9 奇跡の目覚め

 風花は、佐藤智子マネージャーに付き添われ横浜みなとみらい病院に救急搬送された。早急にCT検査が行われる。担当した救急救命女医の松嶋は、

「検査の結果を見なければ分かりませんが、一見したところでは軽傷でしょう」

と言って智子を慰めた。彼女の取り乱し方を慮っての慰めであろう。

 検査結果はすぐに出た。

「脳内に出血もなく、損傷もみられません。怪我はたんこぶ程度です。生命に別状はありませんよ」

 松嶋は言った。智子に生気が戻る。

 しかし、翌日になっても、風花は目覚めなかった。

「おかしいですね。でも大丈夫、必ず元気になります」

 回診に来た松嶋が智子に語りかける。しかし、智子は再び焦燥し始めた。なにもしてあげる事は出来ない。ただ、そばに居て祈るしかなかった。


 午前十一時ごろ、その病室のドアがノックされた。

「どうぞ」

 智子が返事をすると、入って来たのは、背広姿の大陸広志だった。

「あら、大陸さん……ああ、昨日の先発だったわね。結果はどうだったのかしら。こんな状況だからすっかり忘れていたわ」

 智子は潤んだ目をこすった。

「何とか、勝ちました。だからこれを……」

 朴訥な大陸の左手にはボールが握られている。

「これを……監督に」

「ウイニングボールね。最高のプレゼントだわ」

 智子は満面の笑みで応える。

「それを風花監督に握らせてあげて」

「はい」

 大陸は身動きせぬ風花の手にボールを握らせ、両手で包み込む。しかし、ボールは力なく床に落ちて転がった。

「監督……」

 大陸の目に涙が光る。

「……枕元に飾りましょう」

 慌てて、智子が取り繕う。

「監督は大丈夫なんですか」

「ええ、絶対に大丈夫。お医者さんだってそう言っているわ」

「そうですか……」

 大陸は不安そうな顔をする。

「では、試合がありますのでこれで失礼します」

 そうだ、今日から大陸はストッパーに戻るのだ。後ろ髪を引かれるように、彼は病室を去った。

「ああ、昨日の結果くらい知っておかなくちゃ」

 大陸を見送った智子は病室を出て、病院内の売店でスポーツ紙を買った。

 その一面には、

『大陸、開幕完全試合!』

 と大きく見出しがあった。

「大陸さん」

 智子は人目を憚らず号泣した。


 四月が過ぎ、五月になっても、風花の意識は戻らなかった。一体どういうことなんだろう。佐藤智子は苛立ち、医師や看護師達に食って掛かった。

「本当におかしいですねえ」

 誰もが皆、一様に首を傾げる。

「脳に損傷がないって真実なんですか? なにかあるんじゃないですか」

 智子は執拗に尋ねる。

「ええ、何度も検査をしていますから確かです。あとは心因性の何かとしか言いようにありません」

「心因性って、意識ないじゃありませんか」

 智子は医師を困らせた。

「監督……」

 ただ顔を見つめるしかない。


 季節は夏になった。

 風花の意識は戻らない。

 智子はもう、医師達を怒らなくなった。代わりに風花に向かって、マリンズの戦いぶりを話しかける。しかし、その戦績は芳しくなかった。四月、五月は「監督のために」と選手一同が奮起し、勝率五割をキープしていたマリンズだったが、梅雨の季節が訪れるころから歯車が狂いだした。それはコーチ陣の軋轢から始まった。監督代行の船木ヘッドは二軍の監督経験はあれど、一軍のそれはなかった。彼は元々打撃コーチだ。作戦面に深く関わるのは今回が初めてだった。当然、采配ミスを犯す。それを周りで見ている、老松、新田、氷川、浮島ら監督経験者が徐々に横から口出しをしてくる。もちろん彼らとしては勝利のためによかれと思っての行動である。しかし、それにより指揮系統はグチャグチャになった。次第にコーチ達の関係は険悪になる。一方、沖合と甘夏、河東らは我関せずと自分の仕事だけをこなす。その姿が幾人から「冷たい」「自己中だ」と見られる。このギクシャクした状態は選手達にも悪影響を及ぼした。チームの団結は崩壊。あまりの状態にノイローゼ気味になった船木は舵取球団社長に何度も辞任を申し入れたが慰留された。そして七月、マリンズは十七連敗というリーグ新記録を作ってしまう。

「でもね、横須賀さんはオールスター戦までに七勝もしたんですよ。それに元町さんなんか盗塁を三十四個もしちゃって、すごいんです。大陸さんや新外国人の三人も頑張っていますよ」

