暁の部屋(The Room of Crimson)

栗須じょの

第1話 暁の部屋(The Room of Crimson)

 ウィークディの午後一時。グリニッチ・ヴィレッジの住宅街では、引っ越してきたばかりの若いゲイのカップルが、アンティークの家具を運んでいる。

『こんどのヤツはあんまり趣味がよくないな』歩道に置かれたダマスク模様のソファと、ジャラジャラしたクリスタルがいくつもぶら下がったスタンドライトの間を器用にすり抜けながら、クリスはそんな感想を持った。うっかりつまづきそうになった足下には、デッサンの授業で使うような皇帝ネロの上半身。いくら人通りの少ない時間帯とはいえ、これだけ歩道に広げたら迷惑もいいとこだ。

 小さく舌打ちするクリスに、若い男が「すみません」と、声をかける。

「今、どかしますから……このアパートメントの方ですか?」建物の入り口に置いてある観葉植物の鉢を移動させながら若者が言う。

「上がアトリエなんだ」

「へぇ、画家なんですか」

「ああ」

「ぼくの友達も画家なんです。そんなに有名ってわけじゃないけど。このトルソーはその友達がくれたんだ。けっこうジャマだけどね」皇帝ネロを指して彼は微笑んだ。

 この会話は長引くのだろうか。クリスはこの手の雑談を好まなかった。もともと社交的な方ではなかったが、成功してからは、こうした会話はますます彼にはわずらわしいものになっていた。『わたしの友人もアーティストです』そう言われても「へぇ」という以上に興味が持てるはずもない。

「今日一日はこんな感じでバタバタすると思うけど、夜まではかからないと思うので」

『そうしてくれ』心の中でこたえるクリス。

「ぼくの名前は……」と、彼が名乗りかかると同時に、窓から男が顔をだした。

「ルーニー! こっちを手伝ってよ! はやく!」癇癪めいた声でどやしつけ、すぐに消える男。

「“ルーニー”だね」クリスは笑った。この会話の間に彼がみせた初めての笑顔。そのハンサムな顔にルーニーが一瞬見惚れた事に、当の本人は気付かなかった。

「ええ、ルーニーです」

 ルーニーも照れくさそうに笑った。引っ越しの準備にてんてこ舞いのボーイフレンドが、ふたたび彼の名を呼ぶ。

「ああ、行かないと。それじゃ、また」

 窓から顔を出している男。不機嫌な表情でこちらを見つめるその顔には、はっきりと嫉妬の色が見て取れる。

『安心しろ。きみの彼氏を取りゃしないよ』仏頂面にそう言ってやろうか? それとも胸に『わたしはストレートです』の看板を下げておくとか? クリスは半ばうんざりしながらアトリエへの階段を上った。

 アーティストを生業としていて、グリニッチにアトリエがあるからといってクリスがゲイだというわけではない。そもそもこの界隈にルパード・エヴェレットが越してくる以前から、ここは彼のアトリエだったのだ。



 ドアを開けた途端、むっとした熱気と、油絵の具の匂いが画家を出迎える。この季節はいつもこうだ。すべての窓を開け放つと、オーガンジーのカーテンがマンハッタンの風に踊った。この部屋の家具はルー二ーたちの半分にも満たない。ダブルベッドとその横のベッドサイドテーブル。小型の冷蔵庫(中身はミネラルウォーターとジンだけ)、今や絵の具だらけになってしまったトルコ製のラグ、そんな家具らしい家具もない部屋で、やはり目を引くのは絵だ。

 クリスは先週から大作にとりかかっており、それは高さ一.五メートル、横は三メートルほど。この大きさではイーゼルを使えないので、キャンバスは壁に直接固定されている。無味乾燥な部屋に唯一の色を添える絵画。それはあたかも入院生活の生花のように、生命の活き活きさをこのアトリエに吹き込むことに成功している。

 彼の作品は抽象画だ。いくつもの丸や、ぐにゃぐにゃとしたラインで構成されたそれは、ジャンル分けするとそうカテゴライズされるらしい。その絵を見た記者から「ドラッグ体験を描いているのですか」と、質問されることもあるが、初めてLSDをやる以前、子供の頃からクリスはこの手法で絵を描いている。もうひとつよくされる質問に「絵を描く時は何を考えているんですか?」と、いうのがある。「なにも」と画家は答えるが、それは正しい答えとは言えなかった。なにも考えていないわけではない。が、なにか特定のことを考えているという感じでもない。こうした質問に、彼はいつも困る。そもそも言語化できない世界を絵画と言う手段で表現しているのだから、言語化して説明しろと言われてもそれは難しい。絵画のインスピレーションはどこからかやってきて、いずこかへ去って行く。アーティストに理解できることはその程度のことなのだ。

 画壇にクリスの名前が鳴り響くようになった頃、彼は雑誌やテレビなどでいくつかインタビューを受けたことがあった。それはハンサムな若き天才を売り物にしようとする野心家の輩が企画したことだったが、寡黙で微笑みひとつ浮かべないクリスは、とても取材向きとはいえず、周囲は画家に、“芸術家すぎる”との結論を下し、タレントに仕立てあげることを諦めるを得なかった(無論、それはクリスには好都合だったことは言うまでもない)。

 しかしメディアに顔を出そうと出すまいと、“芸術家すぎる”彼の作品の評価は、変わることはなかった。絵画は世界を回り、地元ではファションブランドの広告としてブロードウェイ・ストリートを華やかに飾る。これは“まだ生きている芸術家”としてはまずまずの成果だ。

 売れっ子のアトリエに西日の当たる部屋は似つかわしくないと、クリスのガールフレンドのグレイスは言う。

「家の近くにアトリエを探してあげましょうか?」と、彼女。「なにもわざわざアップタウンからここまで下ってくることはないわけだし……それに“木炭に触れると汚れる”って言うじゃない?」

