第2話


 カーテンの隙間から差し込む朝日に、僕は否応なく覚醒を強いられた。

 自分の身体を包む毛布を掻き抱いて、ベッドの中でまどろみながら述懐する。

 えっと……昨日は何がどうしたんだっけ。

 確か、半年ぶりに学校へ行って、アレンに三下り半を叩きつけて、妙ねえとケンカして、夜のマルクトを見に行って、それから、それから……。

 薄く開いた網膜が映す視界の中、部屋の片隅に青色の球体が転がっているのを見つけた僕は、

「そうそう、あんな感じの青い球が――ああああッ?」

 低血圧に無理やり火箸を入れられたような超反応で、ベッドの上から跳ね起きた。

『おはようございます、タマキ。気持ちの良い朝ですね、たぶん』

 滑らかな表面にノイズを映しながら、電子音の声を響かせる青い球。僕は背後の壁に背中を押しつけながら、その摩訶不思議物体を睨み付ける。

「どうしておまえが僕の部屋の中にいるんだ? それに、なんだよ、たぶんって」

『互いに自己紹介をした後、タマキがこちらへ来られたので、わたしも後をついてきたんです。それと「たぶん」とは、カーテンが閉じられていて外の天気が見えないけど、カーテンの隙間から陽光が漏れているし、インターネットの天気予報も今日は晴れと言っているのでたぶん気持ちの良い朝なんだろう、を総括しての「たぶん」です』

「おまえ、ずいぶん面倒くさい物体だな」

『お褒めにあずかり恐悦至極』

 とりあえず言動に異常が見られるのだけは理解した。

 ……そうか、夜の草原でコイツに出会った後、妙ねえから携帯に電話が来て……それで、とりあえず家に戻ってベッドに潜り込んだんだった。

 草原からの帰り道は、妙ねえからどんなカミナリを落とされるかで頭がいっぱいになっていたせいで、コイツの存在は完全に無視していたのだ。妙ねえとの再戦を控える中で、こんなUMAな存在のために思考のリソースを割きたくなかった、というか。

「って、おまえ、自力で移動できるんだな……」

『ボール体型ですから。転がることだけは得意です』

「ほほう。それで、隙を見て窓から侵入したとでも? えらく堂々とした住居不法侵入だな」

『昨夜会っていた長髪の女性はタマキのお姉さんですか? 美人だけど怖そうでしたね』

「その点については同意しよう」

 おまえがどうやって人間の機微を見抜いているのかは謎だがな。

 僕はすっかり目が覚めてしまったことに嘆息しつつ、ベッドの端に座り直して球を見た。

「……そもそも、なんで僕んちに来てるんだ、おまえ?」

『おまえではなく、セ・レ・ス、です。タマキが付けてくれたわたしの名前、お忘れですか?』

 少し拗ねたような口調で青い球が言う。その声色は、十代から二十代くらいの若い女性そのものだ。話し方も流暢で、合成音声特有の癖もない。こいつが機械だとしたら学習AIが言葉を選んでいることになるが、それにしては語彙力が無駄に豊富すぎた。

「もしかして、コイツは単なるスピーカーで、実は誰かが無線で喋っているとか……?」

『いえ、遠隔操作ではありません。言動はすべてセレスが考え、セレスが実行に移しています。言葉遣いが多少おかしいのはご容赦ください。拙者、日本の時代劇が好きなもので』

「時代劇? う、嘘だろ?」

『嘘です』

 蹴っ飛ばしてえ。

『わたしがタマキについて来たのは、タマキのことが直感的に気になったからです』

 青い球――いや、セレスは、僕の最初の問いに素直に答えた。

「直感的って……、おまえは初めて見た人間にくっついていく習性でもあるのか?」

『いえ、そうではありません。言葉にするのは難しいのですが、何というか、そうすることがわたしの目的を達するのに一番の近道だと、そう感じたものですから』

 なんとも歯切れの悪いセレスの回答。こんな球体と会話が成立している時点で奇妙なことに変わりはないが、その奇妙な言い回しの中に浮かんだ言葉が気になって僕は訊ねた。

「目的か……。お前の目的って、何なんだ?」

『記憶することです』

「記憶?」

『わたしのメモリーをいっぱいにすること。この世界をこころに留めておくことです』

 なんとも抽象的な話だった。

 メモリー、と言うからには、コイツが機械的な記憶媒体を、その球体の中に搭載しているというのは間違いないと思うが――。

「この世界を……ねえ。その言い方だと、何か特別なものを記憶するワケじゃなさそうだけど」

『はい。記憶する対象に縛りは設けられていません。街の風景でも、人々の会話でも、天気の移り変わりでも――わたしが見て感じたことすべてが、記憶の対象になります』

「ふーん……そんなにいろんなものを記憶して、どうするんだ?」

『うーん……どうするんでしょうねえ』

 セレスは躯体を十五度ほど傾けて、首をひねるポーズ。僕はちょっとだけ額に青筋を立てた。

「茶化してごまかすな。吐いたほうが楽になるぞ」

『本当に知らないんですよ。ただ、【ピ――】している痕跡は確認できるんですけどね』

「おぉ?」

 突然セレスから鳴り響いたブザー音に僕は驚く。当の本人も一瞬ハッとしたように硬直し、

『あ、たぶん開示制限コードに引っかかったんですね。まだセレスが【ピ――】するのは早いぞって、【ピ――】が【ピ――】しているんだと思います』

「おいおい、何を言っているのかさっぱりだぞ。そのピー音は外せないのか?」

『わたしの意志では無理ですね。ただ、いずれその時は来ると思います』

 いずれその時は来る……か。何とも意味深な言葉だが、それを今考えたところで詮方ない。

 結局コイツに関して分かったことと言えば、核心的な部分はその開示制限コードに阻まれよく分からない、ということだけだった。

「ったく、何が相互理解だよな。こうやって話してみても、おまえの正体どころか、謎の青い球ってところから何の進捗もしないんだから」

『そうですか? でも、こうやって話をしたことは、わたしの記憶の一部になりました。わたしの目的は着実に進捗していますし、タマキも少なからず得るものがあるのではないですか?』

「得るものって……」

 この短い会話で、僕が一体何を得たというのか。多少の鬱憤を獲得したくらいだ。

「おまえも記憶の取捨選択はしたほうが良いと思うぞ。この程度の会話を逐一記録していたら、おまえのメモリーもあっという間に満タンになっちまうだろうに」

『いえいえ、この程度、なんてことはないですよ。いろいろと貴重な記憶です。タマキの寝顔やら寝言やらも、セレス内蔵のカメラとマイクでバッチリクッキリ撮影させてもらいましたし』

「なッ? お、おま、何を勝手に……!」

 僕は立ち上がって、この球のどの部分にチョップをすれば記憶が飛ぶのかの思案を始めたちょうどそのとき、何の前触れもなく僕の部屋の扉は蹴破られて、

「さっきからうるさいなピーピーと! 腹でも壊したかタマ!」

 いまだにパジャマ姿の妙ねえの怒号で、今日も一日が始まった。


 ◇ ◇ 


「セレス、ねえ……?」

 妙ねえがセレスをまじまじと見て放った第一声が、それだった。

 窓から朝日の差し込むリビング・ダイニング。僕が昨夜ビンタを食らったソファの裏手には、パンとサラダだけの簡素な朝食が乗ったテーブルと四脚の椅子が配置されており、それぞれの椅子には僕、姉、水蓮、そしてセレスが腰掛けて(約一球ひとたまの表現に悩むが)いた。

 出勤用のスーツに着替えた妙ねえは、テーブル上のバスケットに並べられた食パンのカットを口の中に放り込みながら、今度は僕に不機嫌そうな視線を向けてくる。

「どこで拾ってきたのよ。世話できないんだから、イキモノはダメだって言ったじゃない」

「どう見てもイヌネコの類じゃないだろ。というか、別に飼うつもりもないけど」

『そんな! わたしのことは遊びだったんですか?』

 そんなベタベタな返しに反応する人間は葛見家にはいない。唯一、この食卓においてどのような役割であるべきにかに内心悩んでいる水蓮が、あははと乾いた笑みをこぼしていた。

