3.五年前、さめた盛夏を懐かしむ
ぼくらが物心つく前から、ながく続いていた非日常が幕引かれた日のことを、正直なところ、よくは憶えてはいない。ただ、しんと冴えて静まる空気の隙間を泳ぐように、時間を曖昧に過ごした時分の感覚は、いまでも不意に忍び寄る。とはいえ幼少の頃のように、夢の中を泳いでいるように錯覚しながら生きることは、その日以来、もう二度とはなかったけれど。
たしかその時はまだ、昼をいくぶんか過ぎたばかりだった。太陽は中点に座しているというのに、あたりは火が落ちたような静寂と、真夏のうだる熱気ばかりに満ちていた。
村はずれに立つ小屋の内は、心地よくはない臭いと汗ばむような湿気がこもり、ひどく喉が渇いてしかたがなかった。
その日は朝方からずいぶん母さんの具合が悪く、ぼくはどうにも心配で。「大丈夫ですよ、久人。男児がそんなに、不安を表情に出すものではありません」と。かすれがちな声でたしなめてくる母さんのそばを離れる気にもなれずに、ぼくはすきま風ばかり吹くせいで、がたがたと家鳴りのひどい小屋の片隅にうずくまっていた。
あかくて苦しい、夜ごと耳をつんざくような警報ばかりが響く東京から、「疎開をするのですよ」と言って、大荷物で先をゆく母さんの背を、にいさんに手を引かれて追いかけて。そうしてぎゅうぎゅうの電車を乗り継いで、村にたどり着いたのが、その日から半年ほど前の頃だったか。
ぼくたちは空襲、というものをおそれて、この土地へと逃げてきた。しかしひどく焼け落ちてしまったとはいえ、やはり生家への懐かしさはつのるばかりで。逃げ延びてきた先での暮らしは、それまで感じたことのなかった山とみどりの気配もあいまって、つらく悪夢めいたゆめうつつのものとすら錯覚していた。
ぼくはずっと、戦時中とはいえ恵まれた暮らしを享受し、安穏と育まれてきていた。それまで知りえなかったおそろしさにおびえて、山向こうの空を見上げて帰りたいと泣きじゃくるぼくに、にいさんはいろいろな話をしてくれた。むかしむかしの話ばかりを、時にはつかえながら。
母さんは体が細くて貧弱に育つばかりのぼくが、男児らしく振る舞えないことを、いつも気をもみながら困ったように悩む。けれどたくさんの話を聞きながら、にいさんの背にゆられて眠る時間だけは、五つの男のぼくだけれど、女の子みたいにぐずぐずと泣いてしまえた。
にいさんに背負われた時に幾度か、東京の方角にあかあかとした空が見えたことがあった。ほどなくして、仕送りを続けてくれるはずだった親類からの便りは途絶え、母さんの綺麗な着物をやりくりして、日々の食事や寝床を、どうにか保つ他なくなった。そのうちにとうとう農家の一間も借りられなくなり、ぼくたちは早々に、ふるびたあばら家に引き移ることとなる。
今にも朽ちてしまいそうな建物は、なんでも、姉娘が婿を迎えて家を継ぐ慣習のあるこの土地にあって、分家も婿入りもできなかった下の弟が暮らすためにと、かつて建てられたものだったという。この辺りの地主である山辺家の敷地内にあるとはいえ、ひどくさびれた空き家だった。このままでは、きっと冬になれば凍えてしまいそうだ、と話すにいさんと母さんの声に、ぼくはこわごわとしたうすら寒さをおぼえたものだ。
そのような、無理のある暮らしがたたったのだろう。もともと丈夫ではなかった母さんが臥せるようになると、今度は十四を数えるにいさんが、お芋や大根の切れ端をもらうために、人手の足りない田畑を手伝いだした。ぼくは足手まといでしかなかった。母さんのそばにいるか、農村の子らにまじって時々こまごまとした手伝いをするか。そうやって日々を過ごすこととなって、あっという間に
生来の性状ゆえだったのか、それともおそれを打ち払う努力が、足りなかったのか。どちらにしろ同じ年頃の子供たちのように、ぼくはうまく手伝いもこなせないし、活発に飛び回れることもなかった。この農村での生活にどうにも慣れることができず。おまえはぐずだなあと、そうからかわれるばかりで、皆のいるところにまじりたくなくてしかたがなかった。子供特有の大きな声も、あたりを力いっぱい走り回る動きも、耳にするたび、試みるたび、あかい地獄がまなうらに爆ぜひろがる。どうしてもこわくて、おそろしくて苦しくて、身がすくんでしまう。こんなことすらできないなんて、にいさんはあんなにも頑張っているのに、やっぱり、駄目な弟だと思っていた。
その日も昼から大事な報せがあるから、きちんとラジオを聞くように、と。厳しく告げられていたにもかかわらず、臥せって動けない母さんに付き添うと言って、ぼくはやれることもないのに、寝床として借り受けているあばら家にいた。にいさんは、きちんと村の大人に呼ばれて、集まりに行ったのに。
