第1話
ぱたぱたぱた。――おはようございます、
けたたましい足音を扉三枚向こうに感じて、僕はうつらうつらとしていた意識を呼び戻した。
カーテンを閉め切った暗い部屋。日の光が届かない暗室の中には、パソコンのモニターが発する白い輝きだけが、うっすらと幽霊のように漂っている。
床の上に座り込んでいた僕は、頭からかぶった薄い毛布をはぎ取ろうとして、――やっぱりやめた。
半分寝ていた眠気まなこを、毛布の隙間からゆっくりと彷徨わせる。我が居城である板張りの八畳間には、主要なものはベッドとエアコン、扇風機、そして眼前にあるパソコンしかない。テーブルやソファの類は存在せず、パソコンの本体もモニターも床に直置きだった。
そのほかにあるものと言えば、雑然と積まれた雑誌類と、食い散らかした菓子袋、空になったペットボトル。あと羅列するのも面倒な生活小物が数点、壁に寄せられているのみだ。
これが、僕の生きる空間のすべて。
ただ生きるためだけに特化した有機の檻――。
「おはよっ! 朝だよ、タマっ!」
そんなセンチメンタリズムを文字通りに一蹴する衝撃音が、部屋のドアから響き渡った。
僕は予想通りの展開に嘆息しながら、一応、そっちを睨み付ける。僕の断りもなしに部屋の中へとズカズカ侵入してきた栗毛の少女は、菓子の食べカスもなんのその、散らかり放題の床の上を横切って、東側の分厚いカーテンを一息に開け放った。
途端に部屋の中へと差し込む朝日。
十万ルクスの光線に、僕の手は思わず目を覆う。
次いで窓のカギを開け、二重になった窓ガラスもまとめて横へとスライドさせると、
「三日ぶりの晴れだよ、気持ちいいね」
そんな青春の一ページみたいなセリフと共に、
開け放たれた窓から流れ込んだ夏色の風が、昨夜の雨の残り香と共に水蓮の髪を梳かす。僕はその爽やかさから逃げるように床を這い、毛布と共にもぞもぞとベッドの上へ退避した。
「僕は駄目だ。知っているか? 吸血鬼は、朝日を浴びると死ぬんだぞ」
「タマは吸血鬼じゃないでしょ。……顔色は、ちょっとそれっぽくなってるけど。ひょっとして、また夜通しパソコン観てたんじゃないの?」
僕の顔を覗き込んで、辟易とした表情を浮かべる水蓮。普段から僕の夜型生活を毛嫌いしている奴なだけに、また小言でも言うつもりかもしれない。僕はじろりと水蓮を睨み付けると、
「余計なお世話だ。第一、現代人なら夜型生活は当たり前だ。僕だけが特別なわけじゃない」
「でも、陽の光を浴びないと光合成できないよ?」
真っすぐに僕を見たまま、少しの含みさえ持たずに言い放つ。こういうことを素で言うから、曙月水蓮という女は恐ろしい。
反論をあきらめた僕は、再び薄い毛布をひっかぶった。
「とにかく、今日はだめだ。頭が痛い。あと腹とか膝とか、とにかくいろんなところが痛い」
「だーめーでーす。妙奈さんと約束したんだもん。今日こそタマを連れて行くって!」
って、と同時に勢いよく毛布が引っ張られ、僕のまぶたが直射日光に晒される。まさに刺すような威力の光量だ。これがモグラだったら目が潰れていたに違いなかった。
「も、毛布から手を放せ……!」
「学校の出席日数、本当にもうギリギリなんだよ? いくら私でも怒るんだから」
そうは言うが、水蓮が本気で怒髪天を突いたところは見たことがない。せいぜい「怒るよぷんぷん」くらいだ。そんな平和主義者がいくら怒ったところで怖くもなんともない――のだが、
「スイちゃん、タマ起きたあ?」
僕の一番の天敵が扉の先から顔を出したのを見て、僕は慌てて頭を上げた。
「妙奈さん。見てください、ごらんのとおりです」
「あっ、バカ水蓮、誤解を招くようなことを言うな。今起きるトコだし」
などと口先の虚勢を張ってはみるが、肝心の身体はいまだに毛布の下だ。部屋の中を一瞥した
「幼馴染みに起こしてもらっておきながら、いい身分だな環ちゃんよ、ええ?」
「いいい痛い痛い! 頭がトマトになっちゃうって!」
「ったく。……おい不登校児のヒキコモリ。引きこもって今日で何日目だ?」
「ひ、ヒキコモリじゃないし。二日にいっぺんはコンビニ行くし……」
「じゃあ、学校を休んで今日で何日目だ?」
ちくり、と胸の奥にわずかな痛み。
指の隙間から見上げると、妙ねえの表情は真剣のそれ。その質問が僕の傷に塩を塗ることも、心を濁らせることも承知の上で聞いている。
だからこそ、妙ねえの言いたいことは痛いほど伝わる。……悔しいほどに。
僕は俯き、少しだけ奥歯を噛み締めてから、妙ねえの目を見ずに答えた。
「半年。……ちょうど、百八十日だ。父さんと母さんが死んでから」
「……だね」
妙ねえは手を顔から離して、そのまま頭の上へ。猫にするように軽く撫でる。
二十二の妙ねえから見ればガキみたいな年齢かもしれないが、僕はもう十五歳だ。頭を撫でられるような歳じゃなし、僕は妙ねえの手をそっけなく払うとベッドから降りた。
「行けばいいんだろ、学校。わざわざ水蓮に頼まなくても、ちゃんと行くし」
「そおかあ? あんた、一人でほっといたら絶対サボってコンビニ行くでしょ」
……完全に読まれているのも姉弟ならではか。
隣でくすくすと笑い声を零す水蓮を無視して、僕はようやく光の差した部屋から出て行った。
◇ ◇
昨夜のうちに買っておいたファストフードのハンバーガーを腹の奥に掻き込み、バッグを担いでアパートから出たのは午前八時。久しぶりのむわっとした外気温に、一瞬気が遠くなる。
「うわあ……ここが地獄か……」
「何言ってるの、こんなぴかぴかなお天気の日に。どっちかって言うと天国でしょう」
二の足を踏む僕の背を、笑いながら押してくる水蓮。アスファルトからの照り返しを受けながら、僕はしかたなく足を右、左と交互に動かす運動に没頭した。
ハワイ島唯一の市街ヒロヒロは、まさに夏真っ盛りの風景に彩られていた。
頭上には抜けるような青い空と、ちぎれて浮かぶ綿雲の白。火山岩を多く含む地面は茶色だが、眼に映る色は緑のほうが多い。点在する建物のほとんどが平屋なので、遠くの木々まで見通せるためだろう。近くのモンキーポッドの葉が風に揺られてかさかさと鳴き、地面に溜まった水たまりの表面へ木漏れ日の粒をこぼしていた。
そんなよく言えば大自然、悪く言えば超田舎の道をしばらく歩くと、ヤシの木に両側を囲まれた大通りに出た。道の左右には見た目のほとんど変わらない一戸建てがいくつも建ち並び、軒先に差したビーチパラソルが黒い影を落としている。
