第4話 In Our Memories(パンとクリス)

 おれはあるひとりの天才を知っている。

 その人物と出会ったのは、ずっと以前のこと。彼の年齢がようやく二桁に達しようかという頃だった。

 当時はまだ公に“天才”とは呼ばれていなかったが、既にそうであったことは間違いない。天才とは後から造られるものではない。初めからそうであるが故、天才なのだ。

 魔法が時間に影響されないように、時が理解を深めるとは限らない。おれは長いことクリスのそばにいた人間だが、今もって彼のことを理解しているとは言い難い状態にある。

 しかし、おれは天才と多くの時間を過ごすことができた。それは真に宝物に等しい日々だったのである。



 おれの古い友人にコーエンという男がいる。美術評論家として知られているが、出会った頃の彼は美大の研究員で、評論は小遣い稼ぎの一環だった。活動の場は地方新聞が関の山で、その年のコーエンは、小学生の絵画コンクールの審査員長だった。

 彼が電話口で言った台詞を、今でもはっきり思い出すことができる。

「とにかく素晴らしい。本当に素晴らしい作品なんだ」熱を込め、コーエンは強く繰り返した。「きみも一度見ればわかるはずだ。その子供がただならぬ才能を持っているということが」

 コーエンが連絡してよこしたのは、先日行われた絵画コンクールの件だ。おれに紹介したい画家がいるとのことだったが、まさかそれが学校優秀賞に輝いた子供だとは思ってもみなかった。

「とにかく大人顔負けだ。一度きみに見てもらいたい。いや、彼に会ってもらいたい」

「そいつは優勝者か?」

「残念ながら逃した」

「優勝できなかった? どういうことだ? 天才なんだろ、そいつは」

「かなりいい線までいったんだが。何というか、実に子供らしくない絵でね。そういう作品に賞を与えるのは、あまりよくない。そこらへんの事情はわかるだろ」

「後から“大人が手伝った”とバレたらひどいことになるからな」

「その通り。でも彼は違う。大人の手伝いなどまったく必要としていない。優勝はもっと“子供らしい絵”だ」

「大人顔負けに絵が上手。ちびっ子ビックリ博覧会というわけだな?」

 そう茶化すと、コーエンは気分を害したらしく、「年齢のことを考慮せずとも素晴らしいと僕は思う」と、強い口調で主張した。「それに若い才能を育成するという目的においては、きみのファクトリーと同様かと思うけどね」

「だったらコーエン、おまえがやればいい。なぜおれがそいつの面倒を見なけりゃならないんだ?」

 いくら友人の推薦とはいえ、正直、御免だと思った。おれのファクトリーは子供の遊び場ではない。状況に意気込んでいるからといって、その言い分が信じるに値するかといえば、また別なこと。興奮状態の人間の言うことを鵜呑みにするほど、おれは間抜けじゃない。

 穏便に断わろうとすると、コーエンは「このままではあの子の才能は死んでしまうんだよ」と哀れっぽく言った。この会話で“才能”という単語を彼が口にしたのは、これで三度目だ。

「今の環境はあの子の才能を思う存分伸ばせるとは言い難い。家庭に事情があってね」

 ふむ、これで四度目。

「わかるだろう? 現在の教育システムが、芸術にどのような影響を与えているか」

「わかるとも」おれは同意した。「だが、その程度で死ぬような才能なら、元々なかったのさ」

 コーエンはため息をつき、「きみが興味を持つかと思ったんだが」と、残念そうに言った。

「持ったとも」おれは半旗を翻す。

「本当に?」

「ああ」

「それは良かった。じゃあ彼に会ってくれるんだな?」

「だがもしそいつに“才能”とやらがないと、おれが判断した場合……」

「なんだ?」

「もう二度と、うちに電話をかけてこないと誓え。来週、月曜に予定を空けておくからな」

 言い捨て、おれは電話を切った。来週月曜。何かを期待しているわけじゃない。コーエンを懲らしめるいい機会だと思ったまでだ。



 おれがファクトリーを構えたのは、知人からアパートメントを一軒、購入してくれないかと頼み込まれたのがきっかけだ。その男は著名な写真家で、若い時分にピューリッツアー賞をとったこともある。しかしその当時は破産一歩手前の状態で、持てるものすべてを、少しでもいい条件で手放したがっていた。

 おれはといえば親族の遺産を有効に活用する手立てを考えていたところで、ソーホーにある彼のアパートメントは、かねてより考えていたビジョンにぴったりの物件だった。かつて活気のあったマンハッタンのアートシーン。その復活に意欲的だったおれは、物件を買い取って修繕し、若いアーティストたちを支援する根城にした。ひと言でいえばパトロンだ。

 おれは暇だった。人生に退屈していた。そうだということに気がついたのは、ずっと後になってからのことだったが。



 月曜。コーエンとおれが訪れたのは、川向こうにある集合住宅だった。周囲に落書きされていないい壁は見当たらず、おれは自分の車で来たことを後悔した。以前この手のところに駐車して、ものの五分でホイールカバーを盗まれたことを思い出したからだ。ホームレスがドラム缶に火を入れ始める時刻にチャイムを鳴らすと、縞のシャツを着た子供が顔を出した。聞いていた年齢よりずっと幼い。

「ずいぶん小さいな」おれが驚いていると、コーエンは「彼じゃない」と言った。「これは弟だ。彼は三人兄弟なんだ。きみ、お母さんはいるかい?」

 子供は無言で引っ込み、次に母親があらわれた。

「まあ、よくおいでくださいました」

 彼女の顔を見た途端、おれはここから去りたくなった。女は色あせたブロンドをひとまとめにし、痩せた身体に流行遅れの服をまとっている。子供は三人で、母子家庭。不幸の香りがプンプンする。

「どうぞ、お座りになって」

 母親は椅子をすすめたが、腰を下ろしたくはない。早く絵を見て、それを描いた子供を褒め、そして帰りたかった。

「時間がない」とコーエンに耳打ちすると、彼は「すぐにおいとましますので……」と、椅子を辞退した。

「それで、彼はどちらに?」

「子供部屋にいます」

 居間のベビーベッドには性別のわからない赤ん坊が寝息を立てている。これをこさえた男は一体どこに行ったのだろう?

「クリス、出ていらっしゃい。お客様がお見えよ」

 母親が隣室のドアをノックすると、子供が姿を現した。さっきのよりは少し大きい。すり切れたトレーナーと、色の抜けたジーンズを身につけた彼に、コーエンが声をかけた。

「やあ、クリス。元気だったかい?」

 クリスと呼ばれた少年は、わずか首を縦にふった。

 地味なガキ───。それがおれの第一印象だ。黒髪の間から覗いた瞳は、髪と同じくらい暗く、こちらを見つめる表情は、微笑むでもなく、はにかむでもない。そうかといって警戒する様子もなく、この年齢しては堂々としているようにも見える。およそ子供らしさというものを感じさせない、奇妙な奴だった。

「クリス、今日はもうひとり、ぼくの友人を連れてきたんだ。彼にも絵を見せてくれるかな?」

 子供番組の出演者のようなコーエンの言葉。妙に芝居がかっていて、とても聞いちゃいられない。そもそもこの部屋の中で、笑顔を作っているのはこいつだけだ。

 クリスはものも言わず自室に戻り、おれたちはそれに続く。二段ベッドと本棚、机、椅子。家具はどれも古びていて、軍隊の払い下げ品のような無骨さだ。床には新聞紙が敷き詰めてあり、その上に絵の具が点々と飛び散っている。イーゼルが立ててあるが、キャンバスの類いは見当たらず、顔料の匂いが感じられた。

「パン、これを見ろ」

 振り向くと、コーエンが絵を手にしていた。B4ほどの大きさの画用紙に、十字架にかけられたイエスの姿が描かれている。これは模写だ。ベラスケスの〈キリストの磔刑〉だ。

「パン?」

 呼ばれ、振り返ると、クリスがおれのことを見つめていた。

「それがあなたの名前?」

「そうだ」おれは絵を見ながら答えた。

「本当の名前?」

「さあな……おい、この絵は何を見て描いた?」

「新聞」と、短く答える。

「新聞? 新聞の写真か?」

 母親が「見せておあげなさい」と促すと、彼は机の引き出しを開けた。出てきたのは新聞の切り抜きだ。20センチ四方の大きさで、新聞だけに印刷は良くない。

「これを見て描いた? 本当にこれだけを?」

 クリスはこくんと頷いた。

「ふむ……なるほど」

 コーエンが後ろから覗き込み「どうだ?」と言った。その顔、“言った通りだろう?”とばかり、誇らしげに輝いている。

 おれはコーエンを無視し、絵に目を凝らした。キリストの肌は青白く、死因はどうやら失血死のようだ。背景は濃い黒で塗られており、それが人物をより際立たせ、3Dのような視覚効果を生んでいる。新聞の写真はモノクロだ。この子供は想像力を働かせて色をつけたのだ。それゆえ、色合いはベラスケスのそれとは異なっている。そして他にも名画と違う点はいくつかあった。〈キリストの磔刑〉では、イエスの両足は水平に置かれ、釘で打たれているが、彼の絵では重ねられた恰好で釘留めされている。

「ここはどうしてこんなふうにしたんだ?」

「写真の絵が間違ってるから。キリストの足は本当はこうじゃない」

 まるで見てきたように言う。

「キリストは足を釘で打たれてるんだ」

 絵を指さすクリスの手を見ると、爪の間が絵の具で汚れていた。なるほど、こいつはこの年齢で既に“画家”というわけだ。手と目を部屋を見れば一目瞭然。絵を描いているときの眼差しは、アーティスト然としているんだろう。

 ベラスケスはイエスの罪状を三種類の言語で描いたが、クリスは〈INRI〉と略している。その理由を聞くと、「何て書いてあるか、よく見えなかった」との答え。この新聞の切り抜きでは、キリストの頭上のプレートは1センチにも満たない。何が描いてあるかなど、いくら目を凝らしてもわからないだろう。それにしてもキリストの磔刑とは。子供が好んで描くモチーフではないと思うが。

「他の絵もあるでしょ、ほら、先週描いたやつはどれ?」

 母親はそう言って、クリスの背を押したが、少年は気乗りしないようだった。のろのろと画板を取り出し、そこに挟んである絵を床に広げる。聖母子、受胎告知、洗礼のキリスト……。聖書をモチーフとした絵画ばかりで、そのどれもが模写だった。

「こっちのミケランジェロは?」

「誰?」とクリス。

「ミケランジェロ───。なんだ、ミケランジェロを知らないのか?」

「クリスはいつも教会で本を借りるんです」母親が口を挟んだ。「あそこではいろいろな絵が載った本を貸してくれますから。それで、あの、神様についての教えは受けますが、絵画についてはあまり知識が……お恥ずかしいことですけど……」

「いえいえ!」コーエンが大きな声を出したので、母親は驚いて顔を上げた。「息子さんのことでは恥ずべきところはありませんよ。知識の欠如など、本物の才能を前にして憂うことではありません」

 どうもこいつは“才能”という言葉がお気に入りらしい。無能な奴に限って、こういう単語を口にする。

「自分の絵は描かないのか?」とおれは聞いた。

「自分の?」聞き返すクリス。

「ここにあるのは模写ばかりだ。自分の絵を描いたことは?」

 贋作絵師になるのであればこれもいいだろうが、物まねばかりでは、それこそ“才能”とやらが枯れてしまう。

 クリスは口をつぐんでいる。どうやら質問の意味を理解していないらしい。おれはわかりやすいよう、言い方を変えることにした。

「つまりだな、誰かの絵を見て描いたものじゃなく、自分で描きたくて描いたものはないのか?」

「学校では果物を描かされる」

「静物か。その絵はここに?」

「あるよ」

 本棚からスケッチブックを取り出し、ページを開く。千ワットのライトを当てられた果物籠がそこにあった。陰影が濃く、とてもドラマチックに演出されている。まるでレンブラントが描いたかのようだ。

「画材は何を使ってる?」油彩のように描いてはいるが、油彩ではない。「リキテックスか?」

「ポスターカラー」

 ポスターカラーだと……これがポスターカラー。おれは驚きを顔に出さないよう努力した。この子供をつけあがらせたくないという気持ちがあったからだ。しかしその芝居がうまくいったかどうかはわからない。コーエンがクリスに「パンはきみの絵を好きみたいだ」と耳打ちしたのが聞こえた。

