3-3(くどいようだが3-2じゃねえぞ!) Oh, No!! 天才狩人最大の危機!

 オッケーオッケー、オールオッケー。

 今日もつつがなく仕事を終え、我が城へ帰還中。こんなにも収獲が連続するとは、自分でも怖いくらいだ。天賦の才に加え、土地の地勢にもだいぶ慣れてきたのが大きいんだろうな。

 それに今日は凄く眼が冴えている。

 眼球に貼りついた膜が剥がれ落ちたかのように、鮮明に開けた世界は、頭がすっきりするような爽快さをもたらした。いつもと全く違う場所での目醒めに、初めは何が起きたのかと少々ビビッちまったが、その後間もなくして己の居場所が判明したときには、口から洩れる笑いを抑えられなかったほどだ。

 俺は夢の中にありながら、〈〉を追い求めていたらしい。なんせ、これまでに狩った〈獲物〉どものすぐ側で寝ていたんだからな。よっぽど狩りがしたくてうずうずしてたんだろう。そういや、いつもの寝床でも得物を失くしたり、寝惚けて戸の鍵をかけちまうことがしょっちゅうだった。単に規模が大きくなっただけの話で、別段珍しいことじゃなかったりする。

 金は持っていなかったんで、飯は諦めた。取りに戻るのも面倒だし、今日はあの店とは離れた一帯で狩猟を展開するつもりだったからだ。

 でもって、今回も手柄を上げることができた。四匹目の〈獲物〉。誰も褒めてくれないから自分で持ち上げる。さすがだぜ俺。俺最高。たまには誰かに褒めてもらいたいもんだがね。

 月明かりに厳かに浮かび上がる我が城。月よ、城と俺様を照らしてくれるな。狩人とその根城は、そこに立つ者の体の境界すら見分けがたくする、漆黒の世界こそ相応しい。

 〈獲物〉と共に城の地下へ。

 さっさと片づけて寝ちまうか。一日の大半を寝て過ごしてるってのに、仕事を終えると気が抜けて眠くなる。ちと時間が勿体ないが、それだけ一回の狩りに体力や集中力を費やしてるんだな。

 異変に気づいたのは、今日の収獲をいつもの場所に仕舞おうと、厚みのある覆いを取り去ったときだった。

 一匹少ねえ。

 減ってやがる。

 照明のない地下空間。だからといって数え間違えるはずがない。ここには三匹置いておいたんだ。それが二匹しかない。一匹なくなってやがる。

 どういうこった。逃げやがったか? いやいや、そんな馬鹿な。考えられない。

 こいつらは、自分の意思じゃ動けないんだ。

 辺りに眼を走らせる。鉄の棒や板切れや鋼線や、名称の定かでない鉄屑ども。それだけだ。肝腎のものが見当たらない。

 どこだ。どこへ行った?

 表のほうで物音がした。

 鋭く研ぎ澄まされた俺の視覚は、捜していた〈獲物〉が入り口の向こうから、強烈な眼光を発しつつ突進してくるのを捕捉した。

 しかも、それだけじゃない。

 二本の角に手をかけながら、〈獲物〉の背中を尻に敷いて座り込んでいる奴がいる。そっちは人間の男だ。知らない顔だった。

 何奴だ? もしや警察?

 いや、服装が全然違う。警官じゃなさそうだが。

 瞬く間に接近してきた〈獲物〉と人間は、騒々しい摩擦音と砂煙を立てて急停止した。


「貴様、何者だ? どうして俺の獲物に取りついてやがる」


 男は答えず、鮮やかな身のこなしで俺の〈獲物〉から降り立つと、ふてぶてしい顔つきで腕を組んだ。乗っていた〈獲物〉の眼光は嘘のように消えていた。


「一つ目の化け物に乗った異邦の騎士とでも言っておくよ。こっちは随分な劣化版というか廉価版だが」

「何訳の判らんことを。誰なんだ貴様は」

「お気に召さないか。なら〈麟音〉とでも呼んでくれ。麒麟の麟に音色と書いて〈麟音〉」

「なんだと?」


〈麟音〉?

 こいつ、〈麟音〉のことを知ってやがるのか。


「これで納得してもらえたかな。以後お見知り置きを」

「ふざけるな! 〈麟音〉は女だろ」


 何が我輩は麟音、だ。横柄な態度もそうだが、何よりその風貌が気に喰わない。これといって特徴のある容姿じゃないが、生理的嫌悪感を催さずにはいられないのはなんでだ?


