第5話


 僕と妙ねえ、そして物言わぬセレスを乗せたヘリコプターは高く、速く。

 夜に染まったヒロヒロの街をサーチライトで切り裂きながら、一直線に東へ進んでいた。

 アレンはメテオライトの後処理のため現場に残ったが、僕はそこに留まっているわけにはいかない。事情を話した妙ねえを説得して、早々に旧ヒロ市街を飛び立ったのだった。

 ヘリの目的地は既に見えている。ばんやりと光を放つマルクトの根元……ノアの研究所から少し離れた、国連所属の国際飛行場、その一角にあるヘリポートだ。

 そこから降りたら、僕はノア研究所へ乗り込んで、軌道エレベーターのプラットホームから宇宙を目指す。

 あと三時間後には地球圏から飛び去ってしまう、月下美人と逢うために。

「本当に行くの、タマ?」

 いつまで経っても慣れないローター音の中、僕の背後から妙ねえが訊いてくる。僕は身を乗り出していた窓から振り返って、妙ねえに頷いて見せた。

「行くよ。僕はまだ、セレスにさよならを言っていないんだ」

「でも、行き先は宇宙よ? あんたは宇宙恐怖症だし、たとえ宇宙に行ったとしても、超高速で飛行する宇宙探査機と接触できるかも怪しいわ。それでも――」

「……行くよ」

 もう一度。僕は、しっかりと頷いた。

「もしかしたら逢えないかもしれない。無駄なあがきで終わるかもしれない。それでも、僕はセレスにもう一度逢いたい。これが最後の機会なら、逢っておかなきゃいけないんだ」

 ……思えば、僕からセレスに逢いに行くことなんて、今まで一度もなかった気がする。

 セレスは僕を選んで現れて、いつでも僕の後ろにひっついて、どんなときも僕と一緒にいてくれたんだ。

 その理由は、他人からしたら利己的に映るかもしれない。実際、僕だって最初は迷惑に思っていたくらいだ。

 だけど、常に一緒にいて、時に支えてくれて、最後は僕を守ってくれて。

 いつだって、僕のことを考えてくれていた。

 だったら、最後くらい、僕のほうから逢いに行かないと。

 今まで照れくさくて、邪険にして、ややもすれば迷惑がった態度を取っていた僕が、今の本当の気持ちを伝える機会は、これを逃せばおそらくもう無い。

 だから、僕は行かなくてはならない。

 宇宙恐怖症がどうとか、言っている場合じゃない。

「僕は、もう後悔したくない。これ以上、何かを妥協して生きるのは沢山だ。僕は、これからの僕のためにも……セレスに逢わなくちゃならないんだ」

 僕はまっすぐに妙ねえを見つめる。

 妙ねえは何か驚きを隠せないといった表情をしたあと、一つ溜め息をついて、次の瞬間には諦観を含んだいつもの勝気な顔に戻っていた。

「それなら……私も、覚悟を決めなきゃね」

「……覚悟?」

 妙ねえはポケットから携帯電話を取り出し、どこぞへ連絡。そのあと、ヘリコプターのパイロットへ顔を寄せて、思い切り肩を叩いた。

「飛行場へ降りるのは中止よ。ノアの敷地内へ直接向かって。本館の正面玄関、ロータリーのど真ん中に降りなさい」

「へっ? いや、何言ってるんですか!」

 突拍子もない命令に、思わず振り返るパイロット。しかし、妙ねえの眼は本気だった。

「ノアの警備室とは話を付けたわ。いきなり撃たれるようなことはないから安心して」

「む、無茶ですよ! ヘリポートでもないあんなところに……」

「飛行場なんかに降りて、ちまちま時間を消費している暇はないの! 私と弟は、最速で宇宙へ昇るシャトルに乗らなきゃならないんだから……あんたは命令に従ってろ!」

 妙ねえの怒号に、パイロットが慌ててこくこく頷く。妙ねえがこちらを振り返ってにやりと笑うので、僕は目を白黒させながら声を発した。

「私と弟は、って……妙ねえ?」

「あんた一人で全部できると思ったら大間違いよ。たまには姉を頼りなさい。あんたのためにすべてを投げ出す覚悟なら、半年前からとっくに出来ているんだから!」

 ヘリコプターがぐっと揺れて、わずかに進路が変更される。

 飛行場を向いていた舳先は、まっすぐに軌道エレベーターへ。

 残り三時間を賭けて、ヘリコプターは夜空を駆け抜けた。


 ◇ ◇ 


 車両用のロータリーへ無理やり着陸したヘリコプターから降りて、セレスを抱えた僕と妙ねえはノアの中へ。

 警備室から数人の警備員が飛んで来て妙ねえに詰め寄るが、脇目も振らずにロビーを進む。

 国際空港にあるものと同じ入管ゲートを妙ねえの職権カードでパスした僕たちは、そのままさらに奥の廊下へ。十数メートルの道のりを経て、一際広いドーム状の空間へとたどり着いた。

