第3話


「――とはいえ、勝手にGSSから逃亡したことが許されるとでも思っているのか?」

 仁王立ちする姉の眼前に正座した僕は、素直に頷いた。

「……ハイ。申し訳ありませんでしたお姉さま」

「罰として鉄拳制裁一回」

 ごつん、というアメリカの西部開拓時代に使われたハンマーが奏でるような音と共に、僕の脳天と双眸から火花が飛び散る。その痛みに僕がもんどりうっていると、少し離れた作業机でオフィスチェアに腰掛けていたイリマが、キャスターを滑らせながら苦笑を浮かべた。

「まあまあ、妙奈。そのくらいにしておいてやんなよ。タマにだってどうしようもない事情があったんだからさ。それに、疲れた者は休んでいいと所長も言ってたじゃない」

「だからって、無断でシャトルに乗って地上まで戻れとは言ってなかったはずだぞ」

 ごつん、と二度目のハンマーが僕の頭にたたき落とされる。鉄拳制裁一回って言ったじゃん今と抗議の声を上げたかったが、報復の三度目を恐れて口を閉じるしかない哀れな僕だった。

「それに、私が本当に怒っているのはタマが逃げ出したことに対してじゃない。そういうトラウマがあるってことを、どうして姉であるこの私に真っ先に教えてくれなかったのかって、そこが一番腹立たしいのよ!」

 結局振り下ろされる三度目。さすがにこれ以上は脳天がもたないと、僕はその拳を頭の上でキャッチした。

「それは……ごめん。妙ねえに心配をかけたくなくて……」

「心配? 私はね、あんたが生まれた瞬間からあんたのことを心配し続けてきているのよ。今更心配事の一つや二つが増えたところで、全然なんてことないんだからね!」

「そうだよ、タマ。妙奈お姉ちゃんのブラコンっぷりは所内でも知らぬ者はいないんだから。もっと甘えてあげたほうが、お姉ちゃんも心が休まるんだと思うよ?」

「なッ、なな何言ってんのよイリマ! その噂を広めたのはアンタでしょ!」

 妙ねえが顔を真っ赤にしてイリマに叫ぶが、イリマは聞こえないふりをしつつデスクに向き直る。妙ねえはこほんと咳を一つして、再び僕の顔を正面から見つめ返した。

「とにかく、あんたに宇宙恐怖症があることは理解した。今後は私も全力であんたをサポートするわ。あんたはどんな些細なことでも、異変を感じたら真っ先に私に言うのよ?」

「う、うん。わかった。以後気を付けるよ」

「お願いね。……ったく、今までタマの異変に気づいてあげられなかったなんて、姉として最低だわ……」

 最後の述懐は自分に向けてのものらしい。苦々しく顔をしかめる姉の表情に、僕はなぜか、少しだけ郷愁のようなものを感じていた。

「それで、今は体調はどうなの? まだ苦しかったりはしない?」

「今はもう大丈夫。シャトルから降りれば嘘みたいに治まるんだ。半年前はマルクトを遠くから見るだけで動悸がしていたけど、今は見上げる程度なら、なんてことはなくなった」

 なんてことはない、という僕の言葉に複雑な表情を浮かべる妙ねえ。「なんてことはない」だけで、少なからずしこりのようなものを感じ入りはするのだが、それでも半年前と比べれば恐るべき進歩だと言えた。いずれはその心の病も完治するだろうと勘違いしてしまう程に。

 妙ねえはそんな不安を振り払うように、いつもの気丈な笑顔に戻して口を開いた。

「そ。なら良し。さっきGSSにいる所長と電話で話したんだけどね、スイちゃんたちの課外授業は引き続きあちらでやるそうよ。さすがにあんた一人のために全員で引き返すわけにもいかないからね」

 それは当然だろうと、僕は頷いた。いくら身近に軌道エレベーターがあるとはいえ、GSSへ登れる機会は貴重だ。僕一人の責任で、その機会を奪うことになっては申し訳が立たない。

「だからタマには、代わりに私たちが地上でみっちり授業をしてあげることになりました。訓練生一人に講師が二人も付くなんて贅沢よね?」

 ふふふ、と意地の悪い笑みを浮かべる姉と姉の友人。正直言って、あんまり贅沢なのも考えものだ。僕は逃げ場を探して、この部屋――イリマの研究室を、ぐるりと見渡した。

 今更かもしれないが、ここは軌道エレベーター・マルクトの基部フロア。宇宙進出開発機構研究所・ノアの一角にある、イリマ・マカイ・ノアの個人研究室である。 

 畳にして十畳ほどのフロア。壁際にデスクがいくつか並び、分厚い本やファイルがうず高く積まれている。書籍の陰には無数のモニターやら用途不明な機器やらが羅列しており、足元はケーブルの類でいっぱいだ。お世辞にも整理整頓ができているとは言えない。

 しかし、研究一辺倒の部屋かと言えばそうでもなく、白で統一された壁には、たくさんの写真で彩られたコルクボードやピン止めされたアロハシャツ、土産物屋で売っているステッカーなどの蒐集品が所狭しと飾られていた。良く言えば多彩、悪く言えば雑多な部屋だ。

「っと……、忘れるところだった。授業の前に、イリマ。セレスの解析の進捗はどう?」

 妙ねえが声をかけると、先ほどからデスクに齧り付いてモニターと睨めっこをしていたイリマが跳ねるように立ち上がり、掛けていた眼鏡を白衣のポケットにねじ込みながら頷いた。

「ちょうど終わったよ。解析率は八割ってトコかな。本当はバラして素子の一つも採取したいところだけど、まあ、本人が嫌がるんだから仕方ないね」

 どうして研究者という連中は平気でバラすとか言えるのか。無邪気な顔をした若き研究主任様は、解析検査のためにセレスを放り込んでいるCT室と呼ばれる別室へ向かおうと研究室の扉へと近づいたのだが、それを同僚の開発主任様が呼び止めた。

「待てイリマ。セレスをCT室から出す前に、先に解析結果を知りたい」

「え? でも、三十分だけって約束でしょ。ただでさえセレスちゃん、反抗的なのに」

 発想の転換で、ノアに来たくないという理由が僕と離れたくないことに起因しているのなら、課外授業をダシに、僕ごとノアへ連れてきてしまおう、というのがランディの一連の計画である。その思惑は見事に的中し、こうしてセレスは研究主任の手によって解析室へ連れ込まれたわけだが、あまりセレスに無理強いはしたくない、というのがイリマの本音のようだ。

 分かっていると首肯しつつも、妙ねえは厳しい表情のまま腕を組む。

「だが、あいつがいる前で特別な事情が分かってしまったら、何らかの不具合があるかもしれないだろ。それにあの、開示制限コードとかいうのがピーピー鳴ってもたまらん」

「んー、そうだけどねえ。でも、なんつったらいいか……」

 何とも歯切れの悪いイリマの口調。僕は姉に追従し、イリマに詰め寄った。

「セレスの正体、分かったのか?」

 姉弟が揃って自分のほうを向いているのがおかしくなったのか。イリマはくっくっ、と含むような笑い声をあげると、デスクの端に腰を掛けながらモニターの頭を撫でた。

「うん。結局、良く分かんないってことが、良く分かった」


 ◇ ◇ 


『それはそうでしょう。わたし自身が分からないのですから、他の人でも分からないに違いありません』

 姉と姉の友人から、引きこもっていた半年分の授業をみっちり受けた帰り道。夕陽の赤が染める街を歩きながら、僕は腕に抱えたセレスの言葉に口をとがらせた。

「それでも、ノアの技術力で分からないってことがあるのかよ。仮にもこの地球で一番の研究機関だぞ。機械ってことは確定なんだから、せめて出自くらいは分かりそうなものだけどな」

 僕は先ほどイリマから聞かされた解析結果を思い出す。

 ノアの最先端技術で判明したことは、ごく僅かだった。

 ひとつは、正真正銘の機械であること。地球由来の物質で造られているのは間違いないが、その緻密さは人間の手で作成することが実質不可能なレベルであるらしい。したがって、少なくとも下町の職人が作ったわけではなく、かといって異星人が作った侵略兵器でもないらしい。

 ふたつめは、作成時期は不明だが、ここ数年以内であること。

 みっつめは、セレスは全く自覚していないが、暗号化された通信をどこかと定期的に行っているであろうこと。――これは、CT検査で通信アンテナの内蔵が確認されたことからイリマが導き出した推測だ。つまり、それが何の目的で、どこの誰と通信しているかは不明だし、そもそも本当に通信をしているのかどうかも不明だ。

