番外編 : ノーマンの邂逅(Slipping Away)

「失礼ですが、どちらかでお会いしたことがあるでしょうか?」

 そんな風に他人に声をかけるのは、今日こんにちでは野暮、もしくは不審者とみなされる。この街では特に顕著で、知り合いを装う輩はまず胡散臭いものだし、そもそも一度や二度会っただけでは特別な関係とはみなされず、例えベッドを共にしたとしても、再会の折には無視されることも珍しくない。“他人にはまず警戒を”。それがマンハッタンの流儀であり、生きていく上での知恵なのだ。


 ノーマン・シェパードは幸運な男だ。少なくとも世間的にはそのように思われている。彼の祖母は孫を見て「プラチナ・ブロンドと緑の目だけでも値千万」と言っていたが、ノーマンはそれに加え、整った顔立ちと完璧な肉体、そして誰もが羨む富と地位を持つに至った。しかしながら、成功と引き換えに失ったものも多くあり、そのひとつに時間があげられる。激務にかまけて己を省みることがなく、気がつけば四十は目前。我知らぬうちに失われた若さを取り戻そうとするかのように、ノーマンは若い男の肉体を欲した。一度きりの後腐れない関係。ときには「また会いたい」と未練がましいことを言われもしたが、そんな折はにこやかに頷き「機会があれば」と、心にもないことを口にする。他人に警戒心を持つのがマンハッタンの流儀だが、気軽に関係を結ぶのも、マンハッタン流。ノーマンはそのどちらもを採用していた。

 そんな警戒心とオープンさを併せ持つノーマンが、さきほどから注視しているのは、店の隅にいる男だ。遠目なのでハッキリとはわからないが、どこかで会ったような気がする。男は黒髪で背が高く、自分より年上だ。しばらく見つめていれば記憶が蘇るものだが、今夜に限って、いくら考えても思い出すことができない。

 ノーマンは企業の代表で、仕事では膨大な数の人間と会っている。もしあの黒髪の男が自分の身柄を知っていたら、少々やっかいなことになるだろう。ノーマンは世間に性癖を公にはしておらず、今後もそのつもりだった。こんな場所で取引先と顔を合わせれば、どうなることか。しかし、この店にいるということは、相手も同じ穴のムジナなのだ。同性愛が露見したからといって、互いの不利益には成り得まい。ここは南部の立ち後れた田舎町とは違う。CEOがゲイだとして、株価が下がるわけではない。それでもノーマンはクローゼットから出ることを好まなかった。なぜなら、同性愛に偏見を持っているのは、他ならぬ自分自身だからだ。親の代からの共和党員である彼は、強い固定観念を捨てきれず、さりとて欲望を捨てることもままならず、葛藤しながらも“密かな愉しみの場”に足を運ぶことを選んだ。グリニッチのクルージング・スポットは、アップタウンに住むノーマンには不似合いな場所。だからこそ適した隠れ家となり得る。S.T.インシュアランスのトップがこんなところで男を引っ掛けているとは誰も思うまい。ノーマンはこの店の常連で、来店のつど、名も知らぬ相手と身体を重ねていた。彼の人生において、これは比較的新しい体験だ。

 黒髪の男はノーマンに気付いているようで、何度か視線がかち合った。それでも互いに動こうとはしない。ノーマンはカウンター席に座っていたが、男は入り口に近いところに立ったまま。バーカウンターに自分から近寄るつもりはないらしい。

 ネオンカラーの照明で、男の顔がピンクや紫に変化する。向こうもこちらを警戒しているのだろうか? 一体どこで会った奴だ? 行きつけのレストラン? 税務署? 耳障りなクラブミュージックのせいで考えがまとまらない。ノーマンは苛立ちを覚え、安全圏から少しばかり足を踏み出す決意をした。近くで顔を見れば思い出すことができるだろう。リスクはあるが、好奇心もある。今回は好奇心の勝ちだ。

 ノーマンはスツールから降り、男の方にまっすぐ向かって行った。

「さっきからこっちを見てたな?」挨拶もなしに、ノーマンはずばりと切り出した。「前にも会ったことがある。そうだろ?」

 男はたじろぎもせず「いや」と短く答える。ノーマンは不躾に相手の顔を覗き込んだ。絶対に見覚えのある顔だが、間近で確認しても記憶は蘇らない。「おれの思い違いか……」とノーマンはつぶやいた。

