第2話 イン・シークレット、ザ・グレート(In Secret The Great)

 画家は厳しい顔をしている。ある日突然、見知らぬ男が戸口に現れ、『あなたのせいで自分の兄は死んだのだ』と言えば、誰でも顔をこわばらせるのは間違いないだろう。しかし彼の顔に染みついた険しさは、一朝一夕のものではないようだ。

 若い画家は目を細め、来訪者を厳しく見つめた。それに気圧され、男は言葉を失ってしまう。自分が怯んだことに気がついてしまったのは失敗だった。『強い口調で相手に問いかけ、逡巡の余地を与えず、畳みかける』。男はボーイングのなかで、幾度もこの対面を頭に思い描いていた。そのイメージ・トレーニングは、今ここにある実際の対面によって、無効化されようとしている。そもそも自分はどうして怯んでいるのか、男にはその理由がわからなかった。しかしそんなことはどうでもいいことだ。自分には使命が、やるべきことがある。

 男はカバンからクリアファイルを取り出し、無言で画家に差し出した。それには新聞の切り抜きが一枚挟んである。大きな記事ではない。地方紙の三段目といったサイズだが、大切にファイリングされているところをみると、彼にとっては重要な記事なのだろう。透明なファイル越しに、画家は記事に目を走らせる。

《……男性が倒れているのを隣人が発見し、911に通報。男性は全身に火傷を負い、地元警察はこれを自殺と断定───》

「ぼくの兄です」男がそう補足する。

 画家はクリアファイルに視線を据えたまま、そっと口を開いた。

「……“自殺”と書いてある」その声は低く、かすれている。

「ええ、そうです。兄は自殺した。ガソリンをかぶって火を点けた。“あなたが殺した”とは言っていません。厳密には“あなたの絵が兄を殺した”のです」

「帰ってくれ」画家はファイルを突き返す。扉を閉めようとしたところで、男が素早くドアに身体を滑り込ませた。

「遺族の面会を断るのか?」

「おれには関係ない」

 画家は男の身体を無理矢理に押し出し、玄関の鍵をかけた。鉄の扉をドンドンと叩く音。怒鳴り声。それを無視し、部屋へと戻る。ここは彼のアトリエ兼、居住である。壁を取り壊した空間は、広々としたワンベッドルームだ。キッチンはあるものの本来の目的で使われることはなく、バスルームには絵の具のしみがこびりついている。ウォークイン・クローゼットは画材置場で、室内には家具らしい家具は置かれていない。かろうじて生活感を感じさせるのはベッドだが、それがなければここに人が住んでいるようには見えないだろう。

 板張りの床を裸足で歩き、スペースを横切る画家。部屋の奥まで歩を進めると、激しくドアを叩く音も届かなくなる。

 部屋の奥、いちばん広い壁の前で足をとめる。そこには数メートルにもおよぶ巨大なキャンバスが、壁にネジ止めで固定されていた。ピンと張られた麻布は白で地塗りされ、そこにはまだ何の色も落とされていない。色が挿されているのはキャンバスではなくむしろその周辺だ。壁から床、天井に至るまで、さまざまな色の絵の具が付着し、無機的な部屋に、ある種の華やかさを添えている。

 二度と扉が開かないと悟ったか、ドアの外の呼びかけはいつのまにか消えていた。画家はそのことにも気づかずに、キャンバスを凝視している。なにも描かれてはいない。画家はそれを見つめ続ける。

 さきほどの男の言い分は、まったく筋が通っていなかった。差し出された切り抜きの記事、そこに断定された死因は焼身自殺。“自殺”であるにも関わらず、男は画家を糾弾した。『あなたの絵が兄を殺した』。それはあきらかに気違いじみた言いがかりだったが、叫ぶ若者の容貌に、狂気の様相は見られなかった。水色のシャツにアイボリーのジャケット、こざっぱりとした印象の二十代の青年。もしバスで隣り合わせたとしても、席を立ちたくなるようなところは少しもない。むしろ“狂気”の名を冠しているのは、キャンバスを見つめるこの男の方だ。

 彼の名はクリス。暗い色の髪と、グレーの瞳。疲労によりやつれてはいるものの、その端正な顔立ちに狂気の相は現れていない。そうでありながらも彼を語るときに欠かせないのは“狂気”という単語である。

 画家の周囲にその言葉が踊るようになったのは、二年前、このアトリエで起きた、ある事件に端を発している。今では修復され、その痕を残してはいないが、この部屋はかつて火災に見舞われたことがある。消防隊員の迅速な働きにより、大きな被害には至らなかったが、火事のニュースは一時、世間を騒がせる事件となった。

 出火の原因を発見した消防隊員らは、現場の異様さから警察へと連絡。原因を調べたニューヨーク市警察は、これを事故から事件へと転じた。出火元と判断されたモノ。それは焼け焦げて原形をとどめない、生き物の死骸である。現場にいたこの屋の主人が、生きた動物(それは大型犬であるとの結論に落ちついている)に火をつけて死亡させたとし、彼は動物虐待と放火の罪に問われたが、後に心身喪失状態と判断され、その身柄は刑務所ではなく、病院へと収容された。それがこの画家、クリスである。

 二年あまりを精神病院で過ごした彼は、退院後、再び画壇にカムバックを果たした。精神鑑定を受け、檻から解き放たれた男に、どういった種類の“健康”が戻ったのかは定かではない。というのも、病院から出た後のクリスの画風には、あきらかに“狂気”が見てとれたのである。クリスが芸術を生業としていたのは幸いなことであった。彼の筆に気狂いの徴候が見られたところで、それはあまり大きな問題と見なされない。この事件について発言を求められたある画商は『芸術家にとって狂気はなじみ深い友人のようなもの』と述べている。不謹慎なコメントではあるが、退院後のクリスの絵を見ればその意見に一理あることを認めないわけにはいかないだろう。

 彼の作品はその話題性も相まって、以前に増して人々の目に留まるようになっていった。再入院を薦める者は一人としておらず、画商はその商品価値に怪気炎を上げ、画家を擁護する方針を打ち立てる。芸術家のスキャンダラスな側面は、19世紀以前から、商人が密かに好むところである。

 “狂気”に加え、“自殺”というのも、最近のクリスを語る上でのキーワードだ。いや、自殺への欲望をたぎらせているのはこの画家ではない。自らを死に近づけたがるのは、彼の絵に触れたうちのほんの数人───。これについてはまた後に現れる、さきほどの若い男が説明してくれるだろう。

 マンハッタンに陽が落ち、アトリエはゆっくりと薄青い闇に包まれてゆく。白いキャンバスは、窓からのわずかな光を増幅し、反射させ、ほのかに光を発している。空間を切り取りでもしたかのように見えるそれは、異次元への入り口よろしく、壁にぽっかりと口を開けている。画家はしばらくキャンバスを見つめていたが、やがて何かを諦めたかのように目を伏せ、開け放たれた窓へと移動した。窓枠に手をかけ、外界に視線をやるクリス。待っていたようなタイミングで風が吹き、オーガンジーのカーテンが無音でたなびく。遠く霞むイーストリバー。よどんだ雲に突き立てられた、クライスラービルの先端。冷たい風は、彼のひきしまった筋肉の上にある、うぶ毛を逆立て、ゆるやかな巻き毛を凍りつかせる。

 クリスは口のなかで、なにかをつぶやいた。それは無意識のことで、なにを言ったのかと問われれば、彼自身、説明のできない言葉である。つぶやきは空気に溶け、日暮れた街は信者の祈りを聞く司祭の如く、それを受け入れる。受容はこの街が画家に与える愛情に等しい。画家は己のすべてを街に捧げ、街はその呼吸に応える。毎年、幾人もの凍死者を生み出すマンハッタン。風は冷たくクリスをなぶり、彼の身体からゆっくりと体温を奪っていく。奪われるものは生命の暖かさ。与えられるものは死の冷たさ。息を吸い、また吐き出し、その循環を呼吸に乗せる。体温は刻々と低下していき、クリスの瞳は輝きを増して行く。画家は静かに窓を閉めた。もちろんまだ凍え死ぬわけにはいかない。




「警察を呼ばれたいのか」

 ドアを開けるなり、クリスはそう言った。アトリエの玄関先に現れたのは昨日と同じ男。昨日と同じキャメル色のジャケット、昨日と同じウィングチップの靴。ただひとつ、違っているのはその態度だ。男は唇を引き結び、それから硬い口調で「昨日は失礼しました」と、非礼を詫びた。

「頭に血がのぼっていて……あんな言い方をしていまって。ほんとうに、失礼を……」

 茶色の髪と茶色の目。その姿をキャンバスに写し取れば、『凡庸』という題が相応しい。昨日まで持っていた感情を取り下げた彼は、ゆいいつの活き活きさを失い、平凡かつ安全な若者に身を落としていた。

「わざわざ西海岸から何しに来た? かたき討ちか?」険しい表情で言うクリス。

 西海岸─── その言葉に青年はわずかに困惑した。たしかに彼はカリフォルニアからやってきたが、今のところまだ自己紹介はしていないはずだ。

「かたき討ちじゃありません。あなたと話がしたいんです」

 昨日クリスに見せた新聞の切り抜き。その記事には“カリフォルニア州、サクラメント”と記してあった。画家はそれを憶えていて西海岸と言ったのだろうと、青年は納得した。

「ぼくの名前はクリーヴ……クリーヴラント・シモンズと言います。亡くなったのは兄のレイモンド・シモンズです。ぼくの兄は……」

「まて」クリスは手を挙げて、クリーヴを制した。「いいか、おれはきみが何者であろうとどうでもいい。きみの兄が死んだことについても同じだ。おれの絵に何を関連づけようとも、おれ自身はそのことに興味がないんだ。申し訳ないが」

「あなたに害を加えようと言うのではありません。ただあなたの絵を見せてもらえたらと……」

「断る」

「お願いです」

「断る」

「入れてもらえるまで帰りません」

 クリーヴの鼻先でドアは閉められた。昨日の彼はここでしばらくドア叩き、ひとしきり演説をやってからホテルに戻ったのだが、今日もまた同じことを繰り返す気にはならなかった。入れてもらえるまで帰らないと意気を吐いたものの、それについて具体的な勝算があるわけではない。ドアを見つめ、その内側に付けられているであろう数個の鍵───ここはマンハッタンだ。鍵がひとつなわけはない───を思い描き、クリーヴは深々とため息をついた。頑丈な鉄の扉に不似合いな、アールデコ調のドアノブ。どうせ開くわけがない。そう思いつつもノブに手をかけたのは、クリーヴにとってほとんど無意識のことだ。彼自身、なぜそうしたのかはよくわかっていなかった。しかし、その行為には確かに意味があった。───ドアはあいた。ノブを回しただけで、それは簡単に開いたのだ。昨日ドアノブを回したとき、それは間違いなく閉まっていた。いくら回しても、強く叩いても開かなかった扉が、今日はこんなにもあっさりクリーヴに身柄を明け渡したのだ。

 これはどういうことだろう? 部屋に入ってもいいのだろうか? 彼はおそるおそる中を覗き、室内に足を踏み入れる。来訪者に気がついたクリスは、彼を見てぎょっとした表情をして訊いた。

「どうやって入ってきた?」

 “入って来るな”でも、“出て行け”でもない。クリスは“ここに入ってきた方法”をクリーヴに質問した。

「あの……ドアが開いていたので」

「開いていた?」

「ええ」

「鍵は?」

「いえ、あの、開いていたんです」

 クリスは訝るような眼差しでクリーヴを見た。ドアは開いていた。もちろん本当だ。そうでなければ彼は入れなかった。クリーヴはドアを振り返る。鍵は外れている。最初から鍵はかかっていなかった。そうでなければ説明がつかない。クリスが鍵をかけ忘れたのだ───五つとも。

 質問に答え終わったクリーヴは、呆として立ちつくし、クリスはわずかの間、青年を見つめていた。その瞳から訝りが消えたのは、ほんの短い瞬間のことで、そこに何かまったく別の輝きがとって変わったのも、さらに一瞬のことだった。

 そのわずかな変化にクリーヴが気付く前に、クリスは台所へ続く廊下へと姿を消す。クリーヴは“出て行け”と怒鳴られることを予測していたため、いくらか拍子抜けし、安堵もしたが、『いいや、まだ安心するわけにはいかないぞ』と自分に言い聞かせた。ここにいる画家は狂気で名高いのだ。現代のヴァン・ゴッホがキッチンからナイフを取り出し、「出て行かないと、こいつで痛いめにあわせる」と怒鳴り始めないとも限らない。

 そんな想像をしてみるも、戻ったクリスが手にしていたのはナイフではなく、筆洗いのバケツだけだった。ぺたぺたと裸足の足音をさせ、ゲストを無視して部屋を横切るクリス。壁に取り付けたキャンバスの前に立ち、バケツをスチール製の台車にのせた。それは旅客機内でフライトアテンダントが押しているような、キャスター付きのトロリーだ。ぎっしり画材が乗ったトロリーは、長年使い込まれたもののようで、またそこにある道具類も同様に古びている。トマトソースの空き缶に挿した何本もの絵筆。つぶれてひしゃげた絵の具のチューブ。透明な液体の入ったビンが数種類。色が染みついたぼろ布……。使う道具は普通の絵描きと変わらないようだとクリーヴは思った。クリスが魔術的なアイテムを収集しているとの説も彼は耳にしていたが、少なくともここにあるのは汚れた画材だけのようだ。

 画家がまず手にしたのは木製のパレットだ。それに白い紙を重ね、クリップで挟む。掌よりも大きな絵の具のチューブを掴み、それを手の中でくるりと回転させ、口を下にして、たっぷりと絞り出す。一連の動作は小粋なバーテンダーのようにリズミカルで、とても慣れた動きだった。

 支度をするクリスの姿を、クリーヴは改めてじっと見つめた。ハッキリした目鼻立ちと、スポーティな肢体。もつれた髪と無精髭のせいで若干うさん臭げに見えるものの、目の前の男はファッション広告に出てくるようなルックスをしている。

『気狂いの所行と、それに伴う画風。その目線は狂気をはらみ、あらぬ方向に向けられて───』ヴァン・ゴッホ以来、“狂気の画家”という称号を与えられたアーティスト。それら噂は話題造りの一環だったのだろうか? 世間の評判はあてにならない。クリーヴはそう思った。しかし彼の作品が“死の衝動”を呼び覚ますことだけは本当だ。兄は死んだ。クリスの絵を見て、兄は自殺したのだ。

 ここへ来た当初の目的にクリーヴが思いを馳せていると、クリスは唐突にシャツを脱いだ。続けてジーンズと下着を床に落とし、あっという間に全裸になる。それはクリーヴが見ている目の前でのことだ。

「……は、裸で描くのか?」

 疑問を思わず声にしたが、それに答える者は誰もいない。ただ画家のしなやかな背中が『いやなら出ていけ』と言っていた。

 なんだってんだ? 絵筆のかわりに一物でも使おうっていうのか? そうクリーヴが思ったのは、クリスのペニスが勃起していたからだ。

 真っ白な画布は、筆が挿されることを処女のように待ち受けている。画家はキャンバスに向かい、そして───はじめた。



 岩に叩きつけられる荒波のようにもなれば、草むらに逃げ込む蛇のようにうねりもする。法則の見えない動き。あたかも絵の具それ自体が生き物であるかのように、自在にキャンバスを行き来する。油彩の手法は淡い色から順に塗り重ねていくのが基本だが、ここではそうした順は見られない。クリスの筆遣いには何の秩序もルールもないようだ。妙なまだら模様を描いたかと思うと、次の瞬間、池に浮かんだ無数の蓮の葉が現れる。橋に絡み付いているのはツタだろうか。それともひしゃげた人間だろうか。そもそもこれが橋であるという確信はもてない。まるで手品でも見るかのように、クリーヴは夢中になってクリスの筆を目で追った。

 バケツに筆を突っ込み、ぐるぐると回して、筆先を勢いよくフチに打ちつける。テレピン油が四方に飛び散り、床と画家自身を汚したが、クリーヴのところまでは届かなかった。全身を動かしてダイナミックに描く様は、ストリートのパフォーミングアートさながらだが、道ばたで全裸になってこれをやる者はいないだろう。

 画家の身体から汗が流れ、ぼたぼたと音を立てて床に落ちた。季節は冬だ。室内の気温は決して高くない。水蒸気となって立ち上る湯気は、クリスのオーラを特殊効果したかのようで、クリーヴは何度も目をしばたいた。

 服を脱いでからずっと、画家のペニスは固く起立している。クリーヴにとって、あまり長く見つめていたい種類の情景ではなかったが、それでも彼は画家から目を逸らすことはしなかった。ここで逃げるのは“負け”のような気がしたのだ。(何に対して? それはわからない)。

 創作を開始してから、もう五時間は経過しただろうか。これだけの集中力と、勃起を維持できるのは大したものだと、クリーヴは心から感心した。自分ではとても──集中力も、勃起も──続けられそうにもない。

 黙々と作業する画家。なるほど、これは評判通りの男だ、とクリーヴは思った。“ヴァン・ゴッホ以来の狂気の画家”がここに出現した。ルックスの善し悪しは関係ない。目の前にいるのは間違いなく、自分が求める男に違いない。彼はそう納得するとともに、目を眇め、ものの本質を見極めようとした。さあクリス、おまえは何をやってるんだ? 絵の具に何かを練り込めでもしているのか? だとしたらそれはいったい何なんだ? 悪意? 不安? 自殺の衝動? それを見つけるために自分はここへ来たんだ。ぼくに本当のところを教えてくれ。おまえの行為のすべてを───。クリーヴは無意識のうち、強くこぶしを握りしめていた。

 つとクリスは筆をとめて振り返り、若者にぴたりと視点をあわせた。それから小鼻を指先でちょいちょいと叩く仕草。つられ、クリーヴが自分の鼻をさわると、ぬるりとした感触が指にさわった。手には真っ赤な液体がついている。いつのまにか鼻の血管が切れていたのだ。見ると、シャツや床にまで血がたれているではないか。クリスはトロリーから古タオルを取り、それをひょいとクリーヴに投げてよこすと、再び作品に向き直った。タオルは乾いていたが、顔を拭くのがためらわれるほど絵の具で汚れ、ごわごわになっている。顔ではなく床を拭けということなのかもしれない。クリーヴはそれで床を拭き、ポケットからハンカチを出して鼻を拭いた。

『きみの裸に欲情したわけじゃない。この部屋の熱気にあてられたせいだ』。そう言い訳したい衝動にかられたが、当のクリスは彼の弁解を必要とはしていなかった。それどころかクリーヴの存在すらも、部屋に紛れ込んだ一匹の羽虫ていどにしか捉えていないようですらある。

 そこからさらに三時間ほど経過したところで、ようやく画家は筆を置いた。陽が落ちた室内は、照明を必要とするほど薄暗く、色の見分けはつきにくくなっていた。日没と共に作業が終わるのは中世の芸術家。現代には電灯があるのだが、この部屋にはどうやら照明器具の類いはないらしい。

 ふらつく足取りで部屋の隅へと向かうクリス。ベッドまでたどり着くと、絵の具の飛沫で汚れた身体を拭くこともせず、撃たれた男のようにうつぶせに倒れると、後は少しも動かなかった。

 クリーヴはそっと近づき、覗き込む。画家はすっかり眠り込んでいる。

 この男、誰か自分の知り合いの誰に似ているだろうか? そう思いを巡らせたが、すぐに考えることを放棄した。クリスはクリーヴがこれまでに出会った、どの人間とも似ていない。地球上で初めて出会った男。裸で絵を描き、裸で眠る奇妙な習性の持ち主。したたるほどに流れた汗はすでに乾き、画家の背中にうっすら白い塩を浮かび上がらせている。それを見、クリーヴは“塩の柱”の説話を思い出した。彼は信心深いたちではなかったが、聖書の内容はいくつか頭に入っている。

 悪徳はびこるソドムとゴモラの街が滅びようとしたとき、アブラハムの親類は神の手引きにより、街から逃げる運びとなった。道中いかなる事態になろうとも、決して後ろを振り返ってはならないと神は忠告をしたが、ロトの妻だけは、何の未練か街を振り返ってしまう。その瞬間、彼女の身体は塩の柱となって死に至る。愚かなロトの妻。彼女はあの街で一体どんな罪を重ねてきたのだろう。聖書が得意とする教訓話は、いつも残酷で、わかりやすい恐怖を教えてくれる。

 この男は塩になりかけているのだとクリーヴは思った。それは絵に呪いを込めた罪。欲情をたぎらせ、裸で絵を描いた罪。他にはどんな唾棄すべき行為が行われているのか。罪のないロトを惑わせるのは彼のような人間に違いない。兄はこの男の絵に殺された。これ以上の犠牲者を出すわけにはいかない。それには画家の真意を突き止める必要があるのだ。

 決意は高潔なクリスチャンのようだが、クリーヴは信心深いたちではない。彼は自分が聖書を正しく認識していないことに、この時点で気付いてはいなかった。“塩の柱”の教訓はまったく別なところにある。それは『長生きしたければ好奇心は慎むべし』と教えているのである。




 鼻血を出したこの日以来、クリーヴはこのアトリエに毎日“出勤”した。締め出されたのは初日だけ。クリスはもはやクリーヴのことを追い出そうとはしなかった。だからと言って画家がこの来客を歓迎していたというわけではない。部屋に迎え入れはするが、それ以外に交流らしいことはせず、ひたすら無心に絵を描き続ける。製作の際には服を脱ぎ、最後には決まって眠りについた。それが若者が見た画家のパターンのすべてだ。

 暖かな会話はなく、お茶をふるまわれることもない。テーブルに放置された砂糖壺のような扱いに甘んじるのみだが、しかしクリーヴはこれに不服を覚えることなかった。“ようこそ”と愛想良くしてもらえるなどとは、彼ははなから期待していなかった。招かれて来たのではないことは百も承知だ。

 このサクラメント出身の若者は、マンハッタンへ来ることを運命のように捉えていた。会社と自宅を往復するだけの単調な毎日の中、五つ年上の兄がショッキングな方法で自殺した。その理由に一枚の絵画が関係していると知ったときの驚き。悲観にくれるばかりの両親を慰めながら、彼は己のすべきことが何かを知った。悪意の出所をつきとめる。それがクリーヴに課せられた使命なのだ。

 日参も五日目ともなったこの日、クリーヴはドアの前で立ち往生をしていた。昨日まではノックをして名前を名乗ると、ドアが開いたのだが、今は何の反応もない。やはり気が変わって、アトリエには誰も入れないと決めたのだろうか。

 こぶしで扉を叩き、画家の名前を呼ぶ。彼らは友人同士ではなかったが、この場合呼ぶにふさわしいのはやはりファーストネームに他ならない。

「クリス?」

 応答はない。昨日の画家にはおかしな様子はみられなかった(裸で絵を描き、眠るという行為は別として)。何か異変があったとすればその後だ。いつものようにベッドに倒れてから、彼に何かあったのだろうか?