 コーエンは嬉しそうに微笑み「きみは努力家だね、クリス」と褒めちぎる。「努力し続ければ、いつかは人の目にとまる。おのずと道が開けるのさ。あれは……何と言ったかな。よく言うだろう」

 おれはスケッチブックを繰りながら、「“叩けよ、さらば開かれん”か?」とつぶやいた。

「そう、それだ。けだし名言だよ」

 聖書になじまないコーエンは、出典をヘミングウェイだとでも思っているのかもしれない。

 他の絵はあるかとクリスに聞くと、彼は「あるけど……」と言いよどむ。

 そのとき隣室で赤ん坊が泣き声を上げた。「ちょっと失礼します」と母親が子供部屋を出て行くと、クリスはベッドの下から段ボール箱を引っぱり出し、中から絵を取り出した。それはどれも暗いトーンのものばかり。

 コーエンは一枚を手に取り、「〈我が子を食らうサトゥルヌス〉」と言ってこちらに向けた。「これはゴヤの作品だ」

「知ってるよ」おれは苦笑し、他の絵に目を走らせる。どの絵もとても上手く描けていたので、正直に感想を伝えると、クリスは喜ぶでもなく、「ママはこういう絵が嫌いなんだ」とつぶやいた。

「きみに描くなと?」

「そういうことは言わない。でも嫌ってる。悪魔的だから」

 “悪魔的”───その言葉には、実は深い意味があったのだが、この時点、おれは特に注意を払ってはいなかった。

 フランシス・ベーコンを模した絵を見つけ、おれは「この絵の意味を?」と、クリスに聞いた。彼は自分の作品に視線を据え、黙っている。

「これが何について描かれたものかわかるか?」

 再度質問を繰り返すと、少年は「わからない」と答えた。「見たまま描いただけ」

 二人の男性が絡み合い、同化する絵。大人が見れば言わずもがなのこの絵を、年端もいかない者が描くのは、世間からすればよくないことだろう。母親が“悪魔的”と嫌悪するのも理解できる。しかし、“教育上”と言うのであれば、おれとしては、もっとこの子供に、こうした絵を描かせたいと思った。ゴヤもベーコンも、先ほどの聖母子やイエスなどとは比べものにならないほど素晴らしい。彼の作風は“こっち側”に生かすべきだ。

 それにつけても残念なのは、これらが“模写である”という点だ。いくら上手く描こうとも、それはコピーに過ぎず、それ以上のものには成り得ない。人真似であっても、たいがいは何らかの個性が見られるものだが、彼の絵にはそれもないのだ。

 自閉症の子供が、カメラのように正確に風景を模写するというのを、BBCの番組で見たことがある。おれはその道の専門家ではないが、クリスには発達障害の気があるように思えた。絵が得意で表情の乏しい少年。情緒が欠落した印象だ。

「クリス、学校は好きか?」

「嫌い」

「絵を描くことは」

「好き」

「学校に行かず、毎日絵だけを描けたらいいと思わないか?」

 クリスは黙った。

「どうだ? そういう暮らしをしてみたいと思わないか?」

「そんなの無理だよ」

「いや、可能だ」

 クリスは訝しげにおれを見つめている。おれもまた、クリスを見つめ返し、そして言った。

「おれはそれを可能にしてやれる。おまえが望めば…」

「“叩けよ、さらば開かれん”」

「そうだ。よくわかってるじゃないか」

 クリスは照れたような笑みを見せた。ここへ来て初めての笑顔。おもしろいことに、おれはそれが結構気に入った。



 彼の実質的な後見人となったその日、「わたしの家族は誰も絵を描きません」とクリスの母親が言った。

「芸術には疎いんです。叔父が新聞の風刺漫画を描いていたと耳にしたことはありますけど……とにかくわたしの家系で絵を描くのはあの子だけ。クリスに絵の描き方を教えた者は、誰もいません」

 クリスはおれの車にスポーツバッグを詰め込んでいる。引っ越しの荷物はわずかだ。作品はひと足先にアトリエへ郵送した。

「弟の方は普通なんです」と母親は続けた。「普通の子で……よく笑って、遊んで……とても子供らしい子供ですわ。でもクリスは……」

「何か異常なことが?」

 おれがそう訊ねると、母親はことさら困ったような表情になって「ずっと絵を描いているんです」と、思い詰めたように言った。

「友達とサッカーもせず、車の玩具にも興味を示さない。ただ家で、ひたすらに絵を」

「それだけですか?」

「と、おっしゃいますと?」

「絵を描く以外に、彼に何かおかしなところが?」

「絵を描く以外のことをしないところが、おかしいのですわ」

「わたしのファクトリーの画家たちも、日々絵ばかり描いてますがね」

「それは画家ですもの。でもクリスは……」少し考え、「あの……クリスは……あの子は幸せになれるでしょうか?」と訊く。その質問に、おれは「もちろんですとも」と答える。

「彼のような子供が幸せになれないようでは、我が国は先進国とは言えないでしょう」

 彼女は戸惑った表情を見せた。おれの言葉に、どう反応すべきか分からないのだ。

 クリスの弟が「いつ帰ってくるの?」と兄に聞いている。集合住宅の石畳に腰を下ろし「明日?」と無邪気に訊く弟に、「明日じゃない」とクリスは答えた。小さな弟は分かっていないが、クリス本人は理解している。涙こそ見せないが、本心は寂しいことだろう。

 その日は晴天で、ニュージャージーからは、マンハッタンのビル群がよく見渡せた。移動中、クリスは窓の外を見たきり、ずっと黙っている。おれは『弟の方は普通なんです』という、母親の言葉を思い出していた。

 クリスを“普通じゃない”と括るのは、コーエンが彼を“天才だ”と決めつけるのと同じこと。こいつはまだほんの子供で、決まったラベルを貼るのは早すぎる。周囲の期待や先入観、勝手な価値観などは、子供の成長にいい影響を及ぼさない。そうかと言って『これからおれがしようとしていることは正しく、良い影響をクリスに与えてやれるのだ』と宣言することもできないのだが

 クリスは不意にこちらを向き「あなたはイタリア人?」と訊いてきた。

 おれは前を向いて運転しながら「違う」と答える。「なぜそう思う?」

「ママがあなたをゴッド・ファーザーと」

「イタリア人でなくても後見人(ゴッド・ファーザー)にはなれる……。安心しろ。おれはマフィアとは関係ない」

 質問の答えを得ると、クリスはまた窓の外に注意を向けた。家に着くまで、会話はなかった。



 マンハッタンから二時間ほどの場所にある我が家は、森と湖に囲まれた静かな別荘地だ。移民が建てた古めかしい館に、数匹の猫を囲って暮らしている。

 クリスの部屋は南向きで、ベッドは広く、ベランダからは湖が一望でき、クローゼットの衣類は既製品だが高級だ。自分としては最高の環境を提供したつもりだったが、彼は部屋について何の感想も述べず、ただひと言「ここで絵を描くの?」とつぶやいた。

「ぼくの絵の道具は?」

「そこの物入れにある。新しい画材も用意した。どれも好きに使っていい」

 当初、おれたちにあまり会話はなかった。おれは子供と話すのが得意ではなかったし、クリスも知らないおじさんと話すのが得意というわけではない。こうした状況が彼にとってどうだったか、おれは一度も本人に聞いたことがなかった。世俗的な意見として『子供のためにならない』というのは想像がつくが、クリス本人がどう思っていたかは、今もってわからない。

 とにかく、彼はこの威厳ある古めかしい部屋で絵を描いた。学校で油彩は扱ったことがなかったそうだが、すぐに描き方をマスターし、次々作品を仕上げていった。従来のような名画の模写だけではなく、窓から見える風景や、台所の食材、おれの猫など、興味のあるものは何でもだ。キャンバスに写し取とられた作品は、どれも大そう上手だったが、それだけだ。あたかも額縁についてくる絵のようで、特筆すべき点は“作者がほんの十歳だ”ということのみ。テクニックはあるが、魂がない。もちろんこいつはただの子供で、多くを求めるのは間違っているだろう。

 これは言っておかなければならないが、おれはクリスを無理やり親から引き離したわけではない。帰りたいときにはいつでも帰っていいと言ってあったし、親にも同じように話してあった。クリスの母親はペンテコステ派のクリスチャンだ。この縁組みにあたって、彼女が出した条件はただひとつ。日曜はクリスを教会に通わせること。その約束の元に引き取ったが、結果からいうと、実現されることは一度もなかった。すぐにわかったことだが、クリスは教会をひどく嫌っていた。それがわかって無理強いするわけにもいかず、またおれ自身も教会とは些か相性が悪い。おれとクリスはこの件について話し合い、わざわざ教会まで行かなくても、神は我々を罰しはしないという結論に達した。おれたちは示し合わせ、母親との約束をうやむやにしたわけだが、神の家から遠ざかったクリスが、実家を恋い慕うかといえば、そういうそぶりもまるでない。ただ一度だけ、ここへ来て三ヶ月も経った頃、弟に会いたいと言ったことがある。クリスマスが近かったこともあり、おれは「しばらくあっちにいるといい」と、クリスを家族の元に送り届けた。戻るのは年が明けてからだろうと思っていたが、三日も経たないうちに電話があった。連絡は母親からで、クリスがニューヨークに戻りたがっているので迎えに来てくれとのこと。そのときは忙しかったので、リムジンを迎えにやらせた。夜になって家に戻ると、彼はダイニングにいて、家政婦の作った料理を食べていた。あと四日でクリスマスという日のことだ。

 つまらなそうな顔でオレンジジュースを飲んでいるクリスに「家は楽しかったか?」と聞くと「うん」という返事。

「どんなことがあった?」との問いには「弟が食事中に吐いた」と答えた。

「それが楽しかったことか?」

「そうじゃないけど……」

 彼は豆のサラダを口に運び、続きの言葉は何も出て来ない。クリスマスを目前に戻ってくるということは、家族と喧嘩でもしたのだろうか。母親は温厚そうだから、弟の方かもしれない。

 そう考えたところで、クリスは「サッカーボールを買って欲しい」と不意に申し出た。

「おまえがサッカーを?」

「ぼくじゃない」

 聞いてみると、弟へのクリスマスプレゼントだと言う。

「弟のボールには空気が入ってなかった。だから新しいのを買ってやりたい。その分、ぼくの食べる分を減らすから」

「おまえの食いぶちを減らさなきゃいけないほどの出費じゃない」

 クリスの母親には息子の給料と称し、毎月、決まった額の金を振り込んでいた。サッカーボールを買うくらい訳のない金額だ。しかし、クリスは“自分から”それを贈ってやりたいのだろう。

「家族へプレゼントとは感心だな。弟はきっと喜ぶ。おまえは欲しいものはないのか」

「ない」

 それは即答だった。

「サッカーボールを家に送ってくれる? クリスマスまでに気付かれないように」

「郵送などせずとも自分で持って行けばいい。仲直りのいい機会だ」

 クリスは訝しげに顔を傾けた。

「弟と喧嘩したんじゃないのか? それで帰ってきたのでは?」

「喧嘩はしてない」

「ではどうして戻った?」

「戻ったら駄目だった?」

「駄目なことなどあるものか。ここはおまえの家だ」

「だからだよ」

「だから?」

「ここはぼくの家だから」

 このやり取りで、おれはクリスが実家に帰りたがっていないと確信した。『親から引き離して申し訳ない』という気持ちが、これまで少しもないわけではなかったが、彼の意向を知り、おれのちっぽけな罪悪感は消し飛んだ。クリスは自分の身柄がどこにあるかを、ちゃんと理解していたのだ。

 クリスがいたその年のクリスマスは、特に盛大な祝いになった。ランタンをいくつも吊るした庭に、巨大な樅の木を飾り、ゲストは手品師と曲芸師。誰の記憶にも残るようなガーデンパーティに、客はここぞとばかりに着飾って現れ、まるでオスカー授賞式のようだ。おれはファクトリーのアーティストたちにクリスを引き合せ、大人と同じ様に自己紹介させた。彼の腕は他の絵描き連中と対等だ。子供としてではなく、仲間として見るようにと申し渡したが、見た目が子供なので(このときクリスは手に炭酸飲料とカップケーキを持っていた)そうもいかない。女どもは少年をちやほやし、男どもは影で“ヤキが回った”とおれを馬鹿にした。

 催しの終了間際、コーエンがやってきて「実は二ヶ月前に離婚したんだ」と、割とどうでもいい情報を明かし、それから「クリスはどうだい?」と訊いてきた。「彼は画家として成功する見込みがあるだろうか?」