 グレイスはことわざの《瀝青に触れるものは汚れる(注・“朱に交われば赤くなる”と同意)》を、間違えて引用してクリスに注意を促した。ゲイの多いスポットをふらふらしていると、ゲイになる確立が高いと彼女は思っているのだ。しかしクリスは、誰になんと言われてもアトリエを変えるつもりはなかった。そもそも画家が木炭に触れないわけにはいかないではないか。

 不動産を営むグレイスは生粋のニューヨーカーだ。アーティスト(“自称”ではなく実際に絵で食っていける画家だ)の腕にぶら下がりたがっている女(男も)が、いくらでもいるこの街で、彼女の“無反応”という反応は、クリスにはとても新鮮だった。だがそれもそのはず、堅実な不動産業を営むユダヤ人であるグレイスは、アーティストといった『自由業』には、真から興味が湧かないのだ。たとえクリスの絵がブロードウェイ・ストリートの広告になろうとも、グラミーを取るようなバンドのジャケットに起用されようとも、彼女にとって、それは不安定な職種としかうつらない。つき合い始めの頃はその無関心さに心地良さと気楽さを感じていたクリスだったが、パートナーの職業に興味も敬意も持たない相手との関係は今や暗礁に乗り上げていた。

 グレイスとクリスはもう二週間も顔を合わせていない。はっきりした理由があるわけでもなかったが、最後に会った時に、なんとなく険悪なムードになったまま別れたら、今に至ったというまでだ。クリスが先週から大作に取りかかったのは、なにも芸術的な啓示によるものだけではなかった。こんな断絶状態ではデートに時間を割かれることもない。つまり大作に取りかかる時間はたっぷりあるということだ。



 パレットを手にし、絵の具をひとつひとつ絞り出す。いも虫の腹のようにつやつやと光る顔料。それを見ているだけで、クリスの心は子供のように躍った。グレイスから連絡がないことについては、別段落ち込むこともなかった。創作が自分に与えてくれるエネルギーは、画家にとってセックスの何倍も大きく強い。全ての絵の具をパレットに出し、目の前の“相手”に向き直る。筆を取る頃には、頭からすべての考えが締め出されていた。絵を描く時に何を考えているのかと訊いたインタビュアーも、彼のこの姿を見たらそうは問えなかっただろう。キャンバスに対峙するクリス。耳には無音が届き、目には未だ描かれていない、未知のものが写る。グレイスと愛し合うときのそれを遥かに越える集中力。そこに挟む質問は、例えどのようなものであっても、不粋極まることは間違いない。



 ようやくクリスが手を休めたのは、喉の乾きを感じたからだった。まばたきする時間も惜しむほど集中している彼は、こうした生理現象──空腹や眠気、尿意など──に創作活動を邪魔されるのがなによりもうっとおしく、自分が人間であることを恨みたなる瞬間でもあった。どんな高みに上りつめようとも、単純な原始的な欲求で、肉体という窮屈な入れ物に引き戻される。これさえなければ何時間でも、何日でもキャンバスに向かうことができるというのに───。

 肉体に戻ってみると、自分がすごく汗をかいていることに彼は気が付いた。タオルで顔と首まわり、脇の下を拭き、空調のスイッチを入れる。数ブロック先のコーヒーショップに出るだけだが、念のため筆とパレットが乾かないようにビニールラップをかける。少し暑いがジャケットを着ていくことにする。夕方、この界隈をタンクトップでうろつくのは、あまりいいアイディアではないからだ。

「背後に気をつけるのよ」アトリエに出勤するクリスに向かって、グレイスはよく冗談でそう言っていた。たしかにクリスのようにハンサムな顔立ちをしていたら、多少はそうしたことに気をつけた方がいいのかもしれない。彼のひきしまった身体と美しい顔立ちは、むしろゲイといったほうが自然ともいえ、クリスは自分でもそれを心得ていた。とはいえ、日が落ちる前のスターバックスで、見ず知らずの男に声をかけられるのは、彼にとってもさすがに珍しいことだった。

「きみ、画家かなにか?」

 声に振り向くと、フレッドペリーのポロシャツを着た若い男が立っている。雑誌やテレビによく出ていた頃は、こんなふうに声をかけられることもままあったが、最近は、そうと知っていて声を掛けてくる者は少なくなった。

「ちがうかな? 手に絵の具がついてるから」

 言われて見ると、手の甲から指にかけてバーミリオン(赤銅色)が、しっかりとこびり付いている。なるほど、名探偵だ。どうやらバニティフェアの読者ではないらしい。クリスは心でニヤリと笑う。

「ぼくも絵を描くんだ」と、少しはにかんだ笑顔で彼は続けた。優しげで人当たりがよさそうな男。出会いの場になっているのは、何もバーだけではないようだ。

「ええと……ここに座ってもいいかな?」と、青年。

「ああ、もちろん。もう行くところだったから」紙のカップを掴み、すばやく席を立つクリス。何か言いかかった男の言葉を遮り、画家は続けた。「おれは配管工なんだ。これは手に水道管の錆がついただけさ」



 よかった、間に合った───。

 駆け込むようにアトリエに戻り、クリスは安堵のため息をついた。ジャケットを脱ぎ捨て、部屋の中央に立ち、描きかけの作品と向かい合う。窓を閉めきった部屋は蒸し暑く、じっとしているだけで汗がにじんでくるほどだったが、彼は立ちつくしたまま、少しも動こうとはしない。そうしてただ立ち、待っていると、ゆっくりと───クリスが待っていた時間が徐々に訪れ始める。