 黒髪の男は軽くあたりを見回し「ここは音楽がうるさい」と言う。

「そういう店だからな」とノーマン。

「きみの言葉が聞こえなかった」

「ああ、そういう意味か。いや、大したことは言ってない。“おれの思い違いか”と言ったんだ」

「思い違い?」

「知り合いだと思ったんだ。どうやら勘違いのようだ」

 男は見たところ五十歳代。背は高く、すらりとした肢体を持ち、顔立ちは整っている。今日この店では一番のハンサムだとノーマンは値踏みした。若向きの洒落たジャケットを身に付けているが、落ち着きぶりは年齢相応だ。

「ここは初めてか?」とノーマンは訊ね、相手が答える前に「そうだろうな」と、独り合点する。「おれたちみたいな中年男はここでは珍しい。場違いだと感じなかったか?」

 男は苦笑し「ああ、正直かなり戸惑った」と告白した。

「店を間違えたな」

「きみは?」

「おれは何度もここに来てる」

「中年男には場違いでは?」

「場違いだが気に入ってる」

 分不相応なゲイクラブを選ぶ理由は、それが隠れ蓑となるからだけではない。ここには若い男が集っている。ノーマンのような富裕層が利用する店では、フレシュなゲイとの出会いは見込めない。

「若い男が目当てじゃないなら、一杯ひっかけて帰った方がいい。通りの向こうにもっと落ち着いたゲイバーがある」

 ノーマンは親切心で言ったつもりだったが、男は困惑した表情になり「よかったら少し……二人で話ができたら」と、切り出した。よほど勇気を振り絞ったのだろう。男は携帯を取り出し、意味もなく時間を確認するなど、行動に動揺が見て取れた。

 ノーマンは少し意地悪な気持ちになり「話って何だ?」と聞き返す。「株価の平均相場でも語り合うのか?」

 男は馬鹿正直に「株はやらない」と応える。「もっと個人的なことを話したいんだ」

 その言葉にはある種の誠実さが感じられたが、ノーマンは鼻白んだ。ここは高校のカフェテラスではない。皆、一夜の相手を求めてやってくる場所だ。それなのに、この男はおしゃべりすることを望んでいると言う。

 ノーマンは呆れ「おれはそういうのには興味がなくてね……」と、親指で鼻を掻く。「“お話し”なら、悪いが他をあたってくれないか」

 すると男は「他の誰にも興味はない」と切り返す。あまりにきっぱりした口調に、ノーマンは混乱した。こいつは最初からおれをターゲットにしていたのだろうか? 

「頼む」と男は哀願した。「ここはうるさすぎる」

 ノーマンは突然、合点した。この男はあまりにシャイなため、“セックスがしたい”と言い出せず、表現を柔らかくしているのだ。過去に会ったことがあると錯覚させられるほど見つめてきたのは、自分に狙いを定めていたから。この消極的な中年男は、おれから声をかけられるのをずっと待っていたのだろう。ノーマンは男を哀れに思った。プライドもなく、取るに足らない人間のような振る舞いをするのは、愛に飢えているからだ。孤独は人を愚かにする。しかし、それだからこそ楽しめることもある。

 この男は自分を欲している。だとすれば、優位に立っているのはこっちの方だ。少し優しくしてやるだけで要望は望みのまま。あれは嫌だ、これは困るといった不平を述べることなく、従順な下僕となるだろう。

 ノーマンは再び相手を品定めした。顔にかかる前髪の奥にある瞳は魅惑的で、どちらかといえばストレートに見える。ゲイ慣れしていないゲイといったところか。

 そこでノーマンは態度を柔和にすることにした。「話をするなら移動した方がいいな」と微笑みかけ「この店には個室があるんだ。二時間ばかり借りるとしよう」と提案する。

 気軽な火遊びを求めてはいるが、知らない男と連れ立って外に出るつもりはなかった。そこまで警戒を解くのは危険すぎる。この男は無害に見えるが、慎重を期すに越したことはない。

 店員に声をかけ、個室のキーを受け取る間も、男は従順だった。それはノーマンの予想通り。気弱であるということは、無知のままでいることを選ぶようなもの。この男がこの手のことに慣れるには、かなりの時間を要するだろうとノーマンは考えた。

 個室のキーホルダーには“VIP”の刻印がされていたが、VIPルームとは名ばかりで、ベッドとテーブル、それにバスタブがあるだけの簡素な部屋だ。鍵を開けると、甘ったるいベリーのような香りが鼻につく。強い芳香剤はタバコや体臭などの不快な臭いを消す目的だ。男が顔をしかめたので、ノーマンは「匂いにはすぐに慣れる」と言った。「窓がないので換気ができないが、数分で気にならなくなるよ。タバコは?」

