3-1 第三の殺人と夜の来訪者

 えらいことになった。

 一昨日の朝から結構えらいことにはなっていたんだけど、今日聴かされた報せはそりゃあもうとびっきりのやつだった。我が社を襲っていた連続殺人鬼は、早くも三人目の犠牲者を生み出すに至ったのだ。

 次のプランが白紙状態なため、企画段階での準備作業がメインのわたしは社内にいても手が空くことが多かった。よって、御船さんやマリンの手伝いをする傍ら、なんとかスタッフ全員の署名がされた手書きの文書を入手し、夕食後には〈瞑想室〉で早々と眠りに就いた。社屋での寝泊まりに多少不安はあったものの、家にいて書置きや刃の欠けたナイフを投げ込まれるよりはまだましというものだ。当然就寝前には、こっちで勝手に就眠儀式に指定した、姫島さんとのメールのやり取りも忘れなかった。

 筆跡鑑定の件は、職場の誰にも明かしていない。従って、手書きの書類の捜索は必然的に単独作業となった。マリンや御船さんにまで嫌疑の対象を広げるのは気が引けたけど、どうせ他のみんなも調べるのだ。乗りかかった船で、二人がシロだということを自身の手ではっきりさせたい気持ちもあった。


 ところが、そんな思いを踏みにじるかのように、第三の殺人は起きてしまった。

 殺されたのは天下のプロデューサーディレクター、神埼大先生。


 明日は鵜飼さんの通夜、その翌日は告別式とプリンスの通夜という日取りなんだけど、この分だと合同葬儀になってしまいそう。それほどまでに事件のペースは衰えを見せず、殺人者はコンスタントに身勝手な処刑を繰り返していた。

 今朝、わたしを起こしてくれたのは御船さんだった。

 言葉少なにプロデューサーが殺害されたことを告げると、まるで自分が死人のような蒼白な面持ちで、涙を浮かべて会議室へ消えてしまった。無理もない。この職場全体を誰よりも大切に思っていたのは、ほかならぬ御船さんなのだ。

 わたしも早く行かなきゃ。顔を洗い、すっきりしない口の中を簡単なうがいで済ませたのち、手早く服装を整える。

 廊下に出ると、昨日は取調室になっていた向かいの一室が今日はやけに静かで人の気配もない。当然警察だって三件目の事件発生は知っているはず。どこへ消えたんだろう。

 不思議に思いながら会議室に入ると、パーテーションの奥が随分騒がしい。なるほど。捜査陣の拠点は、向かいの家具製作会社に間借りするのをやめて、会議室隣の応接間に移動していたのだ。三人目の犠牲者が出たこの職場内で、これ以上被害を広めてはならないという決意の表れに見えなくもなかった。

 でも、そんな新たな捜査態勢に水を差すようで悪いけど、事業部の一員という観点から考えると、もはや事態は完全に手遅れだった。名ばかりとはいえプロデューサーの地位にあった大先生の死は、この職場が壊滅的打撃を被ったことを意味していた。プロデューサーが最も得意としていた、お得意先へのおべっかもままならない。もう通常の業務は継続不可能だろう。

 どうしてこんなことになったのか?

 ここは一体どうなってしまうのか?

 不安は募る一方だった。

 会議室側のスペースにはわたしと御船さんしかいなかった。午前九時ちょっと前。そろそろマリンが到着する時刻だ。バイト君も今日は午後からのシフトだが、それとは関係なく呼び出されているはず。間違っても愉快とはいえない、気の滅入るような尋問の数々が待ち受けているに相違ないのだから。

 坊主頭の刑事が一人だけつかつかと歩み寄ってきた。簡単な自己紹介を済ませると、刑事は感情の読めない一本調子な声色で、


「取調べまでまだ時間ありますんで、朝食を摂っていただいて結構ですよ」


 しかし疲れたように首を振る御船さん。わたしも食欲はない。むしろ胃がもたれ気味だ。

 ふと気になってポケットの携帯に眼をやると、未読メールを示すランプが明滅している。姫島さんからだ。

 メールは全部で二件あった。時刻は……昨日の夜。

 しまった! わたしが寝ついた後も、姫島さんはメールを送ってくれていたのだ。しかも最後のメールは三十分も遅れて届いている。本文は軽い挨拶程度のものだったけど、きっと返信が来ないのをしばらく待っていて、更にメールをよこしてくれたんだ。嗚呼、それなのにわたしときたら、着信にも気づかずのうのうと寝ていただなんて……とんでもないことをしちゃった。

 フォローの電話をしなくちゃ。いや、ここはメールにしよう。すかさずお詫びの言葉を件名に打ち込み、また犠牲者が増えたことを送信した。こんなときに限って、送信の度合いを表すパーセントゲージが固まったして、こちらを何かとやきもきさせた。

 程なくしてマリンがやって来た。不快感を露に髪を掻き上げると、


「表に報道陣来てんの。あーやだやだ。まるでこっちが犯罪者になった気分」と言い捨て自分の席に着く。

 本日のマスコミご一行様は、こぞって玄関周りを陣取っているらしい。

 一日に一人ずつ殺されていくゲーム開発事業部の人間たち。傍から見れば相当センセーショナルな話題なのだろう。日を追うごとに加熱する報道合戦も、そう考えると不思議じゃないかも。こっちはいい迷惑以外の何物でもないけどね。


「いやあ、下でインタビューされちゃいました。フラッシュがバチバチーッて一斉に光って。スターってあんな感じなんスかね」


 だらしなく鼻の下を伸ばしたバイト君が、マリンに遅れること数分で到着、総員出揃った。そう、これでもう〈すたじお・トランセンデンタル〉のメンバー全員なのだ。

 長らく不動の面子だった七人は、たった三日で半分近くに減ってしまった。大幅な人員削減。しかもその三人は命を落としているのだ。彼らは二度と帰ってこない。未だに信じられない。まだ誰の死に顔も眼にしていないからだろうか。

 それから間もなくして、一人ずつ応接間に呼び出されての尋問が始まった。

 さしものバイト君もこのときばかりは借りてきた猫状態で、口角をわざとらしく下げて携帯をいじったり裏庭をぼーっと眺めたりしていた。


「もう限界ッス。俺辞めさせてもらいますよ」さっきまでとはおよそ別人のトーンで、誰にともなく呟く。「だって、ヤローばっかじゃないですか。今朝神埼さん殺られたって聞いて、俺ションベンちびりそうだったんスよマジで」


 ヤローばっか……ほんとだ。意外なところから鋭い指摘がもたらされた。確かにそうだわ。鵜飼さん、プリンス、プロデューサー。被害者は全員男。これは犯人の動機を特定する手がかりになるかもしれない。

 取調べを終えた御船さんが現れた。やつれた美顔とほつれた横髪が痛々しい。続いて名を呼ばれたマリンが重い足取りで衝立の向こうへ。


「やっぱあいつの仕業だったんですよ。コインランドリーで見張ってたあのヤロー! あーくそっ、あンときとっちめておきゃ良かったぁ。ケーサツに頼んでボディーガードでもつけてもらおうかな」


 コインランドリー。窓の遥か先、コンタクトで矯正された視野がその建物を捉える。

 距離がありすぎて人の有無までは確認できない。彼が見たという怪人物も気になるけど、イコール犯人という推断は少々早合点ではと思う。

 大体、彼自身はこの職場をどう思っているのだろう。日頃のぼやきぶりからして、優遇されていたとは言いがたい。徹夜の日数はわたしを軽く超えている。恨みこそすれ恩はないだろう。その上内部犯と仮定した場合、三人もの成人男性を殺傷するのに女性では荷が勝ちすぎる。

 となれば、残る男性陣は……。

 いかんいかん。どうも思考が懐疑的になっている。尋常でない雰囲気に呑まれているみたい。気をつけなきゃ。

 携帯の振動音。はっと手に取る。

 来た! 姫島さんからだ。それも電話の着信中。廊下に出たほうがいいかな?

 昨日、マリンが陣取っていた窓辺の一隅に立つ。


「お早う理央ちゃん。今平気?」

「あの、昨日はごめんなさいっ!」

「えっ?」


 返信しなかったことを口早に謝ると、姫島さんは気にも留めていないみたいだった。嘘だとしても嬉しい。そう、姫島さんはどこまでも優しい、優しすぎる人なのだ。

 感傷に浸る間もなく、今後の大まかな日程を話し合う段になった。事情聴取の後でよければ、予定はいくらでも空けられる。正午を目処に、近場で落ち合うことになった。そして、すこぶる残念なことにあの男――自称探偵――も同行するのだという。二人きりで逢いたい旨を姫島さんに何度か――三回は確実に――伝えたけど、結局聞き容れてもらえなかった。

 悪い奴じゃないし、理央ちゃんのためを思ってのことだから……ほかならぬ姫島さんにそう言われては仕方がない。聞き分けの悪い奴と思われても困る。



 やがてマリンの聴取が終わり、わたしの番に。

 神埼大先生の死に関するいろいろな情報。それと引替えに、前日とは比較にならないほど厳しい追及を浴するに至った。

 無理もない。同じ職場の人間が連日殺害されているのだから。毎日のように、じゃない。本当に毎日。一日一悪、いや一殺とでもいうべきか。一善とは程遠い残虐な行為を、殺人犯は倦むことなく続けている。

 しかもこっちは三件続けてアリバイなしの熟睡中ときては、眼も当てられない。言い逃れのしようもない。尋問が詰問調になっていくのも致し方ないことだった。

 大先生の死亡推定時刻。午後九時半からプラスマイナス十分程度。何故そこまで細かく絞れたかというと、前の二件と違い、昨夜はかなり早い段階で第三者からの通報があったらしいのだ。故に事件の発覚も早く、検死においてかなり正確な結果を得ることができたようだ。


「〈イン〉あるいは〈リン〉という名前の若いお嬢さんに、憶えはないですか?」


 アリバイについて坊主頭の刑事にこってり絞られた後、出し抜けにそう質問された。通報者の名前だという。あいにくそんな知合いは存じ上げない。

 そうですか……最後の〈か〉にアクセントをつけ、不服そうに腕組みする刑事。

 〈麟音〉という名前が、強いて言えば近いような気もしたんだけど、むろん口に出せるはずもなかった。そこからの説明が恐ろしく難儀な上、信用してもらえる見込みは限りなくゼロに近い。

 その他判明した幾つかの新事実。数日前に失くしていたICカードのスイカが、会社近くの交番に届いていたこと。重要度は低そう。

 死体の見つかった現場は、最寄り駅から五分ばかり歩いた先にある駐輪場だという。住宅の少ない区域で、昼間でも人通りは疎ら。大先生は舗装道路を外れた砂利の上に、横ざまに倒れていたらしい。

 直接の死因は右側頭部の数度の打撲による脳出血。ただし今度の死体はほかにも幾多の擦過傷や裂傷が見られ、中でも右肘・右膝及び右の骨盤は、いずれも骨に達するほど甚大なダメージを受けていた。頭部が無事だったとしても、一人で動くのは困難を極めたようだ。

 救急隊が駆けつけたとき、まだ辛うじて息はあったものの、それでもほとんど虫の息だったそうで、救急車で病院へと搬送中、死亡が確認された。付近の公衆電話から通報した謎の女性は、現場から姿を消していた。


