白黒詩

@Lucy

螺旋ドランク

「上へは来るな!」

私にはそう聞こえた。そうしてふと我に帰った。実にとるに足らない矛盾と理不尽に対する憤りがあった。私は確かにこちらへ呼ばれたはずなのだが。

続いてこの建物の中央の大きな吹き抜け、それに正方形に巻き付いていくように上下に続くステンレス階段からでは時間帯も相まって底の見えない黒い大穴へ、何かが落ちていくのを視界の端で捉えた。

私は幽霊の類いははなから信じない主義者である。がしかし、今の怒声で若干酔いが醒めつつあった。幽霊が警告しているのならそれに従うべきである、というB級の教訓を活かすことにしよう。大人しく来た道を降りて戻ろうではないか。そしてさっさとこんな辛気臭い建物を出て店へ帰ろう。全く、忘年会とは恐ろしいものだ。


足を踏み外さないようその場でゆらっと振り返った私はそれにも関わらずバランスを崩した。足元の薄暗がり、くたびれた壁の穴から生理的嫌悪感の塊が飛び出したからである。甲殻を持ちつつも微妙なてかりがあるそれは、無駄に長く不快な触覚をてんてんと蠢かして駆け抜けた。あえてその名も言うまい。しかし振り返って背中側が登り階段で幸いした。多少の痛みはあったものの腰を打った程度で済んだようだ。

一つ深呼吸をして足元をもう一度よく確認してから、さささ、とそれこそ“奴ら”のように階段を駆け降りた。なんだってこんな寂れた建物に忍び込んでしまったのだ。今後はもっと控えるべきか。


私はそのまま階段を降り続けた。しばらく歩いても相も変わらぬ、「風景」とも言いがたい視界。そのうち閉塞的な空間に一定のリズムで響く金属を踏む音にも飽きてしまった。しかし一歩踏み外せば闇に飲まれてしまうという図々しい事実に緊張は保たれている。それがまた腹立たしい。千鳥足でよくもまあここまで来れたものだと自分自身に感心する。


光源は外界のみのようで、どこから漏れているのか、建物のなかをうっすらとした光が満たしていた。

ふと、仲間に連絡しなくてはと思った。一人で抜け出していつの間にかいないとなれば、いつも生意気なあいつらとはいえ、心配してくれるだろう。心配してもらいたいものだ。

そうぼやきながら腰のポケットをまさぐったが、私の携帯は無かった。どうしたことだ。これは困った。このパターンで携帯が見当たらないとなると再び見つける可能性は極めて低い。どこへやったのか皆目見当がつかない。

だが、今回ばかりはその限りでは無かった。何度同じところを探ってもあきらめたくなかった私はいつまでも身体中をぺたぺたしながら階段を降り続けていたのだが、その進行方向、あと10秒後には踏んでいようかという段の上に、それは転がっていた。なんともありがたいことか。

気が逸ると同時に慎重に、使い古した携帯に近づいた。


ひとつ、目についたものがあった。携帯の乗っている段の2つ3つ下。そこのくたびれた壁には穴があった。なんだ、忌々しい。あまり思い出したくはないな。既視感というよりも、またお前か、と言いたくなる。

見れば見るほどその穴の形も似ているように思えてきた。


嫌悪の募るだけである。頭を振り払う。恐らく私は上へ登ってくる途中、ここで落としてしまったのだろう。危ないところだった。


甚だ不気味なことに、ここは圏外だった。連絡の取りようがない。朧気な記憶によると、この建物は店のすぐ前だったはずなのだが。さらに困ったことに、時刻は既に12時半を回っていた。もう夜が怖いという年でもないが、段々と寒さが身に染みてきた。


特筆すべきことはまだある。入り口が現れないのである。先程からひたすら階段を降り続けている。視界には未だ一点の変化もない。ばかな。こんなに長かったはずはない。そうでなければ私はとうとう大いに狂っていたのだ。それも有り得ないではないが。記憶が欠けるということがどれほど恐ろしいかと想像した。つられて足も速まった。


現れない。現れない。まだ現れない。まだまだ暗闇が続いていく。ほんの一瞬足元の壁に穴が開いている気がした。知るものか。馬鹿げている。私は妙に背の高い建物の中でひたすら入り口を求めているというだけなのだ。ここに何も不思議なことはない。さぁ次の段に足を置いたときにでもその望まれた扉が現れるのではないか?