 ここが、軌道エレベーターの発着場プラットホームだ。

 シャトルの格納庫と兼用されているそこは、四階建てのビルがすっぽりと収まるほどの広大さ。しかし、スタンバイ中のシャトルはドーム中央で真上を向いている一機だけだったので、僕と妙ねえは迷うことなくシャトルの搭乗口へと歩いて行った。

 しかし、搭乗口の目前で、ノアの研究員や整備員たちに行く手を阻まれる。

「葛見主任、どちらへ行かれるつもりですか? まさか、こいつで上がるおつもりで?」

 そう言った白衣の研究員に、妙ねえは冷徹な声で返答した。

「その通りだ。時間がない、すぐに発射シークエンスを実行してくれ」

「ちょっと待ってください! 見てわかるでしょう? こいつは今、乗員用のユニットを取り外したところで、貨物用ユニットに換装している最中なんです。午後六時以降は貨物専用シャトルとして宇宙開発に貢献させるっていうセフィロトの規定、忘れたわけじゃないですよね?」

「二両目以降を貨物用ユニットに換装したとしても、一両目には乗員が数名乗れるスペースがあるはずだ。……いや、そもそも貨物用ユニットに換装している時間自体が惜しい。この一両目のユニットだけで私たちは行くよ。悪いが、そこをどいてくれ」

「ええっ? いや、ちょっと主任ッ?」

 研究員の肩を押して、妙ねえが強引に人ごみの中を突っ切ろうとする。

「待て、葛見っ!」

 そのとき、背後から聞こえた鋭い声。

 思わず萎縮してしまうほどの強い口調に振り返った妙ねえは、ゆっくりと人垣をかき分けてくる禿頭の髭面に、思わず身を強張らせた。

「……宮國先生」

 妙ねえの唯一にして絶対の上司、宮國柊蔵。

 メトシェラ訓練学校ではジジイなどと呼ばれてはいるが、その実はノアの航空物理学研究主任であり、同時に軌道エレベーターの発着を管轄するセフィロトの監督官だ。

 このジジイがゴーサインを出さないことには、例えノア研究所長であるランディの命令であってもシャトルは発射できない。それくらい、この宮國柊蔵には強い権利がある。

 妙ねえは宮國先生に向き直り、身体が折れ曲がるくらいの勢いで頭を下げた。

「お願いします、宮國先生。シャトルを出させてください」

「……事情はあらかた察しておる。セレスの本体……月下美人に逢いに行くのじゃな」

 宮國先生は自分の灰色の顎鬚を撫でおろしながら、小さな目を僕らに向ける。しかし、すぐにその眼鏡の奥の眼光は、厳しいものへと昇華した。

「だが、月下美人と逢って、一体何の意味がある? スイングバイを経た月下美人の航行速度は秒速四十キロ。静止軌道上で肉眼確認できる時間は、およそ〇・五秒程度しかない。触れるどころか会話すら成り立たない、まさしく刹那の時間じゃ。その〇・五秒のためにセフィロトの規定を破り、強引にシャトルを発射させて、自らの立場を悪くするか? どうなんじゃ、葛見」

 妙ねえは答えられない。頭を下げたまま、唇を噛み締めている。

 メトシェラ出身である妙ねえもまた、このジジイの元教え子だ。ただでさえ頭が上がらないというのに、それだけでなく、今はセフィロト・プロジェクトの一員として、さまざまな制約に縛られているのも事実だった。

