第3話 Long Gone 〜二つの物語のイントロダクション〜

「この部屋は特別なんだよ」

 彼は私にそう言った。

「もう三ヶ月もすれば夏が来る。そうしたらきみにもわかるよ。この部屋の特別さが」

 残り少ない銀色の髪を手で撫で付け、満足げな顔で頷く。

 “もう三ヶ月”も、ここに通い詰めるつもりはなかった私は、“この部屋の特別さ”とやらを、知ることはないだろうと思っていた。彼の言う“特別さ”とは、個人的な思い入れの強さを現しているだけで、深い意味はないのだろうと。

 結局のところ、私はこの部屋や彼について、いろいろ間違った解釈をしていたのだが、そのことに気づいたのは、すべてが終わった後のことだ。私は何も分かってはいなかった。そして現時点ですらも、この物語を正しく理解しているかどうかは怪しい。だがそれはそれで構わない。これはドキュメンタリーでははなく、私の理解の範疇で書いたフィクション。ある画家が生きた証を、物語の形をとって書き残そうとする試みである。




「よく来てくれました」

 老画家は穏やかな微笑みを浮かべ、アトリエに私を迎え入れた。

「ここはすぐにわかりましたか?」

 椅子を勧めながら、そう言うので、私は正直に「実は少し迷いました」と告白した。「このあたりはどの通りもよく似てて……お約束の時間に遅れまして申し訳ありません」

「いやいや、それはいいんです。でも歩き回ったのだったら疲れたでしょう。そんな踵の高い靴を履いていらっしゃるんだから」彼はチラリと私のハイヒールに目をやった。それはいくらか不躾に感じられた。

「どうです、その靴を脱いでみたら? 裸足でいる方がずっと楽ですよ」

 見ると、老人は靴を履いていない。彼の素足は白っぽく、妙に生々しい感じがする。

「いえ、私はこのままで大丈夫です」親切をお断りし、鞄からICレコーダーを取り出す。「会話を録音させて頂いても構わないでしょうか?」

「ああ、もちろんいいですよ。ただこの部屋で録音すると、ゴーストの声が入ることをご了承ください」

「ゴースト?」

 テレビの多重像のような、電波障害(ゴースト)があるのだろうかと私は思ったが、彼の答えは実に芸術家めいていた。

「幽霊の声ですよ。彼らはイタズラ好きなので、機械に何かするかもしれない」

「まあ……ご冗談を」

 私の言葉に、彼はにこっと微笑みを見せた。そして「コーヒーでよろしいかな?」と、紳士的に訊ねる。

「ええ、お願いします」

 私はレコーダーの録音ボタンを押した。




 私は自分のことを小説家だと思っているが、編集長は「きみの文章はルポルタージュの方が向いている」と言った。「ルポものだったら、出版することも検討しよう」と。

 どうしてもストーリー性のある話を書きたかった私は、その中間をとり、『実話を下敷きにした小説』を書こうと思いついた。その物語のベースにと選んだのが、ある画家の人生だ。

 老画家、クリーヴラント・シモンズ。二十代後半で頭角を現すまで、彼は広告代理店に勤めるサラリーマンだった。デビューするほんの数ヶ月前に、カリフォルニアのサクラメントから、このマンハッタンへと移住。主に風景画を手がけ、作品はリージョナリズム(地域主義)に分類されている。

 私が彼を知ったのは、ケーブルテレビのドキュメンタリー番組でのことだ。そこで取り上げられていたのは、シモンズではなく、彼と関連する別の画家である。その人物の名は、絵画に詳しくない私でも知っていた。突然行方不明になったアーティスト。彼の人生は波乱に満ち、まさしく実録番組で特集するにふさわしいドラマチックなものである。

 シモンズはそのアーティストをよく知る者として紹介されていたに過ぎなかったが、私は失踪した天才画家にではなく、むしろこの老人に興味を覚えた。死んだことによってカリスマ化される芸術家の人生は、いくらでもとりあげようがあるし、またその手の書籍も山ほどある。しかし天才に寄り添っていた人物については、めったにスポットライトがあたるものではない。幕が降りたあともそこに残り、光を失って尚、生き続けることは、想像するだに容易なことではないだろう。生きることを余儀なくされた者の人生を書く。それは私にとって間違いなく書く価値あるものだ。

 シモンズの代理人にコンタクトを取り、取材の旨を申し出ると、数日後に直接彼から電話があった。

「あなたはいったい何を取材したいのでしょうか?」と、電話口でシモンズは言った。「クリスのことをお話すればいいのですか?」

「そうではありません」と私は答える。「彼ではなく、あなた自身のことをお聞きしたいのです。画家としてのあなたの人生についてお聞かせ願えませんか」

 するとシモンズは少し沈黙し、「ギャランティが発生するなら」と、謙虚に言った。

「もちろんです」と私が応じると、話はすぐにまとまった。

 日程を調整し、私は彼のアトリエに向かう。それは我が家から地下鉄で10分ほどの、グリニッチビレッジ地区にあった。




 アトリエは広々としていて、全体にすっきりした印象の部屋だった。天井は高く、窓も多い。家具は少なく、丸いテーブルと木の椅子が二脚。鏡付きのキャビネット、ベッド、本棚。照明器具はクラシックに蝋燭だけのようだ。

「これでも家具を増やした方なんだよ」と、画家は言った。「ぼくが来た当初、ここにはベッドぐらいしかなかった。あとはサイドテーブルと、画材を置くトロリー。冷蔵庫はあったけど、中は常に空っぽでね。今はこうしてテーブルもあれば椅子もある。コーヒーを淹れることもできるんだ」

 それが何かすごいことのように、シモンズは語った。トレイには白いコーヒーカップがふたつ。震える手で、彼はそれをテーブルに置いた。

「あの番組を見たなら、きみも知っているだろうが……」とシモンズ。「ここには元々、別の男が住んでいたんだ」

 私は頷いた。「ええ、画家の彼ですね。あなたに多大な影響を与えたと聞きました」

「“影響”なんて生易しいものではないよ」くすり笑う。「彼はぼくの人生をまるで変えてしまった」言いながら、コーヒーを注ぐ。辺りに芳醇な香りが広がった。

 彼は椅子に注意深く、ゆっくりとかけ、「プライベートなことを聞いていいかな?」と、インタビュアーである私に向かって“質問”を切り出した。

「きみはご結婚は?」

「一度しました。もうずっと昔に離婚を」

「お子さんは?」

「高校生になる娘がひとりいます」

「娘さんか……」彼は柔らかく目を細めた。「知っているだろうが、ぼくには子供も配偶者もいない。そういう普通の関係性とは無縁な人生だ」コーヒーに口をつけ、ほっと息をつく。「さらに言えば、女性との交わりもない。ぼくはこの年まで童貞だよ」