 ……以上、分かったのはその三つだけ。

 人類有史以来、セレスに似た機械がどこぞの工場で造られたという記録もないし、心当たりのある研究者も見つからないし、世界中のノアの支部に情報提供を呼びかけても揃ったように首を振るばかり。おまけに現在の人類が使用しているコンピュータに対する接続端子もないので、開示制限コードの解除どころか、データを引っこ抜くこともままならない。

 地球脱出の要たる最高研究機関が並べる言葉は、ない、無理、不明、という、そこらの小学生でも答えられるようなものばかりだったのだ。

「結局のところ、おまえの開示制限コードが自然に外れるのを待つしかないのかな」

『そうですねえ。何事も自然な流れが一番だということでしょうか』

 のんびりとした口調でセレスが言って、赤かった地面がゆっくりと紫色に変わる。大通りを過ぎ、家に近づく小路に左折したとき、僕はふと、背後を振り返ってみた。

 ソテツやモンキーポッドの合間から、軌道エレベーターの一筋が見える。

 空の色はブルーベリーのような藍。それを貫いて空へそびえるマルクトは、遠くに沈みかけた太陽の光を浴びて金色に輝いていた。

「おまえは……セレスはさ、自分の記憶がないことを、不安には思ったりしないの?」

 口を衝いて出た言葉。それはあまりにも自然で、なぜ僕がそんなことを訊いたのか、自分でもわからなかった。

 でも、実はそれが、今の僕が一番知りたいことで。

 それを感じ取ったのか、セレスは静かに己の表面にノイズを走らせた。

『わたしの場合、過去の自分より、未来の自分がないことの方が怖いですね』

「未来の……自分?」

『わたしの存在意義は、この景色を記憶することです。確かに、わたしにはタマと出会う前の記憶がありませんが、この景色を記憶すれば、それが過去の記憶となります。だから、わたしには過去よりも未来のほうが大事なんです。わたしのこれからの未来と、過去を形作るために』

 だから、過去を知らないことよりも、未来を知れないことの方が嫌だと、セレスは語った。

 僕はマルクトを見上げながら、その先に浮かぶ宇宙を仰ぐ。

 ……確かに、過去は過去だ。

 この星が滅びるまで、あと四年。僕らには、未来を見ることしか許されない。

 だから、僕は半年ぶりに立ち上がったのではなかったか。

「僕、宇宙飛行士になれるかな」

『なれますよ。タマは、もう未来を向いているのですから』

 セレスのその言葉が、なぜか僕に勇気を分けてくれたような、そんな気がしていた。


 ◇ ◇ 


 週末を越えて、月曜の朝。いつものように迎えに来た水蓮に腕を引かれて家を出た僕は、いつものように通学路を歩きながら、いつもとは違う水蓮の雰囲気を感じ取っていた。

「……なんか、機嫌悪い?」

「別に悪くないよ。そうじゃなくて……いろいろ考えさせられた、ってところかな」

 横断歩道を渡り切ったところで、水蓮がこちらを振り返る。どこか残念そうな、それでいて諦観めいた複雑な表情。いつも朗らかな彼女にしては随分と珍しい表情だった。

「私は、タマの心の傷が治るまで、傍にいてあげることしかできないと思ってた。それは時間と共に解決して、またいつもみたいに過ごせる日が来る……そう思っていたし、半年経って外に出られるようになったタマを見たとき、もう大丈夫だって、だから学校にも連れ出した」

 その洞察は間違いじゃない。現に僕は回復したし、外に出るのも抵抗がなくなってきている。それは水蓮や、妙ねえたちの形に見えない努力のおかげだ。

「でも、これからはそれだけじゃ駄目だって気づいたの。……ううん、教えられたって言うのかな。何かを変えるときには、多少でも強引に変えていかなきゃ駄目だって」

「……何の話をしているんだ?」

 僕が訝しんでいると、水蓮はずいと僕に顔を寄せて、形の良い唇をへの字に曲げた。

「タマは、宇宙飛行士になるんでしょう? 操縦士になるんでしょう?」

「あ……ああ、うん、そうだな。できれば、そうなりたいと思う」

「二週間後の宇宙技能者試験、受けるんでしょう?」

 ……それに答えるのは、多少の勇気がいる。

 宇宙技能者試験の、それも操縦士に該当する資格項目は狭い門戸だ。全世界で年間百人程度しか合格しないとの噂があり、当然試験も、それに応じて他より遥かに難しいと聞く。

 一年間みっちりと勉強や実技練習をこなしてきた訓練生ならともかく、半年も引きこもっていた僕が、そんな訓練生と肩を並べて、あまつさえ少ない枠を奪い取ろうだなんて、よほどの度胸がなければ即答できるものではなかった。

「引きこもっている間、ネットで多少は勉強していたから、基本教養や論理座学はまだ望みがあると思うけど……問題は実技で、やっぱりその、現実を考えると難しいとしか……」

「今は受かるかどうか訊いているんじゃないの。受けたいか受けたくないか、訊いているの!」

 ああ、その言葉は二回目のデジャヴ。

 僕の条件反射は、パブロフの犬よりも早く反応していた。

「受けるに決まってる!」

「だよね。それじゃ、もう迷いは一切いらないね!」

 くるりと僕に背を向けた水蓮は、ポケットから携帯電話を取り出してどこかへ発信。受話器の向こう側と突然話を始めてしまった。僕は呆気にとられて目を二、三度瞬かせた後、足元に転がっていたセレスに小さな声で訊ねてみた。

「なあ、意味わかるか?」

『分かりますよ。男の子ってニブイですね』

 おまえに性別があるのかよ、と心の中でツッコんだところで、短い通話を終えた水蓮が僕のほうに再度振り返り、意味深な笑顔を浮かべた。


 ◇ ◇ 


「……おーい。いいのか、勝手に入り込んで……」

 午前の授業を終え、昼休みもそこそこに連れてこられた学校のはずれ。一見すると飛行機の格納庫のような巨大な建物の中を、僕とセレスは水蓮の後に続いておそるおそる進んでいだ。

 この建物の正式名称は「訓練棟」だ。おそらくメトシェラ訓練学校の中で一番大きな校舎であるそれは、主に現職の宇宙飛行士と僕たち訓練生の実技練習場として使われている。

 二階まで吹き抜けとなった作業場には、GSSモジュールの等身大模型や、土木作業用と思しきクレーン車、分解されたロボットアームの残骸などが所狭しと配置されている。別の廊下の先を覗くと、自動車を改造したシミュレーターや、宇宙船の中を再現した制御室のセットなどがずらりと並んでおり、その仰々しさに多少の気味の悪さを感じさせた。

「……僕、こんなに奥のほうまで入ってきたの、初めてだよ」

 作業場脇の回廊を歩きながら、僕はひそかに嘆息を漏らす。シミュレーター実習はメトシェラに入学した頃から少しずつ経験していたので、訓練棟自体が初めてということはないが、シミュレーター室を越えてここまで来たのは初めてだ。窓が少ないせいか、校内は昼とは思えないほど薄暗い。照明が点いていない中を進んでいることも、僕の不安を駆り立てている一因かもしれない。

 しばらく無言で進んだ水蓮は、ひとつの扉の前で立ち止まると、ゆっくりとドアノブを引いて僕たちをその中へ誘った。

 扉の先に満ちる照明の光に目が眩むが、それも一瞬のこと。すぐに視力を取り戻した僕は、その部屋の様子に目を見張った。

「プールだ……」

 そこは、高い開閉型の天井と、いくつかのクレーン車がプールサイドを埋める、巨大な室内プールだった。

 プールは一辺約五十メートル。競泳用のようなコースロープはなく、水深もかなりの深さのようだ。プールに近づいて水面を覗き込むと、水底に大きな機械が沈んでいるのが見えた。

「無重力環境施設って言うんだって。水深は約二十メートル。下にはオービタルリングの整備に使われる、モビリティ・シャトルの等身大模型が置いてあるらしいよ」

「オービタルリングの整備訓練施設ってことか? なんだってそんなところに――」

「時間は待ってくれないからな。足りない練習量は積み上げておかないと、本番で苦しむことは目に見えている。宇宙恐怖症の克服はまだ無理でも、やっておいて損はないはずだ」

