番外編 黒こげマドレーヌは恋の味

 絵具屋から帰る途中、シテ島とセーヌ川南岸を結ぶ小橋プティ・ポンを歩いていると、前方に見知った顔があった。石造りの欄干に手をかけるその人物は、サティ警部の部下エルランジェ刑事に間違いない。まるでこの世の終わりみたいな、ひどく思いつめた表情で溜息をついている。

 声をかけようとしたまさにそのとき、彼が身を乗り出して水面を覗き込んだので、身を投げると思った私は抱えていた紙袋を放り投げて駆けつけた。

「だめよ! はやまらないで!」

 エルランジェ刑事は、背後からしがみついた私を驚いたように振り返った。「アルメルさん?」

「あなたが死んでしまったら、サティ警部が悲しむわ!」

 彼はしばらくぽかんと口を開けていたが、やがて事の流れを察したようにこう言った。

「何か誤解されているようですが、私は川面の鳥を眺めていただけです」

「……え?」

 その横で、道端にほっぽり出した絵具が馬車(キャブリオレ)の車輪に轢かれた。勘違いした気まずさからそそくさと紙袋を拾い上げ、その場を立ち去ろうとする私をエルランジェ刑事が引きとめた。

「あの、アルメルさん。もし、ご迷惑でなければちょっと話を聞いて頂けませんか?」

 何か悩みでもあるのだろうか。こう見えても彼は警視庁の人間だし、仕事で嫌なことでもあったのかもしれない。偶然出会ったとはいえ、私のような小娘にその手の話を相談するのはお門違いもいいところだが、思いつめた顔が気の毒に思えたので快く了解した。

 エルランジェ刑事は警戒するように辺りの様子を伺いながら、私の背中を押して橋の袂にある階段先の遊歩道へと下りてゆく。それから、しばらく落ち着かない様子で木陰を行ったり来たりしていたが、ようやく意を決したのか、急に立ち止まり、顔を赤らめて俯きながらこう言った。

「実は、私は以前からずっと、サティ警部の……」

 ごにょごにょと何かを呟いているが、声が小さくて聞き取れない。

「あの、よく聞こえないんだけど。もう一度言ってもらえない?」

 すると、彼は顔を赤らめてますます小さな声になる。「ですから、その……わ、私はサティ警部のですね……」

「警部が、何?」

 彼は真っ赤な顔で眉間に皺を寄せ、拳をぎゅっと握り締めると、あらんばかりの声で言った。

「愛しているんです!!」

「え?」

 唐突な愛の告白に、私は目が点になる。「愛してるって、誰を?」

「で、ですから、先程から何度も申し上げているとおり、サティ警部の――」

「えええ!? えええええっ!!?」

 私が大声で叫んだとき、同時に聖堂の鐘が辺りに鳴り響き、遊歩道に群がっていた鳩たちが一斉に羽ばたいた。

 時告げる鐘を耳にしたエルランジェ刑事は懐中時計に目をやると、「いけない、そろそろ行かないと!」と慌てたように襟元を正した。

「このことは警部には秘密にしておいてくださいね。というか、誰にも言わないでくださいね!」

 そう言って、彼は恥ずかしそうに階段を駆け上がり、目と鼻の先にある警視庁へと戻って行った。残された私はただしばらくの間呆然とその場に立ち尽くすのだった。



「それでアルメル? これは一体何だろう?」

 夕刻のアトリエで、ルシエは怪訝そうに私から渡された袋の中を覗き込んだ。

「だから、あなたから頼まれていた絵具よ」

 馬車に轢かれた絵具はチューブが破れ、袋の中で色の大爆発を起こしていた。「どうせカンヴァスの上でさまざまな色を混ぜ合わせるんだから、最初から混ざっていた方が楽でしょう?」

 私の言い分に、画家は呆れたように溜息をつく。

「見たところ馬車にでも踏み潰されたようだが、もしかして転んだのかい? 怪我などしてはいないだろうね?」

「大丈夫よ。……ごめんなさい。明日また同じ物を買いに行くわ」

「そんなのいつだっていいさ。君が無事なら何も問題はない」

 ルシエは優しい仕草で私の頬に人差し指を滑らせる。そうして、そのまま彼がキスをしようと唇を近づけてきたとき、視界の端に第三者の気配を捉え、私たちは二人同時に扉の方へと顔を向けた。

