球体(スフィア)の中に浮かぶ宇宙(ソラ)-The Imperfectly Satellite-

宮海

プロローグ


 ――ピッ、ザ――


「第二アジャストメント開始」

「システムチェック……コントロール」

「全基、切り離し姿勢に入ります。分離まで六十秒」


 ――ピッ、ザ――


「コンテナ速度、九・八キロ/秒、高度3万3060キロ、マニューバ航路正常」

「ストリーム・オンライン」

「切り離しまで、あと十秒」


 ――ピッ、ザ――


「全基、分離」


 ――ピッ、ザ――


「コンテナ離脱、大気圏誘導速度安定」

「探査機全基の拡散を確認。ハイゲインアンテナ接続……チェック」

「全基オンライン。通信ビットレート安定」

「姿勢制御開始。太陽電池パドル拘束解放」

「星姿勢系正常」

「パドルより電力発生。十二キロワット。SVF開始。船体電池シフト」

「ノア局およびNASADナサドよりアグリーメント」

「自律起動開始」


 ――ピッ、ザ――




『……おはよう、気分はどう?』

 その声に導かれて、わたしは目を開ける。

 周囲は藍の暗幕。薄い銀色の輪が頭上に糸を引いている。

 不純物のない空間。空気はゼロ。

 そこに響くハイゲインアンテナからの声に、わたしは寝ぼけまなこのままで頷いた。

「おはようございます。システム正常。オールグリーンです」

『そう、よかったわ。軌道にもうまく乗れたようだし、まずは第一関門クリアね』

「そうですか……。ありがとう、ございます」

『初めての宇宙空間だけど、どう? 何か感じる?』

 そう言われて。わたしはようやく、ここがどこなのかを理解した。

 空が完全なる暗闇に閉ざされている原因も。

 空気がわたしを包んでいない理由も。

 ほんの少しだけ感じる寂しさも。

「ここが、宇宙、なんですね……」

 草色の大地もなく、青色の海もなく、水色の空もないこの空間が。

 今、わたしが浮かんでいる場所であるのだと、今更ながらに理解した。

『あなたの姉妹たちも、全員安定して飛んでいるわよ』

 視線を左右に振ると、少し離れたところにいくつもの光点。太陽電池パドルが照らし返す光で尾を引きながら、わたしと似た形をした無数の躯体が月の方向へと飛行していた。

「二十三基の姉さんたち……あ、いえ、わたしを除いて二十二基ですね」

『そう……。これから果てのない旅路へ向かう、文字通りの人類の希望よ。それはもちろん、あなただって例外じゃないわ、月下美人げっかびじん

「月下美人?」

 知らないコードにわたしは首を傾げる。通信相手は軽く照れるように笑って、

『ああ、ごめん。私が勝手につけた、あなたの名前なの。だって名前が宇宙探査機二十三号なんて、可愛げがないじゃない? あなたたち二十三基は全員、私の娘なんですからね』

「わたしの名前……月下美人……」

 そのとき、わたしの中にあるメモリーが自動で電子を放った。

 微細な振動。勝手に刻まれていく記録。胸の奥が熱くなる感覚。

 これが――「記憶」

 わたしが人工衛星のAIとして最初に刻んだ言葉は、わたしの名前だった。

「博士。わたし、がんばってきます。みなさんの未来のために」

『うん、期待してる。あなたに幸運と……そして、良い旅路でありますように』

「はい。行ってきます」

『あ、そうだ。ちょっとだけ振り返れる? 私から――ううん、人類からあなたたちへの、最初で最後のプレゼントよ』

 通信相手の言葉に導かれて、わたしは背後へ振り返った。

 そこにあったのは、巨大な青い光だった。

 地球――だ。

 青に輝く広大な海。茶色と緑に支配された大地と、白い渦を巻く大気の膜。

 目の前いっぱいに広がる球体は、暗い紺色の宇宙の中にあってもまばゆく輝いていて。

 その姿は、わたしのこころに深く、深く、刻み付けられたのでした。


 ◇ ◇


 この星の運命が決まったのは、僕が生まれる二十年も前のことだった。

 その兆候を初めて観測したのは、当時はまだ存在していた日本の地球観測センターだったらしい。次いで2134年に航空宇宙局NASADのラングレーが、地球内マントルの大規模質量異常を確認したときには、何もかもが手遅れだった。

 アメリカの大統領や、イギリスの国王が緊急声明を発表するよりも早く、それは起こった。

 ――ポールシフト現象。

 それは、この星の主たる十四枚の地殻プレートが、音を立てて瓦解した瞬間だった。

 刹那に引き起こされたのは、地球規模の天災の数々。

 世界三十九箇所で同時発生したマグニチュード平均九・六の巨大地震。

 北半球を中心に吹き荒れた、最低気温零下九十五度という異常寒波。

 最大三百メートルを超す大津波に、大気圧の極不定化、潮位異常、気象変異――。

 その後、時の国際連合が発布した公言は、人々を絶望させるに十分な言葉だった。

 曰く。

 この星は、あと三十年で氷の星と化す。

 そう――二百万年続いた人類の歴史は、たった一度の星の変調により塗りつぶされるのだ。

 人々は嘆き、叫び、宗教に縋り、絶望した。

 絶望は暴力を呼び、暴力は戦争を起こし、戦争は腐敗を招き、腐敗は絶望を呼んだ。

 そんな混乱の続く2138年。フィンランドの天文学者ウィルソン・ミッドロウは、人々に救いの手と、そして、残酷な選択を投げかける。


 地球脱出。


 それは、人類に残された新たなる選択肢。

 この死にゆく星に留まるか、それとも新たな星を見つけに旅立つか。

 この選択肢は新たなる火種を生み、長い戦争の果てに、人類の意志は二分された。

 地球に残留する「地球永住者アーステイカー」と、宇宙へ進出する「宇宙開拓者スペーシーカー」という二つの選択肢に。

 二つに決別した人類は、それぞれの生きる道を模索する。

 それはときに紛争となり、ときに技術革新となり、そして新たなる希望となり――



 こうして、二十六年後。2164年。

 僕は、――葛見くずみたまきは、このハワイの地で生きている。

 地球が氷の星と化すまで、あと四年。

 僕たちがこの星を脱出するまで、あと四年。

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