「いや、吸わない」

「そうか。おれは吸わせてもらうよ」

 ノーマンは葉巻を取り出してカットし、ベッドに腰を下ろして火をつけた。芳香剤と葉巻の煙が混ざり合い、臭いはますますひどくなったが、ノーマンは気にも留めなかった。相手の顔色を伺うことなく、自分の好きなように振る舞うのは、彼にとって気分がいいことだ。

 テーブルはあるが、椅子はない。男はバスタブのふちに腰を下ろし、両膝に肘をついて顔の前で手を組んだ。ベッドに来ないのは場慣れしていないからだとノーマンは思い、自分の隣をポンと叩いて見せる。男はゆっくり立ち上がり、ノーマンから距離を置いてベッドにかけた。

「おれは……」と男が口を開くと、ノーマンは「いや、名乗らなくていい」と遮る。

「こっちも名乗るつもりはない。それでいいだろ?」

 葉巻を吸い込み「まず聞いておきたいんだが」とノーマンは言った。「きみはトップとボトム、どっちだ? おれはトップしかやらないんだが……」男の返事を待たず「それが嫌なら、他をあたってほしい。オーラルセックスだけというのもお断りだ」

 ここまで来れば今さら断るはずもないと踏んだ上で、ノーマンは条件を突きつけた。これは仕事でよくやる手だ。立場を有利に運ぶ手腕に長けているからこそ、ノーマンの会社は業績を伸ばし続けている。強引な進め方だが、効果は高い。しかし男はヘッドライトに照らされた鹿のように目を見開いたまま。ノーマンは愚人に話しかけるように「“トップとボトム”。意味がわかるか?」と訊ねた。

「いや、わかる。わかるが……ちょっと待ってくれ」

「なんだ?」

「おれたちはセックスする前提でここにいるのか?」

 間抜けな発言にノーマンは吹き出しそうになった。「いったい何だと思ったんだ?」しかし男の表情を見ると、冗談を言っているわけではなさそうだ。

「じゃあ、どういうつもりでここにいる?」

「きみと話がしたいと申し出たつもりだった」

「おれはそういうのには興味がないと言ったろ」

「だとしたら困った」

「それはこっちの台詞だ。てっきり同意があったものかと」

「奥さんの同意は?」

「誰の奥さんだって?」

「指輪の跡が」

 男が指差す先、ノーマンは自分の左手を見た。薬指の付け根だけ肌の色が違っている。

「目ざといな」鼻で笑い「今は離婚調停中だ。不貞行為にはあたらない」と説明する。

「不貞行為ではないが、隠しているんだろう?」

 ノーマンが笑みを消すと、男は「違うか?」と確認する。

「そうだ、隠しているとも」ノーマンは語気を強めた。「裁判で不利になりたくないからな。それに誰もがゲイに対して理解があるわけじゃない。そんなことはきみもわかってるはずだ」

「ああ、よくわかる」

 ノーマンは葉巻を灰皿に放ると、男に身体を寄せ、耳元に囁いた。

「延長はなしだ。やるべきことをやろうじゃないか」

 このウブな男は身の上話を望んでいるのかもしれないが、ノーマンはそんなことに時間を使うつもりはなかった。二時間で二度の射精。目的は単純かつ明確なものだ。

 相手の胸を押してベッドに倒すと、男は困ったような顔でノーマンを見上げ「待ってくれ」と制した。

「何だ?」

「服が……」

「ああ、いいジャケットだものな。おれも脱ごう」

 この男は奥手なのだ。初対面でのセックスには慣れていない。ノーマンはジャケットを脱ぎながら「最初は誰でも戸惑うもんだ」と穏やかに言った。「だが、一線を超えればどうということはない。そういうものだ」

 男のジャケットをハンガーにかけてやり「麻はシワになりやすい」と教えてやる。「ベッドで抱き合ったりするには不向きな素材だ。覚えておいた方がいいぞ」

「ベッドで抱き合う予定じゃなかったんだ」

「そうか? 本当に?」ノーマンはベッドに座り直し、心の中で毒づいた。おれのことを見てたくせに今さら何を言いやがる。ここまで来てプライドを捨てきれないとは、情けない奴だ。

