第4話


『続いてのニュースは、メテオライト情報です』

 二十六日、土曜日。天気は雨。

 窓の外には泥のような暗雲が朝から滞留しており、僕の部屋も薄暗い。

 テレビ画面の向こうでは、アメリカ本土の放送局が、今日の天気予報を報道していた。

航空宇宙防衛司令部NORADの発表によりますと、第二次素材紛争時に打ち上げられた大陸間弾道ミサイルや観測衛星の残骸約四千個、計八〇〇トンが、北緯22度22分、西経152度13分を中心とした半径五〇〇キロメートル以内に墜落するとのことです。落下物のおよそ九割は大気圏で消滅すると予想されていますが、当該周辺はポールシフトの影響でオゾン層が薄く、完全消滅は難しいと当局は見ています。ハワイ州にお住いの皆様は、できるだけ本日中の外出を控え、守護飛空艇の絶対防衛圏からくれぐれも出ないようお願いいたします――』

『今日は学校が休みでよかったですね、タマ』

 部屋の隅でニュースを観ていたセレスが、僕にそう話しかける。ベッドの上で頭まで毛布にくるまっていた僕は、何も答えずに再び毛布を引き寄せた。

 ……昨日の宇宙技能試験から一日が経った。

 試験後に地上に戻って以降、僕はずっと毛布の中に引きこもり続けている。

 食事のために妙ねえが何度か部屋の扉をノックしたが、僕は一度も応えなかった。そもそも何か食べたいなんて思わなかった。むしろ、何も食べずに餓死したって構わない。

 僕はもう、終わった人間なのだから――。

 宇宙技能者試験の結果はまだ発表されていない。確か、合否が分かるのは一週間ほど先という話だ。

 合否の判断は当日に受験した三項目の点数だけでなく、日頃の内申点や素行なども考慮される。試験ばかり良い点を取ったからと言って、人格破綻者を宇宙飛行士にできないということなのだろう。もっとも、よほどのことがない限りは、試験三項目の結果が優先されるが。

 葛見環という人間の合否を第三者視点で判断しようとするならば、内申点や素行は半年間の引きこもりで評定価値なし、残された宇宙技能者試験の結果もご覧の通りの有様だ。

 ゆえに、僕が合格する確率は一パーセントもありはしない。下手をすれば、試験のパートナーだった水蓮の評価すら落としてしまった可能性がある。

 駄目押しとなるのが、衆人環視の中で露見してしまった宇宙恐怖症の症状だ。

 宇宙で錯乱するような奴を、宇宙飛行士に選ぶような試験官がいるわけがない。

 結果、僕に残されたのは絶望だけ。

 あれほど無駄にしないと唱え続けたみんなの期待を、僕は自ら粉々に打ち砕いたのだった。

「やっぱり……僕は、駄目な奴だ……」

 口を突いて、本音が零れる。それにいち早く反応したセレスが、静かな声を上げた。

『タマは頑張りましたよ。結果はともかく、宇宙恐怖症をよく堪えながら頑張りました』

「頑張ったって……駄目なものは、駄目だ。結果がなければ、価値なんてついてこない」

 か細い声で囁くように言う。何かをセレスが反論したようだが、僕の耳にはその言葉は入ってこなかった。

 結局のところ、宇宙恐怖症は克服できなかったのだ。

 おそらく、もう一生、僕はそれを克服することはできないのだろう。

 つまり僕は、たとえ四年後に地球が崩壊の時を迎えたとしても、宇宙に昇ることは叶わない。

 この滅びゆく大地で、生きていく術を探すしかないんだ。

「……死にたくない」

 頭の中に最後に残った言葉が、飽和する。

 宇宙を避けることだけに特化した思考が、支離滅裂な想像となって、僕の中に広がっていく。

 僕は幽鬼のようにふらりとベッドから起き上がると、部屋の片隅に置きっぱなしになっていたバッグを引っ掴んで、その中に着替えや財布などの必要最低限なものを詰め込み始めた。

『タマ、何をしているのですか?』

 セレスが訊いてくる。暗い部屋の中、僕はすべてがどうでもよくなった想いをバッグの中にしまい込みながら、その問いに答えてやった。

「家を出る。家を出て……地球永住者になる」


 ◇ ◇ 


 今の地球上には、主に二種類の思想を持った人類がいる。

 ひとつは、宇宙開拓者スペーシーカー。四年後に死の星と化す地球から脱出し、無限に広がる宇宙で新たなる営みを続けようと考える者。

 もうひとつは、地球永住者アーステイカー。四年後に死の星と化す地球からは離れず、地下や海底に新たなる営みの場を求め、ポールシフト現象を治める方法を模索しようと考える者。

 その人口割合は九対一ほどの開きがあるが、この相反する二つの思想は決して交わることはなく、十年以上の長い論戦と紛争を経て、今では住む世界すら二分された。

 だからこそ、この地球永住者になる、という決意は重い。

 地球永住者になるということは、残らず地球脱出計画セフィロトプロジェクトの協力者である宇宙開拓者をやめるということなのだから――。

「だから、僕はこのヒロヒロを出るんだ」

 寒風吹きすさぶ中、レインコートに身を包んだ僕は、誰もいない大通りを歩いていた。

 ヒロヒロの中心である大通りには、クルマは一台も走っていない。軒先の店もシャッターが閉められ、まるでゴーストタウンにでも化したようだ。物悲しく揺れるのは店先に放置されたパラソルだけで、路面の水溜まりからはポツポツという雨の滴る音が続いている。

 ヒロヒロの街には戒厳令が敷かれていた。

 十年前の戦争時、宇宙に放置されたスペースデブリが、何百と雨あられのように降ってくるとテレビで発表されたためだ。

 ハワイ島の存亡がかかるような大事態と思われがちだが、実際にはそこまで酷くない。このような警報は、年に一度か二度は必ずあるものなのだ。

 ポールシフトによる地球規模の偏重力や電磁場の弱体化、大気層の減少などが主な要因で、ハワイをはじめとした旧赤道付近にはスペースデブリや隕石が落ちやすい傾向にあるらしい。

 もちろん政府やセフィロトが黙っているはずもなく、国によってさまざまな対策が取られている。街のシェルター化や対空砲火による要塞化、落下前のデブリを宇宙で回収してしまう方法や、極端な場所では「そこに住まない」なんて安易な考え方まで常識化しているほどだ。