 物憂げな娼婦の仕草のように、ゆったりと陽は傾き、ハドソン川に落ちる燗熟した夕日が、部屋の色彩を変えてゆく。それはこの季節、この時間だけに起こる現象。オレンジから濃い朱へ───見る間に部屋中が朱に染めあげられ、野蛮な熱気を振るうマンハッタンの夏は、毎夜ごとに朱の断末魔を咆げて、その生を全うする。このわずかな死と生のはざまに、クリスの作品もまた変化をみせた。描きかけの絵が何色であろうと、それはすべて奇妙な赤に塗り替えられ、画家の想像を遥かに越えた模様や色彩が、そこかしこに浮かび上がってくる。すべてを燃やし尽くす朱色の神殿で、見えざる芸術家の手による技がキャンバスに出現するのだ。

 女性だと思っていたものは男性となり、鳥だと思っていたものは蛇に、太陽は月に、強固な建造物はたちまち液体と成り果てる。それらはときに動きさえするように感じられることもあるほどだ。

 この魔法の瞬間。これこそがクリスがこのアトリエを手放さない唯一の理由だった。タールのような濃い汗を流し、その身を朱に焼かれながら、彼はすでに自分のものでなくなった作品を凝視した。その間、わずか十分にも満たなかったが、霊感を得るには充分すぎる時間だ。目の前の絵画もまたクリスを見つめ返している。

『おまえにおれが現せられるか?』

『おれに触れることができるか?』

『おれをこの世に生み出すことができるのか?』

 うねりをあげる絵画のむこうのなにかは、そうクリスに問いかけてくる。叫び出しそうになるほどの歓喜と恐怖が、彼の内部で出口を求めて渦巻く。その重圧を伴った緊張感が最高潮に達し、もうこれ以上は持ちこたえられないとなったその瞬間、絞り出すような低い唸り声と共に、クリスはこの現実へ戻ってきた。両手で顔を覆い、流れる汗をぬぐって、深海から戻ってきた男のように深々と息を吐く。

 いつもここまでだ。この最高点よりむこうにクリスは足を踏み入れたことがない。恐怖がその錨となり、向こう側へ突き抜けるのをかろうじて押しとどめている。きっとそれは正しいことなのだろうと彼は思っていた。そのむこうに行ってしまっては、きっともうこちらの世界に戻ってくることができないだろう。幾人もの芸術家がその世界の住人になり、それを人は狂気と呼んだ。ぶつぶつとわけのわからないことを漏らし、うつろに見える目の焦点は、しっかりと見えざる世界に向けられている。

 むこう側の世界を知りたい気持ちも確かにあったが、この世界(映画などの娯楽、グレイス、焼きたてのベーグルなど)に、まだ未練はある。狂気に取り憑かれた芸術家というレッテルを冠するには、自分はまだ若すぎるのだ。

 緊張が解けたせいか、急に身体の重さを感じたクリスは、タンクトップを脱ぎ、汗みずくの身体のままベッドに横たわった。しばらくはアトリエで生活することにしよう。家にいればグレイスからの連絡が気になってしまうだろうが、ここなら電話もないし、誰かが訪ねてくるでもない。

 クリスは目を閉じ、ぼんやりと今日スターバックスで会った男のことを思った。あの男はオカマっぽくもなければ、筋肉増強剤を打っているふうでもない。ナンパ目的で話しかけてきたわりには、目をあまり合わせようとはせず、むしろどこか恥ずかしそうにしていた。きっとよっぽどの覚悟で声をかけたのだろう。下の階のルーニーもそうだ。彼らはどこにでもいる普通の男、むしろ普通より善良な男に見える。あんなシャイな若者たちでも、男を相手にしたらストレートが想像もつかないようなセックスをするんだろうか? そう思ってみたものの、職業は司祭だと言っても通りそうなあの健全な若者が、男とのセックスに励んでいるとは、どうしても想像することができない。クリスはうめき声をあげて寝返りをうった。自分の考えに嫌気がさしたのである。そんなことを想像してどうする? そもそもこのマンハッタンだけでも、自分の想像を越える出来事はごまんとあるはずだ。あまたの想像を絶する犯罪。毎夜繰り広げられる想像を絶するようなセックス。それに───神秘。

 公言することはないが、クリスは心のどこかで神秘を信じていた。涙を流すマリア像や、居酒屋に現れる詩人の霊などといった陳腐なものではなく、想像を越えた本物のなにかを。

 夕闇に満ちる一瞬前の、朱に燃え立つ部屋。その瞬間、部屋には霊聖が満ち満ちる。朱い部屋にいる自分をあのスターバックスの若き芸術家が見たとしたら、そのとき自分は何に見えるだろうとクリスは考えた。女は男に、太陽は月に、固形は液体になるこの部屋で。

 クリスは手についたバーミリオンを眺めた。それはすっかり暮れた薄蒼い部屋の中では、黒く乾いた血のようにも見えた。



 眠りから現世へとクリスを引き戻したのは、奇妙な悲鳴によってだった。その切なげな声が自分の発したものだと理解するのに、さほど時間はかからなかったが、自分の身体に何が起きたのかを理解するのは一瞬の間があった。

 薄暗い部屋の中で視界に飛び込んできたのは、素っ裸の自分の身体だ。ジーンズは寝ている間に脱いだらしい。汗でシーツはじっとりと湿っていたが、濡れていたのはシーツだけではない。クリスの腹から胸までが、自身の欲望にまみれていたのである。腹の上に放り出されたペニスは若干の固さを保ってはいるものの、エクスタシーの余韻に震え、未だひくひくと脈打っている。

 混乱に陥った者がよくやるように、クリスは自分の顔を両手で撫で回した。自分の手は濡れていない。手は使っていないのだ。目覚める直前に誰かが自分に触れていたような気がする。だがいったい誰が? この部屋には自分の他に誰もいない。誰かが自分に触れていたが誰もいない───そうだ、これは簡単なこと。自分は夢を見ていたのだ。セックスの夢を。