道路の道幅はそれほど広くはないが、クルマはそこそこにアスファルトを行き交い、禿げかけた白線を踏みつけていた。この街には信号機がないので、クルマの速度はのろのろだ。もっとも、その緩慢さはおっとりな市民性に起因しているのかもしれないが。
緩い坂道に差しかかると、遠くに海と、建物らしき灰色の影が見えてきた。旧市街の建物の半分はすでに水面に埋没しているので、まるで海から顔を出すアザラシのように見えなくもない。僕は胸の内でアザラシに別れをつぶやくと、街の中心地へ向かって歩を進めた。
「なんか、学校が遠く感じるな……」
「うわ、重症。ここで引き返すとかナシだからね」
水蓮が唇を尖らせてくる。僕が逃げ出すのではと疑っている様子だ。確かにもう引き返したいと僕の中のリトル環が囁いてはいるが、学校のあるヒロヒロの中心地にはコンビニが三件もある。逃げ出したくなったらそちらへ向かうという選択肢があると考えれば、重い足取りも多少は軽くなるのだった。
「まあ、どんな理由でも、学校に近づいてくれるならいいかな」
僕の胸の内を感じ取った水蓮は、少しだけほっとした表情を作る。おそらく、僕にあれを見せること自体がトラウマに触れるのではと心配していたらしかった。
だが、その憂慮は全くの的外れだ。そもそも、あれを無視していてはここでの生活は成り立たない。トラウマだろうが何だろうが、有無を言わさずあれを受け入れざるを得ない環境こそが、この街の最大の特徴と言えた。
「そもそも、ウチにいようがどこにいようが、絶対あれは見えちゃうだろ」
「だって、いつもカーテン閉めてるから、見ないようにしているのかなって」
……まあ、否定しないこともないが。
普段はぽわわんとしているクセに、妙なところで勘の鋭い同級生に背を向けたまま、僕は、今までわざと目を逸らし続けていた方向へ、意を決して視線を向けた。
そこにあるのは、一基の塔。
この街にあっては珍しい、二階から三階建てといった比較的高層の建物が密集する区画の中央に、その塔は建てられていた。塔の基部は三階建てのコンクリート造り。その建屋の屋根を突き抜けるように屹立する円筒形の塔は、重力に従って、あるいは重力に逆らって、地面と完全な垂直角で空へとまっすぐに伸びていた。
僕は塔の頂上を仰ぎ見ようとするが、いくら目を凝らしてもその先端へはたどり着けない。まるで吸い込まれるみたいに蒼穹の中へと消えてしまっている。
……当然だ。そんなこと、この街の人間なら誰でも知っている。
この塔こそ、この街のあらゆるすべての中心。商業、工業、サービス業、子どもの教育からお年寄りの茶飲み話のネタまで、この塔はすべての市民の中心となっている。いや、逆を言えば、ヒロヒロの街のすべてはこの塔のために存在していると言っても過言ではない。
ヒロヒロのすべてはこの塔と共にあり、すべての人類の希望の象徴でもある。
その名は、軌道エレベーター・マルクト。
宇宙とこの星を繋ぐ、全長4万4000キロメートルの、一本の細い蜘蛛の糸である。
◇ ◇
「お、珍しいやつが来たな」
教室に入って開口一番、予想どおりの台詞が飛んできたので、僕はうんざりしながら答えた。
「……久しぶり、ジム」
「ああ、まったくだ。このまま一生、出てこないのかと思ったぜ」
ジェームズ・アーロンド・ドナセラは、短く刈り込んだ茶髪にいつもの緑色バンダナを巻いた格好で、やはりいつもの席に浅く腰掛けていた。いかつい風貌に、いかつい身体つき。背丈は僕より頭二つ分も高い。こいつと並ぶと僕の背の小ささが目立つから余計に嫌だ。
「水蓮も大変だな、こんな腑抜け野郎のお守りなんて。嫌ならはっきり嫌と言ってやれば――」
「アホっ、それが休み明けのクラスメイトに言うセリフか!」
ばこん、とジムの頭をマズイ系の勢いではたいたのは、エギル・サゥという名の女生徒だ。エギルの後ろからも、そーだそーだ、とジムを非難する女子連中の声が続く。このクラスは全二十四名中、女子十八人と、僕やジムにとっては若干居心地の悪い環境となっていた。
「第一、アンタはなんで、タマくんにそう辛く当たるのよ。可哀想じゃない」
「そういう小動物的な扱いをするのが嫌なんだ。こいつはチビだが男だぞ? 半年も休学するなんて軟弱すぎる。男なら男らしく、なんでも自分ひとりの意志でだな……」
「いろんな事情があるんだから仕方ないじゃない。そんな怖い顔でタマくんに近づくな!」
びしり、と人差し指をジムに突き付けるエギル。うぐ、とジムが黙ったのを良いことに、エギルとその仲間たちは立ちんぼの僕に近寄って、
「ねえねえ、もう学校来れるようになったの?」
「タマくん相変わらず小さくてかわいいね?」
「おねーさんたちがいなくて寂しくなかった?」
などと心底どうでも良いことを騒ぎ立てたので、僕は慌ててその輪から飛びのいた。
「うっさい、近づくなヘンタイども! 僕を子供扱いするな!」
「うはー、相変わらずタマきゅん、きゃわわ!」
女子の一部から黄色い声が飛ぶ。これだから白人種は嫌なのだ。
ちょっとばかり……いや、もうちょっとばかり僕より背が高いからって、僕をマスコット扱いしやがる。同じ十五歳のはずなのに、どうしてこんなにも体格に差が出るのだろうか。人類史上永遠の謎であった。
「あはは。これでもみんな、タマのことを心配していたんだよ?」
頬に笑みを張り付けながら水蓮が言う。僕は振り返って、水蓮を睨んだ。
「そもそも、この原因を作ったのはお前だぞ水蓮。お前が僕のことを、いつまで経ってもタマって呼ぶから悪いんだ。タマだなんて、どこぞの猫の名前と同じじゃないか」
「えーっ? でも、環のことをタマって呼び始めてもう七年だよ? 今更直せないって」
「それを直せって言ってんだよ!」
「うひゃー、水蓮に噛み付くタマきゅんも萌えー!」
身悶える白人種ども。もはや何を言っても無駄だった。
「……お前も大変だな……」
「こんなときだけ同情してくれてありがとうよジム」
午前中の始業開始を告げるベルが鳴る。僕は半年ぶりとなる自席へ向けて歩き出した。
◇ ◇
州立メトシェラ訓練学校の全校生徒は、六〇〇人程度だ。
九歳から二十二歳までの青少年が通っており、一学年の平均人数は二十五人。人口一万人のヒロヒロ市に住む青少年の、およそ半分が通っているというから驚きの数字だ。ヒロヒロにはメトシェラ以外に学校はないので、残りの半分は就職者か自主学習者ということになる。