「しっかし、見れば見るほど精巧なつくりしてるねえコレ。材質はなんだろ」

 妙ねえが隣の席に置かれたセレスの躯体をコンコンとノックする。硬質な小気味良い音だ。

 球体の表面は微妙に透き通っているように見えるが、内部は密度の濃い青に満たされており、機械的な部分のかけらも見つけることはできない。手触りとしてはアクリルに近いが、それよりも金属的で軽量だ。暖かくも冷たくもないつるつるの表面を撫でながら、水蓮がつぶやいた。

「本当に何なんでしょうね。ご本人は知らないんですか?」

『わたしにも分かりかねます。ガンダリウムではないとは思いますが』

 ガンダリウムがなんだか分からない僕たちは総出でスルー。妙ねえは悩むような仕草で口に手を当てると、目を細めてセレスを見た。

「不可思議な材質に、不明確な知識と、不可解な目的を持った未確認物体か。ふむ、技術研究者の端くれとしては興味が惹かれないワケがないな。一度、分解して中身を見てみたいわ」

『本人を前にサラリと恐ろしいこと言いますよね』

「でも妙奈さん。この子、ネジとか継ぎ目とか全然ないですよ。解体は無理じゃないですか」

 水蓮が言うと、妙ねえは思案顔のまま、

「うーん、納屋にあった古いチェーンソー、まだ使えるかな」

『タマ、あなたのお姉さん、美人だけど怖いですね』

「バカ。それを言うなら、怖いけど美人ですね、にしとけ。本気で真っ二つにされるぞ」

 テーブルの陰で声を潜めて話し合う僕たちだった。

「でも、ちゃんと調べるべきだというのは本当よ。ノアなら検査機器も揃っているし、コレの正体を知る研究員もいるかもしれない。それに、開示制限コードがプログラム的な制約なら、プロテクトの解除もできると思う。いずれにしても、ノアへ連れて行くのが賢明だわ」

「まあ、確かにな」

 僕は頷く。そもそも、未確認物体を見つけたらノアに届け出るのは決まりなんだ。昨日の夜の時点でも頭の片隅にあったこの原則を、ノアの職員たる妙ねえの前で破る道理はない。

「じゃあ、コイツのことは妙ねえに任せるよ。ちょっと不安だけど」

「よし、任されました。……ちょっと不安ってどういう意味よ」

 姉のジト目に苛まれそうになったそのとき、水蓮が壁掛け時計を見て立ち上がった。

「あ、もうこんな時間だよ。タマ、そろそろ出ないと学校に遅れちゃう」

「えー……行くの?」

 途端に全身を倦怠感が満たしていく。水蓮は、僕がアレンに言った言葉をまだ知らないみたいだった。知らないがゆえに純粋に僕を学校に誘うのだろうが、仮に知っていたら、知っていたでまた面倒臭いことになるだろう。そういう意味では、僕は面倒臭い運命から逃げられない巡り合わせにいるらしい。……それに、

「タマ。学校に行かなかったら……またブン殴るからね」

「……分かってるよ」

 鬼よりも怖いウチの家長を、まだ説き伏せる自信はないしな。

 僕はしぶしぶの体で椅子から立ち上がり、ソファに投げ出されていた通学バッグを掴むと、振り返って青い球に言葉を投げた。

「じゃあなUMA。今度会ったら、ノアで解体されたときの記憶を教えてくれよ」

『はい、嫌です。わたしはタマと一緒に学校へ行きます』

「ははは、そうか嫌か。おまえでもやっぱ解体は嫌だよな……って、今、何つった?」

 僕は目を見開いてセレスを見る。セレスは表面に青いノイズを走らせて繰り返した。

『だから、学校へ行くって言ったんです。わたしはタマについていきます』

「おいおい、キミねえ……学校がどういうトコだか分かってんの?」

 呆れたように妙ねえが言うと、セレスは椅子の上で百八十度回転して妙ねえに向き直った。

『学習する場所ですよね。ハワイ島に存在する学校はひとつなので、行き先は州立メトシェラ訓練学校と推測します』

「分かってんならなおさらでしょ。生徒たちの勉強の妨げになるし、それに……」

『ご心配には及びません。第一、解体するとか言われて、進んで自殺しに行く球はいません』

 ちょっとだけ怒ったようにセレスが言う。妙ねえは自分の黒髪をがしがしと掻いて、

「あー、それは言葉のアヤでさ。できるだけ解体しないように努めるって。それに、キミ自身も自分の出自とか、製作者が誰だとか、いろいろ知りたいことが分かるかもしれないぞ?」

 なだめるような口調だが、解体しないとは言い切らないのが妙ねえらしい。

 セレスはころりと転がると音も立てずにカーペットに着地し、僕の足元へと軌道を描いた。

『セレスの行動はセレスが決めます。今のわたしに必要なことは、タマと一緒にいることです。それ以外のことはすべてが些事。たとえ誰に命令されようとも、この考えは変わりません』

 泰然としたセレスの言葉には、絶対に譲らないという強い意思を感じる。

 思いがけない迫力に一瞬怯んだ妙ねえだったが、すぐに気を持ち直して強権を発動させた。

「命令しているのはタマの姉であるこの私よ。いいから私と一緒にノアへ来なさい!」

 テーブルを叩いて威嚇する姉。セレスは無いはずの口からわざとらしく溜め息を吐いて、

『……ハア、面倒くさいお姉さんですね』

「ああん、今、何つった?」

『仕方ありません。……お姉さん、ちょっとだけこっちにいいですか?』

 セレスが妙ねえに近づいて、台所のほうへと誘導していく。不満げな表情を隠そうともしない姉だったが、とりあえずは素直にセレスに従って台所の陰へと消えていった。

 そして、一分後。

「――しょーがないなあ。本来はノア直行なんだけど、今回だけは特別だからね!」

 にこやかな笑みを浮かべて台所から出てくる姉の姿がそこにはあった。

「えっ? ちょっ、妙ねえ、なんで方針転換してるの? いつもの強権はどこいった?」

「いやあ、やっぱさ、人によっては事情っていろいろあるじゃん? セレスのことも、多少は尊重してあげなきゃなあって思ってね」

 相手を尊重とか、妙ねえから一番遠いはずの言葉が出てきた。僕は、妙ねえの後ろを素知らぬ顔でついてくるセレスに話しかける。

「ウチの姉に何しやがった? まさか洗脳か?」

『失礼な、セレスにそんな機能はついてません。誠心誠意、お話をしただけです』

 なんだその百パーセントの嘘は。

「というわけで、タマ。セレスのことよろしくね。途中でどっか捨ててきちゃダメだぞ?」

 姉は姉で違和感しかないコトしか言わないし。だぞ、とか付けられても全然可愛くない。

「何言っているんですか、妙奈さん。この子はノアに連れて行くべきですよ!」

 負けじと水蓮が姉の本来の主張を貫くが、一度あることは二度目もあった。

『うーん、水蓮さん。ちょっとだけこっちにいいですか?』

「い、いいですよ? 私はそう簡単に意見を曲げませんからね!」

 一分後。

「セレスさんは私たちに必要な存在です。学校へ連れて行くのも仕方ないコトですよね!」

 鼻息も荒く、百八十度転換した意見を引っさげた水蓮が台所から出てきた。

「どうやって言い包めたんだ、おまえは……」

 無いはずの唇で口笛を吹くセレス。水蓮はセレスの無いはずの耳に唇を寄せて、

「ですから、例の件、あとでよろしくお願いしますよ? 絶対ですよ?」

『お任せください。わたしの最先端技術の結集をお見せしますよ。ウフフ』

 嫌な予感しかしなかった。


 ◇ ◇ 


「……なんだ、このでかいビー玉は」

 登校してきたジムが教室でセレスを見つけて放った第一声が、それだった。

 僕の机の上に我が物顔で陣取っていたセレスが、ノイズを走らせながら僕につぶやく。

『タマのご学友にしては随分と図体のでかいお兄さんですね』

「聞こえてるぞビー玉。……タマ、おまえが拾ってきたペットなのか?」

 ジムの視線は自席に座る僕のほうへ。僕はうんざりしながら頭を掻いて、

「まったく、どいつもこいつも……僕は何でも拾ってくるガキんちょかっての」

「あれ、否定できるんだ?」

 珍しく正鵠を射た後ろの席の水蓮のつっこみに、僕はぐうの音も出なくなって押し黙った。

 今のジムもそうだが、学校内でのセレスに対する反応は、おおよそ同じようなものだった。

 僕の後ろをついて回る青い球を見かけた生徒が、知人他人に関係なく声をかけてくる。登校途中の街中でさえも、ゲートボールをするために集まっていた爺さん集団に呼び止められたくらいだ。一昨日までひきこもりだった僕にとっては、拷問にも等しい時間だった。