 さて、こういうときには何と言うべきか。私はとりあえず「そうですか」と頷いた。

「一度だけ、若い頃に金で女性を買ったことはあるが、それ以外の経験は皆無だね」

「あなたはそうした関係性に興味がないのですか? 例えば……女性が好きではないとか」

 すると彼は短く笑い「女性は好きだ」と答えた。「特にきみのような美しい女性は」

「ではなぜ独身を貫かれたのですか?」

「好きでこれを選んだわけではないのだよ」

 老人は軽く肩をすくめた。それは私にとって意外な答えだった。世捨て人とされる彼の生き方は、まさしく選んだものに他ならないと思ったからだ。

「それはどういうことでしょう?」

「彼に出会ってしまったんだよ。さっき言った通り、ぼくの人生はそれによって変わってしまった。彼と出会いさえしなければ、今頃ぼくは、子供や孫に囲まれるような普通の暮らしをしていたことだろう」

「その話を聞いてもいいですか?」

「もちろん」老人はニンマリと笑みを浮かべた。「クリスのことはいくら話しても話し足りないよ」




 少し話を聞いただけで分かった。これはとても一日では無理だ。このストーリーを正しく理解するには、もっと長い取材期間が必要となる。

 会話の途中、「人と話をするのは久しぶりだ」と彼は言った。

 老人のひとり暮らしは寂しいものだ。この画家も多分にもれず、自分の話を聞いてくれる誰かを欲しているのかもしれない。

 改めて取材の延長を申し出ると、彼は「喜んで」と受け入れてくれた。

「このインタビューはいつまでかかるかな?」

「できれば数日……“もういい”と思える時までお願いできればと」

 この曖昧な回答に、シモンズは「素晴らしい」と大きく頷いた。

「芸術活動においてはタイムリミットなど設けるべきではないからね。何かの答えを得るにはそれなりに時間がかかるものだ」

 これはまだ取材の段階なので、果たして“芸術活動”のカテゴリに属するかどうか。私は礼を述べ、「ではまた明日」と席を立った。

「そうです」とシモンズ。「ではまた明日に───お待ちしています」

 そして丁重なホテルマンのように会釈し、私を見送った。




 インタビューをテープ起こししながら、コーヒーとマフィンのディナーを胃に詰め込む。娘は春休みで家にいない。夫の家から国際交流のボランティアに通っているため、ここ数日の我が家の夕食はずいぶん適当なものになっている。

「きみがもしクリスと街で出会ったら」とシモンズ。イヤホンで聞く彼の声は、実際のそれより高く聞こえる。「きっと振り向いて彼を見つめたことだろう。クリスと外出すると、よく女性が彼のことを見ていた。ぼくはそれに嫉妬もしたが、同時に誇らしい気持ちになったものだった」ここで私の相づちが入る。私は自分の声があまり好きではない。

 シモンズは歌うようにして言葉を続けた。「クリスは素晴らしい肉体と、素晴らしい精神を持っていた。他の誰とも似てはおらず、唯一無二の存在だった」

 偉大な者を知る者は、誰しもそのように思うものだ。性格にシニカルなところがある私は、シモンズのように何かを純粋に、手放しで褒めちぎることができない。娘を出産したとき、その顔立ちについて私がコメントしたところ、母は「親のくせにそんな意地悪を言うものじゃない」と私を叱責した。こちらとしては意地悪を言ったつもりは毛頭なく、ただ率直な感想を述べただけだ。しかし母によると、親は娘のことを『世界一』と評するべきであり、決してネガティヴなことを口にするものではないらしい。それが愛情というものだ、と。もしかしたら母は正しいのかもしれない。私の娘は思春期を経、自分がレズビアンであると告白し、今では私のことを嫌っている。

 私の母が定義するところの“愛情”を、まさしくシモンズは持っている。彼が語るクリスはとにかくもって素晴らしく、それはもはや神格化されているといってもいいだろう。いくら話しても話し足りないとの言葉通り、シモンズは途切れなくクリスのことを喋り続けたが、私はその都度、「そのときあなたはどう感じたのですか?」と、話の焦点をシモンズ本人へと戻さねばならなかった。私が書こうとしているのはクリスのことではない。この取材はシモンズのためのものだ。天才の影に生きた男に、私は興味がある。しかし老画家は、クリスへの賞賛をやめようとはしなかった。

 そこで私は、かつてカソリックのシスターにインタビューしたときのことを思い出した。そのときもまったく同じだった。シスターは神への愛と信仰を語りはするものの、個人の幸福についてはまるで何ひとつ、話すべきことを持っていなかったのだ。神に身を捧げるとは、おそらくそういうことなのだろう。

 そのシスターはこう言っていた。「仕方がないわ。私、神様に出会ってしまったんだもの」

 ある日突然、何かが起き、人ひとりの人生をまったく変えてしまう。それはまるで交通事故などのアクシデントと同じように、私には思える。“仕方ない”と言う彼らの表情は、一様に光り輝き、幸福そうな笑顔で、己の人生を受け入れている。私はそうしたアクシデントにこれまで遭遇したことはない。学生結婚したのは自ら望んでのことで、後に離婚したときでも、その選択は自分にあった。今の仕事を選んだことも、一人で子供を育てるということも、自分ひとりで決めたことだ。重大な決定において、“やむなく”ということは、私の人生には存在しない。周囲の状況や物事に流されたり、決意の所在をうやむやにすることは、心の弱さを現しているかのようで、私は好きではなかった。だからこそ私は常に選択する立場をとってきたし、またその主導権を誰にも(神にも!)明け渡してはこなかったのだ。それが正しいことだと思うし、また幸福につながるものと信じている。

 ICレコーダーは順調に動いている。ゴーストの声など、どこにも入っている様子はない。きっとあの老人は、私のことをからかったのだろう。

 たとえICレコーダーとて、順調なものがひとつでも多いのは幸いなことだ。マンハッタンにそれを見つけることは時に困難なのだから、この小さな幸福にも、私は満足を覚えることができる。




 カソリックのシスターの話をすると、シモンズは「よくわかるよ」と頷いた。

「きみの言う“交通事故”というのもね。よくわかる。あれはまさにそんな感じだ。これまでダンプカーにはねられたことはないが、似たような衝撃なんじゃないかと思えるくらいだ」