 その男の声は、プールサイドを近づいてきたフォークリフトの運転席から。

 僕の目前で車を止め、運転席から降りてきたアレンの格好は、首から下までをすっぽりと包み込む真っ白の宇宙服姿だった。

「アレン? どうしたんだ、今日はアレンの授業はなかったはずだろ?」

「私が呼んだの。アレン兄さんは宇宙飛行士の機械技術士の資格を持っているから、教官役には最適だと思って」

 微笑を浮かべながら水蓮が言う。僕は嫌な予感を感じて、水蓮に向き直った。

「教官って……まさか、アレンから機械の操縦実技を教えてもらえって言うのか?」

「そう。タマは今日から、クラスの合同授業は全部キャンセル。二週間後の宇宙技能者試験のため、圧倒的に足りていない実技演習をみっちりこなしてもらいます」

 もう決定事項だと言わんばかりの水蓮の口調に、僕は驚いて声を上げた。

「ほ、本気かよ!」

「当然よ。必要があれば、自分で訓練カリキュラムを変更できるのがこの学校の良いところよね。もう宮國先生の許可は取ってあるし、そもそも実技が足りていないって言っていたのは、タマ自身でしょう?」

「それは……そうだけどさ」

「なんだタマ。いまさら不服ってことはあるまいな」

 その様子を見ていたアレンは、ふてくされたような表情を浮かべて僕を睨む。

「俺だってそんなに乗り気じゃないんだ。まったく、今日は久しぶりの非番だっていうのに、おまえのためだけの特別コーチを従妹に頼まれた俺の心情も察してくれ。本当なら今ごろは、妙奈さんを誘ってどこか夜景の綺麗な場所へ行っている予定だったのに……」

「南の島じゃなかったのかよ」

 そもそも誘う勇気もないくせに、夢物語を引き合いに出すなんてどうかしていると思うが、アレンの押しつけがましい台詞は留まるところを知らなかった。

「第一、このプールを押さえるのも大変だったんだぞ? ここは現役の宇宙飛行士も訓練に使う施設だ。それを一介の訓練生のために貸し切るだなんて、どれだけ苦労したことか――」

「――そうか。それは苦労をかけたね、うちの弟のために」

「ああ、まったくだぜ。俺の苦労も少しは理解し――あっれええっ?」

 背後から聞こえた、聞き覚えのありすぎるその声に、アレンが目を剥いて飛び上がる。

 プールの片隅にある更衣室の扉。それを開いて現れたのは、紺色の競泳水着に身を包み、長い黒髪をポニーテールに結い上げた、葛見妙奈の姿だった。

「た、妙ねえ? どうしてこんなところに?」

「言ったはずでしょ、タマ。今後は私も全力であんたをサポートするって。それはあんたの心の病に対してもそうだし、――宇宙飛行士になりたいって夢に対しても、同様よ」

 しみじみと言われてしまう。僕が何も言えないでいると、次に妙ねえはアレンに向き直って、申し訳なさげに頭を下げた。

「アレン君も、非番だというのに済まないな。勝手なお願いだと思うが、うちの弟のために一肌脱いでやってほしい」

「とッ、ととと当然ですよ妙奈さん! 妙奈さんのため……じゃなくて、環くんのためなら、俺の非番の一週間や一か月、惜しむどころか全力で注ぎ込んだって悔いはありません!」

 声の上ずり方が半端ではない。先ほどまでの悪態はどこへやら、わたわたと両手を振り回しながら力説するアレンの姿は滑稽以外の何物でもないが、こんな恰好の妙ねえを前にしては、それも詮無いことかもしれない。ただでさえ線の細い妙ねえが黒の競泳水着なんて着ていると、その肢体はまるで人魚か鮫のようだ。

 僕は生まれて初めて見る姉の水着姿に眉根を寄せつつ、とりあえず訊いてみた。

「ていうか妙ねえ、なんで水着なんだ……?」

「あんたは何を言ってんのよ。プールとくれば水着でしょ。水中練習用の宇宙服は、あんたとアレン君の分で品切れだ。となれば、私は水着で潜るしか選択肢はない」

「妙ねえも僕の指導役をする気なの?」

 僕の驚嘆に、妙ねえはにやりと口元を歪めて頷いた。

「私の操縦実績やEVA回数を知らないとは言わせないわよ。宇宙服がなくても問題ないわ」

「そ、そうだぞタマっ! 妙奈さんは研究員でありながら技術士としても優秀なお人だ。そのお美しい水着姿を宇宙服で隠そうなどと、お天道様が許してもこの俺が許さんからな!」

 口角泡を飛ばしてまくしたてるアレン。台詞もすでに意味不明だ。そのアレンの態度を不思議そうに見ていた妙ねえは、やがて乾いた笑みを浮かべて、

「はは、無理にお世辞を言わないでも良いよ、アレン君。水着なんて着るのも久しぶりだし、似合わないことくらいは分かっているもの。君の指導の邪魔にならないよう十分気を付けるわ」

「えっ? いや、違……俺が言いたいのはですね、妙奈さんは女神みたいだってことで……」

 もごもごと口を動かすアレンだが、踵を返した妙ねえの耳にはもう届いていないようだった。潔く本音を言わないアレンもアレンだが、ここまであからさまな態度を取られながらも、それに気づこうともしない妙ねえも妙ねえである。

「前途多難だねえ、アレン兄さんは」

 苦笑を浮かべる水蓮。全く同感だが、今はアレンのことなんて気にしている場合じゃない。

「何をぼさっとしている、タマ。最速で宇宙服に着替えてきなさい。時間は有限なのよ」

 鬼コーチの如く睨み付けてくる姉の気迫に気圧されて、僕は慌てて更衣室へと走った。


 ◇ ◇ 


『一三時三〇分、入水開始』

 宇宙服のヘルメット越しの妙ねえの声と連動して、ゴンドラが静かに降下を開始した。

 僕を乗せたゴンドラは、ゆっくりとプールの中へと沈んでいく。足元を浸していた水面は、次第に胸の位置を越え、そして頭へ。数秒とかからず僕の全身は水に包まれ、視界は青い世界で満たされた。

『ゴンドラ、スタート地点へ到着。……どう? 今のところ問題ない?』

 プールの底についたところで、無線の姉が訊いてくる。僕は何度か腕を上げ、足踏みをしてみて、宇宙服に水漏れがないかどうかをチェックした。

「……大丈夫。気密性、酸素数値ほか、生命維持装置に問題はない。試験を開始する」

『了解。では受験番号一番。試験を開始しなさい』

 ゴンドラの扉が無音で開く。代わりに水中を踊るのは、小さな無数の気泡たちだ。僕は慎重に足を持ち上げ、水の抵抗に逆らいながら、ゴンドラのわずかな段差を飛び下りた。

 ――人生初となる、疑似的無重力環境上でのEVA。その一回目が幕を開けた。

 この水中試験は、宇宙技能者試験の実技試験内容をシミュレートして行われるそうだ。

 実技試験の当日の会場は、宇宙。高度4万4000キロの彼方、GSSよりもさらに8000キロ上空に鎮座する、例のオービタルリングを実際に使って行われる。

 管理ステーションと呼ばれる階層から本物のモビリティ・シャトルに搭乗し、操縦桿を握って約500メートルを飛翔。無数にあるオービタルリングの中のいちユニットに接舷したのち、制御コンソールを操作する。

 それを終えたら、乗員の確認をしつつユニットから離脱。また500メートルを辿って、管理ステーションの接舷用モジュールの上へ着陸する――というのが、実技試験の全容だった。

 モビリティ・シャトルは有線という名の命綱が付いているし、宇宙遊泳用推進装置SAFERを装着した現役宇宙飛行士が何人もバックアップに入るので、安全上は問題ない……と言われているが、それでも十五歳の訓練生に実際の宇宙で命がけの試験をさせようというのだから、セフィロトやNASADのスパルタぶりは目を見張るものがあろうというものだ。

 僕の場合は、それに輪をかけて、宇宙恐怖症という足枷がある。実戦に近い形式での訓練を積み重ね、身体で試験の段取りを覚えなければ、僕に合格の望みは薄いのは明らかだった。

 幸い、この無重力環境施設であるプールの底には、一通りの等身大模型が揃っている。

 型落ちのモビリティ・シャトルに、プールの壁面へくくりつけられた一基だけのオービタルリング・ユニット。ユニットは現実のように無数に連なっているわけではなく、モビリティとユニットの間隔も三十メートルと短いが、十分にその環境を再現していると言えるだろう。