2134年のポールシフト前は教育が青少年の義務、という国もあったそうだが、ポールシフトを境にすべてが変わってしまった。そもそも、今では人口一万人という都市自体が少数派だ。学校なんて施設があること自体、今の時代では奇跡みたいなものなんだとか。
「じゃから、学校に通えることの大切さを忘れてはイカンのじゃよ、皆の衆」
そう哀愁深く語るのは、この学校の社会科担当・
「とは言っても、勉強だけがすべてではイカンぞ。ワシがまだガキんちょだった頃は、校庭を駆け回り川を泳ぎ、夜が更けるまで泥だらけになるまで外で遊んだもんじゃ」
「えー、ウソくせー。第一、先生に子供だった頃なんてあったの?」
「のわっ、何を言うかコワッパが! ワシにだって子供時代の一つや二つあるわい!」
ジジイが口角泡を飛ばすのを見て、教室中にどっと笑いが起きる。窓際の席に座る僕はその輪には加わらず、机に肘をつきながら窓の外の風景を眺めていた。
相変わらずそこに佇んでいるのは、天を貫く黄白色の塔だ。
軌道エレベーター・マルクト。フィンランドの天文学者ウィルソン・ミッドロウが提唱した地球脱出計画「セフィロト・プロジェクト」の体現たる十の柱の第十位。
四年後にこの星を追われることになる人類に残された、最後の希望――。
そんな大それたものが、今では日常の風景の中に溶け込んでいる。このメトシェラだって、エレベーター基部の研究所「ノア」だって、完成した当時はとんでもなくセンセーショナルに報道されたものなのだ。しかし、その感動も時間と共に薄れていって、今では学校の片隅にある普通科教室の一室で、ジジイに語られるのみに留まっている。時間というものは残酷だ。
「ええと、それで何の話をしとったかな。……そうそう、ワシの少年時代の続きだが……」
「宮國先生、歴史の授業中ですよ」
水蓮が手を上げつつ言うと、ジジイはふかふかの眉毛をぴくりと動かして壇上へ戻る。今では希少となった紙素材の教科書を手に取り、老眼鏡の位置を調整して授業の続きを始めた。
「ああ、ポールシフトの話じゃったな。えー、詳しい原因は別の先生に任せるとして、とにかく、2134年に発生したポールシフト現象は、地球規模の大災害をもたらしたわけじゃ」
震度八を超える地震の頻発。大津波に異常気象。僕の生まれる九年も前の出来事だが、その恐怖の記憶をいまだに忘れられない大人たちは多いと聞く。
「それまで、地球は公転面に対し約23.4度という自転軸を保っていたのじゃが、このポールシフト現象により地球全体が偏重力化。不規則に自転軸が揺れるようになり、最近では三年に一度の間隔で寒冷化現象が発生、大気圧も地球規模での異常が起きるという事態になった」
寒冷化、そして大気圧異常。これが、この地球を終わらせてしまう最たる理由だ。
「特に大気圧異常は多くの生命を奪ったのう。空気の濃度が変わるだけで、生命は簡単に死んでしまう。地球の人口は2134年からの三年間で二分の一になり、空気のある土地をめぐる戦争で三分の一となり、食料や燃料をめぐる戦争で四分の一となった。今ではもう、人口が十万人を超える都市は百もない。人口一万人のヒロヒロでさえ都会と呼ばれる始末じゃ」
僕は再び窓の外を見る。三階建ての建物が最高層な田舎町が都会と呼ばれるのは、確かに少し滑稽に感じた。もっとも、このヒロヒロがセフィロト・プロジェクトの一端を担う重要都市に違いはないので、世間的な評価はまた違っているのかもしれない。
「とはいえ、このヒロヒロも平穏無事に大災害を乗り切ったワケではない。ハワイ島の東海岸にあったかつての市街・ヒロは、大津波によってその大部分が水没した。途方もない被害を受けたこの街を再興したのは、同じく津波と海面上昇によって土地を失った日本人じゃ。今でこそ日本はサンフランシスコに租借地を得て第二の故郷としておるが、ポールシフト直後の日本人は国を追われ、地に足が着いておらん状態だった。そんな中、アメリカと
そう。だから、この島には日本人が多い。
もともとハワイには日本人が多く移り住んでいたこともあり、旧ヒロの再興に日本政府やアメリカは乗り気だった。その頃、国籍上の日本人は既に三千万人を割り込んでおり、しかも地球脱出を拒絶しオセアニアへ渡った人数も一千万人超と、国としての体裁が危機的状況だったこともあって、旧ヒロのセフィロト・プロジェクト化は渡りに船の一大事業だったのだ。
ともあれ、日本は旧ヒロを宇宙進出開発都市――ヒロヒロ市へと造り替え、宇宙進出者派の中で再び影響力を持つことに成功した。特に世界に十基しか建設しない軌道エレベーターを保有しているという事実は、そのまま人類の行く末を決める発言力に直結した。
なにしろ、この軌道エレベーターこそが、人類が生き残るための命綱そのものなのだから。
「ゆえに、ヒロヒロに住む人間のほとんどが宇宙開発の研究員とその家族、宇宙飛行士をはじめとした宇宙技能者、そして君たちのような宇宙飛行士訓練生で構成されておる。地球脱出を四年後に控えた今、このヒロヒロの、そして人類の命運は、まさしく四年後には宇宙飛行士となるであろう君たちの双肩にかかっているというわけじゃよ!」
最終的には熱弁となるジジイの演説、いや授業。いつもどおりの平常運航に、皆が生暖かい目で見守っている。お年寄りは大事にしなくちゃいけないのである。
言い切って、ぜいぜい、と大きく息をついたジジイは教科書から顔を上げて遠くを見ると、
「だからこそ、学校の大切さを忘れちゃイカンのじゃよ皆の衆。……とは言っても、勉強だけがすべてではイカンぞ。ワシがまだガキんちょだった頃は、校庭を駆け回り川を泳ぎ――」
「うわ、ループしたぞおい」
「何度目だよ、このくだり」
「ジジイ、しっかりしろ!」
騒ぎ出す生徒たちと、遠くを見たまま帰ってこないお年寄り。
半年ぶりでも変わらない教室と窓の外の風景を見比べながら、僕はそっと目を閉じた。
◇ ◇
「環、ようやく来たか!」
午後の授業の一コマ目、体育のために校庭へ出た僕を出迎えたのは、日に焼けた肌とタンクトップを盛り上げた大胸筋が目立つ長身の男。僕は目を逸らしながら小声で言った。
「……別に、あんたのために来たわけじゃないし」
「ははは、憎まれ口も相変わらずだな。さすがは妙奈さんの弟だ!」