 やっとのことで教室に入ったと思ったら、今度はエギルをはじめとした女子連中の質問責めである。なるべく目立たないで生きることが我が人生の目標なのに、それをこの、いまだに正体不明の不可思議物体に片っ端からぶっ壊されていると思うと気が滅入ってくる。だからノアに預けるべきだったんだ、と今更ながらに僕は後悔した。

「――空から降ってきた、だあ? そんなの、サンダルフォンに撃ち落されて終わりだろう」

「そのくだり、もう昨日やったよ」

 夜の草原で拾ったという僕の体験談に懐疑的らしいジムは、再びセレスをまじまじと見る。

「記憶がないってことは、誰が作ったのかも、どこから飛来したのかも不明ということか」

『そうなりますけど、わたしはタマがいてくれればそれでいいですから。お兄さんは不要です』

「……タマ、こいつの口の利き方を教育したのはおまえか?」

「んなわけないだろ。こっちを睨むなよ」

 一言多いのは製作者の嗜好か、AIの仕様か、プログラムミスのどれかだと思う。

「とにかく、こんなオモチャ紛いが教室にあっては授業に支障をきたす。タマ、こいつの口を縛るか、電源を切るか、教室の外に追い出すか、どうにかしろ」

「口は無いし電源の切り方も知らないから、外に追い出したいのはやまやまだけど……」

『残念ですが、わたしとタマは一蓮托生です。わたしがタマから半径一メートル以上引き離された場合、わたしの体内に仕掛けられたプラスチック爆弾が爆発する仕組みになっています』

「な……なんだとッ?」

 ジムが目を剥く。僕と水蓮を除くクラスメイト全員がざわりと沸き立ったと思ったら、

『まあ嘘ですが』

「…………タマ、こいつを黙らすために殴って壊す許可をもらえるか」

「いいけど、殴ったら痛いと思うよ、硬いから」

 ジムの額に青筋が何本か立つ音を聞いた気がした。

「宮國先生、よろしいんですか? こんな規格外な物体を教室に放置しておいて」

 教壇に振り返ってジムが言う。いつの間に教室へやってきていたのか、宮國柊蔵七十六歳はゆっくりとした足取りで僕の机に近づくと、老眼鏡の奥の細い目をさらに細めてセレスを見た。

「タマ、おまえ、少し見ないうちに随分と顔が丸くなったのう。しかも顔色も青いし……」

「僕はこっちだぞジジイ」

 おお、と驚いて、僕とセレスを交互に見やるジジイ。ふーむ、と顎鬚を手で撫でつけつつ、

「まったく見分けがつかなんだ……」

 目ェ腐ってるだろ。というか、今は見分けがつくかどうかはどうでもいい。

「しかし、ジェームズの言うとおりじゃ。この学び舎は生徒諸君が知識を得る場。そこに異質が紛れ込めば、有益な時間は無益と化してしまうじゃろう。それを考えれば……」

『ご迷惑はおかけしませんので、ここに居させてください。知性的でダンディなおじさま』

「よろしい、許可しよう」

 ジジイはくるりと踵を返して、壇上へと舞い戻っていった。

「ち……ちょ、あっさり許可出すなジジイ!」

「横暴だぞ、それでもノアの主任技術者か!」

「モテなかった青春時代を引き合いに出すな!」

 教室は喧々諤々の大ブーイング。しかしジジイは突然教壇に両手を叩きつけたかと思うと、

「千里の馬も伯楽に逢わず!」

 くわっ、と見開いた目に力を込めて、大音声でそう唱えた。

 しんと静まり返った教室で、ジジイがゆっくりと語り出す。

「一日に千里を走るような名馬も、その才能を見抜ける伯楽と逢えることは滅多にないというたとえじゃ。いくら異質な存在といえども、その有益性をないがしろにしてはいかんぞ」

 とくとくと名言風に説くジジイだが、教室中の誰しもが思ったに違いなかった。

「……さっきと言ってること、違うじゃんか……」


 ◇ ◇ 


 明日のことを言えば鬼が笑うとはよく言ったもので、異常を鵜呑みにして時間は過ぎ往く。

 セレスはいつの間にか僕のペットという扱いになり、学校で指を差す人も少なくなった。

 朝は目覚ましのように決まった時間に喋り出し、学校に向かうとその後ろをついてくる。何も食べないくせに僕の昼食に寄り添って、学校が終われば帰り道もご同伴だ。そして僕の部屋の定位置で丸くなり、充電もせずに眠りにつく。それが一日のサイクルだった。

 トイレだろうが風呂だろうがついて来ようとするのが困りものだが、それ以外はあまり邪魔にもならず、僕も次第に気にすることはなくなった。一時期問題となった授業中も、コイツは僕の机の上からじっと動かず、ときおり表面にいつものノイズを走らせているだけだ。

 コイツと出会って三日が過ぎた今でも、僕の周りでさしたる問題は起こっていない。

 そろそろ学校に通うことにも慣れ、陽の光の刺激にも退屈さを感じ始めた午前十時。

 教室の窓際の席に座る僕の前で、セレスは今日もじっと沈黙を保っていた。

 僕は机の端に片ひじを突きながら、窓の外に視線を向ける。セレスに目はないので正しいかどうかは分からないが、なんとなく、同じ方向を見ているような気がしたのだ。

「何を見ているんだ?」

『風景です。今日は昨日より良い画が撮れそうですよ』

「昨日も今日も同じ景色だろ。そんなに面白い風景でもないだろうに……」

 僕は当てもなく視線を巡らす。窓の外に見えているのは青い空と白い校庭、ソテツやヤシで構成されたまばらな生垣、その向こうに広がる藍の海。そして、宇宙へと一直線に伸びている軌道エレベーターだけだ。ああ、四日連続でピーカンを記録している太陽もあったな。

 面白くなさそうに答えた僕の態度が気に入らなかったのか、セレスは少しだけ声を高くして、

『昨日も今日も違いますよ。温度、湿度共に昨日より低いですし、風も一メートル強いです』

「その微差は、僕の人生においてはまったくもって誤差の範疇だな」

『ロマンがないですねえ。軌道エレベーターのある風景なんて、厨二男子なら垂涎のシチュエーションでしょうに』

 そんなことを言っても、慣れてしまったものは仕方がない。セレスがいるという非日常でさえ、三日もあれば日常と化すんだ。責められる筋合いなんてなかった。あと厨二って何だ。

「そう言えば、記憶がないわりに、軌道エレベーターのことは覚えているんだな」

 僕が訊くと、セレスは陽光の落とした光芒をノイズでかき混ぜながら答えた。

『一般常識の範疇ということなのでしょう。これでも一応、2160年までの人類史もインプットされていますよ』

「へえ、それじゃおまえの生まれは、少なくとも2160年以降ってことなのかな。人類初の軌道エレベーター・ケテルが完成したのが2160年だから、何か関係があるんじゃないか?」

『さあ、その辺の記憶はありませんね。わたしがセフィロトと関係あるかは【ピ――】です』

 不意打ちで鳴らされた放送禁止用語音に、教室中の視線が一気に集まる。

 教壇で板書していた先生までもが振り返って、ずり落ちたサングラスを中指で持ち上げた。

「な、なんだい、今の音は」

『失礼しました。ついうっかり開示制限コードが漏れまして』

「そうかい、以後は気を付けてくれたまえよ。タマも授業中は余所見をしないように」

 顔に張り付いた笑みとは裏腹に、きっちりとお叱りを飛ばしてくるランディ先生。なんだかセレスより僕のほうが怒られた度合いが高いように聞こえて、僕は口をへの字に曲げた。