『ほら、本物の宇宙技能者試験では制限時間があるぞ。周りを見るより足を動かせ』

 僕から少し離れた位置で、人影が声と共にジェスチャーを送ってくる。僕の姿と同じく、全身を宇宙服に包んだアレンだ。水底は水面よりも薄暗いので、ヘルメットの中の表情までは見通せない。僕は親指を上に立てたジェスチャーを返してから、再びプールの底を歩き始めた。

「水の抵抗って、思ったより感じないんだな……」

 僕のつぶやきに反応を返したのは、プールサイドにいるはずの水蓮だった。

『宇宙服のほうが重いから、そう感じるだけだよ。実際には百キログラム程度の抵抗があるはず』

「なるほど……水の中って無重力感覚だけかと思っていたけど、本当に宇宙にも似てるんだな」

 僕は思わず頭上を見上げてみる。

 ゆらゆらと揺れる水面は遠い。水深は二十メートルだから、水圧は約三気圧だ。つまり、今の僕の身体には、自分の体重の三倍の圧力が襲いかかっているということになる。

 無重力性といい、宇宙服がなければ命の危険に晒されるこの状況といい、この水中という場所は、宇宙空間を再現するには絶好の条件が揃っていることは間違いなかった。

『……ふむ。例の宇宙恐怖症は出ないようだな、タマ?』

 水底のモビリティ・シャトルにたどり着いたところで、今度は妙ねえの声だ。僕はシャトルの搭乗口ハッチの手すりに手を掛けながら、自分の体調を確認して頷いた。

「みたいだね。GSSで襲われたような動悸や吐き気は感じない。僕のバイタルはどう?」

『すべて正常値だ。やはり、宇宙環境より宇宙そのものに拒絶反応を示していたわけか』

 自分の恐怖の正体がつまびらかになったことに一抹の不安を感じつつ、僕は改めてシャトルに向き直った。

 さて、モビリティ・シャトルは全長五メートルの直径三メートル、円筒型の小型艇である。

 定員は最大三名で、主に宇宙空間内の短距離移動や物資の小運搬、モジュール曳航に使われており、全長六メートルほどのロボットアームが内蔵されていることが特徴だ。

 搭乗口は側面のハッチ一つだけ、内部は操縦用コンソールと最低限の生命維持装置しか整備されていないというシンプルな作りで、新米から上級技術士まで幅広く利用されている。訓練生が実習に使うには、うってつけの宇宙船と言えるだろう。

「ハッチ開きます。これよりシャトルに搭乗。エンジン起動ののち、オービタルリングへ……」

『いや、少し待てタマ。その前に、周りをよく見てみろ』

 妙ねえの声がヘルメットに響く。僕は何とはなしに、青に染まった周囲を睥睨した。

 そのとき。

 フッ――と、唐突に世界が暗転した。

 突然のことに反応できず、僕はその場で固まってしまう。

 ……なんだ、プールの照明が落ちたのか?

 一メートル先も見通せない暗闇が、僕の周りに停滞している。

 当然、アレンの姿も見えない。

 妙ねえに通信で呼びかけようとして――次の瞬間、頭上に浮かび上がった思いがけない光に、僕は思わず声を上げていた。

「地球……?」

 そこには、地球が浮かんでいた。

 青い海と白い乱雲に包まれた母なる星が、僕の頭上で煌々と輝いている。

 地球の淡い燐光は宇宙に広がり、遠くにあるオービタルリングの影を浮かび上がらせて――

「……うぶっ!」

 僕は、吐き気を催した。

『タマっ?』

 ヘルメットの通信機が水蓮の声で悲鳴を上げるが、それに構っている余裕なんてない。

 急速に広がっていく、どす黒い死のイメージ。

 いくら吸っても呼吸はできず、心臓がばくばくと胸を叩き始める。

 僕は立っていられなくなり、シャトルの手すりから手を放して、その場にしゃがみ込んだ。

「ウソ、だろ……? ここはプールだぞ。宇宙じゃないんだぞ……?」

 自分に言い聞かせるようにそう繰り返すが、何の効果も現れなかった。

 ただ、宇宙に地球が瞬いていて、そこにオービタルリングがあるだけで。

 どうして、こんなにも胸が苦しいんだ……!

『心拍数一五〇、呼吸微弱! ――試験中止よ! アレン君、早くタマを引き上げてっ!』

『り、了解!』

『プールの照明点けてきます! タマ、もう少しだけ待ってて!』

 耳の奥で様々な言葉が聞こえたが、耳鳴りが酷くて何も聞き取れなかった。

 ――やっぱり、僕は駄目なんだ。

 暗くて、寒くて、自由が利かない場所であれば、僕はすぐに宇宙を感じてしまう。

 それは水の中でさえ同じ。ここがプールの底だと知っていても、僕の心はあらゆるすべてを否定しようと、見境なく暴れ出してしまうんだ。

 宇宙どころか水中でさえ克服することができないようじゃ、宇宙飛行士なんて夢のまた夢。

 この心的外傷がある限り、僕はどこにも行けないし、何にもなれない――!

『落ち着いてください、タマ。ここは宇宙じゃありません。学校の一施設ですよ』

 そのとき。

 目の前に現れた青い球が、僕のヘルメットのバイザーをこつんと叩いた。

 僕は、目が覚めたときのような気分で――それを見る。

 夜よりなお濃い暗闇の世界で、それは、儚くも美しい青い光を放っていた。

「セ……レ、ス……?」

『まずは深呼吸をしましょう、タマ』

 セレスが透き通った声色で、穏やかに話し始める。

 青い球体の表面には、流星のようなノイズが走っていた。

『そういえば、タマは知っていますか? あなたの着ている宇宙服には酸素ボンベが二本装備されており、七時間以上の呼吸に耐えられます。また、万が一そのバルブが詰まったとしてもサブボンベが作動しますし、しかも常時二酸化炭素を吸着・除去するフィルターも設置されている。はっきり言って、地上より空気はおいしいはずなのです』

 味? ……そういえば、味なんて考えたこともなかった。

 僕は一度、大きく息を吸ってみる。……もちろん味なんかしないが、でも、なぜだか少しだけ、頭の中がクリアになった気がした。

『では、次は足元を見てみましょう。コンクリートの床ではありませんか? どうしてここがコンクリートの床なのか、なぜあなたはここにいるのか……ここ一時間でタマに起きた出来事を、思い出してみてください。記憶から、あなたが今いるこの場所を再認識するのです』

「記憶……なんで、僕はここにいるのか……」

 僕は呼吸を繰り返しながら、思い出す。

 水蓮に連れてこられたこと。

 ここはプールで、水着姿の妙ねえが印象的だったこと。

 アレンの奴が妙ねえにデレデレで……それで、僕は宇宙技能者試験の練習の途中なんだ。

『せ、セレスだって? ここは水深二十メートルだぞ、あいつは生身で潜ってきたのか?』

『しーッ、兄さんは黙って! セレスさんが今、タマと話してる』

 通信の奥で、アレンと水蓮の会話。この暗い水底のどこかにアレンが、そしてプールサイドには水蓮がいる。それを思い出して、僕はゆっくりとコンクリートの床から立ち上がった。

「……おまえ、こんなところまで付いてきたのか」

『当然です。約束したじゃないですか、わたしはいつでもタマと一緒にいるって』

 通信に割り込んで聞こえてくるセレスの声。水中でも変わらず表面に波紋を広げて喋るセレスの様子に、まるでここが地上であるかのように錯覚して、僕は少しだけ可笑しくなった。