「よく知ってるじゃないか。確かに〈麟音〉嬢は女性だ。それに我輩は君の名前も知っているぞ。君は〈ヤー!〉。異形のものどもを狩る賞金稼ぎのハンター〈ヤー!〉君だろう。はは、全くひどい名前だ。自分でもそう思わないか」

「あぁ?」ハンターという響きは悪くなかったが、その後の言いざまにカチンときた。

「個人名の末尾に〈!〉など付けないだろう普通。〈ノイ!〉とか〈ワム!〉とか〈ハドーケン!〉ならまだしも。文中でよければ〈ゴッドスピード・ユー! ブラック・エンペラー〉なんてのもあるが」

「ごちゃごちゃうるせえんだよ! 何を名乗ろうが俺様の勝手だ」

「名乗るだって?」男はニタニタと薄気味悪い笑みを口許に漂わせた。「なんて可哀想な御仁なんだ君は。本名も知らず、しょうもないニックネームまでつけられ、あまつさえその下らない名前に甘んじようというのか。嘆かわしい。名づけ親の浅慮を呪うべきだ」

「知るか、そんなもん!」俺は声を荒げて異を唱えた。「名前なんざ記号に過ぎねえ。ほかの何かと区別できりゃそれでいいんだよ」

「君の故郷じゃ記号論はさほど発達していないようだし、一つ我輩が講義してあげようか? 生徒としては致命的なまでに物分かりが悪そうだが」

「ごちゃごちゃうるせえっつってんだろうが!」


 男が怯んだ。というより少々辟易した様子で、


「参ったな。我輩はこんな乱暴者の相手をしなきゃならないのか。貧乏クジとはまさにこのこと」

「いいから質問に答えろ」こんな奴の調子に合わされて堪るかってんだ。「俺の城になんの用だ。それと、なんで俺の獲物を無断で持ち去りやがった」

「城……本気で言ってるのか君は? この建物のどこがお城なんだ。ここは五階建ての雑居ビルだろう」

「知るか! ここは俺様の居城だ。根城だ。俺が住んでいる場所は、誰がなんと言おうが全部城だし、俺が巨大な城だと思えば、そいつは天に聳える大城塞になるんだよ。んなもん気の持ちようだ」

「やれやれ、とんでもない論理の飛躍だな」男は頭を掻いたが、すぐに、「それに獲物獲物と君は宣ってるが、これの正式名称も知らないのか」

「〈異形のもの〉に名前なんざ必要ねえ。ていうか俺が質問してんだ。答えろ」

「異形、か。まあ君にとっては異様な形なのかもしれないが」男は図々しくも〈獲物〉の角の部分に手をあてがい、続けて言った。「無断で借りたのは確かに悪かった。許可を取る暇もなかったんでね。これに乗って、を捜していたんだ。、と言い換えたほうが適切か」

「ある人物だと?」そいつは俺の追っている〈麟音〉のことか?「〈麟音〉か?」

「外れ。〈ヤー!〉君、君とは一ミリたりとも関係のない人物だ。だから気にする必要はない。それと、目的はまだある。これに乗ることで、我輩が穿いているチノパンがを検分したかったんだ。百聞は一見に如かず……今のは我が国の諺なんだがね。君の地元じゃなんと言うのかな」


 知るかボケ。にしてもチノパンってなんだ? 男が今穿いているのをそう呼ぶのか? 汚れを確かめるってのは、するとどういうことなんだ?


「ただ、ズボンの汚れのほうは調査した意味がなかった。ご覧の通り、普通に乗っていれば油も錆も付着しないようだし」

「意味が判らねえぞ。なんでそんなことを調べる必要がある」

「警察連中が情報の開示を拒否したからだ。ズボンの汚れに関する情報を。でなければ人捜しに専念できたのに。しかも警官の巡回が気懸かりで、ろくすっぽ遠出もできなかった」

「警察?」予想しなかった名前に、俺は敏感に反応した。「貴様、警察に敵対してるのか」

「敵対なんて大袈裟なものじゃない。それを言うなら君のほうがずっと危うい。君のしていることは完全に違法だからな」

「構うもんか。あいつらの網の目を掻い潜るなんざ楽勝だ。武器は持ってねえが、いざとなったら素手でも痛めつけてやるさ」

「昨日の夜、大酒呑みの男をやっつけたようにか」


 小さな声だが、突き刺すような鋭さがある。俺は男を真っ向から睨みつけた。こいつ、どうしてそのことを知ってやがる。


「貴様、さてはあの場所に潜んでやがったな」

「夜の散歩に興じる時間的余裕などない。こう見えて我輩は忙しいんだ。溜まる一方の蔵書も早く片づけたいし。ちなみに今読んでるのは、かの美袋三条みなぎさんじょう先生の……」

「余計なことは言わなくていい。だとするとだ、どうして酔っ払いを倒したのが俺様だと判った?」

「それを説明するには、まず酔漢の当時の容態について説明せねばならない。話したいのは山々だが、君、最後まで真面目に聴いてくれるのか? 話の途中で出て行かれても困る……」

「ご託はいい。さっさと話しやがれ」


 ったく、いちいちうるさい野郎だ。

 おっ。風が吹くな。

 俺の読み通り、外からの突風が澱んだ空気を不規則な口笛みたく吹き鳴らし、足下の砂を勢いよく巻き上げた。天才狩人の勘はまだまだ健在ってな具合だ。


「その酔漢が負ったダメージは」頭髪を乱雑に靡かせたまま、男は風が収まるのを待たずに口を切った。「体の右半身に集中していた。現場の状況から判断するに、彼は自分の左側から攻撃され、右側に吹き飛ばされ地面に激突したことになる。我輩は不思議に思った。何故、彼を襲った人物は正面から攻撃してこなかったのか」