 軌道エレベーターは人類救済の希望だ。それ故に、個人の我が儘でおいそれと使って良いものでない。それくらい、妙ねえでなくても痛いくらいに分かっている。

 ……妙ねえは、僕の我が儘に付き合おうとしているだけなんだ。

 そのせいで妙ねえの立場が危うくなるとするならば、もしかしたら、僕はここで諦めた方が良いんじゃないか――。

 僕がそう考えた矢先、妙ねえは下げていた頭をぱっと上げて、開き直ったように言った。

「構いません。弟のためならすべてを投げ出せると、そう決めていたんです」

 決意の籠った眼差しで宮國を見る。宮國は低い声で唸ると、

「しかし、おまえの目標は父や母と同じ宇宙開発者となって人類を救うことじゃろう? このことがセフィロトに知れたら、おまえの研究員としてのキャリアは……」

「そんなん知るかジジイ!」

 妙ねえが、激昂して吼えた。

「私は環を宇宙で一番愛しているのよ! 環が自らの脚で大きな一歩を踏み出そうとしているのに、それを阻む姉がいるか! 私の人生のすべては、環のためにあるんだ!」

 それは、飾らない妙ねえの本音だったのかもしれない。

 しんと静まり返った発着場の中、その咆哮にも眉一つ動かさなかった宮國は、いつもの調子で腕組みをすると、そうかと一度だけ頷いた。

「なるほど、分かった。んじゃあ気を付けて行って来い」

「……え?」

 その驚嘆を上げたのは、周辺の研究員だ。別の研究員が宮國に詰め寄って問い質す。

「行って来いって……宮國先生? 許すんですか?」

「そりゃあ許すじゃろ。元教え子にあんだけ啖呵切られて、許さない教師がおるか」

 あっけらかんとした宮國の言葉。しかし、と研究員は食い下がった。

「で、でも、たった〇・五秒で何ができるって自分で言ったくせに……」

「何を言っとる、それでもおヌシは研究員の端くれか。〇・五秒もあれば、素粒子加速実験も、核融合反応も、超電磁形成調査だって可能じゃろうが。〇・五秒でも得られる時間あるというのなら、それに賭けるのが真っ当な研究員と言うものじゃ」

 そこで宮國は、妙ねえと僕を交互に見て、

「そもそも、ワシは研究員である前に教師じゃ。教え子が大きな一歩を踏み出そうとしているのなら、それを見守るのがワシの役目じゃろうよ」

「……先生」

 僕は宮國先生に頭を下げる。先生はグッ、と親指を立て、老体に似つかわしくない無邪気な表情でニヤリと笑った。

「ほれ、とっとと行け! 時間は待ってくれんぞ!」

「はいっ!」

 僕と妙ねえは、再びプラットホームを走り出す。後ろで研究員が悲鳴に似た声を上げた。

「せ、先生、マズイですよ! セフィロトやNASADはシャトルの動向を監視しています。あの二人が勝手にシャトルを動かすことなんてすぐバレますよ! どうするんですか?」

「……テキトーに誤魔化す」

「はあ?」

「口実はあとで考える。今は、月下美人との接触プロジェクトを成功させる方が先じゃ!」

 相変わらず、とぼけたジイさんだよ……まったく。

 僕と妙ねえは目だけで頷き合って、シャトルの搭乗口へと急いだ。


 ◇ ◇ 


 人が乗るにしても、貨物が乗るにしても、通常は二両目以降の連結ユニットに搭乗するのが普通だが、今回ばかりは特別だ。一両目――シャトルの先端に位置する制御ユニットの内部は、簡素な操縦コンソールが並ぶだけの窮屈な小部屋だったが、乗務員用のシートは四つあった。僕と妙ねえは操縦コンソールの前にあるシートにそれぞれ座り、備え付けのシートベルトで身体をきつく固定した。

「いつも乗ってる乗員用ユニットと違って、一両目は重力制御があまり効かないからね。吐かないでよ、タマ」

 隣の席で、姉が怖いことをさらりと言ってくれる。

 しかし、これくらいでへこたれるワケにはいかない。僕はぎゅっと両手を握り、頭上の巨大スクリーンを睨み付けた。

 そこに映るのは、上を向いたシャトルの先端から見える景色。

 ドーム状の屋根がゆっくりと左右に開き、星の瞬きが次第に鮮明となっていく。大小十二本のケーブルが一直線に夜空へと伸びていくその光景を見ていると、まるで空に浮かぶ深海の中へ吸い込まれてしまうのではないかという幻想に襲われるほどだ。