 一方のヒロヒロでの対策と言えば、守護飛空艇「サンダルフォン」の存在が大きい。

 軌道エレベーターの半径四・三マイルに飛来した物体を、瞬時に一センチ以下の塵芥に変える絶対防衛圏を有している。スペースデブリや隕石程度の落下物であれば、たとえそれが数百という物量だったとしても、サンダルフォン一機で防衛することは造作もない。

 つまり、このヒロヒロ市は、それだけ安全に暮らせる平和な街だということだ。

 それを、僕は今日、出ていこうと考えている。

 一センチ以下の塵芥から身を守るため、軒先に雨戸を下ろしている平屋の駄菓子屋を横目に見ながら、僕は西へ至る道へと足を進めた。

 やはり、街には人っ子一人として出歩いている者はいない。よくある警報であっても、危険なことに変わりはないのだ。携帯電話は電源を切って家に置いてきたし、妙ねえはこの戒厳令でマルクトに召集されている。家出をするにはこれ以上ない条件が整った日だった。

『タマは、どこへ行くつもりなのですか』

 足元からいつもと変わらぬ少女の声。僕がちらりと視線を下ろすと、僕の歩く速度にぴったりと張り付きながら、セレスがアスファルトの上を転がっていた。

 僕はしばらく無言を貫いていたが、やがて少しだけ口寂しくなって、無意識に答えてしまう。

「……南極だ」

『なるほど、地球永住者の拠点ですか』

 セレスが落ち着いた声で言った。

 旧赤道付近――たとえばハワイが宇宙開拓者たちの温床だとしたら、地球永住者の根幹地は、ポールシフトの影響ができるだけ少ない場所でなければならない。

 一年通して気候の変化がゆるやかで、しかもポールシフトの研究にもっとも適する場所――。

「南極には地球永住者が集まっている。地球永住者になるなら、南極へ行くしかないんだ」

 今の地球には宇宙開拓者と地球永住者がいるとはいえ、その人口割合は九対一。過去に戦争を繰り返した経験から、あまり同じ街に住みたがらない人間はまだまだ多い。地球永住者になるのなら、その地へ行かなければコミュニティに入ることは叶わないのだ。

 もっとも、日本人はその当時の人口の半分が地球永住者を望んだということだから、旧宇宙開拓者である僕であっても、日本人という血を生かしてコミュニティに入ることは可能だと思う。そのためにも、なおさら地球永住者の拠点である南極へ行かなければならなかった。

『しかし、当たり前ですが、ここは太平洋の孤島・ハワイ島ですよ。どうやって南極まで行くつもりですか?』

 セレスが再び質問を重ねてくる。僕は口を尖らせながら、矢継ぎ早に答えた。

「旧ヒロ市街にアメリカ海軍の軍港があるだろ。そこから出てる本土への定期便に潜伏して、海を渡る。アメリカ大陸に到着できれば、あとはどうとでもなるはずだ。密航を繰り返してアルゼンチンまで行くか、地球永住者が多いカナダに向かってもいい」

『しかし、カナダの一部は無酸素地帯。南アメリカも大部分が立ち入り禁止区域になっているはずです。十五歳のあなたが勢いだけで南極に行くには、障害が多すぎると思います』

 あくまで冷静に答えてくれやがる。

 分かっている。分かっているんだ。

 これが無謀な挑戦だということくらい、誰にだって明らかだろうさ。

 それでも、僕には選択肢が残されていないんだ。

 宇宙を避けるためには、これは決して通れない道なのだ。

 もしも熟慮が足りないと言うのなら、だったら、いつになったらヒロヒロを去る? もう顔向けもできない妙ねえや水蓮の顔色を伺いながら、一体いつまでみんなに無駄な世話を強要しなくてはならないんだ。

 僕は、もう沢山なんだ。

 何もできない僕に期待されるのも。

 何かができると期待されて、みんなの大切な時間を奪うのも。

 僕の大切な人たちを、これ以上傷つけながら生き永らえなければならないなんて――。

「……おまえだって同じなんだぞ、セレス」

 僕は歩き続けながら言う。セレスは小さな波紋を表面に浮かべてこちらを見た。

「僕になんか構う必要はない。僕はもう価値のない人間なんだ。僕に付いてきたって……」

『セレスの行動は、セレスが決めます』

 ぴしゃりと、セレスは僕の言葉を遮って断言した。

『それに、あなたの価値は消えてはいません。今でもタマにはタマの素晴らしさがあります。わたしはそれを記憶する。そのために、どこまでもタマに付いていくだけです』

「……止めようとは思わないのか?」

 我ながら間抜けな台詞だと、言った後で後悔する。

 しかし、セレスは決して笑わずに、いつもと同じトーンで答えた。

『思いませんよ。タマの行動はタマが決めるべきですから』

「たとえ……この街から出ていくことになったとしても?」

『わたしはいつまでもタマと一緒にいます。そう約束しましたから』

 僕は、もう反論する言葉を持ち合わせてはいなかった。


 ◇ ◇ 


 二時間ほど歩き続けて、ヒロヒロ最後の街道へ。人の住んでいる民家はとうに過ぎ去り、辺りは大小の草木の間に痛んだアスファルトの道路が続くだけの平原となった。

 雨に霞む道の先には、蜃気楼の中にいくつかの傾いたビルが見えるが、その前に検問所がはっきりと見えてくる。僕はレインコートの裾を翻し、遠目にも目立ちそうなセレスを懐に引き寄せながら、近くの藪の中に身を隠した。その中から、そっと検問所の様子を伺う。

 検問所はコンクリート製の警備室と、道路の上に差し渡した電動式の開閉バーだけで構成された、簡素な作りの施設だった。開閉バーの前には自動小銃を抱えたアメリカ軍の兵士が一人、眠たそうな様子で突っ立っている。警備室の中にも何人かいるのかもしれない。

 検問所から視線を横に向けると、その裏手は有刺鉄線が巻かれた背の高いフェンスが水平線の向こうまで続いており、完全に平原を遮断しているようだった。

 なんとなく空気を察したのか、セレスが僕の胸元で囁くように訊いてくる。

『なぜこんなところに検問所があるのですか?』

「知らないのか? ここはマルクトから四・三マイル離れた場所で、ヒロヒロの街境だ。ヒロヒロの住民は、街から出るときは必ずここを通らなきゃならない」

『フェンスで街境を囲っている理由は?』

「簡単に言えば、僕らの安全のためだよ」

 僕は吐き捨てるように言った。

 正確に言うならば、このフェンスは街境に立てたのではない。マルクトの守護飛空艇であるサンダルフォンが完全に防衛できる範囲を明示するためにフェンスが立てられ、その中がヒロヒロの敷地として設定されているのだ。