 壇上のランドルフ・デルフィニウムは、仏系アメリカ人。宇宙進出開発機構研究所「ノア」の所長を務める偉丈夫で、僕がこの街で頭の上がらない人間の一人だ。アレンには劣るが、五十歳とは思えないほど隆々とした肉体と、いつもかけているサングラスが特徴。メトシェラにおける担当学問は語学と習字で、日本文化を心から愛する男でもある。

「しかし、見れば見るほど気になる物体だなあ。正直、授業にも身が入らないよ」

 教壇を降りたランディが近づいて、セレスの頭を軽くつつく。その指先から弾丸が発射されたわけではないだろうが、セレスはころりと一回転して僕のノートの上に静止した。

『わたしをノアに連れて行きたいのでしょうが、申し訳ありませんが、それは拒否しますよ』

「おや、連日のノア職員からのアプローチのせいで、ご機嫌斜めかな」

『当然です。わたしとタマは鉄よりも固い絆で結ばれているのですから』

「初耳だぞ……」

 僕がげんなりしてつぶやくが、セレスの援護射撃をする人間は他にもいるようで、僕の後ろの席の水蓮が立ち上がって声を発した。

「そうですよ。タマとセレスを引き離すのは容認できません! まだ昨日の撮れ高も確認してませんし」

「……撮れ高?」

 僕が訝しげに首をひねると、水蓮は慌てて首を振って、

「あっ、いや、タマにはなんでもないのよ? あはは……」

『タマは昨日はおフロに入りましたからね。なかなかの撮れ高だと思います』

「だから、何の話だよ……メチャクチャ嫌な予感しかしないんだが……」

「とっ、とにかく! セレスはタマのそばにいることを望んでいます。いくら相手がランディ先生でも、本人の同意なしで無理やり研究対象にするのはいけないことだと思います」

 話を強引に自分の主張に切り替えた水蓮に、ランディは自らの顎に手を当てて、

「うーん、別に解剖しようとか、研究材料にしようとか考えているわけではないんだけど……いや、そうか。要は、タマとセレスを引き離さなければ良いんだろう?」

 口端だけでニヤリと笑うランディ。僕はこの人の、この表情をよく知っていた。面白いことや画期的なことを考え付いたときの、良い意味でも悪い意味でも会心の笑みである。

「な、なんですか、ランディ先生。悪いことを考えてません?」

「いやいや、そんなことないよ。……そうだね、ちょうど明日は金曜日だし、軌道エレベーターも運行ダイヤに空きがある。宇宙技能者試験も近いとなれば、一石二鳥や三鳥だ」

 そうして、数秒上を向いて考え込んでいたランディだが、次に顔を戻した時には、悪戯好きの少年のような笑みが張り付いていた。

「明日の授業は、別の場所でやろうか」


 ◇ ◇ 


 シャトルの窓から見える景色が、一瞬にして移り変わる。

 流れる方向は、下から上へ。はじめは海の青しか見えなかった風景も、すぐに雲海の白へと変わり、十数秒後には湾曲した水平線と砂色の大陸が見渡せるまで視界は広がっている。まるで高速のスライドショーを観ているみたいだ。

 正確に言うとその窓は窓ではなく、屋外の映像をリアルタイムで映すモニターなのだが、人間の体感としてはどちらであっても変わりはないので、やっぱり窓と称するのが一般的だった。

「高度一万メートル通過。これでエベレストより高い位置だよ。中継ステーションまではあと2190キロメートルで、最終目的地のGSSまでは、あと3万5990キロ。まだまだ一パーセントも昇ってないんだからね。こっからスピードあげちゃうよお?」

 僕の隣の席に腰掛けるイリマ・マカイ・ノアが、教育番組のお姉さんのような笑みを浮かべつつ、そう解説する。もちろん、その解説は僕一人に向けたものではなく、同じフロアで座席に着く水蓮たちクラスメイト全員へ向けたものだ。もっとも、その全員が窓の外の風景にくぎ付けになっていたので、イリマの声が連中に届いたかどうかは怪しいものではあるが。

「んん? どしたの、タマ。あんまりワクワクしてない感じ?」

 自分の解説がスルーされたことを誤魔化すためか、イリマが僕の顔を覗き込んでくる。褐色の肌に大きな双眸、肩までの金髪をツインテールにまとめ、アロハシャツの上に白衣という出で立ちをしたこの女性は、妙ねえと同期入所の研究員だ。

 しかし、その容姿は僕たちの同級生と言われても疑わないほどの童顔であり、性格もそれに追従している。僕はそいつの、遠慮を知らない距離にまで顔を近づけられたことに内心動揺しつつ、反骨精神を発揮して答えた。

「イリマこそ、なんでそんなにニコニコしてんだよ。軌道エレベーターのシャトルなんて、それこそ年がら年中乗ってるくせに」

「だって、毎日乗っても楽しいものは楽しいもの。地上から3万6000キロメートルの宇宙へ一気に飛び上がるこの開放感……いつ味わっても気持ちいいものだよねえ」

「……こういうのを、宇宙キチって言うんだろうな」

 僕は悦に入るイリマを放って、再び窓に映る景色に視線を投じた。

 軌道エレベーター・マルクトの創業は、2162年――今からおよそ二年前のことだ。

 僕の両親が建設に携わったマルクトは、全長4万4000キロメートル。地上2200キロから1万8000キロ地点を昇降移動可能な中継ステーションと、地上3万6000キロ地点に浮かぶ静止軌道ステーション(GSS)の計二基を、たった十二本のケーブルを基本骨格とした、リニアモーター式超長距離エレベーターで繋いでいる。

 単線列車と同じで、連結された複数の昇降機シャトルが一列になってケーブルの上を駆け登る構造であり、シャトル一機あたりの搭乗員数は最大で六十名。僕のクラスは二十四名なので、セフィロト関係者を同席させてもまだシートが余る計算だ。

 電車と決定的に違うのは、座席が進行方向ではなく地平線を向いていることと、常に室内の気圧が一定に保たれていることだろう。前者はもしも進行方向を向いていたら頭に血が昇ること必至だし、後者は減圧症や高山病を回避するために必須と言える。座席付きエレベーターと言うよりは、ケーブルカー風スペースシャトルと言った方がしっくりくる形状だった。

「完成して、まだ二年しか経ってないからねえ。フロアもぴかぴか、シートもゆったり、おトイレもつるつるだよ。大気圏越えたら自由に歩き回れるから、そしたら案内してあげよっか?」

 案内してあげようか、ではなく、案内したい、と顔に書いてあるイリマが上機嫌でそう言うが、僕は片手を振って遠慮を示した。

「初めてじゃあるまいし、別にいいよ。僕より他の連中の相手をしてやってくれ」

「あ、そっか。妙奈の弟くんだもんね。シャトルの内部に詳しいのも当然か」

 正確には、父さんと母さんの息子だから詳しいのだが、あえて訂正することでもない。僕は風景の映るモニターの端に付随した情報パネルを確認しながら、シートベルトを締め直した。

「ほら、成層圏入るぞ。振動で座席から投げ出されても面倒見てやらないからな」

「いやーん、言うことが妙ちゃんそっくり。やっぱ弟だねえ。セレスちゃんもそう思わない?」

『そうですね。タマはツンデレですから』

「噛まない舌がない奴は気楽でいいよな……っと」

 僕は床に転がるセレスを両足で踏んづけ、シートベルトの代わりに固定してやった。


 ◇ ◇ 


 龍の如く空を駆け登るシャトルの速度は、時速300キロ。

 地上から百キロ地点にある大気の境界、すなわちカーマン・ラインを超えると、そこはもう宇宙空間だ。

 窓の外に広がるのは、藍色の世界。

 眼下に望む地球の表面が青白く輝いて、まるで妖精が住まう湖のようだ。

 地球の光が強すぎて、周りを見渡しても、藍色の中に他の恒星の光さえ見えない。

 まるでこの世にあるものは、地球と、そして自分の乗るシャトルだけのような幻想を感じだ。

「はい、高度100キロメートルへ到着だよ。ここからシャトルは、最大秒速14キロでGSSへ向かいます。所要時間は約一時間。シャトル内を見学するなら今しかないからねーっ」