 この先に、宇宙がある。

 そして、この先に、セレスがいる。

 無意識に震える脚が示した感情は、恐怖か、興奮か。

 このシャトルが動き出さなければ、その真意は僕にも分からないに違いなかった。

『あー、マルクト・シャトル制御ユニット。こちらの声、聞こえますか、どうぞ』

 突然、操縦コンソールの通信機が声を発する。妙ねえがスイッチを操作すると、前面のモニターにランドルフ所長の顔のバストアップが映し出された。

「所長? どこから通信してきているんです?」

『GSSのマルクト管制室だ。メテオライトのデータ収集のために昇ってきていたんだがね。……いやはや、今日は長い一日になりそうじゃないか』

「……申し訳ありません」

 妙ねえが恐縮して頭を下げる。ランディはいつものように豪快に笑い飛ばした後、

『さて、シャトル発射まで時間もないことだし、今回のミッションについて手短にミーティングするとしようじゃないか。久しぶりの超高難易度ミッションだ、腕が鳴るぞ!』

 などと、筋骨隆々な腕を突き出して気炎を上げた。

 ランディの予想外の気迫に動揺したのは、当の本人である僕たちのほうだ。妙ねえはモニターに縋るように取りつきながら、心配そうな声を上げた。

「所長、よろしいんですか? ここの管理者であるあなたが、積極的に私たちに関わってしまって……。下手をすれば、その責任を問われることになりますよ?」

『宮國のジイさんがいいって言ったんだ。今更後に引いてどうする? それに、私の親友だった葛見から君たちの後見人を任されている以上、最後まで責任を持つのが私の務めだ!』

 そして、ランディはさらにモニターへ顔を近づけて、

『セフィロトがどうとか、NASADがどうとかは関係ない。君たちがヒロヒロの代表として、宇宙へ旅立つ月下美人を見送ってこい。それが今回のミッションだぞ、分かったな!』

「り……了解です、所長」

 妙ねえが大きく頷いたのを見て、ランディは再び表情を破顔させた。

 そこで、馴染みのある声が割り込んでくる。

『――はいはい、精神論はあとにしてっと。ミッションな以上、精密なオペレーションとスケジューリングの方が大事だよ。二人とも、所長の話より私の話をよく聞きなさいな』

 ランディが横へ押しやられ、代わりにモニターに映ったのはイリマの顔だ。妙ねえが驚きの声を上げた。

「イリマ? あんたもそっちにいたの?」

『まあね。そんなことより、要点を二つ伝えるよ。まず一つ目……二人とも、成層圏を越えて宇宙に出たら、すぐに宇宙服に着替えなさい。その部屋のロッカーに何着かあるはずだから』

 僕は首を回して背後を見る。確かに、入口付近の壁際には例の六角形ロッカーが備え付けられており、傍らにはSAFERと思しきバックパックも準備済みのようだ。成層圏からGSSまでは所要一時間なので、その間に着替えるのは難しいことではなさそうだった。

『そして、二つ目。……そのシャトルの行き先を、GSSではなくオービタルリング制御ステーションまでの直行便に書き換えておいたわ。月下美人とはそっちで邂逅しなさい』

「オービタルリングで?」

 妙ねえが眉根を寄せ、僕のほうを振り返る。オービタルリングは、僕のトラウマを誘発する一番の場所だ。それを妙ねえは懸念したのだろうが、イリマは凛と澄ました表情を少しも変えることなく言葉を続けた。

『月下美人が地球に最接近するのは、インドの上空4300キロメートルの地点よ。そこからスイングバイで加速し、ハワイに最接近するのは地上4万4000キロの地点。つまり、オービタルリングのすぐそばじゃないと、肉眼で確認することはできないの。それともタマは、GSSから8000キロ離れた場所を飛ぶ月下美人を眺めるだけで満足できるの?』

「……できるはずがないだろ」

 8000キロなんて途方もない距離の向こう側を、望める人間なんているものか。

 僕が首を振ると、モニターの中のイリマは少しだけ笑った。

『だよね。だから、キミたちにはオービタルリング制御ステーションへ向かってもらい、そこからさらに月下美人と邂逅できるポイントまで移動してもらうわ。幸い、制御ステーションには昨日の宇宙技能者試験で使ったモビリティ・シャトルが、まだ接舷用モジュールに張り付いている。できる限り月下美人と接近したいのなら、それを使うのが最善策だと思うよ』