 おれは「さあね」とだけ答え、クリスを見た。彼は庭で自転車を乗り回している。それはサンタクロースからの贈り物だ。

 コーエンは「よもやきみがこんなにクリスに尽くすとは思ってもみなかったよ」と感心したように言う。「ぼくは資金援助を頼んだつもりだった。それなのにきみは彼を引き取ったんだからね。驚いたよ。これでクリスがものにならなかったらどうするつもりなんだい?」

「あいつは天才なんだろ? おまえがそう言ったんだ」

「まあ……そうだが……」

「もし駄目ならおまえに責任をとってもらうまでさ」

 クリスが画家として成功するかどうか。おれは長い目で見てやるつもりだ。ここはクリスの唯一の家で、見守る時間はいくらでもある。



 年が明けるまでに、クリスはクリスマスの絵を複数枚仕上げた。幼子キリストと飼い葉桶というありきたりなモチーフの他、火を吹く曲芸師やギア付きの自転車など、個人的な想い出も記されている。性格の陰気さは変わらずだが、絵を見れば彼がパーティを楽しんだことがよくわかった。

 新しい年の一日目、クリスはおれに「なぜこんなに金持ちなのか」というようなことを訊いてきた。パーティの盛大さを見て、金の出所が気になったらしい。

 おれはまったく面白くもない答え───「叔父の遺産を継いだからだ」と言った。

「お父さん?」

「いや、叔父だ。親父は生きてる」

「叔父さんがお金をくれたの?」

「他にやるやつがいなかったらしい。彼とは親しくしてたんだ。一時期、共に暮らしもした」

「ぼくらみたいだ」

「少し違うな。おれと叔父はもっと不適切な関係にあった」

「不適切って?」

「子供は知らんでいいことだ」

「大人は?」

「人による。おれたちの関係を知って、親父は怒り狂ったからな。二度と顔も見たくないと言われたよ。勘当されて以来、親父とは会ってない。“パン”というのは叔父がつけたんだ。彼はニジンスキーに心酔していたから」

 資産家の同性愛者にまつわるエピソードを、クリスが理解できるとは思えなかったが、おれはとりとめもなく喋り続けた。叔父の話を人にすることはめったにない。あまりいい死に方ではなかったこともあり、身内の間で叔父は忘れ去られたも同然だった。

 一方的な会話が一段落すると、腹が減っていることに気づいた。

「何か作って食うか」

「誰が作るの?」

「おれだ」

 家政婦は休暇中だ。クリスは目を丸くして、おれを見つめている。

「そんなに驚くことか? おれでも卵を焼くくらいはできる」

 キッチンに行き、卵をボウルに割り入れると、クリスは「ぼくはできない」とつぶやいた。

「できなくていい」

「どうして?」

「おまえは絵描きだろ。料理なんざ、他の奴にやらせときゃいい」おれは卵をフォークで混ぜながら説明した。「おまえは画家だ。卵を焼く暇があったら、一枚でも多く絵を描け」

「あなたは?」

「おれは無能者だ」

「お金持ちだよ」

「遺産を貰っただけだ。それで金持ちになった。だったら卵くらい焼けないとな」

 熱したフライパンに卵液を落とす。じゅうっという音が、キッチンに響いた。クリスはそれを食べ、あとは自室にこもって絵を描いた。クリスマスに買ってやった自転車は、埃をかぶって忘れられている。



 クリスが初期に好んだモチーフが宗教画だとは、後の作品からは想像もつかないことだろう。受胎告知や磔刑を題材としたのは、彼が十二の頃までで、現代印象派としてのタッチは変わらないが、その内容は大きく異なっている。作品はクリス自身を写す鏡であり、心象風景そのものだ。身近な人や物を題材とするようになったのは、彼が宗教の呪縛から解き放たれつつあることを意味している。クリスの母親は信仰を“人生を何者かの支配下に置くこと”と解釈していたようだが、それは彼を画家として育成するにあたり、まったく不必要な概念だった。宗教に異議を唱えるつもりはないが、行動の指針に古びた書物を逐一引用するようでは、創造性に差し障りが出る。

 おれがクリスのことで懸念していたのは、そのことだけだったので、彼がキリストではなく、太った猫を描き始めたのは、好ましい変化と捉えていた。それゆえ、突然クリスが教会に行きたいと言い出したことは、おれを多く驚かせた。

 母親から連絡でもあったかと訊ねると、「そうじゃない」と応える。

「ではなぜだ。教会は嫌いだと言っていたじゃないか」

「嫌いだけど、行かなきゃならない」

 こいつはなかなか頑固なところがあり、理由を話すのを渋っていたが、しつこく問いつめると「お告げがあった」と説明し始めた。

 要領を得ない彼の話をまとめると、つまりこういうことだ。聖母マリアが繰り返し夢に出てきて、その夢を見た翌朝は、きまって下着が汚れているという。

「今まではこんな夢は見なかった。教会に行くことをサボっているから、罰を与えに来たのだと思う」クリスは真剣な面持ちでそう言った。

 聞けば何のことはない。思春期を向かえる男が体験する、“濡れた夢”というやつだが、マリアが相手とはいかにも宗教家の息子らしい。

 おれはクリスに「それは罰だとか病気の類いではない」と言ってやったが、彼は「とにかく教会へ」と、聞き入れようとはしない。こいつを連れて毎週、教会に通うことを思うと、うんざりした。しかも理由が“夢精の抑制”とは、馬鹿らしいにもほどがある。

 そもそも罰だ何だと脅しをかけるのは、神と人間との間違ったコミュニケーションだ。絵描きが神罰を恐れて萎縮するようでは、ろくな作品も残せない。クリスの母親が何をこいつに吹き込んでいたかは知る由もないが、まともな性教育など望むべくもないだろう。自然な営みを忌むべき行為とし、性器に触れるべきではないと教え諭す様が目に浮かぶようだ。

 自分は神の罰に値すると説くクリスに、おれは「おまえは今、成長の過程を経てるんだ」と医者のように言った。「それは特別なことじゃない。身体が変化するのは当然のことだ。おれを見てみろ。おまえもこのぐらい背が伸びるだろうし、そのうちヒゲが生えて、最終的には頭もハゲる」

 クリスは納得のいかない様子で、おれを見上げている。夢精の相手が聖母だというのはとんだジョークだが、こいつは真剣そのものだ。美しい女のイメージはマリア様。間違いではないが、ちょっと清潔すぎやしないか。

 おれはクリスを背後から抱え込み、論ずるより証拠を見せてやろうと試みた。ファスナーを下ろし、小さなペニスを指先でつまんで、男の誰もが望む快感を与えてやる。

「なに……?」

「マリア様がおまえになさったことだ」

 それはすぐに固くなったが、緊張のためか、なかなか射精には至らない。ここで達しなければ、教えてやる意味がない。おれは焦り、指を濡らしてクリスの後ろに手を潜り込ませる。前立腺を直接刺激してやると、さすがに効果があったとみえ、少年は精通を迎えた。

「そら……出ただろう?」おれの声はうわずっていた。クリスは声も発さずにいる。「わかったか? これは自然なことだ。誰にでも同じことが起きる。病気じゃない」

「あなたも?」

「ん?」

「あなたにも同じようなことが?」呆然とした様子で、クリスは訊ねる。

「ああ、もちろん」おれは額をぬぐった。いつのまにか汗をかいていたのだ。

 これでクリスが納得したかどうかは分からなかったが、以降は“教会へ”と言うことはなくなった。面倒なことになったとおれが気付いたのは、それから一週間もしないうちだ。

「またアレをしてくれる?」

 クリスは子供らしく、実に率直にそう言ってきた。

 あのとき『これは自然なことだ』と説明したが、行為についてはそうじゃない。おれは当然「駄目だ」と断わった。大人からすれば至極当然な返答だが、無垢なクリスは「なぜ?」と訊ねる。

「なぜでもだ」

 そんな説明では当然納得するはずもなく、彼は不服の面持ちだ。

 性的欲求を物理的に外に放出する。それは悪いことではないと教えはしたものの、“慎み深くあるべき”とはどう教えたものか。そもそもおれ自身、“慎み”などとは無縁なのだから、諭しようもない。

 クリスはおれの手を握った。上目遣いで見つめ、言葉は発さない。無邪気に誘いをかけてくる様子に不謹慎な欲望をおぼえないでもなかったが、ここでおれたちが“不適切な関係”を結ぶわけにはいかない。それにおれはガキには興味がないのだ。

 だからといって『おまえは可愛いが興味はない』と正直に伝えるわけにもいかず、「ちゃんと絵を描き終えたら、そのときに」とだけ伝え、卑怯にもその場を誤摩化した。

 クリスの画風に変化が訪れたのは、このあたりからだ。筆遣いは乱雑になり、仕上げるスピードは早くなったものの、手抜きとも取れるタッチがキャンバスに現れる。性交渉を断わったおれに対するあてつけか、もしくは欲求不満の結果と思ったが、後になってみると、このときに現れた作風は、後の絵柄の基盤となるものだった。当時おれはそれを見抜くことが出来ず、やれ粗雑だの、手を抜くなだの見当違いの説教をしたことを覚えている。幸いクリスはおれの意見など耳も貸さず、己の画風を貫いたわけだが、もしそうならなかったらと思うと、ゾッとする。おれは自ら、この素晴らしい才能を潰すところだったのだ。

 新しい画風に辟易していたおれは、この時期、少しクリスと距離を置いていた。性的行為を求めてくる子供に恐れを成したというのはきっかけに過ぎず、大方の理由はクリスの才能に疑いを持ち始めたことだ。子供の頃に神童と呼ばれた者が、成長過程で徐々に凡人への道を歩み出す。それはよくある話で、クリスもそうなってしまうのかもしれないと、おれは考え始めていた。



 彼の絵を安定させるきっかけとなる事件が起きたのは、おれがクリスから目を離していた、この頃のことだ。ファクトリーに駆けつけ、床に落ちた血痕を見たとき、情けない話だが、本当に卒倒しそうになった。と、いうのは、最初に連絡を受けたときに聞いたのは『クリスが人を殺そうとした』というものだったからだ。事件の第一報は“殺人未遂事件”で、加害者は未成年のクリスだと。

 絵の具のような血痕。いったいこれは誰のものなのか。

「誰か説明しろ! ここで何が起きたんだ!?」

 ファクトリーのホールでオペラよろしく叫ぶおれの元に、ジェニファーがやってきた。彼女は彫刻をやっていて、美大は素行不良で中退したが、才能ある娘だ。

「パン、落ち着いて。ビリーは無事よ」

「ビリー? どこのビリーだ?」

 念のため言っておくが、この“ビリー”というのは仮名だ。本当の名を覚えてはいるが、ここで記することはしない。

「ウィリアムのことよ」とジェニファーが言う。「抽象画の。赤と青の線で…」

「あのビリーか」奴の絵を思い出し、ようやく記憶が合致した。「あいつはどこだ?」

「ビリーは病院に行ったわ。カトリーヌも一緒に」

「誰がビリーのことを聞いた? クリスだ。あいつはどこにいる?」

 喚いていると、ファクトリーの女たちに付き添われ、クリスがやってきた。白いシャツの胸のあたりが血まみれになっている。まるでライヴペインティングの後のようだ。

「ああ、クリス」おれは床に膝をつき、子供を抱きしめた。

「なんてことを。自分が何をしたか、わかっているのか?」

 クリスは泣きもせず、虚ろな表情で、おれのことを見ている。

「何があったか説明しろ。おまえはビリーを殺そうとしたのか?」

「やめて、パン」遮ったのはネリーだ。「クリスは悪くないわ。こっちに来て。説明はわたしがする」

 ネリーの英語はフランスなまりがあって拙いものだったが、事のあらましを掴むには充分だった。

 概要はこうだ。ビリーとクリスはひとつのキャンバスの前にいて、工房のアトリエでふたりきりだった。どういう展開だかわからないが、とにかくビリーは年若い芸術家に興味を持ったらしい。クリスによると“初めは優しかった”そうだが、途中、ビリーが“指でない別のもの”を入れようとしたため、抵抗して揉み合いになる。クリスは強姦魔の耳に噛み付き、奴を病院送りにした。……とまあ、それだけの話。“殺人”という単語がどこから出たのかはわからないが、死にそうな目に遭ったのはむしろクリスの方だ。

 加害者の少年はジェニファーに肩を抱かれ、部屋の隅からこちらを伺っている。おれとネリーが何を話しているのか気になるのだろう。

 殺人未遂とはほど遠いこの事件について、おれはどこにも通報しなかった。当時は小児性愛に対する認識が現在ほど厳しくなかったということもあるが、今になって思うに、おれはクリスを取られてしまうことを恐れたのだ。実の親から引き離し、学校に通わせず、絵ばかりを描かせている。それが世間から見て、きちがい沙汰だというのは、常識にうといおれでも理解できた。子供を育てる環境ではないとされ、法的に引き離される。心のどこかで常に懸念していたことだ。

 おれはクリスのところへ行き、「ひとつ教えてくれ」と、彼の目の前にしゃがみ込む。

「おまえはビリーを殺そうとしたのか?」

「もし“そうだ”と言ったら?」それは妙に大人びた口調だった。「そしたらぼくを刑務所に?」

「答えろ」

「ぼくをニュージャージーに送り返す?」

「クリス、おれの質問に答えろ」

 するとクリスは黙り、ややあって「───そうだよ」と目を細め、声を低くした。

「あんな奴、死ねばいい。そう思った」

 静かな口調。しかし目つきは威嚇する獣のようだ。血まみれのシャツを身につけ、殺人の衝動を告白する。

 全身が総毛立ったが、感じたのは恐怖ではない。どういうわけだか勃起しかかり、身体が痺れたようになった。

 ───こいつは何者だ? 

