2‐〈2〉 遭遇
昨日、そして前々夜の経験を通じて
いつものように〈家〉の中で眼醒めたのち、
結局、〈彼女〉からの連絡はなかった。
しかしさほどの気落ちはない。二日連続で〈彼〉との遭遇を免れている現状が、気を大きくさせていたのかもしれない。人目につかない夜だということもある。心持ち足取りを弾ませ、通常のルートであのコンビニへ向かった。
地図が並んだフレーム組みの狭いコーナー。付近に人の姿はなかった。昨日見た地図帳もそのまま置いてある。売り切れの心配がないことが、とてもありがたかった。
早速地図帳を開く。自分の住んでいる〈家〉の住所を調べるためだ。
ところが、思わぬところからこの計画は断念せざるをえなくなった。店員に立ち読みを注意されてしまったのだ。確かに褒められた行為ではないし、昨日もかなりの時間調べ物をしていたので、文句などあろうはずもない。かといって、購入できるほどの予算もない。ないない尽くしに、泣きそうな気持ちで外に出るしかなかった。
これで、自分のより正確な居場所を他者に伝えることができなくなってしまった。家から持参したメモ用紙とペンも、ただのお荷物に格下げ。一般の書店が開いている時間帯ではない上、果たして別のコンビニを捜し出す時間的余裕はあるのか。
とにかくもう一度、彼女の……彩羽理央の家に行ってみよう。あの手記がちゃんと手許に届いたかどうか、是が非でも確認しておきたい。
日中と夜間の景色は多少勝手が違うことを差し引いても、彼女の家に着くまでにかなりの時間を要してしまった。冷たい空気に曝された喉が痛い。
彩羽邸は真っ暗だった。
周囲を見渡し誰もいないのを確かめたのち、忍び足で塀に近づく。先日近隣の主婦に不意を衝かれたのが、ちょっとしたトラウマになっているみたいだった。こんな夜中に出くわすはずもないのに。
窓明かりはもちろんのこと、玄関灯も消えている。早めの就寝という感じでもなさそうだ。もしかして、ずっと無人なのだろうか。
厭な予感を振り払い、塀の裏側から郵便受けを探ってみる。ポスティングのチラシが一枚。それだけだ。
良かった。ほっと胸を撫で下ろした。ここにないということは、手記が家の人に渡ったことを意味する。よもや余人の手になど渡っていないだろう。ましてや〈彼〉の如き悪人の手には。
〈家〉の住所が判らない以上、似たような手紙を残しても効果は薄い。静かにその場を立ち去る。隣の家に眼をやると、部屋の明かりは何箇所か灯されていたのに、可愛い柴犬の姿は犬小屋のどこにも見当たらなかった。夜の散歩だろうか。
コンビニを捜す道すがら、取留めもない思いの数々が
不可避に導かれる、名も知らぬ〈彼〉との運命のこと、
一向に思い出す気配のない自分の氏素性のこと、
〈麟音〉という名前にすら次第に自信を失いつつあること、
この数日というもの水以外の食料を口にしていないこと、
それでも気が張っているせいか食欲がまるで湧かないこと、
時折雲の切れ間から顔を出す月の輝きのこと、
雲がなくても街明かりのせいで見えづらくなった星々のこと、
暖房の効きすぎた店内に入るとうっすら曇り出す眼鏡のこと……。
そうこうしているうちに、高いフェンスに囲まれた駐輪場に出た。
コンビニどころかそれ以外の店舗も影も形もない。探索は混迷を極めてしまったようだ。以前眼にした多数の高層ビルが、意外なほど間近に迫っていた。
薄汚れた立て看板に〈自転車盗難に注意!〉の文字。時間が時間なので、停めてある自転車はほとんどない。思ったより治安が悪いのだろうか。またしても、昨日の主婦の
金網の巡らされた寂しい一角に、淡い光を帯びた電話ボックスが見えた。利用者の不在をものともしない虚ろな輝きが、余計に寂しさを際立たせている。
線路を疾駆する電車の走行音が、遠く離れたこの路地にまで響いてくる。駅が近いのかもしれない。
暗闇に消えていく騒音。掴み所のない想念の中に、この間拾ったJR発行のICカードが一つ追加された。
……誰かいる。
道の前方に眼を凝らす。
誰もいない。いや……いた。
闇の中を何かが蠢いている。
人ではない。もっと小さい何か。
やがて向こうからとぼとぼと歩いてきたのは……あの柴犬だった。
昨日隣家で見かけたのと同じ柴犬が、尻尾を振って近づいてくる。
どうしてこんな処に、あの犬が?