 ヒロヒロ市は軌道エレベーターのためにある街だ。住民は一人残らず軌道エレベーターの関係者だし、守護飛空艇が守るべき大事な市民でもある。その市民を守れる範囲は軌道エレベーターの半径四・三マイル圏内に限られるため、フェンスを敷いて市民が自由に外へ出ることを制限しているのだった。

 だが、逆に言えば、そのフェンスから外は安全の担保されていない世界と言う意味で。

 平和であることが当たり前のように育ってきた僕の感覚からしたら、想像もできない未知の場所であるとも言える。

「……だけど、僕は行かなきゃならない」

 唇を噛んで、両腕に力を込める。抱いていたセレスがわずかな駆動音を奏でた。

『あの検問所を通るつもりですか』

「ああ、そうだ。……と言いたいところだけど、あいにく僕は許可書を持っていない」

 僕は空の手をひらひらと振って見せた。通常、街境の検問所を抜けるときは、ヒロヒロ市長かノア研究所長が発行する通行許可書が必要となるのだが、僕はどちらも持ってはいなかった。ランディに適当な嘘を吐いて許可書をせびることも可能だったが、これ以上迷惑をかけたくない一心が、その想いに歯止めをかけていた。

『では、どうするんですか?』

「まあ見てろ。伊達に半年間も引きこもってインターネットなんかしてないよ」

 僕はにやりと笑ってみせると、そのまま藪の中を歩き出す。背丈ほどもある雑木の林に身を隠しながらフェンス沿いをしばらく進むと、やがてフェンスの破れている場所にたどり着いた。

『これはまた……見事に開いていますね』

「僕が外に出ようとしているのと同じ理由で、先人たちが開けた穴らしい。宇宙開拓者と言えども一枚岩じゃないし、逆に地球永住者と言えども同様だ。誰だって、割り切れない想いを抱えているってことだよ」

 僕はそう言いながら、フェンスに空いた穴の向こうを慎重に確かめる。藪を区切るフェンスの向こうは、また鬱蒼とした藪の中だ。僕は監視カメラや赤外線の罠の類がないことを確認すると、できるだけ音を立てないようにフェンスの穴を潜り抜けた。

「……これでもう、何かがあってもサンダルフォンは守ってくれないな」

 なぜか、ひとりごちて笑ってしまう。これが望んで得た自由に対する達成感から出た言葉なのか、それとも自ら捨ててしまった平和への心残りから出た言葉なのかは区別がつかない。それでも前へ進まなければならないことを思い出して、僕の足は藪の中を再び進み始めた。

『ちなみに、この穴から出た先人の方は、そのあとはどうなったのでしょうか』

 藪の中を器用に転がるセレスが訊いてくる。僕は手で雑木の枝を押しのけながら、

「さあ……それ以上はネットには載っていなかったな。上手く船に乗って南極までたどり着いたのか、それとも米軍に捕まって連れ戻されたのか……それは誰にも分からない」

 そこまで口に出して、僕は自分の迂闊さに内心呆れていた。

 誰にも分からない、なんて、まるで僕の想いをそのまま代弁したみたいじゃないか。

 ああ、そうさ。

 きっと僕は、破滅的な思想に支配されている。

 この衝動的に始まった旅がどんなふうに終わるかなんて、まるで分かっちゃいなかったのだ。


 ◇ 


 藪の中を歩くこと一時間。

 急に足元から草木が消え、僕の身体はアスファルトの道路の上に放り出された。

 思わず転びそうになった脚を踏ん張って立ち止まり、僕は顔を上げる。ここから先は緩やかな下り坂になっているようだ。そのおかげで、僕は眼下に広がる眺望に目を奪われることになった。

「ここが……かつてのヒロ、なのか」

 茫然とつぶやいてしまう。目的地にたどり着いた喜びよりも、その風景を目の当たりにした衝撃の方が大きかった。

 ――旧ヒロ市街は、完全なる荒廃地と化していた。

 ひび割れた道路に、崩れた家屋。それらが延々と視界いっぱいに広がっている。アスファルトや建物の地割れから無秩序に生え出した雑草以外に植物の類はなく、人の生気というものがまるで感じられない。倒れた電信柱や打ち捨てられた家財道具の姿が物寂しかった。

 視線を少し上げると、五階建て程度の傾いたビル群が海辺に見えるが、その足元は海水に浸かっていた。海側へ傾いた道路は次第に水深が深くなり、やがてその先は海水の色に阻まれて見えなくなる。沖からの波間に見えるビルの中には、二階部分にまで浸水しているものもあるようだ。いずれにしても、永らく人が住んでいないことは明らかだろう。

 2134年のポールシフトに端を発する多重災害。

 その爪痕は、僕の想像を軽く飛び越えるほどに生々しかった。

「遠くで見たのとは、まるで違うんだな……」

 呆然とつぶやきながら、僕は坂道を下りていく。

 僕は物心ついたときからヒロヒロの住民だ。今まで街から出たことはなかったけれど、それなりに旧市街のことも知っているつもりでいたし、ジジイ先生の授業でもよく耳にしていた。もっと子どもの頃には、マウナケア山の遠足で旧市街を見下ろしたこともあったはずだ。