 落ち着いて考えれば単純な結論だ。奇妙な現象に驚いたせいで、些かパニックに陥ってしまったらしい。血気盛んな高校生じゃあるまいし、グレイスに二週間会えなかっただけでこれかと思うと、さすがに自分にあきれてしまう。身体を起こすと、精液が脇腹をつたって流れ、シーツに染みをつくった。まだ身体には熱がある。彼がこんなに感じやすくなっているのは珍しいことで、覚えてもいないセックスの夢に、もう一度耽溺したいという衝動にかられるほどだ。

 脱ぎ散らしたタンクトップを拾って胸と腹を拭き、クリスはシャワールームに向かった。これは作品へのありあまる熱意があってのこと。そう解釈すると恥ずかしさも幾分和らいだ。洗面台の鏡を見ると、顎にまで精液の染みがついている。それを指で拭き取り、口笛を吹いた。グレイスに会えなくても一向に構わない。ここでしばらくひとりで創作活動に打ち込むのもいいじゃないか。

 口笛はマカロニウェスタンの名曲。曲名は知らなかったが、そのメロディにはなんだか励まされる気がした。クリスはシャワーのコックをひねり、全身に石けんを塗りたくった。“ジョン・ウェインも夢精しただろうか?”そんなことを思いつつ、口笛を吹く。リズムはバスルームの壁に反響して軽快に響いた。



 二度目ともなるとさすがに異常だ。クリスはそう思いながら、腹にぶちまけられた自分の精液をぼんやりと見つめていた。

 やはり目覚める直前まで何か夢を見ていた気がする。誰かが、なにかが自分に触れていた夢だ。どこかで質(たち)の悪いドラッグでもひろってしまったのだろうか。両手を顔に近付けて匂いを嗅ぐ。まくらを手に取ってそれも嗅いでみる。どちらも汗の匂いがするだけで、それらしきものは感じられない。十代の頃にやった、粗悪なドラッグのフラッシュバック? それともルーニーとその友人が怪しい香でも焚いていて、その煙がここまで漂ってきているのだろうか? いくら考えても、どれひとつとしてこれだという決定打には至らない。

 クリスは大きく息を吐き出し、腹を濡らしたまま、サイドテーブルの引き出しからタバコとジッポーを取り出した。煙を吸い込み、それから吐き出す。これで一週間目の禁煙がパアだ。(そもそも一週間以上もったためしがないのだが)

 なにか奇妙なことが起きている。それは確かだ。だがそれ以上のことはなにもわからない。

「おもしろい」クリスの口に笑みが浮かんだ。

 これが狂気なのだとしたら、それはずいぶんと独創的ではないだろうか。それとも狂気とはその宿主に気に入られようと、手の込んだ方法で近付いてくるものなのか。クリスはタバコの先端から立ち上る青い煙をじっと眺めた。それが奇妙な形、謎の図形や文字にでも変化しやないかと。期待を込めて見つめるも、結局そこにはなんの不思議も現れることはなかった。もちろんそうだ。神秘は期待するような方法では現れない。フィルターの焦げた匂いを嗅ぎながら、クリスは自分の発想の陳腐さに苦笑した。神秘の謀は芸術家のそれを遥かに超えている。

 箱から再びタバコを取り出し、火をつける。本人は気付いていなかったが、その行為は一本目とは異なり、インディアンの儀式のようなうやうやしさがあった。見えざる神秘に対するクリスの畏敬の念は、その行動に神聖さを宿し、その顔を若い聖職者のように輝かせた。このときすでにクリスはそれとは知らず、狂気への第一歩を踏み出している。それは彼が思っていたようなものではなく、神聖さと穏やかさをもって誘(いざな)われるものだったのである。



 それ以後のクリスはいつもにまして神経質になっていった。眠りは浅く、わずかな物音や、自分の寝返りにまではっとなる。夜中に何度も目を覚まし、闇の中で息をひそめ、なにかのサインが現れるのをただ待った。だが幾日経ってもそれらしい啓示は現れない。何事もない平和な朝を迎えるたびに、見捨てられた仔羊よろしくクリスは落胆した。しかしそのことは彼のクリエイティビティに何ら損傷を与えるものではなく、創作活動は変わらず続けられた。集中は途切れることがなく、それによって自然と外に食事でることもなくなった。ただ水ばかりを飲んで、キャンバスに向かい、夕刻には朱の洗礼を受け、汗をかき、冷たいシャワーを浴び、再び創作に打ち込む。睡眠不足と栄養不良、加えて創作活動中のエネルギーの放出により、クリスの体重は落ちはじめ、彼の感覚は断食中の僧侶のように鋭敏になった。天候の変化が予期できるようになり、窓の外をパトカーのサイレンが鳴る数秒前にそれを察知できるようになった。しかしそうであっても神秘は現れない。眠っている間に射精することもあれ以来なく、期待するような不思議はもう二度と起きないのではないかと、クリスが思い始めた頃、それは起きた。



 いつものように眠りは浅く、夢と現の挟間をゆるやかに漂っていある夜のこと。夢の中では母親がいつものようにクリスを叱りつけている。

『クリス、寝るならそのラジオを消しなさい。寝るか、起きるかどっちかにして』

 いつものように少年も反論した。

「……聞いてるんだよ、ママ」

『あらそう? そんな曲を?』

 そんな曲? たしかにこれはクリスの趣味ではない。ピアノのソロのようだが、調子がまるではずれており、その気持ちの悪い不協和音は、墓場から蘇ったエリック・サティが朽ちた腕で懸命に、かつての情熱を取り戻そうとしているかのようだ。ママの言う通りだ。ラジオを消そう。クリスはそう思い目を覚ました。だがベッドの上にあるはずのラジオがない。もちろんそうだ。ここは川むこうの実家ではなく、ニューヨークの自分のアトリエなのだから。