 僕は、密かに息を呑んだ。

 なんという皮肉だろうか。そのモビリティ・シャトルは、昨日僕が醜態を晒したときに使用した機体だ。それにもう一度乗れだなんて、悪い冗談以外の何物でもない。

 だが……それに乗らなければ、月下美人に近づけないのも事実らしくて。

 制御ステーションの安全な窓から遠くの月下美人を見送るのと、モビリティ・シャトルから月下美人に近づくのと、どちらが良いのかを天秤にかけようとして……すぐにやめた。

「……セレスは、最後まで、僕のことを信じていたんだ」

 僕が絶対に宇宙飛行士になれると、信じていた。

 宇宙恐怖症を乗り越えて、喜びを分かち合える日が来ると、信じていたんだ。

 だったら、選択の余地はない。

 これがセレスに逢える、最後の機会なのだから。

「……やるよ。僕は、そのために、そこまで行くんだから」

 ぐっ、ともう一度手を強く握り、部屋の隅に固定した青い球を見遣る。

 それは、すでに光を失った機械の球なのかもしれないけれど、それでも想いの残滓は僕の中に根付いているんだ。

 ……自信を持ってください、タマ。

 セレスにそう言われた気がして、僕はうん、と一度、大きく頷いた。

『私の弟クンを頼むよ、妙奈』

 イリマが茶化した口調で妙ねえに言う。しかし、その口調とは裏腹に、イリマの顔は心配と羨望が混じったような複雑な表情だった。

 妙ねえはシートに背中を預け、大きく息を吐き出す。

「ああ、任せろ。言われるまでもないさ」

『GSSの管制室にはセフィロトの職員も、NASADの職員も多い。みんながこのミッションに注目しているんだ。妙奈が思っている以上に影響のある仕事だからね、これ』

「分かっているよ。……だが、私にとっては贅沢な話だ」

『どういう意味?』

 イリマが首を傾げると、妙ねえは隣のシートから手を伸ばし、肘掛けの上に置かれた僕の手をそっと握りしめた。

「人を守り、家族を守る仕事をすることが、私の目標だったんだ。これで、少しは父さんと母さんに近づくことができる。……こんな機会を作ってくれたセレスには、やはり感謝の気持ちを届けなければ気が済まないよ」

 だから、行こう。宇宙へ。

 僕は頷いて、スクリーンの向こうの空を見上げる。

 藍色の真空の中には、満天の星々。

 その星の一つになる前に、僕は君に逢いに行く。

 軽い振動。

 シャトルがゆっくりと動き出し、リニアモーターが低い駆動音を響かせる。

 宇宙への旅が、始まった。


 ◇ ◇ 


 午後九時十九分。オービタルリング制御ステーション。

 いつかのエンタールームで互いの宇宙服姿をチェックしてから、僕と妙ねえは無人のエアロックへと足を踏み入れる。

 前後の二重ハッチが音を立てて閉まり、壁のモニターには減圧中を示すサイン。

 あと一枚。……この目前のハッチを開いたその瞬間、そこには宇宙が待っているはずだ。

 手が震える。

 昨日のようなことがまた起こらないとは言い切れない。

 それでも、僕は……。

『……行くんだろう、タマ』

 僕の手に触れる隣の人の手。横を向くと、ヘルメットの中で不敵に微笑む姉の顔があった。

『セレスに見せてやろう。おまえの本当の実力を』

 僕はもう片方の手で抱えたものを見遣る。

 そこには、光を失った青い球。

 僕の宇宙服姿を見てもらうために連れてきた、たった一か月間の相棒だった。

「……うん。行こう」

 屋外へと続くハッチが、音もなく開いていく。

 紺色の中に宝石をちりばめたような空が広がる。

 僕と妙ねえは床を蹴って、ハッチの外へと飛び出した。

 まず最初に見えたのは、接舷用モジュールの白い床。そして、その中央に四隅の吸盤で貼り付いている、モビリティ・シャトルだ。

『月下美人が航行するコースを、宇宙服のAR情報端末に送るね。モビリティのほうにも送っておくけど、EVAする可能性が高いからさ』

 ヘッドホンからイリマの声が響く。僕は左腕に取り付けられた宇宙服のコンソールを操作して、ヘルメットの内側に表示された情報を確認した。

『月下美人は西から飛翔してくる。地表面に対し約一・五の角度で突入してくるけれど、おジイちゃん先生が言ったとおり、航行速度は秒速四十キロを超えているからね。いくら剛性のあるモビリティ・シャトルでも、触れれば一巻の終わり。かすっただけで宇宙の果てへ飛ばされる可能性もある』

『……笑えない冗談だ』

 妙ねえが口端を歪めつつ、宇宙空間を浮遊する。僕と妙ねえは一度もモジュールの床に触れることなくモビリティの側面へ到達。船体の後部から伸びているはずの命綱テザーを確認して――、