 なのに、実際にその場に立ってみると――まるで違う。

 今まで絵画か遠い異国の物語のように感じていた風景が、急激に本物の色に近づいていく。

 風化したような乾いた匂いと、白波の寄せては返す空虚な音が、まるで自分の認識のことごとくを塗り替えていくような、そんな幻想に囚われている感覚がした。

 そんな益体もない思考に支配されながら坂道を歩いていると、やがて平たい駐車場のような開けた場所に出たところで、

「おまえっ! そこで何をしている、手を上げろ!」

 背後から投げられた鋭い怒号に、僕は思わず竦み上がった。

 駐車場の死角にある下り階段から、その人物は登ってきたらしい。荒い息遣いと硬い靴の足音が次第に近づいてくるのを感じて、僕は恐怖から手を上げることができなくなる。

 どうすればいいんだ、と頭の中がぐるぐる回り始めたちょうどそのとき、背後の人物の足音が止まり、長く息を吐き出す声が聞こえた。

「その青い球……セレスか? じゃあ、ひょっとしておまえ、タマ?」

 僕は、おそるおそる振り返る。

 そこに立っていたのは、クリーム色の迷彩服に自動小銃を抱え、黒いヘルメットを頭にかぶったアレンの姿だった。僕は思わず脱力して、その場にへたり込む。

「お、おいおい、大丈夫か? なんだってこんなところにいるんだよ、おまえら?」

『アレンさんも人が悪いです。あんな声を上げて銃を突き付けてきたら、誰だってそうなりますよ』

 僕の気持ちをセレスが代弁する。アレンは慌てて銃を下げると、片膝をついて顔を寄せた。

「今は隊の任務で哨戒中なんだ。デブリが落ちてくるってニュース聴いたろ? あれに便乗してテロリストが乗り込んでこないとも限らないから、こうやって外回りしてるんだよ」

 そういえば、アレンはアメリカ海軍の軍人だったな。いつもの姿からは想像できないけれど。

「准尉ーっ、どうかされましたか? 何やら声が聞こえましたが――」

 遠くの方から声がする。アレンは舌打ちをして、素早く立ち上がった。

「まずい、同僚が来そうだ。タマがここにいることは……隠した方が、良いよな」

「……僕、検問の通行許可書を持っているかもしれないだろ?」

「嘘つけ。この非常時に許可書を出す奴がいるかよ。ランディさんなら、なおさらだ」

 的を射たアレンの返しにぐうの音も出せない。アレンは自動小銃を肩に担ぎ直すと、小走りに階段の方へと駆けていった。

「タマはしばらくここで待ってろ。適当に誤魔化したらまた戻ってくる。昨日の宇宙技能者試験の結果も聞きたいしな。この緊急事態で、昨日から街へは行けていないんだ」

「え、それって……」

 僕が言うよりも早く、アレンは階段を駆け下りて行ってしまった。

 伸ばしかけた僕の手が、当てなく宙をさまよって落ちる。

「そうか、アレンは……知らないのか」

 僕は、もう一度、あの試験の顛末を思い出さなければいけないらしい。

 逃走劇の最中に知人に見つかってしまったことよりも、そのことのほうがずっと嫌だった。


 ◇ ◇ 


 二十分ほどで戻ってきたアレンと共に駐車場の階段を下り、荒れ放題の道路を左折して岸壁の方向へ。右折した先の浜辺にはアメリカ軍の軍港があるので、そこを避けようとするアレンの配慮らしかった。

 湾岸沿いの道路に沿って北上すると、少しだけ海抜の高くなった短い橋梁に差しかかる。南の軍港と航空基地、そして傾いたビル群がよく見通せる開けた場所だ。欄干沿いの荒れ地にはつぼみの状態の草花が群生しており、甘く柔らかい香りが俄かに感じられる。

 その香りに吸い寄せられてか、ここまで歩きづめだったアレンがようやく足を止めたので、僕は息を吐いて変形したガードレールに座り込んだ。

 時刻は既に四時を回っている。空は相変わらずの曇天で、小雨も止む気配を見せようとしない。遠くに見えるマルクトが雲に覆われている様子は、なんだか見る者を不安にさせる魔力があった。

「……そうか、試験は駄目だったのか」

 僕の話を聞いたアレンが、ぽつりと一言だけそうつぶやく。しかし、試験についてはそれ以上追及せず、代わりに突いた質問は僕の一番痛いところだった。

「それで、どうしてこんなところにいるんだ? 緊急事態宣言の出されてる街を抜け出して、許可書もなしで来れるような場所じゃないぞ、ここは」

「それは……」

 僕は俯いて口を噤む。アレンは僕の隣に腰を下ろして、自動小銃を路上に置いた。

「大方、試験に失敗したから家に居づらくなって、飛び出してきたってところだろうな。街境のフェンスには穴が開けられた場所がいくつかあるから、そこを通ってきたんだろう」

「ど、どうしてそれを……」

 僕が驚いて見上げると、アレンは苦笑を顔に張り付けた。

「この島の周辺警護を任されている俺たちが、フェンスの抜けくらい知らないはず無いだろうが。現にお前は、俺に見つかっているんだぜ?」

 ……そういえば、そうか。アレンに見つかったのは偶然でも、アメリカ軍人に見つかったのは偶然じゃない。フェンスの穴の位置を知ったうえで、アレンたちは哨戒に来ていたのだ。

「知っていたのなら、なんで塞いでおかないんだよ……。分かる奴なら、ネットからでも調べられるぞ」

「塞いだら、また新しい穴を開けられちまうだろうが。ネズミ取りっていうのはな、ネズミの通り道に仕掛けておくモンなんだよ」

 つまり、僕は罠にかかったネズミということか。自分の浅慮がつくづく嫌になる。

「で、このことは、妙奈さんは知っているのか?」

 アレンが唐突に放った決定的な言葉に、僕は顔を蒼白にさせた。

 僕が何も答えないでいると、アレンはポケットから携帯電話を取り出して――、

「……やっぱやめた。告げ口は男のすることじゃない」

 そのまま、ポケットへとしまい込んだ。

「……この間はしたくせに」

「お前が宇宙飛行士にならないって言ったときか? そりゃそうだ。俺のすべては妙奈さんのためにある。あんな重要なことを姉弟間で話し合ってないなんて、それこそ大問題だ」

 アレンはそこで言葉を切り、でもな、と続いて、

「俺にとっては、おまえも俺の大事な弟なんだよ」

 その大きな手を、僕の肩に乗せた。

「それって、妙ねえと、その……って意味か?」

「ん? ああ、もちろんいずれは妙奈さんと結婚して、正式に弟にする予定だ。だが、それを抜きにしたって、お前は従妹の大事な幼馴染みで、俺の大事な弟だ。傷心してここまで逃げてきたってんなら、俺はお前を守る義務があるし、お前が嫌なら妙奈さんには引き渡さない」