 クリスのブルーグレーの目を見つめながら、おれは考えた。貧しい集合住宅で絵を描いていた子供。母親に隠れてゴヤをものにし、弟にサッカーボールを買ってやりたいと申し出た。二次性徴におびえて神の許しを請うたかと思えば、まったく無邪気に性行為を求める───。そのどれとも違う、まったく新しい男がここにいた。

「わかった」おれは精一杯の威厳をもって「その感情を覚えておけ」とクリスに言った。「次に絵を描くときに、全身で思い出すんだ」

 逃げるようにして場を離れると、背後で「ひどいわ」と女の声がした。どうやらその言葉はおれに向けられたものらしい。しかし絶対に振り向くことはしなかった。おれは子供を育てているのではない。画家を、“クリスを”育てているのだ。そしてそれはうまくいきつつある。初めて出会ったときに見た、あのみすぼらしい子供はどこにもいない。おれをビビらせ、同時に勃起させるほど、奴は強大になりつある。

 ファクトリーを出ると、空は青く晴れ渡っていた。大きく息を吸い込み、青空を仰いで、手首を抑える。震えているのをクリスに見られなくてよかったと思う。下らないプライドが、おれにもまだ残っているらしい。



 後から聞いたところによると、ビリーは耳を五針縫ったそうだ。才能のある画家だったが、こんなことになっては出入り禁止にする他ない。彼は援助を失ったものの、それでも芸術を続け、数年後、フランスの画壇でデビューを果した。ファクトリーに在籍当時、ビリーに少年愛の嗜好があったとは聞いたことがない。誰にでも“魔が差す”ということはあるが、奴に訪れた“魔”は、いったいどんなものだったのか。もしクリスが、おれに言ったのと同じ調子で、ビリーを誘ったのだとしたらどうだろう。クリスの証言では、“初めは優しかった”、そして“指でない別のものを入れようとした”とのことだが……。

 認めるのも恐ろしいが、おれがクリスにやった行為は、完全に裏目に出てしまった。体液を放出する手伝いを求めるクリス。その気になったビリーが小悪魔を押し倒し倒すという展開は、容易に想像できる。

 しかしすべては終わったことだ。ビリーは追放され、クリスは自らを守り抜いた。この時点で案じられたのは、今後クリスが人と接することに臆するようになるのではということだ。とりわけ大人の男に対して、接触を嫌がるようになるのでないかと。もしそうなれば、先々の仕事に関わってくる。対人恐怖症はどんな職業においても、不利益でしかないからだ。

 結論から言うと、それはまったくの杞憂に終わった。この件があってから、ファクトリーに出入りする女たちが一致団結し、クリスを多く構うようになったのだ。飯を食わせ、髪をとかし、服や本を買い与える。怪我の功名とでもいうべきか、これは申し分ない結果となった。美しい女性たちに愛されることはクリスの才能を豊かにし、不安定だった性質を安定させた。絵のタッチは完成されつつあり、筆遣いに力強さを増していく。上手いだけで個性がなかった彼の絵は、今やとてつもない魅力にあふれ、おれは興奮を押さえきれなかった。これだから育成は面白い。誰がどのように化けるのか、まったく読めやしないのだ。

 この頃から、クリスが我が家に戻ることはほとんどなくなり、ファクトリーに寝泊まりするか、もしくは女の所に身を寄せるかして暮らしていた。外見が変性しだしたのも同時期で、会うたび顔が細くなり、ひょろひょろと縦に伸びていく。一人前の男のような口を利き、おれのことは思春期らしく、嫌っているようだ。手が離れるというのは、こういうことを言うのだろう。クリスの世話をファクトリーの女たちに任せ、おれは安心しきっていた。絵を管理すること以外での関わりはなくなり、クリスマスを共に祝ったのはあの一度きりだ。

 何年も後になって、クレジットカードを作ってほしいとクリスから頼まれたとき、あいつの背丈はおれより遥かに高くなっていた。

「根無し草でもカードくらい持ってないと」

 彼の言い回しが可笑しく、おれは笑った。

「根無し草? そんな単語どこで覚えた」

 子供扱いされたと感じたか、クリスは「作ってくれるの? くれないの?」と不機嫌に聞く。

「もちろん作ってやるとも。なんでまたいきなりカードが必要になった?」

「部屋を借りるから」

「部屋? おまえがか?」

「他に誰が?」

 話を聞いてみると、クリスはあるアーティストから部屋を譲り受けたのだそうだ。その男はネイティヴ・アメリカンと白人の混血で、名前をデニスといった。社会風刺的なグラフィティアートをやっていて、二度ほど逮捕された経歴がある。年齢はようやく中年にさしかかろうという頃だったが、癌細胞に身体を蝕まれた。病理を発見したときには既に手遅れ。彼はホスピスに入ることを決意し、住んでいた部屋をクリスに明け渡したいと申し出たらしい。

「デニスはそこをアトリエに使っていたんだ。おれが住むには適していると思う」

 パトロンを懐柔するでもなく、「あの部屋に住むよ」とクリスは宣言する。

 その物件はグリニッチ・ヴィレッジにあり、不動産としては悪くない条件のようだ。事後承諾に不服を覚えないでもなかったが、特に反対する理由もなく、何より本人が決めたことだ。クリスの荷物はほんのわずかで、引っ越しは半日もかからなかった。

 おれは空いたクリスの部屋に立ち、彼がもう何年もここで寝起きしていなかったことについて考えた。共に暮らした期間はとても短く、感傷的になるほどの想い出はない。それでもおれはヤツがいなくなって寂しいと感じていた。おそらく感傷的になるのが好きなんだろう。



 クリスの部屋はシンプルを通り越し、ほとんど何もなかった。軍事病院のようなベッドと、色気のないサイドボード。作り付けのクローゼットはニスが剥げている。立地はいいが、中はみすぼらしい。しかしクリスは内装をするつもりはないらしく「これ以上、何も必要ない」と、おれからの援助を突っぱねた。独立したことを誇りに思っているのがわかったので、あえて何も言わなかったが、おれはこの部屋のすべてが嫌いだった。共産党員の隠れ家も、これよりは華やかに違いない。

 この醜い部屋に、ちょくちょく顔を出すことはした。社会性のあることを、おれは何ひとつクリスに教えてはいない。女と暮らしているときは心配なかったが、ひとりでやっていけるとは到底思えず、案の定、冷蔵庫はいつも空っぽだ。胃袋もまた同じ状態であることは、想像に難くない。

「ちゃんと食べているのか?」「よく眠れているか?」「足りないものはあるか?」

 急に面倒見がよくなったおれのことを、クリスはうとましく感じているようだったが、嫌がるのを無視して世話を焼いた。多く芸術家は自分の健康について無頓着なものだが、彼も例に漏れず、世のヘルシー志向とは真逆の方向に突き進んでいる。人並みな生活習慣に不自由なクリスは、食事を摂るのが下手だった。一日何本もタバコを吹かし、エネルギーの摂取は酒からという暮らしぶりでは、いつ病気になってもおかしくない。

「ドアを開けたら、そこには死体が───というのは許さんからな」

 シリアルと果物の入った袋を手渡し、おれはクリスに厳しく忠告した。

「人間は飯を食らって排泄する生き物だ。今どきホームレスでも飢え死になんざしない」

 親鳥のように食べ物を運ぶおれに、クリスは「断食すると意識が冴える」と、真面目くさった顔で答えた。

「断食だと? いつからおまえはムスリムになった?」

「宗教は関係ない。食事を制限すると意識が拡大するんだ」

 前の住人のデニスは、ネイティヴ・アメリカンに起因するヒッピー思想を持っていた。どうも奴はクリスに様々なことを吹き込んだらしい。それはペンテコステ派の説教よりもなじんだとみえ、クリスは『精霊』だの『輪廻』だのを口にするようになる。おれにはまったく理解できないことだったが、絵に悪影響でなけりゃ別に構わない。しかし格好が貧乏臭くなっていくのは閉口した。こいつはなかなかのハンサムだのに、すり切れたジーンズだの、中古のブーツばかり身につけている。おれからすればゴミも同然だ。

 幸いにも彼の目には依然として力があり、肝心の絵は素晴しい出来映えだ。魂がダイヤモンドで出来ているのだから、カーゴパンツに穴が開いていようと問題はない。おれは自分にそう言い聞かせ、今どきの若者のファッションに文句をつけることを押しとどめた。人が聞いたら笑うだろうが、おれはこいつにシルクのシャツを着せてやりたかったのだ。



 この時期、おれが奴に世話したのは、食事の類いだけではなかった。春を目前にしたシーズン、クリスはある運命的な出会いを果たすこととなる。

 ガバナー島で開催される芸術祭には、毎年招かれていたが、足を運ぶのは初めてだ。このイベントの出資者になって欲しいとおれに依頼し続けていたバーバラは、画廊を経営しており、ここでは主催のひとりとして関わっている。彼女はコーエンの元女房で、あいつにはもったいないような、優れた女性だ。

 イベントはセントラルパークで行われるフードショウを思わせた。幾つものテントが、整然としない状態で並び、客はカップルや子供連れの家族。芸術に興味がありそうなのは出店者だけのようだ。

 支柱と屋根だけの簡易テントの下で、おれは久しぶりにバーバラと再会した。彼女は白いツバ広の帽子をかぶり、手には長い手袋をはめていた。「こうしないとソバカスがね」と、ハリウッド女優のようなことを言う。季節はまだ夏に遠い日のことだ。

 出資の件について話を振ると、彼女は顔の前で手を振り、「それはもういいの」と言う。「このイベントはもう駄目だとわかったわ。年々質が落ちてるの。わたしも今年限りで出店を取りやめることにしたのよ」

 そこでおれはこれが無駄足だったと知ったわけだが、後の展開を思えば無駄どころか、運命の出来事といえる一日だ。

 バーバラはアシスタントの女性に、「ねぇ、ちょっとクリス、折りたたみの椅子を持ってきてくれるかしら?」と頼み、「そういえばあなたのところの子もクリスよね?」と言った。「さぞかし大きくなったんでしょう?」

「大きいも何も、あいつはもう成人して、おれの背丈をとっくに越してるよ」

「まあ、そんなに? こっちが年を取るわけよね」

「あの……」消え入りそうな囁きが我々の会話を中断させた。「椅子を」折りたたみの椅子を小脇に抱えた娘のクリスに、バーバラは「ひとつだけなの?」と訊く。「彼のとわたしのと、二脚必要だったのだけど」

 彼女は、アッと小さな声を出し、「すぐ持ってきます」と駆け出した。よく見ると少女のように若い。

「ごめんなさいね。あの子、田舎から出てきて、あまり気が効く方じゃなくて。あれで絵は上手なのだけど」

「絵描きなのか」

「そうよ。でなきゃ、気の効かない子を手伝いに雇うわけがない。元夫が押し付けてきたのよ。“彼女は天才だ!”とか何とか言って」

「コーエンは進歩がないな。おれにクリスを押し付けたときも同じことを言っていた」

「アシスタントに雇ったのは、彼女が絵で稼げないからなの。とても貧乏で、見てられなくって」

「うちの工房に来るやつのほとんどはそんなもんだ」

「あの子の場合はもっと逼迫してるわ。食事も満足に食べられないくらいだもの。先月、裁判所から人が来たとかで、とうとう部屋を追い出されてしまって。今はうちのお店に寝泊まりしているんだけど、このまま状況が変わらなければ、アラバマに帰るしかなさそうだわね」