「テザーが切れてる……」

 十メートルほど伸びた命綱のその先が、ぷっつりと途切れているのを目の当たりにした。

『昨日の試験で切ったんだよ。モビリティが回転して、テザーが船体に絡みついたから……』

 僕が心神喪失に陥った、あのときか。

 命綱が絡まっていては、確かに機体の姿勢制御など望むべくもない。

 自業自得が具体的な形を持って戻ってきたことに軽いショックを受ける僕だったが、隣に立った妙ねえが、ポンと僕の肩を軽く叩いてくれた。

『心配するな。いざとなったら管制室側から緊急誘導も可能だ。テザーの代わりとなる方法はいくらでもあるわ』

『でも、宇宙空間中での細かい挙動は不可能だからね』

 すかさず、イリマから気を引き締める声が入った。

『スイングバイの抵抗で、月下美人の軌道が予想コースとどれくらいズレるかは分からない。もちろん、月下美人も自前の演算装置でミリ単位まで調整は行うけど、百パーセント予定通りといかないのが宇宙だよ』

 ……そんなの分かっている。

 それを痛いくらいに認識しているのが、僕なんだ。

『イリマ、月下美人がスイングバイに入るまでは、あとどれくらいだ?』

 妙ねえがモビリティの搭乗口ハッチを開きながら、管制室に問いかける。少しの沈黙の後、イリマから反応が返ってきた。

『あと六分三十秒。……ギリギリだね。急いで目標地点まで移動して』

 僕と妙ねえは頷き合って、搭乗口へと滑り込んだ。

 一日ぶりの船内。モニターも操縦桿も、試験後のままだ。操縦席には妙ねえが座るかと思いきや、妙ねえは僕の手を引いて操縦席へと押しやった。

『運転するのはあんたよ、タマ』

 僕の手からセレスを奪い取りながら、座席のシートベルトを僕の身体に装着していく。僕は慌てて妙ねえに追いすがった。

「で、でも、もし失敗したら……」

『私の宇宙飛行士としての専門は技術士よ。母さんと同じね。あんたの専門は、父さんと同じ操縦士でしょう? だったら、最後まであんたが責任もって運転しなさい』

 どくん、と一際高鳴る鼓動。

 胸の奥で、小さな黒い染みが顔を覗かせる。

 ……でも。

 それでも、僕は。

「……管制。葛見環より、管制室」

 その黒い染みを握り潰すように、操縦桿を思い切り握りしめた。

「これよりモビリティ・シャトルの操縦を行います。目的は宇宙探査船・月下美人の近接観測」

『了解、管制室。葛見環の操縦を許可しよう。ユーハブ・コントロール』

 軽快なランディの応答。僕は操縦桿の横の電源に指をかけ、

「アイハブ・コントロール。電源起動まで三、二……一」

 こころの中のゼロと共に。

 モビリティ・シャトルの全身に、電力という名の血液が行き渡った。

『非常用バッテリーの動作を確認。イリマ、データセット頼む。周囲も警戒しておいてくれ』

『了解、まかせておいて。……タマ、AR情報に従って移動をお願い。目標は、オービタルリングの軌道よりもずっと高い位置だよ』

 モニターに表示された座標レーダーとマニューバ航路を確認する。今いる高度よりも、二千メートルも高い場所だ。試験時のおよそ四倍以上を進まなければならない。

 だが――セレスに逢うためならば、距離なんて関係ないはずだ。

「モビリティ・シャトル。目標地点まで移動します」

 操縦桿を倒す。

 モビリティが、まるで水の中を浮き上がるように航行を開始した。


 ◇ ◇ 


『オーケー。いいぞ、安定して移動してる』

 背後から妙ねえの声が聞こえる。僕は操縦桿の角度を維持したまま、ふと外部モニターに目を向けた。

 下方には、地球の地平線まで永遠と続くオービタルリングの輪。

 父さんと母さんの命を削り取ったそれが、今は夜の闇の中で、ところどころに設置した衝突防止灯を点滅させるに留まっている。

 まるで、運命に別れを告げるみたいに。

 僕たちは今、オービタルリングよりも高い場所を飛んでいた。

「目標地点まで残り三〇〇へ到達。誤差修正問題なし。制動スラスターを作動させる」

 僕がそう言うと、管制室側からほっとした空気が漏れ出たことが、ヘルメットの通信機を伝って感じられた。

『よし、ここまで来ればあと一息。気を抜かないでね、タマ』

 イリマの声。分かってる、と僕は頷いて、前方のスラスターを開放させる――


「――ッ?」

 がくん、と機体が大きく揺れた。