 彼のウイットに私は笑い、「それは凄まじいですね」と感想を述べた。「私にはそうした体験はありませんから……もちろんダンプカーも」

「それは何よりだ」シモンズは歯を見せて笑った。それは一本も欠けておらず、年の割には美しい歯をしていた。

「しかし今後はどうだかわかりませんよ」とシモンズ。「ある日突然、あなたの人生にも何かが起きるかもしれない」

「ダンプカーのような存在に出会うことがあるかもと?」

「ないとは言えないでしょう」

「どうかしら……私はもうあまり若くはないですし、自分の信仰も決まっていますから」

「こうしたことに年齢や宗教は関係ありませんよ」

 そこで私は、これまでの人生を彼に話して聞かせた。常に選択する立場をとり、“やむなく”ということが存在しないことなどを、ざっくり簡単に。

「……ですから、私にはそうしたアクシデントは起こりにくいように思えるんです。奇跡のダンプカーが入り込む余地がない人生……。でもそれが幸福につながるものだと、私は信じているんです」

「幸福につながる?」老人の瞳がきらりと光った。「それでは今きみは、現時点で幸福ではないと?」

「いえ……そういう意味では……」言葉尻を捉えられ、私は困惑して言った。「私は幸福だと思います」

 老人は笑い、「幸福かどうかは“思う”ものではないよ」と言う。そして真顔になり、「心から幸せだときみは言えるかね? 今ここで。ぼくの前で」と、私の顔をじっと見つめた。

「さあ、言ってごらん。『自分は心から幸せである』と言えるかね? さあ───」

 結局、私はその台詞を口にすることができなかった。そこで私はインタビュアーらしく、こう切り返す。

「あなたはどうですか?」こちらも彼の顔をじっと見つめる。「あなたは今、幸福なのでしょうか?」

「ぼくは幸福だとも」にんまりと笑う老人。

「クリスを失っても?」

「むしろクリスと暮らした時期は“幸福を感じる”どころではなかったね。単に無我夢中といった感じで。今にしてみれば他にやりようがあったのかもと思えるが」

 論点がズレた。私はもう一度、質問をする。

「シモンズさん。あなたは今、幸福なのでしょうか?」

「ぼくは彼の体内にいる」言って、彼は両腕を広げた。「これが幸福でないとしたらいったい何だというのかね?」




 このインタビューと同時進行で、私はクリスのことも調べ始めた。さすがはカリスマ画家。探そうと思えばいくらでも情報を得ることができる。

 ネットの検索で出てくる主な写真は二十代のもので、失踪間際、三十代後半に入ってからの映像はほとんど残っていない。精神病院から退院した後は(彼は芸術家らしく心の病を持っていた)、ほとんど取材らしい取材には応じていないこともわかった。

 写真で見るクリスは、くっきりとした目鼻立ちの人物で、見るものに強い印象を残す顔をしている。間違いなく彼はハンサムだ。もしこんな瞳に真正面から見据えられたら、ティーンエイジャーではない私だとても、平静な気持ちではいられないかもしれない。

 ネットに流出している動画で、ひとつ興味深いものがあった。それはインタビューの映像で、彼が自身のアトリエについて話しているものだ。

「このアトリエは特別な場所だ」とクリスは語っている。「ある時間になると、窓から夕日が差し込む。血の色にそっくりな真っ赤な日差しだ。きみもあれを見たらわかるだろう。どうしておれがあの部屋にこだわり続けているかが」

 これについては、シモンズも同じことを言っていた。「夏が来れば、この部屋の特別さがわかる。なぜここが“暁の部屋”と呼ばれているのかが───」

 日差しの加減で部屋の印象が変わるというのはよくあることだが、それだけで“特別”というのはいささか大げさな気がする。それにいくら夕焼けが濃くても、“血の色にそっくりな真っ赤な日差し”というのはあり得ない。カーテンか、もしくは表の看板か何かが反射して、部屋を朱に染めるのだろうか。それとも芸術家の目には、陽の光がそのように写るのだろうか。

 今は五月の半ば。本格的な夏が来るまでには、まだ日がある。それまでに私は取材を終え、あの“暁の部屋”には、戻ることはないだろう。





 おとぎ話を待つ子供のような面持ちで、シモンズは会話をスタートさせた。「今日は何を話そうか?」と、身を乗り出さんばかりの彼を見、私は申し訳なさを感じている。これから聞こうとしているテーマは、彼にとって愉快な話ではないだろうから。

「クリスが消えた後のことを、お聞かせ願えますか」

 すると思った通り。老人の顔から笑みが消えた。

「彼の失踪について……あなたは何かご存知なのでしょうか?」

 シモンズは顎に手をあて、ウーンと唸るような声を発した。

「まあ、聞かれるだろうとは思っていたが……」と弱々しく笑う。「正直、きみに何を話したものか……」

 どうやら彼は困っているらしい。でも今さら何を? これまで様々なことを話してくれた彼が、ここへきて何を躊躇しようというのだろう。

 私はごくりと唾を飲み込んだ。

「シモンズさん、私はこの話を誰にも他言しません。確かに書き残そうとはしていますが、これはドキュメンタリーではなく、創作小説の形で発表するつもりです。ですからあなたが……たとえ彼の失踪に深く関わっていたとしても、私はいっさい……」

「ぼくが壁の中にクリスを塗り込めたとしてもかね?」

 私は再度、唾を飲む。「塗り込めたのですか?」

「いいや」老人はにこっと微笑んだ。

 私は深く息をはきだし、手を使わずにハイヒールを脱ぎ捨てた。シモンズの無遠慮な視線が、私の足に触れる。

「私はただの作家です。ここに取材に来ているのです。あなたを告発しに来たわけではありませんし、言いたくないことを無理に聞き出そうなどとは思っていません。ただ……」私は言いよどみ、言葉を探した。シモンズはそれを逃さず、「ただ?」と、先を促しにかかる。

「ただ……残念ですわ。せっかく私たち……これまでいろいろ……」

 うまい言葉が見つからない。これではインタビュアー失格だ。いくら本職ではないとはいえ、肝心なところで口ごもってしまうとは。しかしシモンズは私の言わんとすることが分かったらしい。「そうだね」と頷き、「隠し事は我々の友情に対し、失礼にあたる」と言った。

 それは私の考えのずいぶん先を行っている。ニュアンスとしては彼の解釈で間違いはないのだが、一足飛びに“友情”と括られるのは、些か性急な気がした。私はこれを“友人関係”とまでは思っていなかったのだが。

「ぼくは別にきみに隠し事をしようと言うのではない。この取材を受けると決めたときからね、そんなつもりは最初からないんだ。ただ、この件をきみに分かるように話すのは難しいと感じているだけなんだ」