 鉄のドアに耳をつけてみたが、音を聞き取ることはできない。

「あの、もしいるなら、何か言ってください」

 もしここで画家に死なれでもしたら、一連の事件は迷宮入りだ。

「入れてくれなくてもいいんです。返事だけしてくれれば。クリス、あなたは無事なんですか? 大丈夫なんですか?」

「───大丈夫だ」

 応じた声は部屋の中からではなかった。クリーヴが振り向くと、そこにはクリスが立っていた。シャツとジーンズ、その上に着ているのは軍隊風の防寒ジャケット。パーカの白いボアには絵の具が付着している。元は高価なブランド物かもしれないが、今となっては救世軍のリサイクルでも受け取りを拒否されそうなほど、それは汚れていた。

 クリーヴは画家が手している白いビニール袋に目をとめた。そこにはワインとミネラルウォーターのボトルが数本入っている。クリスは買い物に出ていただけだったのだ。

「あ…ええと……大声を出して済みません」もごもごと謝罪するクリーヴ。あんなに狼狽した自分を恥ずかしく思った。「てっきり、あなたが……中で何かあったのかと思って」

 クリスは鍵を差し込み、ドアを開けた。まごつく客に気を配ることもなく、絵の具の匂いのするアトリエに入っていく。クリーヴもそれに続いた。“入っていいか”とは、もはや訊ねることはない。




 作業中に集中を切らすことはないクリスだが、描き始める前には少し食べ物を口にしたり、タバコを吸うなどの時間があった。朝の早い時間にシャワーを浴びる。クリーヴはクリスの裸にすっかり慣れ、彼が戸を開けたままシャワーを浴びたり、用を足したりするのを目にしても、何も思うことはなくなっていた。

 この日、クリスはワインのボトルを半分空け、それからタバコの箱に指を突っ込んだ。しかしそれは空だったようで、中から何も取り出すことはなく、ぐしゃっと箱を握りつぶす。そこでクリーヴは歩みより、さっとウィンストンを差し出した。偶然持っていたわけではない。画家の好む銘柄を覚えた彼は、あらかじめこのタバコを買っておいたのである。

 目を細め、訝しげに青年を見るクリスに、クリーヴは「どうぞ」と短く勧める。

 画家はゆっくりと手を伸ばし、それを受け取った。まるで未開の部族が白人から贈り物を受け取るようなぎこちなさだ。

 出合って以来、初めての人間らしいやり取り。そこでクリーヴはちょっとしたイタズラを言ってやろうという気になった。タバコのパッケージを開けるクリスの背に向かって「毒が入ってるかも」と密かにつぶやく。

「被害者の家族からの贈り物だ。警戒したほうがいい」

 クリーヴの言葉に、クリスの動きがぴたりと止まる。次の台詞を待つ役者のように、じっとしたまま動こうとはしない。画家の反応に満足したクリーヴは、くすりと笑い、「冗談です」と告白する。「どうぞ、吸ってください。毒なんか入ってませんから」

 クリスは動きを取り戻し、一本くわえてマッチで火をつけた。深く煙を吸い込んで吐き出した後、「聞いていいか」と、切り出す。

「きみはここで何をしている?」

 この質問にクリーヴは思わず吹き出しそうになった。進んで招き入れたわけではない侵入者──それも“家族を殺された”と訴える者──に対する問いかけとしては、なかなかふるっているではないか。

 クリーヴは答える。「あなたが絵を描くところを見ているんです」

「そのようだな」とクリス。「どうして?」ふたたび煙を吐き出す。

 さて、ここで本当のことを言ってもいいものか。クリーヴは上唇を舐めて湿らせ、思考を素早く巡らせた。答え方によっては、この部屋から追い出されるかもしれない。

「兄が死んだからです」一度は伝えた真実を口にする。「兄は自殺したのです。あなたの絵を見て。だからぼくは……知りたかった」

「何を?」

「あなたがどうやって“人を殺す絵”を描いているのかを」

 クリーヴがそう告げると、部屋に沈黙が訪れた。クリスは黙ってタバコを吸い、フィルター近くまでくると、それを空になった水のボトルに入れる。タバコはじゅっという音を立てて消えた。

「今描いている絵は何ですか?」と、クリーヴ。

「風景だ。頭の中にある」

「題は?」

「タイトルは画商がつける。おれの絵に題はない」

 そこでクリーヴは、“魔力”の可能性のひとつが消えたことを知った。ネット上にはクリスの絵のタイトルをアナグラムして、そこから事件を推理するといったサイトもあったが、どうやらその取り組みは徒労のようだ。とすると、やはりキーとなるのは純粋にこの絵画だけらしい。

「おれの絵はただの絵だよ」クリスはそう言って、床に座り込んだ。「誰も殺したりはしない」

「兄は死にました。それにぼくの兄だけじゃない。他にも三人───現在までのところ、立て続けに四人が死んだ。あなたはそれを知っているはずです」

 決然と言い放つクリーヴ。クリスの顔をまっすぐに見つめている。しかし画家の表情に変化は見られない。無論クリスは事件のことを知っていた。世俗と離れた暮らしをしていても、情報は自らやってくる。ある画商が「困ったことになってる」との言葉に添え、クリスに伝えたニュースは、クリーヴが今告げたそれと同じものだ。

 一人目 : それは若い男だった。西海岸を中心に有名になっていた『リュケイオン』というバンドのボーカリスト。フッパーという名の彼が、クリスの絵に心酔していたのは、バンドの信者であれば誰でも知るところだが、その後、画家の名をハードロックマニア以外にも轟かせることになったのは、そのボーカリストがピストル自殺をしてからのことだ。フッパーは自宅の居間にあったクリスの絵の前で、自らの頭を打ち抜いたのである。

 二人目 : 17才の少女。自室で首吊り自殺。ベッドの上には図書館で借りたクリスの画集があった。

 三人目 : ドラッグを常用する若い男。過剰に薬物を摂取したショック症状。『リュケイオン』の曲をヘッドフォンで聴きながら、腕に注射針を何度も刺し、天井に貼ったクリスの絵画を見つめながら死んだ。

 四人目 : これがクリーヴの兄だ。

 メディアはこの一連の死の流れを、カリスマ的人気を誇るフッパーの影響であると決定づける。彼が自殺をしたことに端を発して、後の者たちは絵画に何らかの先入観を持ち、一種ヒステリーのような連鎖反応が引き起こされた───それが報道の見解だ。ロックンロールバンドはいつの時代であっても非難の対象である。

 この出来事によってバンドは解散、そしてまたクリスの商売も打撃を受けていた。かつてはファッションブランドのイメージや、アーティストのアルバムジャケットに採用されることもあった彼の絵画は、その事件性の高さによって、今や広告業界から声がかかることはない。しかしそんなことはクリスにとってはどうでもいいことだった。霊感が得られるこの部屋と、描くことのできる肉体。それさえあれば彼は満足で、外界のことにはさほど興味を示すことはなかったのだ。それがここへきて、どういうわけか“外界そのもの”ともいうべき男が飛び込んできた。新聞記事を突きつけ、クリスが最も厭う事件のことを口にする。そしてその男は、とうとう“この部屋”についての質問を見つけ出した。

「この部屋はあなたにとって特別なんでしょう?」クリーヴはクリスの真向かいに座り、あぐらをかいた。「なんでも夕方になると真っ赤に染まるとか……それがあなたに絵を描かせていると聞きました」

 ずっと以前、クリスは雑誌のインタビューで、一度だけ“部屋の魔力”について話したことがある。クリーヴは当然その記事を読んでいた。

「ぼくがいる間、この部屋は赤くはならなかった……ということは、“暁の部屋”は何かの比喩なんですか?」

 インタビュアーよろしく訊ねるクリーヴに、クリスは静かに答える。

「あれは夏の間だけだ。冬は太陽の角度が違う」

 なるほど。にわかインタビュアーは納得した。ここでふとクリーヴは気がつく。クリスが自分と会話をしていることに。口調こそぶっきらぼうだが、画家は素直に質問に応じている。沈黙するのは質問以外のところでだ。そのことにクリーヴは軽い驚きをおぼえる。この数日、クリスが黙りこくっていたのは、こちらが話しかけなかったからだろうか? 歓迎や交流は期待していなかったし、疎まれ追い出されることは覚悟していた。しかし今日のクリスは何を隠すでもなく、普通に口を利いているではないか。知っていることは答え、知らないことはただ“知らない”と言う。これは犯罪を隠蔽しようとする男の態度だろうか? そもそも何かを隠したければ、自分を部屋に招いたりしないのでは? そこまで思い至ったところで、若者は頭を振り、自分の考えを追い出した。まだだ。潔白の印を押すには、まだ早すぎる。戦いはまだ始まったばかりなのだ。

 クリーヴは“暁の部屋”について書かれた記事を思い出していた。インタビューに答えるクリスは『このアトリエは特別な場所だ』と言っていた。『おれのアトリエは特別な空間だ。ある時間になると、窓から夕日が差し込む。血の色にそっくりな真っ赤な日差しだ。きみもあれを見たらわかるだろう。どうしておれがあの部屋にこだわり続けているかが』

 そのインタビューの数ヶ月後に、あの忌まわしい火事があり、クリスは入院を余儀なくされた。しかしこの部屋は、主のことを忘れずに待っていたようだ。今クリーヴがここにいるのが何よりの証拠だ。

 それにしても、ここはそんなに特別な部屋なのだろうか? クリーヴは目の筋肉だけを動かし、部屋をじろりと見回した。通って四日目だが、特に変わったところは見られない。日差しについては体験していないので何とも言えなかったが、今のところこのアトリエはさしたる特徴もない普通のアパートのようだった。

 ─── あれを見たらわかる。どうしておれがあの部屋にこだわり続けているか ───

 クリーヴは画家の言うところの“特別な場所”にいた。いたが彼にはその“特別さ”はわからなかった。夕焼けが差し込むというだけでこの部屋を手放さない。クリーヴにはその意味も、ここにあるはずの魔力も理解できない。そしてこれからもわかる自信は彼にはなかった。

 画家はいつものように服を脱ぎ始めている。クリーヴは彼の一点に目を留めた。まだ柔らかく、穏やかなクリス。さすがの彼も、普通の会話の直後から興奮状態になるのは難しいのだろうか。

 数日を画家と共にして、クリーヴがひとつ理解したことがある。それは“裸には何の意味もない”ということだ。ここに来た初日こそ、一糸まとわぬ姿に眉をひそめはしたが、よく考えればそれはまったく害のないことだ。裸が噛み付くわけでもなし、何を厭うことがあるだろう? 起立したペニスに慣れるのには、もう少々多くの時間が必要だったが、それすらも今は慣れた。『もし裸が恥ずべきものなら、神は服を着せた姿で人間を創ったはず』。それは皮肉屋の美術教師の言葉だったが、あながち的外れというわけではなかったようだ。画家にとっての肉体は、芸術に従事するためだけの容れ物に同じ。裸や勃起にうろたえるのは凡愚なことのように感じられ、クリーヴは自分の精神性の低さを改めて嫌悪した。

 クリスは絵を描き始める。いつものようにバケツをトロリーに乗せ、いつものように──いつの間にか──勃起している。その様子を眺め、クリーヴは亡き兄の姿を思い返していた。

 レイことレイモンド・シモンズは、幼い時分から芸術家だった。子供の頃は道路いっぱいにチョークで絵を描き、成長後は油絵を好んで描いた。死ぬ間際のレイは、異常とも言えるほどの創作活動に打ち込み、それは飲食もままならないほどであったため、彼らの両親をいたく心配させたものだった。

「少し休んだ方がいいよ」クリーヴは兄にそう忠告した。「どこかに出品するとか、締め切りがあるとかいうわけじゃないんだろ?」

 レイは何の目的もなく絵を描いていた。ただただ絵を描き、そしてとてつもなく幸福そうに見えた。栄養不足でやせ細り、日に当たらないせいで血色は悪かったが、瞳にはいつも光があった。クリーヴが仕事から疲れて帰宅すると、兄は出かける前と同じ状態で絵を描いている(それはあたかもここにいるクリスのように)。無心に制作に打ち込むレイ。就職もしない長男のことを、彼らの父親は不愉快に思っていたようだが、弟はそれを“悪いこと”だとは思っていなかった。

 レイの誕生日、クリーヴは一枚の版画を彼にプレゼントした。兄が誰より尊敬する画家のシルクスクリーン。それがクリスの作品だった。夕暮れの森を描いたタブロウ。空を埋め尽くさんばかりの木々は赤く、父親は「まるで山火事のようじゃないか」と渋い顔で言ったが、兄は弟からの贈り物をたいそう喜んだ。

 そしてその絵を壁に取り付けた翌日、レイは死んだ。まず燃やされたのは絵画だった。燃える森に火を放ち、その直後、風景に自らをゆだねるかのように、自身にも火をつける───。死因は焼死。遺書はなかったが、自殺と断定され、司法解剖はされなかった。

 絵を描くことが何より好きだったレイ。あんなにも強く作品に打ち込める男が、なぜ唐突に死を選ばなくてはらなかったのか。兄はこの絵画に何を見たのだろう。どんな恐ろしい思いをしたのだろう。レイの生と死。そのどちらにもクリスの絵画が関与している。

 葬儀の後からのクリーヴの行動は素早かった。画家についての情報を集め、関連する事件を追う。グリニッチ・ビレッジのホテルを予約し、J.F.K空港行きの航空券を買い、新聞記事をクリアファイルに挟む。マンハッタン行きの動機は母親には言わなかった。言えば止められるだろうことが分かっていたからだ。家を出る直前、父親だけには本当のことを告げた。父はクリーヴの決意を聞き、「これを事件として立証できれば、もしかしたら保険がおりるかもしれない」と言った。

「息子よ、しっかりやるんだぞ」

 その言葉を聞いて、クリーヴは心底悲しくなった。この人は息子のことを少しも理解していない。この大きな決断。強い意志の裏にあるのは、“保険会社から金を引き出す”などという、ちっぽけなことではないというのに。

 大陸を横断する間、クリーヴは目的に燃えていた。クリスは許されざる者。芸術で人を殺すのは、ナイフで刺すよりも重い罪のようにクリーヴには思えた。しかしこの動機を父親に話してもわかってはもらえないだろう。父、ドナルド・シモンズは生まれてこのかた、絵を描いたことはない。芸術に感心のない旋盤工で、息子たちが何に興味を持っているのか、理解しようともしなかったのだ。

 クリーヴは物心ついた頃から、自分は人と違うのだと信じていた。少なくとも父のような、平凡な者にはならないぞと思っていた。レイとクリーヴは本を多く読み、音楽や絵画をこよなく愛した。シモンズ家の兄弟は、芸術家として生きるべきである。二人の息子が金属加工業に興味がないことにドナルドはいくぶん落胆したようだったが、それでも彼らが目指す道を閉ざすことなく、美術学校への学費を支援してくれた。そんな父にクリーヴは感謝していたものの、自分と父は違う種類の人間なのだという考えは、どうしても手放すことはできなかった。さきほどの発言にもあるように、ドナルドの考え方は非常に物質的であり、それ以外の側面を人生に見ることをしていない。

「物事には霊的な側面というものがある」レイは常々、弟にそう言っていた。「これはオカルト的な話じゃない。“霊的”であることは、“宗教的”とは違う。もっとシンプルに、生きることと関係があるんだ」

 レイは神智学に詳しかったが、その知識をもってしてでも、クリーヴに知恵を伝えることは難しいと感じていた。「うまい言葉が見つからない」と言い、最終的には「おまえも見ればわかるさ」と、結んだ。

 ─── 見ればわかる ───

 だとすると、レイは一体何を見たのだろう? 間違いなく彼は何かを知っていた。そしてその情報を、たったひとりの弟に伝える前に死んでしまったのだ。

 いつしかアトリエは暗くなり、画家はすでに作業をやめていた。ベッドに横たわるクリス。わずかに開いた唇のあいだからは白い歯がのぞき、そこから規則正しい呼吸がもれている。腹筋は穏やかに上下し、彼は子犬のように眠っていた。その奇妙な無垢さ。こわもてな外見と似つかわしくない形容詞に、クリーヴはむしろ自分の感覚の方を疑いにかかった。それほどにアンバランスな印象だった。

 クリーヴはクリスに視線を定めた。眠る黒人女を見つめるライオンのように、ただ静かに寝顔を覗き込む。この様子はルソーの絵画『眠れるジプシー女』によく似ている。眠る女はその手にライオンを追い払う棒を持ち、ライオンは女を切り裂く牙を隠し持っている。空に浮かぶ青い月。ライオンと女。互いの武器をふるうのは今夜ではない。彼らはタイミングをよく心得ているのだ。




 翌日、クリーヴは思い切った決断をした。「しばらくここに泊まってもいいか」とクリスに申し出たのだ。もしここで何か特別な儀式が行われているのだとしたら、それは自分がホテルに帰った後ではないだろうか。自分はだまされていたのかも知れないとクリーヴは考えた。わずかな異常性という、“昼の顔”をまんまと掴まされて。

 本来、人といることを好まないクリスは、その頼みに当然いい顔をしなかったが、クリーヴが「台所の隅で寝るし、絶対に迷惑はかけない」と食い下がると、最終的には「好きにしろ」と要求を受諾した。

 渋面のクリスを前に、クリーヴは喜色満面を隠そうともしなかった。物事は確実に前進している。こうでなくては故郷を遠く離れた甲斐がないではないか。

 デパートで購入した寝袋と、ホテルから無断で持ち出した毛布を組み合わせ、台所の片隅に寝床を作る。テラコッタのタイルはひんやりと冷たかったが、これで真実に一歩近づけるとすれば、寝心地など大した問題ではない。

 さあ、夜のクリスはどんな変容を見せてくれるのか? クリーヴには覚悟が出来ていた。たとえアトリエにクー・クラックス・クランが現れたとしても驚きはしない。彼らが招かれざる白人客を生け贄にするというなら話は別だが。




 期待されていた一日目の夜は何事もなく過ぎた。と言うよりも、何か起きたかどうかをクリーヴは感知することができなかった。冷たいタイルをものともせず、すっかり熟睡してしまった彼は、クー・クラックス・クランが現れたかどうかも知るよしもない。

「まあ、まだ時間はあるさ」とクリーヴは独り言をつぶやく。奇妙な絵描きを観察する時間はいくらでもある。それにおそらく、いまだかつてこんなにもクリスに近づいた者はいないはずだ。それは画家の暮らしぶりを見ればわかる。遊びに出かけるでも、誰かが訪ねてくるでもない。ただ毎日が同じように過ぎ、裸の男は文明を忘れたかのように生きている。クリスが持っている唯一の通信手段は携帯電話だが、それはクリーヴが来てから一度も鳴ることはなく、じっとサイドテーブルに待機していた。

 ゆっくりだ。これからゆっくりと時間をかけて、絵画の秘密を探っていけばいい。クリーヴはどこか満たされた気持ちでそう思った。そのために自分はこの部屋にいるのだ。画家の悪意を確認した後のことは考えてはいなかった。




 世捨て人にも友人はいた。そのことは多くクリーヴを驚かせた。

 この日、戸口に立ったのは、ひとりの男。年のころは五十代で、白髪まじりの巻き毛を、オールバックにして肩に垂らしている。身につけた黒いシャツと黒いパンツは、中年太りした体格を隠そうとしてのことだろうか。だとすれば、残念ながらその成果は発揮できていない。広く開いた胸元には、小さな金の十字架があり、指には赤い宝石が輝いている。一見してカタギの職業ではない雰囲気を醸し出しているその男は「やあ、クリス」と挨拶をし、ほとんど強引に画家の身体を抱きしめた。

 自分より背の低い男に抱かれたまま、クリスは「まだ絵は出来ていない」とつぶやく。

「わかってる」男は身体を離し、画家の腕をポンポンと親しげに叩いた。

「ただ寄ってみただけだ。それとこれを」と、画材店の紙袋を差し出す。

「送ってくれてもよかったのに」そうクリスが言うと、男は「生存を確認しにきたんだよ」と明るく笑った。続け「これはオマケ」と、白いビニール袋を渡す。その中身はマスカットだ。

「デッサン用じゃないぞ。食べ物だ。たまには生気のあるものを口に入れろ」

 クリスは短く礼を言い、色鮮やかなエメラルドグリーンの粒をひとつ口に放り込んだ。

 それは普通のやりとりだったが、見ていたクリーヴには、どこか馴染まない奇妙な行為と写った。差し入れに感謝を述べたり、人前でものを食べたりすること。この部屋で散々おかしな行為を見続けたせいだろうか。クリスが“普通の人らしいこと”をするのは、ミッキーマウスがセックスをするのと同じくらい違和感のあるものだ。

「では進行状況を見せてもらおうか」

 中年男はずかずかと部屋に入り、そこにいるクリーヴにようやく目を留めた。

「おいクリス、驚いたな……」芝居がかった表情をし、両腕を広げる。「なんとまあ、部屋の中に人間がいるぞ! いったいどういう風の吹き回しだ?」

「別に」抑揚なく答えるクリス。「勝手に住みついているだけだ」

 その言葉にクリーヴは傷ついた。確かに“住みついている”のは事実だが、数日生活を共にしているのに、羽虫か何かが“棲みついた”かのように言われるのは、決して気分のいいものではない。

「きみは誰かな?」と男が訊ねる。「クリスの友人? それともデッサンのモデルかな?」

「ぼくは……」クリーヴは言いかけ、言葉を失った。自分はモデルではない。もちろん友人でもない。

「ぼくは……ただのファンです。彼の絵の」

 的確な答えとは言い難いが、他に言いようがなかった。

「そうか、ファンか。おれはパンだ。画商をしている」男は胸ポケットからタバコを取り出し、吸い始めた。

 ───パン。おかしな名前だ、とクリーヴは思った。ギリシア神話に由来するそれは、無論のこと本名ではないだろう。下半身が山羊で頭に角を持った神。くるくる変わる豊かな表情と、クラシカルな巻き毛のあごひげは、なるほど、伝説の半獣神を彷彿とさせる。“部屋の中に人間がいる”という表現も、彼が妖精のパーンだとすれば納得のいくものだ。

「すばらしい作品だな」画商はタバコをぶかぶか吹かしながら、制作途中の絵を見つめた。

「おいクリス、これは何だ?」言って、キャンバスの右下を指す。

「どれ?」と、クリス。

「これだ。この青い部分。これは橋か?」

「そうだ」

「青い橋か」

「そう。でもわからない。最終的には消すかもしれない」

「残しておけ。橋は希望の象徴だ。おまえの絵は不安要素が多すぎる。少しくらい希望があった方がいい」

 パンはクリスの腰に手を回し、それを引き寄せた。その姿はクリーヴにあるひとつのイメージを喚起させた。『羊飼いダフニスに笛を教えるパーン』。ポンペイで発見されたその彫像は、若者に音楽を指導するというより、まるで性的な誘いをかけているようである。ホモセクシャルに寛大であった町の風潮を象徴する、おおらかな芸術。多淫で有名なパーンは、その名に恥じぬ行いを牧童にしかけたのだろうか。

「いい絵だ」にんまりと微笑むパン。「おまえは百年にひとりの存在だ。世間が何と言おうと気にすることはない。もうあと百年もすれば、誰もがおまえを認めざるを得なくなる」そう言って、クリーヴを振り向いた。「なあ、そう思うだろう? “ファン”?」その問いかけに反応したのは、“ファン”ではなく画家の方だった。

「彼はファンじゃない」

 クリスの言葉に目を見開くクリーヴ。

「ファンじゃない?」とパン「じゃあ何だ? 友達か?」

「友達でもない。おれは彼に嫌われてる」

「嫌われてるだと? 何の話だ?」ふたたびクリーヴを見る。クリーヴは展開についていけず、呆然としている。クリスは言葉を続けた。

「おれは彼の兄を殺した。心当たりはないが、少なくともそういう話になってる」

「さっぱり意味がわからん」とパン。「じゃあ何か、おまえはおまえを嫌っている奴を部屋にあげているってわけか?」

 クリスはもう何も答えなかった。画材とマスカットの袋を持ったまま、ふいとキッチンに消えた。

「相変わらず謎なやつだ」パンは携帯灰皿に吸い殻を入れた。「あいつが十の頃から知っているが、受け答えだけはまったく変わらん」笑いながら、頭を左右に振る。

「十歳の頃から彼は絵を?」

 クリーヴは思わずパンに話しかけた。クリスの過去はメディアにほとんど書かれていないのだ。もしこの男がそれを知っているのだとすれば、大きな収穫になるかもしれない。

「ああ、そうだ。あいつは本物の天才だよ……」画商は歌うようにひとりごちる。

「おれと出会ったとき、あいつはまだほんの子供だったが、既にエル・グレコをものにしていたんだ。プッサンなど、本物よりよかったくらいでね。マチエールは雑だったが、ルネサンスものもいけたよ。学校から支給される安っぽい絵の具で、あいつは聖母子を描いてたんだ」

「模写を?」

「模写ばかりさ。絵はとびきりうまかったが、いかんせん閃きがなかった。アーティストには致命的なことだ。しかしまだ今のうちなら何とかなるとおれは思った。なんたって奴は子供だったからな。様々なものを見、多く世間を体験するうち、いいものが描けるようになるだろうと……」まぶたを落とし、深々と息を吸い込む。「それで、おれはあいつに暖かい寝床と高級な絵の具を与えてやったというわけだ。きみはタバコは?」

「いえ、今は」

 パンはその言葉に頷き、一本取り出して火をつけた。

「しかるべき場所と画材を与えられてから、あいつはメキメキ上達したよ。年上の画家たちに囲まれていたのもいい影響だった。自分が描きたいと思うものを徐々に見つけだしたんだ。社会生活から切り離されることが、あいつには必要だった。そもそも想像できるか? あれがネクタイをしめて会社に通うことを?」言って、ふうっと煙を吐き出す。

 ほんの十歳かそこらの子供を社会生活から切り離し、芸術に従事させるということがなければ、クリスにも“ネクタイをしめて会社に通う”という選択肢があったかもしれない。画家がコミュニケーション不全のような状態なのは、この男が大本の原因ではないかとクリーヴは考えた。

 パンの皮膚は日光とアルコールに焼けてオレンジに変色している。ヒッピー・ジェネレーションを思わせる彼の教育が、学校の外にあったとしても何ら不思議はないことだ。

 孤高の芸術家にもパトロンがいた。その事実はクリーヴに失望を感じさせた。絵画を売るのであれば、それを流通する経路が必要であり、最終的に芸術は金になる。それは当然のことだが、ストイックな芸術家と居るうち、彼はこうした俗世間的な関わりに不信感を抱くようになってしまったようだ。もしくはパンに自己紹介したように、“ただのファン”としての嫉妬めいた感情なのかもしれないが。