『バイタル安定しましたね。もう大丈夫ですか?』

「ああ。……なんでだろうな。なんか、セレスがそばにいると変に気が抜けて困る」

『それは褒められているんでしょうか?』

 拗ねたように抗議の声を上げるセレス。僕はヘルメットの中で、ぎこちなく笑顔を作った。

「……でも、少しだけ分かったような気がする」

『何がですか?』

「僕が、その死のイメージから逃れる方法。うまく言葉にできるわけじゃないけれど……セレスを見て、声を聴いて、それでただなんとなく、大丈夫のような気がしたんだ」

『そうですか。それは何よりです。……タマに分かってもらえて、良かった』

 暗い水底で、そんな言葉を交わす。

 次第に明るくなっていくプールの底。天井の、地球の映像を映していたスクリーンは光を失い、深海のような暗闇は再び青い輝きを取り戻した。

『タマ、大丈夫? 本当に大丈夫なの? ……試すような真似をして、本当にごめん』

 泣きそうな姉の声がイヤホンから伝わる。僕は苦笑しながら、遠い水面を見上げた。

「荒治療が過ぎるよ妙ねえ。……でも、感謝してる。いろいろと吹っ切れたような気がするし」

 僕は一度目を瞑る。暗くなる視界。でも、不思議と恐怖心は湧き上がってこなかった。

 眼をゆっくりと開き、ヘルメットに映るAR情報を確認してから、僕はマイクに声をかけた。

「訓練を続けたい。なんでか、今は少しでも前に進みたい気分なんだ。もう少しだけ、僕の練習に付き合ってもらえないかな?」

『……ええ、もちろんよ。アレン君、スイちゃんもいいわね?』

 了解、という声が両耳から聞こえる。

 僕は胸の前に浮いていたセレスを片手で掴み、ヘルメットのバイザーにもう一度、こつんと軽く触れさせてから、その手を放した。

「では、受験番号一番、葛見環。試験を再開します」


 ◇ ◇ 


「……ふうん。そういうことがあって、もう十日もプールに入り浸りなんだ」

 ようやくパソコンでの作業を切り上げてこちらを向いたイリマ・マカイ・ノアが、感心したように鼻を鳴らした。

 僕は最近研究室に持ち込まれたらしい、中古の二人掛けソファに寝そべりながら、一部始終を語った余韻を溜め息として吐き出す。

「そのまま美談として終われば苦労なかったんだけどさ。……やっぱり、十日ぶっ続けでプールの中に潜るのは堪えるや。半年間の遅れを取り戻すってのは、そう簡単にいかないらしい」

「にゃはは、そりゃそうでしょう。努力ってのは研究と同じで、長く辛い道のりなんだよ」

 差し込んだ影に目を向けると、片手にコーヒーを入れた紙コップを持ったイリマが近づいていた。僕はソファに座り直し、ありがたく頂戴してその琥珀色に舌を付ける。火傷しそうなほどの熱さと、焙煎された豆の香り。普段なら敬遠しがちな夏のホットコーヒーだが、イリマの淹れるこれだけは別格だった。

 ここはイリマ・マカイ・ノアの研究所だ。夜勤を終え、GSSから降下してくる姉のお出迎えと、セレスの定期検査の待ち時間を兼ねて、研究所に寄ったところだった。

 僕とイリマの付き合いは、もう十年近くになる。

 妙ねえの同級生であり、また母さんの助手をしていたことで家族ぐるみの付き合いとなった僕とイリマの関係は、友人同士というより、もうひとつの姉弟のようだ。元々がハワイ出身でこの性格ということも手伝ってか、僕も遠慮を知らずに甘えてしまうことが多い。

 厳しい妙ねえと、甘いイリマ。いつの間にかそういう対比ができていて、辛くなるとイリマの元へ逃げてしまう僕の癖は、何年経っても変わることがなかった。

「それで、宇宙恐怖症のほうは克服できそうなの?」

 イリマが僕の隣に座って、首を傾げてくる。僕はもう一度、コーヒーを啜ってから答えた。

「……まあまあ、かな。明かりを消したプールの底では取り乱すことはなくなったけど、実際に宇宙へ上がってみたら、どうなるかは分からない」

「謙虚だねえ。プールで大丈夫なら、本番でも大丈夫だって気楽に思えばいいのに」

「プールではセレスがいるからな。本番ではセレスは持ち込めないから、少しだけ不安だよ」

 僕の口から自然とそんな言葉が出たからか、イリマは少しだけ驚いた様子で目を丸め、それからデスク上のモニターに映る、CT室の様子に視線を投げた。

「セレスちゃん、ねえ……この短期間で随分とタマの評価も上がったみたいで。さすがは……ってコトなのかねえ」

「それ、どういう意味だよ。……前から思ってたんだけどさ。イリマって、ひょっとしてセレスの正体に当たりがついているんじゃないか?」

 え、と顔が硬直するイリマ。嘘がつけない性格と言うのも考えものだ。

 イリマはばつが悪そうに眉をしかめ、探るような目で僕を見つめてきた。

「な……なんで、そう思うワケ?」

「世界中の研究者に相談したにしては、僕の周りが騒がしくならない。あんな解析不能な奇妙奇天烈機械が世間に知られたとなれば、分解させてくれと言ってくる研究者の一人や二人は出てくるだろう。それが何の音沙汰もないとくれば結論は一つだ。分解する方法がないか、もしくは、分解せずともセレスが何者なのか分かっているか。――違うか?」

「うぐ……、さすがは羽奈はな先生の息子。察しが良いなあ……」

 イリマは脱力してソファの背もたれに頭を預けながら、コップの中の最後の一口を啜る。ちなみに「羽奈」というのは、僕の母さんの名前だ。

 僕はソファに片膝をついて伸び上がり、イリマの顔を覗き込んだ。

「分かっているなら教えてくれ。セレスは一体何者なんだ。誰が作って、何をしようとしているんだ?」

「うーん、それは……」

 眉をハの字に寄せたイリマは、唐突にソファから飛び降りて、ぺろっと舌を出して見せた。

「開示制限コードってことで」

「はあ? なんだよそれ、教えてくれないのか?」

「まだキミには教えちゃダメだって、セレスを作った人がそう言っている気がするから。あー、いや、正確には、セレスを作った者を作った人の意志が、かな」

 さっぱり意味が分からん。

「でも、セレスがタマや、他の人たちに危害を加える気はないことだけは保証できるよ。あの子は本当にタマが好きで、タマのためになりたいと思って行動している。さまざまな景色をその眼に収め、記憶することもその一環。彼女の存在理由とは少しだけズレているかもしれないけれど、そうやって心を育てることも、制作者の一つの意図だったと思うんだ」

「心を育てる……だって? それってつまり、AIを、って意味か?」

 イリマは微笑んで首肯した。

 人工知能――AIは、二十一世紀にはすでに実用化されていたシステムだ。現代でも自律型のロボット製品に組み込まれる事例は多く、会話の受け答えができる程度は、もはや最先端技術とは呼べないほどに発達してきている。

「自己形成型AIって言うんだけどね。AIが自分の存在価値を得るために、自分自身を向上させようとするの。そういう子にはシンパシー・ニューラルネットワークという思考回路が組み込まれていて、言語化できない思考を得ることを目的にしているって話よ。一部の研究者の考えでは、シンパシー・ニューラルネットワークを持つAI同士は、実は言語アセンブリを介さなくても意思の疎通をしているとか、なんとか……私も専門外だから詳しくないけどね」

「……さらに輪をかけて門外漢な僕に、もっと短い言葉で説明してくれない?」

「んー、つまりね。セレスちゃんは、たくさんの記憶を得ることで、人間に近い思考を手に入れたいって考えているんじゃないかなってコト」

 なるほど、と少しだけ納得できた。

 自己進化を続けるAIが掲げる到達点として、ヒトに近づくというのはありそうな話だ。となると、セレスの普段のふざけた言語は、その結果の発露であるということになってしまうが。

「まあ、思考云々は私の予想だけどね。セレスに組み込まれたAIこころが、記憶を欲しているというところまでは真実だよ。それ以上の核心を話すことは、まあ、今後の制限開示コードの解除待ちってコトで」

「その制限開示コードを破ってくれれば、僕も幾分かはすっきりできるんだけどな」

 僕が口をとがらせると、イリマは両手をぱんと合わせて謝るポーズをした。

「ゴメンってば。それ以外のことなら、何でも教えてあげちゃうんだけどさ」

 何でも。……何でもか。

 僕は首を回して、研究所の壁に掲げられたコルクボードを見遣る。

 そこにピン止めされているのは、新古もばらばらな無数の写真たちだ。ほとんどが人物を写したもので、もちろん僕や水蓮が写った写真も多いのだが、中には僕の父さんと母さんが、妙ねえやイリマを含む研究所のスタッフと一緒に写っている写真も存在していた。

「……これ、いつ頃の写真?」

 僕が指さしたのは、色とりどりの人工衛星がずらりと並ぶ工場内を背景とした写真だ。白衣姿の母さんとイリマ、そして作業着を着た数名の男性が、その中の一機である純白の人工衛星に寄りかかって微笑んでいる。