「ま、貴女方も辛いでしょうが我慢していただきたい。関係ないと判っていても、こっちは調べなきゃならんことが山のようにあるんでね」と、刑事は軽口を叩くような砕けた口調で、現場の路上に落ちていた品物を列挙していった。これじゃ清掃のボランティアですよ、と自嘲気味に笑いながら。

 空き缶、十円玉、所在不明のサインペン……。


「サインペン?」

「……左様。なんの変哲もないサインペンです。青色の。何か心当たりでも?」年季の入った手帳からチラッと眼だけ動かし、すかさず訊いてくる。

 うわ、なんかまずい。


「い、いえ、別に」

「……」


 無言のままこっちを見つめている。標的を射竦めるような強い視線に、息が切れそうになるのを懸命に怺えた。


「表面が滑らかすぎるせいもあって、何者の指紋も検出されなかったそうです。ま、指紋が見つかったにせよ、おおかた事件とは関係ないブツでしょうが」


 淡々と語り、刑事は眠そうに目頭を抓んだ。


「その代わり、犬の唾液が付着していたそうですがね。被害者の顔にも。インさんもしくはリンさんは、犬の散歩でもしていたんですかな」


 犬の唾液? どういうことだろう。

 まあ犬の件はさておき、自称探偵の小面憎い相貌が真っ先に思い浮かんだ。

 まさかこいつが? イメージは掻き消すことができても、膨れ上がった疑念はそうそう潰えない。

 あの男はペンを捨てた場所を知っていた。つまり、こっそり取り戻すことも可能だった。怪しい。実に怪しい。一度捨てたペンをまた拾ってまた捨てる意味が判らないけど。

 あるいは。あのペンを最初に持っていたのは〈ヤー!〉……を名乗る何者かだ。〈電脳探偵〉とからかわれるのも辞さないなら、〈ヤー!〉その人も圏内に入れたいんだけど。とにかく、それら〈ヤー!〉に該当する人物の仕業なのだろうか? いや、それもないか。何故捨てたかという点で結局袋小路にはまっちゃう。ペンについてあれこれ考えるのはよそう。

 いずれにせよ、たかがサインペン一本で刑事に余計な疑念を持たれたのは確実。あの自称探偵のせいだ。やっぱりあいつに関わるとろくなことがない。好きで関わってるわけじゃないところが、余計腹立たしい。


「ご協力ありがとうございました。ではですね、陸奥景清さんを呼んできて下さい」


 事情聴取が終わった。

 挨拶もそこそこに会議室に戻り、バイト君に親指で行け行けと指図する。渋面の面長が不承不承腰を上げた。

 室内にはわたしと、もはや仕事をするどころじゃない消沈ぶりの御船さん。マリンはいない。重苦しい。かける言葉の一つも見つからない。下手に話しかけないほうが良さそうだ。

 姫島さんとの約束の時刻まで、まだ時間がある。〈瞑想室〉に行こうと廊下に出ると、隅のほうでまたしても携帯電話を片耳に当てたマリンに遭遇した。いつにない深刻な表情。しかも今度は完全に顔を見合わせる恰好となった。


「昨日も電話してたよね。そこで」


 電話を切ったところで、思い切って話しかけてみた。


「うん。あの後ろ姿、やっぱりシイちゃんだったんだ。会議室に入ってくのがチラッと見えたんだけど」

「ごめんね。立ち聞きするつもりはなかったんだ。ひそひそ話だったから、つい気になっちゃって」

「いいよ。大したことないし」


 でも、そう言うマリンの顔は固く強張ったままだ。何かを思いつめているのは明らかだった。わたしは何も言わずに彼女の携帯をぼんやり見つめた。

 やがて訪れる静寂。廊下の反対側から聴こえる捜査員らしき人々の雑談が、そんな微妙な対照を際立たせていた。


「……兄貴がね」初めに沈黙を破ったのはマリンだった。「ほら、シイちゃんも一度会ったことあるでしょ。半年ぐらい前に。兄貴とあたしとシイちゃんの三人で。憶えてる?」


 すぐに思い出した。駅近くの大手家電量販店に用があるとかで、昼食を一緒に摂ったんだった。記憶を手繰り寄せる。中肉中背で十人並の容姿。なんだか下ばかり向いていて、二言三言しか喋らなかった気がする。明朗闊達かったつなマリンとは逆ベクトルの印象。血縁者には到底見えなかった。


「それがね、実家を飛び出しちゃって、ずっと連絡が取れないみたいなのよ」

「連絡が取れない?」

「三日前にいきなり実家から電話があって、もう一週間も兄貴が電話に出ないって言ってきてさ」


 発端は今年の正月に遡る。

 一ヶ月ほど知己の家へ世話になると言い、年末バイトを辞めたマリンの兄が実家を出たのが三箇日明けのこと。ところが二月に入っても帰ってくる様子がない。心配して電話を入れると、今一人旅の最中、金銭面は問題ない、今カプセルホテル、といった返答がしばらくはあったらしいけど、じきに電話にも出なくなった。念のため兄の知人に確認したところ、やはり二月の初めに出立しているという。特に目的地を明かすでもなく。

 昨日ここでマリンが言っていた、正月明けから、兄貴の連絡先……という言葉の断片は、それのことだったのか。


「なんだ、そうだったんだ。なんか暗い顔してたからさ」

「ふふ、らしくないでしょ」マリンは健気けなげに口許をほころばせて、「あの兄貴に限って、まさかそんなことはないとは思うんだけどね。時期が時期だけに、ちょっと気がかりで」


 ……うちの連続殺人事件に、関係しているかもってこと? それは未だ行方をくらましている、容疑者としてなのか。それとも、もしや、第四の……?


「考えすぎだって。元気出しなよ」


 マリンが落ち込んでいると、こっちまで悲しくなってくる。


「ん、ありがと。今日も姫島さんとデート?」


 曖昧に応じるしかなかった。ろくでもない探偵狂が一匹ついてくるからだ。


「その素人探偵はどんな感じ?」

「どうもこうもないわよもう。最悪も最悪」


 大袈裟におどけてみせる。マリンは幾分表情を和ませてくれた。うん、暗い顔はマリンらしくないよ。

 彼女は窓の下を見下ろして、


「やっと帰ったみたいね。マスコミ」

「えっ? こっち裏口でしょ」


 さっき窓際で電話してたのも、もしかして下から見られてた? それこそストーカーだよ。


「朝なんて四方を全部取り囲まれてたのよ。一体いつまで続くんだろ、こんなこと」


 こんなこと……マリンの言う通りだった。一刻も早く終わらせたかった。マスコミの注目も迷惑だけど、早く終わらせないと、次も残る誰かが、四人目の犠牲に……。



 化粧と服装の最終チェックを済ませ、出かける間際に会議室を覗き見る。するとどういうわけか、マリンとバイト君が真剣な面差しで奥のパーテーションを凝視していた。


「どうしたの?」

「しっ」唇の前に指を立ててマリンが手招きした。「大変よ。今御船さんが尋問受けてんだけど」


 あれ? 御船さんの順番はとっくに終わってるのに、なんでまた今頃。


「鵜飼さんの横領の件で、再度取調べだって」

「え。それってまさか」

「横領に加担した疑いあり、ってことですよ。そこからこう、芋蔓いもづる式に余罪が出てくるのを狙ってんですね、ありゃあ」


 バイト君の無責任な言いざまに、手にしたポーチで一発ひっぱたいてやる。ギャッと一声叫んで頭を押さえる彼を差し置いて、わたしはそのまま部屋を出て行った。

 違う、警察が間違ってるんだ。御船さんはそんな人じゃない。なんだかもう、訳が判らないよ。早く姫島さんに逢いたい。

 階下へのエレベーターを待っていると、それ以上に待ち侘びていた電話の呼出し音が鳴った。グッドタイミング。姫島さんはもうこのビルの前に到着しているとのことだった。


「はい、すぐ行きます。玄関ロビーで待ってて下さい」


 一階に降り立ったエレベーターを早足で飛び出す。些か露光のオーバーな表玄関を背に、少し離れた二つの人影。片方は完全に不要なんだけど、こればっかりは眼を瞑るしかない。


「姫島さん!」手を振って駆け寄る。

「理央ちゃん、こんにちは」


 にこやかに微笑む姫島さんの横で、上下とも昨日と同じ服の自称探偵は、顎に手を当て無人のロビー空間をじっと眺めていた。黙って動かずにいる分には、なんら常人と変わりない。もうちょっと奇をてらった恰好でもしていれば、こいつの正体に気づきやすくなるのに。

 などとぼんやり考えていると、男は唐突に、んん? と声を上げ、顔をわたしに近づけてきた。そして至近距離で小鼻に皺を寄せる。眉間には幾筋もの縦皺。


「な、な、何?」


 ぎょっとして身を離す。男は興味を失ったように眼を虚ろにし、


「フレグランスの類いはなし。化粧っ気も薄い。背恰好も幼児体型。姫島くん、こんな色気のない小娘と付き合ってて何が楽しい」

「無双、お前何のつもりだ」

「むろん調査の一環だ。電脳探偵の性的魅力に関する」


 な、何を言い出すかと思えば、事件となんの関連もないセクハラ発言。なんなんだこいつ……早くもヒートアップの予感。


「それはともかく、我輩の邪魔だけはしないでくれたまえ。今日は調べることが目白押しなんだ。仲良くやろうじゃないか」


 誰が探偵同士だ。うやうやしく差し出された手を完全無視。しかしこんなことでめげる男でもない。


「姫島くん、ちゃっちゃと片づけてご飯にしよう。腹ペコだ」

「理央ちゃんご飯まだだよね。もうちょっと我慢できる?」

「わたしたちだけで食べに行きましょーよ。ほら、神聖な犯罪捜査に色恋沙汰は禁物だって誰かさん言ってたし、邪魔しちゃ悪いですよ」


 姫島さんはわたしと友人を交互に見やりつつ、いや、でもそういうわけには……と語尾を濁す。煮え切らない感じ。


「君らがいても別段問題ない。昨日言い忘れたが、リチャード・ハル――といってもニューヨーク・パンクじゃない、あっちはハルじゃなくてヘル、地獄のヘル――話が逸れた、閑話休題。ハルの〈探偵小説とその十則〉第八則には、『文章のうまみやユーモアは必要』とあり、続けて『恋愛はあってもいい』とある。恋愛ロマンス大いに結構。我輩の手際を見て捜査の参考にするもよし」


 誰がするか。まあ姫島さんが同行してくれるなら、わたしに異論はない。着たきり雀主導による、探偵の真似事に付き合う次第と相成った。

 ガラス張りの玄関横に用意された黒革ソファーに座り、ポーチに入れておいた全員分の手書き文書を姫島さんに渡した。もちろんわたしが座ったのは姫島さんの隣。昨日は初顔合わせということもあって仕方なく特等席を男に譲ったけど、もう遠慮はしない。


「ありがとう。それでね、昨日あの後、手紙の筆跡と理央ちゃんの筆跡を診断してもらったんだ。一応、僕と無双の分も併せてね」

「姫島さんもですか?」

「何事にも公正を期すのが我輩の流儀」


 興味なげに応じる自称探偵。あんたにゃ訊いてないんですけど。

 本格的な鑑定だと、コンピューターに筆跡を取り込み様々な角度より解析するという手の込んだものになるらしい。ただ今回はサンプル量が少ないこともあり、機械類は用いずに文字の形態・筆の送り・運び・筆圧等を目視考量するという簡素化された筆跡調査に留まった。

 結果の記された紙を、姫島さんはガラステーブルの天板に置いた。


「五種類の文字に関しては、全員が別人だと判明したよ」


 何やら細々と鑑定内容が記載された上質の紙に、五人の氏名が見える。〈麟音〉〈ヤー!〉〈彩羽理央〉〈姫島諒記りょうき〉そして〈無双醇四郎じゅんしろう〉。醇四郎……変な名前。諒記さんの四倍いや四十倍は変な名前だ。


「君の仕業じゃなかったわけか。おめでとう、電脳探偵嬢」

「何がおめでとうよ。わたしのこと真っ先に疑ってたくせに」

「これで、我輩も晴れてRPGの登場人物を騙る悪戯者などというふざけたレッテルを剥がせたわけだ」皮肉に満ちた口調で、変な名前の男は言葉を続ける。「しかし我輩がそんな悪戯者じゃないことは、初めから判りきったことなんだが。もし我輩が悪戯書きの本人なら、動かぬ証拠のサインペンなど姫島くんの見てないところでこっそり処分するに決まってる」


 ……思い出した。サインペン!