 クリスが戻ると、パンは「食事に行くか?」と、画家を誘った。クリスは制作を理由に口ごもったが、パンは「少しくらい外出しても差し支えあるまい」と、笑顔で応じる。

「行きたくないんだ」子供のような返答をするクリス。パンは彼の頬に指先で触れ、「顔色が悪い」と指摘する。「タンパク質を摂っているか? いないだろうな。今日は無理にでもおまえを連れていくぞ。それとそこのきみも、よかったら」

 クリーヴは驚いたように顔を上げ、「ぼく?」と、間の抜けた声を出した。

「他に誰か?」当たり前だろうと言うようにパン。この部屋にいながらも、自分は部外者だと感じていたクリーヴは、急に会話に取り込まれたことに面食らっていた。

「あの、ぼくは結構です。どうぞお二人で」

「そうか。じゃあ、ファンは留守番だな。クリス、何が食べたい?」

 父親のようなパンの問いかけを無視し、クリスはちらりとクリーヴを見た。それから描きかけの絵画に視線を移す。そしてまたクリーヴを───。その目の動きの意味を、クリーヴは即座に理解した。クリスはこのアトリエに、彼ひとりを残していくことを懸念しているのだ。

「心配しないで」と、クリーヴは微笑んだ。「きみの絵には指一本触れないと誓うよ」

 しかし画家は納得した様子ではない。身内の復讐に燃えた若者の言うことなど、信じられないのは無理もないだろう。クリスの困惑した表情を、クリーヴはそう読み取った。

「さあ、出かけるぞ。靴を履け」

 有無を言わせない口調のパン。クリスは迷惑そうな顔をしつつも言う事に従い、クローゼットからミリタリーブーツを取り出した。

 ここで『一緒に出ます』と言ってやれば、クリスは安心するのだろう。外から部屋に鍵をかけて、外部のすべてから絵を守る。しかしクリーヴはそう言ってやりたくはなかった。クリスが窮することに、嗜虐的な喜びを感じていたからだ。追い出される危険性は高まることはわかっていたが、彼の困り顔を見ると、小さな復讐心が満たされた。それはわずかなものだったが、快くもあった。

 パトロンにと共に部屋から出て行くクリス。彼にも弱い相手がいる。それは過去に育ててもらったという負い目なのか。暖かい寝床と高級な絵の具、その他に与えたものは何だったかは推して測るべし。ダ・ヴィンチの工房でもそれは別段珍しいことではない。

「さて……やっと二人きりだな」

 クリーヴは絵画に話しかけた。横に長いキャンバスは規格外で、ゆうに三メートルはあろうかという大きさだ。

 乱雑なタッチ。絵画の基本となる法則は見当たらず、情報としてもさほど整理されていない。おそらくこの画家は、最初から描きたいイメージが固まっているタイプではないのだとクリーヴは思った。これからまた筆が入れば、今ある橋やら太陽やらのモチーフは、すべて塗りつぶされるかもしれない。

『製作者と鑑賞者、二者により絵画は完成する』。かつてそう述べたのはクリーヴの恩師である。

「絵画とは、鑑賞者の存在があって、初めて成り立つもの。よき鑑賞者がなければ、その価値も理解されない。そして制作者と鑑賞者は、同じレベルでなくてはならない。どちらが突出していたり、どちらかが劣っていた場合、その芸術は正しく理解されないからだ」

 そう解説した教師は、授業の最後に「きみたちも無名のまま死ぬことのないように」と結び、生徒たちを笑わせたものだった。

 いつもクリスがいる位置、キャンバスの真向かいにクリーヴは立っている。

『見ればわかる』。レイはそう言っていた。言葉では伝えることができず、頭で理解するのでもない。ただ目撃し、そして感じる。抽象とも具象とつかないクリスの絵画は、どのカテゴリにも納まらず、また画家自身も“絵描き”という分類には収まりきれていないようだ。この奇妙な作風を、レイはこよなく愛したが(それは死ぬほどに!)、クリーヴにはあまり好みと言い難かった。彼が部屋に飾りたいと感じる画風は、もっと繊細でスムーズなライン。もしクリーヴが画商だとしたら、クリスの絵は間違っても買い付けることはなく、美術展で見かければ“好きじゃない”と判断して、通りすぎるだろうタイプの作品だ。

 しかし改めて見つめていると、この絵にはやはりただならぬ迫力があると感じられる。タッチこそ肌に合わないが、偉大なものだというのは明らかに納得がいくのだ。

 ここでクリーヴは不意に理解した。これは見る者を選ぶ絵だ。鑑賞者が絵を選ぶのではない。絵が鑑賞者を選ぶのだ。それは不思議な感覚だった。昨日まではそう感じることはなかったが今はわかる。ある瞬間に形が現れ、それが何であるかがわかるようなトリックアートを見せられているような感覚だ。

 ひとつの答えを発見し、クリーヴは満足を覚えた。クリスが戻ったら、このことを話すのもいいかもしれない。そう思い、絵から離れようとした瞬間、ふと彼は絵の一点に目を留めた。キャンバスの右下、角に近い部分に小さなほころびができている。それは二センチほどの傷で、かぎ裂きのように見えた。パレットナイフがつけた傷だろうか。

 もっと近くで見ようと、身体をかがめたところ、ぐらりと身体が揺れたようになる。きっとめまいだ。長く集中して絵を見続けたせいだ。しかしこの息苦しさは何だろう。背筋を伸ばすと、天井が低くなったように思えた。もちろんそれは気のせいに違いない。気のせいだと分かってはいるが、息が苦しくなった。どういうわけか絵から目が離せない。体内で血液がどくんと脈打ち、動悸が早くなる。キャンバスの上で絵の具が動きだす。それは波のようにうねり、森の木々のようにざわついている。点の集合体はいくつもの胎児の頭部のようだ。おびただしい数で、うじゃうじゃと集まってうごめく。胃がねじれて吐き気をもよおしたところで、胎児はクリーヴをあざ笑うかのように一斉に口を開いた。小鳥のヒナのように、唇のない口をパクパクとさせている。そこまでが限界だった。クリーヴは叫び出しそうになり──いや、すでに叫んでいたのかもしれない── 飛び退くようにして、絵から離れる。床に転がる前に、どしんと何かにぶつかった。短い悲鳴を上げ、振り向くと背後にクリスが立っている。支えられなければ、クリーヴはしたたか尻もちをついていただろう。

 いつの間に戻ってきたのか、そのことに驚く間もなく、クリーヴは叫ぶように訴える。

「なんだあれは!? あの絵はいったい……!?」

「何か見えたか」

「顔が……赤ん坊の顔がいくつも……動いて……」

「そんなものは描いてない」冷静なクリスの声に、クリーヴは落ち着きを取り戻し始めた。そうっと絵画を振り向き、もう一度キャンバスを見つめる。そこにあるのは池に浮かぶ蓮の花。木々の間から漏れる月明かり。顔などどこにも描かれてはいない。クリスの言う通りだ。

「あの…ええと……」クリーヴは狼狽し、言葉を探して口ごもる。「きみは…その……そうだ、パンは? 彼と出かけたんじゃなかったのか?」

「それはやめた」

「やめた? なぜ?」

「呼び戻されたんだ」

「誰に?」

「きみに」

 クリーヴは一瞬何を言われているのかわからなかった。

「ぼくは……きみを呼び戻してなどいない」

「わかってる」

 成立しない会話。その矛盾について、クリーヴは説明を求めようとはしなかった。今しがた自分がした体験は、クリスの不明確な発言を遥かに超えるもの。そのことについて説明はできない。だったらこちらも何も聞かないことだ。聞かず、話さず、狂気のかけらは毛布で包んでおけばいい。

 クリーヴは首に掌を当てた。汗をかいている。クリスはその様子をじっと見ている。視線に気がつき、クリーヴはまた狼狽した。画家の瞳は冷えたガラス玉のようだった。その美しさにクリーヴは狼狽したのだ。




 翌日、クリーヴは起きることを放棄した。画家の創作活動を眺めるのが彼の日課だったが、今日はそれをしない。あの絵を見て、またあんなものが見えてしまったら? そのときはどう反応したらいいのだろう? レイはあれを見たのだろうか? だから絵に火を? そもそもあれは何なんだ? クリスが魔術でもかけたのだろうか?

 いくら考えても思考はまとまらない。根拠のない予測は恐ろしい想像を生み、クリーヴを台所の床に縛り付けた。

 画家は絵を描いている。観客の不在を気にもせず。すべては順調に進み、生じる成果もまずまずだった。このままいけばパンを失望させる見込みはなく、クリスの信奉者を喜ばせ、結果として大きな利益を生むことだろう。

 クリーヴは寝袋の中で寝返りをうった。目を閉じてはいたが、眠ってはいない。しばらくして腹が減ると、彼は冷蔵庫を開けた。数日前に買い置きしておいたクラッカーとチーズ。それをミネラルウォーターで流し込む。

 たまにはこういうのもいいだろう。クリーヴは自分の行為をそう結論づけた。ここに来てから、毎日クリスを監視していたのだ。そのせいで神経が高ぶり、昨日は幻覚まで見てしまった。今日は休もう。休んで、絵のことは忘れよう。そう思い、再び寝袋に潜り込む。夜になると空腹を感じたが、それでも彼は起きようとはしなかった。明日になったら何か食料を買いに行けばいい。明日になったら、また絵を見よう。しかし、そのスケジュールは実行されなかった。翌日もクリーヴは寝袋から出ようとはしなかったのだ。クラッカーの残り数枚を口にし、ミネラルウォーターがなくなると、蛇口から直接、水を飲んだ。奇妙なことをしているというのは、本人にも自覚があったが、起きて歩くという気力が湧いてこない。この台所を出れば、クリスと会うことになるだろう。そして、あの絵を見ることになる。そう思うとますます行動の意志は萎えた。今や聖域となったこの場所から、彼は動こうとはしなかった。空腹で胃が痛んだが、夜まで無視し続けると、なんとかおさまった。

 固く冷たい床に転がり、クリーヴは考えた。再びあの絵を見て、また何かが見えたとしたら── そのとき自分は死ぬかもしれない──と。

 これが彼の想像した、もっとも最悪な展開だ。他にもさまざまな可能性を思ったが、そのどれも不吉で忌まわしいイメージばかりだった。しかしこの件で、彼は自分の兄の死について、強い確信を持つこととなった。間違いない。あの絵が兄を殺したのだ。直に目で見たそれは、悪魔のように邪悪で、薄気味悪いもの。

 見ればわかる─── それがレイからのメッセージだ。ようやく真実の一端にたどりついた。それがわかっていながらも、ここから出ていき、“あれ”と対峙することを思うと、クリーヴの胃袋は再び叫びをあげはじめる。

 両手で腹を押さえ、床に丸まっていると、ふいにクリスがやってきた。手には筆洗いのバケツを持っている。シンクの脇には、20リットルのエンジンオイル缶が置いてあり、クリスはそれに使用済みの筆洗油を流し捨てた。石油の匂いに刺激され、クリーヴの喉はえづく。バケツの中味を空にしながら、クリーヴを見やるクリス。視線を向けはしたが、それ以上のコミュニケーションをとることはしない。オイル缶のフタを閉じ、無言のまま彼はキッチンを後にする。残されたクリーヴは吐き気に咳き込み、シンクにつばを吐いた。

まったくの健康体である彼の身体は、この断食に悲鳴を上げている。何か食べた方がいいことはわかっていたが、それを実行するだけの気力がない。クリーヴは静かに目を閉じた。他にできることがないと判断したからだ。




 クリーヴが目覚めると、彼の聖域には果物の甘い香りが漂っていた。横たわったまま瞼をこすり、頭を持ち上げると、紙パレットの上にブドウの房が置かれているのが目に入った。以前パンが持ってきたのと同種のものだが、あれはもう数日も前のことなので、ここにあるのはクリスが新たに買ってきたものだろう。

 これを食え、ということなのか。まるで犬にエサをやるかのようなやり方。それでもこれはクリスなりの親切心だ。社会性のない彼らしい方法だと、クリーヴは苦笑した。

 起きて床にあぐらをかき、エメラルドの一粒を口に入れる。それはみずみずしく、とても美味だった。飢えた身体はエネルギーを求め、クリーヴはがつがつと果実を貪り食った。身体からエネルギーが湧いてくるのが感じられる。明日こそクリスを監視しよう。そして彼の悪意を突き止めよう。クリーヴはポジティブな意欲を取り戻し、久しぶりに幸福な気持ちになった。果物が運ぶさわやかな甘み。復讐というものも、おそらくこれと同じくらい甘いのだろう。クリーヴはそんな自分の考えに再度、苦笑する。




 普通の絵だ───。それが三日ぶりに見たクリスの絵の感想だ。クリーヴは隅から隅まで、キャンバスをチェックしたが、そこに異常らしきものを確認することはできなかった。あの日、確かにあったと思った、小さなかぎ裂きも見つけられない。あれは確かに幻覚だった。しかし“幻覚を見た”という体験は、実際にあったことだ。体験自体は夢でも幻でもない。やはりこの絵には何かある。今はただの絵の振りをしているが、これはまたいずれ変化する。あたかも昼は清純を装っている少女が、夜になると売春婦にその身を変えるように。『見ればわかる』。それがすべてのヒントに繋がるが、だからといって“見たまま”を信用するわけにはいかない。これはただの絵画だ。少なくとも今だけは。

 クリーヴが絵画と向かい合っていると、クリスがやってきた。シャワーを浴びた直後で、髪は濡れ、白いバスローブを身につけている。

「なにか見えたか?」何気ない口調で訊ねるクリス。

 クリーヴは答える。「いや……何も」

 絵を見ているのに『何も』とは奇妙な返答の仕方だが、彼にとってはこの答えが正しかった。今は何も見えない。うねるキャンバス。無数の胎児。内蔵がでんぐり返るような感覚も、何も感じられない。それでもあれは夢ではない。確かに彼は見た。この絵の真実の姿を、クリーヴは目の当たりにしたのだ。

「ぼくは見たんだ」絵に視線を据えながらクリーヴが言う。

「何を?」クリスは訊ねる。

「見たんだ……」

 この絵が恐ろしくないと言えば、それは嘘だった。しかしクリーヴはここから目を逸らすことができなかった。動悸がし、掌が汗ばむ。

「クリーヴ」画家が名前を呼んだ。しかしクリーヴは返事をしない。食い入るように絵を見つめ、再度「見たんだ……」とつぶやく。口で息をし、炎の前に立っているかのように、顔が熱くなる。何かが切れそうになったその瞬間、クリーヴの視界は遮られた。キャンバスとクリーヴの間に割って入り、立ちはだかるクリス。クリーヴは目の焦点を合わせるべく、何度かまばたきを繰り返した。

「よし」意を決したようにクリスは言う。

「外に出よう」




 闇が緞帳のように落ち、それにとってかわり、ネオンに光が灯り始める。マンハッタンは太陽の不在をものともせず、相変わらずの活気に満ちあふれている。

 クリスとクリーヴは、ヴィレッジからハドソン川方面に向かい、小さなレストランに腰を下ろした。レンガ作りの店構えは暖かみがあって、南イタリアの家庭料理というメニューによく合っている。店を選んだのはクリスだ。着くまでに少しも迷わなかったところを見ると、彼はこのレストランをよく知っているのだろう。

 この外出に、クリスは例の汚れたジャケットを身につけていた。ホームレス然とした格好に、クリーヴは飲食店の出入りを禁じられるのではないかと内心、心配していたが、クリスが上着を脱ぐと、そんなことはきれいに忘れてしまった。

 スプマンテを食前酒に、軽いアンティパストとモッツァレッラとトマトソースのピザを頼む。ウェイターは「こちらのトウガラシ入りのオイルをかけると、何枚でもピザが食べられますよ」と気さくにアドバイスする。それは実際その通りで、クリーヴは夢中で焼きたてを頬張った。クリスはピザには手をつけず、発泡ワインと前菜だけを口にしている。

「人と食事をするのは久しぶりだ」とクリスは言った。それはただの事実であり、“だから楽しい”とも“嬉しい”とも、およそ感情的な意味合いは込められていない。この不自然な“お見合い”に、クリーヴは戸惑っていたが、そのことをなるべく表面に出さないように努力をした。緊張や戸惑いなどの感情があることを、クリスに悟られたくはない。それは彼のプライドであり、身を守る盾のようなものだ。そんなクリーヴに対し、クリスは明らかにリラックスした様子を見せ、手酌でワインを注いでいる。

 クリーヴは油のついた指先をナプキンで拭きながら、「最初にきみと会ったときのことで……」と、唐突に話題を切り出した。

「ひとつ気になっていることがあるんだ。覚えてるかな? あの日、ぼくは鼻血を出した」

 クリスが沈黙しているので、クリーヴは先を続けた。

「あのとき、きみはどうしてわかったんだ?」

「何の話だ?」訝しげにクリス。

「ぼくが鼻血を出していることを。きみはあのとき、ぼくを振り返った。ぼくに鼻血が出てることを教えてくれたんだ」

「ああ、あれか。わかるんだ」茹でたアーティチョークの葉を剥がしながら、クリスは言った。

「どうして?」

「わかるのさ」前歯で葉をしごき、同じ言葉を繰り返す。

 クリーヴが黙っていると、クリスは前菜の皿から、クリーヴに視線を移した。じっと見つめ、「今、この瞬間にもわかることがある」と、おごそかに目を閉じて、鼻から息を深く吸い込む。

「今現在……52丁目のランジェリーショップで、キーラ・ナイトレイが矯正下着を試着中だ……」

「どういうことだ?」クリーヴは問いかけたが、クリスは目を閉じたまま。瞑想の面持ちで言葉を続ける。

「ああキーラ……確かにきみにはそのショッキング・ブルーは似合う。だがその“持ち上げる”ってのはどうだ? そんな無駄な努力はやめて、とっととシリコンを入れろよ」

「……うそだろう?」クリーヴは困惑し、眉をひそめた。

 可視能力───。かつてテレビで見た中国の超能力者のことをクリーヴは思い出していた。そのサイキックは目隠しされたまま、数字を当てることができたのだ。それは目ではなく、心眼でものを見るのだと言う。この男にも同じような力があるというのだろうか。

 クリーヴが呆然としていると、クリスはぱっちりと目を開けた。ぽかんとした表情の同席者を見て、くすくすと笑い出す。そこでクリーヴは、自分がからかわれたのだとようやく理解した。

「ひどいな、一瞬マジかと思った」

 まさかこの男が冗談をやるとは思ってもみなかったクリーヴは、ほっとしたはずみに笑顔になる。テーブルには笑いがあり、レストランのウェイターは、それを“楽しげな様子”と見てとり、コーヒーのおかわりを勧めにやってきた。

 ここにいるクリスは普通の男に見える。普通と言い切ってしまうには、独特の雰囲気があるが、少なくとも“狂気の画家”には見えない。あの絵もそうだとクリーヴは考えた。ほとんどの場合は普通の絵。しかしある瞬間には、まったく違う顔を見せる。この瞬間においてクリーヴは、クリスの持つ“まったく違う顔”について、思いを巡らせることはまったくなかった。久しく味わったことのない和やかな空気にすっかり安心したクリーヴは、今日はじめて見る“クリスの普通の側面”を快く受け取っていた。鼻血の件については謎のまま。うまくはぐらかされたとクリーヴが気づいたのは、それからずっとずっと後のことだった。




 店を出て、街を歩きだす二人。少し静かな通りに入り、クリスは「人と食事をするのは久しぶりだ」と、再度言った。

 クリーヴは訊く。「いつもひとりで食事を?」

「ああ」頷くクリス。

「恋人は?」

「いない。最後に別れてからずいぶん経つ」

「もったいないな、きみみたいな男がひとりだなんて。女が放っておかないだろうに」

 クリーヴが明るくそう言うと、クリスはまるで“無礼をはたらかれた”というような、しかめ面を浮かべた。

「ごめん」即座に謝罪するクリーヴ。「きみ、もしかして女性が嫌いだとか?」

 するとクリスは笑い「おれが最後に別れたのは“ガールフレンド”だよ」と、自分の性癖を明らかにした。

 たった今、“女が放っておかないだろう”と言ったばかりであるにも関わらず、クリーヴはクリスに“ガールフレンド”なる者がいたことに、どこか違和感を感じていた。ボーイフレンドならしっくりくるかと言えば、それもまた違う。このハンサムに恋人がいたとしても、何ら不思議ではないはずだが、クリーヴは何故か、“恋人がいるクリス”というものをイメージすることができなかった。

 そこにふと、パンの言葉がよみがえる。『あいつがネクタイをしめて会社に通うことを?』。そうだ、それも少しも想像できない。タイムカードをガチャンといわせ、電話をとり、コンピューターに向かう。かつて自分がやっていたようなそれは、おそらくクリスにはできはしないだろう。判で押したような日々。そうした一般的なことが向いていない者も世の中にはいるものだ。

 クリーヴの兄、レイモンドもまた社会生活には向いていなかった。父親はそのことを憂いていたが、クリーヴはむしろ兄を羨ましいとすら感じていた。社会に迎合できないことは“一部の者に与えられた特権”のように思えたからだ。たとえ本人がそのことを疎んでいたとしても、それは何らかに選ばれた印なのだ、と。

 そして自分は選ばれなかった(誰から? それはわからない)。選ばれたのは、兄。そしてここにいるクリス。彼らは間違いなく“選ばれし者”だ。しかしその印は通常は表立って現れない。かのイエス・キリストも、サマリアの水汲み女から見れば、普通のユダヤ人に過ぎなかった。ここにいるクリスが普通の若者に見えるのも、レイモンドが愚息に見えるのも、それはよくある話なのだ。

 夜道を歩きながら、クリーヴは言う。

「クリス、きみは思ったよりも……今は普通だな」

「普通?」

「もっと近寄りがたい印象があったから。正直、最初は少しビビったよ。あの玄関でぼくのことを睨みつけて」

「睨みつけてなどない」不本意だ、と言いたげにクリス。

「きみは目つきが鋭いからな。そういう風に見えたんだ」

 その言葉に、クリスはぴたりと歩を止めた。

「どうした?」クリーヴが振り向くと、クリスは「実はコンタクトレンズをやめてから、よくそう言われる」と言い、傷ついたような表情を浮かべた。

「目が悪いのか?」

「近視だ」

「どのくらい?」

「実を言うと、きみの顔もよく見えてない」

「そんなに? 危なくないのか?」

「危険はわかる」

「絵を描くのに支障は?」

「あると思うか?」

「ぼくの顔もずっと見えてなかったって? 一緒に食事までして、あんまりだな……」

「もっと近づけばわかる」

「どれくらい?」

「そうだな……」言って、クリスはおもむろにクリーヴに顔を近づけた。「これくらい」

 それは体温が感じられそうなほど、唇が触れそうなほど近い距離だった。突然のことに、クリーヴの心臓はとまりそうなり、ふたたび動き出したそれは、動悸のスピードを増していた。

 そんな彼の動揺を知ってか知らずか、クリスは微かな笑みを見せた。そっと静かに身を引き、「いい顔だな」と感想を述べて歩き出す。

 先を行くクリスの背を眺めていると、ひとりの女性が彼を見つめていることにクリーヴは気がついた。知り合いだろうかと思ったが、どうやらそうではないらしい。その女性はクリスを見ているが、声をかけるそぶりはない。三十がらみのこの女は、どうやら単なる興味からクリスを見つめているようだ。クリーヴはそのことに驚きはしなかった。例え絵の具で汚れていたとしても、この男と寝たがる女は多くいるはず。金を払ってでもというホモの男もいるだろう。無精髭を生やし、汚れた衣服を着ていても、クリスにはどこか洗練された印象がある。それもそのはず、彼は数年前までセレブと肩を並べていたアーティストだ。そして自分はどんなに着飾ったとしても、クリスよりも決して見栄えすることはないに違いない。

 誇りと屈辱がない混ぜになった複雑な気持ちで、画家の後を着いて歩くと、突然、視界が開け、クリーヴの目の前に川が現れた。道路を渡り、川の縁に立つクリス。柵に両手をかけて対岸を眺めている。クリーヴは彼の隣に並び、「どうしてここへ?」と質問した。「絵のインスピレーションでも求めにきたとか? いま描いているのは湖だと思ったけど……」

 クリスはシンプルに答える。「川が好きなんだ」

 夜のハドソン川は墨を流したように暗く、吹く風は冷たかった。向こう岸にある景色は、マンハッタンのきらめきには及ばない。しかしホボケンの夜景も、西海岸育ちのクリーヴにはそれなりに美しく写った。