 智子は今のマリンズの良いところだけを語りかけた。

 そして、一年で最も暑い季節が来る。

 この日も、智子は風花のそばに居た。窓越しに蝉時雨が鳴る。

「枕カバーを替えましょうね」

 智子が風花の顔に近づく。その瞬間、

「……おでん……おでん……」

 風花の唇がかすかに動く。

「おでんって……風花さん」

 慌てて智子はナースコールを押した。

 暫く後。

「ようやく、光が見えましたね」

 駆けつけた医師がそう言う。

「はい」

 久々に満面の笑顔を浮かべた智子は、

「わたし、おでんを買って来ます」

 と張り切って病室を出て行った。しかし、真夏のこの時期にスーパーにもコンビニにも、おでんなど売ってはいない。

「どうしよう。わたし、料理出来ない」

 智子は途方に暮れた。

「仕方ない。料理本を買って作るか」

 悲壮な決意のの元、本屋に向かう。

「どうせなら、《友人堂・北新横浜店》へ行ってみよう。セレーヌさんにも逢いたいし」

 智子は横浜市営地下鉄に乗った。

 今出川・セレーヌは幸い在店していた。

「久しぶりー。激務でお見舞いに行けないけれど、風花生きてる?」

 セレーヌは暢気な調子で話しかけた。

「ええ、今日口を開いたんです」

「なら平気だ。そのうち『腹減った』って言うよ。あいつ大喰らいだから」

「ええ、そうなんです。一言めが『おでん』だったんです。だからわたし、おでんの本を買いに来たんです」

 それを聞いたセレーヌは、

「わはは、今の時期おでんの本なんか置いてる本屋ないわよ」

 と大笑いした。

「ええー」

 自分の無知にショックを受ける智子。

「いいわ。妹のエレーヌに作らせて、差し入れに行くよ。妹は料理上手だから。明日、ちょうど二ヶ月ぶりの休みなんだ」

 セレーヌがおでん作りを引き受ける。(他人任せだけど)

「ありがとうございます」

「でも、あんた」

 セレーヌが難しい顔をして尋ねる。

「恋人でもないのに、献身的だねえ。惚れたのか? あのバカに」

 智子は顔を真っ赤にして、

「ぎょ、業務の一環です」

 と言った。

「まあ、憎めない奴ではあるのよね」

 セレーヌはうんうんと物知り顔に頷く。


 翌日。セレーヌは妹のエレーヌを連れて病院に見舞いへ来た。

「おい、風花。お前の大好きなエレーヌを連れて来たぞ。しかも、おでんの差し入れ付きだ。目を覚まして食いな」

 セレーヌが風花を叱咤激励する。

「風花さん。熱々のおでんをジャーに入れて持って来ましたよ」

 風花あこがれのエレーヌ・結衣がジャーから、ちくわを取り出し風花の口元に寄せる。その時、

「あっ」

 エレーヌが箸を滑らせ風花の顔にちくわを落とす。

(ぴくっ)

 一瞬、風花の頬が歪んだが目を覚ますことはなかった。

「リアクション小さっ」

 セレーヌは風花を病人なのに芸人扱いした。

「それはそうとさ、風花は『おでん』って言ったんだよね」

「はい」

「うーん。ちょっとその事について考えてみるね」

 セレーヌは思案顔をした。

「なんですか? おでんに深い意味でもあるんですか」

 智子が聞くと、

「なんか引っかかるものがあるんだよね。食べ物以外にさ。でも、よく思い出せないんだ」

 セレーヌが答えた。

「よろしくお願いします」

 智子は頭をさげる。

「じゃあ、また来るね。早く目覚めると良いね」

 セレーヌ姉妹は病室から去って言った。


 その夜。

 クルリントの社長室で、上島竜一は沈鬱な表情を浮かべていた。

「事業各部門は好調。なのにマリンズだけが駄目だ」

 煙草に火を付ける。それを咎める者は病院に居る。

「マリンズの状態がいずれは本業に影響をあたえるのは確実だ。グループのイメージが損なわれるからな。船木は人格者だが、それだけでは老獪なコーチ陣を纏め上げられないか。人選ミスだったな」

 上島は窓の方を見つめる。ベイサイドスタジアムでは今夜も試合が行われている。たぶん負けるだろう。

「かといって他のコーチに采配を任せても結果は変わらないだろう。それに他から人材を充てがっても今更風花以上の新鮮味がないし、よくわからん。集客も減少している。コーチ陣は選手より高年俸。舵取がいくら頑張っても限界がある」