 イリマはピンを外して写真を手に取ると、緩やかに微笑んで答えた。

「ああ、これ。地球外探査計画の写真だね」

「地球外……探査計画?」

「そう。地球以外に人類の住める星がないかどうかを探るため、二十三機の探査衛星を宇宙に飛ばしたプロジェクトだよ。そこに写っているのが、二十三機の衛星たちね」

 僕は再び写真を注視する。なぜこの写真が気になったのかは、正直分からなかった。

「2162年……お二人が亡くなるちょうど一年前かな。観測天文学者である羽奈先生が主導になって、二十三機の衛星たちをGSSから飛ばしたの。地球の重力加速を得るスイングバイの関係で、あと数日後に再び地球に最接近するんだけど、地球に近づくのはそれが最後。公転軌道とマニューバ航路に乗った二十三機の衛星たちは、それぞれの外宇宙へ旅立つわ」

 探査衛星は、地球へ帰還することを考えて設計されていない。飛ばしたら最後、その身が朽ちるまで宇宙を飛び続け、データだけを地球に送り続ける存在だ。

 どれだけ探査衛星と地球の距離が離れようとも、電波や光波は基本的には減衰しない。たとえ深淵の宇宙で新たなる星を見つけたとしても、一万光年先の恒星の光が一万年後に地球に届くように、その情報はいつか必ず地球に届き、人々に新たなる希望をもたらすだろう――。

「羽奈先生はそう言って、このプロジェクトを推進したのよね。そんな気の長い、ややもすれば有益か無益かも分からないような研究に投資する意味はあるのかって、セフィロトの上の先生方に随分イジメられたりもしたんだけど、結局、羽奈先生はやりきっちゃった。私もまだ助手に成りたての頃だったけど、頑として譲らない羽奈先生の演説姿は、今でもよく覚えているな」

 懐かしむようにイリマが言う。地球外探査計画なんて、僕は今まで全く知らなかった。

 そう言えば、オービタルリングのときもそうだ。僕は事故が起きたそのときまで、二人がどんな仕事をしているか知らなかったし、なぜ家に帰ってこないのかも考えようとしなかった。

 ただ、早く家に帰って欲しい一心だけで、二人の想いを顧みるようなことはしなかったんだ。

 ――人には、人の事情がある。

 ただ恨みを募らせるだけなんて、本当は間違っていたのかもしれない。

 ……本当は、今でも二人のことを考えると、ジクジクと胸の奥が痛むのだけれど。

 今の僕なら、少しだけ勇気が出せるような、そんな気がした。

「イリマ。もし良ければ、……父さんと母さんのことを、教えてよ」

 僕の言葉に、イリマは苦笑して首を傾げた。

「葛見さんと羽奈先生のこと? それは、私に聞かなくても知っていると思うけど……」

「いや……ここでのこと。ノアでどういう仕事をして、何を思ってマルクトを建設して、オービタルリングを作ったのか。そういう僕の知らなかったことを、知っておきたいんだ」

 イリマはしばしぽかんと口を開けていたが、やがて鼻から息を吐くと、研究所の隅にあるコーヒーメーカーへ二杯目を注ぎに向かった。

「そーねえ。私は羽奈先生の助手だったから、先生のことは詳しいけれど、葛見さん……お父さんのことは又聞きした程度の知識しかないよ。それでもいいの?」

 僕はゆっくりと頷く。イリマは紙コップを手にしたまま、コルクボードへ視線を向けた。

「葛見さんは建築工学博士で操縦士。羽奈先生は観測天文学と物理学の教授だったわ。葛見さんの上司はランディ所長で、セフィロトの主任技師を務めていた。……ここまではいい?」

 僕は再度頷く。イリマは続けて、

「葛見さんは、なんていうか……んー、いろいろと融通の利かない人だったね。コレと決めたら一直線、って感じの人だった。だから、マルクトやオービタルリングの建設に向いていたんでしょうけど。……宇宙に賭ける想いは、人一倍強い人だったよ」

 イリマはコルクボードの写真に触れながら、思い出すように言葉を紡ぐ。

「一方の羽奈先生は、優しい人だったな。星を見るのが好きでね、よくマウナケアの展望台に人を集めて、望遠鏡を覗いていたっけ。あれは何座だ、これは何座だってしつこいくらいに解説して、みんなをドン引きさせて……最後までその話を聞いていたのが、葛見さんだった」

 コルクボードのピンを抜いて、イリマが一枚の写真を取り出す。それは満点の星空の下、まだ十代半ばの妙ねえとイリマの肩を抱く、父さんと母さんが中央に写った写真だった。

「二人はいつも妙奈とタマの話をしていてね、ちょっとだけ悔しいなあって思った時期もあったっけ。でも、二人はそれくらい、マルクトの建設に賭けていたんだと思う。いずれ来る地球脱出の日のために、人々を――妙奈とタマを安全に宇宙へ送るシステムを作るんだ、って話していた。……二人はいつだって一生懸命で、いつでも妙奈と環の幸せを願っていたよ」

 イリマは写真を手にしたまま、複雑な表情で僕を見た。

「正直、オービタルリングでの事故の詳しい内容は分からない。でも、あの二人はきっと最期まで、妙奈とタマのことを心配していたと思う。そして同時に、いつか二人が宇宙へ上がってくることも楽しみにしていたはずだよ。だって、あんな居住性の良いGSSを作る必要なんて、本来ならないんだもん。あの二人はね、きっと誰よりも宇宙が好きで、……そして、それ以上にひとが好きな人たちだったんだよ」

「ひとが、好き……だった?」

 僕はオウム返しにしてしまう。イリマは頷いて、写真を僕に手渡した。

「人のために、何かを成す。子どものために、未来を繋ぐ。そういう考えが、二人を突き動かす原動力になっていたんだと思うな。確かに結果は残念なことになってしまったけれど……あの人たちは後悔していない。妙奈と環が生きていく礎を作ったことを誇りに思っているだろうし、そして……タマも、そんな二人のことを誇りに思って生きてほしいよ」

 僕の手に重ねられる、もう一人の姉の手。

 その手はとても暖かく、想いが伝わっているかのように心地よい感触だった。


 ◇ ◇ 


 二十五日――宇宙技能者試験、当日。

 試験はペーパーテスト、体力テスト、そして実技試験の三項目で構成される。

 ペーパーテストは基礎的な教養と応用分野の理解度を確かめるもの。志望資格により多少内容が変化するが、必要最低限の知識さえ習得しておけば問題はない。

 体力テストは、宇宙活動をする上での基礎体力や平衡感覚、身体能力の確認のために実施される。ふるいにかけられるような種目ではなく、これも戦々恐々とするようなものじゃない。

 一番の問題は、実技試験。

 その資格に合った素質を確認するための試験であり、同時に個人の才能が露見する場でもある。将来の志望資格が決まっている訓練生にとって、一番の障害と言えるだろう。

 特に技術士系の志望者と、操縦士系の志望者にとって厳しいのは、その試験は本物の宇宙で実施される、ということだ。

 試験の内容は、オービタルリングの管理作業をワン・ルーチン。言葉で並べれば簡単そうに聞こえるが、小型艇の操縦やロボットアームの操作工程、そして何より「ここが本物の宇宙である」という恐怖とプレッシャーこそが、訓練生を悩ませる最たる理由だった。

『――受験番号十四番、ジェームズ・ドナセラ。そして十五番、エギル・サゥ。……試験終了だ。モビリティ・シャトルから降りて、控え室エンタールームにて待機するように』

『了解しました』

 エンタールームの前面に設えられた巨大モニターの中で、試験官の命令にジムが答える。

 モニターに映っているのは、モビリティ・シャトルの内部で舵を取るジムたちの様子と、今まさに宇宙空間の接舷用モジュールへ着岸しようとしているモビリティのカメラ映像である。モビリティは音もなくモジュールとドッキングすると、しばしの後、搭乗ハッチを開放させて、中から宇宙服に身を包んだジムとエギルの姿を吐き出した。

「おー……、これは、完璧じゃない?」

 エンタールームに集合していたクラスメイトの一人が、驚いたように声を上げる。実技試験の開始からすでに三十分。試験官の命令をすべてミスなく達成させたジムとエギルの様子に、クラスメイトの誰もが感心しているようだった。

「ねえ、見たタマ? ジムの実習、すごかったね?」

 それは宇宙服姿の水蓮も同じのようで、心なしか頬を上気させている。僕は宇宙服の上から武者震いのする足を必死で押さえつけながら、水蓮を睨み付けてやった。

「すごかったのは認める。……けど、僕はそれよりも、次の自分の番のほうが心配だよ」

『タマの脚、ガクガクじゃないですか。落ち着いてください。手に人って字を三回書くと――』

「セレス、それはもう散々やった」

 都合三十回以上書いたけれど、今のところ効果は現れていない。僕は部屋の窓から遠くに映る地球の輝きを眺めながら、自分の宇宙恐怖症が目覚めないことをひたすらに祈っていた。