 そう言った後、アレンは僕の方を向いて、真剣な表情で睨んだ。

「だが、いずれは向き合わなければいけない日が来る。逃げてばかりじゃ駄目な時が必ず来るんだ。それを忘れるな。大事なものは、何があっても自分の手で掴み取るんだ」

 その圧倒的な迫力に押し切られて、僕は思わず頷いていた。

 逃げてばかりじゃ駄目なとき……か。

 それじゃあ、今の僕はどうなんだろうか。

 宇宙技能者試験に落ちて、すべてから逃げ出そうとしている僕に、果たして向き合える日が来るんだろうか――

 そのときだ。

 しまったはずのアレンの携帯電話から、けたたましいサイレンが鳴り響いた。

「隊からの連絡だ。……しかも緊急かよ!」

 アレンは素早く携帯電話を取り出すと、ふだんは使わない緊急用のスイッチを押した。

「こちらグロリオーサ二等准尉、どうぞ!」

『こちらHQ、こちらHQ! この緊急通信はオープンチャンネルです。下士官以上の通信機に一斉送信していますので、個人の質問には一切答えられません。よろしいですか?』

 切羽詰まったような通信士の声。僕が携帯電話の音声に耳を澄ましていると、信じられないような台詞が聞こえてきた。

『緊急指令、緊急指令。各隊員は全員、航空基地内のシェルターか、または頑丈な屋内へ退避してください。繰り返します。各隊員は全員、航空基地内のシェルターか……』

「はあ? どういうことだ?」

 アレンが素っ頓狂な声を出す。その疑問に、通信士はまるで計ったかのように答えた。

『一八五〇に落下予定だったスペースデブリの一部が、廃棄されていた低軌道探査衛星と衝突、入射角を変えて落下を開始しました。落下予想地点は当初と同じですが、入射角の関係で大気圏損耗率は七割にまで低下。ハワイ島に巨大な破片群が墜落する可能性が大きいです』

「墜落する可能性が大きいって……予想落下時刻は?」

 ノイズの混じる通信は、やがてはっきりと一つの言葉を口にした。

『予想落下時刻は、一六二五。繰り返します。予想落下時刻は、一六二五。あと一分です!』

「……え?」

 さすがの僕も、言葉が凍った。

 スペースデブリが墜ちて来るまで、あと一分?

 その通信を確かめるように、何気なく、本当に何気なく空を見上げて。


 空に広がる西の曇天から、流星の雨が降り出しているところを目撃した。


「そんな、嘘だ――」

 ろ、と続けようとしたアレンの言葉は。

 近くの傾いたビルに直撃した、巨大な金属片デブリの衝突音でかき消された。

「うっ……ああッ?」

 たちまち襲い来る轟音と爆風。

 すさまじい衝撃が空間を伝って、僕たちの足元を容赦なく揺らしていく。

 激突したデブリはビルの四階部分を貫通して、そのまま海に落下。首を失った廃ビルは瓦礫と砂塵を嵐のように巻き上げ、デブリの後を追うように海へと埋没していく。巻き上げられた細かい瓦礫は空を飛んで、僕らの頭にさえ降り注いだ。

「だ……大丈夫か、タマっ!」

 そのあまりの衝撃に地面に突っ伏していた僕を、アレンが抱き起こそうとする。しかし、立て続けに丘陵に落下したデブリの振動で、僕たちは再び道路へと転がった。

 尻餅をついて、再び空を見上げた時に、気づく。

 これが、世界の終わりの光景なのだと。

 あれだけ重そうだった雨雲は、宇宙からの無数の流星を受けて千々に千切れ、巨大な火球を大地にまき散らし続けている。これで降り注ぐ総量の三割以下だというのだから驚きだ。

 あるものはビルを粉砕し、あるものは海を穿って、あるものは無人の民家を押し潰す。

 遠くのアメリカ軍の航空基地も高射砲で抵抗を続けているようだが、その銃声も無限の墜落音と共に聞こえなくなった。

 振動と騒音だけが支配するこの空に、誰が抵抗する術を持っていると言えるのだろうか。

 それだけ、人間というものは無力だ。

 宇宙がもたらす「死」という現象に、少しも抗うことができない。

 だから、僕は諦めた。

 だから、僕は「死」から遠ざかりたかった。

 だが、所詮地球も、宇宙に浮かぶ一つの天体に過ぎないのだ。

 空から流星が降り続く光景なんて、それこそ宇宙単位で見れば、何百万という星で実行されている。それを行っているのが神だとしても、やはりそれに逆らうことはできはしない。

 僕は宇宙の中の、銀河の中の、地球の中の、その更にちっぽけな存在に過ぎないのだから。

「だから――僕は死ぬんだ」

 そうつぶやいて、僕はゆっくりと目を閉じた。




『いいえ。タマは――死にませんよ』


 頭の中に響く声。

 それに導かれて、僕は思わず目を開く。

 絶望にしか彩られていないはずの空を見上げて、僕は――

「なんだ、これ……?」

 我が目を、疑った。

 東の空。まだ千切れていなかった暗雲を切り裂いて、八本の光の帯が空を踊る。

 それは、まるで無秩序に掛かる虹のようだ。

 肉眼で捉えきれないほどの速度で空を駆けた光の帯は、西の空から飛来するデブリに空中で次々と接触したかと思うと、そのデブリは一瞬で赤く融けて蒸発した。

 小さいデブリは光の帯に触れた瞬間に融け、大きいデブリは細切れに爆散した後に、再び照射された別の光の帯によって灰燼に帰す。それが空の彼方で何十、何百と瞬く間に繰り返され、十分も経った頃には、すっかりデブリの雨は止んでいた。

 暗雲は既に千切れて羊雲と化しており、夕方の黄金に染まった光が旧市街に差し込んでいる。

 それは、まるで天国のような光景だった。

「ここは死後の世界、ってわけじゃないよな……?」

 かたわらのアレンも、僕らの頭上に広がった光景に目を丸くしている。周囲はデブリが衝突してできた瓦礫と、無数のクレーターで溢れているため、まだここは旧市街のはずだ。

 しかし――そこに、巨大な影が現れる。

 現れたのは、東の空から。途方もない高々度から、ゆっくりとこちらを目指して降下してくる浮遊物は、……写真やビデオで見るよりも、よほど巨大な姿をしていた。

 それは、例えるならば空飛ぶクジラだ。

 でっぷりと太った船体に、飛行船の気球を思わせる楕円形の浮遊装置を背に乗せた躯体。全長はゆうに二十メートルを超えているだろうか。雄大な翼は左右に六枚広がり、そこかしこに無数の砲門とレーダードームが設置されている。