 これはどうしても言っておかなきゃ。わたしは最新の犯行現場からそのペンが出てきたことを勢いよく言い立て、男の反応を待った。


「それは無関係」にべもない返事。「警察だって関係ないと言ってるんだろう。なら無関係で一向構わない。どこぞの野良犬が草叢から引っ張り出して置いてったんだろう。考えてもみたまえ。殺人犯がサインペンを置き残していく理由がない。うっかり落としたのだとすると、今度はそれを持ち歩く理由がない」


 返答にきゅうしてしまった。悔しいけど、わたしには論理的な説明ができない。ペンについては保留だ。こうなったら話題を変えよう。


「そうだ。姫島さん、昨日現場を見て回ったんですよね」

「うん……まあね」姫島さんの表情が僅かに曇った。姫島さんの異変は絶対に見逃さないわたしだ。理由を考える。さては、自称探偵の現場検証に進展がなかったんじゃ……。


「どうでした? 何か見つかったんですか?」


 突っ込んで質問すると、思った通り自称探偵が代表して言葉を継いだ。


「何も見つからなくて当然。証拠品なんて粗方押収されてるだろう。あんなのは形式的な確認作業に過ぎない。人通りがまるでないとか、花壇の付近が道路のどちら側からも微妙な死角になってるとか、その程度で充分」

「なら、昨日の夜の現場も確認に行きなさいよ」

「やかましいな。そんなに言うなら君が見に行って名探偵ぶりを発揮するがいい」そう言いながら、どこからか取り出した財布を二本の指で押し広げ、自称探偵は気乗りしない様子で、「今朝のニュースで、けばけばしい女性レポーターが現場から中継をしていた。今度はフェンスに囲まれた自転車置き場だろう。テレビカメラが全景を隅々まで映してくれた。検証はお終いだ」


 それ検証って呼んでいいわけ? ……って、男の持ってる財布、わたしのじゃん!


「ちょっと何してんのよ!」


 大慌てで男の手からもぎ取った。ポーチに入れておいたのを目敏めざとく見つけたのか。こんなに手癖の悪い探偵いる? ていうより存在していいの?


「栄えある電脳探偵の財布を拝見。札がたくさん入ってると思ったら全部千円札。ひどいな」


 暴言を吐く自称探偵。ひどいのはあんたでしょうが。


「無双、失礼だぞお前」


 姫島さんの口調は幾分控え目で、わたしにはやや物足りなく感じられた。その優しさが、姫島さんの魅力といえば魅力なんだけど。


「いいや、これは忠告。札は多く持ち歩かないほうがいい。数枚だけられたとき気づきにくくなる」

「ご指摘どーも」


 当てつけがましく言い放ち、中身を確かめる。が、元々あった枚数に自信がない。減ってないような、やっぱり減ってるような。増えていないのは確実だけど。男に凡て見透かされているみたいで、どうにも業腹だった。あーチキショーめ。

 姫島さんに取りなされ、悪罵の言葉をどうにか呑み込んだわたしは、渋々事情聴取の内容を打ち明けることにした。プロデューサーの殺害された時刻、謎の通報者、遺体の状況エトセトラ。


「お疲れ様。大変だったね」わたしの顔を見て、姫島さんが労ってくれた。「それだけ警察も手を抜いてないってことだよ。目撃証言が出てこないから、向こうも必死なんだ」

「はい。しょうがないですよね」


 自称探偵は、そんなやり取りを尻目に鬱陶しげに耳の後ろを掻きやって、


「側頭部の打撲で死ぬとは情けない。頭部を金属のポールが貫通したにも拘わらず、生き延びた上に意識もちゃんとしていたインド人少年がいるそうだが、それを見習うべきだ。根性が足りん」


 無責任に言い捨て、背凭れに踏ん反り返る。そんなもの見習いようがない。


「だが、その怪我の状況は一考に価する。ようやく貴重な情報を得た気がする」


 褒められたけどちっとも嬉しくない。むしろ不愉快。


「泥酔していたおかげで受け身が取れなかったか。酒は飲んでも飲まれるなとはよく言ったものだ。にしても、かなり面白い怪我だなこいつは」


 正直、プロデューサーに対して今の今までいい感情は抱いてなかった。それでも面白い怪我は言い過ぎじゃない? 第一、面白い怪我って何よ。


「被害者はと見て間違いない。軽く吹っ飛ばされていたかもしれない。攻撃を受けた側はそれほどでもなく、地面に激突したほうに相当な深手を負った」

「ふーん、まあそうかもね。で、それがどうしたの? 手際のよろしい探偵さん」


 反っくり返って言い返す。


。気にならないか? 所持金に興味のない電脳探偵嬢」


 うるさいわね。


「別に。背中から襲うのは卑怯だと思ったんじゃない?」

「またも名推理が飛び出したな。正々堂々と襲えば気兼ねなく人も殺せると」

「知らないっての。そんなの犯人に直接訊きなさいよ」

「それに人体というは、側面よりも背後や正面のほうに急所が多いから、襲い方としては少なからず疑問が残るんだが……まあいい。この件はいずれ考えよう。通報者のインだかリンの件も保留。さて君、我輩はまだ大事なことを聞いてない」

「もう全部話したはずだけど」

「昨夜のアリバイは」


 わたしのかい。


「〈瞑想室〉で瞑想の真っ最中」つっけんどんに答えた。

 よっ、と掛け声を上げ自称探偵が立ち上がる。


「こうもアリバイ不在が続くと、むしろ潔くさえある。よし、お次はほかの人たちのアリバイ調査だ。この三日分凡ての。行こうか姫島くん」

「やっぱりうちの事業所の人を疑ってるんだ」つい刺々しい口調になってしまった。

「残りは三名。フッ、こう言っちゃあれだが、プロデューサーがいなくなって一人分訊く手間が省けた」

「無双! お前言い過ぎだぞ」

「ふふん、これでもむしろ抑えてるほうだ。我輩の本気はもっと凄まじい。聞く者の背筋が凍りつくようなね」


 悪魔かこいつは。含み笑いが地獄からの哄笑に聴こえる。巷の探偵事情は知らないけど、こんな探偵いちゃまずいでしょ。姫島さんが難ありと言っていた理由、今なら厭というほど理解できる。


「その本気、少しは事件の解決に向けたらどうなのよ」

「既に本気だ。我輩が全力を出せばどんな難事件も一日と待たずに解決する」

「もう一日経ってるけど」

「本気を出したのは今日の調査に入ってから」

「調子のいいこと言っちゃって。ほんとは昨日から本気なんでしょ」

「君の邪魔がなければ半日で解決できる」

「バッカじゃないの、やれるもんならやってみなさいっての」


 ほとほと愛想が尽きた。相手するのも疲れる。

 エレベーターで直接五階へ。入れ違いでエレベーターに乗り込んだ作業着の捜査員が、擦れ違う間際に訝るような冷たい視線を向けてきた。


「姫島さん、本当にあんなのに任せちゃっていいんですか?」


 先頭を進む男の背中を追いながら、こっそり姫島さんに話しかける。別に聞こえても問題ないけど。


「僕も心配になってきたよ」姫島さんは額を押さえて、「大口は昔からだけど、まさか殺人事件にまであんな態度で臨むとはね。目立つような真似しなければいいけど」

「大体、あんな奴の聞込みにまともに応じる人なんて、いるわけないですよ」


 わたしから口添えする気は毛頭なかったし、こんな変わり者の相手をする職場のみんなが全くもって可哀想だ。

 そんな心配をよそに、早速男の気紛れが噴出した。快調に足を進めた男は廊下左手側の関係ない会社のドアを開け、受付カウンターにいた女の人に何やら話しかけ始めたのだ。姫島さんとわたしは廊下に棒立ちで、呆然とその様を眺めやるしかなかった。


「何をそんなに驚いてる」バタンと扉を閉じると、男はまじまじとこちらを見て、「今のも聞込み調査だ。言っとくが口説いたりなんかしてないからな」


 訊いてもいないのに言い訳がましく弁明するのが、尚のこと怪しかった。


「何の調査よ」

「応接室の場所を訊いたんだ」


 話題を逸らすように男が真向かいのドアを指し示した。絶対嘘だ。この近距離で気づかないわけがない。

 御船さんの尋問はもう終わったのかな? 廊下にいても室内の会話はおろか物音一つ聴こえない。

 先を行く自称探偵はそのドアを素通りし、どうしてか会議室の扉もスルーした。


「おい、どこ行くんだ」姫島さんが直立した背中に声をかける。

「開発室は誰もいないわよ。みんな会議室にいるはず」わたしも口を開く。


 しかし当の男はまるで見向きもせず、


「君らは初動捜査の重要性をまるで解してない。最初に調べるのは〈瞑想室〉」と、あっさり言った。


「なんでよ。そこ関係ないでしょ」

「関係ないかどうかは我輩が判断する」


 自称探偵は無遠慮に扉を開け放した。

 戸口近くに、この前マリンが足を引っかけた段ボール箱が置いてある。一度仕舞ったのを、直筆の文書を捜すためにまた引っ張り出してきて、そのまま放置していたのだ。

 足でもぶつければいいんだ、あんな奴……という邪念を察知したのか、男の右脚はぎりぎりの身ごなしで段ボールの脇を通り過ぎた。チッ、惜しい。

 ところが、今度は続いて入室した姫島さんがドンと靴先をぶつけて転倒してしまった。た、大変だ。


「あいたた……」

「だ、大丈夫ですか姫島さん? ごめんなさい」

「いや、大したことないよ」

「危ないなこんな処に置いて。怪我でもしたらどうするんだ」忌々しい男は憎たらしげに眼を丸くして箱を見下ろした。「なんだ、この上に乗ってる葉書は。今年の年賀状じゃないか……おや、自分の宛名しか印刷してないようだが?」

「多く刷りすぎたのよ」

「なんで処分しない。捨てるなり、書き損じとして郵便局で交換するなりすればいいだろう」

「年賀くじの結果が気になって」

「そんなの一月末に判ってるだろう。何を後生大事に保管してるんだ」


 え、そうなの? 確かに例年を顧みるに、当選番号のチェックを怠ったきり、そのうち捨ててしまうパターンの繰り返しだけど。


「ここはゴミしかなさそうだ。ざっと見たら次行こう」


 ゴミとは失敬な。冷やかし程度なら初めから調べなきゃいいのに。

 本当に一通り眺め渡しただけで、自称探偵は検証を終えた。


「電脳探偵嬢、済まないが手鏡を一つ貸してくれ」妙なことを切り出してきた。裏がありそうだ。

「何に使うの。スカートでも覗くつもり?」

「そんな下らないもの覗いてなんになる」男は凶悪な表情を浮かべて口の端を吊り上げた。「ご存知の通り、鏡には古来より魔を退ける神聖な力があると信じられてきた。それは天皇家に伝わる三種の神器のうち、最も重要視されるのが八咫鏡やたのかがみであることからも窺えるだろう。まあ魔除け云々に関しては完全に迷信だが」

「じゃあ要らないじゃない」

「実を言うと、鏡というか〈捜神鏡〉の力を借りたいのさ」男は取り澄まして言った。「鏡よ鏡よ鏡さん、連続殺人事件の犯人はだあれ? てな具合にね」

「結局神頼みなわけ? そんな都合のいいもの、あるわけないでしょ」

には、だろう。いいから貸してくれ……ははあ、さては鏡を持ってないんだな。どうりで身だしなみに気を配ってないわけだ」


 この男、日増しに無礼に磨きがかかっていく気がするのはこっちの気のせい?