 おや、それはずいぶん侮られたものだ。私は彼に「そんなに難しい話なのですか?」と聞いた。

「難しいというか、聞いてもよく分からない話だ」

「ぜひ聞かせてください。そしてもし分からなければ質問をさせて下さい。それでも分からなかったら……」

「分からなかったら?」

「“分かろう”とすることを諦めます」

 シモンズはその回答が気に入ったらしい。口が耳まで割けるかのような笑みを浮かべ、「きみは本当に頭がいい女性だ」と、褒め言葉を口にする。

「しかし頭がいいと、この話は見えてこない」

「ここは理解することが重要な章なのですか?」

「いや、“理解を手放すこと”が重要な章だ」

 まるで禅問答のようだ。シモンズは「できる限り正確に話したいと思っているんだ」と言う。「できる限り、きみに正しく伝えたいと思っている。ぼくは思った。そろそろ誰かに秘密を分かち合う時期なのかもしれないと……」と、ここまで言って、彼は軽く笑い声を立てた。「うん、これはクリスが言った台詞だったよ」

「えっ? どれがですか?」

「“誰かに秘密を分かち合う時期なのかもしれない”───彼はぼくにそう言ったんだ。思い出したよ。懐かしい!」

「あなたはその秘密を?」

「ああ、分かち合ったとも」

 私は心臓の高鳴りを覚えた。今、この画家は、私に秘密を分かち合おうとしている。それはいったいどのようなものなのか。きっとこれは誰も知らない(失踪したクリスを探した警察や探偵ですらも!)極秘情報に違いない。

「クリスもあなたに伝えるのを苦労したのですか? あなたが正しく理解するまでにはどれくらいかかりましたか?」

「彼はぼくとは違う。正確に話そうとか、正しく伝えたいとか、そういう心配はしない男だ」

「ではあなたはどうやって……」

「ぼくは幸運だった。それを体験できたのだから」

 奇妙な会話だ。さっきから主語がなく、何もかもが暗号めいている。時間を多くとったとはいえ、彼の大仰さに付き合うのはどうにも面倒だ。私は単刀直入に「クリスはどこに消えたのですか?」と、まず結論から聞くことを試みた。

 シモンズは「今ぼくが言えるのはこうだ」と前置き、深い声でこう言った。「彼は向こう側に行ってしまった……ということだ」

「向こう側……?」

 私は無意識におうむ返していた。それについて説明があるものだと思っていたが、シモンズは微妙に答えを避ける。

「彼が消えた後は、しばらく恋しくてね。よく泣いたものだ」妙に明るい口調。これはわざとだろうか?「本当に寂しくてたまらなかった。ぼくは精神的に弱い男なんだ」

「あの、お話の途中で申し訳ないのですが……“向こう側”とは、どういう意味でしょうか? 何かの比喩とか……そういうことですか?」

「比喩ではない」画家はきっぱりと言い放った。「事実、彼は向こう側に行き、そして戻ってきてくれたんだ。姿はなかったが、ぼくにはわかった」

 “姿がない”というのはゴーストということだろうか。だから録音機材に幽霊の声が入ると? その疑問を口にすると、彼は「いや、そうではない」と否定する。

「幽霊ではないよ。そんな不確かな、頼りない存在ではないんだ。あれは何と言ったらいいのかな……」そして考え込む表情。何かを誤摩化そうとしている様子ではない。

「クリスが戻るまでの日々はとにかく寂しかった。なんとか部屋の中に彼の面影を見つけようと、やっきになってね。愛用した画材、衣類、寝具……髪の毛の一本でも落ちてやしないかと、床を這いつくばって探したりもした。寝付かれない夜には、彼を想ってマスターベーションを……こういう話は不快かな?」

「いいえ、続けてください。興味深いわ」

「興味深いか」生意気な小娘の言葉をくすりと笑い飛ばし、「では赤裸々に話をするとしよう」と改めて宣言する。

「ぼくは彼が恋しかった。瞼の裏には彼の存在が焼き付いている。とりわけ、彼の裸体がね。創作活動のほとんど時間を、彼は裸で過ごしたんだ。それはまるでギリシャ神話の彫像のようだった」

 雑誌に掲載されていたクリスの写真。あの男が裸で暮らしていたというのであれば、確かに。瞼に焼き付いても不思議のないことだろう。

「ときには彼の枕を彼の身体に見立て、ペニスを押し付けてオナニーをした。射精した後はいつも泣いたよ。ぼくは本当に孤独だった」

 生々しい話ではある。しかしどこか滑稽ともとれ、書きようによっては面白くなるかもしれない。

「クリスとあなたは肉体関係があったのですか?」

「いや」と短く否定。さらに続けて「それはなかった」と再度、否定。「彼がこの部屋に住んでいたとき、一度だけ求めたことがあったが、あっけなく拒絶されたよ。ばしっと一発殴られた。そして“出て行け”とね。まったくみっともない話だが……」若き日の過ちを恥じいるように、頭を振って苦笑する。「だがそれでも、彼はぼくを拒絶したわけではなかったんだ。後になって、電話でぼくを呼び戻してくれた。他の誰でもなくぼくのことを。そして彼は消え……この部屋に戻り……」遠くを見つめる眼差しで彼は言った。「クリスがいなくなってしばらくしてから……ぼくたちはまさしく愛し合うようになったんだ」

 “いなくなってから愛し合う”───それは言葉として既に矛盾がある。“いなくなってから愛す”ということはできても、“愛し合う”ことはできない。ふたりのうち片方がこの世にいないのであればそれは不可能で、“愛し合う”というのは、残された者の自己満足にすぎない。シモンズはまさに“自己満足の人”であるため、このような表現も可能なのだろう。

「彼の存在に気づいてからというもの、ぼくの生活は一転した。いや、生活そのものはそう変わらなかったが、“意識”がね。パチッとスイッチしたかのようだった」言って、指をパチンと鳴らす。「それまで形見のようにしていた彼の枕や毛髪。そうしたフェティッシュはもう必要がないと気がついた。なぜならこの部屋が彼自身に等しい。この部屋に居る以上、ぼくは彼と離れることはないのだと理解した。ぼくは彼の体内にいた。かつて彼の肉体は神殿だった。そして今、ぼくはその神殿の中にいる」

 なんというドラマティックな展開。これはストーリーを執筆する上でのキーポイントとなるだろう。私の作風には向かないかもしれないが、読者はきっとこの表現を好ましく思ってくれるはずだ。

「今もそうだよ」と、シモンズは微笑する。「今この瞬間も、ぼくはクリスの中にいるんだ……」そしてうっとりと目を閉じた。

 世界が体内であるという考え方はなかなか面白い。この部分はインド哲学でも絡めて書くのもいいだろう。沈黙する彼にふと気がつく。見ると老人は勃起しているではないか。これにはさすがに参った。いくら赤裸々に話そうとはいえ、ここまでくると不愉快以外の何ものでもない。ジャーナリストとしては、これも書くべきだろうか? ゴシップ的かつ低俗な意味合いが強まるのはあまり歓迎されたものではないのだが……。