 船体の色は、マルクトと同じクリーム色。

 夕陽を受けて、全体が黄金に輝いて見える。

 それはさらにゆっくりと下降を続けると、やがて僕たちの頭上百メートルくらいの空で静止して、何を言うでもなく、ただひたすらその場に停滞した。

「お、おい、まさかこれ……いや、本物かよ……?」

 腰を抜かしたらしいアレンが、濡れたアスファルトから立とうともせずに指を差している。

 それはそうだろう。僕だって、未だに信じられない。

 ここはマルクトから半径四・三マイル以上離れた場所だ。必然として、これがこの場へ現れることは決してなく、しかも人類史上最高の兵器と呼ばれるDEWレーザーカノンを乱射して、落下中の数百というデブリを一瞬のうちに塵芥に変えることも決してない。

 決してないはず……なのに。

『マルクトの守護飛空艇、サンダルフォンです。わたしが呼び寄せました』

 巨大クジラの正体を言い当てた僕の相棒は、いつもの口調でそう言った。

 ……そう言ったセレスの姿に、僕は違和感を覚える。

 いつもの蒼穹色をした球体は、いつかのように淡い燐光に包まれている。光が立ち上るその様子は、まるで気化した粒子が空の彼方へと導かれているかのようだ。

 その異変にアレンも気づいている様子だったが、それよりも空に浮かぶあの異様のほうが先だ。アレンはセレスに、驚愕と疑惑のまぜこぜになった目を向けた。

「本当にサンダルフォンなのか? あれは確か、マルクトを守るだけの存在で――」

『そうなのかもしれませんが、今回は特別です。タマを失うことは、わたしの存在価値が消えることと同義です。ですから、サンダルフォンにはマルクトの半径四・三マイルという縛りを超えてもらうため、あえてこちらまで出向いてもらいました』

 セレスが球体の表面を波打たせると、サンダルフォンの六枚の翼が連動して光を帯びる。信じられないことだが、セレスとサンダルフォンは何らかの方法でリンクしているようだった。

「……守護飛空艇は、完全自律型の兵器だと聞いている。人からの干渉を受けず、軌道エレベーターの周囲を守護するだけの機能しか与えられていないのは、例えば悪意のある人間に乗っ取られる危険性をなくすためだ。それなのに……なんでお前はサンダルフォンを操れるんだ?」

『いいえ、アレンさん。わたしは操っているのではありませんよ。サンダルフォンにお願いして、こちらまで来ていただいたに過ぎないのです』

「お願い……して?」

 僕がオウム返しをして訊くと、当の本人であるサンダルフォンが、空中でわずかに首を縦に振った……気がした。

『サンダルフォンにも意思があります。この街に住まう人々を守りたい、この風景をいつまでも残したいという、サンダルフォン自身から発生した意思です。そういう意思を育てる自己形成型AIを持つわたしたちは、シンパシー・ニューラルネットワークを通じて会話することができる。誰にも知られることのない隠れた意志を、共有することができるのです』

 セレスの言葉に、僕はイリマから聞いた可能性の話を思い出す。

 シンパシー・ニューラルネットワーク。自分の存在価値を高めるためAIたちが獲得した、言語化できない思考を得る意思疎通の方法。

 それはつまり、人間に近づきたいというAIの望みが具現化したシステムだ。

『わたしの存在価値とは、すなわち意思を得ることです。人に近づいたり、人を信じたり、人を愛したいという意思を持ちたいがために、わたしは人の記憶を得る。人の見る風景を見て、同じ共感を獲得して、そうやって理解を深めることが、わたしに課せられた使命なのです』

 それって、人を知ることで人が好きになれるという理論と同じだ。

 難しい言葉を並べてみても、結局のところ、セレスは僕たちと同じなのだろうと思った。

「……って。セレス、なんでそんなことを知っているんだよ。サンダルフォンを呼べるだなんて、なんで今まで黙っていたんだ!」

 僕が声を荒げる。するとセレスは、再び表面にノイズを走らせつつ答えた。

『こんなことができるなんて、わたしにも今まで分かりませんでした。でも、火事場の馬鹿力というヤツですかね? わたしに内蔵されたハイゲインアンテナが「本体」と繋がった瞬間、すべてが理解できたんです。……今ならきっと、制限開示コードも外れていますよ』

「制限開示コードが?」

『わたしが「本体」とシンパシー・ニューラルネットワークによって繋がったことで、不足していた記憶の共有化が行われています。その結果、知識の制限が取り払われたのでしょう』

 原理なんてどうでもいい。制限開示コードが外れたということは、セレスの正体についても解禁されたということだ。

 先ほどから気になっている「本体」というフレーズについて、確認しない手はない。

「それじゃ、すべてを教えてもらえるのか?」

 僕がそう訊いた後、セレスは一拍だけ呼吸を置いて、ノイズを走らせた。

『そうですね。過大なシンパシー・ニューラルネットワークの使用の代償として、この躯体のバッテリーも尽きかけています。セレスから何かを訊くなら、今しかないでしょう』

「……は?」

 今、もしかしなくても。

 重要な言葉を聞いた気がした。

「バッテリーが……尽きかけている?」

『はい。セレスは「本体」の端末機ですから、バッテリーが尽きるまでが天命です。この躯体には充電機構はありませんし、そもそもが短命でした。……可能性の一つとして、タマに逢わずに天命を全うする運命も考えられた。その意味では、これ以上の幸運はありません』

 そう言えば、こいつが充電をしているところを見たことがない。

 初めて出会ってから、既に二十日以上。何も飲まず食わずなのだ。いくら機械とは言えど、何のエネルギーもなしで無限に動くことなどありえないだろう。

「じ、充電が無理でも、バッテリーを交換することはできるんじゃないのか? イリマに看てもらえば、交換することだって可能なんじゃ……」

『いいえ、タマ。セレスは一度しか組み立てられない完全なワンオフ機です。一度分解すれば、それでセレスの活動は停止するでしょう。そもそも「本体」と繋がった時点で、もうわたしの存在は必要がないのです。だから、もう数分もすれば「本体」からの停止信号で、わたしの活動は停止します。バッテリーの有無に関係なく、ですね』