「持ってるに決まってんでしょ。でも長時間は無理ね。ファンデーションケースについてるやつだから」

「ならいい。別のところで借りる」


 なんともあっさり引き下がった。なんなのこいつ。

 次いで自称探偵が向かったのは、隣の開発室。


「おっと、その前にトイレ」男はくるりと反転した。「今日はいつになく早出だったんで、まだ用足してなかった」

「どうでもいいけど、あんた調査とか言って女子トイレとか更衣室覗き込んだりしないでよね」

「そんなことするものか。時に電脳探偵嬢、君は寝る前にちゃんと用は足してるのか?」

「は?」探偵の尋問としては最低の部類に入る質問に、返す言葉もない。

「朝晩はまだ冷え込む。くれぐれも粗相そそうのないように」


 呆れ返る姫島さんとわたしを尻目に、男は悪びれもせず奥の扉に消えていった。

 開発室の主な利用者は、チーフプログラマーだったプリンスこと若王子とバイト君くらい。わたしはプログラミングが多忙を極めたときに詰める程度で、日頃は滅多に立ち寄らない。主要な仕事場でないのと、喫煙スペースがあるせいで苦手な煙草の臭いがするからだ。マリンはCG関係の作業もあるのでもう少し利用頻度が高い。プロデューサーは作品の進行状況を確かめにふらりとやって来る程度だ。御船さんもたまにしか来ない。鵜飼さんに至ってはここにいるのを目撃したことがない。


「ふむ。ここの端末でプログラム作業を行っていたと」


 入って右側にPCを設置したデスクが三台並び、左側は資料を収納した高い本棚や脚の細いテーブルが見える。その奥には更に壁で区切られた小部屋があり、ノートパソコンが一台だけ置いてある。テーブル上に乱雑に投げ出された紙の束が多少生活感を留めているくらいで、パソコン類の電源は凡て落とされ、どことなく閑散とした印象を受ける。


「煙草臭いなここは。機械にも良くないだろうに」大袈裟に鼻をつまみながら自称探偵は眉を顰めた。

「そんなに臭うか?」と姫島さん。わたしも少しは臭うけど、鼻腔の奥に微かに違和感を感じる程度で、鼻を抓むほどじゃない。犬かこいつは。

 実際にはその小部屋のみ喫煙可能なんだけど、壁の上部が吹き抜けになっていて煙が容易に洩れてしまうため、あまり場所指定の意味がない。年末大掃除の際、スタッフ総出で天井と壁を拭いたおかげで、今はまだタールの付着も見られなかった。愛煙家のプリンスがいなくなり、残る喫煙者はバイト君ただ独り。ここの壁天井を再び掃除する機会など、果たして訪れるのだろうか。

 ……あれは。

 〈麟音〉と〈ヤー!〉のこともあり、わたしの視線はどうしても右手のパソコンに移ってしまう。

 淡い黒一色の液晶モニター。プリンスの仕事用眼鏡のケースが、デスクの片隅に無造作に置いてある。ブランドは公私共にディオール。使い分けに関しては独自の基準があるんだろうけど、持ち主のいない今となっては知る由もない。わたしも眼鏡は〈瞑想室〉に仕舞ってあるけど、最後にかけたのは一体いつのことやら。

 よし、次行こう、と男が戸口へ歩き出す。


「えっ、もう終わり?」思わず口に出た。何しに来たんだ一体。「もっとちゃんと調べなくていいの」

「なんだ、未練でもあるのか。さっきの部屋は関係ないから調べるなと言ったり、ここはもっと調べろと言ったり、全くもって電脳探偵の捜査思考にはついていけないな」

「そうじゃなくて、その……」

「無双、そこのパソコンは調べなくていいのか」


 姫島さんが切り出してくれた。さすが姫島さん、判ってる。


「おいおい、君まで現実とゲームを厳然と分離する境界線を否定するつもりか。それこそファンタジー作家の発想だ。空想が逞しすぎる。我輩には非常識すぎて疑問視すらできないんだが。それとも我輩のほうが間違ってるのか?」

「そうじゃない。ただ、何も見つからないとは限らないだろ。思いがけない情報が手に入るかもしれない」

「時間の無駄だと思うが」男はあくまで持論をげない。「その中に〈麟音〉やら〈ヤー!〉やらの心境を綴ったテキストファイルか何かが記録されてるのなら、俄然興味も湧くというものだが」

「そう、それそれ」


 その可能性、大いにあるかも。たまにはいいこというじゃん、探偵のくせに。


「後学のためにも、是非プリントアウトして持ち帰りたいものだ。同じ部屋の端末を使いながら、一度も顔も合わせないという奇妙なすれ違いは棚上げするとしても……君らがやりたいのなら勝手にすればいい。我輩が聞込みをしている間にでも」

「んじゃ、一緒に調べましょー姫島さんっ。探偵さんもああおっしゃってることだし」


 姫島さんは、出て行こうとする男の背中を溜め息交じりに見ている。なんだかんだ言って、男に信頼を置いていることは疑いない。不覚にも自称探偵のことが妬けてきた。


「おっ」男の脚が停止した。「君は、砂原茉莉嬢だね」

「そうですけど。あの、貴方誰ですか?」


 廊下の向こうに立っていたマリンが、円らな瞳を大きく瞠って上背のある自称探偵を見上げている。ドアが開いているのを不審に思い、覗きに来たのだろうか。


「これは失礼、我輩は無双と申します。以後お見知り置きを。本来は自由業ですが、本日は探偵としてやって参りました。そうそう、突然で申し訳ないのですが、手鏡か何かお持ちでしたら一つお貸しいただけないでしょうか」


 見たこともない柔らかい物腰で、男は流暢りゅうちょうに語った。不思議なのは対するマリンの態度だ。ファーストコンタクトの面食らった様子が、段々熱に浮かされたようなぼんやりした表情に変わっていく。


「あ……判りました。今持ってきます」

「一日ばかり貸してほしいのですが、よろしいですか」

「は、はい大丈夫です。ちょっと待ってて下さい」


 素直に応じて更衣室のほうへ走っていくマリン。拍子抜けするくらい神妙な感じで。

 一方、こちら側のデスクにも問題が発生していた。マシンの電源を立ち上げたまでは良かったものの、いきなりパスワードの入力画面が出てきてしまい、そこから先に進めなくなってしまったのだ。


「確かこれ、プリンス……プログラマーしか知らなかったような」

「四桁か。適当に入れてみようか」


 思いつく範囲で、〈root〉や〈qwer〉、〈0123〉、スペースキー長押しなどいろいろ試してみたけど、やっぱり起動してくれない。パスワードを書いた付箋でも貼っていやしないかとデスク周りを捜してみても、見つかるのは薄膜状のほこりくらいだ。


「すいません」わたしは頭を垂れて、「以前セキュリティ・リスクの講習を受けてから、社内の全端末に管理者の決めたパスワードを設定するよう義務づけられたんです。パスワードの中身は、管理者しか……」

「理央ちゃんが謝ることじゃないさ。でもそうなると、残りの端末も見込み薄そうだね」


 目の前に現物があるのに、調べられないなんて。わたしは落胆のあまり思わずよろけそうになった。

 そうこうしているうちに、柄つきのハンドミラーを受け取った自称探偵は、その場でマリンへの事情聴取を済ませたようだった。


「ご協力痛み入ります。酢堂女史と陸奥青年は、あちらの会議室ですか」

「そうです」なんとなくマリンの声が上擦っているように聴こえる。


 男が消えたのを見計らいマリンに近づく。彼女は男の後ろ姿を、そして部屋に入った後の扉をじっと見つめていた。


「マリン?」

「ん……何?」


 振り向いたその頬が明らかに上気している。熱でもある?


「大丈夫? なんか変だよ。具合悪い?」


 そっと肩に触れると、焦点の曖昧だった両眼が不意に輝きを宿し、逆にこっちの両肩を掴んで揺さぶり返してきた。うわわわっ。


「シイちゃん! ズルいよちょっとぉ、なんでホントのこと言ってくれなかったのー」

「ちょ、ちょい待ち。何、ホントのことって?」

「最低の探偵気取りとか言っといて、独り占めする気だったんでしょ!」

「え?」


 何言ってんのこのコ。


「あたし初めて見たんだけど。あんなカッコいい人」

「……へ?」


 カッコいい? あの男が?

 あの男のどこがカッコいい? 文字通り、わたしは開いた口がしばらく塞がらなかった。


「後でちゃんと紹介してよね! 無双さんって、付き合ってる人いるの? あれだけカッコいいんだから、やっぱいるんだろうなぁ」

「しっかりしてよマリン。あんなののどこがいいの? 態度最悪だし」

「いいじゃん、超個性的で」


 夢見心地で手を合わせるマリン。

 駄目だ、もうこっちの言葉も聴いてくれそうにない。よく恋は盲目というけど、今のこの娘はまさしくそれだった。どう贔屓目ひいきめに見たって、マリンと釣り合うほどの相手じゃない。元気になってくれたのはすごく嬉しいけど、なんとも複雑な心境だわ。もう少し落ち着いたら、あの男の正体を明かして眼を醒まさせてやろう。

 マリンの意外すぎる異性の趣味に、わたしの驚嘆は当分収まりそうになかった。


「あたし、探偵さんの手伝いに行ってくるわ」


 なんですと?