首輪の先には鎖も何も繋がれていなかった。鎖が外れたのをいいことに、優雅な
狐のような毛並をした柴犬は、沈黙を保ったまま足許に擦り寄ってきて、ポトリと何かを落とした。何かを咥えていたらしい。
こちらを見上げてハッハッと愛嬌を振り撒いたのち、柴犬は低い唸り声を発して脇を通り過ぎてしまった。
何を落としたのだろう。足許に眼をやる。
一本のサインペン。全く記憶にない。わざわざ犬が届けに来たとは思えないけれども、ひょっとするとこれは、記憶を失う前の所持品か何かだろうか。
膝を屈してペンを拾おうと手を差し出す。
そのときだった。
今度は犬の鳴き声が静寂を掻き消し、周囲の
ペンはそのままに、声のするほうへ走り出す。
道路の傍らに、赤地に白文字でデザインされた自動販売機がある。その奥の暗がりに向かって、上体を落とした柴犬がグルルルル、と唸っていた。
闇の果てに何かが見える。
人だ。人間が倒れている。
「だっ……大丈夫ですか」
恐る恐る覗き込み、勇気を振り絞って声をかけた。服装からして、男性のようだ。左半身を上にして横向きに転がったきり、相手はぴくりとも動かない。
死んでる?
最悪の予感に身が竦んだ。
他方、警戒を解いたらしい犬は、頭部の近くに回り込むと、その顔を無遠慮にペロペロ舐め回し始めた。この倒れている人物が、飼い主なのだろうか。
しかし急速に興味を失った犬は、男性の周りをゆっくり一周すると、同じ速度で元来た道をとぼとぼ引き返して行ってしまった。人違いだったのだろうか。
と、男性は間もなくウーンと唸って身をよじり出した。息を吹き返したのだ。犬が舐めたのが気つけ薬になったのかもしれない。
「大丈夫ですか?」
尚も呻き続ける男性に、再度声をかけてみた。
返ってくるのは、腹の底から絞り出すような呻き声ばかり。意味の取れる言葉ではない。
いずれにしろ、生きているのなら怖くない。もっと近づこうとして、漂うアルコールの臭気に初めて気づいた。あの柴犬はこの臭いに釣られたのか。それにしてもかなりの臭気だ。相当量のアルコールを消費したに違いない。単なる酔っ払いの居眠り? ならばこれ以上関わる義理もないのだけれど。
次の瞬間、自分は恐ろしいものを見てしまった。
暗くて最初は影と判別できなかったが、男性の横顔の下に敷かれた砂利が、よく見ると赤黒く塗れている。
瞼を固く閉ざした男性は、頭と、そして唇から流血していたのだ。足を滑らせて転んだにしては、容態がひどすぎる。喧嘩でもしたのか。とにかく怪我人を放っておくわけにはいかない。なんとかしないと。
だけど……暗がりの中で首を捻る。助けを呼ぼうにも、通りかかる人は皆無。こちらには携帯電話もない。
そうだ、確かこの近所に電話ボックスが。
「待っててください、今、救急車呼びますから」
案の定返事はなかったけれど、それを待つ必要はない。慌てて駆け出した。
無人の電話ボックスに駆け込み、受話器を上げてら119をダイヤル。
すぐに受付の人と繋がった。
「119番、消防署です。火事ですか、救急ですか?」
「えっと、救急です。人が倒れてるんです。血を流して」努めて冷静に答えたつもりが、口から出る声は自分で聴いていても騒々しい。
「落ち着いて下さい。公衆電話からですね?」
「は、はい」
「ではそちらの住所を教えて下さい。電話機の上に住所の表示がありますか?」
「あ、はい。あります。えーと……」
「ゆっくりで結構ですよ。落ち着いて話して下さい」
何しろ当方にとっては初めての119番通報、加えて通報先の性格上、事は一刻を争うのだから、そう容易く落ち着けるものではない。どうにか伝えるべきことを伝え、さて受話器を置こうかという段になって、
「では最後に、あなたのお名前をお聞かせ願えますか」
「……名前、ですか」
「はいそうです。フルネームでお答え下さい」
「ええと、下の名前は、麟……」
思わず言葉が止まる。
ここで名前を明かしても、大した問題ではないと思う。けれどもひとたび生じた迷いは、簡単には消えてくれない。名前を知られることが、やがてとんでもない禍根を招いてしまわないだろうか。
「もしもし、インさん、でよろしいですか。それともリンさんですか?」
外を見る。もちろん人気はない。
本当にそうなのか?
