、睡眠時間が長い理由……君が今言った凡てが、君自身の推理を、悉く裏づけているんじゃないのかい」
そう。多分そう。貴方の言う通り。
でも、認めたくない。違う意見を聞きたい。こんな推理、こんな悲しい推理、採用なんてしたくないから。
思い出せない記憶……思い出すような記憶など、最初から存在しなかった。存在しない記憶なんて、思い出せるはずがない。
別の名で呼ぶ人々……全然見分けのつかない、瓜二つの人物がほかにも存在している。それは無理がある。もっと自然な、妥当な解釈がある。
同じベッドで目醒めること……同じ場所で寝ているのだから、充分に整合性はある。矛盾は起きない。
もしも自分の失われた記憶が、〈学生〉とか〈いずれヤー!に遭遇する〉といった必要最低限の設定だけを与えられた、作り物の記憶なのだとしたら。
では、どこにそんな記憶が発生するのか? もしもこの記憶が、ある人物の意識が創り出した、もう一つの人格の記憶なのだとしたら。
では、いつ人格が入れ替わるのか? もしもそれらの人格の転移が、〈睡眠中〉に限定されるのだとしたら。
では、睡眠時間が異様に長い理由は? 意識のない間は、別の人格が行動しているのだとしたら。実際に眠っている時間は、ごく僅かなのだとしたら。
残念だけれども、この推理は、凡ての事象に合致する。
創られた人格。それが……自分なのだ。
ポケットからハサミを取り出した。
切れ味は、試したことがないから判らない。でも尖端は鋭い。容易く肉体に突き刺さる。
真相を知っている人間を、生かしておくわけにはいかない。
自分は〈麟音〉。それ以外の何者でもない。相手の理解なんて関係ない。自分の別人格を知る者は、全員敵だ。初めて、自分は初めて自らの意思で、人殺しになる。
両手で強く握り締め、男性の様子を窺う。
……え?
その表情は、さっきと全く変化がない。
このハサミが見えていない? いや、見えている。ハサミを見て、わたしを見て、双方を視野に収めた上での、穏やかな表情。逃げようなどとは夢にも思っていない、諦観に満ちた両の眼。
地面を蹴った。
元々大して離れてはいない。一瞬のうちに互いの距離は詰まった。
どうして、逃げないの?
男性は棒立ちのまま。逃げるどころか、左右に躱そうともしない。自分なら、絶対逃げるのに。刺されるのが判っているのに。逃げられるはずなのに。
直立したきりの男性の胸許に、頭から飛び込んだ。
両腕に伝わる、不快な感触。
ハサミの尖端は、尖端どころか柄の上部は、全く見えない。男性の腹部に深く突き刺さっている。どこかの臓器には確実に達したはずだ。
逃げ出さないようにもっと力を込めた。どうもがいても抜けないように。男性の腕が伸びて、こちらの身体を離そうとする。そうはさせない。体全体を前に倒す。
……違った。男性の両腕は、背中を包み込むように掻き抱いた。これではこちらが動けない。
逃げられなくなったのは、自分のほうだった。
「麟音ちゃん……僕は、君を、否定しない」
温かい腕の上から、少し上擦った、けれども落ち着き払った声がした。
「どこから、生まれたかなんて、些細なことだ。君は、君なんだから」
自分は……自分が自分のままでいるためには、貴方を殺さなければならない。それを受け容れるということは、貴方が、貴方でなくなるということでもある。なのに。
それなのに、どうして。
「無双は……暴力に耐えかねて、人格が分裂したんだと言った。でも、そうじゃないよ。君は……君は」
自分は……?
「君はただ、家族が、欲しかっただけなんだ。昔と同じ、誰一人欠けていない……普通の、家族が」
家族?
「だから……だから、二人、必要だったんだね。お父さんと、お母さんの、二人分が」
よく判らない。家族なんて記憶にない……いや、家族の設定が、この人格には与えられていない。創られた人格の、自分には。
そう、これは本来の人格に向けられた言葉だ。自分にじゃない。
「だけど、君は、ずっと独りだった。誰の助けも借りられず、独りぼっちで生きていた。もしかしたら……この先もそうかもしれない」
厭だ。
厭だ厭だ厭厭厭。
もう独りは厭だ。耐えられない。自分の存在を否定する人たちしか、身の回りにはいなかった。今までずっとそうだった。これからも、そうかもしれないなんて。そんなのは厭だ。
「そんなことは、僕がさせない。僕は、君の、笑顔が……見たい」
止まらない。涙が溢れて止まらなかった。熱い。涙が伝う頬が熱かった。もう、笑顔なんて見せられない……。
「だから……僕は、君を、否定しないよ……だって、そんなことをしたら、君はきっと……もっと、き、傷ついて、しまうからね……」
どうして、傷つけられた貴方が、そんなことを言うの?
どうして放してくれないの?
どうして、貴方の腕が、胸が……こんなに温かいんだろう。
貴方の体が傾く。ゆっくり膝を突いて、そのまま動かない。
貴方の腕の中で、自分も動けない。指の先が生温かい。貴方の血が、服から滲み出た貴方の血が、この指を紅く塗らす。
貴方の服を慌ててまさぐり、携帯電話を捜した。視界は溢れ出る涙で役に立たない。あった。スマートフォンだ。見たこともない機種だけれど、使い方は大体判りそう。泣きながらどうにか119のキーを叩いた。応対に出た人にいくら叫ぼうとしても、もう嗚咽しか出てこない。救急です、場所はごめんなさい判りません、〈麟音〉です、自分は〈麟音〉です。ありったけの力で叫んだ。叫んだつもりだった。ちゃんと伝わったかどうかは判らない。
気がつくと、電話は切れていた。
顔をぐちゃぐちゃにして、まだ胸の中で肩を震わせて泣いていた。ごめんなさい。貴方の携帯、涙と洟で汚しちゃった。そんな自分の頬に、冷たい指の甲がそっと触れる。顔を上げる。自分を見下ろす貴方の顔が……笑っていた。
「り、麟音、ちゃん……泣か、ないで……笑って……」
それはもう、聞き取れないくらいに小さな囁きだった。
ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
胸に顔をうずめて叫び続けた。でも聴こえてくるのはワアワアという泣き声ばかり。もう喋るのは無理。自分はもう二度と普通の言葉を喋れないだろう。一生分の感情を出し尽くして、一生分の涙を流し切って……ここで、自分は終わるのだろう。
貴方の腕に抱かれて消えるのなら、それに勝る幸せはない。けれども貴方の腕から、温もりが奪われていくのは悲しかった。
ごめんなさい。やっぱり笑うなんて無理。別れの挨拶もできないなんて寂しすぎる。それに、こんなに悲しい幸せの笑い方なんて、最初から、設定されていないんだもの。
ごめんなさい。
ありがとうの意味も、さようならの意味も込めた、
ごめんなさい。
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