 ここでクリスは第一の異変に気付いた。身体が動かない。動かすことができない。そして第二の異変。その楽曲は表の通りから聞こえるのではない。この部屋だ。オーディオ機器のない、この部屋の中から聞こえてくる。それから第三の異変。これが一番奇妙かつ、クリスを畏怖させるに十分な異変中の異変だった。クリスは裸で、彼のペニスは堅く起立している。しかし異変とはそのことではない。ここには自分以外のなにかがいる。この目の前に、クリスの身体の自由を奪い、そのペニスに快楽を与えているなにかが。

 クリスはかっと目を見開いて、その正体を見極めようとした。だがその暗がりに見えるのは、数年前に動きを止めた天井のファンだけだ。彼の四肢をしっかりと押さえ付け、規則的な動きでペニスを嬲る相手の姿はそこにはなく───いや、“ない”のではない、“見えない”のだ。

 すぐ近くに感じる、猫の喉鳴りのようなゴロゴロという音。においを嗅ぐように鼻(それが鼻だとすればだが)を鳴らす音。熱い吐息(それが息だとすればだが)が、クリスに吹きかけられる。それは腐ったオレンジのような香りがした。

 間違いなく目の前には『なにか』がいる。しかしいくら凝視しても、そこにはなんの形も見つけることはできない。自分はまだ夢を見ているのだろうか? 押さえつけられた腕の痛みと、しっとりと暖かい湿った感触。ペニスを嬲る感覚は、とうてい夢とは思えない。押さえつけられた形の通りに、腕の肉はひしゃげ、舐められているペニスはその動きに合わせて揺れている。今まで生きてきたなかで、己の肉体がこんな奇妙な状態になったのを彼は見たことがなかった。異様な光景にペニスは萎え、胃袋がねじれて、冷たい汗が全身にどっとふきだす。

 おれはこいつにイカされていたのか? 姿も見えない、おそらく人間でもないこいつに? だが今は理性を裏切っていた己の肉体を嫌悪している場合ではない。クリスはこの見えざる怪物から逃れようと身をよじった。首を左右に振ってもがくも、期待したような効果はなにも得られず、押さえつけられた手足はびくともしない。叫びをあげようとしたその口に、ぬるりとした物体が突っ込まれる。助けを呼ぶ器官はあっさりと封じられ、歯を立てようにもそれは太く堅く、クリスの顎の動きをすっかり制圧している。鼻で息をするのがやっとの状態である彼に、怪物の愛撫はしばらく続いていたが、相手はふいにその行為をやめ、おもむろにクリスの足の間に潜り込んできた。その質感は濡れた大型犬のようでもあり、ウロコのない魚のようでもある。見えない存在は生暖かい身体をぐいと押し進めてくる。クリスの足の間に熱く堅いものが触れ、重みと嫌悪でクリスは呻いた。これからなにが起きるのか、その行為に予想がつかないほどクリスは初心(うぶ)ではない。──おれは犯される──このわけのわからない怪物に。姿すら見えない相手に強姦されるのだ。

 クリスは目を見開いて、なにもない空間を見つめた。部屋の中には、暑さで犬が喘ぐような呼吸の音だけが響いている。肉をさらに押し付けてくる強姦者。それはクリスの内部に侵入しようとしている。

 相手は怪物だ。この行為がなにを意味しているのかは見当もつかない。セックスの快楽に溺れようというのか、卵を産みつけようというのか。そもそも今相手が押し付けてきている器官、仮にペニスだとすれば、それが人間並の持ち物だとどうして言える? 貫かれた瞬間に身体がまっぷたつに裂けてしまうことだってあり得るはず───クリスは自分の考えに恐怖した。奇怪なピアノの音はさらにボリュームを上げ、今やそれは大聖堂の聖歌のように、部屋中に響き渡っている。この音を聞きつけて、誰か助けに来てはくれないだろうかという望みはとうに捨てていた。もちろんこの音はクリスにしか聞こえていないのだ。でなければとうに隣人が苦情を言いにドアを叩いているはず。自分にしか聞こえない音楽。自分にすら見えない相手。おれは狂ってしまったのだろうか。クリスがそう思ったそのとき、なんの前触れもなく、口の中で怪物の肉が痙攣したかと思うと、その律動に合わせて、熱い液体がクリスの口蓋に噴射された。瞬間、堅さは萎え、それを感知すると同時に、ほとんど反射的にクリスは思いきり口を閉じ、それを噛みちぎった。怪物は熱いものに触れでもしたかのように、ぱっとクリスから手を離すと、つまった掃除機のようなバキューム音を立てて、ベッドからころがり落ちた。痛めつけられた犬のようなヒーヒーという音を漏らしながら、床の上をどすんばたんという重たい音を立てて転げ回る。しばらくするとその音のどちらも止み───あとは静寂が訪れた。クリスは口中に残った肉片を吐き出した。怪物の姿はいぜん見えないままだが、切り取られた肉は肉眼で確認することができた。それはむしりとられた老人の唇のような、毛のない肉色のしなびた断片だった。怪物が最後にいた空間に視線を向けてみる。続けてそこにかじり取った肉を投げ付ける。肉は何にもぶつかることなく、ぺたりと湿った音を立てて、その空間に落ちた。

 化け物は消えた。床に残された肉片がなければ夢であったかと思えるほど、煙のように跡形もなくかき消えている。どこかにまだひそんでいるのではないかという考えも一応、持ちはしたが、すでにその気配はこの部屋にはなかった。安堵するより早く、新たな感情がクリスを支配した。それは恐怖より強い、怒り。

「───畜生!」

 怒声が部屋中に響き渡る。怪物によって汚された口の周りを拭い、床に唾を吐く。それからベッドサイドに降り立ち、シーツを剥がし、枕と一緒に丸め、バスタブに放り込む。テレピン油を一面にかけ、火をつける。キャンプファイヤーのように、めらめらと燃え上がる炎。悪魔との情事の証拠隠滅だ。