 バーバラはさも気の毒そうに娘の身の上を説明したが、おれにとっては珍しくもない話で、同情はできなかった。

「雇いはしたけど臨時のアルバイトだし、他で働くといっても、あの要領だからねぇ……」そして上目遣いで、「あなたのところで育ててもらえたら有り難いのだけど」と伺いを立てる。

「それは彼女の才能次第だな」

 アラバマ娘が椅子を持って戻って来た。体躯は細身で、ストレートの長い髪を真ん中で分けている。おれは椅子にかけ、微笑みながら彼女に話しかけた。

「バーバラから聞いたが、きみは絵描きなのだそうだね」

「はい」

 返事は細く、聞き取りづらい。恥ずかしがるというよりは、怯えているといった風だ。

「どんな絵を?」

「水彩です」

「よければ見せてもらえるかな?」

「あ……今日は……持ってきていないので」

「作品を持ってない?」

「はい」

「あきれたな。きみはアーティストとしての自覚がないのか? 絵を持ってないで、どうやって仕事を得ようっていうんだ?」

 彼女はびっくりしたような顔で絶句したが、おれは続けた。

「イベントの手伝いに来ているからというのは言い訳にならんぞ。そんな調子では、ここでやっていけない。少なくとも絵描きとしては無理だ」

「まあ、あなた! 初対面でその言い方はないでしょう!」

 言い返したのは娘ではなく、バーバラだ。彼女の肩に腕を回し、優しくさすりながら、「あなたは何も悪くないのよ」と庇い立てる。「気にすることないわ。この人はね、誰にでもこんな口の利き方をするの」

 “誰にでも”とは心外だ。おれは世間では丁寧かつ親切で通っている。しかし、まれに特別な口の利き方をすることはある。“甘ったれたアーティスト”には、時には。



 おれのクリスと同じ名前を持つ、生まれたての子鹿のような娘。

 彼女とは数日後、すぐに再会することになった。ファクトリーにひょっこり姿を現したのだ。画板を抱えた彼女は、はっきりとした口調で「絵を見て頂けますでしょうか?」と申し出た。

「バーバラに言われて来たのか?」

「いいえ」おれの目をしっかりと見、「わたしの意志です」と言う。視線は強いが、声が震えている。

 ひとりで牙城に乗り込んできた気概を買い、おれは彼女のために時間を割くことにした。工房の片隅にあるカウチに座らせ、絵を一枚一枚、テーブルに広げる。

 若い作家たちが絵筆をとめてこちらを伺う中、物見高い視線を避けるようにクリスは目を伏せ、自分の絵に集中した。

 作品は水彩画で、これまで技術を学んだことはなく、独学だという。モチーフは妖精や人魚など、子供っぽいものだが、それは透明感のある水彩のタッチとよく合っていた。

 流れる水と濡れた苔。光のあたっている部分と当たっていない部分のコントラスト。コーエンが天才と評するだけあって、確かに上手い。上手いが、あまりに完成され過ぎていて、この先、伸びしろがあるかどうかは微妙なところだ。だが、今のままでも何らかの仕事にはなるだろう。絵本や児童文学の挿絵に適している作風だ。

 技術の点を評価すると、彼女はあからさまに嬉しそうな顔をしたが、工房で面倒を見てやるわけにはいかない旨を申し伝えると、唇を引き結んだ。面談の最後に「お時間をとって頂き、ありがとうございました」とだけ言い、『断わる理由は何だ』とは聞いてこない。もし聞かれれば、明確に答えてやれたのだが。

 おれのところで面倒を見てやれない理由は、“伸びしろ”だとか、彼女の性格の弱さなどでは決してない。コーエンのように褒めちぎれはしないが、確かに才能が感じられる。暖かみのある素朴さが絵に現れており、それはおそらく彼女の性質そのものなのだろう。

 受け入れられない理由は、こちら側の問題で、バーバラの言葉を借りれば、『あなたは何も悪くないのよ』ということになる。ファクトリーで扱っているのは前衛的なアートが主で、そしておれは彼女がここから受けるであろう影響について考えた。ユニコーンを好んで描くような少女(年齢的には“少女”ではなかったが、彼女を形容するに“女性”ではしっくりこない)に、裸身を絵の具に浸しているような女や、勃起したペニスを石膏で型取りするような輩がいるような場所から、下手な影響を受けてほしくはない。タッチは既に完成されているのだから、このまま今まで通り、ひとりで絵を描き続ける方がいいに決まっている。成人を過ぎた女がファンタジーの世界に閉じこもっているのは、世間知らずに拍車がかかると見る向きもあるだろうが、おれには馬の耳に念仏だ。理由は説明するまでもないだろう。

 アーティストだからといって、誰もがワイルドサイドを歩かなくてはいけないというわけではない。彼女の絵を育んだのはアラバマで、マンハッタンは無関係だ。芸術においては、ナイーブが功を奏すこともあるのだから。(*ナイーブ=田舎者、世間知らず)

 帰り支度をするクリスに、数件の出版社とその担当者の名をメモして与える。どれも児童向けの本を出している会社だ。ここから仕事が取れるかどうかは本人次第で、それ以上のことはしてやれないが、意気消沈した彼女への手みやげには充分だ。

 ここから一番近い駅は入り口が改装中だったと思い出し、迂回するよう言うと「地下鉄には乗りません」との返事。なんでも節約の為に歩くと言う。ブルックリン橋を歩いて渡っている彼女の姿を思うと、おれは悲しくなった。貧しいというのはよくある話だが、目の当たりにするのは気分のいいものではない。

 そこでおれは彼女にちょっとした仕事をさせることにした。グリニッチのクリスを訪ねるのに、荷物を持ってほしいと依頼する。彼女は謙虚に「わたしでお役に立つことがあるのでしたら」と言って、控えめに仕事を引き受けた。

 グリニッチに向かう途中、果物とパンを買う手伝いをしてもらい、さして重くないそれらを持たせる。帰りに50ドルも渡せば、報酬としては充分。タクシーに乗って帰ることができるだろう。

 道すがら、彼女は故郷と家族のことを聞かせてくれた。アラバマは温暖が激しいと言われているが、マンハッタンの気候の方がつらく、父親はトラクターの販売をしていて、母親は専業主婦だが、結婚前は美術の教師をしていたとのこと。

 おれはこれから訪問する先の話をした。グリニッチに住むクリスという若い画家。長く面倒を見ているが、ほとんどおれに懐いてない。まるで野生動物を飼っているようだと。

 自身のことを語るよりも、自分が大切に思っているものの話をすることの方が、多くその者を知ることができる。彼女は家族を愛する優しい心の持ち主で、いよいよもってファクトリーに近づけたくないと、おれは思ったものだった。



 グリニッチに着くと、おれのクリスは珍しく眠っていて、絵は描いていなかった。連れがいることがわかると嫌そうな顔をしたが、何も言わずに食料を受け取る。そしてクリスは彼女の画板に目を留めた。無言でそれを凝視しているので、彼女は遂に「ご覧になりますか?」と促した。

 クリスが黙って画板を取ったので、おれは娘の肩に腕を回し、優しくなでながら「きみは何も悪くない」と、彼女の耳元にささやいた。

「気にすることはない。こいつはな、誰にでもこんな態度なんだ」

 それは以前、バーバラが言ったのと同じ台詞。おれたちが初めて会ったときの再現に、娘はくすくすと笑い出す。

 クリスの作品をチェックしていると、娘のクリスは男のクリスに話しかけた。何やら言葉を交わしているようだが、おれはこのとき絵に意識がいっていて、二人の会話を聞いていなかった。キャンバスは壁に据え付けられているのだが、ネジが緩んでいるらしく、壁から浮き上がって安定していない。画材の乗ったワゴンからドライバーを探し出し、ネジをひとつひとつ締め直していると、クリスがやってきて「彼女を工房に?」と聞いた。

 おれはドライバーを回しながら「うちには来ない」と答える。

「なぜ? 彼女が望まない?」

「いいや、その逆だ。彼女は望んだが、おれが断わった」ネジは斜めに入っている。いまいましい野郎め。

「家賃が払えなくて追い出されたそうだよ」

「そうらしいな」次回は電動ドライバーを持って来よう。

「彼女、困ってる」

「そうらしいな」キャンバスを押してみる。それは完璧に固定されていた。

 自分の仕事に満足していると、クリスが「無責任だ」と吐き捨てるように言った。

 おれはドライバーをワゴンに戻し「無責任だと? 何に対してだ?」と聞き返す。「おれは彼女に対して何の責任もないぞ。たまたま知り合いから紹介されただけだ。責任の所在は誰にもない」

 強いて言うならば、責任の所在は彼女自身にある。生き馬の目を抜くこの街で、哀れな境遇はいくらでも耳にすることができ、貧しいというのは特別なことではない。バーバラはクリスがアラバマに帰ることを不幸と見なしていたが、家賃も払えずにいるよりは、田舎に戻った方がマシだとも言える。少なくとも、食うや食わずの暮らしからは解放されるだろう。

 クリスはムスッとし、娘のクリスのところに戻ると、おもむろに彼女にキスをした。そしておれに向かって「責任の所在はここだ」と宣言する。

 そして再度、彼女に向き直り、「きみはここに住むといい」と、もちかけた。「家賃はいらない。ベッドは買ってやる。ここで好きなだけ、絵を描けばいい」

 クリスが何を言わんとし、そして何が起きたのかを理解した途端、おれは思わず大笑いしてしまった。キスひとつで責任を負うというのは、あまりにも純粋すぎる話で、クリスのこれまでの女性偏歴を思うと、ずいぶんチグハグなことに感じられる。しかし後になって思えば、ファクトリーの女たちと寝たことは、彼にとって恋愛として数えられるものではなかったのだろう。

 このときクリスは同名の娘に恋をした。時間にして数分のことだが、初めての恋に野暮なことは言いたくない。そしておれは貴重にも、“人が恋におちる瞬間”というのを目の当たりにしたのだ。空気に甘やかな音楽が流れ、小鳥が花をくわえてやってくる。それはまさしく、娘のクリスが描く絵、そのものの情景だった。



 ほどなくして、彼女は出版社から、わずかではあるが仕事を得、アラバマに戻らずともよくなった。アトリエには新しいベッドが入ったが、実際使っているのは一台だけらしい。食事が日に三度も出されると、クリスはぼやいていたが、花が生けられた部屋は、以前より明るくなったように見えた。

 彼女がイラスト描きとして世に出たことを、もっとも喜んだのはバーバラだ。掌を返しておれを褒め、「きっとあなたは何とかしてくれると思ったわ」と、見当外れのことを言う。

「あなたのクリスもそろそろデビューさせていい頃合いよ」と彼女は提案したが、おれはまだだと感じている。「カポーティは19でデビューしたわ」と、バーバラは文筆の天才を引き合いに出し「クリスの技量を思えば早すぎるなんてことはないはずよ」と請け合った。「それに、ガールフレンドが先に世に出て、彼は焦っているんじゃないかしら」

 老婆心を発揮する彼女は何か思い違いをしているらしい。クリスはそんなタマではないし、おれはこいつの技量がデビューするに満たないと思っているわけではない。しかし彼女は取り合わず「可愛がりすぎて世間に出したくないのよね」とニヤついた。

 それはある意味正しく、また別の意味では正しくない。“若き天才”というのはそもそもがやっかいなものだ。コーエンがいい例で、あいつはクリスを「子供ながらに絵が上手い」と評していた。それが世間の常識的な見方であることは否めず、“年齢の割に”という色眼鏡は、どうやっても避けられない。

 クリスの絵はタブローで、イラストレーションの類いとはまったく違うアプローチが必要だ。おれは奴を“ただの画家”ではなく、“成功した画家”にしたかった。死後も名が残るような偉大なアーティスト。若すぎる年齢で話題をさらうのは簡単だ。だからこそクリスのデビューを早い時期に設定したくはない。いつかそのうち、“今だ”と思える瞬間が来ることは解っている。天才子役の末路は哀れなもの。こういうことは適当な時期を見計らうのが重要なのだ。



 誕生日を祝う習しは北米において一般的なものだが、我がファクトリーではその習慣がない。以前はあったが廃止したのだ。

 工房は人の出入りが多く、全員を祝っていたら毎週イベントになる。パーティの準備をしたり、飲み食いしたりする暇があるのなら、頭の中に展開している作品の構想を、すべて実現化するべきだ。外ではいくら派手に寿ごうとも構わない。しかしここでは不許可の決まりだ。