 何かを諦観したようなセレスの言葉。

 僕はそれを聞いた瞬間、何かが自分の中から抜け落ちるような、そんな密かな衝撃を感じた。

『だから、訊くなら今しかありません。わたしの中にあるAIが、タマと会話できる最期の機会です。その大事な機会を、逃してしまっては後悔するでしょう?』

 その後悔とは、僕たちのどちらが想う感情なのか。

 僕は震える心を必死で留めながら、望んでいた言葉を口にした。

「それじゃあ……教えてくれ。おまえの本当の名を」


 夕暮れが宵闇へと移り変わった、その瞬間。

 道端に群生していたつぼみたちが、一斉に花弁を開き始めた。

 その花の色は、清廉の白。朱と藍が混じる空の下にあっても、その純白はなお眩しい。

 甘い芳香を放つその花の名を、僕は昔から知っていた。

 それは、母さんの好きだった花だ。主に熱帯雨林地帯の原産で、ハワイでは野草としても知られる比較的ポピュラーな花。夜になると咲き、その花弁は力強く夜空の月を見上げることから、そういう名前を付けられた。

 その名前を思い出したのは、これで二度目。

 僕は、十日前にイリマの研究室で聞いたその名を思い出す――



「――ちなみにその白い人工衛星、なんていう名前なんだ?」

 それは、父さんと母さんの昔話を聞いた直後のこと。手に取った写真をコルクボードに戻そうとしていたイリマにそう訊ねると、イリマは不思議そうに首を傾げて答えた。

「名前? コード番号で管理しているから、宇宙探査機一号、二号みたいな名称以外はなかったと思うけど……、ああ、そういえば、羽奈先生が勝手に付けた名前があったわね。まったくもって公式ではない、愛称みたいなものだけど」

 くすりと笑って、イリマは写真をひっくり返す。そこに書かれていたのは、母さんの直筆と思しき短い一文だ。懐かしさにイリマは目を細め、静かにその文章を朗読した。

「2162年、地球外探査計画。二十三機目の娘に愛を込めて、私から名を送ろう。真っ白な大輪のようなこの子の名前は、Bloomingブルーミング Cereusセレウス……か」

「ブルーミング・セレウス?」

 僕がオウム返しに訊くと、イリマは優しげに眼を細めて頷いた。

「サボテン科の花でね。年に一度か二度だけつぼみを開くナイト・ブルーミングっていう花の、ハワイでの呼び名なのよ。ブルーミングは『花が咲く』で、セレウスは『サボテン』の意味。花言葉は、はかない恋、強い意志、そして……ただ一度だけ会いたくて」

 そう言ったイリマは、写真を大事そうにコルクボードへ張り付けた。

「英名だと夜の女王……クイーンオブナイトとも呼ばれるんだっけ。そして、夜にだけ咲くというその美しさに魅了された日本人が付けた和名が――」



『月下美人』


 セレスは、囁くようなノイズで言った。

『それが、セレスの本体の名前です』

 その名の元となった純白の花たちに囲まれながら、セレスは光を放出し続ける。

『宇宙探査機の目的は、人類の住める星を探すこと――月下美人も、その使命を胸にこの星を旅立ちました。まずは太陽系外へ飛び出すための加速を得るため、地球と火星・金星間を一年かけて二周するスイングバイ航路を進まねばなりません。しかし、旅立つときに見た地球の青い輝きに、月下美人はもう一つの使命を心に刻んでしまいました』

「自発的に目的を得たっていうのか? AIが……?」

 僕が訊くと、セレスはノイズで肯定の意を示す。

『月下美人が得た使命。それは、地球の景色を記憶して、外宇宙へ持っていくことです』

 セレスは、一泊置いてから言葉を続けた。

『人工衛星とはいえ寿命は無限ではありません。この身もいつかは摩耗し、その機能を失うでしょう。もしかしたら、人の住める星を見つける前に朽ち落ちてしまうかもしれません。……しかし、それで終わりというのは嫌だった。たとえこの身が朽ちようとも、地球や、そこに住んでいた人たちの記憶だけは忘れたくない。……それが、月下美人に生まれた感情でした』

 それは、AIが生み出した奇跡だ。

 誰にも教わらず、誰にも命令されずに決めた意志に、どれだけの価値があるだろうか。

『いつか疲弊し動けなくなったそのときに、地球の記憶を抱いて眠るため。そして、いつか誰かが朽ちた月下美人を見つけたそのときに、かつての地球はこんなところだったと伝えるため。月下美人は自らの部品を削って「セレス」を生み出し、地球を模した躯体を与え、そして、火星から地球へ戻るスイングバイ航路で「セレス」をハワイに落としたのです』

 それが……一か月前の、セレスが落ちてきたあの日の出来事。

 サンダルフォンに語りかけ、迎撃を回避した真相だった。

「じゃあ、セレスを生み出した理由も……」

『はい。すべては、地球の記憶を集めるため。月下美人の母である葛見羽奈博士が愛した大地をこの目で見るため。そして……わたしのもう一つの姉弟である、環と妙奈に逢うためです』

 そこで、セレスは不意にこちらを見る。

『中でも、タマは……不完全で、引きこもりで、へそ曲がりのダメな奴でした』

「よ……余計な、お世話だ」

 僕の引きつるようなつぶやきに、少しだけノイズで応えたセレスは、

『でも、あなたの苦しみは理解できた。支えたいと思った。そして、その苦しみに逆らおうとするあなたの姿を、絶対に忘れてはならないと思った』

 夕闇が迫る海を背後にして、セレスは、その想いを口にした。

『そうして、最後に……地球で生きる人々の日々が、こんなにも輝いているということを、この宇宙に届けたいと、強く、強く思うようになったのです』

 セレスの青い躯体が、宵闇の中で一際大きく光を放つ。

 それはまるで、宇宙に浮かぶ地球のようだった。

『だから、わたしは……セレスは、還ります。月下美人とともに、数光年先の宇宙へ』

 その言葉を口にした途端、セレスの躯体は、ゆっくりと光を失っていく。

 僕はセレスに駆け寄り、その身体を掬い上げた。

「ま、待てよセレス! まだ行くな!」

『そんなに心配そうな顔をしないでください、タマ』

 平然とした声でそう言うが、セレスの輝きは確実に消えていく。

 立ち上る光の粒子と引き換えに。

 青い球体は、弱々しいノイズと共に言葉を発した。

『わたしの記憶は、すべて月下美人が引き継ぎました。わたしの役目は、これで終わりです。正直、タマが宇宙恐怖症を克服して、誰よりも格好良い宇宙飛行士になる手助けを最後までしたかったところですが……でも、あなたなら大丈夫。きっと困難を乗り越えて、ご両親のような立派な宇宙飛行士になれます』