そう言いながら男はでかい手を広げ、一九五センチというとんでもない高さからぐりぐりと僕の頭を舐ってくる。僕はこいつから頭を撫でられるのが宇宙で一番嫌いだ。それに、これ以上頭を揺すられたら、そろそろ首がもげてもおかしくない。眼前にある股間を全力全開で蹴り上げてやろうと画策したちょうどそのとき、後ろから水蓮が近づいてきた。
「アレン兄さん、あまりタマを困らせないでよ。機嫌悪くなるでしょ」
そうか、と手を引っ込める大男。もうとっくに気分は最悪になっているのだが、それをコイツに言ったところで効果はない。ムカツクことに、泰然自若がこいつの信条だった。
アレン・アケヅキ・グロリオーサは、アメリカ人の血が四分の三のクォータだ。日本人の血が四分の三の曙月水蓮とは従兄妹にあたる。容貌は似ても似つかぬ二人だが、とにかくすぐ笑うことと、良くも悪くも世話焼きであるところは遺伝子レベルで同じだった。
「いやあ、悪い悪い。久しぶりに義理弟に会えたことが嬉しくて。ついな」
「誰が義理弟だボケ筋肉」
「ちなみに、その……妙奈さんはお変わりないか?」
僕の毒づきを完全スルーして顔を近づけてくるアレン。ああ、毎日お変わりなくワンカップ酒かっ食らってるよと心でつぶやくが口にせず、代わりに水蓮が苦笑しながら言った。
「最近は妙奈さんと会ってないの?」
「いや、それがなあ……最近は隊の作戦行動が妙に多くて、逢いに行く暇がなかったんだよ。ほら、メトシェラの授業も最近滞りがちだったろ? 貧乏暇なしとはよく言ったもんだ」
オーバーに肩をすくめて、アレンは小さくため息を吐いた。
こいつは一見、ただの筋肉質な体育教師に見えなくもないが、実際の本業はアメリカ海軍の軍人だ。旧ヒロ市街の近郊に駐屯する独立部隊の二等准尉。本職がノアの研究員であるジジイと同様、二足のわらじを履く非常勤講師に他ならない。
そもそもメトシェラには、校長と事務員以外の教職員は存在しないそうだ。僕たちの勉強や訓練を見る講師は、すべて別分野の職業を主とする者たちである。その道のエキスパートたちに教えを乞えることを幸運と考えるべきか、緊急時には授業をほっぽり出して本職へ舞い戻ってしまうハンパ教師に当たった不幸を呪うべきかは、個人の判断に委ねられるところだろう。
「でも、そろそろまとまった休暇が取れそうな気配でさ。こうなったら、今までの遅れを取り戻すべく、妙奈さんとどこか南の島へでもバカンスへ行きたいところだよな!」
「……急に何言ってんだコイツは」
突然のアレンの言葉に、僕は眉根を寄せる。そもそも既にここは南の島だろうが。そんな僕の態度に何を思ったのか、アレンは神妙な表情で僕の肩に手を置いてきた。
「心配するな、お前も一緒に連れて行ってやるって。というかその……な? 実は、この話をなんとか妙奈さんに伝えてほしいんだ。いや、本気で頼む。お駄賃百ドルやってもいい」
「あんた……つくづくダメな奴だな……」
不幸なことに、この筋肉野郎はウチの妙ねえに惚れているらしかった。唯一幸いなことは、この筋肉野郎のことを妙ねえはどうでもいい存在としか認識していない点である。
筋肉の大きさのわりに色ごとには気が小さいらしく、ことあるごとに僕へ仲介役を頼むのが煩わしいことこの上ない。今回の対価は百ドル札らしいので、札だけ貰って妙ねえには言わないでおこうと心に決める僕だった。
「アレン教官、今日の訓練はどうされるんですか?」
校舎から現れたジャージ姿のジムが、多少緊張した面持ちでアレンに訊く。ジムはなぜか、アレンの前だとしゃちほこ張る傾向があった。アレンはジムの様子に苦笑いを浮かべ、自分の短い栗毛を少しだけ撫でつけてから、砂利の敷き詰められたグラウンドを見て言った。
「今日は訓練じゃなく、スポーツの日にしよう。そうだな、サッカーでもどうだ?」
「アイ・サー!」
短い敬礼をして、校舎隅の体育倉庫へと駆けていくジム。クラスメイトの女生徒たちに呼ばれた水蓮も、僕に小さく手を振ってその場を離れていった。僕は肩を落としてアレンを睨む。
「また疲れるスポーツを……。宇宙飛行士に関係ないスポーツなんて、時間の無駄だろ」
「そうでもないさ。サッカーはチームワークを養える。宇宙での作業に従事するとき、もっとも重要となるのは仲間とのチームワークだ。実技がすべてってわけじゃないんだよ」
少し厳しめなアレンの眼に気圧されて、僕は思わず口を噤む。アレンは東の空に向き直り、二階建て校舎の向こうに見えている世界一高い塔を眺めながら口を開いた。
「それで……環、お前はどうするんだ?」
「……何が?」
「今月の二十五日だろ、宇宙技能者試験の一次」
宇宙技能者試験とは、簡単に言えば、宇宙飛行士になるための試験だ。
宇宙飛行士と一概に言っても、役割はいろいろある。宇宙船や航宙機を操る操縦士に、ロボットアームや作業機械を扱う機械技術士。施設建築士に、環境開発技官に、天文航海士なんて職種もある。また、広い意味で言えば宇宙開発研究員も宇宙飛行士の一分野だ。
すでに地球脱出計画の実行は四年後に控えている。その計画を遂行するためには、少なくとも脱出人口のおよそ五人に一人は宇宙飛行士でなければ対応できない。宇宙に対してあまりにも無力な人類は、一刻も早く不足する宇宙飛行士を育成しなければならないのだ。
そのために存在するのが、宇宙飛行士養成学校――メトシェラ訓練学校であり。
僕たち、宇宙飛行士候補生がここにいる意義だった。
「来年からは技能分野別のクラスになる。普通科でみんな一緒の授業を受けられるのは今年までなんだ。お前の辛い気持ちも分からんでもないが、時間はそんなに待ってはくれない」
アレンが蒼穹の空を見上げるのと逆行して、僕は茶色にくすんだ地面に視線を落とした。
「確か環は、親父さんと同じ操縦士志望だったよな。航空学科は生徒の募集も少ないし、試験も高度だ。下手すれば一次で枠が埋まるかもしれない。手続きをするなら早めに……」
「僕は、宇宙飛行士にはならない」
ぽつりとつぶやいた僕の言葉に、アレンは一瞬、眼を大きく見開いた。
思ったよりも簡単な台詞だ。それなりに重みのある言葉だと思っていたのに、いざ口にしてみると、なんてことのない告白だったことに気付かされる。
アレンは大きな身体を僕の方に向け、少しだけ怒気をまとった瞳で僕を見つめた。
「……本気で言っているのか」