気持ち的には小一時間降り続けた気がする。息切れしていた。社会人になって体力不足になっていることを実感する。

どうなっているのか。

ひょっとすると。

まさかとは思うのだが、あまりに息せききって、降りてくる途中で見逃したのではなかろうか?恐ろしいことにこの建物の中はひたすら同じ光景が続いているだけで、それも大分暗い。

やはりそうであろう。存在の証明よりも不在の証明の方が難しいものだ。ここまで降りてまだたどり着かないというのは流石におかしい。私は降りて来た道をゆっくりと登り始めた。


一段一段確実に登りながらもだんだんと希望が薄れてきていた。現実主義的であったはずの私は次第に飛躍した考えを持つようになった。いや、正しくはかなり始めの頃からその考えはあったのだが、それがまさか事実であるはずはなく、ただの絵空事であると思ってきていたのだ。しかしこの数時間の中でそれがぬらっと水面から浮かび上がり形を帯びてしまった。携帯をつけると1時過ぎを回っていた。この携帯を拾ったときにも感じていた違和感。

実はこの建物に入り口などはなく、一番下は一番上に通じている、というような、永遠の迷路になっているのではないのか?

そんなばかな。自分で自分を笑っていなければやっていけない。きっとそのうち出口は見つかって、また仲間にこの話をして、こんな情けない考えにも至ったことを冗談にして笑いあえる時が来ると信じている。

どのみち私は登り続けることしかできない。


そんな私に誰かが情けをかけたのか、見上げた視界に一つ変化があった。窓だ。

出口ではないものの、そこからは大きな光が差し込んでいる。確実に外と通じている。興奮していることを自覚した。目を少しでも反らすと、消えてしまう気がした。少々危険な気もしたがもはやこの建物の構造は体が覚えてしまっていたので、私はひたすら窓を見つめながら登るのを急いだ。

こんなものを見逃していたとは奇妙なことだがそれはこの際隅へ追いやった。


四つある壁のうち一枚の真ん中に位置するその窓から外を見ると下にはお馴染みの居酒屋が見えた。黒い空に溶け込む送電線、閉店間近のアウトレット。若干鬱陶しかったイルミネーションも今では奇蹟の輝きかと思えた。控えめに積もった雪を見て漏れた白いため息がガラスを曇らせる。それすらありがたかった。外の風景。

店の前には会社の同僚たち――


目を疑った。彼らのなかには私がいたのだ。何か同僚たちと顔を真っ赤にしながら楽しそうにだべっている。

目眩がする。誰だお前は。そこは私の立ち位置だ。

「おーい!こっちだ!」と手を振ってみるが私以外には誰にも聞こえていない。勘弁してくれ、お前はなんの権利があってそこに立っているのだ。


そのうち向こうの私はその場で 屈み、足元の雪で球を作り出した。

同僚も含め、なにやらこの建物の隣あたりを指差して喚いている。

「畜生、餓鬼共が...、見せつけやがって...」

不思議と会話が聞こえてくるようだった。

諸々の都合上忘年会がこの時期に重なったこともあり、揃った面子は私を含めどれも冴えない者ばかりであった。


向こうの私が危なっかしい挙動で球を投げた。とんだ酔っぱらいである。余計に呆れることに、それは思い切り軌道を反れてこちらへ飛んできた。

目の前で窓におもいきりぶつかり弾けた。

私は性懲りもなくのけぞり、バランスを崩した。そんな阿呆な。


背中が私とは垂直方向に伸びた冷たく硬い棒に触れた。

ステンレスの柵。

許しがたいことに腰に力が入らない。

そのまま私の体は驚くほどふわりと軽く柵を超え、吹き抜けへと放り出された。

どうしてこんなことになってしまったのか。

もはや何も抵抗できず、私はなすがままに闇に飲まれた。


なんとなく思っていた通りやたらと長いこと落下していく中で、私は再び驚くことを強いられた。

また私である。

いくらでも続きそうな螺旋階段の隙間から、こちらへ登ってきている何人もの私を発見した。

彼らは各々の間に何周かの間隔を起き、ほぼ同時に右足を上げていた。ほぼ同時に転んでいた。その並行性が彼らを邂逅させまいとしていた。


私は落ちながらなんだか全てを理解した気がした。

彼らが私の過去の姿であるならば、警告しなくてはならない。

未来へ向けて。

「上へは来るな!」

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