 クリスを引き取ったばかりの頃は、“誕生日はなし”ではさすがに気の毒と思い、幾度か祝いの席を設けもした。しかしファクトリーのルールを知った彼は、自分から「来年はいいよ」と断わってきたのだ。後日、人づてに聞いたところ、自分だけ子供扱いされていると彼は感じていたらしい。

 子供でも大人でも平等に年をくい、それが特別なことではないと習慣づいた頃、おれの誕生日に花が贈られてきたことがあった。仕事で付き合いのある誰かだろうと思ってカードを見ると、そこには金の飾り文字でこう書かれていた。


  ─── お誕生日おめでとうございます クリス&クリス ───


 誕生祝いの廃止を知っている者であれば、こんなことはしない。つまりクリスはこんなことはしない。とすると、これは娘のクリスがひとりでやったことだ。しかしどうやって知ったのだろう。もう長いこと、おれは誰にも誕生日を教えていない。

 礼を言うために電話をかけ、誕生日をどこで知ったかを訊ねると、娘のクリスは「バーバラさんに教えて頂きました」と言った。

 そういえばいつだったか、彼女が占星術にハマった折、生まれ月と日にちを教えたことがあったと思う。

「カードはきみとクリスの連名だったが、奴もこのプロジェクトに噛んでいるのか?」

「ええ、もちろん。一緒に花を買いに行きました。カードを選んだのはわたしですが、花はクリスが」

「あいつがこれを?」

 おれはブーケを見た。それは白い蓮の花がメインになってデザインされいる。

「私は薔薇やダリアみたいな派手な花を選ぼうとしたんですけど、クリスが“もうちょっと捻った方がいい”と言って、これを」そして遠慮がちに、「あなたのお誕生日を一度も祝ったことがないと言うので」と付け加える。「あの、もしお気に触ったのであれば……」

「まさか。気になど触るものか」

 おれは心からの感謝を述べた。誕生日の馬鹿騒ぎは廃止したが、花を贈られるのは嫌いではない。贈り主が愛らしい娘なら、尚のことだ。

 クリスとクリスは健全な恋人同士で、おどおどしていた少女は穏やかな女性となり、気無性な若者は、以前より多く笑うようになった。その時は気付かないが、ずっと後になって、懐かしく思い出されるような美しいシーズン。それはまさにこの頃だったと断言できる。祝いの花とカードは翌年も届き、そしてさらに翌年は届かなかった。時は無情に移ろうものだ。クリスは青春の終わり告げる言葉を、まったく抑揚なく口にした。

「パン、彼女がいなくなったよ」

 珍しく電話をかけてきたかと思えば、痴話喧嘩の報告かと、おれは密かに苦笑した。ここには来ていない旨を伝え、電話を切ろうとしたが、クリスは「いなくなったんだ。本当に」と繰り返す。

 何をやらかして彼女が出て行ったのかと訊ねると「わからない。いないんだ」とだけ答える。

「まあ、落ち着け。女は突発的なことをして男をビビらせるもんだ。おまえはそういうことにまだ免疫がないかもしれないが…」

「そんな話じゃない。これは違う。薬も持たずに彼女が家出するわけがない」

「薬?」

 おれは知らなかったが、娘のクリスは心を病んでいた。ここ二ヶ月ばかりは外に出なくなり、ありもしない幻覚を見ると言って、プロザックを手放さなかったらしい。

 ここでようやく事の重大さに気がついた。しばらく外出していなかった者が、突然、出て行くなどとは考えにくい。

 クリスはおれに助けを求め「どうしたらいい?」と問う。「何をしたらいい? 警察に?」奴の声に緊張が出た。おそらく今まで呆然としていたのだろう。

「そうだな。だがまずおれが見聞しよう。おまえは落ち着きを失ってる。見落としていることがあるかもしれない」

「そんなものない。おれが彼女の何を見落としてるっていうんだ」

 食ってかかるクリス。今は下らない口論をしてる場合じゃない。すぐさまグリニッチに駆けつけると、クリスはドアの前でおれを待っていた。部屋の内部はいつも通り。描きかけの絵。絵の具のついたカーテン。空いたベッドと、使用しているベッド。

「いつ気付いた?」

「ついさっき。おれが起きたらもういなかった」

 ベッド脇の床に、女性用の衣類が脱いであった。いつも床に服を投げ出すのとかと聞くと、そんなことはないという。確かに奇妙だが、この失踪に関係あるとは思えない。

 他に変わったことはないか、なくなっているものはないかと探したが、何も見当たらない。クリスは「靴がぜんぶある」とつぶやいた。

 若い娘が裸足で出ていくことはあり得ず、おれは警察に通報した。



 人と争った形跡もなく、盗まれたものもない。服も靴も、下着やピアスまでも、彼女は残して出て行った。

 警察は頭をひねるばかりだったが、“誘拐ならば犯人が何らかのアクションを起こすはず”とし、まずはプロザックの処方箋を書いた医師に連絡を取ると言った。

 クリスが警官に心療内科の連絡先を渡す間、もうひとりの警官は「新しい彼氏ができて、そいつに荷物を用意させたとも考えられます」と、おれだけに耳打ちをした。

「こういうのはよくあることです。今回のはたまたま手が込んでいますがね」脱いだ服をジップロックに詰めながら、これは芸術家の変わったパフォーマンスだとでも言いたげに頭を振る。

「何かあればすぐに連絡を」

 警官はそう言い残したが、後に何かが起きることはなかった。身代金を要求する切り貼りの手紙も、突然出て行ってごめんなさいという絵葉書も届くことはない。彼女が消えたという事実だけが、日々の中に横たわっている。

 警察の捜査は頭打ちで、実質的には打ち切られたも同然だ。おれは探偵を雇い入れ、死体安置所にも出向いた。しかし彼女はいない。こんなことが現実に起こりうるのだろうか? 人がひとり、煙のように消えてしまうことが?

 一ヶ月経っても何の手がかりも得られず、おれは疲れ果てていた。見ず知らずの少女の死体を見るのはもうウンザリで、さりとて、娘のクリスの死体を見るのはもっと嫌だ。

 何度目かに死体安置所に行った帰り、クリスを呼び出し、晩飯に誘った。死の香りに抵抗するには、熱量を上げるのがいい。食ったり飲んだりは、人間のもっとも基本的な活動のひとつだ。

 おれたちは揃って体重が減り、こっちはダイエットになったが、クリスは不健康なレベルまで体脂肪を落としている。頬がこけ、目は落ち窪み、痩せて陰気なガキだった頃の印象を取り戻していた。

 レストランではクリスの好きな食べ物を頼んだが、彼はあまり口にせず、おれも食が進まない。会話は寂しく、おれたちはほぼ無言のまま、アルコールによってカロリーを摂取し続ける。

 窓の外はハドソン川だ。対岸はクリスの故郷であるニュージャージーだが、あまりに夜が濃く、おまけに雨が降り出したため、リバービュウの席は意味を成さない。

 ハドソン川の底はコールタールのようになっている。渦巻くヘドロに捕まれば、死体が上がることはまずないだろう。水面にネオンを写し、水中に秘密を隠し持つ。川にはマンハッタンの悪徳が流れ込んでいる。

 二人のクリス。彼らに起きたことが普通の別離でなかったことに憤りを覚える。何に対する怒りかわからないが、とにかくおれは憤慨していた。こんな形で引き裂かれるなど、まるで呪いだ。無垢な恋人同士。悲劇に値する理由などどこにもない。あるとすれば、ぜひ聞かせてくれと、信じてもいない創造主に怒鳴りたい気持ちだった。

 まだ宵のうち、タクシーをグリニッチに回そうとすると、クリスはそれを止め「あんたの家に行っても?」と訊いてきた。

「構わないが、どうしてだ?」

「あの部屋に帰りたくない」

 珍しくクリスが弱音をはいた。いつ彼女が戻って来てもいいようにとアトリエに留まることを希望していたが、さすがに堪えたと見える。あんなに気に入っていたアトリエを離れるというのだから、よほど参っていたのだろう。クリスの訪問は数年ぶりで、ゲートから館までの間、彼は従順な犬のように、おれのニ歩後から着いてきた。

 ドアを開けると、腹を空かせた猫どもが、一斉に足元にまとわりついてくる。この当時は八匹も居ただろうか。クリスは猫を見下ろし「増えてる」とつぶやいた。「手術しないの」と訊くので、「おまえ、自分が去勢されたらどう思う?」と訊き返す。彼は「あまりいい気分にはならないだろうね」と言い、しゃがんで猫を撫で始める。

 雨で濡れたコートをハンガーにかけ、猫に餌をやり、シャワーを浴びると人心地ついた。バスルームから出ると、クリスはさっきと同じ格好で床にしゃがみ込んでいる。猫を膝に乗せて撫で回している彼に「風呂に入らなかったのか」と訊いた。「まさか酔って立てないとか言うんじゃないだろうな?」

 クリスはおれの言葉を無視し(これはいつもだ)「カーリーは?」と訊ねた。

「あれは死んだ。もう三年も前だ。老衰だった」

「知らなかった。教えてくれなかったね」

「こっちも知らなかったんだ、おまえが彼女のことを気にかけているとは」

 カーリーは雌の黒猫で、インドの神から名前をとったものだ。クリスがまだ子供の頃、彼女を寝室に連れて行き、一緒に眠っていたことを思い出した。

 するとクリスは「カーリーとは一緒に寝てたんだ」と、語気を強めて言った。「おれは可愛がってた。気にかけてたことは知ってるはずだ」

「ああ、そうだった。今思い出したよ。早く風呂に入れ。風邪をひく」

「あんたはいつもそうだ」クリスはすっくと立ち上がった。あまりに勢いがよかったため、猫が四方に逃げて行く。

「あんたはおれのことを気にかけている振りはするが、肝心なことは何ひとつ覚えてない。カーリーが弱っているなら、そう言ってくれてもよさそうなものなのに、話題には一度も出て来なかった。あんたはおれの絵の進捗しか興味がないんだ。そうだろ?」

「そう見えるか。だったらおまえはどうなんだ?」こいつが吹っかける口論には乗らないと決めているが、今回に限り、おれは言い返した。「カーリーの年齢を考えれば老衰の可能性は推測できたはずだ。それなのに話題には一度も出て来なかったのはどういうわけだ?」

 クリスは返す言葉を失った。悔しそうな顔をし、ぐっと拳を握りしめる。勝負あったと思ったが、彼はつと暖炉に駆け寄り、マントルピースに飾ってあったガレのランプを、おもむろに叩き落とした。おれは呆気に取られたが、クリスの目を見て正気に返る。

「貴様……!」

 こっちが掴み掛かるより早く、クリスが飛びかかってきた。おれは殴られまいと、彼の両手首を掴み「どういうつもりだ!」と叱りつけた。おれたちは長く寝食を共にしていたが、喧嘩をしたことはなかった。言い合いはあっても、声を荒げるところまではいかないのが常だった。

「ガレなんざクソ食らえ!」とうに成人した男は、子供のように叫んだ。「下らない! すべてのアートはクソだ!」

「黙れ! 可愛げのないガキめ!」おれも大人げなく怒鳴り返す。

「あんたなんか大嫌いだ! おれはカーリーと一緒に寝てたのに、何も教えようとはしなかった!」

「おまえに何ができた!? あの老猫はガンだったんだぞ! 全身に転位して、助からなかった! おれが病院に運んで安楽死させたんだ!」

 抗い暴れていたクリスは目を見開き、動き止めた。

「おまえは文句を言ってるだけだ! おれが何も教えようとはしなかっただと!? そっちはどうなんだ!? なぜ彼女が心療内科にかかっていることを黙ってた!? それこそ“言ってくれてもよさそうなもの”じゃないのか!? おれは何も知らなかった! あの娘が……おまえと暮らしているクリスが、自殺すら考えるほど、追いつめられていたなんてな!」

「彼女は自殺してない! ぜったいにそんなことはしない!」

「だったらどこにいる!? ええ!? 彼女はどこにいるんだ!?」おれは強くクリスを揺さぶった。「おれが何度、死体置き場に行ったと思う!? 彼女の両親すら諦めているのに、おれはまだ! モルグに足を運んでるんだぞ!」