「嘘を吐く理由なんかないし」
重苦しい沈黙。
風の凪ぐ音がする。
中天に浮かぶ太陽よりも強烈なその眼光に、僕はとうとう息が苦しくなって背を向けた。
「環、どこへ行く?」
「保健室。久しぶりに陽の下に出たから頭が痛くなった」
「おい! 変な嘘を吐くなよ」
「嘘じゃないし。だって僕はほら、吸血鬼だから」
グラウンドの喧騒が遠ざかっていく。同時に、身にかかる圧力も半減だ。
僕は歩きながら、肩の荷が下りる解放感と同時に、得も言われぬ喪失感を覚えていた。
……やはり、ここは僕のいるべき場所じゃない。
よりどころを失った吸血鬼が辿る結末なんて、それこそ火を見るより明らかなんだ。
僕は、暑い世界の中を、ただ一人で歩いていた。
◇ ◇
ばたばたばた、という荒々しい足音が扉三枚向こうに感じる。この市営アパートは二階建てでもないというのに、足音が響きすぎるのが欠点だ。夜が静かな田舎特有の事情と言ってよい。
時計を見れば、短い針はちょうど午後七時を回ったところだった。閉ざしたカーテンの向こうには暗い帳が下りている。……いつもより一時間以上も早い帰宅時間。あの仕事の鬼が残業を切り上げてきたであろうことを鑑みるに、なんとなく剣呑な雰囲気を察してしまう。
数秒後の展開を予想した僕はベッドの毛布の中にくるまって頭を隠したのだが、やはり蹴破られる運命にあるらしい僕の部屋の扉はバタンと開き、そこから侵入してきたであろう長い黒髪の暴力女にズボンを引っ張られて無理やり自室から引きずり出された。
「おい馬鹿ねえ何すんだ、パンツのゴム千切る気か!」
僕は必死に抵抗するが、妙ねえの腕力は人類のそれをはるかに凌駕していた。抗議も虚しく僕の身体は家のリビングまで連れ戻され、明るい部屋の中央を陣取る三人掛けソファの上へとブン投げられた。
ぼよんぼよんとスプリングに揺れる視界が収まると、僕の目の前には仁王立ちする姉の顔。
スーツ姿のまま部屋の電灯を背負った葛見妙奈は、真剣な目をしたまま口を開いた。
「アレンから電話で聞いたよ。宇宙飛行士、辞めるって言ったんだって?」
「あいつ……」
なんでこういうときだけ積極的に妙ねえに話せるんだ。奴の頭の中を割って見てみたいよ。
「あんたねえ、何考えてんの。父さんみたいな操縦士になるのが夢だったんじゃないの?」
「いつの話してんだよ……それを言ったのは幼稚園の頃だろ」
「今でもそうでしょ。宇宙技能者試験の一次、受けるんだよね?」
妙ねえの大きな瞳が僕に迫る。僕は無言で自分の背中をソファのさらに奥へと沈み込ませた。
「ちょっと……本気なの? 学校やめる気?」
「そこまでは言ってないだろ。……いいじゃないか、学校には適性診断の結果で宇宙飛行士を目指せない生徒だって少なからずいるんだ。それに――試験に落ちれば同じことだし」
「馬鹿っ!」
妙ねえは一喝し、僕の肩を勢いよく掴んだ。
「できないから目指さないのと、できるのに目指さないのは全然違うわ。……いい? あんたには宇宙飛行士の適性がある。人類一億人の命を、そして私やあんたの友人たちを無事に宇宙へ送る使命があるのよ。それを投げ出すようなことを軽々しく言うなんて、笑えない冗談だわ」
妙ねえの顔が怒りにこわばる。だから、僕はそれを見ないよう視線を逸らした。
「僕がならなくたっていいだろ。予定通りなら人類のおよそ五分の一、約二千万人が四年後には宇宙飛行士になるんだ。僕ひとりいなくなったって、大局は変わらないよ」
「逆だわ。たった二千万人しかいないから、ひとりでも多くの宇宙飛行士が必要なのよ」
声のトーンが若干落ちる。妙ねえは僕の顔を両手で包んで自分のほうへ向けた。
「それに、二千万人の宇宙飛行士候補生が全員無事に宇宙飛行士になれると思う? 百年前の選考と比べてかなり緩くなったとはいえ、それでも宇宙飛行士というのは狭き門なの。人類の運命を双肩に担ぐというのは、それだけ重い。空気が一切ない宇宙空間は、人類にとって死と隣り合わせの地獄だわ。そこへ一億もの人間を導くのだから、それ相応の責任が伴う」
「……そんな重大ごとを、僕みたいな引きこもりに託そうっていうのか?」
「そうよ。託すのよ。だからこそ、タマには強い人間になってほしいって思う。人類の未来を救おうと必死で生き抜いた父さんと、母さんの代わりに」
父さんと、母さんの代わりに――。
――ざわ、と。
唐突に胸の奥へ射し込んだ蔭に、僕は思わず顔をしかめた。
「……勝手だな」
「……何?」
僕は、僕の顔を包んでいた姉の手を振り払った。
「そのせいで、父さんと母さんは死んだんだろ」
「環……」
妙ねえの表情が凍りつく。僕は空虚な自分の手のひらを痛いくらいに握りしめて、
「僕は、父さんや母さんと同じ運命になるのだけは、ごめんだ」
――ぱん、という軽い音と共に。
僕の右頬を、強烈な衝撃が襲った。
遅れて感じるのは焼けるような痛み。実際はそれほど強くなかったのかもしれないが、それでも頭の中では殴られた破裂音が狂ったようにハウリングしていた。
「父さんと母さんに対して、なんてこと言うんだ!」
その声と共にのしかかってくる重み。気づいた時には僕の両肩は妙ねえに掴まれ、ソファの上へと押し倒されていた。
妙ねえの長い黒髪が雨垂れのように僕の顔に降ってくる。それでも、妙ねえの強い光を灯した大きな双眸は、隠れることなく僕を捉えていた。
「あんた分かってんの? 父さんと母さんがどれだけ偉大な人だったかを。沈没寸前の日本から命からがら脱出して、6000キロ以上の船旅に耐え、そんな苦難の中でも希望を失わないで、人類を――私たちを救うために必死の思いでマルクトを築いた人たちなのよ。私たちの親である以上に、人類に希望を残した偉人だわ。それをあんたは――」
「妙ねえは父さんたちを英雄視しすぎてるよ!」
僕は妙ねえを押しのけた。
妙ねえはその勢いに押されてソファの肘掛けに背中を預ける。僕は後ずさって、妙ねえとは反対の肘掛けに寄りかかりながら睨み付けた。
「父さんたちが凄い人間だったことなんて分かってるよ。でも、だから何だ? 朝も夜も家に帰ってこないでひたすらにマルクト建設に没頭して、マルクトの建設が終わったら今度はオービタルリングの建設と宇宙航行学の研究だって? 人類の希望も結構だけど、じゃあいつになったら僕たちの希望は叶えられる? 妙ねえといつも二人きりの家に、一体いつになったら帰ってきてくれるんだよ!」