 風が吹き、沈黙が流れたが、クリーヴは会話を諦めず、またひとつ質問を見つけ出す。

「どうしてぼくを食事に誘ってくれたんだ?」

 これについても短い返答しか得られないだろうと、彼は予測していたが、それは少しもその通りにはならなかった。

「ずっと以前……」クリスは川面を見つめながら、静かに話し始めた。「おれの部屋には人が住んでいたことがあった。パンが連れてきた絵描きの女だ。彼女は若く、とても才能のある画家だった」

 何の話が始まるのだろうとクリーヴは思ったが、珍しく長文を話すクリスの邪魔をするのはよくないと、口を閉じていた。

「おれたちは同じベッドで眠り、同じ屋根を共有した。彼女は自分の画材を持ち込んで絵を描き始め……パンはそのことを喜んでいたな。互いの作品にいい影響が出ていると見ていたようだった。そう、おれたちはうまくいっていたんだ。だがある日、突然……」わずかに目を細め、言葉を切った後、クリスはふたたび話し出す。「彼女の様子がおかしくなった。顔色は悪く、震えている。とても動揺していて、普通に話が出来ないような状態だ。おれは外に出ていたので、自分の留守中に何かあったのだと思った。強盗か、何かそういったものに襲われでもしたのかと。なんとか彼女を落ち着かせ、おれは聞いた。“何があった?”。彼女はこう答えた」

 クリスはクリーヴへ顔を向けた。

「絵が動いた───」

 画家の髪は冷風に吹かれ、唇からは息が白く立ち上る。

「おれの絵が、キャンバスの上で動いたのだと、彼女は言った」

 クリーヴはごくりと唾を飲み込んだ。クリスは川に視線を戻す。

「おれは言った。“そうか、疲れてるんだな。今日は早く寝た方がいい”。彼女は泣きはらした目をして、こう言った。“信じてないのね”───。その日から彼女は変わっていった。絵筆を取ることをやめ、ベッドから起きようとしなくなった。具合が悪いのかと聞くと、悪くないと言う。“別に何でもない。ただあなたの絵を見たくないのよ”、と。おれにはさっぱりわけがわからなかった……タバコ、持ってるか?」

 クリーヴが持っていないと答えると、クリスは先を続けた。

「“この部屋に何かいる”。彼女はそんなことを言い出した。姿は見えないが、確かに何かが存在するのだと。おれにだけでなく、他の画家仲間にも同じ話を……繰り返し、繰り返し……。皆は“気のせいだ”と彼女をなだめた。“そんなものいやしない。疲れているんだ”。大方はおれの意見と同じ。彼女に同意する者は誰一人としていなかった。それがあまりに長く続くので、おれは彼女を病院に連れていった。入院すると一時的によくなったが、部屋に戻るとまた元の状態に……」

 遊覧船が川を通ると、クリスの声が聞き取りにくくなった。クリーヴは距離を詰め、画家の真隣へと並ぶ。

「“目には見えないけど、確かにここには何かいる”。彼女はそう言い続けた。“あなたにはわからないの?”。おれは答えた。“わからない”───。でもそれは嘘だった」

「嘘?」

「おれは彼女の狂気を認めたくなかったんだ。おれたちは普通に……普通の……」クリスは言葉を探し、言いよどんだ。「……普通の恋人同士として、うまくいけばいいと思っていた」

 ようやく見つけたその台詞はとても陳腐なものだったが、それがクリスの本当の気持ちであることを、クリーヴは正しく理解していた。

「その後、彼女とは?」そうクリーヴが聞くと、クリスは微妙な表現をした。

「いなくなってしまったんだ」

「それは……“別れた”という意味? あの部屋から出て行ったと?」

「たぶん」

「たぶん?」

「ある朝、おれが目を覚ましたら、彼女の姿はどこにもなかった。ベッドに入る前に身につけていたものは、床に脱ぎ散らかしてあって、携帯電話はテーブルに置いてあった。おれは不安になってパンに連絡した。彼女はずっと外出をしていなかったから、こんな風に突然いなくなるのは妙だと思ったんだ。パンと一緒に部屋の中をいろいろ調べているうち、おれは気がついた。彼女の靴がすべて揃っていることに。裸足で家出をするなんて妙だ。これは事件性があるとパンが言い出したので、おれは警察を呼んだ。服もピアスも外した状態で、彼女がどこに消えたのか……。警察は彼女の狂言ではないかと疑っていた。外部から人が入ってきた証拠は見つけられなかったんだ。失踪先に心当たりはない。パンもおれも四方八方、手を尽くした。探偵すら雇ったが、それでも彼女のことは見つけられなかった」

 ひとりの人間が消えてしまった。これが家出でないとしたら、ぞっとする出来事だ。クリーヴは首をそびやかし「不思議な話だ」とつぶやいた。この話が恐ろしいのは、マンハッタンの犯罪率の高さを現しているからだろうか。それとも奇妙な事が身近に起こりうるという恐怖からだろうか。

「今から十年以上前の話だ」とクリス。「長く時が経って、今おれが思うのは……“彼女は向こう側に行ってしまった”ということだ」

 これは何かの比喩なのだろうかとクリーヴは思った。行方不明の詩的な表現だとしたら、“どこに?”と聞くのは無粋すぎる。そのかわり、聞いておきたい肝心なことを訊ねた。

「彼女の名前は?」

 クリスは鼻から息を吐き出し、ゆっくり正確に、その名前を発音した。

「クリス───」言って、微かに──ほとんど気がつかないほど、微かに笑みを浮かべる。

「彼女はおれと同じ名前を持ってた。おれたちは同じ音でお互いのことを呼び合ってたんだ」




 川べりで身の上話を聞いて以来、クリーヴは積極的にクリスを監視することをやめていた。食欲は戻り、それにともない使命への意欲もふたたび沸いていたのだが、これまでのように“ずっと見張る”というやり方は、あまり有効でないように感じていたからだ。

 今のところ、どうやら追い出される気配はないようだし、それならばいずれシッポをつかむことができるかもしれない。これは長期戦だとクリーヴは思った。しかしそれぐらいの覚悟はできている。仕事を辞め、大切にしていたバイクも売り払ってきたのだ。決心は元より並大抵なものではない。

 アトリエの台所は、今やクリーヴの部屋だった。キャンプ用の簡易コンロを買って、コーヒーを淹れたり、卵をゆでたり。生活を工夫し出したのは、ここに長く腰を据える前提でのことだ。暮らしの中に居心地のよさを求めるのは自然なこと。この真冬に水と果物だけで何日も生きていこうというのは、修行中の僧侶か、変わり者の絵描きくらいのものだ。

 その日、クリーヴが買い物から戻ると、既に製作は終わっており、クリスはベッドでぐっすりと眠り込んでいた。アトリエにおける奇抜な行為には慣れたと思っていたクリーヴだが、それはどうやら甘かった。眠る画家の姿を見たクリーヴは、ぎょっとし、思わず買い物袋を取り落としそうになった。クリスはいつものように裸で眠っていたが、その状態はいつもとは異なっている。赤や緑、青、黄色など、とりどりの絵の具が彼の身体に塗られているのだ。腕と足、首筋、胸から腹へ、顔へのペイントは戦いに赴くインディアンを思わせる。裸の人間に絵の具を塗り、キャンバスに体当たりするというポップアートの手法があるが、クリスの絵画はもちろんそんなやり方を好むものではない。描きかけのキャンバスは従来通りの顔を見せていることからも、これはジャスパー・ジョーンズのポップアートとはわけが違うようだ。

 何のためにこんなことを、とクリーヴは思ったが、ふと絵の具の道筋に、ある法則が存在することに気がついた。顔料が混ざり合って泥のようになっている箇所、それはとりわけ神経の集中する部分に限られている。画家の両手にべったりと絵の具が付着していることと、彼の下半身のある一点に向かって伸びた色は、クリスが何をしていたのかを推測するのに易い証拠となっている。

 小さな唸り声を発し、カラフルな男が目を覚ました。クリーヴは画家の裸体を凝視していたことにきまりの悪さを感じたが、あえて目を逸らすことはしなかった。制作時に勃起しているクリスが、ときどき睾丸の中身を空にしたいと思ったからといって、何の不思議があるだろう。ただマスターベーションの方法としては、ずいぶんと独創的と言えるだろうが。

「こんなことをしていたら鉛中毒になる」と、クリーヴは画家に忠告した。油彩絵具はシルバーホワイトなど、その種類によっては鉛を含むものもあるのだ。

 クリスはベッドに横たわったまま、「絵に詳しい」と、つぶやく。

「以前はよく描いたんだ」と、クリーヴ。

「以前は? 今は?」言いながら身体を起こすクリス。

「今はマウスを使って簡単なグラフィックを描いてる。ここに来る前までは広告代理店に勤めてたから」

「絵筆は?」

「フォトショップのツールでならなんとか。長い残業を終えた後に、油絵にとりかかるほどの情熱はないね。ところでコーヒーの豆を買ってきた。きみも飲むかい?」

「ああ」

「その前に窓を開けてくれ。せっかくのアロマが絵の具の匂いと混ざってしまうから」

 クリーヴはやかんをコンロにかけ、お湯を湧かし始めた。立ちのぼる蒸気は、窓からの風に吹かれ、現れたり消えたりを繰り返している。

 絵筆を持たない理由として、彼は長い残業と情熱の欠如をあげたが、それは嘘だった。足りないのは時間ではない。油絵にとりかかる情熱がないのは事実だが、それ以前に最も大切なものが欠如している。それは……霊感だ。芸術の霊感。アートのインスピレーション。クリーヴの元には何も光臨せず、精霊の羽ばたきひとつ聞こえてこない。遥か昔、絵を描くことが楽しくてたまらない時期も、彼には確かにあった。食事もそこそこにキャンバスに向かい、絵の具が乾く間もなく、筆を動かす。ケーブルテレビで絵画の特集番組があれば必ず録画したし、地元で展覧会が開かれれば兄を誘って観にも行った。丁寧で小奇麗なクリーヴの絵は、親や親類たちに評判がよかった。ロッキー山脈を描いたときには、コロラド州出身の叔父が喜んで購入し、そうしたことはクリーヴにとって、いい小遣い稼ぎにもなった。一方、レイの絵は、多くの者に気に入られる作風とは言い難い。扱う色合いは暗めで重たく、筆跡を激しく残したタッチは、パワフルではあるが、乱雑にも見えた。叔父は「新居の壁に飾るには、クリーヴの絵が相応しい」と言ったが、それは若き絵描きにとって、あまり喜ばしい種類の褒め言葉ではなかった。

 本当に素晴らしいのはレイの絵だ。クリーヴはそのことをよくわかっていた。悲しいことに、この兄弟たちだけが、自分の作品の価値を正しく理解しており、そのおかげでクリーヴの絵はよく売れた。近所の主婦が結婚記念日に何か描いてほしいと言えば、それに応えて静物画を制作し、いとこが亡き愛犬の姿をそばに置いておきたいと言えば、バセットハウンド犬をユーモラスに表現した。絵を売った金でオートバイを買うことはできたが、クリーヴの芸術家としての部分は、その成果には少しも満足していなかった。

 外は雪が降っている。クリスが揮発性のクリーナーで身体を洗ったため、窓は開け放たれたままだが、フレーク状の雪を眺めながらコーヒーを飲むのは、そう悪いものではない。裸でシーツにくるまるクリス。見た目にはとても寒そうだが、彼自身は少しも気していないようだ。熱い液体は二人の身体をほどよく温めてくれた。

「兄をきみに会わせたかったよ」

 ここへ来た原因が何であったか忘れたかのように、クリーヴは言った。

「兄のレイモンドは画家だった。それで食べていたわけじゃないけど、彼は間違いなくアーティストだったんだ」コーヒーに口をつけ、上唇を舐める。「さっき、ぼくが絵をやめた理由を言ったけど、あれは本当じゃない。本当はレイがいたからだ」

 クリスはカップを手に持ったまま、じっと言葉に聞き入っている。

「彼の存在があったから、ぼくは描き続けることができなくなった。死ぬ間際のレイは天才だったと思う」

 本物の天才を目の前にして言うべき台詞とも思えなかったが、クリーヴにはそれが真実だった。絵を描く二人の兄弟。家族は弟を褒めたが、弟は兄の方が勝っていると知っていた。家族の中に天才がいて、どうして同じ道を志すことができるだろう。レオナルド・ダ・ヴィンチの師であるヴェロッキオは、若干ハタチのダ・ヴィンチの絵を見、その存在感に圧倒されて以来、二度と絵筆を取ることはなかったと言われている。知る勇気と、見極める目を持っているとすれば、時に真実は苦痛以外の何ものでもない。

 クリーヴはふたたび、今度はもっと感慨深く、「兄をきみに会わせたかった」と、つぶやいた。

 きっとレイは自分よりもっと多くのことをクリスと理解し合えたに違いない。なんといっても二人は素晴らしい芸術家同士なのだから。自分にはこの部屋の特別性はわからないが、レイならばきっと何かを感じ取ることに成功したはず。自分ではなく、レイがここに来るべきだった。エデンの東に追放されるべきは、兄ではなく弟(じぶん)の方なのだ。兄は生きて、絵を描き、そしてクリスに会うべきだったのだ。

 強くそう思うクリーヴの考えを読んだかのように、クリスは静かに話しだした。

「何に意味があって、何に意味がないか……」

 クリーヴが顔を上げると、天然石のようなクリスの目がそこにあった。

「起きたことにはすべて意味がある。おまえの兄はおれと会うことはない。これまでも、そしてこれからも」

 それは奇妙な表現だとクリーヴは思った。レイは既に死んでいるのだ。“これからも”会うことはないのは当然のことではないだろうか。

「おまえがなぜここに来たか、おれは知らない」とクリス。「おまえもまた、なぜここにいるかを知らないでいる」

 ここに来た目的についてはもう言ったはずだ。それをクリスが忘れているとしても、少なくとも自分自身はわかっている。これ以上ない明確な目的があってやってきたのだから。それを“知らない”とは、一体どういうつもりなのか。

 クリーヴは画家の意見に反論したかった。でなければせめて、今の言葉の意味を問いたかった。しかしクリスの燃える瞳に見つめられると、すべての言葉は焼き尽くされてしまう。人から凝視されるのは、クリーヴにとって決して楽なことではなかったが、ここで目を逸らしてしまいたくはなかった。もし自分たちが、クリスの言うように“何も知らない者同士”であれば、見つめることで何かを発見できるかもしれない。

 無知なる者に残された手段はわずかなもの。クリスの瞳には炎が宿り、肉体は見つめるごとに薄れ、今にも消えてしまいそうだ。時が過ぎれば肉は朽ちる。それは洞窟に埋葬されたラザロのように。魂の容れ物である身体は、死後三日を経過し、今にも崩れ落ちんばかりになっていく。

 今にして思えば、レイは死ぬ間際、己の肉体を燃やしつくしていたのだ。精神性に重点を置いていた兄は、滋養のある食事を摂ろうとはせず、女性と性的な関わりも一切持とうとしない。クリーヴはレイの言う“身体はただの容器である”という考え方には、さほど共感することはなかった。それは自分が俗なものと切り離されないためだと思っていたが、ここへきてクリスを見、新たに発見したことがある。肉体はとてもシンプルなものだ。エネルギーを満たした身体は汗をかき、勃起に至る。“俗なもの”と呼ぶのも、“ただの容器”と呼ぶのも自由だが、いずれにしてもそれは観念のひとつに過ぎない。

 身体に対して、レイは極東の僧侶のような厳しさを持っていたが、クリスにはそうしたストイックさは感じられなかった。絵の具まみれの彼は淫靡そのもので、“肉体を使った行為”を放棄していないことも明らかだ。

 雪は夜半過ぎまで降り続き、マンハッタンの夜を白く染め上げた。街それ自体が聖地となった夜、クリーヴは久しぶりに兄の夢を見た。レイは体中に炎をまとわりつかせていたが、顔には微笑みがあり、とても幸せそうだった。クリーヴは彼に“今どこにいるのか”と聞いたが、レイは笑って答えなかった。目が覚めた後は奇妙な気持ちになったが、この夢に意味があるとは思えなかった。“すべてに意味がある”とクリスは言ったが、夢は夢だ。分析することが重要だとはクリーヴには思えない。しかし何かに近づいているのだということだけは、確信が持てた。その自信がどこからくるのかは、まったくわからなかったが。




 この夜は、クリーヴがクリスを外に連れ出した。パンの強引さを真似て、食事に行こうと提案したのだ。クリスは思いのほか大人しくクリーヴに従った。パトロンには“行きたくない”とゴネていたくせ、今回素直に同意したことに、クリーヴは少なからず喜びを感じていた。

 彼らは先日よりも遠くのレストランに足を伸ばし、先日よりも多くのアルコールを摂取し、先日よりも長く席に留まった。おかげでクリーヴは店を出たとき、足下があやうかったが、それでもタクシーを拾うことは拒否。歩いて帰ることを彼は望んだ。

 タイムズ・スクエアには人だかりがあり、見るとそこにはひとりの大道芸人が立っていた。カウボーイハットをかぶったその男は、アコースティックギターを演奏している。そこまでは普通だが、変わっているのは彼の衣装だ。ペイントを施したブリーフ以外、何も身に付けてはいない。傍らの看板には『裸のカウボーイ』と書いてあった。

 クリーヴは目を細め、「マンハッタンにはおもしろいアーティストがいるな」とつぶやいた。

「この寒空にあんな格好をするなんて。親父が見たら笑うだろうに……」

 近くにいた中年男がそれを聞きつけ、「親父さんに写真をどうだい?」と、クリーヴを促す。「チップは彼のブーツの中に入れるんだ。おれがシャッターを押してやるよ」

「いや、いいよ」クリーヴは苦笑し、断った。「それに裸のアーティストなら見慣れてる。珍しくもない」

 アルコールの効果は甚大だ。今夜のクリーヴはとても愉快な気分で、いつもよりずっと饒舌になっていた。

「なあ、クリス。きみは裸をいやらしいとは思ってないんだな」

 歩きながら、くだけた口調で画家に話しかける。

「それに恥ずかしいとも感じていない。どうしてだろうとぼくは考えたよ。そして一緒にいるうち、何となくわかってきた。きみにとって肉体は……何て言うか……聖なる……何かもっと……良い容れ物のような……」

 ワインのせいで思考力が低下している。クリーヴが適切な言葉を探していると、クリスが不意に「神殿?」と聞く。

「そう! それだ!」

 思わず大声を出すクリーヴに、軽く笑いを浮かべるクリス。その表情は晴れやかなものだったが、どういうわけかクリーヴの胸は締め付けられ、苦しくなった。

「ぼくはあんなふうに服を脱ぐことはできない」とクリーヴ。「やっぱり恥ずかしいからね。見られているとわかったら、勃起することだってとても無理だ」

「おれだって別に好き好んで見せてるわけじゃない」クリスはタバコを取り出し、口に咥えた。「おまえが勝手に見てるだけで」

「まあ、そうだけど」

 クリスは少し立ち止まってタバコに火をつけた。マッチの火に照らされ、輪郭のラインがはっきりと浮かび上がる。どこか冷たさの感じられるその横顔に、クリーヴは強く視線を奪われた。

「きみの身体は神殿だ。特別な人間。少し……うらやましくもある」

「誰の身体であっても同じことだ。おれが特別なんじゃない」

 どう見ても特別としか思えない男はつぶやき、煙を吐き出した。

「やあ、兄さんがた」前歯の折れた若者が、ふらりと現れ、「1ドルもってないかい?」と、二人の前に立ちはだかった。クリスは黙ってポケットからドル札を取り出す。差し出したそれは5ドルだ。若者はぱっと顔を輝かせ、「サンキュー」と礼を述べ、去って行った。

「きみが特別じゃないとしたら」クリーヴは訊いた。「あの男の肉体も神殿か?」

「そうだ」とクリス。

「ぼくにはとてもそうは思えない。あいつはただのタカリだろ。特に美しいとも思えないし……。“誰の肉体であっても同じ”というのは、悪いが詭弁に聞こえるね。“同じ”なんて言ったら、美しくあるべく努力している奴はどうなるんだ? 努力とか個性とか、もっと言えば神からの賜りを否定しているようにも思える」

 クリーヴは早口でまくしたてた。“自分は選ばれなかった”という彼の劣等感が、若者の感情を激しいものへと変化させている。

「つまりきみは自分の特別さを、そうやって否定したいだけなんじゃないか?」

「かもしれない」

「ハル・ベリーやアンジェリーナ・ジョリーであれば、肉体の神殿という言葉も似合うけど」

「それがおまえの好みか」クリスは唇の端を上げ、笑った。

「俗っぽいって言いたいんだな? 別にいいさ。でもきみだって、さっきのタカリ男とアンジーのどちらかを選べって言われたら、選択の余地はないはずだ。それぐらいの違いはわかるだろ?」

「いや……どうかな」クリスは静かにつぶやいた。「おれにはさほど変わらない」

 そのコメントに、クリーヴは小さく肩をすくめた。「まあ、きみは目が悪いと言ってたしな。でも大概の人は“違い”を感じるんだ。特別な人間とそうでない人間の……。なあ、きみは本当におれの言っていることがわからないのか?」

「そんなことはない。わかるさ。言わんとすることはな」

「じゃあ、続けるけど……。もし“誰もが同じ”なのであれば、さっきの奴は人から金をたかるよりマシな仕事ができるはずだと思わないか? たとえば服を脱いでカウボーイハットを被ってギターを弾くとか。でも彼がただ服を脱いだところで、ネイキッド・カウボーイのようにチップを稼げるとは思えない。だろ?」

「そうだな」

「そういうのはどこに違いが?」

「違いは“本人がそれに気づいているかどうか”だ」

「気づいていることで違いが?」

「おそらく」

 言われてみればそうかもしれないとクリーヴは思った。もし自分の肉体が神殿だと知れば、脳味噌まで薬づけになったり、成人病になるまでジャンクフードを貪り食ったりはしないだろう。神殿に納めるものは、いつも特上のものと相場が決まっているからだ。

「兄は“身体のレベル”には関心を持たなかった……」弟は昔を思い出しながら話し始めた。「“身体のレベル”──レイモンドはそういう言い方をしてたんだ。肉体よりも高いところに彼は行こうとしていたんだと思う。女と付き合うこともなかったし、たぶん死ぬまで童貞だっただろうな。もしかしたらセックスを嫌悪していたのかも」

 精神性ばかりに重きを置いていたレイ。最終的には自らの神殿を燃やし、破壊した。それは肉体に無関心ということになるのだろうか?

「ぼくはセックスにも普通に興味はあったけど……でもそのせいで、自分がレイほどには、芸術の高みに登りつめられないのかと考えたこともあったね」

「欲望を持つことが?」

「性的な欲望がね。創作の邪魔になるのだろうかと」

「欲望と芸術は時に切り離せない」クリスは断定して言った。「過去の絵画を見てみろ。バテシバの沐浴は欲望の免罪符だ」

「それはどうだろう。偉大な画家の全員がそんなことを考えていたというのは賛成しかねるな」

「そうか? 聖セバスチャンの絵を描く画家のペニスが、平常時の大きさだったとどうして言える?」

「ミケランジェロがダビデ像を彫りながら勃起していたとでも?」

「かもしれない。残念ながらダビデの方はその気はなかったようだが」

 冗談めいたクリスの言葉に、クリーヴは声を立てて笑った。確かにミケランジェロのダビデのペニスは、平常時以下の大きさに留まっている。

 西洋芸術の歴史は、教会のモラルとのせめぎ合いの元に成り立ってきた。男の裸をセクシーに描こうとすれば、それは必ず天使か聖人でなければならない。裸体の上には布を描き、極めて不自然な形で股間を覆い隠す。ペニスひとつで大騒ぎするくらいであれば、神は始めからアダムを去勢しておけばよかったのだ。

 ふいにクリスがつぶやいた。

「おれはもう、そう長くないような気がする」

 たった今、冗談を言っていた口から、死にまつわるコメントが出た。それ自体ジョークのようだが、クリスは少しも笑っていなかった。

 クリーヴは努めて明るく、「そういう人ほど長生きするんだ」と言葉を返す。まだ若く、見るからに健康そうな肉体を持つ男の寿命が、あとわずかなどと、いったい誰が信じるだろう?