 階下の住人、フォルクレ夫人は弾かれたように慌てて豊満な体を衝立に潜めたが、隠しきれないと悟ったのかコホンと咳払いをすると、取り澄ました様子で再び姿を現した。

「別に覗いていたわけじゃありませんよ。扉が開いていたものですから」

 自分はあくまでも所用で来たのだと主張して、甥っ子の家から貰ってきたというすもものお裾分けをテーブルに置いてゆく。それから、夫人はルシエが自分の話を聞いているかどうかさりげなく確認しつつ、「ところでアルメルさん」と去り際に私を嗜めるような、それでいて興味津々な様子でこう言った。

「つい先程、小橋プティ・ポンであなたの姿をお見かけしましたよ。ご一緒にいらした殿方はどなた? 随分親密なご様子でしたわね」

 私は笑顔ですもものお礼を述べてから、ごく自然に夫人を押し出すようにして玄関の扉をパタリと閉めた。彼女はしばらく部屋の中の様子に聞き耳を立てていたようだが、やがてあきらめたように階下へと下りて行った。

 夫人が立ち去るや否や、ルシエが物問いたげな視線を傾けてきたので、尋ねられる前にあらかじめ否定しておいた。

「言っておくけど、やましいことなんかないわよ。エルランジェ刑事と偶然会ったの。それだけよ」

「僕は別に何も尋ねちゃいないよ。君が誰とどこで会おうが君の自由だ」

 ルシエはそう言うと、すももを鼻先に近づけて香りを嗅ぎながら言葉を続ける。「それで? 彼は元気だった?」

 馬鹿正直にも、私はその問いに言葉を詰まらせた。

「あまり元気はなかったかもしれないわ。きっと仕事が忙しいのね」

 声色のささやかな変化を感じ取ったのか、ルシエは不審げに質問を浴びせかけてきた。

「彼とはどこで会ったって? 二人で一体どんな話をしたんだい?」

「べ、別に、たいした話はしてないわよ」

 言えるわけがない。彼がサティ警部を愛しているだなんて、そんな話を一体どこの誰に出来るというのだろう――?

 私が黙りこくったままでいると、ルシエはますます訝しげに顔を覗き込んできた。

「アルメル、君、本当にエルランジェ刑事と会っていたの? それとも、誰か別の男と逢引していたんじゃなかろうね?」

 思いもよらぬその言葉に、私は驚いて目を瞬かせる。遅ればせながらやって来た憤りから、「そんなわけないじゃない!」と声を荒げて反論したが、それは逆にルシエに不信の念を抱かせたようだった。

 向けられた疑いの先は想像と少しばかり違っていたが、兎にも角にも、私はこれ以上厄介な質問を受けまいと話を切り上げ、夕食の支度をしに慌しく台所へと向かった。



 翌日、再び絵具屋へ赴いた帰り道でのこと。私は昨日エルランジェ刑事と会った場所で、とある人物の姿を見つけてしまい、くるりと踵を返して相手に気がつかないふりをした。だが、向こうはすでにこちらの姿に気がついていたらしく、足早に隣りまでやって来ると、歩幅を合わせ肩を並べて歩き始めた。

「ご機嫌よう、マドモワゼル」

 私が今最も顔を合わせたくない相手――ウジェーヌ・サティ警部は、挨拶のために傾けた山高帽の下から爽やかな笑顔を覗かせて言う。「私の顔を見て逃げましたね?」

 いいえ、と答えたが、あからさまに避けていたに違いない。私は上手く立ち回ることが出来ない自分の不器用さを心の中で呪った。

「――まあいいでしょう。それにしてもちょうどよかった。実は今、妹のラシェルが焼いてくれたマドレーヌを食べ切れなくて、どうしようかと思っていたところだったんです。よろしければ、あちらでご一緒におひとついかがですか?」