 昨夜の光景を思い返す。俺は確かに酔っ払いの横手に回り込んで、飛び蹴りをお見舞いした。


「理由は、酔漢が真正面からでは攻撃しづらい、もしくは攻撃の当たらない場所にいたからだ。彼はこの獲物のんだ。今の我輩のように。ご覧の通り、これは前方と後方に出張った形をしているし、設計上前後からの衝撃には強い耐性を有する。しかし横方向からの攻撃にはほぼ無防備だ。そこを突かれた酔客は横ざまに倒れ、その後の君の暴虐にも全く為す術がなかった。ところが、のちに救急車が駆けつけたとき、現場には酔漢の姿しかなかった。一緒に倒れていて然るべきが見当たらなかったんだ。何故か。彼を襲った人物が持ち去ったからだ。何故持ち去ったのか。その人物にとって標的は、最初から〈獲物〉のほうだったからだ」


 こいつぁ面白い。俺が起こした事件の様相を、こいつはそうやって逆方向から再構築しやがったのか。さながら俺がバラバラに破り捨てた紙屑を、破れ目の形状のみを頼りに組み立て直していくように。


「我輩は酔客が〈獲物〉に乗っていたという推理の地固めとして、を警察に尋ねた。残念ながら、この件に関してはすっかり徒労に終わってしまったが。ただ、もし酔客がこの〈獲物〉の本当の所有者であれば、警察連中だって捜査の過程で紛失に気づいたはずなんだ。しかし、これは実際には別の持ち主がいて、酔客によって盗まれたものだった。そのため警察は、現場を見ただけではこれが消失したのだという事実に思い至らなかった」


 ほう、そっちの獲物はあの酔っ払いの所有じゃなかったのか。まあ今となっては俺が所有者だ。前の持ち主が誰かなんざどうでもいい。


「なるほどな。だがそれだけじゃまだ説明が足りねえ。まだ何者の仕業か断定できねえだろ」

「君を疑うようになったのは、一本のが原因だ」


 ナイフだと?

 語学の天才の脳裏に、綴りと意味が一瞬だけ掠めて消えた。短刀のことか?


「加筆が施された書置きと共に置いてあったナイフの存在が、酔客の事件のおかげで我輩の捜査線上に再浮上した。もし警察が〈獲物〉のことに奇跡的に気づいたとしても、ナイフのことは知りようもないから、君の許に辿り着くことは決してなかったと断言できる」


 ああ、さてはあの短刀……あれは二日ぐらい前のことか。赤の他人の家の居間に、放り込んでおいたんだったな。丸めた書置きと一緒に。


「短刀がどうかしたのかよ」

「あのナイフは見るも無残に刃が欠けまくっていた。何故刃がボロボロになっていたのか。それは、〈獲物〉を勝手に動かされぬよう元々取りつけてあった金具を、これで壊そうとしたからだ。違うか?」

「当たりだ」俺は顎を撫でて一息吐いた。「だが、あれを置いていったのは俺じゃないぜ。ありゃ初めから、紙切れと一緒に郵便受けに入ってたんだ。俺はそいつを家の中に運んだだけだ」

「ほう。するとあのナイフは君からの警告じゃなくて、〈麟音〉嬢の置き土産だったのか……ああ、なるほど!」


 男は眼を見開いて語気を強めた。


「そういうことか。どうりで彼女が手放したくなるわけだ」

「おい、何一人でほざいてんだ。独り言は後でやりな」

「いや済まない。だがナイフは君が持っていたんだろう」

「確かに俺が持ってた。だが、知らんうちになくなってたんだ」どうでもいいことだ。喋ったところで困りはしない。「といっても、なんべん叩いても金具はちっとも壊れやがらねえし、ほかに使い道もねえから、消えたってなんの害もなかったがな」

「君は凄まじい割り切り方をする」呆れたように男は言った。「どうして〈麟音〉嬢の手許に渡ったのか、気にならないのか」

「んなもん普通気にしねえだろ。どこかで落としたのを拾ったんだろうさ。大体な、部屋の中で寝てたのに、眼が醒めたら城の外にいたことだってあるんだぜ。そんな些細なことでいちいち驚いてられっかってんだ」


 男が呆れ返った態で首を左右に振った。ふん、貴様の如き凡人に、俺様の豪胆ぶりなど解せるはずもない。


「ま、その図太さがあればこそ、初めて見る世界にも順応できるんだろう。順応というより無理解か」

「何を?」

「そうそう、君の文章見せてもらったよ」


 切替えの早い野郎だ。あの手紙のことか。


「なかなかの名文だったろ?」

「さあ、我輩は批評家じゃないんでね。にしても、えらく日本語が達者だなあと思ったよ」


 日本語?