聖なる火はクリスの顔を熱くさせ、コンタクトレンズを乾かした。顔を背け、何度か瞬きをしながら、換気扇のスイッチに手を伸ばす。ブーンという音を立てて換気扇が回り、煙と火の粉がたちまち吸い出されてゆく。

 そうだ、出て行け。灰になって煙になって、マンハッタンの下水に、空に、すべてを還元してやろう。“還元”? どこからそんな言葉が出てきたのだろう? もしやあの怪物の正体とは、華やかさの裏に追い払われた、不満、怒り、妬み、疲労、欲望、罪悪感、恨み───マンハッタンにごまんとあるすべての悪徳が怪物の想像主、いや、あの存在自身が悪徳そのものなのではないだろうか。

だとすると、自分は悪徳にレイプされそうになったということか。そう思うと、改めて彼の内に怒りがわき上がってきた。悪徳だと? そんなものにこの肉体と精神を犯させるものか。

 クリスは筆を取った。ビリジアン(深緑)を基調にした、強固なカタマリをキャンバスに描き現す。悪の持つプリミティブな力強さ。邪悪が形を成さず、現れいでたような不安と重さ。復讐心に取り憑かれた男のように、クリスは筆を動かした。チューブを直接キャンバスに絞り出し、筆のみならず、パレットナイフと指を使い、見ることのできなかった悪意の形を成してゆく。それを描き写すことができれば魔物が捕らえられるとでもいうように───。さきほどまでの異常事態に対する恐怖はすでにない。今や意志の力が恐怖を完全に制圧し、創作のエネルギーへとそれは昇華されている。これを描かずに、これを体験せずに逃げ出すわけにはいかない。芸術家ならばこれを見過ごせるわけがない。もしこれをなかったことにしてしまえば、きっと一生後悔するだろうことはわかりきっている。

 目の端に化け物の肉片が映った。それはさきほどよりも白っぽく変色しはじめており、怪物の一部であったそれは、ただのちいさな肉のかけらと化している。あれが現実だったという証拠に、この肉を取っておこうかとも思ったが、それはやめにした。あの体験はこんな爬虫類の死骸のようなものではない。肉に宿っていたはずの原始の力はすでにここにはなく、これはただの抜け殻にすぎないのだ。

 クリスはしなびた肉片を拾い上げ、トイレに流すと再びキャンバスに向き直った。



 マンハッタンの午後の陽射しはいくぶん和らぎつつあったが、ろくな栄養を採っていないクリスには、その光だけで倒れてしまいそうだった。冷蔵庫のミネラルウォーターが切れたので、近所のスーパーマーケットに来てはみたものの、なにを見ても食欲が湧くということがない。これは危険な徴候だとわかってはいたが、どうしても食料をカゴに入れる気がしない。

 色とりどりの果物が並ぶ棚をぼんやりと眺めていると「こんにちは」と、背後から声がした。振り返ると白っぽいブロンドの若い男が立っている。

果物の棚を見るのと同じように、ぼんやりとその男の顔を見る。記憶の引き出しの奥から、その男の顔をクリスが取り出す前に、若者はにこやかに名乗りをあげた。

「下の階のルーニーです」

「ああ……」

「すごいな、ずっと創作活動を?」

 彼の視線を受け、その先にある自分の手を見下ろすと、それは絵の具だらけ。判別不能なほど様々な色が混じり合い、それは糞のような色になっていた。クリスは日に一度、水のシャワーを浴びていたが、絵の具を落とすまでの効果はなかったようだ。

「直接手で描くんですか? もしよかったら今度作品を見せてほしいな。近いうちにどこかで発表を?」 

 ほがらかにしゃべるルーニーに向かって、クリスはだしぬけに訊ねた。

「このあたりで銃を売っているところをしらないかな」

 ルーニーはあからさまにぎょっとした様子を見せ、眉間にシワを寄せて「銃?」と、聞き返した。

「ああ、近いうちに手に入れないと……おれは……」

 そこまで言いかけ、クリスは言葉を切った。自分でもなにを言おうとしたかがわからなくなったのと、目の前の男の瞳に、気の毒な狼狽を見たからだ。

 手は絵の具だらけ、服も絵の具だらけ。痩せてやつれた顔には無精髭。そんな男が銃を買いたいのだと言ってくる。気のいいルーニーにとって、トワイライトゾーンの住人との対話はあまり楽しくないに違いない。

「銃……いや、ぼくは知らないけど……」

「そうか、いやいいんだ。へんなこと聞いて悪かったな」そう言うと、クリスは果物とルーニーを後にした。

 持てるだけの水を買い、あと2ダースをアトリエに配送してもらうことにし、銃は売っていないので買わなかった。しかし……先送りにしたものほど早急に必要になるとは世の常だ。すぐに銃を購入しなかったことを、クリスはこの夜、後悔することになる。



 何もない空間。そこに焦点を合わせるクリス。部屋に立ちこめるのはオレンジの腐臭。それは油絵の具の匂いと混ざって不快このうえなかったが、悪臭に注意を向けるほどの余裕は今の彼には少しもない。異形はまたしても現れた。姿は依然見えないままだが、それでも確かに、ここにいる。前回のように身体を押さえつけられているわけではない。ただ部屋の真ん中、最後に消えたあたりに“奴”は立っている。そしてクリスはそれに対峙する格好で、武器もなにも持たないまま立ちすくんでいた。

 こんなに早く機会が戻ってくるとは。なにと比較してそう思うのかわからなかったが、この事態に自分がうろたえているところをみると、甘っちょろくもまだ時間に猶予があるような気がしていたらしい。