 そう言うと、警部は私を橋の袂の階段まで連行し、無理矢理石段に座らせた。類は友を呼ぶとはまさにこれだ。こういう強引なところは誰かさんにそっくりだ。そんなこちらの思いなど露とも知らず、警部は小脇に抱えていた紙袋から真っ黒な物体を取り出して、「どうぞ」と私に手渡してきた。

「これは何……?」

「マドレーヌですよ」

「真っ黒じゃないの」

「お恥ずかしながら、菓子作りはあまり得意ではないようです」

 そう言って、サティ警部は隣りで煙草を吹かしながら微笑んだ。

 恐る恐る黒こげの物体を齧ってみたが、歯が立たない。一体どのようにして作ったらこんなに硬くなるのだろう? 私が黙々と焼き菓子と格闘している最中、ふいに思い出したように警部が口を開いた。

「そういえば、昨日エルランジェと偶然会ったそうですね」

 予期せぬタイミングで尋ねられ、私はようやく噛み切った菓子に喉を詰まらせて咽込んだ。

「大丈夫ですか? マドモワゼル」

 警部が背中を叩いてくれたおかげで大事には至らなかったが、一瞬死ぬかと思うほどだった。私が落ち着いたのを見計らって、彼は再び話題を戻した。

「エルランジェのやつ、ちょっと様子がおかしくありませんでしたか?」

「ど、どうだったかしら。別にいつも通りだったと思うけど」

「あいつ、最近何か思い煩っているようで、仕事中もずっと溜息ばかりついているんです。尋ねてもなぜか話をはぐらかされてしまう。私に打ち明けられないような悩み事でもあるのかな」

 あら、気がついてなかったの? あなたの部下はあなたのことが好きなのよ? と言ってしまいたい衝動に駆られたが、当然言えるわけもなく。返事に困って貝のように口を閉ざして黙り込んでいると、警部は煙草の吸殻を石段に押し付けてやおらその場から立ち上がった。

「突然妙なことを尋ねてしまいましたね」

 そう言って、彼は私の手を取り立ち上がらせると、いつになく弱々しい口調で詫びてきた。「あいつのことが心配で、ついマドモワゼルに探りを入れてしまいました。お時間をとらせてしまい、本当にすみませんでした」

 どうやら、サティ警部はエルランジェ刑事の様子を心の底から心配しているようだった。きっと、またいつぞやのように阿片に走ったりしないか気がかりで仕方がないのだろう。面倒見の良い上司を持って、エルランジェ刑事は幸せ者だ。