 赤い光を放つ異常ランプ。速度計がマイナスの数値を示して、船内の慣性力は大きく右へ。

 妙ねえが慌てて僕の座席にしがみ付き、いくつかのモニターを確認した。

『なんだ? 機体が左に回転している? タマ、右前方のスラスターで姿勢を制御しろ!』

「で……出ない? 右のスラスターが出ないよ! いくら引いても出ないんだ!」

『ちょっと、ウソでしょ……? 計器系に異常はないわ、予備のバルブに切り替えてみて!』

 イリマの声が険しい。僕は天井のスイッチを二つ切り、普段は使わない予備のスイッチを押し込んで、再びレーダー頼りに操縦桿を引っ張った。

 だが、やはり、モビリティ右前方のスラスターは動かない。

「くそッ、なんで……っ!」

 握り潰していたはずの黒い染みが、再び僕の中で熱を放ち始める。

 妙ねえが僕の肩を叩いて、声を張り上げた。

『落ち着けタマ! まだ大きく航路を外れたわけじゃない。使えるスラスターの確認を――』

『月下美人がスイングバイを開始したぞ。目標地点到達まで、およそ二分!』

 割って入ったランディの声が、僕の中に影を落とした。

 ……あと二分?

 たった、あと百二十秒しかないだって?

 姿勢を制御しなきゃならない。でないと、セレスに逢うなんて夢のまた夢だ。

 だけど、いくら操縦桿を引っ張ってみても、モビリティは僕の言うことを利いてくれない!

「どうしてっ? どうしてだ、どうしていつもこうなんだよッ!」

 僕は拳を操縦桿に叩きつけた。

『落ち着きなさい、タマ! 冷静になって!』

 妙ねえの声が聞こえる。でも、僕はその手を振り払ってしまう。

 冷静にならなきゃいけないのに、僕のこころは冷静になれない。

 だって、黒い染みがまた、広がってきているんだ。

 360度、どこを見回しても陸地すらない無重力の深海で。

 誰の手も届かない孤独の世界で。

 僕はまた、宇宙に命を削り取られなきゃいけないのか――!



『いいえ。タマは死にませんよ』


 声が、聞こえた――気がした。

 時間が止まる。

 僕の目の前に、青い球体が浮かんでいる。

 無重力の中をふわふわ浮かぶそれは、たった一か月の僕の相棒で。

 僕のこころを掬い上げてくれた親友で。

 僕が想いを届けるべき、目標だった。


『右下の青いスイッチだ! 押せっ!』

 突然の鋭い声に、僕は思わず反応した。

 操縦桿の右下の青いスイッチ。カバーを上げて、プッシュする。

 モニターに「オートコンディション」の表示。モビリティのコンピュータが自動で姿勢を判断し、死んだ右前の二か所を除いた全十二のスラスターが一斉に動作を開始した。

 スラスターから勢いよく宇宙へ噴き出した四酸化窒素の推進力は、はじめこそがくがくと視界を揺らしたものの、やがてモビリティの回転運動に少しずつ制動をかけていく。

 未だに揺れる視界の中、僕は今の声が聞こえたモニターの前へ。

 だが、その視界の前には漂う青い球体があって。

 その球体がふわりと横に逸れたとき、隠れていたひとつのモニターにある光景が映っていた。

『タマっ、まだ大丈夫だよ! 諦めちゃ駄目!』

 そこに映っていたのは、必死の形相で叫ぶ水蓮の顔と。

『モニターから目を離すな! 最終的な制動は操縦桿で取るしかないんだぞ!』

 僕に辛辣な言葉しか掛けないはずのジムの顔と。

『タマくん、しっかり!』

『落ち着け落ち着け、大丈夫だから!』

『焦る必要はないぞ、まずは操縦桿をしっかりと握るんじゃ!』

 エギルや、クラスメイトや、ノア研究所の皆や、宮國先生の顔が。

 僕の知る、たくさんの顔が集まっていた。

「みんな……どうして……?」

『地上の管制室に集まっているみたいね。キミのために駆け付けたんだよ、きっと』

 イリマの声が聞こえる。僕はモニターに縋りついて、そこに映った皆の顔を凝視した。

「嘘だ。だって、僕はここに来ることを誰にも伝えていない。誰も、僕を応援するはずがない」

『バカなこと言わないでよ、タマ!』

 モニターの中の水蓮が、悲しげに表情を歪めて叫んだ。

『私が今までどれだけタマのことを応援してきたと思っているのよ。……ううん、私だけじゃない。私たちをここに呼んでくれた宮國先生や、ジムや、エギルや、クラスのみんなだって……タマが成功することを、祈っているに決まっているじゃない!』