僕を睨み返しながら黙る姉。僕の口を衝いて出た言葉は止まらなかった。
「それでもいつかは戻ってきてくれると信じて待っていれば、最期はオービタルリングに激突してきた人工衛星の破片で二人とも事故死なんて、最悪の人生じゃないか。誰も幸せになんてなっちゃいない。自分や家族の未来も救えない人間が、どうして人類の未来を救えるって言えるんだ。人類の命を救うはずの人たちが、どうして自分の命すら守れないんだよ!」
鬱積していた想いは叫びへと変わっていた。
自分の顔が赤くなっているのを感じる。
妙ねえは僕の顔を睨んだまま動かない。絶句しているのか、反論する言葉を探しているのかは分からないが、少なくとも僕の論舌に屈するような奥ゆかしい性格の人間ではない。そのことだけは、この世で最後の肉親である僕にとっては手に取るように理解できた。
だからこそ、僕はソファから立ち上がってリビングを出ていく。
「環、どこ行くの?」
僕は答えず、廊下を通って玄関を目指す。玄関のすりガラスから見える外は暗い。しかし、アパートの中で空虚な明かりに照らされ続けているよりはずっと良い。
「逃げるの?」
挑発するような妙ねえの声。しかし僕は無視を決め込んで、玄関の扉を開けた。
……そういえば、このシチュエーションは昼間のグラウンドとそっくりだな。
僕は、いつでも逃げる運命にあるのかもしれない。
幸運は待っていてもやってこないと言うけれど、追いかけても捕まえられないものなんだ。
◇ ◇
夜のヒロヒロは、静かさの中にわずかな音が介在する、不思議な空気に満たされていた。
聞こえてくるのは虫の声と風に揺れる枝葉の囁き、遠くから響く
大通りを歩いていても、人っ子ひとりどころか、クルマの一台も見かけない。
暗闇の中に瞬く光は人家の明かりよりも、空の星々の方が眩しかった。
きっと、上空のオゾン層が薄くなっているせいだろう。地球の空気量は重力偏差の影響で、北半球に多く集まる傾向にある。地表周辺の大気は無事でも上空は違う、しかしこの状況がいつまで続くか分からない――そういう現象が起きることは、すでに日常茶飯事と化していた。
「さて、どうするかな……」
ひきこもりで覚えてしまった独り言の癖を引きずりながら、僕は当てもなく街を歩く。
朝六時に起きて夜九時に寝てしまう健康的な市民性を多くの人が有するこの田舎町においても、一応は不夜城に近い歓楽街は存在していた。旧ヒロに近い商業街のはずれ、ロータリーバス乗り場の周辺だ。昔の日本みたいに電車が通っていれば駅の近くがそれになったのだろうが、不幸にしてハワイには電車はない。必然として、商業地の近くに寄り添う形となる。
夜の暇つぶしの代表格と言えばゲームセンターかカラオケだろうが、ゲーセンは不良のたまり場だし、カラオケは一人で入るには敷居が高い。コンビニも二十四時間営業であれば選択肢に入ったのだろうが……いずれにしても、ボッチの引きこもりには世知辛い世の中である。
僕の足は、気付いたときには町はずれの展望台へ。
そこからは、淡く光るマルクトがよく見渡せた。
マウナケア山へ緩やかに続く坂道の中腹に設けられた、板張りの展望台だ。とは言っても、二十五セントコイン一枚で動く有料の双眼鏡が備えられているでもない、ただの見晴らしの良い物見矢倉。唯一の利点は、視界を遮るような高い木が周囲に一本も生えていないことだろう。
さほどの高さもない階段を数段上って、開けた広場から空を仰ぐ。
マルクトは明滅を繰り返しながら、その先端を星空の中に吸い込ませていた。
宇宙港への物資が軌道エレベーター内を通るのは、主に夜間だと聞いたことがある。なんでも、人を乗せるシャトルと貨物を載せるシャトルは別物の構造らしく、同時に運行させると質量的バランスが崩れて危険なんだとか。だから、時折あのマルクトの中に見える光は、貨物シャトルがエレベーター内を過ぎ去る一瞬の発雷なのだろうと予測した。
自身も輝き、星々も輝いて眩しいほどの空のはずなのに、マルクトの先端は未だに見えない。
肉眼では決して見えない空の向こう――地上4万4000キロメートルの先で、父さんと母さんは事故で亡くなった。
その事故が起きたのは半年も前のことだ。
オービタルリングと呼ばれる、静止軌道上空に浮かぶ地球周回型多目的衛星の建設中、中軌道に廃棄されていた人工衛星が突如として軌道を変え、ほかの人工衛星と衝突。二つの人工衛星から発生した大量の破片が、オービタルリングの建設現場へと飛来したのだ。
人工衛星が突如として軌道を変えることは、近年ではままあることだった。地球規模の重力偏差は、宇宙に浮かぶ物質の軌道すら容易に変える。特に自転軸が定まっていない今の地球であれば、その傾向はなおさらだ。
だから、通常であれば軌道エレベーターを守る守護飛空艇が建設現場の警戒任務に就くのだが、その日は運悪くオービタルリングの作業箇所が三か所に分散しており、しかも父さんたちが作業していた現場は、守護飛空艇から一番離れたオービタルリングの先だったのだ。
第一宇宙速度に限りなく近づいた人工衛星の破片は、オービタルリングを瞬く間に粉砕した。
激突した瞬間の速度は秒速十二キロだったということだから、きっと瞬きをする暇もなかっただろう。
それが、死傷者五十八人を出した、セフィロト・プロジェクト至上最悪と呼ばれた事故。
その被害者の遺族として、僕と妙ねえは半年もの時間を過ごしてきた。
……妙ねえの気持ちも分からないわけじゃない。特に妙ねえは、母さんの後を追って宇宙進出開発機構研究室「ノア」の研究員になるほど、あの二人のことを誇りに思っていたんだ。その二人のことを引き合いに出されて、腹が立たないほうがどうかしているんだろう。
そう言う僕だって、父さんに憧れて宇宙飛行士なんてものを目指した人間のひとりだ。
あんな事件がなければ、僕の想いはここまで歪曲しなかったのかもしれないけれど――。
だが、過去はもう取り戻せない。
父さんと母さんは、二度と戻ってはこないんだ。
だからこそ、僕は、自分の無力さに打ちのめされる。
自分の目指してきたものの空虚さに、はじめて気付かされてしまったんだ。
宇宙飛行士になって人類を救う? 結構な話だ。だが、人類を救うことが僕の望みなのか。
そもそも、なんで父に憧れたんだろう。どうして宇宙飛行士を目指したんだろう。
宇宙飛行士になって、何がしたい?