 ここは地上から高度約4万4000キロメートル、GSSから8000キロほどシャトルを乗り継いだ先にある軌道エレベーターの終着点、通称「オービタルリング制御ステーション」の一室である、エンタールームだ。

 オービタルリング制御ステーションは名前のとおり、地球の上空を周回するオービタルリングの制御を管轄する軌道ステーションのひとつで、同時にオービタルリングが軌道エレベーターに接触している「点」のひとつでもある。この制御ステーションがオービタルリングの校正や回転制御、太陽光パドルの調整を行うことで、地球に多大な恩恵を与えているというわけだ。

 当然、オービタルリングへの物理的接触も、このステーションから始まるのは自明のわけで。

 操縦士および技術士資格を希望するクラスメイト十七名が、試験の順番待ちのために、このエンタールームへと集められていた。

 いや……正確には、今部屋にいるクラスメイトは十五名。ジムとエギルが試験を終え、ここに戻っている最中だ。ちなみに水蓮の受験番号は十六番で、僕の番号は十七番。いわゆる最終滑走組である。僕たちを除くクラスメイトは皆、試験を終えているので、どちらかというとエンタールームには弛緩した空気が流れているのは確かだった。

 だが、もちろん僕には余裕はない。

 僕が最終滑走組になった理由はもちろん、僕が一番下手だからだ。

 実技試験は通常、二人一組で行われる。モビリティ操縦を受け持つのが操縦士志望の仕事で、オービタルリングの調整作業をロボットアームで行うのが技術士志望の仕事。つまり、二人の内、どちらか片方がミスをしただけで、もう片方の評価も落とす結果になりかねないのだ。

 宇宙飛行士に最も大事なものはチームワークだ、というアレンの言葉が頭をよぎる。試験官は、そういう訓練生同士の連携も採点対象に含めているらしい。複数名いる試験官は全員がノアの職員ではなく、ある意味部外者であるNASADの職員で構成されているため、僕たちが今まで積み重ねてきた努力は考慮される余地がない。

 つまり、宇宙技能者試験は、結果がすべて。

 プレッシャーを感じるなと言うほうが、無理というものだった。

「……顔が青いぞ、大丈夫なのか」

 肩越しにかけられた声に、僕は慌てて顔を上げる。そこには宇宙服を着たジムの姿があった。

「ああ……戻ってきていたのか。上手かったな」

「お世辞にも思っていないことを。……まあ、自分でも会心の出来だったと思うけどな」

 普段は滅多に笑わないジムが、にやりとした笑みを浮かべる。よほど満足いく結果だったらしい。僕はジムから目を逸らして、無重力に浮く水蓮へ声をかけた。

「そろそろ僕たちの番だ。行こう」

「……うん」

 緊張した面持ちで水蓮が頷く。浮遊する通信機内蔵のヘッドセットを手元へ引き寄せ、頭の上へ。僕たちを見送るジムが、冷徹な目をこちらに向けながら声を発した。

「期待はしないでおく。俺たちは、数少ない操縦士の枠を争うライバルだからな」

「……僕だって、今まで努力してきたんだ。負けるつもりはないよ」

 最後にヘルメットを被って、首の金具で固定する。さすがに水中用の宇宙服とは違う感覚だ。それでも僕は竦む足を奮い立たせて、屋外へと続く廊下へと浮遊を開始した。

「セレスはそこで待っていろよ。練習の成果を見せるからな」

『頑張ってくださいね。タマの勇姿は、ここからしっかりと記憶しておきます』

 セレスがノイズを走らせながら言う。こんなときまでいつもの調子であるセレスの態度に少しだけ頬を緩ませつつ、僕と水蓮はモビリティ・シャトルへの道を急いだ。


 ◇ ◇ 


 軌道エレベーターを取り巻くドーナツのように配置されたオービタルリング制御ステーション。その側面に設置された接舷用モジュールに、モビリティ・シャトルは貼り付いていた。

 僕と水蓮は宇宙空間に躍り出て、モジュールの上に立つ試験官の前に整列する。

『受験番号十六番、曙月水蓮。それに十七番の葛見環だな。両名、これより試験を開始する』

「はい!」

 僕と水蓮の返事に試験官は頷くと、次に少し離れた位置にいる別の試験官や、レスキュー要員たちにジェスチャーで合図を送った。

 試験官の数は全部で四名、レスキューは八名。全員が宇宙遊泳用推進装置SAFERを装着済みだ。当然だが、全員が白い宇宙服を着ているので、その表情はほとんど見えない。それが返って、僕の目には不気味に映る。

『では、各員速やかにモビリティ・シャトルへ搭乗。オービタルリングの6番ユニットへ接舷し、管理パネルからデータチップの換装作業を行え。完了までの時間制限は、一時間だ』

 ……一時間。

 その、たった一時間の中に、僕は練習の成果をすべて詰め込まなければならない。

『これが換装用のデータチップだ。私の手から受け取った瞬間より、時間の計測を始めるぞ』

 試験官が白い手袋に包まれた手を差し出す。摘むように持っていた三センチほどの小さなカードが、僕らの命運を握るそれだ。僕と水蓮は互いに頷き合い、水蓮がそれを受け取った。

『では――計測開始』

 僕と水蓮は床を蹴る。命綱の感触を確かめつつ、無重力の中を一足飛びにモビリティ・シャトルへ。僕が先にモビリティの搭乗口に張り付いて、チップのせいで右手が塞がっている水蓮へと手を伸ばす。掴んだ水蓮の手は宇宙服の感触がしたが、それでも僕は強く引いた。

『ありがと。でも、慎重にね』

 ヘルメット同士が触れるほど近づいた水蓮の顔が、バイザー越しに唇を動かす。通信機を経由しているはずなのに、直接言われたかのような感覚だ。僕はハッチの扉を開きながら、

「大丈夫、落ち着いているよ。練習したことは忘れていない」

 水蓮が眼だけで頷きを返すと、その表情はすぐに凛とした真剣なものへと変わって、先にハッチの中へと消えていく。僕もその背中を追いかけ、シャトルの中からハッチを閉めた。

「葛見環よりマルクト管制室へ。これよりモビリティ・シャトルの操縦を行います。目的はオービタルリングのデータチップ換装作業。ペイロード、宇宙飛行士2。データチップ1」

 僕はヘルメットのマイクに声を発しながら、シャトルの操縦席へ移動する。シャトルの内部は円筒状で、幅二メートル、奥行き三メートルほどの窓のない閉鎖空間。あちこちに取り付けられた計器類とモニターのせいで、まるで万華鏡の中にいるみたいだ。

 水筒の底には一脚だけ椅子があり、そこにあるのが操縦桿だった。僕が椅子に座ったところで、イヤホンに反応が返ってきた。

『こちらマルクト管制室。葛見環訓練生、操縦を許可します。ユーハブ・コントロール』

「アイハブ・コントロール。計器類、燃料系の正常を確認。電源起動まで三、二……、一」

 ゼロ、の声と共にスイッチを押し込む。

 低い駆動音と共に計器類のメーターが大きく触れ、七つのモニターが光を灯した。

 機外に取り付けられたカメラが映す七つの風景は、軌道エレベーターがひとつに、接舷用モジュールがひとつ。試験官が乗っていると思われる別艇のシャトルも映っている。残り三つは地球と月と何もない空間で、最後の一つがオービタルリングを映していた。

 宇宙の彼方まで、延々と数珠状に繋がる人工衛星の群れ。全長十メートルもある巨大な銀鏡が、三十万基以上も地球を取り巻いているなど想像もつかない話だ。

 そんなものが、この僕の眼前に存在している。現実離れしたその光景に、僕は背中がぞくりと泡立つのを感じた。

「大丈夫。……大丈夫だ」

 無意識の言葉を、僕は自分に言い聞かせる。これは、真っ暗なプールの中で何十回と見てきた光景じゃないか。それがプロジェクターの映した虚像だったとしても、積み重ねてきた経験は嘘じゃない。

 それに、この試験の様子はリアルタイムでGSSやノアにも放送されている。つまり、妙ねえやイリマ、もしかしたらアレンも観ているかもしれないんだ。

 支えてくれたみんなのためにも、決して失敗するわけにはいかない。

「……モビリティ・シャトル、オービタルリング6番ユニットまで移動します」

 メインカメラの映像とAR情報を頼りに、僕は操縦桿をゆっくりと前へ倒す。

 後部のイオンスラスターが色のない炎を噴いて、シャトルは音もなく前へ進み出した。

「移動開始しました。このまま速度を維持」

 冷たい無音の中を、僕たち二人を乗せたシャトルがゆっくりと進んでいく。耳が痛いほどの静寂。気泡の舞うプールの底とはまるで違う空間であるという事実を、僕は改めて実感する。