 クリスは目を細めて道の先に視線をやり、「誰かに秘密を分かち合う時期なのかもしれないと……」と、独り言のようにつぶやいた。それは実際に独り言なのだろう。クリスはクリーヴを見てはいなかった。この世のどこにも、その視線は据えられていない。

 雨が降ってきたが、ふたりは黙って歩き続けた。アパートに着くまで、クリーヴは二度ほど、クリスの横顔を盗み見た。形のいい鼻先から、雨の雫が滴っている。濡れ鼠になっていても彼は男前だ。クリーヴはそのことを、もう羨ましいとは思わなくなっていた。

「寒くないかい」前方に視線を据えたまま、クリーヴはつぶやく。

 クリスは何も返事をしない。画家のこうした反応にも、今やクリーヴは慣れていた。

「ぼくは寒いよ。きみは? 寒くない?」

「……ああ、寒い」

 その後はお互い無言だった。同じ寒さを感じているというだけで、クリーヴは満足だった。




 まずクリーヴが感じたのは匂いだった。

 オレンジのような柑橘系の香り。どこか人工的で、車の芳香剤にも似たものがある。はじめは気のせいかとも思えたが、その甘ったるさは、徐々にはっきりと鼻孔に訴えかけてくる。

「こっちへ来てくれ……」

 クリスの声は優しげで、クリーヴを妙に緊張させた。

「静かに……こっちへ……」

 ささやくクリス。これは性行為の誘いなのだろうかとクリーヴは思った。仮にそうであったとしても、自分は応じられない。これまで一度も、男の肉体に興味を持ったことはないのだから。

 いつものようにキッチンの床で眠るクリーヴを、クリスが揺り起こしたのは深夜三時のことだった。そんなふうに起こされるのは、ここへ来てから初めてのことで、クリーヴは目をこすりながら、いったい何があったのかと聞いた。しかしクリスは訳も言わず、盲しいた者を導くようにクリーヴの手を引いて、台所からアトリエへ案内した。

「怖がることはない」と、クリスは言った。ベッドサイドのテーブルには、小さなロウソクがひとつ立っている。明かりに反射し、白いシーツが妙にはっきりと、その姿を浮かび上がらせる。

「クリス……ぼくはその……きみのことは嫌いじゃないけど……」

 しどろもどろになるクリーヴ。彼の唇に、クリスは指を一本置いた。歯と歯の間から、シーッと音を吐き出し、「静かに……」と行動を制する。

「手を出せ」クリスがそう命じると、クリーヴはまるで催眠にかけられたかのように、片手を差し出した。画家はその手を取り、「触って……そっとだ……」と指示をする。

 言われるまま、クリスに触れようとすると、指先に何かがぶつかった。

「そうだ、そこだ」クリスは頷いたが、何が“そこ”なのか、クリーヴにはわからない。指先には何もなく、クリスの身体にはまだ届いていないのだから。

「触ってみろ」とクリス。その指示にクリーヴは困惑した。“さわってみろ”───でもいったい何に? その疑問の答えを、クリーヴは己が手に感じ取っていた。触れているのは柔らかな毛だ。鳥の羽毛のようでもあり、子猫の毛のようでもある。“感触”は確かにそこにあった。だがしかし、肝心の“存在”がそこにはない。手に触れているのは間違いなく物質的なもの。しかし目に見えるのは床と自分の足だけだ。

 クリスはクリーヴの腕を掴み、誘導するようにして、その“存在”にクリーヴの手を押し付けた。すると、柔らかな毛がよりはっきりと感じられる。毛の下には肉があり、いくつもの関節がゆっくりと移動している感触がある。どうやらこれは温かく、命を持っている何かのようだ。しかし目には何も見えない。ここにあることは間違いないというのに、何度まばたきをしても、その生き物をクリーヴは視覚で確認することができなかった。

 なんだこれは? いったい何なんだこれは? クリーヴは頭のなかから、この物体に該当するもののデータを探したが、それは何ひとつ見つけられない。強いて言えば“透明人間”ということか。しかしこの毛むくじゃらの生き物が、“人間”などではないことは、その感触から分かりきっている。

「これは……いったい……?」

 セクシーな展開にうろたえていたことも忘れ、クリーヴはたどたどしく言葉を振り絞った。

「こいつは生きてるな……? 生き物だ。透明な生き物。そうだろう?」

 自分の発言を確認するように、手の中で脈打つ“それ”を握る。ぎゅっと力を込めると「強く掴むな」と、クリスから警告された。

「そうっと触れてやれ。優しく……」

 初めてウサギに触れる幼児を諭すような口調。クリーヴは毛の流れる感触に沿って手を動かしたが、どこまで行ってもそれは途切れることはなかった。形状から察するに、地球上のいかなる動物とも似てはいない。せめてこれが犬や羊のようなものであればクリーヴはいくらか安心することができただろう。しかしここにいる“やたら細長い生き物”は、明らかにそのどちらでもないようだ。

「なんてこった、クリス……こいつは……」

 クリーヴは手を引っこめ、すがるようにクリスに視線を向けた。画家の顔には微笑が浮かんでいる。

 なぜ笑う? この化け物を前にしてなぜ笑うんだ? 傍らの男が自分の精神の正気を保つ助けにならないことを、クリーヴはその笑みによって知らされた。

 クリスが宙に腕を伸ばすと、シュルッという衣擦れの音と同時に、彼が羽織った白いシャツに不自然な形で皺が寄った。

「こいつはロング・ジョンだ」とクリスは言う。そしてやんわりと腕を丸め、何かを抱えるような仕草をし、何もない空間に優しいまなざしを向けた。

 シャツの皺とクリスの動きから、何らかの形を推測するならば、“ロング・ジョン”とやらは、ぐるりと幾重にもクリスの身体に巻きついていることになる。

「なんてことだ……」

 クリーヴは自分の目を疑った。“見えていない”にもかかわらず、彼は“自分の見ているもの”が信じられなかった。

「こわいか?」

 クリーヴに視線を向けることなく、クリスが言う。

「こわがることはない」

 クリーヴはその言葉が自分に向けられているのか、それとも“ロング・ジョン”に向けられているのかわからなかった。クリスの視線は依然、自分の身体のまわりに、愛しげに据えられたままだ。

「なにもこわがることはないよ、クリーヴ」言って、画家はようやくクリーヴを見た。緊張に上唇をなめるクリーヴ。鼻孔にはオレンジの香りがあり、それはますます強くなるようだった。

「クリス、こいつは何だ? どんな生き物なんだ?」

 何が起きているかもわからずに、“恐れるな”というのは無理な注文だ。

「ぼくにわかるように説明してくれ」

「これが何か知りたければ、触ってみるといい」

「さっき触った、もういい。こいつは何なんだ?」喋るうち、クリーヴの声には徐々に力が戻ってきた。

「おれには説明できない」とクリス。「こいつを感じてみろ。それが答えだ」

 言われ、クリーヴは再度、チャレンジすることにした。クリスの胸のあたり手を伸ばすと、指先が柔らかな毛に出会う。上等な毛皮のような手触り。その下にうごめく筋肉と骨があるのは、さっき触って検証済みだ。

「これはなんだ? 全体像はどうなってる? 手足はあるのか? 知能は?」その問いかけに、クリスは眉間を曇らせた。画家の表情の変化から、自分が陳腐な問いかけをしてしまったことをクリーヴは悟り、「ロング・ジョンって名前は何なんだ?」と、質問の方向性を変えた。

「名前はおれがつけた。呼び名があった方が、こっちも判別しやすい」

「判別?」おうむ返したが、クリスは答えない。

 クリーヴは窓へ視線を移した。外が暗いため、ガラスが鏡のようになっている。そこに見えざるモンスターの姿があるのではという期待も虚しく、写っているのはキャンドルの明かりと自分、そしてクリスだけだった。

「ロング・ジョンか……」ため息をつくクリーヴ。想像するに、これは毛むくじゃらのニシキヘビといったところだ。もしくは中国の神話のドラゴンか。いずれにしろ、この神秘現象につける名としては、“ロング・ジョン”はずいぶん俗っぽく聞こえる。

「それで? ぼくにどうしろと?」つやつやした皮毛を撫で、クリーヴは開き直ったように言った。「まさかロング・ジョンのエサになってくれとか言うんじゃないだろうな」

 クリスはくすりと笑い、「まさか」とつぶやいた。「別にどうも」

「ただきみの友達を紹介してくれただけだと?」

「そうだ」

「他にロング・ジョンの存在を知っている者は? パンはこれを何と?」

「いいや、彼は知らない。おれ以外は誰も」

「知っているのはおれときみだけ? それはどうして……」

「クリーヴ」名前を呼び、人差し指を唇の前に立てる。それは確実に効果があり、クリーヴはこれ以上何も質問ができなくなった。

「おやすみ」その静かなつぶやきに、クリーヴは戸惑いつつも「うん」と頷かざるを得なかった。

 寝ることを促され、ふたたび寝袋に入ったものの、安眠はなかなか訪れなかった。たった今、あんな奇妙な体験をしたのだから当然だ。

 見えざるドラゴン、ロング・ジョン。あれがこの部屋に宿るエネルギーの正体なのだろうか? 絵に力と魔法を与えているのがあの生き物だと? それは充分考えられる。つけられた名前は安っぽいが、あれはまさしく神秘そのものだ。クリスは“おれの絵に題はない”と言っていた。おそらくこの画家は、“名称”に重要な意味を感じていないのだろう。あの神獣に下らない名前をつけていることがその証拠だ。

 しかしそれよりもっと下らないのは自分の発想だとクリーヴは思った。さきほどクリスに起こされたとき、自分はいったい何を考えていた? それを思うとクリーヴの頬は熱くなった。性的な誘いを受けたなどと、一瞬でも勘違いしたことが恥ずかしい。自分は何と浅はかなのだろう。本物の神秘がやってきているとも知らず、どうやってクリスを断ろうかなどと、懸命に考えを巡らせていたのだから。

 凡庸で俗っぽい自分につくづく嫌気がさしていると、リビングから短い悲鳴のような声が聞こえた。

「クリス?」

 上半身を起こし、音のした方に耳を傾ける。部屋はまったく静かで、気のせいだったかとクリーヴはふたたび横になろうとした。するとまた──今度はよりはっきりと呻く男の声がした。おそらく声の主はクリスだ(他に誰がいる?)。聞き耳を立てると、苦しげな息づかいが聞こえてくる。クリーヴは立ち上がり、音を立てないよう、注意深く動き出した。これがクリスの寝言であればいいと思いながら、切れ切れに聞こえる声に耳を澄ます。

 何と言ってもさきほどの超常現象の後である。クリーヴの足はすくみそうになっていたが、好奇心が恐れに打ち勝った。彼は固唾をのんでクリスの元へと近づいていく。キャンドルは消され、部屋には闇が満ちている。窓からの月明かりはほとんど頼りにならず、自分の足下すらよく見えない状態だ。

 クリスの姿は寝台にあった。横たわり、ブツブツと何かをつぶやく声がする。

 十字架か、聖水か。あの化け物には何が有効なのだろう? それとももっとストレートに、ショットガンで追い払うべきか。手ぶらであることをクリーヴは後悔したが、そもそもこの部屋には、武器になるようなものは何もなかった。

 くすくすと笑う声が耳に届き、クリーヴは足を止めた。クリスだ。彼は笑っている。

「駄目だよ……ロング・ジョン」

 それは驚くほど親しみにあふれた声だった。

「そんなふうにしたら痛いだろう? もっとゆっくり……」

 息を詰めるような音が続き、「いい子だ」と、飼い犬を褒めるような言葉が聞こえた。

「ゆっくりだ……ロング・ジョン、そう……あ…ぁ……」

 声に吐息が混ざりだし、ベッドがぎしぎしと音を立て始める。

「ああ、そうだ……そう……」

 鼻をならすような声、痛みにたえるような声、くすぐったいのを押しとどめるような声、泣き出したいのをこらえているような声……これらの音をひと言で現す行為をクリーヴは知っていたが、なんとしてでもそれは認めたくなかった。

 “ロング・ジョン”───。俗な名前の由来はこういうことなのか? 甘ったるい香りに吐き気をもよおしながら、クリーヴは数歩、後ずさった。そしてある地点でくるりと向きを変え、一目散にキッチンを目指す。寝袋に潜り込む直前、ベッドのきしみがひときわ大きくなった。クリスの切なげな叫びが長く尾を引いたかと思うと、それを最後に静寂がおとずれた。まだ何か聞こえないかとクリーヴは耳をそばだてたが、それからあとは静かだった。強く脈打つ、自分の心臓の鼓動以外───あとは静かだった。




 昨夜、盗み聞きしたことは、決してクリスに知られてはならない。クリーヴはそう思い、緊張しつつ朝を迎えたが、今朝のクリスはまったく普通で、特に変わった様子も見られなかった。

 シャワーを浴び、裸で絵を描く。それはいつも通りの光景だが、クリーヴの世界は何もかもが変わってしまった。昨夜は結局一睡もできず、そのおかげでクリーヴは、“あれは夢だったのだ”といった、ありきたりな幻想すら持つことができないでいる。しかし考えてみれば、自分はこれを突き止めたかったのだとクリーヴは思い直した。絵画に隠された秘密をあばくために、わざわざ寝袋まで買い込んでまでして、ここにいることを決意した。とは言え、真実を知ってみれば、真実はクリーヴの想像を遥かに超えている。こんな展開は、まったく予想だにしていなかったのだ。

 昨夜と同じようなことがこれまでにもあったのだろうか? 自分が気づかなかっただけで、別なときにもああした行為は行われていたのか? それを考え、クリーヴは頭を振った。これならパンが相手の方がまだマシだ。

 この件について、クリスが何か言ってくるのではないかと期待することはしなかった。これまでの様子を見ていればわかる。この画家は余計なことは決して言わない。たとえ質問したとしても、答えたくない、もしくは答えを持たない場合は、ただ黙って口を閉じている。昨夜までは、あの生き物について多くの質問を持っていたクリーヴだったが、“密会”に出くわした今となっては、もはや何も聞きたいとは思わなかった。ベッドでロング・ジョンと何をしているのだと訊ねる勇気はとてもなく、もし何らかの答えを得られたとしても、それはとても受け止められそうにない。そもそも質問するどころか、今朝のクリーヴはクリスの顔をまともに見ることができないでいる。あの淫らな声を聞いた後で、いったいどんな話をすればいいのだろう? 

 まるで両親の寝室の秘密を知ってしまった子供のように、クリーヴは落ち着かない気持ちになった。彼はこの日、ランドリーに行く名目で外に出かけ、一日ずっと、夜まで部屋にもどらなかった。




 クリスは悪魔に操られているのかもしれない───。その新しい考えをクリーヴが見つけ出したのは、翌週の夜のことだった。

 今度の奴は、たっぷりと水がはいった、丸みのある何か。よく言えば“ふくよかな”とでも言えるかもしれないが、クリーヴが真っ先にイメージしたのは、ぶよぶよとした巨大な胎児だった。漂う香りはベリーのようで、子供が好む安っぽいガムを彷彿とさせる。

 名前はあるのかと訊ねると、クリスは「マミーとチャイルドだ」と教えてくれた。しかし“母親(マミー)”と、“子供(チャイルド)”の間に境目らしきものはなく、これが二体のものであるとは認識しづらかった。クリスは例のごとく「触ってみろ」と言ったが、堕胎児のような濡れた感触(不思議なことに、触れた手は濡れてはいなかったが)は、長く触っていたいとはとても思えず、クリーヴは文字通り、早々に手を引いた。

「この間の奴とはずいぶん違うな……いったいこいつらは何匹いるんだ?」

「さあ……」とクリス。「おれにはよくわからない」

「この他にもいるんだろ?」

「ああ」

「それはどんな姿なんだ? いや……姿はないか。感触だけだ。そうだな?」

「そうだ」

 今回の奴に関しては、姿が見えなくてよかったとクリーヴは思った。もしこれが肉眼で確認できたなら、きっとグロテスクな格好をしていることだろう。ホラー映画さながらのイメージを思い浮かべ、彼は顔をしかめた。

「マミーにチャイルド…それにロング・ジョンか……。きみはネーミングのセンスはあまりよくないな」

 何気ない口ぶりでそう言ったものの、本心ではこのブヨブヨに恐怖すら感じている。しかしクリスの様子があまりに穏やかなので、おびえることはもはや馬鹿らしくもあった。

「ぼくが何かもっとクールな名前をつけてやろうか? 北欧神話や黙示録からとったようなのを」

 クリスは口の端を上げて笑い「それもいいな」と、つぶやいた。

「今夜もきみの友達を紹介してくれただけなんだろ?」

「そうだ」

「よくわかったよ。じゃあぼくはもう寝るとするかな」

 クリーヴはわざとらしくアクビをして見せ、眠いことをアピールした。

「おやすみ、クリス」

「おやすみ、クリーヴ。いい夢を」

 最後の台詞は皮肉だろうか? こんな状況下で見る夢など、決していいものではないだろう。それともこのおかしな現実よりは幾分マシなのか。

 クリーヴは半ばウンザリしながら、床についた。しかし眠ろうと努力すればするほど目は冴えていく。何度目かの寝返りを打った後、やがて隣室からクリスの声が聞こえてくる。

 ───あぁ…マミー、あぁ…マミー……───

 まるで母親とセックスしている息子のそれだ。相手は母親ではなく怪物なのだが、吐き気をもよおすという点では、どちらもそう変わりはない。

 いったいどんな精神状態で、どんなつもりであんなことを? 川べりで、失踪した恋人のことを話すクリスは、とてもまともな男に見えた。芸術に関わるときは奇行めいたこともするが、普段の会話では頭がおかしいような兆候は感じられない。果たしてあの男が、悪意を絵の具に塗り込めるような真似をするだろうか。

 自分の作品を“ただの絵だ”と言うクリス。もしそれが彼にとっての真実で、絵に呪いなど込めてなどいないとすれば……画家を操っているのは、あの存在たちなのではないだろうか? これまでクリーヴは“クリス自身が悪である”と予測していた。悪から生じるものが絵に作用し、そして被害者を作り出す。しかしここへきて、それは間違いだったかもしれないとクリーヴ考え始めている。

 人を媒体として世に悪徳をはびこらせるのは、いつの時代も悪魔の成せる技だ。だがクリス自身がその被害者だとしたらどうだろう。彼は操られ、命を削ってまでして、絵を描かされているということも考えられないだろうか? 呪いの赤い靴を履かされた少女のように、自らの意思に反して───いや、もっと巧妙に、“自らの意思であるかのように信じ込まされて”、呪いの絵画を製作させられているのだとしたら……。

『起きたことにはすべて意味がある』とクリスは言った。それが真実ならば、自分がここにいることにも意味があるはず。どうしてクリーヴがここにいるか、クリスは知らないと言った。そして“クリーヴ本人にもわかっていない”、と。

 謎かけのような言葉の意味を、クリーヴは徐々に理解しはじめていた。自分がここにいるのは復讐のためなどではない。悪意の出所を突き止める。それがそもそもの目的だった。悪の中心にはクリスがいると思っていたが、しかしそれこそが間違いだったのだ。ここへ来た目的を、意味を、確かに自分はわかっていなかった。それは───。

 不意に隣の部屋からクリスの声がした。それは愉悦にまみれた叫び声だ。哀れな画家。なんという運命。しかし今は自分がここにいる。かつて思っていたのものとは、まったく別の意味で。クリーヴはそれを見つけられて満足だった。きっと兄も誇りに思ってくれることだろう。




 バケツに筆を打つ音が響く。絵の具が飛び散り、床と足をいっぺんに汚したが、画家は気にするでもなく、一心不乱に手を動かし続けている。制作の間、彼は競走馬のように汗をかいていた。汗が玉になり、身体の上を転がり落ちる。

 画家を長い踊りから解放する。自分がここにやってきたのは、おそらくこのためだとクリーヴは思った。恋人や家庭を持つことも叶わず、人間らしいすべてを放棄させられ、何らかの力によって芸術に従事させられる。それはいつ果てるともしれない消耗戦だ。

 新たな決意を得、ここに住み続ける目的の意図と動機を変えたものの、クリーヴに手立てがないことには変わりはなかった。見ればわかるとレイは言ったが、“あれ”は見ることすら叶わない存在だ。見えざる敵との戦い。武器になるようなものも、知恵もなく、助け出そうとしている相手は、ほとんど悪魔の側にある。そのことを思うとクリーヴの気持ちは重くなったが、まったく希望がないわけではない。少なくともクリスは自分と怪物を対面させてくれたのだ。これでずいぶん仕事は楽になったはずだ。

 クリスがそうとは知らずに悪魔から欺かれているのだとすれば、クリーヴはもっと注意深くいる必要がある。“きみの味方だ”とクリスに言ったところで、理解されるとは思えない。少し前までは仇だった者が、いきなり手の平を返したところで、よけい怪しまれるのが関の山だ。まずは信頼を得ること。それもまた、あまり簡単なこととは思えなかった。




 ゆっくりと夜が近づいてきた。クリーヴはいつものように眠りに落ち、やがて何らかの音で目を覚ます。またあの“生き物”が訪れたのかと考えたが、今回はそうではなかった。彼を起こしたのは吹き荒れる風と窓を打つ雨。外は嵐だ、とクリーヴは思った。起き上がって確認するまでもない。

 しかし一度目が覚めてしまうと雨音がやたら耳につき、眠りに戻ることは難しかった。仕方なしにクリーヴはトイレに立つ。すっかり膀胱を空にした直後、カチャンという金属的な音が聞こえた。それはクリスの部屋からだ。油瓶でも倒れたのだろうかと、クリーヴはアトリエに足を向ける。

 いつから起きていたのか、部屋の奥にクリスが立っていた。窓を大きく開け放ち、吹き込む雨にシャワーのように身体を打たせている。血液が凍りそうなほどの外気が流れ込むなか、画家はやはり裸だった。熱いシャワーを浴びた後なのか、それとも熱病にかかっているのか、身体からオーラのように蒸気が立ち上っていた。室内にはまだ暖かさが残ってはいたが、それが奪われるのも時間の問題だろう。

 クリーヴはよろめくようにクリスに歩み寄った。

「きみは……」

 ───“狂っているのか?”。

 喉から質問が出かかったが、狂人にそう問うたところでまともな答えが得られるわけがない。

「おれが狂っていると思うか?」

 心を読んだかのようにクリス。

「おれが狂っていると思うか?」

 再度、同じことを問う。

「わからない」クリーヴは答えた。目を細め、頭を左右に小さく振る。「ぼくはきみじゃない、わからない。でも……」そっとクリスを見る。「狂気に近いところにはいると思う」

 その答えに満足したか、クリスはにやりと笑いを見せた。

 白い湯気が闇のなかに、ぼんやりとクリスの輪郭を浮かびあがらせている。その縁取りがなければ、彼の肉体は闇に溶け、まざり、見えなくなってしまうことだろう。

 今にも吹き消えんとするキャンドルの明かり。クリスの瞳にはその炎が宿っている。まるで聖職者のような輝きだ。

「みんな自分の見たいものを見ているだけだ」と、クリスは言った。「おれを見ていても、おれを見ていない。おれの絵を通してはいるが、その実、自分の見たいものを具現化しているだけだということに気づいていない」

 ここに来た当初であれば、今のクリスの言葉を、クリーヴは免罪として捉えたに違いない。問題の核心を逸らし、死者が出たことの責任から逃れようとしている。しかし今のクリーヴはそのようには考えなかった。ただ彼が考えていたのは、『肉体は神殿である』ということ。

 神殿は燃えている。それは今にも燃え尽きてしまいそうで、心もとない。触れればバラバラのピースになってしまう。手をのばせば通り抜けてしまう。まるで存在すらしていないかのように、それははかない───。

「命ははかないもんだ」とクリスが言う。

 まただ、とクリーヴは思った。また心を読まれた。それともこれは単なる偶然。いや、“単なる共時性”なのか。

 雨に打たれながら、クリスは空を見上げ、「今夜は月が見えないな……」と、つぶやいた。「あの天体に光と闇の神秘を見るのか、それとも無数の原子を見るのか……」

 その台詞からクリーヴは気がついた。クリスが、ある哲学者と思想家の会話を引用していることに。

「“タゴールとアインシュタイン”」とクリーヴ。原典を言い当てることができたことに、彼はわずか勝利を感じたが、その声は確かに震えていた。「彼らは狂人だって話だ」現時点できる、せいいっぱいの皮肉を込めて反論したが、それは裸の男の前には虚しかった。

「狂人が真実を語ることもある」と、クリス。

「それはきみがいま言っているようにか?」

 画家は無言で微笑んだ。その笑みはまさに狂人のそれだった。

 足下には水たまりができ、部屋は冷気で満ちてくる。クリーヴは負けを認めた。皮肉やハッタリは通用しない。彼は彼自身の声で(それは思いのほか弱々しかった)ゆっくりと、言葉を見つけ出した。

「ぼくは……なぜ自分がここにいるかわかったんだ」両手を脇に垂らし、ぽつぽつと話し出す。「最初は復讐に来たつもりだった。兄をきみに殺されたと思ったからだ。でも今は違うとわかった」

