エピローグ


 その後の話を、少しだけ。

 午後六時以降に軌道エレベーターをさせたことについては、各方面からさまざまなお咎めがあったという。

 曰く、軌道エレベーターは公共の用に供さなければならない。人類の地球脱出まで残された時間は短く、たとえ一回の運行ミスであったとしても、それは宇宙開発に著しい遅延を与えかねないため、運行スケジュールには厳密性を求める……うんぬんかんぬん。

 という意見書が、セフィロト本部のお偉さんからランディ所長へ送られてきたのだそうだ。

 ランディはいつもの調子でわははと笑い、そして「今後は注意します」という回答書を返送した。それだけで、騒動はあっという間に終焉を迎えてしまったようだった。

 この程度の処分で済んだのは、実は宮國先生の影響が大きい。

 あのとき僕と妙ねえが乗った軌道エレベーターのシャトルには、実は誰も乗っていなかったことになっているのだ。

 シャトルの運航はすべて管制室の制御下にて行われているのだが、今回は、貨物ユニットの換装を待たずに誤ってシャトルを発射させてしまったことが、空運行の主な原因とした。

 したがって、シャトルには誰も乗っておらず、ましてやその目的が月下美人に逢いに行くためだなんて事実はどこにもない。……そう証言した宮國柊蔵監督官の意向を、セフィロト側が全面的に認めた形での公式見解となったそうだ。

 もちろん、宮國先生だけの功績というわけではない。

 口裏を合わせたランディ所長をはじめ、妙ねえやイリマを含めたノア研究員に、GSSにいたNASAD職員。もちろん僕のクラスメイト達を含め、この事実を知っているヒロヒロ市の全員が共犯者だ。いや、ひょっとしたら、公式見解を世界に発表せざるを得ない立場にあるセフィロトでさえ、この事実に気付きつつ黙認しているのかもしれない。

 何十人、何百人という人々が、僕一人のために尽力してくれた。

 それだけの人々に支えられて、今日の僕は存在しているのだ。

 セレスが――月下美人が、地球の記憶を残したいと思った理由……今なら少しだけ分かる気がする。

 ひとりひとり考えかたの違う人間たちが、手を取り合って生きようとしている世界。そんな奇跡的な状況を醸成した場所が、あと数年で消えてしまうかもしれないという事実。それらを何らかの形で覚えておきたい、記憶しておきたいという思考は、月下美人でなくても、誰しもが覚える欲求であり価値観だろう。

 もちろん、人とこの星の歴史が、すべて幸福に包まれていたものではないことは知っている。

 今までに多くの戦争で命は奪われたし、母なる大地を自らの手で汚したこともあっただろう。

 そのような過ちを何千何万と繰り返し、最終的に人がこの星から離れるという選択をした時点で、もしかしたらその価値の尊さも陰りを帯びているのかもしれない。

 だが、それらの歴史的事実もすべてひっくるめた上で、今の僕がここにいるのだ。

 そして、それらすべてをひっくるめて記憶したいと考えたのが、月下美人なのだろう。

 まるで、何億年も前から地球を見守り続けたお月様みたいに。

 または、その月から見下ろされて、美しくあろうとした一輪の花のように。

 セレスは、その風景を記憶することを「是」とした。

 もしかしたら、もう人類とは二度と逢えないかもしれない。

 地球に戻ってくることは二度とないかもしれない。

 それでも、セレスは自らのファインダーにその風景を収めた。

 遠い場所へ行っても、こんな世界があったんだってことを決して忘れないように。

 だから、僕も忘れないんだ。

 星が巡り、季節が移り変わっても、その記憶を忘れないように。

 僕たちは、記憶を共有していく。

 たとえ数万光年離れた距離にいても、僕たちは互いの存在を決して忘れないだろう。

 短くともかけがえのない時間を共有した事実は、決して変わらないのだから。


 ◇ ◇ 



  ――ピッ、ザ――


 ヘルメットの中の通信機が、ノイズと共に記憶を甦らせてくる。

 僕はゆっくりと瞼を開き、記憶の残滓に郷愁を馳せた。

『どうした、タマ? ぼーっとして、この程度でへばったんじゃないだろうな?』

 レシーバーの奥からジムの声が聞こえてきて、僕は東の方角へ身体を反転させた。

 氷に近い色をした地球を下にして、宇宙服を着こんだジムの身体が浮遊している。僕の乗る屋根なしの軽作業用リフトからの距離は、およそ百メートル。紺色をした真空を背景に、命綱一本でモジュールのコントロール作業をしているジムに向かって、僕は手を振って見せた。