辺りが暗すぎて、もっと近寄ってこないと見分けられないだけなのではないか?
ランダムな模様を描いた、あの高層ビルの窓明かりのどこかで、追跡者の〈彼〉が自分を見下ろしてほくそ笑んでいるのではないか?
新たな可能性。さっきの男性の怪我も、実は〈彼〉にやられたのではないか?
……こちらへの、見せしめとして。
「もしもし、どうしました? もしもーし?」
うっかり口を滑らせたがために、こちらの名前が〈彼〉に知れてしまい、巡り巡って更なる身の危険が迫り来る……そんなことは起こらないと、一体誰が言い切れる?
「どうしたんですか? もしもし?」
何も言わず電話を切った。
そう、これでいい。人としての、最低限の義務は果たした。通報者の名前が判らなくても、救助活動には直接関係ない。
男性の倒れている現場に戻った。
依然、男性に動きはなく、救急車を呼んだことを告げても返事らしい返事はない。血だまりの量がこの暗さではちゃんと見えないので、出血が収まったのかどうか判然としない。それでも動けないところを見ると、かなりの重傷なのかもしれない。
寝息らしい音がたまに聴こえる。単純にアルコールによるものか、それとも脳へのダメージが原因なのか。こちらに知る術はない。迂闊に動かすのもまずいし、せめて救急車が来るまでここで見守っていよう。
何気なく辺りを見回すと、男性の頭上数メートル先の砂利に、割れたサングラスが落ちているのを見つけた。彼の所持品のようだ。よほどの安物でないとすると、相当な勢いで叩きつけられたのを裏付ける、散々な壊れ方をしていた。
これではいくら物持ちの良い人でも、耳にかけて練り歩くわけにはいかないだろう。それでも一応持ち主の近くへ置いておこうと、サングラスの落ちている場所まで歩いてそれを拾い上げたとき……。
短い、微かな、呻き声がした。
男性の意識が戻りつつあるようだ。もし普通に喋れるようなら、彼自身を襲った暴漢について、何か訊き出せるかもしれない。急いで引き返し、声をかける。
「大丈夫ですか?」
「……う……」
「救急車呼びましたから、もう少しの辛抱ですよ」
横たわったまま、男性の左眼が少しずつ開いていった。
「もしもし、聞こえますか? 喋れます?」
顔を近づける。額の中央に赤い痣ができていた。なんだろう。石にでもぶつかったのか。
「……うう」
こちらを視界に捉えたのか、見開かれた男性の眼が、驚愕の色を孕んで大きく揺れた。
「……痛い……」
意味のある言葉を、初めて発してくれた。良かった。心から安堵した。
……やがて救急車のサイレンが、ドップラー効果で不安定にうねりながら次第に近づいてきた。
男性の容態が気になるものの、これ以上ここには留まっていられない。走ってその場を離れた。
だいぶ距離を置いたところで、柴犬が持ってきたペンを置き忘れてしまったことに気づいた。あのペンは結局なんだったのだろう。それにあの柴犬、首環をつけたままで、ちゃんと家に、飼い主の許に戻れただろうか。
足は自然と我が家の方角に向かっていた。結局コンビニは見つからなかった。住所の詳細を調べるのは明日以降にしよう。
それにしても。
こんな調子で、本当に彼女……彩羽理央という女性に、出逢うことなど可能なのだろうか。改めて不安に
残念だけれどそうに決まってる。
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