 おれたちは腹を立てていた。死やその他の諸々を不幸を止められない己の無力さに。

 クリスは目に涙を溜めている。おれはこいつのことを“泣かない子供”だと思っていた。出会ってから今まで、泣くのを見たことがなかったからだ。

 親と引き離されても、強姦されかかっても、クリスは涙を見せない。情緒に欠陥があるとすら思ったほどだったが、今はどうだ。怒りに任せて物を破壊し、馬鹿な言いがかりをつけ、手もなく悲しみをあらわにする。

 クリスの片割れのクリス。たったひとりで勇敢にファクトリーを訪れ、おれの誕生日には花を贈ってよこした娘。

 掴んだ手首が震え始め、触れた箇所から、感情がコンセントされる。クリスは悲しんでいる。ああ、そうだ。おれも悲しい。彼女を失って、おれもとても悲しい。

 おれたちはただひとりの娘のことを思い、共通の歎きに涙を流した。ややあって落ち着きを取り戻し、手を緩めると、今まで誰といたか思い出したように見つめ合う。今度は消えた女の空蝉ではなく、正しく互いを認識して求め合った。床は固いが気にもならない。服を脱いだクリスは、若い雄鹿のように美しかった。



 朝のうち、自分のベッドで目を覚ます。おれは寝室に戻ったが、クリスの姿は見えない。以前、彼が使っていた部屋は物置になっているので、そこで眠ることはできないはずだ。階下に降りると、彼はカウチで猫たちと一緒に丸まっていた。バスローブを着たまま、目を閉じ、軽い寝息を立てている。

 その姿が愛おしく、キスをしようとしたが、彼は寸前に目を覚まして顔を背けた。その態度で、おれは状況を把握する。混乱は一夜限り。クリスは元の気無性な男に戻っていた。

 おれは朝食の支度をし、家政婦にはしばらく来なくていいと連絡する。クリスはその晩も、また次の晩も我が家に留まり、男二人の共同生活がまた始まった。いつまでいるのかと確認したところ、彼は猫を抱き上げ、「おれが居たら迷惑?」と殊勝に訊く。

「迷惑じゃない。ただ、もし彼女が戻ってきたらどうする。おまえがいないことには…」

「戻ってこないよ」クリスは猫の耳の後ろを掻きながら言った。

「彼女はもう戻ってこない」と、はっきり口にしたのだ。

 それっきり、娘のクリスについて話すことはなかった。『もう戻ってこない』それが最後だ。おそらく諦めの境地に達したのだろう。

 おれは十字架のペンダントを作らせ、それは今も胸にある。いなくなったクリスを偲んでのことだとは、誰も気付かなかった。



 以来、クリスは猫の世話をし、おれはオムレツを焼く。生活の中にセックスが入る余地はない。試しに迫ってみたが、すげなく断わられた。愛情を求める男が二人、同じ家にいて、別々のベッドで眠っている。数日もしないうち、おれは血気盛んな若者のように、欲求不満に陥った。ガキのクリスには興味がなかったが、今は違う。性的に充分発達していて、身体の相性も悪くないと知ってしまった後だ。奴が無防備に眠るさまは、腹立たしいほどに魅力的だ。おれの中では未だにあの陰気な子供の印象があったので、こいつの肉体がこんなにも変化していたことに、まるで頓着していなかったのだ。

 あの夜は雨が降っていた。クリスの身体は濡れそぼり、髪の先端には水滴が装飾となって輝いていた。肌はしっとりとしていて、吸い付くような手触りをしている。久しぶりに目にする彼のペニスはすっかり大人の顔をしていた。それを手にし、重みを確かめるように握ると、たちまち固さを有してくる。弾力があり、熱をもっていて、かつて同じものに触れたことがあるとはとても思えなかった。

 中に入ると、彼は呻いたが、それは快楽によるものだとおれは解釈した。その証拠にクリスはおれの両腕を掴み、さらに深く受け入れようと、背に両足を絡ませてきたのだから。

 思うさま堪能し、やりたいと思ったことはすべてやったが、あいつは何をされても戸惑うことなく、受け入れ、そして協力的だった。ストレートであるはずのクリスが、なぜこうまで抵抗なく男と寝ることができたのか、今もって謎だ。彼は生まれながらの恋人のように奉仕することを望み、また同じようにされることで快感を得ていた。

 孤立した館で二人きりという状況は、おれにストレスをもたらしている。これは性的なこととは関係ない。相手が誰であっても、互いの吐いた空気を吸い合えば、いずれそんな気持ちになるものだ。

 手っ取り早い解決方法として、おれはティモシーに電話をした。彼は美術学校に通う若者で、これまで三度ほど寝たことがある。急な誘いにも関わらず、彼は待っていたかのように「すぐ行く」と応じてくれた。数時間後、喜び勇んでやってきたが、クリスを見ると途端に不機嫌になり「ぼくに居てほしいと思うなら、彼を追い出して」と言うので、仕方なくティモシーを追い出した。こんな理由でクリスを外へやるわけにはいかない。あいつはまだ精神的に不安定だ。元から快活な方ではないので気がつきにくいが、憂鬱が影のように付きまとっている。そして何より、絵筆を持つことがなくなった。これは大きな変化だ。

 絵を描かないクリスというのは初めてだが、まさかこのままということはないだろう。今は憂鬱の島にバケーションに出ているだけだと思うことにする。それに『あんたはおれの絵の進捗しか興味がないんだ』と言われたことを忘れちゃいない。向こうが言い出すまで、“クソなアート”は封印だ。



 ティモシーが帰った翌週、写真家の友人から連絡があった。写真を撮りたいので半日ほど庭を貸してくれという依頼で、おれは二つ返事で引き受けた。クリスと二人きりで窒息しかかっていたし、その友人には恩義もある。彼は翌日すぐに現れ、ひとり若者を連れてきた。それはアシスタントかと聞くと、写真家は「アルバムのジャケットを撮ると言ったじゃないか」と、呆れたように言う。

「彼はミュージシャンだ。グランジという音楽ジャンルを知っているか? 知らないだろうな。おまえは音楽芸術に疎いから」

 グランジは当時、流行り始めていたジャンルだが、写真家の言う通り、おれはロックンロールには興味がない。おそらく有名であろう、その歌い手の名前も顔も知らなかった。

 ジャケット写真の撮影はすぐに済んだが、おもしろいことに写真家はクリスに興味を持った。

「おまえの息子は魅力的だな。彼こそロックの住人のようだ」

「クリスはおれの息子じゃないし、おれと同じくらいロックには疎いぞ」

「そうは見えない。彼は何を?」

「無職だ」

 嬉々としてシャッターを切る写真家に付きまとわれ、当然クリスは嫌がるだろうと思ったが、これまたおもしろいことに、奴は意に介することをしなかった。カメラを見たことがない動物のように、いつも通り家の中を歩き回る。

 猫と眠るクリス。庭でぼんやりしているクリス。半裸でソファに座っているクリス。現在、巷に出回っている写真は、このとき撮影したものが主だ。おかげでまともなポートレートが残る結果になったわけで、何が功を奏するかわからないものだ。

 写真家は日暮れ前に帰ったが、ミュージシャンを置いていった。グランジ男はオレンジ色の巻き毛と、犬のような気のいい目を持っている。クリスとほぼ同じ年頃の若者。『シリコーン』のアンディ・ダストと言った方が通りがいいだろう。彼はおれの好みではなかったが、それはかえって歓迎すべきことだ。性愛が絡むと、前出のティモシーのようなことになりかねない。

 おれはアンディにクリスのことを説明し、決して刺激しないようにと忠告を与えた。

「あいつは病気だ。彼女を失って鬱なんだ」

 些か大げさに言ったつもりだが、口に出すとそれは真実のようにも思えた。この上、クリスまで失えば、おれはどうなってしまうことか。

 アンディは「わかった」と素直に言ったが、後になってそれは口先だけのことと知る。この男が“何かを理解する”というのは、牛が経済学の学位を獲るようなもの。夕食の席でアンディは、さっそくクリスを刺激にかかった。

「大事な人がいなくなると、自分の行いを後悔したりするか?」グラスワインに指を突っ込みながら、アンディはクリスに話しかけている。「そういう気持ちになったことが?」

 クリスは黙っていたが、ナイフを持つ手が止まっていた。何かを考えているようだったが、彼が返事をする前に、アンディが口を開いた。

「おれのバンドメイトも二年前に死んだんだ」とアンディは言う。どうやらクリスのガールフレンドが死んだものと勘違いをしているらしい。その点について、おれもクリスも訂正はしなかった。死んでいないと断言することはできないからだ。

 アンディは威勢良く、鳥の腿肉にかぶりつき、咀嚼しながら「あれはひどかった。とても悲しかったし、死んでしまいたいと思ったよ」と話し続ける。「でもそんなことをしてもな。あいつは喜ばない。だから生きることにした。だってそのほうがいいだろ。死ぬよりか」

 そう結論づけると「硬い」と、口から肉の塊を吐き出した。

 クリスは終始黙っていたが、思うところがあったのだろう。翌日にはアンディと会話をし、猫といるより多くの時間を彼と過ごしていた。

『死ぬよりも生きている方がいい』こういう陳腐で当たり前なことを言ってやる人間が、ときには必要だ。おれがクリスにしてやれないことを、アンディは多く与えてくれた。同性で、同世代の友人。クリスには初めてのことかもしれない。

 二人は湖で泳ぎ、ボートを漕ぐなどして遊んでいたが、それに飽きると、アンディは巨大なスピーカーを運ばせ、ギターとつないで音楽をプレイした。彼は水を得た魚のように活き活きとし「やっぱりこれがないと駄目だ」と、タバコの焼け跡がついた楽器にキスをする。騒音などウンザリだと思っていたが、実際に聴くとそうでもなく、なかなかどうして面白いものだ。ロックンロールに疎いおれのために、彼はカルミナ・ブラーナのクラシック曲、『おお運命の女神よ』を弾いてみせ、類いまれな技巧があることを見せつけもした。

 ある晩、アンディがおれの元にやってきて、「クリスはいいやつだな」と、出し抜けに言った。

「おれの次のアルバムのアートワークをやってくれると約束したんだ。構わないだろ?」

「クリスが絵を描くと?」

「だって画家だろ?」

 画家だが、もう三ヶ月以上も絵筆を手にしていない画家だ。アンディは“何を言ってるんだ?”という表情でおれを見、それから「あいつ、学校に行ってないんだって?」と聞いた。

「ああ、そうだ」

「あんたがそうさせた?」

「まあな」

「クリスは卵の割り方も知らないんだ」

「卵?」

「おれがオムレツを作るのをじっと見てた。手伝ってくれと言ったら、“どうすればいいのかわからない”と」

「だから何だ?」おれは鼻で笑った。「卵が割れたからどうだっていうんだ。あいつが料理人になる予定は今のところないぞ」

 クリスは車も運転できず、卵も割れないが、画家としては一流だ。そう答えると、彼は「そんなのかわいそうだ」と抗議した。「クリスが気の毒だ」

 あいつの“成長”について、説教されるのをおれは好まない。卵を割ることのできる凡庸な男はいくらでもいる。毎月きまった仕事を得、家庭に給料を持ち運ぶような人間だ。それに引き換え、真の芸術家を育成できる者がどれだけいるというのだ。おれは上手くやったと思っている。オムレツと引き換えに、あいつが得たものを見てみるがいい。ピカソが卵を割ることができないとして、そのことを誰が嘆くだろう? ゴッホに車の免許を獲れと誰が説教する? そんなことは馬鹿者の戯れ言だ。

 そう言うと、アンディは口に手を当て「そんな…」とつぶやいて、オーバーに後ずさりした。それから病的なまでにシリアスな顔つきになり、「パン、あんたってひどい奴だな」と冗談めかして非難する。芝居がかった態度におれは笑った。どうやらこの男はコメディアンの素質があるらしい。



 卵の割り方を知らない男と、知っている男。夏の終わりを惜しむように、二人は湖で泳ぎまくっている。さすがに疲れたようで、午後には子犬のように眠っていたが、夜になって起き出し、馬のように飯を食った。日に焼けた若者たちは、いかなる病も寄せ付けないように見える。この頃にはクリスもすっかり気力を取り戻していた。