「日本語っていうのか、この言葉」

「おいおい、自分が喋ってる言語も知らないのか。まさかとは思うが、ここが日本だということも」

「知ってるに決まってんだろ! 日本じゃなけりゃ一体ここはどこだってんだ」


 嘘を吐いた。なるほどな、ここは日本という国なのか。

 うーん? なんだか……懐かしい響きがする。


「俺様は、貴様なんぞ足許にも及ばん大天才だからな。見たこともない国の文字さえ、一日そこそこで読み書きできるようになるんだ。どうだ驚いたか」

「ああ全くだ。もしそんな語学の学習法があれば、特許を取れるよ。狩りに精を出さずとも大儲けだ」


 そう男は言い、乾いた拍手を送ってきた。本気で思っているのか怪しいもんだ。もっと驚けっての。

 ん? そういやこの男、俺と〈麟音〉の書置きを見ているんだったな。


「てことは、貴様あの家の人間だな! 〈麟音〉の奴が泣きついてきた」

「いや、あそこに住んでるのは名を出すのすら畏れ多い、優秀なる電脳探偵さ。我輩はしがない探偵風情」

「ほざけ。貴様は〈麟音〉に会ったことがあるのか? 俺の憎き因縁、宿命の敵たる〈麟音〉に」

「会ったことはないが、心優しい女性であろうことは想像に難くない。何故なら、彼女は倒れていた酔客を見兼ねて救急車を呼んだというのだからな。怪我人を放置した誰かさんとは大違いだ」

「ああ? 貴様も蹴り飛ばしてやろうか」


 足首を回して指の関節を鳴らす。むろん威嚇に過ぎないが、威嚇で済むかどうかはこいつの出方次第。


「〈麟音〉の奴、俺の後にあの酔っ払いのところへ行きやがったのか。チッ、余計な真似しやがって。まあ、あれでもかなり手加減したんだぜ。俺にとっちゃ〈獲物〉の捕獲が最優先だからな。十円もくれてやったし」

「十円玉は警察が持っていった」

「何だって? ひでえことしやがる。横領じゃねえか」


 男は表情の読み取れない能面のような面つきになった。実のところ、俺の心に浮かんだこの〈能面〉ってのがなんのことなのか自分でもよく判らないが、今は気にしない。


「確かにそうだね。君は動けない程度に痛めつけただけで、命にまでは手をかけなかった」

「当たり前だ。どこの〈ギルド〉が人間の死体なんざ引き取ってくれるんだ。アホか。狩る価値もないわ」

「そうかね。大口を叩く割に、君は相当杜撰な狩りをしていたみたいだが」


 途端に湧き上がる殺意。こいつ、ただじゃ置かねえ。


「そんなに狩られてえか貴様」

「我輩は事実を述べたまでだ。この〈獲物〉たちを嫌う深層心理の働きかけが、よっぽど強力だったんだろうな。同じ種類の〈獲物〉ばかり狙っていると、今は平気でもそのうち足がつくぞ」


 獲物たちを嫌う深層心理の働きかけ? なんだそりゃ。


「そもそも俺がそんなヘマをするもんか。デタラメばっかりぬかしやがって」

「防犯カメラの映像を確認したら、君の姿がばっちり映っていたよ」難詰するように男は言った。「昨夜と三日前の両日とも」


 防犯カメラ? カメラって……ああ、いつだったか香水臭い女と一緒にいた男が持ってた、あの機械か。映像を送信するとかいう。だが、男とはそれっきり二度と会ってないぞ。そんなもん、どこにあったんだ?


「こっそり裏口から出入りしていれば、こんな面倒起こさずにすんだものを……それに我輩は明日の午前中までに、ビデオテープを編集して君の姿を消去せねばならないんだ。どうせ間に合わないから、紛失したと偽って守衛の人に頭を下げることになるだろうが。君はどれほど感謝しても感謝し足りないくらい、我輩に貸しを作るんだ。物騒な言動は慎んでくれたまえ」


 判らん。言っている意味が。どうして俺の映像をこいつが消さなきゃいけないんだ。俺が狩りに赴いていた動かぬ証拠を見つけ、しかもそれを湮滅しようというのか。なんでだ?


「それはともかくとして、今日は夕飯を食べたのか? 栄養のバランスには気をつけたまえ。食事の基本は一汁三菜」

「関係ねえだろ」母親か貴様は。

「直接的にはね。我輩が言いたいのは、ガーリック定食ばかり食べ過ぎぬようにということだ」


 ガーリック、定食だと?


「どうしてそれを?」


 引っかかることだらけだ。この男、どうやって俺の昨日の献立を知りえた?


「我輩の嗅覚を軽んじてもらっちゃ困る。ガムの包み紙を嗅いだだけで味まで判別できるんだ。何せ名前に〈醇〉の字が入ってるくらいだからな。芳醇なワインの香りを楽しめるようにとの願いを込めて親がつけた……かどうかは知らないけれども」

「そんなことはどうでもいい」俺は荒っぽく足許の土を蹴りつけて、「早く俺様の疑問に答えろ」

「ヒントとなるニンニク臭を頼りに、後はこの界隈の食事処を当たっていくだけだった。足で捜す素人探偵みたいな真似はご免被りたいところだが、一軒目の定食屋のメニューにガーリックたっぷり照焼きチキン定食を見つけたときは、しめたと思った。日頃の行いがいいと、トントン拍子に捜査が進んでくれる」