宇宙飛行士になって、幸せになれる?
その知っていて当然の答えを、僕は僕の片隅にでも見つけることができない。
自分のことすら分からない自分が腹立たしくて、許せなくて。
何とかしようともがきたいけれど、結局何をしても無駄だと気付いてしまう。
この漆黒の空のような虚無感。
それが、僕のこころの奥に住まう病魔、ひきこもりという名の正体だった。
「僕は、結局……」
その先の言葉を吐こうとしたことに絶望して、僕は唇を噛んだ。
……僕は、妙ねえから逃げたんだ。
正直言って、妙ねえの生き方は眩しすぎた。
必死で母さんの遺したものを守ろうとしている。たった二人だけの家族になろうとも、決して弱音を吐かず、前を向き、ただひたすらに一つの理想を追い求めていた。
父さんと母さんの「人類を救う」という使命を、愚直なまでに引き継いで――。
「……くそ。だから、妙ねえには頭が上がらないんじゃないか」
妙ねえのことを考えると、身が引き裂かれるような想いがする。それは、精神的な意味でも、ある種の肉体的な意味でもそうだった。もちろん、肉体的という意味は、怒るとすぐに手が出る直情暴力型の人間としての部分だが。
「これは……今日は帰れないなあ……」
数時間前のソファでの頂上決戦を思い出して、僕はずるずると展望台の欄干に寄りかかった。
はっきり言って、妙ねえは鬼より怖い。やけっぱちになって家を飛び出したは良いものの、帰れば二度目のビンタを食らうだろうし、一週間は頬を膨らませて口を利いてくれない。
いや、下手すりゃまさに今、外で僕のことを捜索していても不思議はなかった。
「ヒキコモリが外に出れば騒ぎになる、って顕著な例か」
他人事のような自虐にせせら笑って、僕は再びマルクトを見上げる。
どうせ屋外で見る機会なんて滅多にないんだし、最後にその姿を焼き付けておいても――。
その時、夜空に一条の光が尾を引いた。
彗星だろうか。珍しい。青白く輝くその光点は、ゆっくりと弧を描いて落下していた。
確か燃え尽きるまでに三回願い事を唱えると叶うらしいが、眉唾に決まっている。
そう思いながら心の中で何を願おうかアレコレと熟考していたのだが、その彗星がいくら経っても燃え尽きないことに気付いて、我に返ったときはもう遅かった。
彗星は、まっすぐにこちらへ向かって突入してくる。
青白い光は大気を揺らす火球と化して、僕の悲鳴より早く滑落していた。
「ちょ、待……ッ!」
思わず顔を手で遮る。もちろん、激突されたら一巻の終わりなので無駄なのだが。
次に劈いたのは大轟音。
空気を根こそぎ炙ったような熱風と共に、あたりに衝撃を拡散した。
板張りの足場が揺らいでいる。僕は立っていられなくなり、思わず床に身を伏せた。
そうしてどれくらいが経過しただろうか。
たぶん一分にも満たない時間だったと思うが、ようやく揺れが収まり、彗星の落下が僕の真上ではなかったことに安堵しつつ立ち上がると、眼前に広がった光景に息を呑んだ。
展望台から見下ろせるなだらかな丘陵。きっと三百メートルと離れていない広い草原に、地面を一直線にえぐり返したような巨大な
そして、その轍の終着点には、今も赤く発熱する丸い物体が鎮座している。
その彗星は――いや、もうこうなっては彗星ではない。
夜空から降り注いだ一筋の光の正体は、まぎれもなく、隕石だった。
◇ ◇
自分でも何でこんなことをしているんだろうと今更に思う。きっと暇だったからに違いない。
本来、地球外物質の飛来を確認したら、最寄りの市役所か「ノア」に届け出るのがセオリーだ。未知の病原菌が張り付いているかもしれないし、宇宙人が乗ったUFOかもしれない。
そんなルールブックは、当たり前のように頭の中にしまい込まれていたはずなのに。
「なんで僕は、隕石に近づいているんだよ……」
独りごちながら、轍の上を歩く僕がいた。
星の瞬きしか光源のない夜。微風が葉を薙ぐ草原には、一つの隕石が墜落している。
近づいてみると、両手で抱えられる程度の大きさであることが分かった。放っていた蒼炎はすでになく、表面も熱を帯びているようには見えない。燻った匂いがあたりに漂っている。
それよりも驚いたのは、隕石の形だった。
「……人工物、なのか?」
その形は完全なる球体だ。いや、あちこち装甲らしき金属板が焦げて変形しているので、完全なる球体だった、と言うのが正しいか。隕石は文字通りの石でしかないので、ここまでボール型を保った物体が隕石である確率は低いに違いない。
「それじゃあ、中に宇宙人でも乗っているってのか? 面白い冗談だな」
確かグレイ型って言うんだっけ? それが乗っているならロズウェル事件の再来である。宇宙飛行士とは別の将来が開けてしまう可能性を想像して、僕は思わず口元を歪ませた。
だから、あまり注意を払わずに、その金属に触れてしまったんだろう。
触れた部分の金属板が、音を立てて落下した。いや、一つの金属板が外れると、その周囲の金属板も連鎖的に落下してしまった。板同士を繋いでいたリベットが折れていたのか。
僕は慌てて落ちた金属板を拾い集めると、その中の一枚に刻まれた文字を見つけた。
「Cere……s? セレスって読むのか?」
焦げ付いていて不鮮明ではあるが、アルファベットでそう書かれているようだった。
つまり、少なくとも人類の誰かが作り上げた可能性が高いってわけだ。
「でも、サンダルフォンが反応しなかったんだよな。そんなこと……ありえるのか?」
僕は金属片を手に取ったまま、思わずマルクトの上空を仰ぎ見る。
もちろん闇夜の中にはマルクトの燐光以外は何も見えない。だが、そこには確かに守護飛空艇が存在しているはずだった。
ちなみに守護飛空艇とは、軌道エレベーター防衛の主軸を担う自律型機動防空機のことだ。
第一軌道エレベーターには「メタトロン」、第二軌道エレベーターには「ラツィエル」というように、世界各国の軌道エレベーター一基につき、必ず一艇が護衛している。つまり世界に十艇しか存在しない特別製のワンオフ機であり、この第十軌道エレベーターの守護天使の名を「サンダルフォン」とセフィロトは呼んでいた。
軌道エレベーターはその重要性から、テロリストをはじめとした敵対勢力に常に狙われる運命にある。それらからの攻撃に対し、対空ミサイルや光学兵器という絶対的な武装戦力で、しかもほぼ自動的に迎撃行動を行えるという文字通りの戦略兵器が、僕たちの頭上を常に見守っているというわけだ。