 声を張り上げたイリマに呼応するように、フロアに弛緩した空気と席を立つ喧噪が溢れた。

 僕はシートベルトを外して、ゆっくりと息を吐く。隣のイリマは既に席を立ち、他の生徒たちと共に別のフロアへと向かったようだった。余談となるが、シャトルは六十人乗りと言えども、全員分の席がワンフロアにあるわけではない。東西南北の四つのフロア、各十五席ずつに分かれており、それらがドーナツ型に配置されているのが特徴だ。

 ドーナツの穴に当たる部分には軌道エレベーターの根幹、メインケーブルが通っているので、四つのフロアの座席は必然、それぞれ地平線の東西南北を向いて固定されている。つまり、それぞれのフロアの窓を望むことで、周囲三百六十度の大パノラマを楽しむことができるのだ。

 天体とは面白いもので、ある一定の距離から俯瞰すると、東と西とで見えるものが大きく異なる。太陽の位置が少し変わるだけで、その表情は万華鏡のように変化するようだ。

 そんな天体ショーを目の当たりにできるのは、残りおよそ一時間。

 四面全ての眺望を得るべく、クラスメイトたちが我先に走り出すのも無理のない話だった。

「タマ? ……なんか、顔色悪くない?」

 そんな中、僕の席に近づいてくる栗毛の女子がひとり。僕は顔を上げて、できるだけ無理のない表情で笑って見せた。

「そうか? 照明のせいじゃないか。ホラ、このフロアって西向いているから、少し暗めだし」

「そうかな。暗い部屋の中に閉じこもってるときのタマのほうが、血色良い気がするけど……」

 だから、なんでいちいち勘が鋭いんだよ、この女は。

 僕は平静を装って立ち上がり、水蓮に背を向けて歩き出す。相変わらず人に背を向けて逃げ出すことが下手な僕は、案の定、水蓮に呼び止められた。

「見学に行くの? それなら、私も一緒に……」

「いや、トイレだ。水蓮はセレスを頼むよ。こいつ、放っておくとトイレの中までついてきやがる」

『何か問題がありますか?』

「大問題だ」

 青い球に別れを告げ、通用口をくぐって歩を進める。シャトル内の構造は、二年前の竣工式で父さんに連れてこられたときに把握していたので、迷うことなくトイレに到着できた。

 洗面台に手をついて寄りかかり、水を出して顔を洗う。まるで何かを削ぎ落とすように。

 確かに、鏡に映った僕の顔は、冴えない表情をしていた。

「……こんなの、いつものことだっての」

 つぶやいてみるが、胸の奥のつかえは取れない。

 黒い染みがじわじわと胸の内側を侵食するような、そんな益体もないイメージが、さっきから僕の頭の中を占領し続けていた。


 ◇ ◇ 


「メトシェラの諸君。ようこそ課外授業の地、GSSへ!」

 高度3万6000キロメートル。静止軌道上に浮かぶ宇宙ステーションの中で、僕たちメトシェラ訓練学校生二十四名を出迎えたのは、宇宙進出開発機構研究所ノアの所長兼、今回のツアー発案者であるランドルフ・デルフィニウム――それと、

「……何やってんの、妙ねえ」

「お出迎えよ。……お出迎え」

 スーツの上に白衣を羽織り、頭の上にバニーガールのウサミミを付けた仏頂面の姉が、バスガイドよろしく三角旗を手にランディの傍らに佇んでいた。

「今更だとは思うが、彼女はウチの研究所で軌道エレベーターの管理及び研究開発を任されている、葛見妙奈主任だ。今日のGSS見学のガイドも仰せつかってくれている。諸君、何か分からないことがあったら、何でも彼女に聞いてくれたまえ。このウサミミが目印だ」

「みなさん、どうぞよろしく。はぐれたり勝手にどっか行ったりしたら蹴り飛ばしますので」

 ああ、よかった。ウサギの耳なんて付けてはいるが、今日も妙ねえは平常運航だ。

『ほほう……タマ。あなたのお姉さんには、こういう趣味がおありだったんですね』

「ねーわ!」

 一撃必殺。妙ねえのサッカーボールキックによって、セレスと言う名の球体は宇宙港の高い天井にまで飛んでいった。回収は可能だろうが、自業自得なので放置推奨だ。

「それでは諸君、GSSを案内しよう。無重力だから頭をぶつけないように気を付けて」

 優等生を装って、はーい、と口々に返事をする生徒たち。ランディと妙ねえ、そして妙ねえをイジリたくて仕方がないイリマの研究員三名を先頭に、僕たちは宇宙港を後にした。

 ――軌道エレベーターの中核たるGSSの正式名称は、Geostationaryジオステーショナリ Spaceスペース Stationステーション。まんま静止軌道ステーションという意味で、マルクトにおける国際的なコールサインを含めると『GSS‐Ⅹ』という名称になる。

 GSSは全長190メートル、最大直径40メートルの円錐型だ。シャトル発着場を兼ねる宇宙港が一番大きく、地球から遠ざかるにつれて段々細くなる。地球永住者からは「逆さミノムシ」と揶揄されることがあるが、言いえて妙だと僕は思う。大小さまざまなモジュールが幾重にも折り重なるこの外観は、無数の枝を編んで形成するミノムシと瓜二つだった。

「GSSの最大収容人数は三千人だけど、実際に勤務している職員は約五十名だね。ノアの職員が大半で、航空宇宙局NASADの職員が若干名。三食昼寝付きでバストイレ完備だから、職員の多くはここで寝泊まりしているよ」

 先頭を行くランディの饒舌をハーメルンの笛吹きにしながら、僕たちはGSSの通路を進む。

 側面と天井は樹脂製と思われるクリーム色の壁。高さも幅も四メートル程度の広さだから、学校の廊下と遜色ない感じだ。壁のいたるところに無数の取っ手が設置されていて、いかにも無重力下の内装に仕上がっている。実際、生徒の何人かはこの取っ手を頼りに進んでいた。

「タマ、ちょっと待ってぇ。どうしてそんなにスイスイ行けるのぉ……?」

 その何人かの一人である水蓮が、通路の中央でばたばたとバタ足をしている。僕は手近な取っ手を蹴って進行方向を変え、水蓮の伸ばした手を掴んで壁際に寄った。

「無重力で泳いでも無駄だぞ。基本は壁を蹴ることだ。駄目なら取っ手づたいに移動しろ」

「その前に、取っ手を掴めないんだよぅ。勢いが付きすぎちゃうみたいで……」

「ったく、勉強は僕よりできるくせに」

 と毒づいてはみるが、いつもしっかり者を自負している水蓮がこんな姿を晒すのは貴重だ。

「……引っ張ってやる。手を貸して」

「うん」

 差し出された手を握る。その柔らかな感触に内心驚きながら、僕は再び壁を蹴った。

「GSSはいくつかの地区に分かれていて、制御区、居住区、研究区などが主なエリアだ。諸君らがこれから向かう訓練区もそのひとつ。慣れない環境だろうが、宇宙技能者試験を目前に控えた諸君らにとっては、これ以上ない刺激になるだろう。しっかり学んでいってくれたまえ」

 ランディの演説を追って、僕と水蓮は隊列の尻尾に合流する。最後尾で僕たちを待っていたらしいイリマが、僕の方を見ながらニヤニヤといやらしい笑みを浮かべていた。

「そっかあ。いつまでも小さいと思っていたタマちゃんも、ようやく男らしくなってきたか」

「……変な勘繰りするなよ。それとタマちゃんはやめろ」

「そうだぞ、イリマ。ウチの弟を侮辱する奴は万死に値する」

 そこに、先行していたはずのウサミミ妙ねえが現れた。イリマはけらけらと笑いつつ、

「だってえ。妙奈の弟くんは、私の弟くんも同然だもん。ちっちゃい頃からのタマの成長を知っているこっちとしては、ねえ? ……まあ、今もちっちゃいけれど」

 余計なお世話だ。

「それより妙ねえ、なんだよその恰好は。正直似合って……、うん、まあ面白いけど」

「言葉を濁すくらいなら余計な気を使うな。……所長の趣味だよ。私のぶすったれた顔を、生徒諸君に怖がられないようにするためのアイディアらしい。見事に外しているけどね」