「貴様、正直に言え。どこでニンニクの臭いを嗅ぎつけた?」

「君は自分の名前すら興味ないんだ、口臭如きを気に病む必要などない。実際、臭っていたのはごく微量だった。強めの香料でも着けていたら、我輩にも判らなかったかもしれない」


 口を挟もうとしたが、男は構わず続ける。


「当然、定食屋のオーナーにも尋ねてみた。これこれこういう見てくれの人物は来なかったかと。昨日の今日だ、彼も鮮明に憶えていた。普通はこんな店に立ち寄らないタイプの客だったせいもあるし、何より容姿と言葉遣いのギャップに驚いていた」


 オーナー? あいつか? あの口髭のことだな。


「風変わりな客だったと頻りに言っていた。念のため顔写真を見せると、間違いないこいつだ、と断言してくれた」

「おい待て。待ちやがれ。写真ってなんだ? 俺が撮られたのは、防犯カメラとかいうやつの映像だけじゃないのか」

「ふん、どうしてそこまで教える必要がある。そんな義務はない。第一、その定食だって他人様の金で食べたものだろう。君に横領をとやかく言う筋合いはない」

「何言ってやがる。ありゃ俺の金だ。俺の城の財布にあったんだから俺のもんだろ」

「なんというふざけた理論だ! いや理論ですらない。居直り強盗にも程がある」


 態度を硬化させた男だったが、不意に手で制し、


「待った。電話だ」


 と言って懐から何か取り出した。小型の電話……携帯電話というやつか。そしてそれを耳許へ。


「どうした? ……こっちはビルの地下……いや、そいつはまだ見つけてないが、〈ヤー!〉がいた。今一緒にいる……ああ……判った」


 いそいそと電話を切って、男は再度こっちを見た。


「貴様、誰と話してた? まさか〈麟音〉じゃないだろうな」

「キジマくんだ。君には関係ない」


 知らない名前だ。男は携帯を懐に仕舞い、


「まあいい。そろそろ本当の用件を言っておかないと」

「本当の用件?」

「我輩がこのまま手ぶらで帰るとでも? 今日は君を〈狩り〉に来たのさ。何を隠そう、我輩は真実を狩るハンターなのだからな。今までのは前置きと思ってくれたまえ。本題はこれからだ」

「なァにィッ!?」


 俺を狩るだと。天才ハンターのこの俺様を。


「面白い、やれるもんならやってみやがれ!」


 腕を翳し身構える。だが対する男は棒立ちのまま。


「ときに〈ヤー!〉君、君は昔話は好きか?」

「あ?」


 なんだと?


「いや失敬。君の本来の世界には、昔話が存在するのかすら疑わしいな」

「だから何言ってんだよ」

「問答無用、聞けば判る。昔、ある処に三人の人間が一緒に暮らしていた……違うな。暮らしていました。暮らしていましたとさ。いや、とさはもっと後か」


 ああ? さっきからなんなんだこいつは。


「やっぱり敬語はやめた。言い慣れないから舌を噛みそうだ。ええと、一緒に暮らしていた三人は、父親と母親と、その子供だ。三人は家族だった」

「おい、なんの話だ貴様。俺を狩るんじゃないのか」

「狩りにもいろいろ流儀があってね。これが我輩の〈狩り方〉だ。憶えておくといい」

「どこが狩りだ。ただくっちゃべってるだけだろうが」

「そんなに狩りをご所望なら、三人家族の父親を猟師か何かに設定してもいいが、実際のところ我輩もそこまで知らないし本筋ともおよそ関係ない……ああそうだ、君は家庭内暴力という言葉は知っているか?」

「何?」

「〈悪〉という概念の考察は慎重を要するもので……いや、実際問題、〈概念〉という言葉を持ち出した時点で既に本質からは遠ざかっているんだが……差し当たり悪には二種類あって、君がこの世界でしていた狩りを社会倫理に基づく悪と定義するなら、家庭内暴力は典型的な人間道徳上の悪と言える。外界に対する闘争にはやむなき点もあるだろうが、身内への攻撃は弁明の余地もない、言語道断甚だしい蛮行でしかない。それは連綿と続く共同生活の歴史においても根絶することの困難な、忌むべき罪悪の一つだった」


 こいつ、何を言い出すかと思えば。もう狩りの話ですらないぞ。すぐにでもその無駄口を妨害してやりたかったが、内容がかけ離れすぎていて、どう止めればいいのか判らない。


「貴様の目的は一体なんなんだ。何がしたいんだ?」


 繰り返し問いかけるも、効き目はなかった。


「言ったろう、昔話だと。とはいえ少々余談が過ぎたかもしれないな。最初の三人家族に話を戻す……父親の度重なる暴力に耐えかねた母親は、子を連れて父親の許を離れようとした。しかしそれは適わなかった。結局母親は夜逃げ同然に家を出て行った。年端もいかぬ子供を置き残して」