 アトリエに戻ると、ルシエは腑に落ちない顔つきで私の顔をまじまじと見つめた。

「で、今度は絵具を橋の袂に置き忘れてきたというのだね?」

 そうなのだ。階段に腰を下ろしてマドレーヌを食べたとき、うっかり石段の上に置いたまま忘れて帰ってしまったのだ。自分自身のまぬけさにほとほと呆れて溜息が出る。

「ごめんなさい。戻ってくるまで気がつかなかったのよ。今から取りに行ってくるわ」

 アトリエから出て行こうとしたとき、ふいにルシエは何かに気がついたみたいに私の髪に鼻先を近づけた。

「――アルメル、君、煙草の臭いがする」

「え?」

「フロケ爺さんのとは違う。この香りは――ウジェーヌの銘柄だ」

 答える間もなく、彼は昨日と同様に矢継ぎ早に質問を浴びせかけてくる。

「君、もしかして今までウジェーヌと一緒にいたのかい? どうして彼と会ったことを僕に黙っていたんだね? 本当は昨日も彼と会っていたのではなかろうね?」

 責めるような口調で問い詰められ、私は思わずむっとしてしまう。

「私が誰とどこで会おうが、私の自由じゃなかったの?」

 逆手に取った言葉を吐いてその場から立ち去ろうとすると、ルシエは自らの掌を壁に打ち付け私の進路を妨害した。

「君からほかの男の匂いがするのは気に入らない」

「妙な言い方しないでよ。あなた、昨日からなんだかちょっとおかしいわよ」

 私の言葉に、ルシエはめずらしく声を荒げた。

「だとしたら、君が僕を狂わせるのだ!」

 どことなく普段の彼らしからぬ様子が伺えて、私は少しばかり身構える。ルシエは理性を失ったように、激情のまま内心の苦悶を押し出した。

「ああ、アルメル。君は僕だけの物だ! ほかの誰にも渡さない! ましてやウジェーヌになんか絶対に――」

 分別をなくし喚き立てる画家の言葉を遮るようにして、愉快そうな男の声が背後から降ってくる。

「俺がどうしたって?」

 驚いて振り返ると、アトリエの扉横に腕を組んで寄りかかり、サティ警部が煙草を吹かしてこちらの様子を眺めていた。

「お取り込みのところすまんな、フランシス。一応扉はノックしたんだが、気づいてもらえなかったようなので勝手にお邪魔したよ」

 そう言って、彼は私のそばまで歩いてくると、「忘れ物ですよ、マドモワゼル」と、絵具の入った紙袋を手渡してきた。そしてそのまま悪戯気に私の耳元へと顔を寄せ、わざとルシエに聞こえるように囁いた。

「あなたの背中をさすった柔らかな肌の温もりが、今もこの手から離れません」

 そういう冗談、今はやめておいた方がいいんじゃない?――と思った次の瞬間、ルシエから繰り出された拳により、警部の体は積み重ねられてあったカンヴァスを散らばせて床の上に転がった。



「まさかおまえが嫉妬に狂うとはな」

 水に浸した布を腫れた頬に押し当てながら、警部はルシエを恨みがましく睨み上げた。

 誤解が解けてすっかり落ち着きを取り戻した画家は、警部の持ってきた紙袋の中身を確かめながら飄々とした様子で言う。「昔、初対面で君から殴られたことがあっただろう? さっきのはそのお返しさ」それから、ふいに「あれ?」と言って、袋の中から絵具の代わりに真っ黒な物体を取り出した。

 それはサティ警部の妹さんが焼いた黒こげのマドレーヌだった。警部は自らの徒労に肩を竦めて溜息をつく。「しくじったな。似たような袋だから間違えてそっちを持ってきちまった。おまえの絵具はシテ島警視庁の俺の机の上ってわけだ」 

 そのとき、玄関の呼び鈴が鳴り、開きっぱなしになっていた扉から少女がひとりアトリエに姿を現した。画家は驚きと喜びの表情を浮かべ、嬉しそうに相手を迎え入れた。

「やあラシェル、しばらく会わないうちにすっかり大人になったね! ついこの間までは髪も垂らしたままの幼子だったのに、今や立派な淑女(レディ)じゃないか」

 褒められた少女はフフと肩を揺らせて帽子を脱ぐと、ふいに自身の死角に腰掛けていたサティ警部に気がついて驚きの声を上げた。「まあ、兄さんも来ていたの?」

 ラシェルという名前を確かにどこかで聞いたことがあるとは思ったが、なるほど、少女はサティ警部の妹さんなのだった。しかし目鼻立ちがまったく似ていないので、兄妹だと言われなければわからないほどである。

 ルシエが私を彼女に紹介すると、「いつもお噂は兄から伺っています」と丁寧な挨拶をされた。どんな噂をされているのやらと気になったが、妹に余計なことを語らせまいと警部が私たちの間に割り込んできたので聞きそびれてしまった。