「マンツーマンよりもさ、気心の知れたあたしが一緒にいるほうが御船さんやバイト君も喋りやすいと思うし。そうだ、そうしよーっと。んじゃ行ってくるねー」


 よく判らない理論を引っ提げて、恋する瞳のマリンは颯爽と駆け出していった。可愛い割に男運に恵まれない理由が、かなり解明された気がした。



 自称探偵が隣室で取調べを行っている間、わたしは姫島さんと共に残りのPCを全部立ち上げてみた。しかし結果は最初のものと変わりなし。会議室の住所録から生年月日まで調べて、四桁の数字に当てめたりもしたけど、残念ながら徒労に終わってしまった。


「しょうがないね。こればっかりはどうしようもない」

「いいんです。ありがとうございました」わたしは深々と頭を下げた。


 〈麟音〉と〈ヤー!〉に固執するわたしのために、姫島さんはパソコンの調査を提案してくれたのだ。そんな厚意に報いることもできない己の無力さを、痛感せずにはいられなかった。仕方なく凡ての端末の電源を切り、取調べの様子を見に姫島さんと二人会議室へ向かうことにした。


「あれ? いない」


 意に反して、室内に男の姿はなかった。マリンもだ。


「どこに行ったんですかね」


 各々の席に着いた御船さんとバイト君だけが、数時間前のマリンとバイト君を再現するが如くパーテーション側に黙って顔を向けている。

 その奥で、何事か言い争う声。自称探偵のそれと、坊主頭の刑事の怒声。仔細は聞き取れないけど、語調から察するに議論は既に終局へと差しかかっているらしい。


「何かあったの」バイト君に尋ねる。

「いやそれが、どうも神埼プロデューサーのズボンがどうとか」

「ズボン?」プロデューサーの下穿きがどうしたんだろう。

「はあ。ズボンに何か汚れがついてたか? みたいなことを訊いてたらしいんスけど、終いには口論になっちゃって」


 ややあって自称探偵の捨て台詞が聴こえ、直後に不貞腐れた態度の男とマリンが並んで出てきた。


「無双。警察とはやり合うなって言ったろ」早速咎める姫島さん。予め釘を刺していたらしい。

「確かにそうだが、たった一個の質問にすら答えてくれないなんて、融通が利かないというか善良な市民を舐めてる」


 素人探偵に協力的な警官なんて、そうそういないでしょ。こんな風変わりな男なら、なおのことだ。ミステリ小説の類いじゃあるまいし。

 問題のマリンは厳粛な雰囲気を身にまとい、文句を言う男の斜め後方に佇んでいる。

 いかん、あの表情は。本気だ。


「どうせ下らないこと訊いてたんでしょ。ズボンってなんのことよ」わざと邪慳じゃけんに尋ねてみる。

「仮説を実証するために、その情報が必要だった」

「仮説?」


 男は腹立たしさを振り払うように前髪を掻き上げると、下唇を突き出して息を吐いた。


「だが、とんだ無駄骨だった。この階の調査はお終いだ。姫島くん、降りよう」


 そう言いつつ、身体は早くもドアの方向へ動き始めている。


「あのっ……」胸の前で両手を握り締めたマリンが口を切った。「あたしも一緒に行っていいですか?」

「茉莉嬢」男は顔だけ振り向いて、「お気持ちは大変有りがたいのですが、この先は貴女を連れ回すわけにはいきません。どうかご自愛いただきたい」

「でも……」

「茉莉嬢、先程はご協力ありがとうございました。貴女の力添えがなければ、あれほどスムーズに聞込みは進みませんでしたよ。この手鏡も、用が済み次第お返し致します。それではごきげんよう。またいずれ」


 今度こそ、男は戸口に歩き出した。マリンもそれを止めなかった。

 眼許に浮かんだ涙が、今にも零れ落ちそうだ。まずい、このコ完全に参ってる。


「あんたね、さっきのあの態度は何? なんなのあれ」


 何故かエレベーターを使わず階段で降りていく自称探偵を追いかけ、わたしは非難の声を放った。


「まるで別人じゃない。詐欺よ詐欺。いたいけなマリンをたぶらかしたりしたら、親友として許さないからね」

「誑かす? 冗談」男は軽やかに駆け下りながら、「鏡だよ鏡」


 鏡? また人を煙に巻くようなことを。


「我輩はいわば心を映し出す鏡。相手の心理に応じて態度を変えているに過ぎない。我輩にはなんの非もない。君は自分の容姿に難点が見つかったら、それを映し出した鏡にケチをつけるのか?」


 要するに、いつもの生意気極まりない態度は、わたしの心をそのまま反映しているということか。それこそ冗談じゃないっての。


「君らこそどうだったんだい。開発室のパソコンで、ゲームキャラの尻尾でも捕まえたか」

「関係ないでしょ、あんたには」

「違いない」男はせせら笑って、「あの端末は、立ち上げないほうが無難というもの。深入りしたばっかりに、我らのほうがRPGの世界に吸い込まれてしまうかもしれない」

「は? 何言ってんの」

「〈麟音〉嬢や〈ヤー!〉君がなら、逆の現象だってありえるだろう。論理的には同値さ」


 いやいやいや。いくらなんでも、それは暴論でしょ。


「むしろ合理的だ……それはさておき、例のナイフの出処が判った」

「ナイフ?」姫島さんとわたしの声が偶然にも重なった。

「ナイフって、わたしの家に投げ込まれた、あの?」

「そう。あのナイフはRPGのアイテムなんかじゃなく、正真正銘現実世界のものだからな。我輩はナイフの出自なんぞどうでも良かったが、君が気にしてるようだから、事のついでに捜し当ててやった。無償の奉仕。なんて人が好いんだ我輩は」


 四階廊下に出た。

 会計事務所や自己啓発セミナーの看板を通り過ぎ、行き止まりの左手方向。扉上部の磨りガラスに、上階の製造会社と同じ社名が見える。

 男は迷わずドアノブに手をかけた。扉は難なく開いた。

 十畳ほどの室内に、所狭しと並び積み重なった段ボール箱の山。発送前の倉庫? しかしお世辞にも規則的に積んであるようには見えない。しかもよく見ると、置いてあるのはほとんどが空箱。


「上の会社は、家具の中でも主として食器類の製造を請け負う会社らしい。むろん、調理に用いる果物ナイフとかも。実際に作っている工場は別にあるが、そこは管理が徹底していて簡単に調達できない。その点、試作品や不要となった材料を一時的に保管するこの倉庫なら、上に人がいる間は施錠もなくご覧の通り出入り自由」


 言いながら、男は足許の段ボールを手当たり次第に物色していたが、少しして動きを止めた。


「アイテム発見。適当なBGMでも脳内再生してくれたまえ」


 屈んだ男の背後から覗き見る。

 箱の中に見憶えのある小型ナイフが十本近く散らばっていた。どれも似たような作りで、試作品とはいえ実用に耐えうるものばかりだ。男はその中から一本だけ取り上げると、持参していた刃毀れのひどいナイフと掌の上で並べてみた。刃の劣化具合さえ除けば、それは紛れもなく瓜二つの代物だった。


「ここから持ち出したのか」と感心したように姫島さん。

「普段からこの近辺にいる人間の仕業だろう。やっぱり君なんじゃないのか、電脳探偵嬢」

「あんたねぇ……」


 こんな場所があったこと自体、初めて知ったところなのに。


「じゃあ、犯人はここにナイフがあるのを知っていた人ってことになるのね」


 密かに〈ヤー!〉を思い浮かべた。前もって知っていたとは思えないけど、同じ建物内のことだ、偶然赴いて手に入れた可能性までは否定しきれない。


「まあそうなるかな。警察もそう睨んでるみたいだが」

「警察も?」


 わたしは不思議に思った。最初の犯行に使われたと思しきナイフは、未だ自称探偵の手中にある。どうして警察に、凶器の元の在処を特定することが可能だったのか。


「君が思う以上に警察は優秀だ。傷口から凶器の形状を割り出すなんて朝飯前だろう。我輩が受付嬢にナイフの件を尋ねたら、刑事にも同じことを訊かれたと言っていた。第一、君こそ尋問の際にその辺のことは訊かれたんじゃないのか。隣の会社と交流はあったのかみたいなことを」


 ……確かに訊かれた。変な質問だな、そんなこと尋ねて意味あるの? という程度にしか考えていなかったけど。


「それでいて己のアリバイはまるでないというんだから、とんだ困り者だ」


 むう、困り者に困り者呼ばわりか。かなりショック。


「そうだ。無双、みんなのアリバイはどうだったんだ」


 わたしに向けられた矛先を、姫島さんがうまく回避してくれた。ナイス姫島さん! この場で姫島さんに抱きつきたい衝動に駆られ、危うく実行に移すところだった。


「揃いも揃って穴だらけ。これじゃあいくら適度に優秀な警察とて、容疑を絞りきれない。難儀な話だ」


 適度にという言い回しに、自称探偵の傲慢が見てとれる。男は立ち上がって膝の骨を軽く鳴らすと、


「君らの事業部で、この三日の間に確実なアリバイを持っていたのは、バイトの彼ただ独り。二日目は友人とカラオケ三昧、昨夜は友人とゲーセンに入り浸り、初日はなんとピンサロだ。正社員じゃないとはいえ、上司が立て続けに死んだ人間としては些か浅薄すぎる気もするが、皮肉にもそんな一連の行動が身の潔白を証明することとなったわけだ」


 マリンと御船さんはどうだったんだろう。男の言葉を待つ。


「酢堂女史は初日、被害者の電話を受けたのち、戸締まりをして裏口から退社した。犯行のあった時刻、彼女は近所のマンションに既に帰宅していたという。一人暮らしで証人はなし。二日目は一人で会議室にいた。プロデューサー神埼氏と電話で業務上の話をしていたそうだが、携帯だから会社にいた決め手にはならない。三日目も一人で職場に在中。証人なし」


 機械的に語り続ける自称探偵。こんな些事はさっさと片づけたいという思いが、口ぶりから滲み出ている。


「茉莉嬢。初日はこれまたマンションの自室に一人。二日目は作業を早めに切り上げた男連中二人に代わって開発室に閉じ籠り、ずっと資料の整理。隣室にいた酢堂女史との接触はなし。三日目は初日同様マンションに一人きり」


 行方を晦ました兄の存在までは、男に打ち明けていないらしい。とすると、恐らく警察にも内緒のはず。捜索願を出すのがベストなんだろうけど、犯行に兄が絡んでいる可能性を考えると、それも難しいところだ。


「女性陣三人に決定的なアリバイがないものだから、警察側も動機の線で洗い出すしかない。だから美しき才女たる酢堂女史が槍玉に上げられたわけだ。経理担当の立場から、鵜飼氏と横領を共謀したと囁かれていることもある。困ったことだが、美貌と知性は諸刃の剣なんだな」


 嫌疑をかけられていないのは嬉しいけど、釈然としないものが残る。


「探偵の醍醐味の一つは、堅固なアリバイを崩すことにあるんだ。やれやれ、この調子だと我輩の鮮やかな手腕を発揮する場面はなさそうだ」

「それならバイト君のアリバイがあるでしょ」

「一目見た瞬間判ったよ。彼だけは紛うかたなき全きシロ。我輩にピンサロ潜入調査でもしろってのか。そんなのは姫島くんに頼みたまえ」

「僕にできるわけないだろ」

「駄目に決まってんでしょ」


 理不尽な物言いに任せて、男はきれいなほうのナイフをろくに見もせず投げ捨てた。放物線を描いたナイフはガチャリという音を立て、元の段ボール箱に無事収まった。


「アリバイ崩しもできなくなった以上、外堀を埋めるような退屈な作業はお終いだ。そろそろ本腰を入れるとするか」

「さっき本気出すって言ってたじゃない」

「本腰と本気は違う。本腰は入れるもので本気は出すもの」

「はいはい。結構な言葉遊びですこと」

「無双、次は何を調べるんだ?」


 姫島さんの問いに、名うての探偵を自負する男は狡猾こうかつな笑みを浮かべ、手許のハンドミラーを仰々ぎょうぎょうしくこっちへ翳した。


「そうだな……と、とでも言っておこうか」

「証拠って、なんの証拠よ」

「お得意の超論理で推理してみたらどうだ」


 誰がするもんか。第一、現場検証は懲り懲りみたいなことを言っていたくせに、結局するんじゃないか。やることなすこと適当なことばっかりだ。ヘボ探偵め。



 エレベーターに乗り一階へ赴いたわたしたちは、先導する男の進むがままロビーの反対側に位置する警備員室へ辿り着いた。男は早速、わたしの顔見知りでもある初老の守衛さんに挨拶し、表口に設置された防犯カメラについて淀みなく質問を始めた。