「意味が判らん。それのどこが狩りなんだ」

「もうしばらくご静聴願おうか」冷淡な声で男は続けた。「一つ屋根の下に、暴力的な父親と身を護る手段のない幼児。結果は眼に見えている。子供が父親と完全に縁を切り、その手続きをしてくれた母親の両親に引き取られたのは、母親が去ってから二年も後のことだった。母親が体を壊し他界するに至って、初めて二人は……子供の祖父母に当たるその二人は孫の窮状を知ったわけだ」

「それがどうしたってんだ?」


 お涙頂戴ものにしちゃあ陳腐な筋書きだ。俺様の心の琴線には些かも触れることがない。


「……以上が、電話に応じてくれたご老体の証言を元に再構成した、今から十二、三年ほど前の話だ。脚色も皆無ではないが、核心部分は正しく伝わっているはず」

「ケッ、作り話かよ」

「ひどい切り捨て方をしてくれる。補足は最小限に留めたつもりだ」

「名前の補足がねえだろうが。デタラメな上に手抜きかよ」


 俺は怒鳴りつけたが、こいつは単なるいちゃもんに過ぎない。訊きたいことはほかにあった。


「フン、まあ名前なんざどうでもいいがな。ところで、その電話に出たご老体ってのは誰だ。祖父母のどっちかか?」

「ご名答。元は母親のほうとコンタクトを取る予定だったが、亡くなっていると判り断念した」

「親父のほうはどうなんだ。そのろくでなしの親父は」

「ろくでなしの証言など聞いてなんになる。誰の利益にもならないだろう。ろくでもない」


 違いない……おい、ちょっと待て。こいつの調子のいい話しぶりに乗せられて、大事なことを忘れるところだった。


「おいこら、貴様なんでそんな与太話を俺にしやがった? 今日あったばっかりの、赤の他人同士なんだぞ。泣かせて油断させようってのか」

「泣くのは勝手だが、その前に質問を一つ」


 好き勝手喋り散らした挙げ句、今度は俺に質問か。人のことは言えないが、こいつも相当なワガママ野郎だな。


「二年もの長きに亘り、父親から絶え間ない虐待を受け続けた子供は、最終的にどうなってしまうと思う?」

「さあな。結構なひねくれ者になるんじゃねえの?」

「その程度で済めばいいが」

「大体なんで俺に訊くんだ。んなもん知るかってんだ。実際になってみなきゃ判るわけねえだろ」


 男は意味ありげに俺を見つめたが、一瞬のちには例の尊大な態度を取り戻して、


「極端な暴力に晒された人格は、往々にして歪んでしまうものだ。歪みもすれば……分裂だってするかもしれない。それが辛すぎる現実から逃避できる、唯一の手段なのだとしたら」


 分裂? 何言ってんだ?


「何が言いたいんだ貴様、歪むだの分裂するだの」

「そういう君こそどうしたんだ。なんだか顔色が優れないな」


 顔色だと? バカな。この距離で、この暗さでそこまで判るわけがないだろうが。

 ……だが確かに、お世辞にもいい気分とはいえなかった。言葉にできない苛立ち。胃のむかつき。不愉快だ。とにかく厭な感じだった。


「具合が悪そうだね。それはもしかすると、真実の暴露を恐れるが故の、心理的抵抗というやつかもしれない」


 真実の暴露? 心理的抵抗だ?


「なんだそりゃ。適当なことばっかりぬかしやがって。殺すぞこの野郎」

「荒っぽいな。無理は良くない。取り敢えず殺される前に、君の疑問に答えておこうか」

「疑問?」

「与太話を君に話した理由だよ。単純にして明快な理由さ……さっきも言ったが、防犯カメラに君が映っていた。だから我輩はありのままを喋った」

「だから意味が判らねえんだよ! 何度も言わすな。俺に判るように説明しやがれ」

「やれやれ、それが聞こうとする者の態度か。我輩に話す義理などないが、君は凡てを聞く義務がある。いいか、権利じゃない、これは義務なんだ。もう少し静かにしたまえ」


 うるさい。俺に指図するな。


「それにしても、与太話なんて言葉よく知ってるな。異世界の住人なのに。どこで習ったんだ」

「習ってなんざいねえ。俺様は天才なんだ」

「ほう、天才とね。まあ本人が言うのならそうなんだろう。ならば訊くが、ブテケ語じゃ天才はなんというんだ」


 ブテケ語……〈大陸〉の、通用語か。ブテケ語で、天才は……。


「う、うるせえな。んなもん、貴様には関係ねえだろうが」

「少々都合の悪い質問だったか。まあいい。ところで話はまた変わるが、キジマ君というのはね、ああ見えて、突然凄まじい勢いで勘が働くことがあるんだ。ごくごくたまにだが。たまーにね」


 また理解不能な戯言を始めやがった。こいつ思考回路にまとまりがないのか?