 ざあっという音と共に突風が吹く。雨脚はさらに強くなった。

「ぼくは……導かれたんだ」クリーヴはクリスを強く見つめた。「ぼくはここにいる。きみの魂を救いにきたんだ」

「おまえがここにいる理由がそれだと?」

「そうだ」

「かなり近づいたな。だがハズレだ」

「正解は?」

「それはおれにもわからない」

「じゃあどうしてハズレだと?」

「ハズレはわかる」クリスはかすかに微笑んだ。

「きみはぼくをあのモンスターたちに会わせてくれた。それはきみも……きっと無意識にぼくに助けを求めて……」

「それがおまえの解釈か」遮ぎるクリス。切り捨てられ、クリーヴは思わずカッとなって反論した。

「間違っていると言うんだな? じゃあ、きみの解釈はどうだ? ぜひ聞かせてくれ。どうしてぼくはここにいる?」

「おれは解釈はしない」びっしょり濡れた髪の間から、クリスがささやく。「おまえが何故ここにいるか……それはいずれ時がくればわかるだろう」

 詭弁だ、とクリーヴは思った。結果の後に何かを言うのは子供でもできる。“時がくればわかる”などと言うのは、トリックの一種だ。

 クリーヴはつかつかとクリスに歩み寄り、彼を通り過ぎて、バタンと窓を閉めた。ここでロジックを弄んでいるのは馬鹿らしいことだと、若者はようやく気がついたのだ。

 眉を上げるクリスに、クリーヴは「絵を完成させる前に死なれたらかなわない」と、ぶっきらぼうに言った。「すぐにシャワーを浴びて身体を温めるんだ。肺炎になって死にたいってなら別だが」

「おれとの議論は?」

「議論は終わりだ。今日のところは」

「クリーヴ、おせっかいめ」クリスはさも愉快そうに微笑んだ。

 確かにクリスの言う通り。“救う”などとは、本当におせっかいなことだ。だがそれでも放ってはおけない。それは使命と言うよりも、本能に近い感情だ。倒れた者があれば助け起こす、飢えた者には食べ物を与える。寒さに打たれ、道に迷っている者がいれば──それがたとえ好き好んでの結果であっても──外套を肩にかけてやりたいと思うことは自然でありこそすれ、愚かな行為だとはクリーヴには思えなかった。

 洗礼を受けるように、身体を雨に晒すクリス。肉体は神殿である。しかし神殿に祈る者が訪れなければ、それはただの空いた建造物にすぎない。画家はとても奇妙な方法で、彼の神殿に祈りを捧げているようだ。きっと射精の瞬間は、聖なる言葉を吐いているのだろう。




 誰にでも寿命というものがある。その長さは人によってまちまちで、クリーヴの兄は二十七年でその生涯を閉じた。死の間際、彼はその運命を予期していただろうか。クリーヴから見て、兄の創作のペースはまるで何かに追われるかのようで、あたかもそれは『残された時間があとわずかしかない』と、本人が自覚しているかのようだった。

 そう長くないような気がすると言ったクリスの言葉は、真実かもしれないとクリーヴは思った。だからこそ彼は、あんなにも昼夜を惜しんで仕事をしているのかもしれない。もしそうなら、芸術家であるクリスにとって多く作品を残すことは、確かに幸福なことなのだろう。しかしそれが悪魔に踊らされた結果というのであれば話は別だ。呪いの込められた絵を描かされ続け、それを見た幾人かの人間が命を落とす。見えざる怪物たちの目的が何であれ、罪なき人々が死んでいくことは間違いなく不幸なことだ。

 アトリエからほど近いコーヒーショップで、クリーヴは考え事をして過ごした。気の触れたアーティストと始終一緒にいることは、やはり疲労を伴うものだ。ときには外の空気を吸って、自分がいる世界を再認識したいとクリーヴは思い、この店に来たのだが、頭に浮かぶのはクリスのことばかり。それでもあの濃密な部屋にいるよりは気が楽だ。店員の笑顔も、おなじみの味のカフェラテも、何もかもが凡庸で安心できる。

 リンゴのマフィンをかじりながら、クリーヴは通りを歩く人々を眺めた。髪を短く刈り込んだ中年男性。子犬を散歩させる親子連れ。小脇にビールの箱を抱えた若者。背の高いブロンドの服装倒錯者……。誰もが普通に生活を送り、明日もまた同じような人生が続くと信じている。クリーヴもほんの少し前までは、彼らと同じ場所に住んでいた。しかし今はまったく違うものを見、そして聞いている。同じ空間に存在しながら、別の次元に生きている感覚。それは奇妙な体験で、彼がかつて一度も味わったことのないものだった。

 そんなことを考えながら、視線をぼんやりとさせていると、ガラス越し、目の前に突然、人が現れた。ノックをするような仕草で、クリーヴの注意を引いたのはパンだ。ハンプティ・ダンプティのような笑みを浮かべ、身振りで“そっちに行ってもいいか?”と聞く。特に断る理由もなく、クリーヴは頷いた。

「やあ、本当に今日は寒いな」コートの襟からマフラーを引っぱり出しながら、パンはクリーヴの隣に腰を下ろした。

「これからクリスのところへ行くんですか?」

「いや、今日は別の画家のところだ」パンはコーヒーに口をつけた。「きみはまだクリスと一緒に? あいつは元気にしてるか?」

「元気です。もうすぐ死ぬかもと言ってましたが」

 そのコメントにパンは短く笑い、「そう言う奴ほど長生きするもんだ」と言った。「おれのお袋は九十八で死んだが、四十の頃から言っていたよ、“あたしはもう長くない”とね」

「そうですか。でもクリスは……」

「ああ」

「本当にあまり長く生きられないのかもしれません。あんな生活を続けていたら、身体にもよくないのは誰の目にも明らかです」

「かもしれんな。だがそうかと言って、あいつを長らえる術があるわけでもなし」

「普通の暮らしをすればいいんじゃないですか? まともな食べ物を口にして、暖かいところで眠る。それだけでも寿命が十年は伸びるでしょう」

「おいおい、それは誰の話をしているんだ?」パンはくっくと笑い出した。頭を左右に振り、オーバーに眼球をぐるりと回して見せる。

「普通の暮らしをするクリスか……まるで想像がつかんね」

 パンは画商なのだ、とクリーヴは思った。彼にとって価値があるのは、絵描きではなく、それが生み出した作品だ。金になるのはアーティストではなく、アートの方。作者が亡くなればむしろ絵画の価値は上がるというもの。作家の健康状態を気遣えないのは無理もない。

 パンは頬に手をあてて顔を支え、「きみはクリスを普通の男にしたいのか?」と訊いた。

「いいえ」と、クリーヴ。「そういうわけではありません。ただ、命を削ってまでして描くべき絵などないとは思っています。ぼくの兄はアーティストでしたが、彼はまさにそんな感じでした。まだとても若かったにも関わらず死んでしまった。残された両親は悲しみました。不幸なことです」

「ご両親にはお気の毒なことだ」パンは小さく頷いた。「だが兄上は満足だったかもしれないね。そうまでして芸術に打ち込めることは、誰にでもあることじゃない」

 レイの死を赤の他人に簡単に評して欲しくはないとクリーヴは思ったが、パンの言ったそれは真実でもある。悲しみに暮れたのは両親であって、レイ自身ではない。

「そうかもしれません。でもぼくはもしあのとき、兄が死に近づいているとわかっていたら、きっと止めたと思います。必要とあらば兄の絵を燃やしたかもしれない」

「兄上がそれを望んでいないとは考えないのか? 彼にとっては命をかけたものかもしれないのに」

「作品を残すことが命より重いとでも? ぼくは命を第一に考えます。ましてや家族であれば当然のことです」

 意見が対立し、沈黙が流れる。クリーヴはカフェラテのカップに視線を据え、「クリスはいなくなってしまうかも知れません」と、つぶやいた。「クリスと同居していた女性……彼女のように、ある日突然、姿を消すかもしれない」

「その話はクリスが?」

「ええ」

「そうか……」パンは何やら思案げな顔をしたが、すぐにそれを手放し、「きみの言ってることは、あまり穏やかではないね」と評した。「いったいどうしてそんなことを思う?」

 クリーヴは無言で、じっとカップを見つめている。穏やかではない考えの“理由”について、言及することは少しもできない。

 黙りこくるクリーヴにパンは言った。「あいつは大丈夫だ」。コーヒーの香りの息を吐き出し、画商は言葉を続ける。「何を心配しているか知らんが、クリスは失踪したりはしない。おれは何人もの画家を育て、ひとりひとりを見つめてきた。その経験上、自殺したり行方不明になる奴は何となくわかる。クリスはあれでしっかりしている方なんだ。普通の人間から見たらおかしな振る舞いに思えるだろうが、実際のところ、さしたる問題はない。あいつを精神病院に入れたのは医者と警察だ。ピカソとピカビアの区別もつかないような人間がクリスを裁いた。まったく愚かなことだよ」

 あの化け物に遭遇したら、パンの意見も変わるだろうか、とクリーヴは考える。本当に死に近いところに、クリスがいると知ったら───。

「あなたはクリスが心配だと思ったことはないのですか」

 若者にそう言われ、パンは片方の眉を上げた。

「昨夜、彼は裸で雨に打たれてました。肺炎になってもおかしくはない。狂気の沙汰だ。それでもあなたは彼を大丈夫だと?」

「大丈夫だね」

 自信たっぷりのその言い方に、クリーヴは深くため息をつく。

「あなたはクリスを可愛がっているのかと思ってましたが」

「可愛がっているさ。もちろん。あいつのことは誰より気にかけている」

「あなたが気にかけているのは彼の作品ではないのですか」

「その両方だ。きみはどうだ?」

「ぼくはクリスのことを考えています。作品は彼が生きてこそだと」

「あいつのことを考えるのであれば、あいつの望みについても考えてやれ。奴は絵を燃やされることなど望んでいない」

「彼の望みは何だと?」

「あの部屋に住み続けること。そこで絵を描き続けることだ」

「それはクリスの意志じゃない」

「どういう意味だ?」問われ、またしてもクリーヴは黙り込んだ。

「きみが何を言いたいのか、おれにはさっぱりだな」言って、パンは席を立つ。クリーヴは厳しくコーヒーカップを見つめたまま、つぶやいた。

「クリスは……操られているんだ。悪魔に」

 頭がおかしいと思われることを承知でそう言ったが、あまたの変人を見慣れているパンはさして驚かず、「それは興味深いね」と、頷いただけだった。

「なるほど、ようやくわかってきたよ。きみは悪魔から救えなかった兄上の代わりに、クリスを救おうというのだな?」

 半分は当たりで、半分はハズレだ。レイは悪魔に操られていたわけではない。彼は単に犠牲者に過ぎないのだ。

「よし、ではきみがクリスから“創作の悪魔”を引き離したとしよう。その後はどうなる? 悪魔から解放された後の彼の人生は?」

 クリーヴは固い表情を変えようとはせず、またパンのことを見ることもしない。何かを考えているのかもしれないが、既にパンの興味は彼にはない。

「クリスの絵を燃やしたらただじゃおかんぞ」と捨て台詞し、商才のある画商は店を出て行った。

『その後はどうなる?』とは、なかなかふるった質問だ。クリーヴはそこまで考えていなかった。しかし、指輪を捨てに行く旅に出る者が、その後の人生について思い悩むだろうか。悪魔から解放された後については、クリスが自分で選択すればいいことだ。己の意志で絵筆を持つもよし、まったく別の人生を選ぶのもいい。クリスの人生を変えた責任がクリーヴにあるというのであれば、自分はその責任を負うべく、彼をカリフォルニアの自宅に連れ帰ってもいい。

『誰かに秘密を分かち合う時期なのかもしれない』。クリスはそう言っていた。そして“そうした”。あの謎の生き物をクリーヴに引き合わせたのだ。

 腕時計のカレンダーを見るクリーヴ。カリフォルニアを離れてから、まだひと月も経っていない。使命に燃えてこの街に来たことが、ずいぶん昔のことのように思える。軽々しく“使命”という言葉に酔えたあの頃が早くも懐かしい。

 今やかつての目的は消滅し、代わりに新たな意志が産まれた。これが使命かどうかはわからない。運命に選ばれたのかどうかも。だが、少なくともクリスからは選ばれたではないか。彼は秘密を分かち合う相手に、パンではなくクリーヴを選択したのだ。

 そして今、クリーヴはここに留まることを選んでいる。運命を司る神に仕えるためではなく、自分の存在を選択した者のために───。

 残念だが、これは決して美談などではない。むしろクリーヴは恐怖すら感じている。あの絵の奥に狂気を見つけ、兄のように自らを生け贄として差し出すことにならないとは誰にも言い切れないのだ。

 悪魔との戦いは始まったばかり。今はコーヒーショップでわずかばかりの休息だ。




「今日はいい天気だ!」

 曇ってどんよりした天気の日に、クリーヴの父親はよくそう言っていた。

 フィッシングを好む者にとって、晴天の日は必ずしも“釣り日和”ではない。日が陰っていれば、湖面に釣り人の影が落ちることはなく、そのためドナルド・シモンズは曇りの日を好んだ。

「自分をひっかけようなんて人間がいることに、魚はちっとも気がつかないんだよ」

 そう彼は言い、ふたりの息子──レイモンドとクリーヴ──に、釣り竿を持たせたものだった。

 今、この部屋は“いい天気”だ。時刻は深夜を過ぎた頃。クリスと“もうひとり”は、クリーヴがいることに少しも気づかない。

 “見えざる存在”の来訪に気づいたクリーヴは、キッチンから彼らの姿を盗み見ていた。今度の奴は、ロング・ジョンでもマミーでもない。

 クリスは女王陛下にするように、“彼”の手にキスをした。するとクリスの唇に絵の具がつく。その化け物は、全身にカラフルなペイントをまとっている。他の存在同様、透明の肉体を持っているのだが、身体に様々な色が施されているため、クリーヴは傍目からでも全体像ををイメージすることができたのだ。

 体長はおよそ七フィート。バスケットの選手のように背が高く、プロレスラーのような筋肉を持っている。衣服の類いは身につけておらず、それは対峙するクリスも同様だった。画家は母親に甘える子供のように、その化け物に裸体をすりよせた。頬から胸、腹と、彼の身体に絵の具が付着する。赤、青、黄、紫、緑……およそ使っていない色彩はない。無秩序に塗りたくられたそれは、まるでポップアートのようだ。

 クリーヴは、以前クリスが絵の具を使ってマスターベーションしていたことを思い出した。この化け物をペイントしたのはクリスなのだろうか? だとしたら何のために? 透明な存在を立体的に浮かび上がらせる目的なのかもしれないが、そうだとしても、こんなにも多色を使用する意味がわからない。

 化け物は、絵の具だらけの両腕をクリスの背に回した。べちゃっという湿った音は、クリーヴの耳に不快だった。しかし当のクリスは目を閉じ、至福の表情を浮かべている。そのこともまたクリーヴには不快だったが、覗き見をしている彼には、異議を唱える権利はない。

 クリスはしばらくその存在と抱き合っていたが、やがてどちらともなく身体を離す。その瞬間、あからさまに“別れ難い”といった表情をするクリス。それを見、クリーヴの不愉快さはさらに増した。

 滑稽なほど派手な色にまみれた化け物は、数歩後ずさり、そのまま壁に取り付けられたキャンバスに飲み込まれるようにして、消えていった。それはゆっくりと、絵の中に、入っていったのだ。

 残されたのは裸の身体に絵の具をくっつけた男。これもまた滑稽とも言える眺めだが、怪奇現象を目の当たりにした今は、少しも笑うどころではない。

 見られていることにようやく気づいたクリスの視線が、呆然とするクリーヴと合った。しかしクリスもまたどこか呆としていて、言葉を発する気配はない。ふたりの男はただ見つめ合い、謎の現象の余韻を感じていた。(ただ、その余韻の内容は、二人にとってまったく違う意味を持つものであるが)。

「今のは誰だ」

 先に口を開いたのはクリーヴの方だった。クリスに歩み寄りながら、確認するように「あれは人間だな?」と聞く。「今の奴は他の化け物たちとは違う。人間の男だ」

 クリスはけだるそうな視線をクリーヴに向け、「どうしてそう思う?」と言った。

「あれが人間の形をしていることは、きみも承知の上だろう」

「そうか? “人間の形”をしていれば“人間”か?」

 クリーヴは返答に窮した。見えざる男が何者かクリーヴにはもちろんわからない。そもそも“人間”は透明にはなれはしないではないか。もしあれが人間だとすれば、“やたら巨大な透明人間”ということになる。

 クリスの頬には、黄色と紫の絵の具がべったりとついている。頬と唇。胸や腹、腕、手の平、背中、性器、両足。そのすべてが、あの化け物と触れ合った箇所としてマークされている。

「あいつにも名前を?」とクリーヴ。

「ああ」クリスは頷いた。

「彼は何て?」

「“キング”だ」

 キング───。それはクリスが考えた中では、もっとも相応しいと思えるネーミングだ。

「今までで一番いい。少なくとも“ロング・ジョン”よりは」

「おまえが名付けたいんだろう?」

「いいアイディアがあったら教えるよ。今はそれより……絵の具を落とせ」

 クリーヴの言葉を無視し、クリスはそのままベッドに横たわった。白いシーツに絵の具がつく。いくらクリーニングに出しても、次から次へと、それは汚れていく。

 今夜、クリスはキングを紹介しようとはしなかった。これまでクリーヴが化け物と対面するときは、必ず画家の誘導があったのだが、今回は違う。ふたりが抱き合っているところをクリーヴが偶然目撃し、その結果、『キングだ』と教えてもらったのだ。そのことにクリーヴは疎外感を感じた。“おまえには教えてやらない”と、宣言されたような気持ちになっていた。

 今、この部屋はとても暗い。今日はいい天気だ。今日はいい天気だ。無垢な魚たちは、ただ幸福に泳いでいるだけの日だ。




 キングが現れた翌日、壁から絵がなくなっていた。かつて作品があったその場所には、新しいキャンバスが貼られ、目にまぶしいほどの白さを放っている。

 絵が完成したのだと聞かされるまで、クリーヴは何が起きたのかわかっていなかった。昨夜の超常現象により、キャンバスから絵の具がかき消えたのかとすら考えたのだ。

「朝早くパンが来て、絵をトラックで運び出したんだ」

 クリスはそう言って、タバコに火をつけた。窓から外を眺め、満足そうに煙を吐き出す。作品が完成した後の充実感。それが何ものにも代え難いことは、クリーヴにも覚えがある。

 青灰色のマンハッタンの空を背にして立つクリスは、穏やかな表情を浮かべていた。創作活動をしている時とはまるで別人の顔。エネルギッシュな様子は影を潜め、まるでゴーストのように存在が薄く、向こう側の風景が透けて見えるかのようだ。

 彼は作品を仕上げるごとに命を吸い取られている。クリーヴはそう思い、早く行動を起こさないと間に合わないかもしれないと考えた。“あいつは大丈夫だ”など、パンのように悠長なことは言っていられない。

「きみの恋人……“クリス”がどこに消えたか、考えたことがあるか?」

 ごく静かな声で、クリーヴはそう聞いた。言葉は街からの風に吹かれ、消えてしまいそうだったが、クリスはそれをきちんと聞き取っていた。彼は窓の外に視線を据えたまま、クリーヴと同じくらい静かに、「何度も」と、答える。「彼女は“向こう側”に行ってしまった……」

 それはクリーヴが出した結論とまったく同じだった。

「連れ戻せるかもしれないと考えたことは?」

 クリスは振り返り、「どこから?」と訊く。

「どこかはわからないが……連れ戻せるかもしれない。ぼくは見た。キングはあの絵に入っていったんだ。あいつらがどこから来るのかはわからないが、絵が──きみの絵が通り道になっていると、ぼくは考える」

「おれの絵が彼女を飲み込んだと?」

「可能性はある」

 再び外に視線を向けるクリス。タバコの煙が、曇り空に溶けていく。街を見据えながら、彼は言った。

「おまえはおれの魂だけでなく、彼女のことも救おうと?」

「ぼくは……」

「おせっかいめ」

 くすりと笑われ、クリーヴはわずかに傷ついた。

「確かにぼくはおせっかいかもしれない」

「そうとも」

「おせっかいがここにいては迷惑? 邪魔か?」

「いや、邪魔じゃないよ」

 クリスは微笑んだ。その横顔は、遠い昔、クリーヴが幼い頃、聖書の挿絵で見たような笑顔だった。




 クリーヴはインターネットカフェで、悪魔払いに関する情報を集めた。そのほとんどは他愛もない内容で、オカルトおたくの趣味を充実させることはできるだろうが、真に救いを求めている者の助けになりそうなものは、何も見つけることはできなかった。

 そこでクリーヴは、改めてクリスのことを調べ直すことにした。ニュージャージー出身の才気あふれるアーティスト。その作品は世界を回り、各国の芸術賞を総なめにしたと記されている。

 順風満帆に思えた彼の人生の転機は(あくまで“世間的に見て”だが)このアトリエが火事に見舞われたその日からだ。以降、クリスには狂人のレッテルが貼られ、それに伴い、作風も変化していった。

 出火元は可燃性の画材で、原因は不明。火災による損失は、描きかけの絵画が一枚と、一匹の犬だ。クリスが飼っていたとされるその犬は、正体がわからないほど燃え尽き、炭化していたという。火事の規模に対して、その死骸の状態は不自然として、動物愛護団体はクリスを糾弾。画家がペットに火を放ったと彼らは主張している。「燃える犬の絵を描きたかった」とクリスが発言したという情報もあったが、それはあまりにも出来過ぎていて、眉唾ものだ。

 そのように迫害される一方、クリスを支持する声もまた少なからず存在する。アーカム・アサイラムの人となったアーティストは、一部のマニアから大いに好評を博している。(※アーカム・アサイラム=ゴッサム・シティに存在する架空の精神病院)。クリスの作品について独自の解説を延々と展開したり、事件の真実と称して、空想に満ちたストーリーを捏造しているのは、そうした熱狂的な支持者である。

「どいつもこいつも分かってない」

 クリーヴは歯噛みし、ブラウザを閉じた。本物の神秘に触れたクリーヴにとって、そうしたサイトは興味が湧かないどころか、今や嫌悪の対象にすらなっている。クリスを神と讃える者、悪魔として崇拝する者。そのどちらも真実ではないというのが、クリーヴの解釈だ。

 くだんの消えた恋人についての記述は、ネット上には見当たらない。ましてや見えざる生き物についてなどは、オタク的な妄想サイトにすら、存在しなかった。そのことからクリーヴは考える。クリスにここまで近づいた者は、自分をおいて他にいないのだ、と。それはすなわち、“助けは外の世界に存在しない”という意味でもある。

 “手段”はどうやっても必要だ。しかしそれは誰にも教えてもらえない。そこまで考えて、クリーヴはふと、高校の頃、同級生とした会話を思い出した。

 ある絵画の授業の後、クリーヴは友人にこう聞かれたことがある。「きみはどうやって絵のインスピレーションを得ているんだ? どっちに絵筆を動かせばいいとか、どの色を使おうとか。何か法則や手法があったりするのか?」

 クリーヴは答える。「どうやってなんて自分でもわからないよ。ただなんとなく湧いてくるんだ。どっちに絵筆を動かせばいいかとかも考えたこともない。ただ感覚的に“そうしたい”ってだけで、法則なんてありゃしない」

 その友人は「わけがわからないな」と、言っていたが、わからないのはクリーヴの方だった。絵を描くことは彼にとってごく自然であり、それについてさきほどのように聞かれるのは、あたかも「どうやって歩いているのか? どうやって呼吸をしているのか?」と問われるに等しいことだった。

「必要なのは理解や考えじゃない。ただ感じて、“そっちだ”と思う方に進めばいい」

 クリーヴは当時、友人にそう言った。そして今、彼は忘れていたそのことを、はっきりと思い出していた。

 助けは外の世界に存在しない。そして答えもまたしかり。そのどちらもがアーティストの体内に───もしくは、あの“暁の部屋”に───存在するのだ。




 クリスを救うためにクリーヴがまずしたことは、絵の道具を買いそろえることだった。画材を買うのは数年ぶりで、彼はクリスのアトリエで絵を描いた。

 兄の影響で筆を取り、兄の影響で筆を捨てたクリーヴ。へたくそだと画家から評されることは恐ろしくはない。自分に才能がないことはずいぶん前からわかりきっている。

 クリーヴが作業を中断している間、クリスが彼のキャンバスを、じっと見つめていたときには、さすがにいくらか恥ずかしさを感じもしたが、ここは美術学校ではないし、そもそもの目的がまるで違う。今、クリーヴが絵を描いているのは、学校に提出するためでも、オートバイを買う資金が欲しいからでもなく、もっと純粋な動機によるものだ。

 ─── ゲートを開く───

 神秘への扉を開き、そして二度と開かぬよう封じ込める。クリスの絵を破損するわけにはいかないが、自分のものなら文句も出まい。もしこの部屋が、絵画に何らかの神秘をもたらすのであれば、三流の絵師にもいくばくかパワーを宿すかもしれないと、クリーヴは考えた。

 神秘は訪れ、そして去る。その循環を永遠に封印することができれば───それがクリーヴの勝利だ。クリスのように隷属させられるか、もしくは女の“クリス”のように、存在を消されるか……そうなればクリーヴの負け。景品のひとつも出ることはない。

 とすると、クリスは悪魔に負けたということになるのだろうか? 芸術の歴史に名を残し、これ以上ないほどに絵画にのめり込む彼が敗北者?