「だ、だって……ジムは、僕のことを嫌っていただろう?」

『ああ、嫌いさ。否定はしない。お前が誰かに支えられなきゃ生きていけない軟弱野郎だってことが、俺はずっと癇に触っていたんだ』

 ジムは苦々しく言葉を吐くが、次にこちらを睨み付けた眼光は、強い意志が宿っていた。

『だがな。お前は今、自分の意志でそこに立っているんだろう? その恐怖症に打ち勝とうとしているんだろう? だったら、お前を応援しない理由はない!』

「ジム……」

 僕は茫然とつぶやいてしまう。その間も、皆の声援はヘルメットの中に響いていた。

『……環。あんたは一人じゃない。孤独におびえる必要はないんだ』

 妙ねえが傍らに跪いて、僕の顔を覗きこんだ。

『父さんと母さんは、確かに宇宙で死んでしまったけれど、孤独の中で死んだわけじゃない。こうやって支えてくれる人々のために仕事をして、そして、その人々が宇宙を目指すための礎を築いたんだ。……たとえ死んでしまったとしても、私やタマがその遺志を継ぎ、そして、それが無限に続いていく。……父さんと母さんの死は、決して無駄じゃないんだ』

 そして、妙ねえは数々のモニターに映った風景のすべてに、目を向けた。

『……死が怖いことは誰も否定できない。だけど、誰かが一緒にいてくれれば乗り越えられる。みんながいれば乗り越えられる。たくさんの人々で繋いだ意志で、乗り越えられる』

 僕は、宙に浮かぶ青い球体を見る。

 それは、もう物言わぬカタチかもしれないけれど。

『それを気づかせてくれたセレスに、逢いに行くんだろう? ――タマ!』

 セレスがそこにいたことを示すには、十分過ぎる存在だった。

「モビリティ、軌道修正する! 絶対に……セレスに逢いに行くんだ!」

 僕は、操縦桿を強く握る。

 胸の奥に残る黒い染みを、眼前に映る光り輝く意志で塗りつぶすように。

 いつしか恐怖はもう、頭の中から消え去っていた。


 ◇ ◇ 


 ――ピッ、ザ――


 『――月下美人が到達するまで、およそ十五秒』


 そして、僕はたどり着く。

 モビリティ・シャトルのハッチを開けて、僕の身体は宇宙空間へ。

 命綱を頼りに、無重力に漂う。

 視線を向けるのは、西の空。

 見下ろせば、午後九時のため暗い地球。しかし水平線の向こう側は青い大気で輝いていて、まるで宇宙に浮かぶ蜃気楼のようだ。

 頭上には漆黒に散らばる無数の星々。

 空気もなく音もなく、人間には生きづらい地上4万4000キロメートルの世界に。

 刹那の、閃光が輝いた。

 僕は宇宙服の手を伸ばす。

 それが届かないことは分かっている。

 でも、一瞬。

 たった一瞬だけど。

 僕の目の前に、その人工衛星は姿を現してくれた。

「やあ、セレス」

 それは、写真で見たものとまったく同じ、純白の人工衛星。

 小さな躯体に、大きな太陽電池パドルの翼を背負ったその姿は、宇宙を舞う渡り鳥のようだった。

 もちろん、それは単なる幻視かもしれない。

 理論値にして〇・五秒。瞬くだけで過ぎ去ってしまうほどの途方もない速度だ。

 だけど僕は、声を枯らして叫んだ。

 空気がなく、声が届かないはずの宇宙で、強く、強く。

 セレスに、その想いが伝わるように。

 たくさん言いたいことがあった。

 たくさん伝えたい言葉があった。

 僕に勇気をくれた君に、返したい想いがあったんだ。

 だから、言う。

 数万光年の向こうへと旅立つ君に、最後のメッセージを。



 月下美人は、過ぎ去る。

 僕をここに残して、宇宙の彼方へ。

 瞬くよりも速い速度で過ぎ去った流星の姿は、振り返ってみても、今はどこにも捉えることはできなかった。

 それでも……それでもさ。

 僕には、確かに分かったんだ。

 セレスに、僕の声が届いたということを。

 想いは、伝わる。

 だから、僕は言う。

 宇宙を駆ける君の背中に向かって。

「ありがとう、セレス。それじゃあ……またね」

 ここは、地上4万4000キロメートルの無の世界。

 だけど、その音にならない声は、いつまでもその空間に拡散していった。

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