『タマ、良いよ。まっすぐ6番に向かってる』

 しばらくのあと、僕の肩越しに水蓮の声。僕はモニターから目を離さずに頷く。

「距離が二五〇を切ったら前方のスラスターを噴出し、徐々に制動をかける。……大丈夫、プールで水蓮と訓練したとおりだ。大丈夫、問題ない……」

『タマ? ……ひょっとして、緊張してる? まだ時間はあるから焦らないで』

 心配そうな声が聞こえたが、僕は集中するため、返事をすることを諦めた。

 ……水蓮だってそうだ。僕と共に一週間以上、あのプールで練習した。自分の受験番号を後ろのほうに調整したのも、試験で僕のパートナーを務めるためなんだ。

 この試験は連帯責任。僕がミスをすれば、水蓮の技術士資格も遠のいてしまう。

「だから、失敗できない。……大丈夫。大丈夫だ。いつも通りやれば、僕は絶対に大丈夫……」

 呪詛のようにつぶやき続ける。まるで神に祈り続けるように。

 気づけば、ヘルメットの中は僕の汗粒でいっぱいだった。

 踊るように浮遊する汗の水滴が鬱陶しい。宇宙服に付属しているリモコンを操作して、ヘルメット内の湿度を低下させる。いつの間にこんなに汗をかいていたのか。額を腕で拭いたいが、空気のないこの場所ではヘルメットを脱ぐことはできない。

 知らずのうちに、胸の鼓動を感じている自分がいた。

 なんで、こんなに心臓の音がうるさいんだろう。

 僕は、本当に大丈夫なのだろうか?

『見えたよ、6番ユニット』

 水蓮に言われて、気づく。

 目の前には、巨大な鏡を背負った小さな立方体。

 躯体中にアンテナを生やし、地球にパラボラアンテナを向け、数珠の糸となる一本のケーブルだけでその体重を浮かせ続けているそれこそが。

 宇宙に漂う三十万基のうちのひとつ――オービタルリング・ユニットが、すぐそこに迫っていた。

「――ッッ!」

 僕は、操縦桿を引っ張った。

『きゃああッ?』

 急激に噴射される前方スラスター。シャトル全体ががくんと揺れて、水蓮が椅子にぶつかってくる。

「水蓮ッ? 悪い、大丈夫か? ……くそっ!」

 完全に操縦桿を引くタイミングを逸した。スラスターの噴射が強すぎて、シャトルの航行軌道が右へ逸れる。このままでは6番ユニットの鏡――太陽電池パネルへ一直線だ。

「えっと、とりあえず減速だ。制御スラスターを使えば大丈夫。難しい操作じゃない」

 操縦桿の横のオートコンディションを起動して、自律制御。レーダーと計器を見ながら、軸を水平レベルに調整する。モニターを覗き込むと、オービタルリングの輪が遠くまで見通せた。


 これが――父さんと母さんが、最期に見た光景なのか。

 何の音もない宇宙で、

 何も気づかないうちに、

 無数の作りかけのオービタルリングたちと共に、

 秒速十二キロで飛来する流星群に引き裂かれて――


 目の前で、光が弾けた。


「うわああああぁッッ!」

 ヘルメットの中に響く絶叫。

 胸から噴き出した黒い染みが、視界すらも真っ暗に染めていく。

 墜落するシャトルを幻視する。

 砕け散る肉体を幻視する。

 圧倒的な死のイメージが、宇宙のありとあらゆる存在をことごとく業火に包んでいく――!

『タマっ!』

 水蓮の叫びが聞こえるが、何も見えない。僕は無重力に身を投げ出す。

『どうした十七番? 葛見環っ! 十六番、状況を報告しろ!』

『タマが、また錯乱して……ッ! い、いえ、十七番がPTSDを発症、試験の継続は困難です! 救護班の要請をお願いします!』

『了解した。しかし、シャトルが無軌道に回転していて、そちらに取りつくことができない。十六番、操縦を代わり、姿勢を安定させるんだ! オートコンディションのBCSを使え! 赤いパネルだ、分かるか?』

『はい! ……BCS起動、制動をかけます! タマ、しっかりしてッ!』

 身体が誰かに揺さぶられる感覚。だが、僕の感覚は四方に分散している。

 どうして、父さんと母さんは死んだんだろう。

 どういう気持ちで、最期の瞬間を生きたのだろう。

 僕や妙ねえ、イリマや水蓮、……いや、ヒロヒロのみんなだけじゃない。見ず知らずの誰かを生かすため、一生を捧げるほどの気持ちで宇宙を目指した二人だったんだ。

 宇宙が好きで、人が好きで。

 だからこそ、その理想を追いかけていた二人は。

 宇宙に裏切られて、消えてしまった。

 宇宙は、人にとっての天国なのだろうか?

 それとも、人にとっての地獄なのだろうか?

 もしも、そこがどちらでもあって、どちらでもないとしたならば。

 宇宙は、――人が死ぬためだけの場所だ。


 ◇ ◇ 


『タマっ!』

 直接脳へ響いた声で、僕は我に返る。

 風景がモビリティ・シャトルの中じゃない。室内照明の灯りに溢れた広い場所。無重力であることは変わりがないが、そこがエンタールームの次の部屋、屋外へ出るハッチの直前にある減圧室エアロックであることに気付いて、……僕は、すべてを理解した。

『……タマ、大丈夫ですか?』

 傍らには、青い球体が浮かんでノイズを走らせている。僕は手を伸ばし、邪魔なヘルメットを脱ぎ捨ててから、セレスの硬い表面に宇宙服の手袋で触れた。

「ごめん。……本当に、ごめん」

 宙に、涙の粒が浮かぶ。

 一度こぼれた涙は、そう簡単に留めることができない。

 それを見た、少し離れた場所にいたジムが、冷たい声を発した。

「無様だな」

 僕は唇を噛む。何も言い訳はできない。ただ、涙を流していることだけが悔しい。

「水蓮は試験官の元に状況報告へ行ったぞ。……あいつは、お前の代わりにモビリティ・シャトルを運転して、ひとりでデータチップの換装を終え、そしてまたここまで戻ってきたんだ。自分ひとりの力だけでな」

「う、嘘だろ……?」

 僕は驚いて目を見張る。ジムは思い返すように横を向いて、

「連帯責任で自分の評価を落としたくなかった……というより、前後不覚に陥ったお前の評価に少しでもプラスになるように、という一心だったように思うな。水蓮は、連帯責任をネガティブに捉えていなかった。むしろポジティブに、パートナーをフォローできる制度のように考えていやがったんだ。……すごい奴だよ、お前なんかよりな」

 ……言葉が出なかった。

 確かにプールでの訓練中は、そんな話をしていたように思う。僕が何かのミスをしたら水蓮がフォローするし、水蓮がミスをしたら僕がフォローする。そのための二人一組なのだから、お互いの役割や作業内容をもっと深く知っておこうと、あいつはよく主張していた。

 もちろんそのとき僕は頷いたが、正直、水蓮の作業を取って代わろうなどとは思わなかった。

 僕は自分のことだけで精いっぱいなんだ。足りない経験と、いつ発症するか分からない精神疾患。そんな爆弾を抱えた自分を、ややもすれば不幸だと、鬱屈していたくらいなんだ。

 だが、水蓮は違った。

 真の意味で、僕と一緒に合格しようとしていたんだ。

 しかし、試験は終わった。

 僕の評価が覆ることは、おそらくない。

 ただひたすらに、僕のために尽力してくれた幼馴染みに。

 僕は、取り返しのつかないことをしてしまったのだ。

「今のお前は、最悪だな」

 ジムは、唾棄するように言った。

「自分のことしか考えず……なのに、自分のことも守れない。そんな奴に、宇宙飛行士になる資格はないだろう。お前のような奴に人類一億人の命を預けられるなんて、一体誰が思える? 自分自身が固まってもいない奴に、一体誰が命を預けてくれると思うんだ」

 そして、まるで目も合わせたくないとでも言うように背を向けて、

「お前なんかに、誰が操縦士の枠を渡してやるもんかよ」

 その一言とともに、ジムは減圧室を出て行った。

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