『いえいえ、見事な印象操作ですよ。少なくとも、セレスのメモリーには深く刻まれました』

「深く刻むな。……というか、どうやってここまで来たんだ、あんたは」

 妙ねえの睨む先を振り返ると、そこには無重力空間に浮かぶ青い球体の姿が。セレスはまるで、波間に浮かぶブイのようにゆったりと宙を漂いながら、口のない口を開く。

『前に言ったじゃないですか。ボール体型ですから、飛び跳ねることだけは得意です』

「意外に器用なんだね」

 妙なところに関心を示すイリマ。妙ねえはセレスの躯体を手元に手繰り寄せながら、

「セレス、学校でみんなの勉学の邪魔はしていないでしょうね?」

『失礼ですね。セレスは約束したことは絶対に守ります』

 セレスの拗ねたような声。いまいち信用できない、と妙ねえが眉をひそめたところに、水蓮が割って入る。

「ええ、妙奈さん。学校ではおとなしいんですよ、セレスさんは。私が保証します」

「むしろ騒がしいのは周りのほう、だよな。そろそろ慣れてきた自分が恐ろしくもあるが……」

「……そっか、よかった」

 そこで、心底安堵したという表情を見せる妙ねえ。そんなにセレスのことが心配だったのか。

「いや、心配だったのはおまえの方だよ、タマ。……学校、上手くやれてるんじゃないか」

「そりゃどういう意味だよ。僕は今までも、……これからも、大丈夫だ」

 そうか、とつぶやいて、妙ねえは言葉を飲み込む。半年のブランクは、それなりに心配の種となっていたらしい。そんなしんみりとした空気を吹き飛ばすように、イリマが口を挟んだ。

「そんなに心配なら、妙奈もメトシェラの講師になればいいじゃない。タマもセレスも手近なところで観察できて、一石二鳥でしょう?」

「む、……その発想はなかったな。スケジュール調整してみようかな」

「……勘弁してくれ」

 これ以上、僕の心配の種を増やされてもたまらん。そう抗議を上げようとしたとき、通路の向こうから僕たちを呼ぶランディの声が聞こえた。


 ◇ ◇ 


 訓練区の一角にある低重力ブリーフィングルームで、ランディから簡単にGSSで過ごす上での諸注意を受ける。その終わり際、教壇に立つランディは、椅子に座って久しぶりの疑似重力に身をゆだねている僕たちを睥睨して、こんな質問を投げかけた。

「この中で、技術士系の職種を目指している訓練生は?」

 二十四人中、十二人が手を上げる。機械技術士、建築士、航海士といった技術士系は、宇宙飛行士の中でも最も人気と需要がある職種だ。その中には水蓮の手もある。

「では、操縦士系を希望している者は?」

 手が上がったのは二十四人中、五人。何一つ臆することなく手を上げるジムの姿が印象的だ。

 一方の僕は、両手を膝の上で丸めたまま、椅子に背中を預けている。部屋の壁際に立つ妙ねえの視線が痛い。ランディも本来の僕の希望を知っているはずなので、僕が手を上げていないことに幾許かの思いがあるだろうが、皆の手前のせいか何も言わなかった。

「はい、手を下ろして良いよ。合計して十七人だね。つまり、このクラスの七割強が船外活動EVAを必要とする職種を希望しているということになる。ところで君、EVAの経験は?」

 ランディがジムを指さす。ジムは立ち上がり、軍人のように腰の後ろで手を組んで返答した。

「プールでの疑似訓練ならば経験はあります」

「そうか。裏を返せば、本物のEVAの体験はないが、訓練をしているから、いつでも心構えはできているってところかな?」

 ジムが力強く首肯する。それを見たランディは突然踵を返し、ブリーフィングルームの奥にあるハンドルハッチ付きのドアの前へ。壁のスイッチを押して、ドアを開放させた。

「それならば何も心配はいらないな。諸君、このドアの向こうへ来たまえ」

 生徒たちは顔を見合わせつつ、ランディの言葉に従って移動する。

 ドアを越えた先は、六角形のロッカーがずらりと並ぶ廊下だった。蜂の巣を連想させる作りだが、ドアは左右に一つずつと奥に一つ。奥のドアは入口と同様のハンドルハッチ付きだ。僕たちに先行したランディは右のドア、妙ねえとイリマは左のドアをそれぞれ開きつつ、僕たちの方を振り返る。

「では、全員ロッカーからスーツを取りたまえ。男子諸君の更衣室はこちら。淑女のみなさんの更衣室は葛見女史の方だ。着替え方がわからない者は、遠慮なく僕たちに申し出るように」

「え、スーツ? スーツって……」

 僕はロッカーに近づいて、扉を開く。

 はじめに見えたのは、ポリカーボネート製の透明なヘルメットだ。ヘルメットを引きずり出すと、それと一緒に頭から足の爪先までをすっぽりと包む、完全一体型の全身スーツが現れる。手触りのごわごわとした白の外被材。ところどころに銀の連結部が見え隠れしている。

 耐冷、耐熱、耐衝撃。この服装を知らない者は、おそらく世界のどこにもいないだろう。

 生まれて初めて手に取ったその服の感触に驚きが隠せない生徒たち。その様子を見ていたランディは、いつもの人の悪い笑みを浮かべて言った。

「正式名称は宇宙服アセンブリと言う。それに通信機や生命維持装置を装着して、船外活動用宇宙服の完成だ。さあ――今日を忘れない日にしてやろう」


 ◇ ◇ 


 幾重ものハッチをくぐり抜け、何度目かの減圧を超えた末に、最後の扉が目の前で開く。

 命綱テザーを両手でしっかりと掴みながら、おそるおそる足を前へ。

 床を踏む感触はしない。ただ触れているという事実だけが足の裏から伝わってくるだけで、まるで現実味のない実感に、一瞬不安が大きくなった。

 だけど、これは紛れもない真実だと。

 ポリカーボネート製のヘルメットを通して見える景色が、僕の現実を後押ししていた。

『諸君。ようこそ、宇宙へ』

 ここはGSSの最上部。ともすれば屋上と呼んでも差し支えの無い、平たく開けた場所。

 超伝導を応用した疑似重力の床を足場として、宇宙服越しに宇宙空間の手触りを確かめる。

 空気もなく、生命もなく、あるのは宇宙線と、目に見えない濃紺の真空だけ。

 これが。

 ――ここが、宇宙なんだ。

 通信機を通して聞こえたランディの言葉も、今ならすんなりと受け入れられそうだった。

『それでは前へ進んでみようか。ああ、くれぐれもジャンプはしないように。疑似重力の作用範囲は意外と狭いぞ。テザーのフックも常に確認すること』

 腰に接続された命綱を触って確かめてから、僕はゆっくりと歩みを進める。屋上は一辺が二十メートル程度の菱形で、室内への出入口となるペントハウスは、ほぼ中央だ。セレスは命綱のフックを取り付ける部分がどこにもないので、ブリーフィングルームでお留守番だった。

 僕たちは屋上の端に到達するのに短くない時間を費やしたが、そこに到達したときに見えた光景に、思わず息をすることを忘れていた。

『――地球が、丸い』

 僕の隣に立った水蓮の声が、震える。

 高度3万6000キロメートルから見下ろした地球は、紛れもない地球儀の形だった。

 暗色の空に浮かぶ巨大な青い塊が、何の支えもなく、ただそこに浮かんでいる。

 青白い燐光を発しながら、はかないほどに美しく。

 ただひたすらに、その存在を輝かせていた。

『どうだい? 諸君はあそこから来たんだ。信じられないだろう?』

 ランディの声が脳に響く。僕たちは今、ハワイの上空3万6000キロで西を向いているようだ。僕はその地球儀から日本を見つけ出そうと目を凝らしてみたが、アジア周辺に大量の雲が渦を巻いているせいで、ユーラシア大陸の断片しか見ることは叶わなかった。