 元夫から電話があったのは、その夜遅くのことだった。用件はいつも通り、「養育費の支払いを少し待ってもらえないか」というものだ。私はいつも通り承諾し、娘は元気にしているかと聞いた。

「ああ、とても元気だ」と元夫。「ボランティアも順調なようでね、とても楽しそうにやっているよ」

「それは楽しいに決まってるでしょう。大嫌いなママから離れて羽を伸ばしているんだから」

 私の言葉に元夫は「大嫌いだなんて、そんなことはないさ」と、優しく言った。

「そんなことはあるのよ」と、私。「あの子に聞いてごらんなさい。喜んで私の悪口を並べ立てるでしょうから」

「そうシニカルになるもんじゃない」元夫は優しく笑う。「きみの方はどうだい? 仕事は?」

「おかげさまで順調よ」

「今は何を書いているの?」

 元夫は元編集者でもある。別れた妻に恋人ができたかどうかはどうでも、執筆活動については気にかかるようだ。私はシモンズのことを話した。彼のことをベースに小説を書くつもりだと言うと、元夫は「いいね」と軽く言ってのける。「それはランボーとヴェルレーヌみたいな話になるのかな」

「どうしてそう思うの?」

「だって彼らはアレだろ……つまり……」彼は言葉を濁した。

 要するに、そういうことなのだ。私の書こうとしているものは、元夫のような人からすれば、“単なる同性愛の物語”として片付けられてしまう。

「あなたが言うように、ゲイの文化人の話は多くの人が興味を持つかもしれないけど、あいにく私が書きたいのはそれじゃないのよ」

 私が険しくそう言うと、元夫は「まあ、とにかくきみはいつも目のつけどころがいいと思うよ」と、何だかよくわからない締めくくり方をした。

 老いたホモセクシャルが、輝かしい青春時代を懐かしんでいる。下らないと言ってしまえば、それまでだが、そもそも誰の人生もこうしたものだ。下らないと言えば、下らなく、かけがえがないと言えば、そうなる。そして作家の使命は、“それをいかに価値のある読み物にするか”ということ。私はクリーヴラント・シモンズの話を書くと決めている。




「きみはなぜ、ぼくに興味を持ったのかな?」

 シモンズはそう私に質問をした。ときどき彼はインタビュアーの立場をとる。彼の言うところの“友情”がそうさせるのかもしれない。

「ケーブルテレビのドキュメンタリーを見て」と説明すると、シモンズは「そうじゃなくて」と笑った。

「“なにがきっかけで?”と聞いたんじゃない。“なぜぼくでなければならなかったのか”と聞いている」

 老人の目が鋭く輝く。これが“良い質問”であることを、彼は確信しているらしい。

「私は……興味を覚えたんです」

「興味。何に?」

「天才と呼ばれる男の隣に居たあなたに」

「天才には興味を覚えなかった?」

「確かにクリスは素敵ですわ」私はシモンズに同意するようにそう言った。「でも彼のことを書いた書物は他にもありますし、今後それを書こうとする人も多くいるでしょう」

「ぼくのことはあまり取り上げられないから、それで興味を?」

「もちろんそれだけじゃありません」

「では何かな? ちなみに現時点できみはほとんど何も答えていないね。ぼくが聞きたいのは“なぜクリスを取り上げなかったのか”ではなく、“なぜぼくの方を取り上げたのか”ということなんだが」

 彼の質問は矢継ぎ早だ。私は熱を感じ、深く息を吐き出した。靴はとっくのとうに脱いである。

「シモンズさん、あなたの質問は少し難しいわ」私は正直に降参した。

「そうか、じゃあぼくはインタビュアーには……」

「ええ、あまり向いていないと思います」

 私たちは一緒に笑い声を立てた。風がふわりとカーテンを持ち上げ、穏やかな時間をひととき演出する。

「いや、しかし自己弁護するわけじゃないがね、これはぼくの質問が悪いんじゃない。きみが質問の答えを持っていないのがいけないんだよ」

「あら、私がいけないんですか?」

「そうだとも」シモンズはコーヒーに口をつけた。今日のように暑い日には、私はアイスコーヒーが欲しいものだが、彼は温かい飲み物に執着があるようだ。

「もしきみが答えを持っているのなら、最初に質問された段階で、既に答えていたはずだ。きみは頭がいいのだから、“ケーブルテレビを見て”などというのが本当の答えではないとわかっているはずだろう」

「それは買いかぶりですわ。私は本当に勘違いして……」

「質問の答えは?」

 私は窮して言った。「……わかりません」

 シモンズはしたり顔で「そうだろう」と微笑む。

「きみのように賢い子は、“わからない”ということを認めるのが難しいだろう。それはかつてぼくがそうだったようにね」

 ようやく彼がしゃべる番だ。私は意識を自分から彼へと戻した。

「ぼくがこの部屋に来たばかりの頃もね。そうだった。自分がここに来た目的がわかっていると思っていた。“自分には使命がある”“ここで成すべきことがあるのだ”と。そんな風に思っていたよ」

 使命? 私にとってこの取材はそれほど純粋な話ではない。きちんと慰謝料も払えない元夫。そして娘の留学には金がかかる。もっと俗な理由も絡んでいるのだ。シモンズは我々の関係を“友情”と呼んだ。どうも彼は純粋なものの見方を好むようだ。

 今一度、「きみは頭のいい子だ」とシモンズは言う。「だけれど、ぼくとクリスのことを知ろうと思うなら……この暁の部屋の秘密を解き明かそうと思うなら。きみの賢さは、むしろ邪魔なものになるだろう」

 私は別に“秘密を解き明かそう”と思っているわけではない。しかし興が乗った彼の話の腰を折るべきではないだろう。

「この部屋にクリスと暮らしていたとき。ぼくは自分の持っている物差しで、起きる出来事を計ろうとしていた。自分の古い辞書から単語を引き、その意味を“あてはめよう”とした。それはすべて無駄なことだったよ。ここで体験したことは、ぼくの辞書にはないものばかりだったから。聖書にもあるだろう。『新しいブドウ酒は新しい皮袋に』」

 彼の言葉は具体性がなく分かりにくかったが、つまりはこういうことだ。『小娘よ、わかった気になっていると、新たな発見を見逃すぞ』。

 そこで私は従順に、「ではどうしたら、正しく取材をすることができるでしょうか?」と彼に問うた。もしシモンズがその答えを持っているなら、ぜひとも聞きたい。私はここに遊びに来ているわけではないのだから。

 シモンズは答えた。「きみはここに泊まるといい。この部屋の魔法は夜と夏の間に起きる。ぼくはしばらくそれを体験してはいないが……きみが来てくれたのだから、また奇跡に出会うことができるかもしれない」

 私が? ここに? あなたと一緒に?