「なんでもないよ。……ちょっとだけ、昔を思い出していたんだ」

『昔だと?』

「僕が、改めて宇宙飛行士を目指したときの、記憶を」

 ジムが軽く息を吐いて、黙り込む。僕があまりにもしんみりと語ってしまったからだろうか。僕は自嘲を含めた照れ笑いをヘルメット内臓のマイクに発して、再びリフトの操縦桿に向き直った。

「さあ、作業に戻ろう。僕たちは、前を向いて進まなきゃいけない」

 操縦桿をそろそろと倒して、目の前に広がる光景へと近づいていく。

 そこに浮かんでいるのは、建造途中の一隻の船だ。

 地球脱出艇・イヴ。

 セフィロト・プロジェクトの到達点。

 人類の最後の可能性を体現した、全長十数キロの巨大なゆりかごだった。

『ポールシフト変動による加速偏圧まで、あと一時間だよ。このまま作業を続けたら、タイムオーバーで磁気嵐に巻き込まれる可能性もある。……タマ、どうする?』

 レシーバーに水蓮の声が響いてくる。僕はリフトの進む方向、イヴの甲板で僕を待っているであろう水蓮に向かって、不可視なのを承知で小さく頷いた。

「大丈夫、間に合うよ。あと三十分で全工程を終わらせる」

『へえ、すごい自信だね。さすがはモビリティで月下美人に逢いに行った宇宙飛行士さん』

「何年も前のことを茶化すなよ。……まあ、だけど」

 それが事実なのは違いない。

 あのとき、宇宙恐怖症を克服して、月下美人に逢いに行けたからこそ、宇宙技能者試験の結果が覆って、僕は宇宙飛行士への門戸を叩けたのだ。

 あのとき、僕を支えてくれた皆には感謝しても足りないくらいだ。

 そして、そのきっかけを作ってくれたセレスのことは。

 今でも、決して忘れてなんかいない。

「あのとき、月下美人に約束したんだ。僕は立派な宇宙飛行士になるんだって。だから、こんなところでぐずぐずしてられない。僕はみんなや、生きようとするすべての人類のために、できる限りの力を尽くすよ」

『……何人か、入っていない人がいるんじゃないか、タマ?』

 ヘルメットの中に、妙ねえの声。ここからは遠くて見えないけれど、GSSの窓際から僕を見上げている妙ねえの姿を想像する。僕はその方向を見て、首を傾げた。

「入っていない人って?」

『まずは、死んでしまったすべての人々も、だよ。……私たちの礎になってくれた人たちがいるんだ。その人たちの想いも宇宙に届けてあげなきゃ、寂しいだろう』

「……うん、そうだね」

 いろいろな感情が僕の中に満ちる。妙ねえは頷いて、言葉を続けた。

『そして二つ目は、あんた自身だよ、タマ。あんたが築こうとしている未来なんだ。あんた自身が志半ばになってしまっては元も子もない。……私のためにも、絶対に無事でなきゃ駄目だ』

「それは当然。言われるまでもないって」

 僕は笑う。そして妙ねえは、

『最後の三つ目は、あいつだよ。いつもおまえと共にいたあいつのこと、忘れるなよ』

 僕は振り返り、眼下に見える小型の宇宙艇を見る。

 あの日から僕が使い続けている、三人乗りのモビリティ・シャトル。

 その中には今も、物言わぬあいつが浮遊しているはずだ。

「ああ。……僕はきっと、これからも君に未来を見せるよ、セレス」



 記憶をたどる物語は終わらない。

 それはきっと、君が落ちてきたその日から。

 もしかしたら、もうその表面にノイズは映らないのかもしれないけれど。


 その球体スフィアの中には、いまだに蒼い宇宙ソラが浮かんでいた。



〈了〉

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球体(スフィア)の中に浮かぶ宇宙(ソラ)-The Imperfectly Satellite- 宮海 @MIYAMIX

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