母さんのそばに座ってにいさんを待ち続けるうち、かすれて痛くなってきた喉に、やがてどうにも居心地がわるくなった。正午をいくらか過ぎた時刻だったのだろう。なかなか帰らないにいさんを待ちかねて、ぼんやりとしてものを深く考えないまま、ぼくはふちの欠けた瓶ひとつを抱えた。渇ききった喉をうるおす水が欲しくてしかたなくて、ぼくは苦しそうに咳き込む母さんの枕辺から離れたのだ。
かろうじて出入り口を覆う木戸をあけて、あやうげにかかっている屋根の下から出てゆくと、真夏の強い陽射しがひどく億劫に身にふりかかった。
のろのろとした足取りで、近くに流れる小川を目指した。子供だけで井戸を使ってはいけないと、きつく含められていたからだ。小川の水も汲むものではないとも言われていたけれど、でもなにもないよりはましだろう、手ぬぐいを濡らせば、額にだってのせられる、そう考えたような気がする。
ひっそりと、皆が集まっている山辺の家屋敷には近づかないように、裏口から出てゆこうと思っていた。けれど土の稲荷様の側近くまでのろのろと歩を進ませた時、「ひさちゃん」と、ぱたぱたとした軽い足音とともに、女の子の高い声がぼくを呼んだ時の響きだけは、いまでもいやにはっきりと思い出せる。
「ひさちゃん、ひさちゃん……っ」
振り返ると、その頃はまだ家主さんのお嬢さんであった彼女が、木綿の袖を揺らしてこちらへ駆けてきていた。ぼくをむやみに笑わないどころか、たまににいさんと三人で食べようよ、と自分のおやつをわけてくれる同い年の女の子を、ぼくはそれほど苦手としてはいなかった。むしろ優しいと思って、親しみも感じていた。うわずった声で、彼女は何度も、その時ぼくの名前を繰り返した。
「なんで来なかったの、ひさちゃん」
「……だって」
「なんで聞かなかったの、ひさちゃん。――あのね、終わった、て。終わったんだって」
「ときこちゃん?」
ぼんやりと、うまくまわってはくれない考えを遮るように、彼女は薄汚れた空の瓶を抱く、ぼくの右腕に両の手指をのばした。
「戦争が、終わったの」
引き止めるように、ぼくに触れた指先に力は込められた。稲荷社の朱旗が、濁りがちな風にゆるくはためいて地に影を落とす。
「ねえ、終わったなら、ひさちゃんは、東京へ行ってしまうの? そうしたらもうここには、帰ってはこないの?」
泣き出しそうな面持ちで、じいっと顔を覗き込まれて。
ぼくはその時、曖昧ながらも、目がさめるという感覚を覚えたのだ。
不意にぱちんとまぶたがおしあげられ、それまでぼんやりとながめていた視界に焦点があわさって、眸の奥底からめまぐるしく意思が研ぎ澄まされたような気がした。いまだ慣れない暮らしは、この村に来るまでの豊かに恵まれていた生活とはかけ離れた日々は、苦しみながら泳ぐ夢の中のことではなく、あたらしくこの身のまわりで流れ続けている、現実の日常だったのだと気づいた。息苦しくあった呼気も、締め付けられるような心臓の鼓動も、なにもかも和らいでやすらかに、とん、と律を波打たせた。
そして、生まれて初めて惜しまれた言葉に、ぼくはひどく、驚いた。たしなめられ、心配され、慰められ、泣いてばかりで。それなのにこの久人というぼくを、惜しんでくれる言葉を差し出されて。誰かに惜しまれるぼくであるということを初めて知って、どうしてだろう、こんなぼくであっても、生き繋いでもよいのだと示された気がした。不可解に慕わしい感覚を、知り得たのは、その時が最初だった。それは、きっと彼女の意思に驚いた以上に、どうにも、生き残ってしまったぼくであっても肯定されたと、それが無視などできるはずがないほどに嬉しいと、おぼろげに感じたからこそ。
ぼくはゆっくりとまたたいてから、彼女に相対しているうち、いつの間にか詰めていた呼気を、やんわりとゆるめた。そうして故郷にはもう帰る場所はないことを、彼女はどうしてか、ぼくが帰るべき場所はこの地であると信じきってていることを、それゆえにぼくにとってはもはや、生家のあった東京は帰る場所ではなくなったことを、めざめるように、認めたのだと思う。
慕ったことも妬んだことも安堵も惑いもなにもかも。すべて、ぼくを認めてくれたひとの言葉で、はじまったのかもしれない。
――昭和三十四年、八月。
ぼくは生まれたばかりの家族を拾い、ぼくを生かした家族に譲った。
夏の名残は、いずれ朽ちる。あかく苦しい火の記憶が、よみがえることは決してない。
帰りつける場所は、ここにある。
(了)
神様は、帰る場所にいる 篠崎琴子 @lir
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