 それについてクリーヴは考えることをしなかった。絵筆を動かす彼は、創作の間だけ、頭のスイッチをオフにしようと決めていたのだ。




 クリーヴに追いつくように、クリスは新作に着手し始めた。壁に貼られた巨大なキャンバスには手をつけず、さほど号数の大きくないものを彼は選んだ。

 それは奇しくもクリーヴが描いている作品と同じくらいの大きさで、共にイーゼルに向かう二人を見たパンは、「おまえたちは揃って学校の宿題でもしているのか?」と、笑って彼らを茶化しもした。

 もしこれが学校の宿題なら、クリスはA+で、自分はD−だろうと、クリーヴは内心、自嘲する。しかし意外なことに、パンは「おや、きみの作品も悪くはないじゃないか」と褒め、クリーヴの安っぽい絵の具箱に、自分の名刺を滑り込ませた。

「これも何かの縁だ」パンはクリーヴに片目をつぶり、それからクリスに「ライバルがいるのはいいことだな」と言い残し、去っていった。

「ぼくがきみのライバルだって? それは間違った評価だな」

 クリーヴの言葉に、クリスはキャンバスを見つめながら答えた。

「ああ、おれたちは別に争ってはいない」

「いや、そういう意味じゃなくて」クリーヴは軽い笑い声を立てる。「ぼくの作品はきみの足元にも及ばないよ」

「どういう意味だ?」

「だから、実力の点でさ」ひょいと肩をすくめるクリーヴ。「もしこれが学校のテストなら、きみはA+で、ぼくはD−だってこと」

「おれはA+なんてとったことない。教師からはいつも“評定以前の問題”だと言われていたよ」

「それは……真の芸術はときとして……」

「きみの芸術評価はA+からD−までか? デッサン力や構成力がすべてだと?」クリスは絵筆とパレットを床に置いた。「なにをもってして、おれの足元に及ばないと?」

 “なにをもってして”だと? クリーヴは画家の発言を不思議に思った。自分が彼の足元に及ばないというのは、誰が見ても明らかだ。ライバルと見なされるのは光栄だが、実力の差は自分が一番よくわかっている。

 分相応でない評価は、クリーヴを軽く落ち込ませた。もしクリスが慰める目的で言っているのだとすれば惨めだし、真に高く買っているのであれば、画家の審美眼はあまり良いとは言えない。クリスが他者を“励ます”などとは、まずあり得ないだろうから、おそらくこれは後者だろう。得てして天才とはそんなものだ。クリスは絵を判断することができない。彼の美しいブルーグレーの瞳は節穴なのだとクリーヴは考え、自分の作品についての評価は、気にしないことにした。

 クリスは床にあぐらをかき、パンが持ってきた差し入れの包みを開いた。茶色の紙袋から取り出したのは、カリフォルニア・オレンジだ。

「パンは目利きだ。きみは目をつけられた」オレンジを一瞬、鼻に近づけ「せいぜい気をつけろ」と言って、ひょいとクリーヴに放り投げる。

「ぼくが?」それをキャッチするクリーヴ。彼もまたクリスの真似をして、オレンジの芳香を吸い込んだ。

「何に対して気をつけろと?」

「尻を撫でられるようになる」

 その言葉にクリーヴは爆笑した。「オーケー、彼が背後に立ったときは気をつけるとするよ。ご忠告ありがとう」

 それから二人はオレンジを食べ、子供の頃に飼っていたペットの話をした。話題としては他愛もないものだ。

『これも何かの縁だ』とパンは言った。そしてそれはおそらく間違いではない。大陸の西と東にいる者が、アートを通じてここに出会った。共に絵を描き、汗を流し、同じ空気を共有している。黙々と創作に打ち込む彼らは、まるで兄弟のようでもある。

 クリスと共に制作するのは、クリーヴにとってとても気分がいいものだった。上手さを競い合うようなプライドはなく、ただ単純に作業に没頭する。そうするうと、彼は次第に絵筆を持つことの愉びを思い出していった。

 クリーヴがまだ少年だった頃、父親が川に魚釣り行くときには、彼も必ずついていった。持ち物は母親の作ってくれたサンドイッチと絵の道具。少年は竿の代わりに絵筆を持った。父親が釣り上げた魚や、川岸の風景など、目につくものを好きなように描き続けた日々。今、クリーヴはあの頃の感覚を取り戻しつつあった。ゲートを開く目的はあるが、創作の間はそのことを忘れた。実際、そんなことはどうでもいいとすら思う瞬間すら、彼には何度もあったのだ。

 だがしかし。夜が来ると、クリーヴは再び決意を新たにした。闇に乗じてやってくる存在は、クリスを諦めるつもりはないらしい。彼を嬲り、狂わせ、絵画に魔力を塗り込める。切れ切れに聞こえる画家の艶めいた声。台所の床でそれを耳にしながら、クリーヴは自身を叱咤した。

「しっかりしろ、クリーヴ……」

 寝袋に丸まり、己の決意を確認する。耳をふさいでも聞こえてくる音に、祈りの言葉でも唱えるべきかとクリーヴは考えたが、日頃の不信心がたたり、何も出て来ない。もとより宗教に頼ろうとは思っていなかったが、こんなときには何でもいいから口にしたかった。

 そこで彼は詩を暗唱することにした。女に振られ、狂気の道を歩んだ哀れな天才、フリードリヒ・ニーチェ。〈善悪の彼岸〉の一節を、クリーヴは諳んじた。

「怪物と戦う者は、自らも怪物とならぬように心すべし。汝が久しく深淵を見入る時、深淵もまた汝を見入るのである……」

 神は死んだとニーチェは言った。キリスト対ディオニュソス。詩人は古代ギリシャのありかたを賛美した。彼の哲学をもってすれば、クリスはさしずめ“超人”といったところだろうか。しかしながら、ただのひとりの仮説を状況にあてはめるべきではないし、梅毒が脳に回った男の言葉を鵜呑みにするわけにもいかない。

 クリーヴは兄の死により、ある状態から解脱したのだ(ニーチェ的に言えば、“ルサンチマンから解き放たれた”)。だがその先に行き着くべき所に、まだ彼は到達していない。それは恐ろしい迷路に同じ。クリーヴが投げ出された場所は、グリニッチ・ヴィレッジの一室だ。さほどの広さではないが、彼には世界に等しいものである。

 ここにもうひとつ、クリーヴが思い出さなかった、ニーチェの言葉を引用しよう。

〈夢はまったく見ないか、面白い夢を見るかのどちらかである。起きている時も同じ、まったく起きていないか、面白く起きているか〉

 クリスとクリーヴ。まさしく彼らは起きている。面白い夢を見ながら起きている。詩人は彼岸で羨んでいるかもしれない。




 ストリートの凍死者が前年を上回ったとニュースが伝えたその日、クリスは珍しく買い物に出かけ、バターのたっぷりついたワッフルと、箱詰めのチョコレートを買ってきた。それは自分のためでなく、彼の“弟”のために。連日の創作活動で、クリーヴは熱を出して倒れ込んだ。

「とても食欲がない」というクリーヴに、クリスは「それでも何か口にした方がいい」と、グロッサリーストアで食品を見繕う。その選択がワッフル、そしてチョコレート。クリーヴは画家の親切心を嬉しく思ったが、そのふたつはどうしても口に入れられそうになかった。せめて温かいチキンスープでもあれば、少しは食べようという気にもなっただろう。つくづくクリスは変わり者だとクリーヴは確信したが、その変わったところすら、今は好ましく感じられる。

「クリス、ひとつ頼みがある」

「何だ?」

「熱が下がるまで、きみのベッドを使わせてもらえないか? キッチンの床は寒い。どう考えても風邪が悪化しそうな状況だろ?」

 クリスは「そうなのか?」と聞いて返した。考えてもみなかったという表情に、クリーヴは弱々しく、笑いを漏らした。

 数週間ぶりのベッドは、クリーヴに安眠をもたらした。熱のせいか深く眠り、夢も見なかった。クリスが電話したのか、パンがやってきた。ビタミン剤と風邪薬、果物や野菜などを携えての来訪は、クリーヴにとても有り難いものだった。

「絵を描き続けて倒れたそうだな」ベッドに横になるクリーヴに、話しかけるパン。「きみは命を最優先にするんだろ? 作品は人が生きてこそだと」

「今でもそう思ってます」

「だったら早く良くなりたまえ。そして完成した作品を見せてくれ」

「そうしたいと思っています」

「クリスに心配をかけるな。あいつはこういうのに慣れてない」

「こういうの、とは?」

「人を心配することだ」

「彼がぼくの心配を?」

「おまえが死ぬと言っていた」

「たかが風邪で死ぬわけがない」

「あいつには風邪と癌の区別もつかんよ」

「彼がぼくの心配をしてたなんて……」

「驚きか?」

「少し。そういう感情がない人なのかと」

 その言葉にパンは大笑いをする。「そうだな。そう見えるのも無理ない。だがあいつも人間だ。死が怖いのは誰でもだ」

 そうだろうか? とクリーヴは思った。クリスは死を恐れて心配をしているのだろうか。それは何か違う気がする。何がとは言えないが、違う気がするとクリーヴは感じていた。

「パン」クリスが果物ナイフを持って、キッチンから姿を現した。「リンゴの中に虫がいたよ」

「ああ、それは有機栽培の果物だからな」

「あぶなく切ってしまうところだった」言って、手を開くと、そこには小さな青虫が丸くなっていた。

「帰りに公園に離してやってくれ」

「この虫をか? わざわざ? 窓から放り出せばいいだろう」

「緑のあるところでないと死んでしまう」

 このやりとりを聞き、クリーヴは苦笑した。結局、クリスが心配しているだ何だと言うのは、このレベルのことなのだ。自分は果実に紛れた青虫に同じ。窓から放り出すのは気が退けるということなのだろう。

 笑うクリーヴを見て、パンは「おまえが何を考えているかわかったよ」と言い、彼もまた苦笑した。ふたりの常識人は、このコメディを共有できるが、肝心のクリスはきょとんとしている。クリーヴはそんな彼を愛おしいと思った。パンがこの画家を可愛がる気持ちが、わずか理解できたような気がする。

「クリス、ぼくはまだ死なないよ」

 子供に言ってきかせる口調でクリーヴは言った。

「きみのベッドを貸してくれてありがとう」

 そして目を閉じ、眠りに戻る。熱は高く、身体の節々は痛みを訴えていたが、クリーヴは久しぶりに幸せな気持ちだった。このまま死んだとしても、きっと彼は幸福なままだろう。




 昼には太陽があり、夜には闇がある。それはあたかも、希望と絶望を行き来する人の生のようだ。

 日中、創作の間、クリーヴは自分が健全さを有していると感じていたが、夜が来て眠る段になると、とてつもない不安に襲われた。さまざまな考え──それはほとんどが悪いものだ──が、落ち着きを失わせ、していることに確信が持てなくなる。そもそも“確信”などは無いものだったが、それでもクリーヴは、“何かがある”と思いたかった。そうでなければこんな風に、固い床の上で寝袋に転がっていられるものではない。

 目を覚ますと、クリスは絵を描いていた。大概の場合、クリスはクリーヴより早起きだ。瞼をこすりながら、クリスの背後に近づくクリーヴ。キャンバスを覗き込み、画家の筆を目で追いかける。この新作はもっとも扱いにくい色、すなわち黒を基調として描かれていた。

「タイトルは?」

 クリーヴはほとんど無意識にそう問いかけていた。題などないとわかっていたはずだ。しかし思いもかけず、クリスは答えた。こちらに背を向けたまま、少しも手を止めず、「“キング”───」

 そうか、これは肖像画なのかと、クリーヴは思った。あの日のキングはカラフルな色をまとっていたが、目の前の作品は、黒や濃紺を主とした、単なる陰影としてで描かれている。確かにこの方が“あれ”を表現するには適切だろう。ピエロのようなカラーでは、あの重厚なイメージには不適当だ。

 ふと思い当たり、クリーヴは質問を続けた。

「もしかして……きみ、昨日は寝てない?」

 画家はそれには直接、答えず「実は急いでる」と、筆を動かしながら言った。

「どうして?」

「早く描き上げなければ……」

 言われてみれば、いつもよりタッチが乱雑なようだ。決して丁寧な画風ではないクリスの絵だが、これはいつもに増して、荒っぽさが際立っていたる。

「パンに急かされているのか?」

 何にしろ、クリスが描き急いでいるなら、自分もまた急ぐ必要があるとクリーヴは考えた。クリスはしばらく黙り込み、それからぽつりと、何の脈絡もなく、「これはおれの遺作になるかもしれない」と、つぶやいた。

 不吉な言葉に、一瞬クリーヴは怯んだが、すぐに思い直し、「これが遺作だって?」と、つとめて明るい調子で言った。「だったらあっちのデカいキャンバスは? 遺作にするなら大作を手がけないと」

 壁に据え付けられたキャンバスに顎をしゃくるクリーヴに、クリスは顔を向けず、「“大作”ってのは、“大きな作品”って意味か?」と、聞き返した。「おれはクリムトの〈水蛇 〉が好きだが、あれは五十センチほどの“大作”だ。マスターピースは必ずしも巨大である必要はない」

「じゃあ何でわざわざ新しいキャンバスを据え付けた?」

「パンは“大作”が好きなのさ。つまり“大きな作品”が。やたらでかいやつを描かせたがる。あれは彼が貼ったんだ。おれの意志じゃない」

「じゃあ、この“遺作”の次は、“やたらでかいやつ”を手がけるのか?」

「どうかな……」クリスは筆を止めようとはしない。「あれはおまえにやるよ」

 言われ、クリーヴは顔をしかめた。壁のキャンバスは、少なく見積もっても横寸三メートル以上ある。

「ぼくはあそこまで大きな作品をやったことはないんだ」と、クリーヴ。

「じゃあやってみるといい。いい機会だ」

「それにパンが怒るだろ。せっかくきみのためにキャンバスを設えたんだから」

 クリスは何も答えず、もう会話に参加しなかった。元々、創作中におしゃべりを楽しむような男ではない。クリーヴはそれがわかっていたので、早々に自分の作品に向かうことにした。

 顔を洗い、歯を磨きながら、クリーヴはクリスの姿を盗み見た。画家はピンと背筋を伸ばし、真剣な面持ちで絵と向き合っている。それはとても強く美しい光景に思え、クリーヴは胸が締め付けられる思いがした。このまま悪魔のことなど忘れ、ただずっと、クリスと創作活動を続けられれば、どれだけ幸福なことだろう。しかし、その可能性はなきに等しい。クリスはどういうわけか死を身近に感じているし、嫌なことにクリーヴもそうだった。

 クリーヴは自分のキャンバスに向かう。何が正しいのかはわからない。だが、ここに描くべき作品がある以上、彼らは手を動かし続ける。残された時間はあまり多くない。若く健康な肉体を持った若者たちは、そのことを身体ではない、別な部分ではっきりと感じとっていた。




 また雨が降っていた。カリフォルニア出身のクリーヴは、この重たい空気に慣れていない。湿気は夜の闇と混ざり、しっとりと部屋を満たしていく。窓からは雨が、そして部屋の中央には、異形がひとつ───クリーヴをじっと見つめている。

 対峙し、ごくりと唾を飲み込むクリーヴ。

「なんてこった……きみも化け物の仲間なのか?」

 四つ足で床に這いつくばるクリスは、かつて持っていた人間らしさを失っていた。滑らかな皮膚は以前の通りだが、その色は夜の暗さが定着している。不自然に細くなった手足は、関節の位置がおかしく、妙に間延びして見える。目は金色に光り、まるで獰猛なドーベルマンのよう。クリスは犬に変身しかかっているのだ。

 黒く艶やかな肢体にクリーヴはそっと指で触れた。

「いったいどうしてこんなことに……」

 すでに人の声帯を持たないクリスは、その問いかけに対し、ぐるると喉を鳴らしただけだった。

「ぼくは……間に合わなかったのか? きみを救おうと……そう思ったのに……」

 弱々しくつぶやくクリーヴ。その絶望にクリスは応えたか、軽快にジャンプし、友人の胸に前足を乗せた。そのまま押し倒す格好になり、クリーヴは仰向けに倒れ込む。獣は彼の服を引き裂き、あらわになった胸を、上等な獲物を味わうかのように、べろりと舐め上げた。

「やめろ…クリス……!」

 静止も虚しく、クリスは攻撃を開始した。突然、クリーヴの首もとに牙を立て、筋を切断する。狼のような唸り声を聞き、なんてことだ、とクリーヴは思った。彼にとってショックだったのは、噛まれたことではない。あろうことか、クリーヴはその痛みを気に入ってしまったのだ。

 咥えたままクリスが頭を振ると、肉が裂けて血が噴き出した。しかしクリーヴは恍惚としている。

「あぁ…クリ…ス……!」

 切れ切れに名を呼び、もっと強く噛んで欲しいとすら願う。耳元にハッハッと短い呼吸を聞きながら、自分の身体がバラバラになっていくのをクリーヴは感じていた。手がもげ、内臓が流れ出し、脳が飛び散り、目玉が床に落ちる。それをすべて快感に感じ、自分の声とも思えない絶叫を上げ、彼は目を覚ました。

 全身にびっしり寝汗をかいていて、ペニスは痛いほど勃起している。なんという悪夢だろう。ああ、ぼくはおかしい。ぼくはこの部屋にいて、おかしくなりはじめている。クリーヴはそう思い、両手で顔を覆った。

 最初に彼を裏切ったのは、その肉体だ。精神はまだ今のところ───少なくとも、“自分はおかしいのだ”と判断するぐらいの理性は残っている。とは言え、それが指の間からすり抜けていくのも時間の問題だろう。それには彼のペニスが同意している。熱く脈打つ肉は、すでにクリーヴの仲間ではないらしい。だとすると、こいつはいったい“どっち側”に位置するアイテムなのだろうか?……もちろん正常な精神を持つ者は、こんなことは考えないものだ。

「ぼくはまだだ……まだ……だいじょうぶ……」

 クリーヴのつぶやきに同意する声はない。闇は濃く、ペニスは固いまま、留まっている。触れれば爆発しそうなほど隆起したそれをクリーヴは無視した。もしひとたび触れてしまえば、自分が誰の名前を口走るかわかりきっていたからだ。

「畜生……」

 彼は床に縮こまり、くやし涙を流した。指を強く噛み、その痛みで理性をつなぎ止める。自分がどうやって正気を保っているのか、今やクリーヴ自身にも、さっぱりわからなくなっていた。




 先日のロスタイムが、今になって響いている。風邪で寝込んだことにより、クリーヴの作品はクリスに遅れをとっていた。回復してから彼は前にも増して情熱的に筆をとり、そのため疲労もしたが、制作は順調で、絵はどんどん厚みを増していった。

 クリスの“遺作”に遅れることが、どういう意味を持つのかはわからなかったが、あまりいいことではないような気がしていた。そうして無我夢中で作品に取り組み続けることにより、絵画はクリーヴの納得のいくように仕上がっていったが、それに比例するかのように精神状態は悪くなった。落ち込んで鬱になったり、些細なことで苛立ったりする。夜になると不安になり、過呼吸に陥ることもしばしばだった。

 かたん、と小さな音がアトリエから聞こえた。またあれが来ている───クリーヴは気配を察した。クリスが部屋を歩き回っている。月明かりを浴びて、いずれかの化け物(もしくはそれ以外の化け物と)と愛し合おうとしている。

 クリーヴは耳を塞ぎ、この嫌悪すべき行為を脳裏から追い払おうと努力した。その努力を打ち破ったのは、彼を呼びかける画家の声だ。

「クリーヴ、起きろ」

 寝袋の傍らに片膝をつき、同士を揺り起こす。クリーヴはさっきからずっと起きていたし、クリスの様子にすら気づいていたのだが、さも今、目覚めたかのように、ゆっくりと身体を起こした。

「何だ?」

「こっちへ来てくれ」

「またきみの友人に紹介しようってのか?」

「友人? いや、そうじゃない。とにかくこっちへ……」

「嫌だ」クリーヴは寝袋に潜り込んで言った。「何が起きているのか、まずそれを教えてくれ。そうでないとぼくはここから動かない」

 頑なな言い方に、クリスはわずか、驚いたように目を見開く。それから静かに「おまえの絵が動いた」と、つぶやいた。

「おれは見た。さっきおまえの描きかけの絵が、わずかだが動いたんだ」

 無言で横たわるクリーヴ。寝袋の中に、彼の呼吸が籠っている。

「クリーヴ……?」

 呼びかけには応えない。クリーヴはとても腹が立っていた。クリスは裸だった。一糸まとわぬ姿で現れ、突然、“来てくれ”と勝手を言う。ただそれだけならクリーヴは従っただろう。彼を頑にさせたのはキングの存在だ。クリスの裸体は絵の具で濡れていた。さきほどまで何をしていたかは大体想像がつく。その行為の後で、何事もなかったかのようにクリーヴの元に現れ、厚顔無恥な娼婦のように、アトリエに誘ったのだ。

 神秘の訪れ。それこそがクリーヴが待ち望んでいた奇跡の一部だ。しかし彼の反応は鈍かった。自分が絵を描いている理由、本来の目的を忘れ、クリーヴはつまらないポイントに固執し始める。

「きみは何をしてた?」寝袋の中からクリスに訊ねる。「さっきまで、きみは何をしてたんだ……」

 沈黙が続き、答えが得られないと分かると、クリーヴはおもむろに立ち上がった。

「なんて奴だ……きみという男は……」

 憎むべき者のようにクリスを睨み、強く歯を食いしばる。

「ぼくはきみを助けたいと思ってる。なのにきみは……」

「何の話だ?」

「ぼくは見たんだ。きみがキングと……」そこでわずかに、クリーヴは言葉に詰まる。一拍おいて、なんとか続きを見つけ出した。

「きみがキングと抱き合っているのを」

 口にしてみると、それは別段、大それたことではなかった。抱き合うことぐらい、さして取りざたすべきことでもない。しかしクリーヴは、怒りの矛先をキングへと向けている。クリスとベッドを共にしているであろう、ロング・ジョンやマミーにではなく、彼はキングに嫉妬していた。

「あのときのきみの顔ときたら……ぼくはとても見ていられなかった。まるで女だ。きっときみはキングと……」

「わかった」とクリスは言った。「もういい。寝袋に戻れ。話はやめだ」

「いいや、これからだよクリス」

 去りかけた男の手首をクリーヴが掴む。不意に繋がれた部分をクリスは見つめ、不快そうに眉間にシワを寄せたが、振り払うことはしない。

 クリーヴは興奮の面持ちでクリスに詰め寄った。

「キングともファックしてんだろ……」振り絞るような声で糾弾する。「あんたは……あんたが何をしてるかぼくは知ってる……あの得体の知れない化け物たちと……やってるんだ」

 クリスは静かに応えた。

「キングはしない」

 他の化け物とのことは否定していない。そのことにクリーヴはすぐ気がついた。

「おれとキングは……」クリスはそう言いかけ、言葉を探すように視線を泳がせる。しばらく思案げな表情をするも、最終的には説明を放棄した。話しても無駄だとでも言うように。それから掴まれた手を乱暴に振り払い、アトリエに戻って行く。

 クリーヴはとても腹が立った。まるで仲間はずれの気分だ。もちろん自分は天才などではない。説明を聞いたところで、何も理解できないかもしれない。しかし、そうであってもクリーヴは説明が欲しかった。キングとは何者なのか。クリスとはいったいどういった関係にあるのか。それは神秘への渇望というよりは、もっと俗な感情からくるものだった。

「待てよ!」

 怒鳴り、沈黙の画家を追いかける。クリスは秘密をわかちあうという努力を諦めた。そのことから来る怒りが、若者を衝動に走らせた。

「待て……!」

 クリスの肩を掴み、振り向かせ、殴り掛かる勢いで唇を奪う。

 キングとやってないだって? 舌を絡ませながら、クリーヴは沸き上がってくる笑いを堪えきれなかった。今さら何を否定する? ずっと彼はしているじゃないか! 絵を通して“あれ”とファックしている! 肉体の結びつきよりも遥か深く。それはほとんど淫らと言ってもいいくらいの関係性だ。キングは創造の力となってクリスに流れ込み、そのエネルギーに貫かれ、画家は愉悦する。どちらがどちらかわかなくなるほどに混在し、最終的にひとつの作品を共有する。原子核同士が接近するかのようにして成した、その結果に触れた者は、自らの命を融合炉に委ねるが如く───消滅するのだ。