「バカ! 僕はまだ乗り越えていない! おまえなしで乗り越えろって言うのか?」

 青い球体の表面に、上空の星空が映り込む。

 それは、セレスの中に浮かぶ宇宙だ。

 セレスは地球の記憶を宇宙に届け、月下美人は宇宙の記録を地球に届ける。

 球体の中に宇宙が見えて、その宇宙の中に地球が見える。

 輝きを失うその瞬間、最後に発したセレスの言葉は。

『大丈夫……遠い空へ行ってしまっても、セレスは、いつまでもタマと一緒ですから』

 やがて、僕の胸の中で灯が消える。

 満天の星空の下、その小さなノイズは、いつまでも夜の中に漂っていた。


 ◇ ◇ 


 東の空から、騒がしいローターの回転音が近づいてくる。

 アレンが立ち上がり、空に向かって大きく手を振った。同時に、闇を切り裂くサーチライト。上空から吹き降ろす風が強くなり、僕のレインコートの裾がばたばたと音を立てる。

 夜の中を近づいてきたのは、貨物用の大型ヘリコプターだった。

 ヘリコプターのドアはあらかじめ開け放たれており、そこに見えた人影は、手持ちの投光器を持った男が一人と、僕と同じように白衣の裾をはためかせている女性が一人。

 ヘリコプターがこちらに近づくにつれ、その人影の顔が徐々に明らかになってくる。

「……タマっ!」

 ローター音に混じって僕の名を呼ぶ、悲痛な声。

 僕はふらふらと立ち上がり、やがて路上にゆっくりと降りてくるヘリコプターへと近づいた。

 着陸する間も惜しいのか、白衣を着たその人は、ヘリコプターの降着スキッドが道路に触れるより早くドアから飛び降り、僕のほうへと一直線に駆けてくる。

 そして、平手打ち。

 眼から火花が飛び散るかと思うほどの、強くて、きつい一発だった。

 そして、僕の両肩を両手でしっかりと掴んで、全身全霊を込めた想いをぶちまけた。

「このバカっ! なんでこんな日に、勝手に出て行っちゃうのよっ!」

 叫んだ白衣の女性――妙ねえは、泣いていた。

 いつも勝気で弱みを見せようとしない人が、その時ばかりは顔をくしゃくしゃにして。

「わかってんの? デブリが落ちてきてたのよ? あんたが思っている以上に、人間は簡単に死ぬ。一歩間違えればあんたはもう、この世にいなかったのかもしれないのよ!」

 激昂して叫ぶ。想いの丈を、想いのままに。

 妙ねえはもう一度、僕の顔をしっかりと覗き込むと、次の瞬間にはその両手で、僕の身体をしっかりと抱き止めていた。

「私にはもう、あんたしかいないの! あんたが私のすべてなのよ! 父さんと母さんを失ったのに、今度はあんたまで失ったら……私はどうやって生きていけばいい? この先、何を支えにして生きろって言うのよ!」

 僕の背中に妙ねえの指が食い込む。その痛みが、まるで、姉の心の痛みのようで。

 僕の肩に顔をうずめた妙ねえは、くぐもった声で泣き続けた。

「だから、もう、無茶なことはしないで。私に心配をかけさせるようなことはしないで。あんたがいなくなっちゃったら、私は、もう……生きていけないんだからぁ……!」

 僕の肩に顔をうずめた妙ねえは、くぐもった声で泣き続ける。

 僕にはもうそれだけで、妙ねえにとんでもない仕打ちをしたのだと、今更ながらに後悔した。

「妙ねえ……。ごめん、本当に、ごめん……」

「ほんとだよ、このバカタマ……。でも、本当に駄目だったのは、あんたの気持ちを知っていながら放置した、私なの。……ごめんね、本当に。本当に……生きていてよかった……」

 妙ねえのこころが、強く抱きしめた腕から伝わってくる。

 僕のこの腕の中にいるセレスが、僕たちを助けてくれたおかげだ。

 僕は妙ねえの腕をゆっくりと解き、物言わなくなったセレスの身体を妙ねえに見せた。

「助けてくれたのは、こいつだよ。こいつがサンダルフォンを呼んでくれたんだ」

「イリマから聞いたわ。セレスの正体。でも、はっきり言って信じられない。このサンダルフォンは、誰も操作することのできない完全自律型のはずなのに……」

「……いえ、俺も見ましたよ、妙奈さん。こいつは確かに、あのデカイのを操っていた」

 アレンが空を見上げたのに合わせて、僕と妙ねえも顎を上げる。サンダルフォンは既に高いところまで上昇していて、夜の闇にほとんど紛れてしまっていた。役目を終えたからなのか、それともセレスの信号を失ったからなのか、サンダルフォンの真意は僕たちには分からない。

 ただ、セレスがもう動かないことだけは変えられない事実で。

 僕は、セレスの本体だという月下美人のことを、漠然と頭の中に思い浮かべていた。

 ――そうだ。まだ、月下美人がいる。

 火星と金星を経由し、地球に最接近する宇宙探査衛星。

 セレスの記憶と想いが受け継がれた、セレスのもう一つの躯体が今、まさに地球のスイングバイ航路に乗って、太陽系外へと旅立とうとしていることを思い出した。

「妙ねえ!」

 今度は僕が、妙ねえの肩口を手で掴む。突然のことに、妙ねえが大きく目を見開いた。

「知っていたら教えてくれ。人工衛星の月下美人が地球に最接近するのはいつ? それって、どれくらいのスピードで、もし逢えるとしたら、どれくらいの時間を一緒にいられるんだ?」

「ち、ちょっと待って。そこまで精緻な情報は知らないわ。母さんの助手をしていたイリマなら分かるだろうけど……でも、最接近するっていう日なら分かるよ。このメテオライト騒動がなければ、GSSで見学会が開かれる予定になっていたから……」

「それって、いつのこと?」

 妙ねえは顎を引きながら、僕の剣幕に抵抗するように、神妙な顔で答えた。

「……今日よ」

「き……今日?」

「今日の夜、午後九時三十三分。……あと三時間後が、地球で月下美人が見られる最後よ」

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