『地球って、本当に楕円球なの? 真円のように見えるけど……』

 少し離れたところから、エギル・サゥの声が聞こえる。それに答えたのは妙ねえだった。

『いや、間違いなく楕円球だよ。ただ、今は地軸角がポールシフト以前に近づいたおかげで、だいぶ二十二世紀以前の形に近くなってはいる。しかし、あと四年もすれば地軸は再び角度を極めて、ハワイはマイナス三十度以上の世界に変わる。地球もさらに歪むだろうね』

 皆の息を呑む音が聞こえる。授業で聞いているとはいえ、その事実は衝撃的だ。

 だが、そんな悲壮な感傷もすぐに消え去る。

 近い将来の想像さえも頭の隅に追いやってしまうほどに、眼前の光景は神秘的過ぎていた。

『いいねえ、みんな、ナイス反応。その顔を見たくて付いてきたようなモンだよ』

 お気楽なイリマの声。その言葉に、緊張で固まっていた皆がクスクスと笑い出す。普段ならただ甘ったるいだけの声なのに、こういうシチュエーションで聞くとその威力は抜群だ。

 そろそろ宇宙服の感触に慣れてきたところで、ランディが口を開いた。

『次は、この甲板を一周してみようか。疲れた者はハッチに戻って休んでもいい。だが、この甲板の後部には、技術士や操縦士を目指す訓練生なら一度は見ておくべきものがあるぞ』

 一時的にざわざわと沸き立つが、ここまで来て休憩を申し出る人間などいるわけがない。誰からも否定の声が上がらなかったのを確認して、ランディは僕たちの後方を指さした。

『よろしい。ならば全員、回れ右だ。自然の神秘の次は、科学の叡智を拝むとしよう』

 皆がおぼつかない足取りで、ゆっくりと回れ右をする。僕も皆にならって振り返った。

 そして、そこで見た光景に――。


 どくん、と。

 心臓の鳴る音を聞いた。


『わあ……あれって、オービタルリング?』

 スピーカーの先で感嘆の声を上げるエギル。ランディの宇宙服が歩き出しながら首肯する。

『そう。全長約31万6000キロ。地球をぐるりと一周し、世界十基の軌道エレベーターの頭頂部を一つに繋ぐ、多目的ユテライズ衛星。別名「希望の象徴」だ』

 振り返ったその先にあったものは、二つだった。

 一つは、疑似重力の床を貫いて、ここより更に天高くへ伸びる軌道エレベーター。屋上に到着したときは気づかなかったが、ペントハウスのすぐ後ろに屹立してなおも宇宙を貫いている。

 そして――もう一つは、その軌道エレベーターのさらに先。目を凝らしてようやく見えるほどの距離に浮かぶ、まるで銀の糸のような横一文字の構造物。

 ここより数千キロ上空にたなびき、地球の曲面に沿って果て無く続くその銀糸は、一辺十メートル程度の四角い鏡を背負った人工衛星が数珠つなぎになったものの集合体だ。鏡の正体は太陽光を電力に還元する太陽電池パドルで、それを背負う人工衛星は、それら一つ一つが別々の役割を持つ観測機。全方位を同時に観測することで、地球内外の情報のすべてを掌握する完全性も併せ持つ。

 加えて、軌道エレベーターの安定制御を遠心力により補完するバラストとしての側面や、世界中へ電力を供給するライフラインとしての役割など、その有用性を数え上げたらきりがない。

 地球周回型多目的衛星、地球の銀冠――通称「オービタルリング」は、今の人類が生きるために必要なもののすべてを担う、文字どおりの「希望の象徴」であり――。


 僕の父さんと母さんを殺した、絶望の象徴だった。


『知っていると思うが、オービタルリングの建設や管理保全には、有線型のモビリティ・シャトルが使われている。操縦士がモビリティを操縦して、技術士がロボットアームなどで工事をするわけだな。この一連の作業には操縦士と技術士に必要な技術の基礎がすべて詰まっており、これを模したオペレーションが宇宙技能者試験として課せられる予定だ。つまり、言い換えれば、これができる訓練生こそが宇宙技能者試験をパスできるわけで……』

 ――ランディの言葉が、遠い。

 僕は急に息苦しくなって、その場にうずくまる。

 ヘルメットの内側に映るAR情報を見るが、酸素量は正常だ。宇宙服の生命維持装置は、すべて問題なく作動している。だというのに、僕の心臓は早鐘を打ち続けていた。

 胸の奥に黒い染みが広がっていくイメージ。

 大量の汗が頬を伝って、無重力のヘルメットの中を浮遊していく。

 何もない暗闇の中に立っているという実感が唐突に大きくなり、僕の心臓を鷲掴みにした。

 ああ――これは、まずい。

 両膝が意識せずに震えてくる。ただでさえおぼつかない足元なのに、それを落ち着けることがどうしてもできない。

 急速に襲い来る閉塞感。泡立つ肌は体温を奪い、寒気があっという間に全身を包み込んだ。

『……タマ? タマ、どうかしたの?』

 肩に手が乗せられ、はっとする。目の前にはヘルメット越しに心配そうな水蓮の顔が。僕は無理やり足に力を入れて背筋を伸ばし、水蓮に頷きを返すため顔を上げた。

「大丈夫。別に、なんでも……」


 その瞬間、視界に飛び込んでくるオービタルリング。

 圧倒的な「死」のイメージ。

 胸の奥が、脳の奥が、全身が、真っ暗な闇に支配されて――。


「ああ……、うわああああッ!」


 僕は必死で命綱を手繰り寄せて、その場から逃げ出していた。


 ◇ ◇ 


 どこをどう通ってたどり着いたのかわからない。

 気付いたときには軌道エレベーターのシャトルの中で。

 窓が見えない位置にあるフロアの隅、消火栓のロッカーの前で、膝を抱えて蹲っていた。

『ヒロヒロ行き、第202回送便。定刻となりましたので出発いたします』

 無機質なアナウンスがスピーカーから流れ、音もなくシャトルが走り出す。

 ゆっくりと目を開くが、あたりは静寂。僕以外の乗客は一人として乗っていない。

「そうか、回送……。回送だもんな、客がいないのは当たり前か」

 つまり僕は、無断搭乗している……のか。

 一瞬、妙ねえの顔が頭をよぎる。とんでもないことをしているのではという自覚が急に鎌首をもたげてきて、僕は膝を抱える手に力を込めた。

「宇宙服、脱いでる……いつの間に……」

 手に触れたズボン越しの皮膚の感触。シャトルの中は弱いながらも重力があるので、自分の体重も重く感じる。それが途方もなく嬉しくて、――悔しくて、僕は両手で顔を覆った。

 僕は……やっぱりダメな奴だ……。

『どうして、泣いているのですか?』

 突然、隣から聞こえた声に、驚いて顔を上げる。

 そこにいたのは、青い球体。

「セレス? おまえ、どうして……」

『わたしはタマの傍にいると言いました。タマがどこにいようが、いつだって一緒です』

 追ってきたのか。心臓に悪い奴だ。

『随分と顔色が悪いですね。心拍数も平常値を超えていますが……何かあったのですか?』

「……別に、なんでもない。放っておいてくれ」

『放っておくことはできません。わたしは常にタマの傍にいなければ――』

「余計なお世話なんだ! ただの機械が、僕のことなんて分かるもんかよ!」

 一喝し、時間が止まった。

 再び静寂を取り戻すフロア。ごうんごうん、というシャトルの走行音だけが、遠くで小さく響いている。

 自分でも思いがけず声が大きくなったことに戸惑い、そして、セレスに八つ当たりをしている自分が言いようのないほどに情けなくなって、僕は自分の額に手を置いた。

 ズキズキと鼓動する、鈍い痛み。減圧症の初期症状に似ている。

 シャトルに慣れている――だって? この程度で頭痛を訴えているような弱い僕なんかが、よくもまあ得意げな顔をできたものだ。

 そう。……僕は、弱い。

 宇宙に上がる資格なんてない、生気の抜けた魂の抜け殻が、僕なんだ。

「……僕なんか追いかけても、何の価値もないんだよ、セレス」

 僕の口は、ひとりでに動き出す。生気を持たない機械の殻であるセレスに向かって。

「僕は、もう宇宙へ上れない。本当を言うと、GSS行きのシャトルに乗っているときだって駄目だったんだ。高度計の目盛りが一つ跳ね上がるたびに頭痛がして、吐き気がして、今すぐにでも地球に戻りたいと、そればっかりが頭の中をぐるぐると回っていたんだ」