 シモンズがゲイで、女に興味がないとしても、独身女性がひとりで男の──しかも些か変わった老人の──部屋に泊まるというのは、あまり常識的な話ではない。

「ここに泊まって、体験を得ることにより……きみがやって来た目的を見つけられるかもしれないよ」

 シモンズは微笑んでいたが、私の顔にそれを浮かべるのは難しかった。それに“目的を見つける”というのはおかしな話ではないか。私の目的は最初から明確だ。彼を取材するためにここに来ている。語りを本にし、食いぶちにする。若きシモンズがこの部屋を訪れたのとはわけが違う。私は画家の後継者ではない。

 あれこれ考える私に、彼は「考えて分析することではない」と言った。「考えではなく、体験がすべてを───すべてを与えてくれるのだ」

 “体験”とは何を意味しているのだろう。先日の勃起と関係のないことであればいいが。

「ここには寝袋もある。ぼくがそれに寝て、きみにベッドを明け渡してもいい」

「それはできませんわ」私は失礼にあたらない言い方を探した。「いくらなんでも……」そしてすぐに言葉に詰まる。こういうところが自分は駄目なのだ。

 その後のインタビューは順調に進んだ。いつもはクリスの話題が多いのだが、この日は彼が育った環境について語ってくれた。シモンズの兄や両親。学生時代のこと。私が聞きたかったのはこういう話だ。謎かけ的な会話も悪くはないが、それを意味のあるものとしてまとめるのは骨が折れる。

 取材を終えて、帰ろうとしたところで、シモンズがまだ何か言いたそうに、もじもじしていることに私は気がついた。彼は玄関先で「どうかきみに残ってもらえたらと……」と、本心を切り出した。

「本当に泊まってみる気はないか? きみに神秘を体験させてあげることができるかもしれないのに?」

 くどき文句としては残念なレベルだが、どうやら彼は必死なようだった。私は再度、丁寧に辞退を述べる。神秘とやらが何かは分からないが、私には今日の取材で充分満足だ。そう言っているのに、彼はまだブツブツ言っている。──なぜだ、せっかくなのに、きみはチャンスを棒に振るのか。

 あまりのしつこさに、私はとうとう「なぜそんなにおっしゃるのですか?」と聞いてみた。「“神秘”とはいったい何のことです?」

「体験しなければわからないことだ」

「私にどんな体験ができると?」

「それは教えられない」

「だとすれば無理……」

 シモンズは突然、私の腕を掴んだ。「……彼が戻ってくるかもしれない!」目を見開き、叫ぶように言う。

 皺だらけの手。そこには老人斑があった。私は反射的に顔をしかめてしまう。これが若くて美しい男性であったら、そういう表情はしなかったことだろう。失礼なことだとは思うが、それが偽らざる正直な感想だ。やはり私は彼に対し、友情とはほど遠い感情を抱いている。

 こちらの不快を見てとったか、彼はぱっと手を離し、「わかった」と静かに言った。「いや、失礼をした。どうか気にしないでくれ」そして顔の前で手を振る。追い払うかのような仕草に私は少し腹が立ったが、彼は孤独で気の毒な老人なのだから、と自分に言い聞かせた。

 孤独で気の毒な老人。“彼”は戻ってこない。“神殿の中にいる”と言うものの、やはりシモンズは人恋しいのだ。

 ここに泊まることでクリスに会えるのなら、私は何日でも滞在しよう。しかしそんな奇跡は起こらない。老人はただ夢を見ているだけだ。もし私が泊まって、その奇跡が起きないとしたら───そっちの方がもっと哀れだ。せめて彼には夢を見るだけの余地を残してあげたい。クリスが現れないのは、この頑固な女ジャーナリストが宿泊を拒否したせいだと思わせておけばいい。

 今日はいい取材ができた。そしてとても疲れた。早くベッドに潜り込みたい。夢も見ずに眠りたい。老画家の望みと比べ、私の願いはなんとつましやかで些細なものだろう。




 次にシモンズを訪れたとき、彼は表通りに座っていた。部屋から椅子を持ち出し、その横にキャンバスを立てかけて。私を見つけると「やあ」と言った。

「こんなところで失礼。今日のインタビューは野外だ。きみのぶんの椅子も、それ、そこに用意してある」

 私は困惑して彼に聞いた。「いったいどうしたんですか? ここで何を?」

 シモンズはキャンバスを手に持ち、「困ったことになった」と言った。キャンバスには赤い文字で『取り壊し反対!』と書かれている。

 つまりこうだ。彼の住むアパートは近々、取り壊されることが決定した。理由は老朽化のため。しかしシモンズの考えでは「修繕をすればまだまだ保つ」とのこと。

「これを壊すだなどと、とんでもない話だ。建物の歴史的価値をまるで考慮に入れていない」

 そこで彼はストリートに出、反対の旨を主張することにしたのだそうだ。

「こんなことは許されない」と彼は言った。「きみもそう思うだろう?」

 私は返す言葉を持たなかった。

「今日の取材はここで受けよう。これも記事にするといい。“アーティストは非暴力を貫いた”とね」

 彼の言葉ではないが、これは困ったことになった。私が書きたいことと、テーマがずれてきている。しかしそれは仕方のないこと。『起きた現実がテーマとそぐわないから、書き換えてくれ』と言うわけにはいかない。こんなことになったというのに、老人ははつらつとした表情を浮かべている。この“ひとりきりの反対デモ”に、興奮しているかのようだ。

 三日後、メディアが早くもこれを捉えた。タイトルは〈アートの歴史を守る画家〉。夕方のニュースで彼は取り上げられ、インタビューのマイクが向けられた。誰が持ってきたのか、小さなアメリカ国旗と、クリスの絵のレプリカが傍らに置かれている。

「ここは偉大な画家が住んでいた場所だ。解体するのは間違っている」シモンズはそう主張する。「建物はまだ百年も経っていない。地下鉄はしょっちゅう工事やら修繕やらをしているのに、芸術に対する敬意はこれっぽっちも持ち合わせていないのか?」