「それでラシェル、一体何しにここへ来たんだ? おまえがフランシスこいつを訪ねてくるなんて随分めずらしいじゃないか」

「マドレーヌをたくさん焼いたので食べて頂こうと思ってお持ちしたの。――というのは口実で、アルメルさんに一度お会いしてみたかったのよ」

 そう言って、少女は黒こげのマドレーヌがいっぱい詰まった紙袋を私に手渡してくれた。警部は少しばかりうんざりしたように横から袋の中を覗き込む。

「何だってここ最近、マドレーヌばかり焼いてるんだ?」

「だって兄さん、最近エルランジェ刑事の元気がないって漏らしていたでしょう? だから、彼の大好きなマドレーヌを焼いてあげようと思って毎日練習してたのよ」

 そのとき、なんとも偶然なことに、当の本人エルランジェ刑事が絵具の入った紙袋を抱えてアトリエに姿を現した。

「警部! アルメルさんに忘れ物を届けるとか言っておきながら、肝心の絵具を忘れたでしょう――て、え、あ、ラシェルさん? どうしてここに!?」

 エルランジェ刑事はサティ警部の妹さんに気がつくと、ひどく取り乱した様子で姿勢を正す。

「ちょうどよかったわ。これからあなたの所へマドレーヌを届けに行こうとしていたの。兄から好物だと聞いていたので手作りしてみたのよ。これを食べて元気をだしてね」

 少女から紙袋を手渡され、エルランジェ刑事は感動に打ち震えた様子で袋の中を覗き込んだ。

「ラシェルさんの手作りマドレーヌ……この私のために……」

 彼は震える手つきで黒い物体を取り出すと、神からの授かり物であるかのようにありがたそうに頬張った。ガリガリッというあってはならない噛み音がして、私とルシエとサティ警部は恐れおののくように焼き菓子に目をやった。

「おいしい! こんなにおいしいマドレーヌは今だかつて生まれてから一度だって食べたことがありません!」

 感激の涙に瞳を潤ませながら、エルランジェ刑事は石のように硬い焼き菓子をすべてきれいに平らげるのだった。



 来訪者らが立ち去った後、賑やかだったアトリエはいつも以上に静かで平穏に感じられた。淹れたばかりの紅茶にマドレーヌを浸すルシエの姿を眺めながら、私は不思議に思ってひとりごちる。

「エルランジェ刑事、ラシェルさんのマドレーヌを食べたらすっかり元気になったわね」

 すると、「実はここだけの話だが――」と切り出して、ルシエが私に教えてくれた。

「以前、彼が阿片に溺れたことがあっただろう? あれはラシェルを愛するあまり、精神的に不安定な状態に陥ってのことだったのだよ」

「え? でも、エルランジェ刑事が愛しているのはサティ警部じゃなかったの?」

 私の返答がえらくツボにはまったらしく、ルシエは腹を抱えて笑い出した。


『実は、私は以前からずっと、サティ警部の……』


 どうやら、聞き取れなかった言葉の先には『……妹さんを愛しているんです』といった続きがあったようである。

 私は脱力感からぐったりとテーブルの上に突っ伏した。ルシエは背後からそっと腕を回して私の体を抱きしめると、「ごめんアルメル」と呟いて、それから躊躇いがちに口ごもった。

「僕は君を怯えさせてしまったね。今になると羞恥心に苛まれるのに、君が僕から離れてしまうんじゃないかと思ったら、嫉妬に駆られて気が狂わんばかりになってしまった。まるでいつぞやの神父のようだと気がついて、ひどく自分に失望したよ」

「あなたは彼とは違うわよ」

「そうだろうか。今だって一皮向けば考えていることは同じだよ。君を籠の中に閉じ込めたいと思ってる。僕だけのそばに居て欲しいと思ってるんだ」

 私は彼と向き合った。

「でも、そうやってあなたがいくら私を束縛したって、ヴェルヌ神父とあなたは違うのよ」そうして、言おうかどうか迷っていた言葉を口にする。「だって、私があなたを愛しているから……」

 私の言葉に、ルシエは狐につままれたような顔をしてほんの一瞬黙り込んだ。ややあってから、さも信じがたいと言わんばかりに彼は声を震わせる。「今、なんと言ったのだね?」

「ヴェルヌ神父とあなたは違うのよ」

「その後だよ!」

「……もう忘れたわ」

 気恥ずかしさから回された腕を解いて立ち上がると、ルシエは私の両肩をつかんで元の位置に押し戻した。

「ああ、お願いだよアルメル! もう一度今の言葉を言ってくれ!」

「もう忘れたわ」

「それじゃなくて! 僕を愛してるって、君は確かにそう言った!」

「空耳じゃない?」

 しつこく懇願する画家を尻目に、私はアトリエに差し込む夕日の中で密やかに微笑んだ。

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或る少女の肖像 Lis Sucre @Lis

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