 クリスは脇の下に汗をかきながら、自分は三文ホラー映画の脇役のように、好奇心の代償としてあっけなく惨殺されてしまうのだろうかと考えた。

 短い間隔でハアハアと音を立てる、怪物の吐息は少しも動こうとしない。昨晩痛い目をみたせいで、いくらか警戒をしているのかもしれない。こちらを脅威に思ってくれれば有り難いが、最終的には力で相手にかなうわけがないことは、よく分かっていた。これは単なる時間稼ぎに過ぎない。

 クリスはおもむろにジーンズとシャツを脱ぎ捨てた。そのふたつが武器になるとは思えなかったし、わずかでも相手を油断させることができればと思ったからだ。それにいつも、この化け物は、どういうわけかおれの肉体を望んでいたではないか。

「おれと……寝たいんだろう? こっちへ来いよ……」

 勝算があるわけではなかった。これは賭けだ。賭けの結果に確実性はない。どちらかが勝つか負けるかだ。

 話しかけるクリスに相手は戸惑っているのか、なかなか距離を縮めようとはしてこない。怪物にはどういう言葉が効果的なのか皆目見当がつかなかったが、クリスは強ばった舌で見えない相手にしゃべり続けた。

「おれが欲しいだろ? そら……いい子だな。こっちに……こい」

 見えない相手は短い間隔で息をしている。犬のような呼吸。腐ったオレンジの香り。手を伸ばすと熱い吐息が手にかかった。このあたりが頭だろうか? そうだとするとこの辺が腕にあたるはず。推測をつけて空間を手探りすると、ふさふさの毛が指に触れた。───よし。さらによく触れ、それを握ってみる。毛の下で脈打つ筋肉が。質感ははっきりとしている。こいつは幽霊や精霊などとは違う。毛むくじゃらの腕(腕だといいが)を掴んでも、怪物がかき消えてしまうことはなかった。それがこの賭けの表目にでるか裏目にでるかはわからなかったが、とにかく相手は今ここに存在していることが、これでさらにはっきりと証明された。

 なんの器官からだかわからないが、怪物は湿った音を立てた。クリスの裸体に舌なめずりをしているのかもしれない。握った箇所は熱く、まるで熱のある犬のようだ。盲しいた者がこれに触れたらなんと思うだろう。大きく優しい生き物だとでも思うかもしれない。クリスはこれを悪徳そのものだと思った。だが今ではすっかりそれはわからなくなった。これが悪だとどうして言える? 自分はなにも知らない。神秘についてなにも知らないではないか。

 この異様な状況下において、不思議なことにクリスのペニスは起立していた。怪物とのセックスの予感に興奮しているのではない。これは生と死のギリギリの賭けだ。一瞬でも気を抜けば───いや、本当はなにが起きるのかはクリスにもわかっていない。だが芸術家の直感で彼は理解していた。『今日ここで、どちらかが死ぬのだ』と。

 彼の全身をアドレナリンが駆け巡る。硬く勃起させているのは、一種の武者震いのような興奮だ。怪物はこれを見て油断してくれるだろうか? これが欲望を共有したいという合図だと理解できるほどの知性を持っているかは分からなかったが、その可能性があることにクリスは賭け、さらに言葉を続けた。

「おれはずっとおまえを待っていたんだ……この部屋で……。この……特別な部屋で」

 言葉は愛のささやきのようだった。意図せずして出たそれは、言葉にすると真実のような気がしてきた。クリスは待っていた。この部屋に神秘が満ちるのをいつも待っていたではないか。その期待に応えてやってきたのだ。本物の───神秘が。

 ぺたりと足音がした。ぺたり、ぺたり。一歩、また一歩と、怪物がにじりよってくる。それからおずおずと、最初に感じたあの暖かく柔らかい舌のような器官で、クリスのペニスに触れてくる。初めは遠慮がちに、それから徐々にリズミカルな動きへ。それは子供がキャンディをしゃぶるかのように楽しげだ。

 クリスは怪物のするがままにまかせ、後ろ手でベッドのシーツをたぐり寄せる。

「……いい子だ」口の中でつぶやく言葉。ほとんどそれは祈りのようだった。

「そのまま……そのまま続けて……」

 次に彼が打って出た行動は、そのうっとりとした口調と真逆のものだった。素早く後ろに飛び退り、手にしたシーツを見えざる存在にかぶせる。行為に熱中していた相手の動きは鈍い。それはクリスの想像以上に功を奏し、その動き見事に封じ込めた。画材を乗せたワゴンを引き寄せ、テレピン油の缶を手にとり、相手がシーツをはぎ取るより早く、その中身をぶちまける。その刹那───濡れた布を通して異形が姿を現した。直立して立つその風采は、クリスが想像していたよりも人間に近い造形をしていた。その腕は、アンバランスな長さをしているものの、本数は二本。おそらく足も同じだろう。著しく人間と異なる部分といえばその頭部で、あるべきところに頭はなく、両肩のあいだには、わずかに瘤のように盛り上がった部分があるだけだ。

 怪物の風体に一瞬、目を奪われたクリスだったが、彼の手は自分のすべきことを完全に理解していた。すばやくジッポーを掴み、火をつけ、怪物の足下に放り投げる。火は一瞬で炎となり、油で濡れたシーツをあっというまに飲み込んでしまう。炎の勢いに転がるように飛び退くクリス。タンパク質の焼ける匂いが、オレンジの体臭を部屋から消し去る。