 テレビに写る彼は、実際よりも太って見えた。

 電話が鳴り、それに出る。編集長からだ。「あれはきみが書こうとしている画家の老人か?」と聞くので、そうですと答える。すると編集長は、少し出版を早めようと提案してきた。話題性のあるうちに本を出したいと言うのだろう。せっかくじっくり取材しているものを、版元の都合で早々に切り上げろというのは、まったく気乗りがしない。だいたい私はこういう形でシモンズに有名になって欲しくはなかった。このニュースが広まれば、興味本位で取材しようという輩が、他に出て来ないとも限らないのだ。

 画面の中から、声高にシモンズは唱える。「これを国家的事件とまでは言わないが、少なくとも若いニューヨーカーには関心を持ってもらいたい。ひとりの男にとっては小さな痛手だが、アーティストたちにとっては大きな損失だ」

 かの有名なアームストロング船長の名言を引用し、彼は世間の目を引いている。果たしてこれで何らかの効果を生むことができるのだろうか。座り込みを敢行する老画家。確実に言えるのは、“今が暖かい季節でよかった”ということぐらいだ。




 折り悪く風邪をひいたことと、娘が帰ってきたことも手伝って、私はシモンズのところに通うことをやめていた。彼は「元気になったらいつでもいらっしゃい」と言ってくれたが、あの一件以来、私はすっかり気をそがれてしまった。『まだ誰も着目していない』と思っていたアイディアにスポットライトを当てられ、私の創作意欲は減少した。世間が彼に注目したのは、出版社にとっては喜ばしい話だろうし、編集長の言う通り、いま彼のことを本にしたら売れるのかもしれない。しかしそれは私の意図と大いに違う売り方になるだろう。

 風が強い。妙に寝付かれない夜だった。枕元で携帯電話が鳴った。発信者はクリーヴラント・シモンズ。彼が私に電話をしてきたのは初めてのこと。しかも夜中の二時に。

「こんな時間に済まない」とシモンズ。とんでもない非礼だということは、理解しているようだ。

 切迫した声で彼は言う。「どうにか奇跡が起きないかと待っているんだが……」

「シモンズさん」

「クリスは現れない。ぼくの何がいけないのか」

「シモンズさん、落ち着いてください」

「彼を愛しているんだ」

「ええ、わかります」

 老人はすすり泣いていた。

「私に何かできることはありますか?」そう聞くと、彼は「ここに来てほしい」と言う。それは予想できた答えだった。

「きみは作家だ。アーティストだ。きみの生気が奇跡を呼ぶだろう」

 シモンズはクリスを欲している。私を泊めたがったのは、クリスを呼び寄せんがためだ。まったくわけがわからないが、彼にとっては正しい何かなのだろう。

「すぐに行きます。あなたはそこでじっとしていて。表に出てはいけませんよ」

 電話を切ってすぐ、服を身につける。化粧のことは気にしなかったが、ICレコーダーは念のため上着のポケットに入れた。

 シモンズは私を欲しているのではない。待っているのは“奇跡”。そして最愛の男。それでも私は彼の元へと駆けつける。なぜ?と聞かないで欲しい。私は質問の答えを持っていない。それに私のような“賢い子”は、考えることを手放さないといけないらしい。暁の部屋の秘密を解き明かそうと思うなら───今タクシーに乗っているのは、そういうことだ。




 ノックするまでもなく、扉は開いていた。どうやらシモンズは、鍵もかけずに私のことを待っていたらしい。何本も蝋燭を立てた室内を、下着姿でオロオロと歩き回っている。私に目をとめると、ぎょっとした顔をし、「どうやって入ってきた?」と聞いた。

「そこの……玄関から」

「それはわかってる」教師のような厳しい表情をして、歩み寄るシモンズ。「どうやって鍵を開けた?」

 まるで叱るかのような言い方に、私はたじろいだ。呼ばれて来たというのに、これはどういうことだろう。

「あの……鍵はかかっていませんでしたわ」

「かかっていない?」

「ええ。ですから私、入ることができたんです」

 そう言うと、シモンズの表情はゆっくりと変化した。疑い、戸惑い、驚き、そして喜色満面───。

「そうか!」シモンズは両手を広げ、大声をだした。「開いていたんだな!? 扉が! 開いていた!」そして大声で笑い出す。

 なにがどうなっているのか把握できないでいる私に、彼は「クリスだ!」と破顔して言った。

「クリスが扉を開けた! やっぱりだ! きみを呼んでよかった!」

 これをどう解釈したものか。彼は芝居をしている風ではない。とすると、本当にクリスが鍵を開けたと思っているのか。

「さあ、こっちに来て。座ってくれ」

「その前に……何かお召しになって。そんな格好でいると風邪をひきますよ」

「ぼくは大丈夫だ」自信たっぷりにシモンズ。「もっと寒い時期に裸でいたこともあるが、この通り長生きしているよ。クリスもね、よくこういう格好をしていた」

 それは前にも聞いた。彫像のように美しい身体だったと。目の前の老人は冷蔵庫の中で忘れ去られたベーコンのような皮膚をしている。

「風邪の心配だけではありませんわ。私……目のやり場に困ります」

「きみは本当に昔のぼくにそっくりだな。当初はぼくもクリスの裸に戸惑った。それに病気のことも。彼は冬でも裸で雨に打たれていたからね。肺炎になるんじゃないかと心配したものだ」

 若いクリスと今のシモンズでは条件が違う。クリスはそれで健康を保てたかもしれないが、この老人に肺炎は命取りだ。

「シモンズさん、お願いですから服を……」

「肉体は神殿だ! 何も気にすることはない!」

 これは何を言っても無駄なようだ。私は大人しく椅子にかけた。

「さあ、次なる展開をごろうじろ! きみは神秘を目撃するであろう!」

 オペラ歌手のように目をむき、シモンズは高らかに宣言した。長い夜になりそうだ。




 空が白み始めた。ニスの剥げたテーブルを見つめながら、シモンズは言う。「きみはぼくの頭がおかしいと思うかね……?」そして私が返事をする前に「そう思うのも無理はない」とかぶりを振った。「ぼくも当初はクリスのことを……」

 あれから三時間以上が経過したが、神秘らしきものは訪れない。シモンズの声は弱くなり、部屋の蝋燭はあらかた溶けてしまった。

「以前は現れたんだ。ぼくが絵を描くと……」消え入りそうな声でつぶやく。「ぼくの絵に魔法がなくなってしまったからなのか……。せっかく来てもらったのに済まない。きみにクリスを……神秘を体験させてあげることができない……」

「気になさらないで」私は微笑んだが、彼はこちらを見てはいない。「神秘……それは見てみたかったですけど、でも……私はあなたのお話だけで、本当に……それは素晴らしいお話ですもの」