「彼はふとあることに思い当たったんだ。両親の話題が全く出てこないことにね。祖父や祖母のことは身の上話の中で頻繁に出てくるのに。生き別れたきりなのか、もしくは死別しているのか。理由はともあれ、一言くらいその旨の発言があってもよさそうなものだろう。それがちっともないのは却っておかしい。彼はそう考えた。我輩なら面と向かって尋ねるところだが、彼はそれができない性分だ。相手があっさり口を割るとも限らないし、結局別の方面から両親の件は調べ上げる必要があったわけだが」

「貴様……誰の話を、してやがんだ」

「そのご老体、母親の死については本人に打ち明けていなかったそうだ。もしも母親のことを尋ねられたら、包み隠さず話すつもりでいたそうだが、今日までただの一度も訊かれたことがないという。本人にも思うところがあるのだろう。自分と全く関係ない場所で、普通に暮らしてるとでも思ってるのだろうか。父親のほうは……たとえ憶えていても話したくないだろうし、ともすると本当に忘れてしまっているかもしれない。消したい過去はなかなか記憶からデリートできないものだが、想像を絶する辛い経験というのは、防衛本能が働いてきれいさっぱり忘れてしまうことがある……ま、長々と喋ってしまったが、我輩が言いたいのは」


 男はそこで言葉を切った。

 周囲を取り巻いていた気配が一変する。静から動へ。片手を服の穴に突っ込んだ姿勢のまま、男が一歩躙り寄る。


「とうとう、やる気になったか?」


 俺も戦闘態勢に入る。


「結局、人の心理を赤の他人が覗き込もうだなんて、不作法の極みもいいところなんだ。そこを判ってない輩が最近は特に多すぎる。キジマ君も然り。我輩がするのは他者への推測だけで、断定など一切しない。君にだって我輩の気持ちなど判らないだろう。それでいいんだ。無理解から生じる諍いなど瑣末なことだ。もっと質が悪いのは、他人の気持ちが判るという思い上がりから生じる諍いのほうなんだよ。そういう意味でも、坂口安吾が生んだ巨勢博士は天才的な思考の持ち主だった。史上屈指の名探偵だった」


 言うが早いか、男はスタスタスタと躊躇なく歩み寄ってきた。そのあまりにも単調な近づき方に、思わず面食らう。前言に違わぬ理解できない行動。がしかし、調子が悪かろうが俺は超一流の狩人。思うより先に体が動いた。

 腰を落とす。同時に足払い。

 当たった。と思った瞬間、男は最小限の動作で跳躍した。空を切る俺の右脚。


「ぬあっ……!」


 片腕を掴まれた。

 抜かったか。こいつの体術、相当なもんだぞ。


「野蛮だなぁ、いきなり蹴るかね普通。そういうところは誰かさんそっくりだが、手荒な真似はしたくないんだ。これでも見て、少しは大人しくしてくれ」


 男はもう一方の手を穴から出すと、何かを俺の眼前へ翳してきた。

 柄の付いた……小さな鏡。

 総毛立った。文字通り、全身の毛という毛が凡て。


「や、やめろ! それを、俺に近づけるな!」

「何を狼狽えることがある。ただの手鏡じゃないか」


 いや違う。俺には判る。


「お、俺は騙されないぞ。そいつも〈捜神鏡〉の仲間だろ。覗けば神の似姿が見えるとかいう、何人も近づいちゃならねえ不可侵の品だ!」

「こいつは意外だ。てっきり無神論者かと思いきや」男は不気味に微笑んで、「存外に信心深い。安心したまえ。覗いたところで神の姿なんか映らない。というより、本心は〈ただ単に鏡を見たくない〉だけだろう? 君は無意識のうちに鏡を、自分の姿が眼に映るのを避けていた。もうそろそろ、本当の自分と向き合う頃合いだと思うがね」


 男が鏡面をこっちに向ける。


「やめろ!」

「そうはいかない。誰であろうと……それが凄腕のハンターだとしても、いずれ現実は直視せねばならないんだ」


 鏡に俺の顔が映る。明かりはないが、この至近距離なら容易に見て取れる。

 鏡に映っている、俺の顔。俺の。


「ほら、よく見てごらん。何が見える。何が映ってる?」


 鏡に映し出された、


 ……ん?

 

 。だが鏡を見ているのは俺だ。

 そして映っているのは女の顔。なんだこりゃ。俺の顔が、女?


「バカな!」


 鏡を奪い取り、注視する。

 違う。違うぞ。俺は男だ。れっきとした男なんだ。俺はこんな顔じゃない。俺の顔は、俺の、本当の顔は。


「そんな、バカな……」


 俺の本当の顔は、なんなんだ?

 亀裂が走った。

 どこか、心の深い奥底の、俺を俺たらしめていた、大事な部分に。


「とんだニブチンだよ君は。自分の肉体が、成人男子のそれと何もかも異なっていることにちっとも気づかないなんて。いや、気づきたくなかっただけなのだろうな。潜在意識が本来の姿を気づかせまいとして、知らないうちに行動にストッパーをかけていたんだろう。一日の活動時間がほとんどないのに加え、中性的な衣服と髪型と貧相な胸に誤魔化されたのも大きい。これが夏場なら服を脱ぐチャンスもあったろうに。ただ、それでも着替えずに済ませたかもしれないがね。君の性格から察するに。ありえない話じゃない」


 俺は一体、誰なんだ?