さて、そのサンダルフォンは、自身の防空識別圏に侵入した飛行物体を絶対に見逃さない。それが許可なくマルクトの周囲四・三マイル圏内に侵入した瞬間、一九二門のマルチプルミサイルと八門のレーザーカノンを駆使して、一センチ以下の塵芥になるまで粉砕する使命を持っているはずなのだ。
だが、この球体にダメージは見られず、上空のサンダルフォンも沈黙したまま。
「許可のある物体だったか、サンダルフォンがおかしくなったかの二択なのかな……」
僕はつぶやきながら、その前者の答えを内心で否定していた。
そもそも許可があるのだとすれば、それがこんな原っぱのド真ん中に墜落して、今の今まで音沙汰なしというのはおかしい。許可を出したのはセフィロト関連なのだろうから、例え着地点の計算ミスだったとしても、今すぐにでもノアの職員が飛んできそうなものである。
だが、周囲は静寂に包まれている。僕の耳をくすぐるのは、さわさわという風の音だけ。
この静寂が、イレギュラーであることの何よりの証左だと感じていた。
「ヤバイ……かな。やっぱ帰るべきか」
そら寒い考えに襲われて、僕は踵を返そうと立ち上がる。手に持った金属片は、今すぐにでもノアへ届ければいい。あの研究機関は、きっとこんな夜中でも誰かがいるはずだ。
そう思い立ち、隕石まがいに背を向けようとしたところで。
――装甲が剥がれてできた空洞の中から、淡い光が立ち上った。
その幻想的な光景に、僕は思わず足を止める。
光の色は薄い青。重力に逆らって浮遊する燐光は、まるで粒子の一粒一粒が光をまとっているようだ。僕はなぜか、海の一部が漏れ出しているような感覚を幻視する。
漆黒の闇夜を柔らかく切り開いた青い光は、その身に纏う金属板の数を徐々に減らしながら、相対的にその光の量を増やしていった。
金属板が外殻だとしたら、青い光を放つそれは、まさしく中身――「本体」だ。
そうしているうちに、すべての金属板は音もなく草原の土に不時着して。
現れた中身は、完全なる蒼を体現する球体だった。
全体的に淡い光を放つそれは、つるつると滑らかな表面だけで構成されている。その材質は金属なのか流動体なのか液体なのか、見た目ではそれすらも判別つかない。直径はバスケットボールと同じくらいの大きさらしく、当然だが、金属製の外殻よりも一回り小さかった。
僕はその球体に対面したまま、ぱくぱくと口を閉じたり開いたりすることしかできない。
――もしかして、今、自分で外殻を「脱いだ」のか?
少なくともグレイ型宇宙人ではなさそうだが、こんなのはあまりにも想定外だ。
僕がしばし言葉を失っていると、青い球体は、その表面全体に無数のノイズを発生させた。
併せて聞こえてくるのは、不思議な駆動音。
まるで歌うかのような定期的なリズム。
それが十数秒続くと、最後に聞こえた駆動音は、なぜか人間の声のように、こう聞こえた。
『システム・コントロール。おはようございます』
ノイズの混じった女の子の声。それがあまりにも自然だったから、僕もつい言葉を返した。
「……今は夜だぞ」
『あ、本当。夜ですね。じゃあ改めて、こんばんはです』
僕は答えられず、口を再びぱくぱくしてしまう。
『標準時刻電波を受信。……ええと、現在は午後八時七分ですか。世界測地系に若干のズレを感じますが、たぶん大丈夫でしょう。感度も良好、ハワイ島の土は柔らかいです』
ぴーん、ぴーん、と得も言われぬ音を交えながら語られる声。その声の発生源は、どう考えても目の前の青い球だ。
「なんだこれ……この球が、しゃべっているのか?」
『そうですよ』
僕のつぶやきに、思いがけずその声が反応した。
僕が呆然としていると、その青い球体はあろうことか、まるで首を四十五度傾けるみたいにその躯体を傾けて、
『わたしの声、聞き取りにくいですか? 不具合があるなら、教えていただけると嬉しいです』
などと、まるで人間みたいな抑揚を声に込めて、僕に問いかけてきたのだった。
「ち、ちょっと待ってくれ。うーんと、もしかして……なんかのロボット?」
ひとまず冷静になって、現実的な可能性を訊いてみる。青い球はノイズを走らせながら、
『ロボットって、なんですか?』
質問を質問で返されるという斜め上の回答に、今度は僕が困る番だった。
「いや、えっと……ロボットっていうのは、機械で出来た人間みたいなやつのことで……」
『わたしは丸いですから、人間みたいではないですよね。それなら、ロボットではありません』
「いや、そうじゃなくてさ。つまり僕が聞きたいのは、お前は何者なのかってこと!」
動転している上に長年のヒキコモリが祟っていたが、ようやく聞きたいことを口にできて安堵する僕。青い球はなおもノイズを瞬かせながら、その答えを音声として発した。
『さあ……よく、わかりません』
「分からない? 分からないって……どういうこと?」
『わたしのメモリーはからっぽなんです。基本OSと一般的言語以外の知識は持っていません』
メモリーがからっぽ。それってつまり、記憶がないと、そういう意味なのだろうか。
「じゃあ、おまえの名前は?」
『わかりません。データにありませんね』
「OSの名前とか、バージョンとかは?」
『OSの名前とバージョンは、00284CDN021630312V0012です』
まったくもって意味不明だった。名前に繋がりそうなヒントにはなりそうもない。
……あ、そう言えば。
僕は手に持ったままだった金属板を光にかざしてみる。Cere_sと刻まれた単語の羅列。
「ひょっとしてお前、セレス、って名前じゃないのか?」
『セレス……ですか?』
「そう、セレス。C、E、R、E、Sで、セレス」
青い球のノイズが一際大きく瞬く。青色の流砂は止めどなく流れ、やがて消えた。
『ご命名ありがとうございます。では、わたしの名前はセレス、ということで』
「ということで?」
違う、そうじゃない……と僕が言うよりも早く自己完結してしまったらしい青い球は、目も口も耳も鼻もない表情を僕に向けて、ノイズと共に音を切った。
『今度はあなたの番ですね』
「番? 番って……何の?」
『まだあなたの名前を聞いていません。名乗り合うことこそが、相互理解の第一歩ですから』
――これが、僕とセレスの邂逅だ。
地球脱出まであと四年を控えた、ある一か月の記録の始まりだった。
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