「クリスがぼくに果物をくれた話を?」

「ええ、お聞きしました」

「あれはほんとうに可笑しかった。彼は人に親切にするということがよくわかっていなかったんだ。ぼくにブドウをくれたときも、皿ではなくペーパーパレットにそれを置いて」

 テーブルの角に視線を据えたまま、シモンズはとりとめもなく喋り続けた。初めて聞く話もあり、以前聞いたエピソードもあり……そして彼は“神秘”という名の“生き物”についても教えてくれた。

「あれは不思議なものだった……ロング・ジョン。マミーとチャイルド。そしてキング……ああ、キング。あれが彼を連れ去ったんだ。ぼくは見た。クリスと彼が愛し合っているのを」

 支離滅裂な言葉。アルツハイマーの症状だとは思えないが、正気であると言い切ることもできない。これは私の手にあまる。市に要請して、職員を送ってもらった方がいい。いくら自分が彼に必要とされようと、私はその道の専門家ではない。シモンズの助けになるのはプロのソーシャルワーカーだ。

「ぼくはクリスが恋しい」彼は不意に、涙をぽとりと落とした。「ずっと、ずっと、彼を恋しく思っている。存在が感じられなくなってからは尚のこと。彼が戻ってきてくれるうちはよかった。ぼくは彼と愛し合い、混ざり合い……その甘美さときたら……」

 私は心底、彼を哀れに思った。なぜこんな哀れな老人に、自分は嫌悪感を持ったのだろう。この画家はただの小さな老人だ。皮膚がしなびようと、体中に斑紋が浮かぼうと、それは外見上のこと。その魂は子供のようで、ただひとりの人間を求めている。彼の記憶の中で、クリスはいつまでも若く美しいままだ。色あせることも、古びることなく、才能を欲しいままにして輝き続ける。この空虚な部屋に置き去りにされ、ひとり老いていくのはいったいどんな気持ちだろう。私はそれを書こうとしている。この悲しみを。喪失を。

 朝の光が徐々に強まってきた。窓の方に目をやると、空中には塵が舞い、夜が終わったと告げている。元は白かったとおぼしきオーガンジーのカーテンは、三つ並んだすべての窓にかかっていた。真ん中のカーテンが、ゆるやかに風に揺れている。ゆらゆら、ゆらゆら───。他のカーテンは動いていない。動いているのは真ん中だけだ。よく見ると窓は閉まっていた。

 私はここで何をしているんだろう。こんな時間に、たったひとりでアカの他人の部屋で。心臓がどきどきと脈打つのを感じる。この部屋には私とシモンズの他、誰もいない。間違いなく誰もいないはず。鍵は開いていた。五つある鍵は、すべて開いていた。

「シモンズさん……」発した声はかすれていた。「私……そろそろおいとまを……」カーテンから目が離せない。早くこの部屋から立ち去りたい。

「来てくれてありがとう」とシモンズ。私たちはハグをし、また後日と約束をして別れた。

 外に出ると、空気には朝の香りがあり、通りを挟んだ向かいには、ジョギングをする人の姿あった。オープン前のパン屋は、ガラスの向こうで仕込みを始めている。

 私は意味もなく両手を握ったり開いたりを繰り返した。こうすると緊張が緩和されると、元夫が言っていたのだ。上着のポケットに重さを感じ、手を入れるとそこにはICレコーダーがあった。液晶画面を見ると、それは録音状態になってる。スイッチを入れた記憶はない。

 私は歩きながら、イヤホンを装着した。聞こえてきたのは、サーという川の流れのような静かなノイズ。続け、ごそごそと会話する音。これは私とシモンズだ。私たちの会話は少なく、録音のほとんどはノイズ、もしくは無音でしかない。それでも私は耳をそばだて、録った音を聞き続けた。大通りに出てタクシーをつかまえ、家に着き、ベッドに腰を下ろしても、まだイヤホンは私の耳にある。最後まで聞いたところで、私はようやく我に返った。どうやらそうとうシモンズに感化されているらしい。でなければ、寝不足でおかしなことになっているのかも。これはまったく馬鹿げた話だ。どうしてそんなことを思ったのだろう。“何かが録音されているかも”などと───。

 神秘は私には訪れない。画家は死んだ。戻ってくるなどとはあり得ないことなのだ。




 建物はシートに覆われている。次々に搬入される重機。バリバリと派手な音を立て、油圧ショベルが無慈悲にビルを解体していく。赤く染まる夏を待たずして、暁の部屋は取り壊された。私たちは木の椅子に並んで座り、その様子を眺めている。

「ねえ……クリーヴ」解体の様子を見つめながら、私は友達に話しかける気さくさで、彼に言った。「あなたは“フェティッシュは必要ない”と、私に言ったわね? だとしたら、もはやあの部屋すらも必要ないのでは? クリスはあなたの中に生きている……そんなふうに考えたことはないかしら?」

 私の陳腐な慰めの言葉を、彼はもはや聞いていなかった。ぱっちりと目を開けたまま、まっすぐ椅子にかけたまま、彼は死んでいた。

『ひとりの男にとっては小さな痛手だが、アーティストたちにとっては大きな損失』──結果から見れば、それは逆だ。アーティストたちにとって、この破壊はさほどの損失ではない。しかし彼には、これこそが大きな痛手だったのだ。暁の部屋は単なる思い出の容れ物ではない。あれは老画家のすべてだ。暁の部屋はクリスの肉体。そしてクリーヴの精神でもあった。彼自身とも言うべき、それが壊されたとき……彼は“神秘”へと旅立っていったのだろう。

 私は結局、“暁の部屋”の由来を見ることができなかった。そのことにわずか、安堵を覚える。もし、あの部屋で、“神秘”を体験してしまったら? ダンプカーに跳ね飛ばされるほどの衝撃をこの身に受けたとしたら……自分は今後、言語を使って、理路整然と物語を構築することが不可能になるような気がする。

 なぜ神秘が訪れなかったのか。今なら分かる。“神秘に出会わない”ということ。それが私には重要だった。残されたのは理性ある者。私だけが知っているこの物語を、彼らの絵画を愛した者たちに残そうと思う。ストーリーは二編に分けて執筆しよう。タイトルはもう決まっている。一作目はクリスの物語で『The Room of Crimson(暁の部屋)』、次作はクリーヴの話で『In Secret The Great(イン・シークレット、ザ・グレート)』。

 うまくやれるかどうかは分からない。それでも私は書かなくてはならない。他に伝達する者がいないのだ。書くより他に仕方ない。

 この大いなる物語。私は出会ってしまった。シニカルな中年女に、成すべき使命が与えられた。それを見つけられる者がどれだけ存在するだろう。私は今、心から幸せである。


End.

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