 俺が、今の今まで俺だと思い込んでいた、この俺は一体。


「にしたって、鏡を見たことがないのなら、当然トイレにも行ってないわけだろう? トイレに行けば鏡に出くわしてしまうのだから。ホールクラスの膀胱のキャパシティーか、あるいは寝ているうちに用でも足したか。ま、無意識に寝床を移動できるんだ、それくらいの芸当は可能なのかもしれないが」


 こんな見慣れない世界で、見慣れない姿をしている俺は、俺は……俺じゃなかったっていうのか?

 なんだこれは。なんなんだ。


「憶えてるか? さっき我輩が自分を〈麟音〉だと言ったとき、どう反論したか。君はふざけるなと叫んだ。そして〈麟音〉は女だろ、とも言った」


 〈麟音〉……〈麟音〉……これは〈麟音〉の顔か?

 俺は、最初から女だったのか?

 俺は〈麟音〉だったのか?


「あの言葉は、そっくりそのまま君に跳ね返るんだ。鏡に映った君の姿さながらに」


 崩壊が始まった。


 ただでさえ暗い地下空間は、もう何物の存在も推し量れないくらい、めちゃくちゃに歪んでいた。

 〈獲物〉の姿はバラバラに寸断され、不愉快な男に至ってはこの高くもない天井を突き破る大きさに膨張し、ぐにゃりと折れ曲がり、破裂して霧散した。

 がしかし、音声だけは、男の声だけは異様なほどはっきり聴き取れた。


「巨勢博士の顰みに倣う我輩には、人間心理に深入りする資格がない。当然、あの書置きを深読みする道理もない。かの電脳探偵がどう頭を悩ませたところで、あれに書かれた日本語を見れば一目瞭然じゃないか。〈ヤー!〉なんていう人間が、現実に存在するわけがないんだ。そんなのは、それこそ与太話に過ぎない」


 何?

 

 こいつ……何言ってやがる。俺は居るじゃないか。現にこうして。俺は俺だ。それ以外の何者でもない。一流のいや超一流のハンターにして賞金稼ぎたる〈ヤー!〉様は、この俺を措いてほかにない。

 見ろ。消えたのは貴様のほうじゃないか。貴様を含む、世界のほうが消えたんだ。ざまあ見ろ。俺は生き残るぞ。この世界が凡て潰えてなくなったとしても。俺は元の世界で。狩りを続けるんだ。

 元の世界?

 俺は元の世界を知っている。

 が。

 そこへ行ったことはない。一時たりとも居たことさえない。記憶の中にしかない。元の世界。

 そんなものが。実際にあるのか?


「我輩はこれで失礼する」


 また声がした。すぐ間近のような。遥か遠い先のような。


「我輩の狩りも終わったことだし、もうじきキジマ君も戻ってくるだろう。人捜しはまだ終わってない。早いとこ次の悪漢……チャリドロ野郎を捕まえなくては」


 悪漢……その後はなんて言ったんだ。なんとか野郎と言ったな。誰だそいつは。言い返してやりたいが声が出ない。

 心が。

 内側から喰われている。

 そんな気がした。イナゴに襲われた作物のように。喰い荒らされていく。虫の嵐。そんな言葉がふと浮かぶ。まさに虫喰い状態の。心の片隅に。

 知らない言葉。いずれ知るであろう言葉。実は知っていた言葉。世界が壊れつつある今だからこそ。判ることもある。

 なんて皮肉だ。

 何もかもが暗闇に落ち込んで見えなくなりそうだった。声を出そうという努力すら。果てしない闇に落ち込んでいく感じ。

 世界のあらゆる凡てが消える。

 それは俺が消えるのと。同義なのか。


「結局この〈獲物〉が、君の最後の狩りになったわけか」


 そうらしいな。心の中で返事をする。相手に伝わったかどうかはもはやどうでもいい。


「そうだ、一つ伝言を頼む。我輩がこう言っていたと……盗品とはいえ、こんな乗り心地のいいものを廃棄するには忍びない、我輩が責任を持って貰い受けると」


 誰にだ。

 俺がしこたま痛めつけた。あの酔っ払いにか。

 あいつの命までは奪ってないことは。さっき貴様自身言ってただろうが。もう忘れてやがるのか。とんだ間抜けだ。

 まだ生きてる人間に。これから消えていく人間が。何を伝えるってんだ。打ち所が悪くて。看護の甲斐なく天に召されたってんなら別だが。

 それにだ。万が一そうだったとしても。そいつには二度と会えないだろう。

 俺はどこへ行くでもない。ただ消えていくだけだからだ。消えるだけだ。もうじき。

 俺の勘はよく当たる。


「なんだか今にも消え入りそうな顔だな」


 男の饒舌は止まらない。最後までうるせえなこいつ。


「不安か? だがそんな必要はない。消えると思ってるうちはまだ消えてないし、本当に消えたときには、そもそも消えたという意識すらない。だから君は決して消える瞬間を経験できない。君の不安は不要なものだ。心置きなくして、


 ……くっだらねえ。詭弁じゃねえか。畜生が。そんな戯言。

 とっとと消えてなくなっちまえってんだ。

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