 翌朝、まだ日が昇る前に、猫がおれを起こしにきた。いつもはクリスが缶詰をやっている。ここに猫が来たということは、彼まだ眠っているのだろう。

 ガウンにスリッパ姿で餌をやっていると、アンディとクリスが家に入ってきた。手には毛布と絨毯を持っている。

「外にいたのか。ずいぶん早いな」

 おれがそう言うと、アンディは「早くはない。寝てないんだ」と答える。継いでクリスが「野営を張った」と言い、丸めた絨毯を重たげに肩から下ろした。

「ペルシャ絨毯をレジャーマット代わりにしたのか? おれに断わりもなく?」

 アンディは肩をすくめ、「レジャーマットがあればそれを使ったんだけど」と、悪びれもせず言う。「朝まで起きてたけど、何も出なかった。がっかりだ」

「何が出るって?」

「首無しの騎士さ」

 このあたりはスリーピーホロウレイクと呼ばれていて、“首の無い騎士の霊が、夜な夜な馬に乗って現れる”ということで有名な土地だ。後になって映画にも取り上げられたが、当時は地元の者のみが知る、陳腐な都市伝説だった。アンディは子供じみたところがあり、空飛ぶ円盤やゴーストの類いを信じていた。

「楽しみにしていたのに、がっかりだ。もう寝る」アンディはアクビをひとつし、二階へ上がって行った。

 おれは大事な絨毯を奪い返し、破れた箇所がないかチェックする。土と草がついているだけで破損はないようだ。

「次にやるときは事前に言え。使っても差し支えないシートを貸してやる。……まったく、何が首無しの騎士だ。そんなものがいると、奴はあの年で本気で思っているのか」

 文句を言いながら、絨毯についた草を取っていると、クリスはぽつり「いたよ」とつぶやいた。

 おれが顔を上げると、クリスはわずか唇の端を上げ、「おれは見た」と言う。

「何だ? 幽霊をか?」

「そうさ」

「アンディは何も出なかったと言ったじゃないか」

「彼は明け方前に少し眠った。その後だ。騎士が現れたのは」

「まさか。信じられるものか」

「白い煙のようだった。湖の周りを駆け抜けて行くのが見えたんだ」

「首がなかったのか? 馬に乗って甲冑を?」

「そこまではわからない。でも見た。アンディには内緒だ」

「なぜだ?」

「おれが見たと言ったら、彼は今夜もあんたの絨毯を」

「ああ、なるほど。そうだな。奴には何も言わなくていい。これはおれとおまえだけの秘密だ」

 アンディは飄々としているが、子供すぎて生きるのに危ういところがある。クリスは友達を魔に近づけたくないと思ったのだろう。でなければ、ペルシャ絨毯の価値に気付いたかのどちらかだ。

 クリスが超常的なことを言うのを聞いたのは、これが最初だった。今までもチベットやネイティヴ・アメリカンの儀式と意識の変容など、スピリチュアルな話はしたが、実際に“体験した”と言ったのは初めてだ。神秘への入り口が、湖のほとりの幽霊とは、陳腐すぎて笑えるが、クリスにとっては大きなことだったのかもしれない。



 ミュージシャンとの愉快な季節は唐突に終わりを告げた。理由はアンディがおれに愛想をつかしたからだ。テーマはまたも『クリスが可哀想』という戯れ言。

「あいつ、自分のことを乳牛に例えてた」

 キッチンで果物を切っているおれに、アンディは不満顔で話しかけてくる。

「“あいつ”とは誰だ? 会話を成立させたきゃ、主語をはっきりさせろ」

「わかってるくせに意地悪いうなよ。クリスのことさ」

 アンディは冷蔵庫にもたれかかり、「あいつ、“自分は雌牛と一緒だ”と言ってた」と腕組みをする。「“ミルクを出さなくなれば、たちまちミートパッキングエリアに送られる。絵を描かない自分は、パンにとって不要で役立たずだ”……そんな風に思ってるなんて、知ってたか?」

「自己憐憫か。うまいことを言うもんだ」

「あんた、これを聞いて心が痛まないのか? クリスは絵を描く機械じゃないんだぜ?」

「あいつがミルクを出したのを見たのは、これまで二度しかないな」

 おれがそう言うと、アンディは目を見開き、頬を朱に染めた。そしてゆっくり息を吐き、「……あんたって最低だな」と頭を振って、出て行った。

 しかし本当に可哀想なのはアンディの方だった。後になって知ったのだが、彼は親から虐待を受け、親戚をたらい回しにされて育ったという。クリスを庇ったのは、自身に不幸があったからだ。そうと知っていれば、あんな冗談は口にしなかったものを。

 ───大事な人がいなくなると、自分の行いを後悔したりするか?───

 それはアンディが最初にクリスに言ったことだが、後年、おれもクリスもそんな気持ちになったものだ。

 クリスの名が売れてから数年経った頃、アンディは死んだ。死因は溺死。ミシシッピーの川で泳いでいて、溺れたのだという。死後、発表されたアルバムのジャケットをクリスは手がけ、アンディとの約束を果たしたが、完璧な終わりだとは言えなかった。後悔はいつでも残る。「もっと話を聞いてやればよかった」とか「連絡を取るべきだった」とか、そんなことを人は思うものだ。

 自分に関しては、おれはアンディにこう言うべきだったのだ。「もしクリスが腕を無くしたとしても、たとえ画家でなくとも、ずっと面倒を見続けるつもりだ」と。責めるような口調が気に食わず、嫌味で答えたのは失敗だった。アンディはいい奴で、クリスの友達だ。あんなにも純粋な男に、意地悪を言うべきではなかったのだ。



 アンディがロスアンゼルスに戻ってほどなくし、クリスもマンハッタンに帰って行った。『もう大丈夫だ』という確信があったわけではなかったが、引き止める理由も見当たらない。アンディがいなくなってクリスは退屈しだしたし、このまま居てもらっても何かが好転するわけでもないだろう。

 久しぶりに戻ったグリニッチの部屋は、泥棒でも来たのか、鍵が壊されていたと報告してきた。

 だったら心機一転、アトリエを引き払ったらどうかとおれは提案したが、クリスはきっぱりと断わり、壊されたのは三つある鍵のうち二つだけで、最後のひとつは無傷だったと言う。

「そういう問題じゃない。そんな物騒なところにいることが問題だと言ってるんだ」

「問題はない。この部屋はパワーがあるんだ。サンシャインがいるから……」

 クリスは語尾を濁した。パワーだとかエネルギーだとかいう超常現象について、おれはまったく興味がない。こっちも忙しいので、このときは手短に話を切り上げた。

 それから数週間後にグリニッチを訪ねると、クリスは絵を描いていて、見た目にも元気そうだった。

 おれは差し入れのベーグルを渡しながら、「おまえのサンシャインとやらはどこにいるんだ?」と聞いた。

「誰?」とクリス。

「女がいるんだろう。“サンシャイン”。この間、話してなかったか?」

「ああ」クリスは合点したように頷き、「女じゃないよ」と言いながら、ベーグルに噛み付いた。

 よくよく聞いてみると、女だと思ったのはおれの勘違いで、クリスが言ったのは、本物の日光(サンシャイン)のことだった。斜め向かいのビルが取り壊されて、太陽光がよく入るようになって、とても具合がいいのだと説明する。

「外光派に転身というわけか?」

「そうじゃない。絵についてだけじゃないんだ。部屋にパワーが満ちるようになった。おれは素晴しい体験をしているんだ」

「まあ、日光を浴びるのは健康にもいいそうだからな」

「そんな話じゃない。あんた、まるでわかってないな」

「そうとも」

 こいつの言っていることはサッパリわからない。こいつが見ているものも、感じていることも、なにひとつ分からないのがおれという男だ。だがそんなことはどうでもいい。日光がこいつを元気にさせ、また絵を描く気力を与えてくれたのであれば、それはいいことだ。クリスが何を体験しているかなど、分かる奴など居やしない。だからこいつは絵を描くのだろうし、おれは無能なままなのだ。

 創作意欲が元通りになったのはいいとしても、度が過ぎていたのは、この部屋に対するクリスの情熱だ。いい年をした男が、信仰でもするかのように「この部屋は特別な地場を持っている」と真剣に語る様は滑稽だったが、残念なことに奴は本気だ。いよいよ頭がおかしくなったかと思いもしたが、実際のところ、物事が順調に行ったのはここからだった。

 クリスは画家として、誰も真似のできない高みへと登り詰めた。今でもネットオークションで彼の贋作が見られるが、どれも哀れとしか言い様のない出来映えだ。本物の絵はまるで呼吸をする動物のようで、命を持って脈打っている。

 売り出すのは今を置いて他にない。そう確信したおれは、クリスに「おまえを海外に連れていく」と宣言した。「インタビューを受けて、テレビにも出るんだ。おれも出来る限り取材を受ける」

 クリスは短く笑って「どうしたの、急に」と言った。「マスコミは下らないって言っていたのにさ」

「おまえ、外国に行ってみたいと話していただろ」

「まあね、でも外国語は分からないよ」

「そんな心配するな。おまえは絵を描いてさえいればいいんだ」

 クリスは苦笑し、何も言わなかった。



 人間に生きる意味があるとすれば、おれはおそらくクリスを世に出すために存在しているのだ。そのためだったら、下らないメディアでも何でも使ってやる。家名について質問されることは、おれが最も嫌うことだったが、利用できるものは何でも役立てよう。弁護士を通さず、お袋と話すのは何年ぶりのことか。親父に頭を下げるのは愉快なことではないが、崇高な目的のためであればやり遂げる所存だ。

 ピカソやゴッホと同じくらい、クリスのことを有名にしたい。世界中にふれ回る価値のあるアーティスト。歴史に名が残る画家がこのマンハッタンに存在しているのだ。

 おれは自らの宣言通り、秘蔵の画家を世に広く紹介した。インタビューを受けるクリスは口数が少なく朴訥で、決してメディア向きとは言えなかったが、それがまた“ミステリアスである”と評判になった。ルックスがいいというのは得なもんだ。

 アンディとの出会いから、あの忌々しい火事が起こるまで、クリスの人生はうまくいっているように見えた。それは誰もが羨むほどであったが、果たして本人にとってはどうだったろう。マスコミにもてはやされ、多く金を稼いだところで、あいつの生活は、常にあのアトリエの中にある。クリスの本質は、子供の頃に部屋にこもって絵を描いていた頃と、なにひとつ変わっていないのだ。

 順風満帆というのは、おれにとって記述すべきことが少ないらしい。あいつがうまくいっていた当時について、書けることはほぼない。しかし世間が知っているクリスは、順風満帆な頃だ。おれはそれ以外のクリス───彼のより本質に近い部分を記そうと、努力した。

『果たしてクリスは幸福な人生を送ったのだろうか?』。彼のファンはそうしたことを考えるかもしれないが、おれはそこまで奴の人生に介入するつもりはない。自分がよかれと思ったものを、あいつに与えるまでだ。

 そのことについて、クリスは感謝しているとも、恨んでいるとも言わなかった。そして、おれの方からも何も訊かなかった。そういうことはまったくどうでもいいことだからだ。他の運命などは存在しない。そもそも“運命”とはそういうものではないか?

 ずっと後になって、ファクトリーの画家であるクリーヴラント・シモンズから「クリスが心配だと思ったことはないのか」と訊かれたことがある。当時、彼はクリスと同居をしていて、奇妙な行動をする彼を目の当たりにしていたのだ。

「あなたはクリスを大丈夫だと? 彼は死んでしまうかも知れないのに?」

 クリスは大丈夫に決まっている。死して尚、奴は大丈夫なのだ。



 クリスはパーソナリティ・オブ・ザ・イヤーを受賞したが、その前年に失踪し、以来彼を見た者はいない。授賞式では“故人”とはみなされなかったが、実質的にはそんなような扱いだった。

 クリスは死んだのだろうか。それは今もって議論されることだが、自分は答えを持っていない。世間では、おれがクリスを溺愛するあまり、どこか外国へ隠したとの説があるようだが、あいにくそこまでおれたちは密接な間柄ではなかった(特に後年はそうだ)。そうした噂は、彼を偲び、どこかで生きていて欲しいと思う者の願望のあらわれなのだろう。エルヴィス然り、JFK然り、そうした夢は伝説に相応しい。

 クリスという男の失踪について、おれは何も関わっておらず、また知ることも何ひとつない。ただひとつ言うとすれば、あいつは“向こう側に行ってしまった”のだということ。そこがどこかはわからない。きっと画家のたまり場のようなところなんだろう。

 あいつに卵の割り方を教えなかったことについて、後悔はしていない。おれはクリスに絵筆を持たせ続けた。卵など、おれたちの関与するべきところではない。そうだろう、クリス?


 END


 PS 永遠に日の目を見ることのない我が自書を、亡き叔父に捧げる

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暁の部屋(The Room of Crimson) 栗須じょの @Jono

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