『それは……タマのご両親に起きた事故がきっかけで?』

 知っていたのか。いや、妙ねえか水蓮から聞いたのだろう。僕は小さく頷いた。

「宇宙に近づくたびに、僕の胸の奥には黒い染みが広がっていくんだ。黒い染みはどんどん広がって、いずれ僕の身体を呑みこんでしまう。全身は凍りつき、視界は消え、息ができなくなって……最終的には、死に至る。きっと、僕の父さんと母さんがそうだったように」


 ――両親が死んだと聞かされた日の夜。

 ベッドの中で、父さんと母さんの死因をあれこれと考えていたことを思い出した。

 ちなみに、二人の遺体は今も見つかっていない。爆散したオービタルリングの破片は、秒速十二キロ以上の速度で地球圏外へ脱出してしまった。そのオービタルリングも今では完全に復元されて、事故の痕跡などはどこにも残っていないだろう。墓の下に眠るのは形見の品だけだ。

 だから、僕も妙ねえも、父さんと母さんが死んでしまった本当の原因を知らない。

 人工衛星の破片による圧死だったのか。

 オービタルリング爆発による爆死だったのか。

 宇宙服の破損による窒息死だったのか、凍死だったのか、太陽光による焼死だったのか。

 それとも、まだこの宇宙を、生きたまま彷徨っているのか。

 誰も。……誰も、分からない。

 ただ、宇宙には……ひたすらに、そこに「死」がある。

 たった一度の事故で、これまでのすべてを失ってしまう「死」が、そこにあるんだ。

 それ以来、僕は宇宙を見ることが怖くなった。

 外に出ることを拒んだ。空を見ることを拒んだ。軌道エレベーターを見ることを拒んだ。宇宙を学ぶ学校なんて、とてもじゃないが行く気にならなかった。

 僕の頭上に「宇宙」なんてものがあると思うだけで、部屋から一歩も出られなくなっていた。

 ……それでも、時間は待ってくれない。

 あと四年で、この星は終焉を迎える。ハワイの大地は氷に閉ざされ、海は枯れ、宇宙にある「死」が、僕の足元にまで降ってくる。それを思い出すたびに、僕は膝を抱えて恐怖した。

 僕は、本当は自殺することも考えた。

 でも、死から逃れるために死ぬことなんてできなくて、部屋に閉じこもるしかなかったんだ。

 思えば、なんて原始的。

 死から逃れたい、というたった一つの願望が、僕を今まで生かしてきた理由だったのだから。

「僕は結局のところ、死にたくないだけなんだ。でも、やっぱり駄目だった。この半年間、妙ねえや水蓮が僕を励まし続けてくれたけど、死の恐怖を打ち消すことはできなかった。――このまま地球にいても死ぬし、宇宙に行っても死ぬのなら、地球にいるよりは宇宙へ行く方が死ぬ確率が低いだろうと割り切って、ここ数日は気を張ってきたけれど……」

 結果は、ご覧のありさまだ。

 宇宙にも昇れず、地球にもいられない僕は、人類の進化からあぶれた劣等生だ。生きたくとも生きられず、死ぬことも忌み嫌って泣くだけの、赤ん坊以下の存在でしかない。

 こんな僕は、もう、ここにいる資格はない。

 何一つできない成せない人間に、同情を向ける必要はあるだろうか?

「だから。……僕は、価値のない人間なんだ……」

 僕の両目から、涙が溢れた。

 頬を伝う無数の熱量。手で顔を覆っても止まらない。いくつもの水滴が床に落ちて、少しずつ染みを広げていくのがわかった。

 ――父さんと母さんが死んだときに、もう泣かないって決めたはずなのに。

 どうして、涙は枯れてくれないんだろうと、腹立たしくなって再び泣いた。

『タマは――』

 少しの静寂のあと、セレスがゆっくりと言葉を紡ぎ始める。

『以前、宇宙飛行士にはならないと言っていましたね? あれは本心ですか?』

 アレンや妙ねえに言った言葉。僕は上ずった声で答える。

「当たり前だろ。僕は宇宙には行けない。だから、宇宙飛行士になんてなれるはずがないんだ。だから、僕みたいな人間よりも、ジムみたいな奴に宇宙飛行士の枠を譲るほうが建設的だ」

『できないから目指さないのと、できるのに目指さないのは違いますよ』

 ……その言葉に、既視感を覚える。その台詞を口にしたのは、誰だったか。

 僕はセレスを睨み付けた。

「できないから目指さないんだ。何度も言わせるな、僕は宇宙に上がれないんだから――」

『いいえ、タマはできないから目指さないのではありません。やりたいのに、できないから目指そうとしていないだけです』

 きっぱりとそう言い放つ。

 セレスは自分の表面に青いノイズを瞬かせながら続けた。

『タマは、生きたいのですね』

 囁くような声。

 その言葉に、僕はなぜか、心の奥を見透かされたような気がした。

『課外授業の一環とはいえ、忌み嫌うはずの宇宙へ来たんです。自分は乗り越えられない、自分に価値がないと本気で思っているなら、そもそもここに来ようなんて思わなかったはず。タマはまだ、自分に本気で絶望しているわけではないんです』

「そ、そんなこと……ない。現に今だって、宇宙に居られなかったじゃないか!」

『それはつまり、宇宙に居たかったという希望の表れだと、わたしは感じます』

 頭を叩かれたような衝撃。

 軽いめまいを覚えて、僕は床に手を突く。

『タマは、生きたいのでしょう? 生きるために宇宙へ行きたいのでしょう? ならば、それを強く願ってください。そして、もっと努力してください。あなたのスタートラインは確かに他の人より遠くなってしまったけれど、走るための足を失ったわけではありません』

 僕は……。

 僕は、まだ、諦めてはいなかったのか?

『だから、自分を悲観しないでください。無価値だと思わないでください。あなたの本心は、まだあなたを必要とされたがっている。あなたの価値を、取り戻したいと思っている。それを察しているからこそ、お姉さんや水蓮さんは、あなたを励まし続けたのではないのですか?』

 僕は、言葉を返すことができなかった。

 セレスは静かに、青い球面を輝かせながら、言った。

『それは、わたしも同じです。あなたに価値があると信じている。あなたはまた歩き出せると信じている。……だから、わたしはあなたを追いかけるのです』

 ――ああ、そうか。

 僕は、宇宙に行けないから宇宙飛行士を諦めたんじゃない。

 本当は、宇宙に行けるか行けないかなんてことは二の次で。

 本当は……宇宙飛行士に、なりたかっただけなんだ。

『今日は厳しい試練となってしまったかもしれませんが、それでも足を踏み出した第一歩だったはずです。この一歩は、必ず次へ繋がっています。そうしていくつも歩みを重ねるたびに、タマは価値を取り戻すでしょう。わたしは、それを記憶していきたい。あなたという人間が歩んだ足跡を記憶に留めることができたなら、それはかけがえのないものになるでしょうから』

 セレスの記憶……か。

 僕はぐしゃぐしゃだった顔を袖で拭ってから、セレスに苦笑を浮かべて見せた。

「努力してみても、やっぱり宇宙飛行士になれなかった、っていう未来もあると思うけど?」

『そんなことはありません。わたしが常に付き添って、タマがサボらないように監視いたしますから。それに……わたしは、タマを信じています。タマが諦めなければ、大丈夫です』

 一切の淀みのない言葉で、そう返される。

 地球へ向かうシャトルの中。宇宙の片隅で、一人と一つがそんな会話を重ねていると思うと、僕はなんだかおかしくなるのだった。

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