 室内に警備員がいる午前九時から午後九時まではモニターのみの監視で、それ以降深夜零時までの三時間は、カメラ映像を旧式の民生用ビデオデッキで録画するという方式を採っていた。以前バイト君が危惧していた、飾りだけのダミーではなかったことになる。


「防犯カメラの映像、警察は調査済みなのですか」

「警察……? ああ五階の、トラなんとかの件ね。ゲームか何かの制作会社だっけ。聞込みには何回か来たけど、カメラまでは調べてないねえ」


 、と自称探偵は妙なことをひとりごち、それから、


「そのテープ、どれだけの頻度で使い回しているのですか」

「三本しかないからねえ。一回使ったら、次に使うのは三日後になるわな」

「じゃあ、三日前までの映像はまだ残ってるわけですね。ああ良かった」男は揉み手をしながら、「もし不都合でなければ、そのうちの二本を一日ほど貸してもらいたいのですが」


 それまで気さくに応じていた守衛さんが、ちょっと唇を歪めて片眉を吊り上げた。


「……あんた探偵って言ってたけど、本当に探偵?」

「もちろんですよ。その点に関しては、こちらのもう一人の探偵が保証してくれます。ねえ電脳探偵理央嬢」

「おや、シイナちゃんじゃないか。シイナちゃん、探偵だったのかい」


 わたしを出しに使うつもりか? なんてけったくその悪い。

 姫島さんを横目に見る。ほとんど懇願するような表情だった。こうなったら口裏を合わせるしかない。


「そうなんです」魂胆は見えなかったが、ここは自称探偵に加担することにした。もちろん表向きの話だけど。「あ、いや、わたしじゃなくて、こっちの人がってことです。守衛さん。この人のお願い、聞いていただけますか?」

「うーん……本来は儂の一存で貸し出したりはできないんだけどな。まぁシイナちゃんの知り合いってんなら話は別だ」

「今度またお茶菓子持ってきますんで」

「いいよいいよ」守衛さんは照れ臭そうに手を振って、「だけど、明日の午前中には必ず返してくれよ。午後はほかの警備員も来るから、元の場所に仕舞えなくなっちまう」


 そう言うと、手馴れた所作で戸棚から小振りのケースを取り出した。


「二本って言ってたよな。どれとどれだい?」


 男は昨日と三日前の分を所望した。二日前は夕刻の犯行だから対象外なのだろう。


「別にここで調べてくれても構わんのだけどな。仕事の邪魔さえしないでいてくれりゃあ」

「いやいやいや……ああ、それとですね」固辞しつつも、男の要求は続く。「申し訳ないのですが、この件、警察にもオフレコということで」


 意外な申し出に、守衛さんはジロリとわたしを見て、何やら訳ありらしいねえ、と呟いたものの、


「ま、シイナちゃんの知り合いの頼みとあればな」

「ありがとう、守衛さん」


 通常サイズのビデオテープを受け取った男に代わり、わたしは何度も頭を下げ礼を言った。最後に守衛さんは、茉莉ちゃんによろしくね、ここんとこ元気なさそうだったから、と言ってくれた。普段陽気なだけに、一旦落ち込むとそのギャップがマリンは特に顕著なのだ。この自称探偵の登場は、そんな彼女に更なる波乱を呼び起こしそうな予感がする。


「よし、首尾は上々。もしこの建物が犯行現場になっていたら、とっくに押収されていただろうな。犯行現場の遠さが幸いしてくれた。我輩は運がいい」


 警備員室を離れると、男はひと仕事終えたかのように大きく腕を伸ばした。


「そんなに重要なら、最初に来れば良かったのに」

「古今東西、名うての探偵は洩れなくスロースターターなんだ。憶えておくといい」


 何を偉そうに。


「実を言うと完全に忘れてた。それでも最終的に思い出すところが、我輩の名探偵たる所以ゆえんなんだがね」


 真面目な顔で男は言い、テープを上着に仕舞いこんだ。忘れてたって、あんた。


「それに記憶媒体が市販品のビデオテープで助かった。もっといいビルだったらセキュリティもそれなりだろうから、かなり骨が折れたろう。ハードディスクじゃデータ持ち出すのにひと苦労だし、追記用のDVDはうちのプレイヤーが今壊れてるからな」

「僕の家でなら再生できるけどね、DVD」姫島さんが口を開いた。


 姫島さんの家……好機到来じゃん!


「じゃあ、今度姫島さんのお家で映画観ませんか?」

「え? あ、うん。僕はいいけど」

「しっとりした恋愛ものとか、この季節にぴったりですよねー。邪魔者は一切呼ばないで」

「どうせなら、そういう相談も邪魔者のいないところでやってくれないか」と、ぶっきらぼうに男が言う。


 フンだ。わたしだってこんな大事件の最中じゃなきゃ、もっと果敢にアタックしてるはずなんだ。そういうあんたこそマリン狙ってんじゃないの? すっとぼけた顔しちゃって。


「ねえ、さっき守衛さんに言ってたことだけど」マリンのことは心に秘めたまま、男に尋ねる。「なんで警察に内緒なのよ」

「別に」

「どうせ手柄を独り占めしようとか考えてんでしょうが」

「別に。そういうことにしておいても構わないが」

「やっぱりね。で、犯人映ってたらどうするのよ。また自分で調べて直に問い詰めるわけ?」

「そんなことするもんか」そう言い返す男の表情は、何故か憂いめいたものを帯びていた。「まあ。いや、


 ? 変な言い方をする。映っていて困ることなどないだろうに。これは犯罪捜査なんだから、誰も映ってないほうがよっぽど問題なんじゃ?

 間もなく玄関外に出た。猫の額ほどのロータリーの中央に、芝生の緑がとてもよく映えている。


「電脳探偵嬢。誰も使ってない地下倉庫ってのが、ここらにあるはずだが」

「あるけど、そこ調べてなんになるの? 犯行現場でもないのに」

「現場検証というのは何も犯行現場に限った話じゃない」

「そりゃそうかもしれないけど」

「早く案内してくれ」


 玄関口を背に、そのまま左へ回り込む。

 建物の角を曲がると、その先が途中で地面をいた感じのなだらかな坂になっていて、それがそのままビルの地下を抉るような形状をしている。土台の緩やかな勾配こうばいを利用して、多数の鉄柱をつっかえ棒代わりに、無理矢理地下駐車場を掘り進めたような地形だ。地下に沈んだピロティとでもいった趣。

 先を行く二人に続いて坂を下る。

 重機が稼働していてもおかしくない雰囲気の広大な空間。使われなくなった鉄骨や廃材が固まりになって山を成しているほかは、薄暗い倉庫に目ぼしい物は見当たらない。舗装されていない地表は、ちょっと駆け出しただけで砂埃が舞い上がりそう。


「あそこの壁は行き止まりか? さっきのエレベーター、地階表示はなかったな。ここから上の階に行く方法はないのか」

「自分で調べたら?」


 ふん、と男は鼻で息を吐き、二、三度膝を屈伸した。


「すっかり嫌われたようだな。じゃ、お言葉に甘えてさせてもらおう」


 そうして忌々しい男は、踏込みの強烈な駆け足で倉庫の奥へと走り出した。


「きゃっ!」

「おっ、おい」


 男の意味不明なダッシュは止まらない。舞い上がった砂埃で、後に残った姫島さんとわたしが慌てて顔を覆うのも完全無視。強くき込む姫島さん。その隣でわたしは、瞼の裏の異物感に眼を開けるのもままならなかった。

 絶対わざとだ。悪魔め。あんな極悪非道の男に可愛いマリンを近づけてなるものか。


「ひどいなあいつ……理央ちゃん大丈夫?」

「あ、はい。なんとか」

「はいハンカチ。眼擦らないようにね」


 うーコンタクトがゴロゴロする。ただ、邪魔者がいなくなったのは思いがけない僥倖ぎょうこうだった。姫島さんのハンカチを使うこともできたし。

 壁伝いに盛り上がっている青いビニールシートを捲り上げる男の姿が、廃材の向こう側に小さく見える。そんなところに上階へ行く通路なんかないっての。


「あの、姫島さん」

「ん、なんだい」


 わたしは今回の事件に関する、姫島さんの意見を尋ねてみた。どうしても訊いておきたかったのだ。でも、姫島さんは悲しそうに首を振って、


「ごめん。僕には本当に判らないんだ。無双なら、きっとなんとかしてくれると思うんだけど、あいつも結構気分屋だから」

「姫島さんも、職場の誰かの仕業だと思いますか?」これは、暗に自称探偵の推理に同意するのかという問いかけでもあった。


 だけど、姫島さんは首を振るばかりだった。


「判らない……昔ね、無双に言われたことがあるんだ。『君は人間心理を深く捉えすぎるきらいがある。だからカウンセリングは可能でも、犯罪捜査には不向きだ。犯罪心理を探るには、そこでぴたりと立ち止まらなくちゃいけない。殺人事件に対する巨勢博士の如く。その先の深淵は覗いちゃいけない。一瞬にして呑み込まれ推理どころじゃなくなるから』ってね。僕はだから、こうあってほしいとか、そうなってほしくはないとか、そう願うだけなんだ。己の無力さを恥じて、ただ信じることしかできないんだよ」


 充分だった。姫島さんは恥ずかしくなんかない。姫島さんは、人の心を信じてるんだ。だから、他人の悩みを我がことのように、親身に受け止めてくれるんだ。

 姫島さんは……わたしは眼許に当てたハンカチを手放せなくなってしまった。この人と出逢えて、本当に良かった。


「理央ちゃん。まだ眼痛む?」

「……へーきですぅ」


 鼻水まで垂れてきた。歳を取ると涙腺が緩くなって困るよ、もう。

 幸せな時間は長くは続かない。坂の途中の段差に二人で腰を下ろしていると、不吉な跫音を立ててニコニコ顔の男が戻ってきた。どうして上機嫌なんだろう。気味が悪い。


「姫島くん、飯喰いに行こう。空腹の限界」

「収穫あったみたいだな」

「まあね」


 何を見つけたのか訊いても、男はあー腹減った、の一点張り。まともに答えてくれない。こういう秘密めかすやり口だけは、本格ミステリにありがちな紋切り型の探偵像に忠実なようだ。