炎の動きから怪物がもがき苦しんでいることは認識できたが、苦痛のあまり叫びをあげたり、喚き声を立てるということはしなかった。

聞こえてくるのは、喘ぐような呼吸の音。それが断末魔であることを願いつつ、クリスはじっと炎を見つめる。

 火に縁取られた輪郭から、その生き物は徐々に姿を現しはじめた。全身を覆っていたとおぼしき白い体毛は、ほとんど焼き尽くされ、毛の下の肉にはいくつも火ぶくれができている。焼けただれた皮膚は次から次へめくれあがり、またそこを炎が嘗め尽くしてゆく。異形の姿を再び覆い隠したのは、その身体から立ち上る煙によってだった。今や部屋中には煙が立ちこめ、このままでは自分もそれに巻かれてしまう。だが逃げる前に、クリスはどうしても怪物の死を確認したかった。それを見ずにこの部屋を出てしまえば、それからずっと闇の恐ろしさに怯えて暮らすことになる。

 怪物の動きはゆっくりになっていったが、それでも倒れはしなかった。めらめらと炎をあげながらゆっくりとと後ずさり、よろけた拍子に壁の絵に取りすがる。キャンバスに点々と焦茶色の穴が開いたかと思うと、絵はあっというま、そのすべてを炎に明け渡した。

 あれだけ情熱をかたむけた作品が燃えるのを見ても、クリスには不思議とそれを惜しむ気は起きなかった。灰は灰に、塵は塵に。すべては還るべき場所に還る。この絵が怪物の副葬品だ。逃げるのも忘れて絵画の最後を見届けていると、けたたましいベル音と共に、アパートのスプリンクラーが作動した。からからに乾いていたクリスの皮膚に、冷たい水が降りしきる。熱せられた身体にそれは心地よく、クリスはようやく目を閉じた。こころもち顔を上にむけ、洗礼を受ける者のように、水を浴びる。

 完全に動きを止めた怪物は、燃え尽きてこそいなかったが、すでに原型はとどめていない。それがかつてどんな生き物だったか推し量ることは不可能だったが、生きていたなにかだということは見て取れる。クリスより大きかったはずのそれは、大型犬くらいの大きさになっていた。黒く焼け焦げた肉は縦に裂け、ナイフを入れた西瓜のように、ぬめぬめとした赤い生肉をのぞかせている。煤はスプリンクラーのシャワーで洗い流されつつあるが、いぶしたようなような異臭は、むしろそのシャワーによって、さらに胸のむかつくようなものになっている。

 クリスはキャンバスに目を向けた。焦げた木枠を残し、まだらに焼けた作品。絵も化け物も、どちらも完全には灰に帰することはなかった。力は奪われ、後に残るは残骸のみ。すべてが美しい白い灰になるなどとは、おとぎ話に過ぎない。この現実は部屋に染み付いた煙の匂いと同様、消し去ることはできないのだ。

 いつしかスプリンクラーの雨は止んでおり、クリスがそれに気付く前に、乱暴にドアが蹴り開けられた。なだれ込むようにして駆け込んでくる数人の消防隊員。おそらく誰かが煙を見て通報したのだろう。

「大丈夫ですか」消防隊員が声をかけた。そして続け、「いったい何があったんです?」と質問をする。クリスはなにも説明しようとはしなかった。そもそもこれは馬鹿な質問ではないか。これがどこから来て、どこへ行ったのか。そんなこと一介の画家にわかるわけがない。どうして人はこんなことをいつも聞きたがるのだろう。

 隊員は、裸で立ちすくんだままの芸術家に質問することを早々にあきらめ──それは賢明だ──、早いところ病院に移送したほうがいいと判断。クリスはすり切れて薄っぺらになった毛布をかぶせられ、隊員に肩を抱かれ、部屋の外へと歩きだす。後にしたアトリエからは「うわっ」という叫び声があがった。「なんだこりゃ?」「犬か? 犬の死骸なのか?」

 戸惑う彼らにクリスは答えてやれない。対峙した彼にすらその正体はわかっていないのだ。アパートの住人たちが、廊下にあふれださんばかりに集まっている。誰かがぼそりと「彼は芸術家だそうだ」と、つぶいた。そのコメントには『彼は芸術家だからやることがおかしいんだよ』と、いうような含みが感じられ、クリスはこっそり笑いをかみ殺した。アパートに火を放つことは、芸術家ならやりそうなことだとでもというのだろうか。この愚行は一般人には理解できない芸術活動の一環だろうと? びしょびしょの床に転がる肉の塊を思い返し、クリスはさらにこらえきれない可笑しさが込み上げてくるのを感じた。自分が絵を通してずっと表現しようとしていたもの、それはあんな焦げた肉の塊などではない。彼が人生をかけて表現しようとしたものは、そこに宿っていた命、生命の神秘、未知なるものへの畏怖。それは誰にも───本人にすら理解できない『なにか』なのだ。言葉にしてしまうとそれは陳腐なもので、かといって絵でそれができているかといえばそれも怪しい。言葉にはできず、ビジュアライゼーション(視覚化)も困難な存在。それでもクリスは描くことをやめないだろう。彼は描かずにはいられない。この出来事は、ひとりでかかえるにはあまりにも大きな神秘だ。それを外に向かって解き放たなければ、自分はきっと気がふれてしまう。

 神秘がどこから来てどこへ行くのか───。その秘密は理解できなかったが、神秘の通過点にクリスはいた。路地を熱風が一瞬、通り過ぎるように、その通り道に彼は立っていたのだ。熱風に肌を焼かれ、その刻印は犯されるより深く身体に刻み込まれる。それを思うと再びクリスのペニスに血液が集まりはじめた。ストレッチャーに身体を横たえ、そのまま救急車に乗せられる。後部のドアがばたんと閉まった衝撃で、毛布から勃起したペニスが飛び出した。それを見た救急隊員は、嫌悪の表情をクリスに向けた。目をぎらつかせ勃起している男。化け物でも見るようなその目つきに、クリスはすでに自分が神秘の一部になったのだと理解した。もしかしたらもう筆をとる必要すらないのかもしれない。しかしそれでもクリスは描くだろう。それこそが神秘にとりこまれた者の役割。後なるものへの伝達が、芸術家の真の使命なのだから。


End.

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