 抱きしめ、キスを続けながら、クリーヴは誓った。ぼくは死なない。兄は死んだが、ぼくは死んでなどやるものか。自分は強く、クリスはただの男に過ぎない。この結末を“死”などという陳腐なもので終わらせやしない。

「……きみは“人間”といるべきなんだ」唇を離し、クリーヴは言った。唾液が糸を引き、ふたりの間をわずかつなぎ止める。

「正常な関係を人と持つべきなんだ」

「誰とだ? おまえとか?」手の甲で唇を拭うクリス。

「誰でもいい。あいつは……キングはきみを破滅させる存在だ」

「破滅?」ふっと短く笑い、そしてクリーヴを睨む。「いったい“破滅”とはどんな状態を指すものなんだ? 教えてくれ」

「キングはきみを殺すかもしれない」

「死が破滅か?」

「誰だって死ぬのは嫌なはずだ。死が怖いのは誰でも……そうだろう」先日パンが言ったことを、クリーヴは無意識に引用していた。「概念として死自体は悪じゃないが、生き物の原始的欲求は死を恐れる。それにきみは絵を描き続けているじゃないか。あれこそが生への渇望だと考えたことはないか?」

「クリーヴ、おまえは物知りだな。そんなにたくさんおれに教えられることがあるとは」

 画家のガラスのような瞳に見据えられ、クリーヴは息が詰まるのを感じた。呼吸は浅く、脇の下を汗が流れる。まるで心臓マヒの症状だ。

「知識、観念、情報……」クリスはゆっくりと数えるように言い、「だがそんなものはみんな……」と、かぶりを振った。その拍子、彼の柔らかな髪がさらりと揺れる。その後に続く言葉は発せられなかった。

「あいつらの名前……」浅い息の下、クリーヴは言った。「ぼくがつけてやると言ったよな? 覚えてるか?」

「ああ」頷くクリス。

「いい名前がある。ぴったりのやつだ」汗がぽたりと床に落ちたが、クリーヴはそれに構わなかった。構わずに不敵に笑い、そして言った。

「───“悪魔”」

 クリスは苦笑し、「おまえのネーミング・センスもその程度か」と、つぶやく。「がっかりだな」

「いいや、これからだ。がっかりはさせない。その名前がふさわしいとあんたはいずれ知ることだろう」

「がっかりなのはおまえのキスだよ」暗がりの中、クリスの瞳が光っている。それはクリーヴが夢で見た獣そのもの───。「想像してたよりずっと下手だ」それからクリーヴの髪を片手でくしゃりと撫で、月明かりの届かない場所へと戻って行く。おそらくクリスはベッドに横になったのだろうが、闇が濃すぎるあまり、クリーヴには何も見ることができなかった。

 ブラックホールのような暗い空間に目を向けたまま、クリーヴはぼんやりと『画家の夢に自分も現れたりするのだろうか?』と考える。自分との口づけを想像するクリス。その光景を思い描くと、クリーヴの顔はカッと熱くなった。

 性的エネルギーは、この部屋では創作と直結している。しかし若いクリーヴは、まだその違いを理解していなかった。鼓動が早まり、血管が浮くことを“そのもの”の意味として捉える。精霊との交流を俗なものに置き換え、嫉妬する。そのどれもが決定的な誤りであることに、彼は気づいていない。

 運命の回転は急速さを増し、闇は一段と濃くなっている。しかしそのことにもクリーヴは気づいていなかった。もし万が一、クリーヴが真実の一端でも捕まえていたら、クリスをがっかりさせることはおそらくなかっただろう。




 クリスの絵は万人が好むようなものではなく、また好む者が見たとしても、対象が不明瞭な作品だ。現在、彼が手がけているのは、奥行きのある闇に満ちている。全体の八割は黒で構成され、それは日本の墨で描かれたように艶やかな輝きを有していた。その作品にクリーヴが見たのは、荒ぶる竜巻と滝。合間に見え隠れし、人らしき影が確認できる。これがキングの肖像だと思うと、絵を破壊してしまいたい衝動に駆られたが、彼の芸術家の部分が、それを実行するのを辛うじて押しとどめていた。もしクリーヴが絵描きでなければ、このアートに火を放っていたかもしれない。それは数年前、このアトリエであった火事のように。

 クリスは珍しく椅子にかけ、描きかけの作品を見つめていてた。絵筆は持たず、ただ寂寞とキャンバスに向かい合っている。

 ボイラーの音がやけに響くのは、朝から雪が降っているからだ。街を沈黙させる雪は、この部屋からも熱気を奪うのだろうか。今日のクリスは創作をせず、穏やかな表情で絵を眺めるばかり。それは絵画と会話しているようでもあり、同化しているようでもある。

 この様子に題をつけるとしたら───とクリーヴは考える。〈絵を見る人〉というのはどうだろう。題としては単純なものだが、作品は得難く、美しい。

 それ自体が芸術作品となった男を、クリーヴは見守った。背後からそっと近づき、画家の肩に手をかける。置いた手を胸へと滑らせ、それがタンクトップの中に潜り込む寸前、クリスは「よせ」と短く発し、クリーヴの手首を掴んで侵入を防いだ。

「きみが好きだ」クリーヴは喘ぐようにして言った。「きみも……ぼくのことが邪魔じゃないと言ったね?」

「それとこれとは別だ」

「誰かに秘密を分かち合うと」

「意味を取り違えたな」

 クリーヴはスラックスの中で固くなった自らの“ロング・ジョン”を、クリスの背中に押しつけた。

「ぼくとのキスを想像してたと言ったじゃないか」

 クリスは答えない。ただ無言で押し付けられたモノを感じている。

「がっかりはさせない……いや、させて悪かった。今度はもっと……」

「今度などない」ぴしゃりと言うクリス。クリーヴは腹立ちに声を荒げた。

「怪物とはできてぼくとはできないっていうのか? ぼくは化け物以下か?!」

「そういう問題じゃない」

 クリスの声音は、明らかにうんざりといった様子が聞き取れる。しかしクリーヴには、それはどうでもいいことになっていた。絵筆を持つときと同じ情熱をクリスに感じる。肉体は神殿だ。ならば自分はその神殿に入り込みたい。閉ざされた扉を押し開き、さらに奥へと。

「ぼくは……犯してでもきみと……!」

 強引に口づけを交わしたその瞬間、クリーヴの目から火花が出た。顎に一発喰らったのだと彼が理解できたのは、苦しげな画家の声を聞いたからだ。

「くそ…クリーヴラント……」クリスは殴った右手を振った。「おれに手を使わせるな……」それが動くことを確かめるように、こぶしを握ったり開いたりを繰り返す。

 クリーヴはうつむき、「すまない……」と、か細い声でつぶやいた。「自分でもなにがなんだか……本当に……」

 これはまったくどうかしている。自分より背の高い、一人前の男を犯せるわけがない。恥ずかしさと情けなさが同時に込み上げ、クリーヴは顔を上げられなくなった。

 絵の具で汚れたラグの上に座り込んでいると、頭の上から「おまえのせいじゃない」という声が降ってきた。クリーヴにはその言葉の意味がわからなかった。自分のせいでないとしたら、いったい誰のせいだというのだろう。これほど責任の所在が明らかなことはないというのに。

「ホテルに戻れ」クリスの言葉に、若者は弾かれたように顔を上げた。

「い…いやだ!」

 自分自身に強い失望をこそ感じてはいたが、クリーヴはまだここにいたかった。拒絶されたばかりだというのに、それでもクリスと共にありたいと感じている。

「さっきのことは……ぼくが悪かった。二度とあんなことはしない。だから……」

 哀願し、切望のたけを訴えたが、クリスは首を左右に振った。

「“このこと”じゃないんだ」と、画家は言う。「おまえはこれ以上、この部屋にいるべきじゃない。おれの言っている意味が……おまえにはわかっているはずだ」

 クリーヴはかつて、“平凡であること”を嫌っていた。高次の意識を持ち、言葉ではないものを理解したいと希求する。しかし今は、この瞬間だけは、彼はわからずやになってしまいたかった。無知なる者は何と強いことか。今やクリーヴは“理解者”である。クリスの言いたいことが、正しい意味をもって納得できるようになってしまったのだ。

「おまえがここにいたいと思っていることも、おれはわかっているよ」

 クリスの言葉はとても優しく、クリーヴは思わず涙が出そうになった。およそ他人に興味がなく、また人に思いやりを示すことが不得意な男がそう言ったのだ。彼は自分の気持ちをわかってくれている。それを理解した上で、追い出そうとしている。それだけでクリーヴは満足だった。

 ボストンバッグに着替えと歯ブラシを詰め、ここに来てからずっと使っていた寝袋を小さく折り畳む。終わりは得てしてこんなものだ。クリスは誰の助けも必要としていない。どこかではわかっていたことだったが、荷造りをしている今も、彼にとってそれは認めたくないものだった。

 バッグを手にしたクリーヴは、イーゼルに立てかけた描き途中の絵に目を向けた。それは数年ぶりに自分が着手した作品。テーマは特になく、ただ記憶にあるいくつかの風景を合成して再現したものだ。

 うつろにキャンバスを眺めるクリーヴに、クリスは言った。

「おまえの絵は後でパンに送らせよう」

「いや……別にいいよ」かぶりを振るクリーヴ。「もしよければ……これはここに残しても構わないか? いずれ廃棄してくれても構わない。ただしばらくは……」

「わかった」

 作品はまだ完成していなかったが、もう描き続ける意味もない。そもそも扉を開くということも、根拠があってのことではなかった。今にしてみれば、それはクリスと共にあるための口実だったのかもしれない。数日前、画家は“絵が動いた”と言っていたが、それも何かの見間違いだろう。クリーヴはそう解釈し、現実を受け入れた。妄執に取り憑かれたのは最愛の兄の死と、この閉鎖的空間によるものだ。

 ホテルのマッチに携帯の番号を記し、それをイーゼルに挟んで「もし必要があったら連絡してくれ」と、クリスに言う。連絡があるとは思えなかったが、ここで終わりにしてしまうのは嫌だった。通常の状態であればこんな未練がましい行為は、彼のプライドが許さなかっただろうが、今のクリーヴには、なりふりを構っている余裕はなかった。出て行こうとしながらも、心のどこかで“行くな”と引き止められることを願っている。別れ話を切り出されているにも関わらず、あきらめきれない恋人のようだとクリーヴは思った。しかもこの場合はもっと悪い。自分たちは恋人だったことなど一度もないのだから。

 自分のみじめさを呪いながら、クリーヴは雪の降る通りを歩いた。ものの数分で靴は濡れ、足の指先が凍り付いたが、そんなことは気にもならない。むしろ肉体の痛みは歓迎だ。少なくとも生きていることを認識できる。

 ただ、生きてはいるが、その目的はもうわからない。なぜ自分が歩いているのか。どうしてまだ呼吸があり、命が永らえているのか。生き続ける理由は、今のクリーヴには謎だった。無論すべての人々にそれは神秘であるが、ほとんどの者はそれを疑問視することはない。クリーヴは心底、不思議に思った。なぜ自分が生きているのか。目的を失った瞬間に、消滅するのが筋なように彼には思えた。

 雪は降り続け、ピルグリム(放浪者)は歩き続ける。この雪がいつ止むのかすら、彼にはわからない。人生で理解できることは何とわずかなことか。クリーヴは絶望と共に、マンハッタンの街を歩き続けた。




 結局は何も残らなかった。ここに来たことは完全に無意味であり、すべては徒労に終わってしまった。そのことを思うと、クリーヴの目から涙が流れた。自らの失敗を悔いているのではない。ただ彼はとても寂しかった。クリスには見えざる味方がいる。そして自分にはなにもない。見せかけの強さと、真実の弱さの間を行き来し、クリーヴの精神はボロボロになっていた。

 ホテルのベッドはしっかりしていて、横になるととても快適だった。そして快適だと感じる自分を嫌いだと彼は思う。こんな状態でも腹は減り、喉は乾く。絶望のさなかにあっても、肉体はそれを裏切り、単純な欲求を満たそうとするのだ。

 ルームサービスでピザを頼み、それをダイエットではないコークで流し込む。有料のポルノ映像に金を払い、食事をしながらそれを見る。何か俗なもので身体を満たしたい。あの部屋にいるあいだ、神聖なもので汚されたこの身。それを清めるべく、クリーヴはせっせと胃の中に無意味を詰め込んだ。

 こんな自分にクリスが愛想をつかすであろうことは、きっと時間の問題だったのだ。クリスは世捨て人で、そうするだけの理由が彼にはある。画家が“付き合い”を持つのは、見えざる化け物たち。おそらくあれは純化した存在なのだ、とクリーヴは考えた。厭らしい感情やエゴとは無縁の生き物。自分とは真逆に位置する者たち。

 洗濯物をランドリーバッグに入れ、熱いシャワーを浴びると心からホッとした。冷蔵庫からもう一本コーラを出し、それに口をつけながら、窓の向こうのビル群を見つめる。カリフォルニアの家にはもう戻れないだろう。自分を構成する何もかもが、以前とはまるで違うことになっている。かつての職場に戻って仕事をしたり、両親と一緒に暮らすなど、今となっては想像もつかない。

 いっそこの州に移住してしまおうかと、彼は思案する。今いるホテルよりももっと安い宿を見つけて、どこか定住先を探すのもいい。充分な貯蓄をしていたクリーヴだったが、蓄えは徐々に減っていっている。いずれ決めるべきことなら、早い方が良いに越したことはないはずだ。それがわかってはいたが、彼は数日間、グズグズと決断を引き延ばしていた。このホテルは居心地が悪くないからと自分に言い聞かせてはいたものの、本当のところを言えば、クリスの住むエリアから離れたくないというのが真の理由だった。

 いつから自分は思い上がっていたのだろうとクリーヴは自嘲する。クリスと生活を共にし、一緒に絵を描いたからといって、彼が自分を受け入れてくれたなどとは、甘すぎる考えだ。いや、きっと“受け入れて”はくれていただろう。しかし“必要とされていた”わけではなかった。

 炭酸飲料の助けを借り、ゆっくりとクリーヴは己の間違いを解き明かしていった。あの部屋にいる間は気づかなかった様々な問題点。クリスに近づき過ぎたため、物事を客観的に見れなくなっていた。今となっては何が正常な判断かは理解できる。あんな風に言うべきではなかった。ましてや身体を求めるなど───。いくらゲイが多く住む地区であっても、自分までそうなるとは、あまりにもおかしな話だ。これまでクリーヴは男に欲望を抱いたことはなかったし、今この瞬間、それを考えただけでも不思議な気持ちだ。どうしてあんなことになったのかと誰かに問われれば、“わからない”と答えるしかないだろう。強いて言えば、あの部屋のせいだ。暁の部屋は人を狂わせる。その証拠にこのホテルにいると、まるで憑き物が落ちたかのように、クリーヴは平常心を保つことができた。絵を描く情熱は消え、ふたたび凡庸な自分を取り戻したのだ。

 自分は絶対にゲイではない。その確信がありながらも、クリーヴはクリスの元に戻りたかった。「なぜそんなにも?」と誰かに問われれば、彼は「わからない」と答えるだろう。クリーヴは目を閉じ、クリスを想った。他に想うべき相手は、現在のところ存在しない。




 切なげな喘ぎと息づかい。声に汗をまとわりつかせた声が、携帯電話を通して聞こえる。いたずら電話の類いかとクリーヴは着信を切ろうとしたが、切れ切れに自分の名を呼ばれたところで、これが尋常ではないクリスの声だと彼は気がついた。

「クリス? クリスだな?」

「クリ…ヴ……来てくれ、今すぐ……」

「具合でも悪いのか? なにがあった?」

 クリスはぜいぜいと喘ぎ、「すぐにだ……すぐに来てくれ……」と言った。「ああ、もう駄目だ……キング……」

 そして悲鳴、受話器が床に落ちる音、悲鳴、悲鳴、悲鳴───。クリーヴは何度もクリスの名を呼んだが、応答はない。慌ててジャケットを羽織り、スリッパから靴に履き替える。携帯をポケットに突っ込み、クリーヴは外に飛び出した。彼の顔には大きな笑みがあり、考えるのは再会のこと。明らかにクリスの声の状態は普通ではなかったが、クリーヴはクリスに必要とされたことが嬉しかった。もしクリスが何らかの事故に巻き込まれでもしていたら、それはあまりにも不謹慎な喜びだが、今のクリーヴには考え得るどんな不幸な状況すらも、純粋な歓喜の前に鋳溶かされている。仮に現時点、カリフォルニアに帰っていたとしても、彼は何としてでもニューヨークに戻って来たことだろう。幸いクリーヴはまだここにいた。クリスのアトリエまで、急げば二十分足らずの距離だ。生き別れの恋人にでも呼ばれたかのように、クリーヴは走った。もうすぐクリスに会える。“どんな状態だとしても”、またあの男に会えるのだ。




 絵が完成している。自分が出ていった後の日数を数えれば、クリスにしては短期間で描き上げた方なのだろう。キャンバスは床に落ち、傍らにはパンの名刺があった。これが作品の譲渡先だということは理解できたが、部屋の中にそれ以外の情報は見あたらない。

 アトリエにはぬくもりがあり、今しがたまでいた人の気配に満ちていた。しかしクリスはいない。

 ベッドはしっとりと濡れ、シーツは裂けている。近づくと小便の匂いが鼻をついた。おそらくクリスは失禁したのだろう。あの叫び声。生きたまま内臓をえぐられたとしても、あのような悲痛な声は出せまい。いったい彼はどんな苦痛をあたえられたのか。

 無駄だとわかりつつも、クリーヴはクリスの名前を呼んだ。

「クリス……」

 部屋を歩きまわり、気がふれた者のように、ブツブツと名前をつぶやき続ける。

「クリス……クリス……クリス……」

 ぼんやりと画家の言葉を思い出す。

 ─── 長く時が経って、今おれが思うのは……“彼女は向こう側に行ってしまった”ということだ ───

 それはいったいどこのことなのか。画家は消えた。何らかのものに飲み込まれた。それは何の根拠もない妄想だ。しかし暁の部屋に戻ったクリーヴには、もはや理性的な考え方はできなかった。彼にとっての真実は、“クリスは消えた”ということ。そして“もう二度と彼には会えないのだ”とも───。その悟りを得、クリーヴはへたりと床に座り込んだ。すべてが終わってしまった。クリーヴは二度、クリスを失った。一度目は出て行けと言われたとき。そして二度目は本物の喪失だ。

 化け物は彼を引き裂いたのだろうか。その存在をキャンバスに写し取る眷属を、キングは無惨に痛めつけたと? 果たして……そうだろうか。クリスのあの声。あれが苦痛によるものだとどうして言い切れる? 彼は痛みで失禁した? 真実はその逆かもしれないじゃないか。クリーヴはそう考え直し、クリスの“快楽のあかし”を室内に探したが、それらしき体液は見つけられなかった。

 空調が壊れているのだろうか、室内の温度はとても高かった。汗をかきはじめたクリーヴは、衣服を脱ぎ捨てた。まる裸になり、クリスのベッドに横たわる。濡れたシーツを身体に巻き付け、まだ残る温かさに身を委ねると、ごく自然に彼は勃起した。目を閉じ、そのまま眠りに落ちる。起きたときには射精していた。




 ベッドが乾き、そしてまた濡れ、その繰り返しで数日が過ぎた。クリーヴはパンに連絡をとることはせず、ただこの部屋に居続けた。クリスが戻ってくることをわずかに期待することもあったが、その都度、希望は持つなと自分に言い聞かせた。

 昼夜を問わず窓を開け放ち、凍てつくような外気を迎え入れる。そうすることにさして意味はない。強いて言えば、ただそれが気持ちがいいと感じるからそうしている。食欲はまるでなく、ただ水だけを飲み続けた。無精髭と落窪んだ眼球。鏡の中にこの部屋の主人の面影を見る。

 クリスの遺作を脇に立てかけ、クリーヴは絵を描いた。他にするべきことは思いつかない。それにこのキャンバスは画家が自分にくれたものだ。クリーヴは大きな作品をやったことはなかったが、やってみるのにはいい機会だ。

 ボイラーが悪いままなのか、部屋はやたら暑い。そのため服は必要がなくなった。絵筆を取るとペニスが硬くなり、創作の意欲はまったく萎えることはない。それは素晴らしい感覚だったが、心は未だクリスを恋い慕っていた。この部屋は彼のものだ。自分はただ、彼が戻るまでここにいるに過ぎない。そう思いはするものの、“クリスが戻る”という可能性はないこともわかっていた。矛盾した思いを抱えつつ、クリーヴはここに留まる。彼は何かを待ち続けた。何をかはわからないが、“待っている”という感覚はあった。信頼できるものは何ひとつない。それならば、ただ“感覚”のみに従事するのも悪くはないだろう。

 汗を流し、呼吸をし、絵を描き続ける。自分の目的をクリーヴはもはや探してはいなかった。かつてそんな考えがあったことすら、彼は忘れてしまっている。




 クリスの枕には、まだ彼の香りが残っている。それに頭を埋め、クリーヴは画家とした会話を思い出していた。芸術についての考え方。消えてしまったガールフレンドのこと。その間、幾度か見た彼の笑顔……。感傷にひたりきっていたクリーヴを起こしたのは、パチパチという火のはぜる音だった。きな臭さを鼻孔に感じ、彼は突然、飛び起きる。

「絵が……」

 目にした光景を、クリーヴはにわかに信じることができなかった。絵が燃えている。描きかけの彼のキャンバス。ゆうに数メートルあるそれが、真っ赤な炎に包まれていた。

 瞬間的に、火を消そうと彼は行動に出る。水を取りに台所に行こうとしたそのとき、目の端が何か異様な光景を捉えた。振り返り、よく見ると、炎は絵を燃やしてはいなかった。まるで頑丈な不燃布のコマーシャルのように、キャンバスには焼けこげひとつついてはいない。だが火は燃えている。見間違えようもないほど、炎はそこにはっきりと存在している。

 ふいに絵が泡立ち、そこに火の波が産まれた。波はある姿を形成し、ゆらりゆらりとゆれながら、クリーヴの方に近づいてくる。“それ”が炎から完全に離れてしまうと、キャンバスは沈火。そして空間には、“見えざる者”だけが残った。

 クリーヴの頬に感触が触れた。彼はそこに手を伸ばす。掴んだそれは人の手だ。しかし目の前には誰もいない。見えない手をしっかりと掴まえ、クリーヴはつぶやいた。

「クリス……」

 そう呼んだものの、その名はすでに誰のものでもなかった。

 透明な指と手。そこに続く腕へとクリーヴは手を滑らせ、手探りで相手を確認しようとした。触り心地はまさしく人の皮膚に違いない。ただその長さだけは、おかしなほど長く伸びていた。これが人間であるとすれば、明らかに奇形と言える長さ。いずれは“クリス”を思わせるパーツすべてが変化していくのだろう。

 伸び過ぎた腕にクリーヴは頬を擦り寄せ、「きみは幸せかい?」と聞いた。

「きみは……幸せかい?」

 見えざる者は答えなかった。クリーヴの唇に感触が触れ、歯を割って柔らかな舌が入り込む。無言で絡ませ合う最中、クリーヴは薄く目を開けたが、口づけの相手はそこにはなく、ただ空間の広がりが視野に入るばかり。しかし目を閉じれば、そこにはっきりとクリスの顔を思い描くことができる。目を開くとなにも見えず、閉じればそこにある。これはなんという狂気だろう。それでもクリーヴはこの口づけを歓迎した。

 純粋な歓喜がクリーヴを圧倒し、体内にふくれあがったそれは、若き芸術家に熱い涙を流させる。肉体は神殿である。神殿に宿る命は神聖である。

 今、クリスは幸福なのだろう。それは推測でしかなかったが、正しいに違いない。なぜそうと言い切れるのか、説明できる術をクリーヴは持たなかったが、それでも彼は真実を知っていた。アートの直感が、霊感のすべてがそう言っている。クリスはアートと共にいる。芸術家にとって、それ以上の幸福があるはずもない。

 サクラメント(聖礼典)にも似た口づけが終わると、部屋は元の静けさを取り戻していた。涙を拭うこともせず、クリーヴはパレットに絵の具を絞り出す。描き留めるものは何か、もう彼は迷うことはない。かつて彼が“悪魔”としたネーミングは、やはり陳腐なものだったと思い知る。

『おれの絵に題はない』と画家は言ったが、クリーヴはこの絵につけるタイトルを決めていた。

〈HE(彼)〉───。

 これからは“彼”がいる。アートの霊感を与える、ひとつの存在。画家はひたすらに手を動かした。涙を流し、汗をかき、呼吸をし、起きたまま夢を見る。生きている間、他にすることもない。


END

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