「出入り口は見つかった?」

「出入り口?」さも意外そうに言い、白いボトムスの裾を払いながら男は背後に一瞥いちべつをくれた。「いや、そんなのはなかったが」

「あんた鼻は利くけど、眼のほうはどうしようもない節穴だわ」


 収穫といっても、この分なら大した発見じゃなさそう。


「もっとしっかり調べなきゃ探偵失格ね」

「ふむ、そうかもしれないな」


 割と素直に応じてきた。これはこれで気持ち悪い。男は続けて、


「取り敢えずここでの調べ物は終了。昼食を済ませたら外の聞込みに移ろう」

「まだ調べるの?」


 初耳だった。


「うん」姫島さんは事前に聞かされていたらしい。「この一件は、全部無双に任せてるからね」

「姫島さんが仕切っちゃえばいいんですよ。そうすれば、もっと早く解決するのに」

「いやいや、僕には無理だって」


 苦笑する姫島さん。男は眉一本動かすことなく、


「我輩だって聞込みなんかやりたくないさ。足で捜すような労働は無能な輩のすることだ。どんな推理にも裏づけは必要だと姫島くんが言うから、厭々やってるってのに」

「当然でしょ。裏づけがなきゃ単なる臆測じゃん」

「姫島くん、やっぱり電話で済ませよう。めんどくさくなってきた」

「めんどくさくなったって……別に構わないけど、お前は大丈夫なのか?」

「電話なら、ビデオのチェックの片手間にできる。その上で出向くかどうか判断しよう」

「それ、なんの調査?」


 男は答えない。いつも余計な口ばっかり叩いてるくせに。


「こんな時間まで付き合わせちゃってごめんね」と姫島さん。微妙にはぐらかされた感。姫島さんがそうしたいのなら、まあしょうがないか。

「もし良かったら、お昼ご飯だけでも一緒にどう?」

「いいんですか?」


 願ってもない話だ。ただ、とんでもない邪魔者が一匹紛れ込んでるんですが。


「そうだ、どうせならあの娘も連れてきたら? 理央ちゃんと仲のいい……茉莉ちゃんだっけ」


 姫島さんが恐ろしい提案をしてきた。それは非常にまずい。万が一マリンが再び自称探偵と顔を合わせようものなら。でもってすっかり意気投合してしまったら。


「うわ、あの、それはちょっと」

「やめときたまえ。我輩は駅前の定食屋に前々から眼をつけていたんだ。利用するしないは本人の自由だが、うら若い婦女子には少々酷かもしれないよ」


 自称探偵、あんたらしからぬナイス判断だよ。心中密かに快哉かいさいを叫んだ。


「姫島さん、すいません。今日はマリン……茉莉と二人で食べることにします。でも次はきっとご一緒しますから。絶対」


 わたしはわたしで考えていることがあった。

 男の不可解な調査内容はともかく、〈麟音〉と〈ヤー!〉の書置きを一切考慮しない捜査方針は、大いに不満が残る。さっきは徒足むだあしだったけど、あの開発室のパソコンはもう一度調べてみる価値がある。それに姫島さんの本心を理解できた今、この大切な人を厄介事に巻き込みたくない思いも強くなった。身に危険が及ばない範囲でなら、単独で動いてみよう。

 〈麟音〉も〈ヤー!〉も、元はわたしが考案したキャラクターたちだ。実際のプログラミングにはまだ関わっていなくても、生みの親であるこのわたしが正体をはっきり見極めなきゃいけない。そんな使命感も徐々に芽生えつつあった。半日で解決すると豪語する自称探偵の鼻を、明かしてやりたい気持ちも擡げてきたし。

 できる限りのことはやってみよう。死の恐怖に怯えているよりは、そのほうがずっとましだ。それに、何かしらの証拠を掴んだ暁には、姫島さんにわたしの推理を認めてもらいたい。わたしだってやればできるんだってことを、誰よりもまず姫島さんに知ってもらいたかった。


「何を考え込んでいる? その涎の垂れ具合から察するに、昼食のメニューでも思案してるのか」


 誰が涎だ。姫島さんに悟られぬよう、男の向こうずねに蹴りを入れる。けれども男の意外な俊敏さで、わたしの爪先は虚しく空を切った。

 あーもうっ! ほんと腹立たしいわコイツ。



 夜が来た。

 捜査陣は一時間ほど前に引き上げ、その後会議室に残っていた御船さんが、マリンに付き添われて退社したのがそれから三十分後。

 御船さんへの尋問は相当執拗しつようだったらしく、自由に移動できるのはトイレのみ、二度の食事も警察の注文による出前だったという話だ。しかもそれにすら手をつけなかったのだろう、頬はこけて眼の周りも幾分落ち窪んでしまっていた。それでもなお、最後までマリンやわたしに気遣いの言葉をかけてくれたのは、気丈な御船さんならではだと思う。ひとえに度重なる尋問にも屈しない、御船さんの芯の強さがなせる業だ。こんな人に疑いをかけるなんて。警察への怒りが改めて沸いてくる。

 ちなみにバイト君は、わたしとマリンが遅めの昼食から戻ってきたとき、早くも外出許可を得て退散していた。完全に御船さんを見捨てた形だ。正社員ではないし、無理もないといえばそれまでだけど、保身に走るその態度は決して気持ちのいいものじゃない。明日の通夜は素より、告別式に参列するのかどうかも正直疑わしかった。

 三日。たった三日間。

 〈オルター・イーゴ〉の企画が正式に通ってから、実質三日しか経っていない。その間に三人ものスタッフが殺された。恐らく、現行の形でゲームソフトが完成することは百パーセントないだろう。それなら、せめてわたしだけでも、未だ全容の定かでない事件の謎をどうにか解き明かしてやりたい。ゲームにまつわる部分だけでいいから。それが殺された仲間たちへの、わたしなりの供養なんだと心に誓って。

 決め手になったのは、つい十数分前にかかってきた姫島さんからの電話。筆跡鑑定の結果速報を伝えてくれたのだ。

 〈麟音〉、〈ヤー!〉共に該当者なし。

 そう、うちのスタッフ内に悪戯書きをした者はいなかったことになる。自称探偵敗れたり。書置きの主はスタッフ以外の第三者と判明した。わたしの疑惑がまた一歩、確信に近づいた瞬間だった。


「あの、ハンカチありがとうございました。必ず洗って返します」

『あ、うん。あんまり気にしなくていいから。良かったらそれあげるよ』


 本当に貰っちゃおうかな、と思いつつ別れの挨拶をして電話を切った。

 わたしは今、業務用の蛍光灯に明々と照らされた開発室のデスクに座っている。三つあるうちの、一番奥の端末。これがプリンス愛用のマシンだ。パスワード。四桁の英数字。昼間あの倉庫で、眼に入った砂埃の対処に追われているときに、稲妻が落ちたかの如く閃いた英単語。

 プログラマーが愛用していた眼鏡ブランド。今もモニターの片脇に転がっている眼鏡ケース。クリスチャン・ディオール。

 パスワードの入力画面。両手を使い、ゆっくりと文字を打ち込んでいく。

 d・i・o・r。〈Diorディオール〉。

 四つ並んだアスタリスクに望みを託し、エンターキー。

 暗転。

 やがて見慣れたデスクトップが表示された。ビンゴだ。パスワードは通った。

 胸が高鳴る。でも、難題なのはむしろこれから。プリンスの開発環境を見つけ出し、場合によってはそこからプログラムを立ち上げなきゃならない。わたしにそこまでできるのか?

 以前、〈プラットフォームに極力依存しないウェブベースのデータ連携ソリューション〉という、なんだか得体の知れないものを導入すべきか否かという話題になった際、プリンスが反対意見の真っ先に挙げたのが、使い慣れたソフトが一番しっくりくるし不具合にも即対処できる、というものだった。


「3DCGの出番がないおかげで、DirectXすら使ってないのが現状なんですよ。そんなソフト新しく入れたって、みんな混乱するだけです。金と時間の無駄ですって」


 現場の第一人者である彼の意思が尊重され、最終的に導入は見送られたんだけど、結果それ以外のスタッフは我流にカスタマイズされたソフトに四苦八苦し、プリンスの助言がないとコードの実行もままならないという悲惨な事態に陥ってしまったのだ。

 デスクトップに散見するショートカットを、名称から機能を推測しつつ、任意に選んでダブルクリック。

 駄目だ。何がなんだかちっとも判らない。一応ソフトは立ち上がるものの、素っ気ないインターフェースに浮かび上がる英文の羅列を見ただけで、反射的に顔を背けたくなってしまう。使った例のないソフトと苦手な英語の強烈なワンツー。

 眠気に視界が霞む。ここが踏ん張りどころだ。

 わたしは戦略を変更した。どこかのフォルダがデータの格納先になっているはず。それを捜そう。

 データファイルの名称で使われそうな英単語や日本語で検索を試みる。でもちっともヒットしない。ファイルの使用履歴にもそれらしいものは残っていない。

 プリンスらしい、味気ないスカイブルー一色のデスクトップは、じっと見ていると吸い寄せられそうな錯覚を覚える。自称探偵の言葉が思い出された。


 ……あの端末は、立ち上げないほうが無難というもの……我らのほうがRPGの世界に吸い込まれてしまうかもしれない。


 ふふ、なんだそりゃ。あいつこそ幻想趣味だよね。爪を噛みながら、求めている情報を眼で追う。


「んー、どれだろ」


 今度はエクスプローラから、手当たり次第にフォルダを展開。ブルートフォースアタック的戦術。いや戦術にもなってないけど。下手に考えるより、時間の許す限り手を動かし続けるほうがわたしの性に合ってる。探偵失格はわたしのほうだわ。


「あっ……」


 五分ほど経過した頃だったか。一つのフォルダが眼に留まった。名前は〈ae〉。

 〈オルター・イーゴ〉……綴りは〈Alter Ego〉……一応イニシャルになっている。まさかこれが?

 プロパティから作成日時を調べる。

 ……三日前の夜。

 一際強く、心臓がドクンと脈打った。

 来た。これだ。わたしが会議室で転寝していた時間帯。さすがプリンス、制作のゴーサインが出たあの晩、早速プログラムを打ち込み始めていたのだ。

 それにしてもこれ、名前を省略しすぎじゃない? いかにも合理主義者の彼らしいネーミングだけど。意外とオウテカのファンだったりして。ノイズとダンスを融合する自由主義者にしてエレクトロニカの開拓者。プリンスには些か不似合いか。

 問題のフォルダには複数の実行ファイルのほか、夥しい数の意図不明なファイルが収納されていた。フォルダはまだある。〈data〉と〈temp〉の二種類。この中だ。ついに見つけ出した。この中に、事件の核心がある。

 ところが。

 両方とも中身は空っぽだった。

 期待は呆気なく裏切られた。念のため、それぞれの更新日時を調べてみる。〈ae〉フォルダ作成に遅れることおよそ十五分。微妙だ。フォルダだけ作成して、データを打ち込む前に終了してしまったのか、あるいは。

 

 例えば、そう、

 戦慄が、背筋を駆け上がる。

 つい肩越しに振り返る。閉じられた小部屋のドア。当然誰もいない。いくらなんでも考えすぎだ。自嘲の笑みが込み上げた。

 メインのマシンがこうなっている以上、隣のサブマシンは調査の必要ないかも。眼も疲れてきたし、そろそろコンタクト外そうかな。わたしはマシンの電源を落とそうとして、何気なく窓の外に眼をやった。

 ブラインドの上がった窓。室内の照明を反射している窓ガラスの、その下側。


 ……裏庭に続く街灯の乏しい小途を、


 恐らくだけど、この窓を真っ直ぐ見上げている。そして恐ろしいことに、

 とっさに窓枠に身を隠した。

 今の、誰?