 煙草の灰が伸びて落ちかける。

「もし、風花が監督だったら結果はどうだっただろう。話題作りだけで採用した奴だったが……」

 椅子に深くもたれる。

「無用の用。あるいは将に将たる器。漢の劉邦も始めはどうしようも無い輩だった」

 ぐいっと、両手を握り絞める。

「風花はん、はよう目覚めろ!」

 上島は叫んだ。


 そして秋がきた。

 マリンズはまたも最下位に沈んだ。それも九十九敗を喫し、両リーグ史上最多敗戦の屈辱を嘗める悲惨さだった。

 風花の状態も変わらなかった。ただただ「……おでん……」

と呟くのみである。

 佐藤智子はもう、諦めかけていた。この状態で穏やかに生き、そして消える。自身はそれを見守り続ける。会社も辞めよう。これ以上は業務として認められないだろう。貯金はある。彼を支え、彼を見送ろう。それが生き甲斐。独りよがりでもいい。

 気付かぬうち、彼女は目覚めぬ風花を、

『愛していた』

のである。

 そんなある日。

 一人の女性がケージを持って病室に現れた。

「どなたですか」

 智子は尋ねる。

「綾瀬・カトリーヌ・明菜。そこで寝くたばっているダメ男の元妻よ」

 そう、風花を塵芥のように放り捨てた、恐妻、いや強妻だった、あのカトリーヌである。

「なんで、いまさら」

 見舞いに来るのだと智子は動揺し軽く憤慨した。来るならもっと早く来るべきだ。目で抗議するとカトリーヌは、

「仕事で一年コスタリカに行ってて、奴がこんな事になってるんなんて昨日、セレーヌから聞くまで知らなかった。あんた、ケツアールって鳥知ってる? 『鳥の宝石』と呼ばれる奇麗な鳥よ。それを大量に買い付けに行ってたのよ。それでやっと来たわけ。愛はなくとも情はあるからね」

「そうですか」

「それでね、セレーヌから風花が『……おでん……』って呟いてるってきいたから連れて来てやったの」

(連れて来た?)

 ハーフだから日本語を間違えている。それを言うなら『持って来る』だろうと、智子は思った。

 そんなことにはお構いなく、カトリーヌは持って来たケージを開けだした。なんで、おでんをケージで持って来るのだろう。変わった人だ。

「さあ、出ておいで」

 カトリーヌはケージの中に手をいれ何かを取り出す。すると中から、

『にゃーあ』

 ねこが現れた。

「さあ、《おでん》、バカ父ちゃんのこと引っ掻いてやんな」

 カトリーヌはねこを風花のベットに放つ。

「こ、ここは病院ですよ。動物なんかつれてきちゃダメ」

「ちゃんと院長の許可は取ったわよ。あたしを誰だと思ってんの。最強のネゴシエーターよ」

 平然と言うカトリーヌ。ねこはクンクンと匂いをかぐ。そして何かに気付いたかのように風花の顔の方へと歩き出した。

『にゃあーん、ぺろぺろ』

 風花の顔を嘗める、ねこ。その瞬間!

「ヘ、ヘ、ヘクショーン!!!!!!!!」

 火山が噴火したような音と共に、風花が巨大なくしゃみをした。風花は極度のねこアレルギーであった。そして、

「うーん。えっ? ここ何処だ? 早くグランドにいかなくちゃ……あれ? おおでんじゃないか! ああ、《おでん》逢いたかったよ。逢いたくて逢えなくて、お父さん寂しくて寂しくてしょうがなかったんだよ」

風花が無意識に呟いていたのは食べ物のおでんではなくて、ねこの《おでん》のことだったのだ。

 思いは強く願えば必ず叶う。智子の思いと風花の思いはこの瞬間、同時に叶ったのであった。


 十月十日。今年も元体育の日。

 ベイサイドスタジアムにおいて緊急の記者会見が行われた。

「えー、本日はお忙しい中、多数……でもないか。ぼちぼちお集まりいただきましてありがとう存じますう」

 相変わらず、上島竜一オーナーが惚けた声で挨拶する。

「ああ、ほいでは始めますわ。昨日の昼に、かねてから病気療養中のウチの風花はんが回復して退院しました。これも皆様のご厚情の賜物ですわ。感謝感激だわな」

 報道陣から「ほー」という声が上がる。一時は再起不能といわれていただけに彼らの心にも温かい物が流れたのだろう。

「さようなわけで、風花はんに来期の指揮を執ってもらうことにしました。皆はんも引き続き風花はんとマリンズをよろしゅう頼みます」

 そう言う上島の目から涙がこぼれた。仕掛けの目薬ではなく本当の涙だった。

「ああ、あと風花はん、再婚しますわ。お相手は一般女性なんで氏名の公表は控えさせていただきます」

 こうして会見は終わった。


 のちに『マリンズの奇跡』と呼ばれるシーズンが始まるのは、この翌年のことである。


                                        (了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

軌跡 素人プロ野球監督、風花涼 よろしくま・ぺこり @ak1969

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