 暗くて顔は見えなかった。体格は男のようだったけど。

 自分の〈家〉に、戻ってきた? 〈麟音〉が? いや、あの体つきは〈麟音〉じゃなさそう。

 〈ヤー!〉のほう? ハンターの〈ヤー!〉が……〈麟音〉を狩ると宣したハンターが、人間を狩ることも辞さない冷酷なハンターが、この建物に向かってる?

 窓の縁から、上体を傾いで恐る恐る裏口を見下ろす。何人の姿もない。

 わたしに用があったのか? なんでこんな時間に?

 夜になるのを、待ってたってこと?

 再び悪寒が走る。

 狙っていた? 最初から、わたしが独りで調べに来るのを。

 壁掛け時計を見上げる。

 いけない。この時間、まだ出入り口はロックがかかっていない。その上守衛さんは帰ってしまっている。空白の三時間。エアポケットを狙われた。この五階フロアにいるのは、わたし独りだろう。というより、ビル全体を見てもわたししかいないんじゃ?

 袋の鼠じゃないか、わたしは。

 取り敢えず部屋の電気は消灯した。パソコンは落とす余裕がないから放置。ただ、わたしがどの部屋にいたかは窓の外からでも丸判りだろう。

 とにかく逃げなきゃ……!

 明かりの消えた廊下に出る。一年以上勤めている職場だ。通路や壁の距離感は大体掴んでいる。エレベーターの許へ駆け寄り、扉上部の階数表示を見る。

 上昇を示す三角。〈1〉の数字が消え、同時に右隣の〈2〉が灯された。

 もうエレベーターに乗ってきてる!

 迷っている時間はない。わたしは階段のほうへと走った。駆け下りる。脚が縺れる。バランスを崩す。立て直す。また崩す。


「イタッ!」


 遂には踊り場に倒れ込んでしまった。左の足首が痛い。でも少し捻った程度だ。立てる?

 力を込める。よし。これなら歩ける。

 ……聴こえる。規則的な音。徐々に大きくなってくる。下のほうから。靴の音だ。

 やられた。わたしは即座に理解した。

 エレベーターはダミーだ。〈追手〉は最初から、階段を上るつもりでいたのだ。

 エレベーターまで引き返す。わたしは舌打ちせずにいられなかった。この階まで上っているはずのエレベーターは、階数表示が〈4〉で停止している。四階で止まるように仕組まれていた。急いで上昇のボタンを押したものの、そうしている間に靴音は更に大きくなる。

 駄目だ、エレベーターじゃ間に合わない。

 廊下を走る。走る。隠れなきゃ。

 でもどこへ?

 どこが一番安全?

 応接間と会議室は入れない。御船さんとマリンが施錠して、鍵を守衛さんに預けてしまった。

 跫音が一段と大きく響いた。もうこのフロアに辿り着いたのか。

 今すぐどこかのドアに隠れないと……見つかる。

 わたしは開発室に飛び込んだ。

 静かに鍵をかけたはずが、かなりの物音を立ててしまった。聞かれた?

 あまりいい選択とも思えなかった。この部屋にいたところを、外から見られているから。結局元の場所に引き返しただけ。しかもドアの磨りガラスを覗かれたら、ディスプレイが点いているのがばれてしまう。モニターの電源だけ落とし、奥の小部屋に身を潜めた。ただ、こっちの戸には鍵がない。表のドアを突破されたら一巻の終わり。

 暗がりの一角にしゃがんで息を殺す。緊張のピーク。騒々しいキックのような鼓動音が、胸腔を揺るがさんばかりに暴れ回る。

 ……ガチャガチャ。

 遠くのほうで、そんな音がした。ほかの部屋のドアを開けようとしている。

 不意に音が聴こえなくなった。

 ガチャガチャガチャ。

 音が近くなった。多分会議室の、応接室側のドアだ。うちの会社のドアから調べようとしているのか。

 そして静寂。

 ガチャガチャガチャガチャ。

 隣のドアノブを動かしている。

 次はここだ。この部屋のドアを。

 わたしは左手で、口を覆った。涙が滲んでくる。

 またもや静寂。

 扉の前に、人が立つ気配。長く続く無音状態。何故か追手は、ドアを開けようとしない。

 どうして?


「どうして逃げるんだい?」


 心臓が止まるかと思った。次の瞬間、爆発したように鼓動が胸を打ちつけた。心臓が飛び出しそうだ。額の汗が止まらない。寒いのに。頭だけが熱い。



 若い、男の声。

 誰? 判らない。少なくとも、最近聞いた声色じゃない。

 ガチャガチャガチャガチャ。

 半ば儀礼的なドアの音を最後に、気配は消え、あらゆる物音が絶えた。

 俺は仲間? 君の同類? 全然判らない。

 追手が何者で、何が目的で、何を言っているのか、何もかも謎。

 ただ一つだけはっきりしていること。仲間がこんなことをするもんか。お前は、仲間なんかじゃない。

 ポケットの上から携帯電話の感触を確かめる。

 あった。良かった。落としたりしてはいなかった。けど、待ち受け画面を見てヒヤリとした。

 バッテリー残量の目盛が、ない。

 ここ数日充電を怠っていたツケが、こんな非常時に回ってくるなんて。一回分の通話なら平気かも? いや、それ以前にこんな状況で声を出す勇気がない。メールにする。

 姫島さん、助けて、早く来て……送信。

 早く、早く届いて。お願い。早く早く早く。

 最後の気力を振り絞ったメールは、無事送られた。直後、〈充電してください〉のメッセージ。更なる絶望に襲われた。これじゃ姫島さんからの連絡が受け取れない。

 充電アダプターは隣の〈瞑想室〉にある。ここを離れるのは自殺行為だ。でも最低限の充電だけはしておきたい。十分、いや五分でいい。それも無理なら、せめて三分だけ。

 カチャリ。

 すぐ後ろの床で音がした。心臓が飛び出すかと思った。

 机の上にあったハサミが落ちただけみたい。ほっと一息吐いて、ふと考えた。ハサミ……身を護る武器になるかも。なんということもないありふれたハサミだけど、持っているだけで気分的に違う。お守りみたいなものだ。拾い上げ、片側のポケットに収める。

 追手が姿を消してから、どれくらい経っただろう。

 その間に心持ち落ち着きを取り戻すことができた。大丈夫。わたしは大丈夫だ。動ける。

 小部屋を出たのち、ミリ単位で、細心の注意を払って表口の鍵を開けた。

 細めに押し開けたドアから、顔だけ出して周囲を窺う。

 やっと闇に眼が慣れてきた。人間どころか生き物の存在が皆無だ。跫音を立てぬよう気をつけつつ廊下に出る。よっぽど靴を脱ぎ捨ててしまいたかったけど、床が冷たすぎて凍えてしまう。靴音の目立つハイヒールでなかったのが救いだった。

 〈瞑想室〉のドアの開閉のコツは完全に掴んでいる。絶妙の力加減でノブを握り、回し、引っ張る。一切物音は立てていない。完璧。


 ……暗い部屋の中央に、


 わたしは息を呑んだ。

 誰かが仰臥している。ま、まさか……死んでる? どうしてこんな場所で?

 いや、違う。

 どうも様子がおかしい。横になったまま、上半身がゆっくり蠢いている。肩の辺りの起伏具合は、まるで深呼吸でもしているような。

 頭部に視線を移したわたしは、臓腑をえぐられたような衝撃を受けた。わたしの寝間着を、頭から、被っている。

 こんなところで、一体何を……。

 何者かに襲われ、頭部を女物の寝間着ですっぽり覆われたせいで気道を塞がれている? でも、それなら手で服を剥ぎ取ればいいだけの話だ。節くれ立った両手は寝間着を掴んではいるけど、そこから抜け出そうとする様子がまるでない。謎の人物は、こんな深夜に明かりもつけず、鼻息も高らかにひたすら喘ぎ続けている。

 その断続的な喘ぎに混じって、た……たまらん、というくぐもった声が洩れ聞こえた。たまらん?

 次の瞬間、もう一つの可能性に思い至り、わたしは更に息を呑むことになる。


 寝間着の匂いを、嗅いでいる?


 ……なんてことしてるの。

 へ、変態。匂いフェチの、ド変態だ。

 ハサミで攻撃を……いやいやダメダメ。こっちから近づくなんて絶対に無理。じゃあ逃げなきゃ。今なら逃げられる。脚を動かして。脚を。脚が。動かない。あれ?

 どうにか脚は動いた。動いた膝頭が軽くドアに当たる。

 ゴンッという音を残して。


「むごっ」


 衣服の中で男の低い声がした。発条バネ仕掛けのように体が起き上がる。


「そこか!」

「……!」


 呪縛の解けたわたしは、変態男が服を剥ぎ取っている隙に無我夢中で駆け出した。廊下を直進する。

 ガィン!

 開いたドアがストッパーに激突する鈍い音。続いて荒々しい跫音。

 階段を必死に駆け下りた。手摺りにぶつけた指の痛みもすぐに忘れ、走り続けた。走るしかなかった。

 ひた走るわたし。追う男の靴の音。しつこい追手だ。押し寄せる絶望感。

 まるで悪夢のよう。夢なら醒めてほしい。醒めない夢はない。ないのに。

 現実はやはり、醒めない悪夢だった。

 一階フロアに着いた。もちろん守衛さんの姿はない。

 表玄関? それとも裏口?

 駄目だ。どちらに向かっても隠れる場所はない。じきに捕まる。

 ハサミで威嚇すれば? それも無理。端から気休めでしかない。もうそんな度胸は残っていない。

 頭上から迫る跫音。

 意識と無意識の狭間で、わたしの両脚は第三のルートを選び出した。立ち並ぶレンタルスペースの扉を走り抜け、角を曲がる。また逆に曲がる。背後の跫音は……まだ追ってきている。

 通路の突き当たり。扉が三つ。うち二つはトイレ。一番奥の、仰々しい鉄製の扉を体重を乗せながら引き開ける。体を潜り込ませて、今度は逆に体重をかけて閉める。

 大小様々なパイプが大量に壁を伝い、ドアの冷たい質感に酷似した室外機が幾つも設置された、排水及び空調の管理室。どの階も無人だからか、闇に紛れたパイプの群れは申し合わせたように沈黙を決め込み、一様に鈍色にびいろをした無骨なボックスも微動だにしていない。

 照明は灯さず、一際おおきな室外機の死角に詰め寄る。壁に近いとある床に刻まれた、矩形の溝とコの字型の把手。

 まだ油断できない。両手で把手を掴む。手が滑ってうまく握れない。力を込める。滑る。悔し涙が零れ落ち、床に落ちた。

 涙……ハンカチ。姫島さんに借りたハンカチ。洗って返そうと思って、まだ服のポケットに収めたままのハンカチ。

 涙は後で拭くことにした。把手に巻いて握り締める。

 動かない。

 姫島さん……限界みたいです。最後の力が、もう残ってないみたい。ほんのちょっとだけ、力を貸して下さい。

 僅かに動いた。

 姫島さん……いろいろ借りちゃって、ごめんなさい。後で、必ず返します。二倍返しでも、三倍でも、何倍でも。

 もう少し動いた。

 姫島さん……姫島さん……姫島さん……。

 蓋が開いた。


 その下の空間に脚から滑り込んで、蓋を閉めて、

 閂のかかった眼の前の通用口に、顔を綻ばせた姫島さんの容姿を思い描きつつ、

 わたしは視界が仄白く、

 霞んでいくのを、

 満ち足りた心境で、

 ただただ見つめていた……。

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