 男は押し倒されたままノーマンを見上げ「それはおれのジャケットじゃないんだ。息子から借りた」と言う。

「息子がいるのか」

 男の年齢を考えれば子供がいても不思議はないが、ノーマンには意外だった。この男が子持ちであるということに、妙な違和感を覚える。

 しかし、それが事実であることを裏付けるように、男は「靴も息子の物だ」と続けた。「サイズが一緒でね。でもスラックスは腰回りが合わない。彼の方がおれより細身だ」

「もういい。家族の話をするな。ヤル気が失せる」

「それはきみにも家族がいるからか?」

「ああそうだ。いたら悪いか? おれにも息子がいる。いろいろあって嫌われてるが」

「そんなことはない」

「何?」ノーマンは眉をひそめた。

「そんなことはないって言ったんだ。きみは子供たちから愛されている」

「下らない気休めは…」

「気休めじゃない。リロイはきみのことを嫌ってなんかいない」

 ノーマンは唖然となり、言葉を失った。リロイは自分の息子の名前だ。

「おまえは……おまえは一体……?」

 薄気味悪さを感じ、ノーマンは男から離れた。こいつは誰なんだ。なぜおれの家族の名前を知っているんだ。

 男は身体を起こし「名乗っても構わないか?」と言った。混乱するノーマンは答えられない。

「おれはエドセル・ケリー。リロイの祖父で、アイリーンの父親だ」

 アイリーン? おれの妻のアイリーンか?

 ノーマンは目の前の男を凝視した。言われてみれば、こいつは義弟のディーンによく似ている。長年失踪していた父親が最近見つかったと、アイリーンは言っていた。それがこの男なのか。

 エドセルは「おれが誰だか分かっていて声をかけてきたのかと思ったが……」と苦笑した。

 妻の旧姓を持つ男は、軽く首を振り「騙すつもりはなかった。名乗り出るつもりも」と言う。

「騙すつもりはなかっただと? だったらどういうつもりなんだ。なぜおれに接触を? だいたい、どうしておれがここにいることがわかったんだ?」

 早口でまくし立てるノーマンに、エドセルは「おれには情報通の友人がいてね」と経緯を明かす。「きみがここにいると教えてくれた。それで、この店で出会えるかどうか……本人かどうかを確かめたかったんだ」

 エドセルは胸ポケットからスマートフォンを取り出した。「万いちのことを考えて、会話は録音させてもらったよ」

 それを聞いたノーマンは全身の毛穴から汗が噴き出す思いがした。こんな会話が裁判に提出されてみろ。陪審員がどう思うか。立場は明らかに不利になる。

「娘は無茶な財産分与は望んでいない」とエドセルは言う。「交渉を戦いに発展させたくないとも言っていた」

 その父親然とした態度に、ノーマンは腹を立てた。こいつはついこの間、偶然見つかった男だ。アイリーンを育てたこともなければ、結婚式に列席したわけでもない。どうせカネ目当てでここに来たのだろう。

「よし、いくら欲しいんだ? 金で片がつく話なら乗ってやる」

 開き直るノーマンに、エドセルは「そんな話はしていない」と言う。

「だったら何の話なんだ?」

 エドセルはわずか考え込む仕草をし「何の話だろうな?」と答えた。

「おれを馬鹿にしているのか?」

「そういうつもりはない。ただ、本当にこうなる予定じゃなかったんだ。でもせっかく二人きりになれたのだから、何か話してみたいと思ったのは事実だ」

「おれには話すことなど何もない。いいか、おれはおまえを義父だとは思ってない。結婚している間に一度も会わなかったし、死んだものと聞かされていたからな。おまえはハッテン場で物欲しそうにこっちを見ていたゲイの中年男だ」

「それならそれでいい。義父として認めてもらおうとは思っていない」

「だったらなぜ名乗った?」

「名乗らなければどうなってた?」

 どうなってたか、だと? ノーマンはさっきまでの自分がいかに興奮していたかを思い出した。

「……そうだな。あんたを押さえつけてでもヤッていただろう」

「アイリーンとは……」

「その名前を出すな!」ノーマンは怒鳴った。「あんたに彼女の何がわかる!? したり顔で語るのはやめてくれ! おれの方がアイリーンのことをよく知ってる! 十代の頃から付き合ってるんだ!」

 怒りをぶつけられたエドセルは、変わらぬ様子で座ったまま。視線を泳がせることはなく、じっとこちらを見つめている。ノーマンは激昂した自分を恥じ、普通のトーンで話そうと努めた。

「……わかってるさ。裁判の話だろ? あいつは強欲じゃない。おれだってそうだ」

「きみも娘も子どもたちのことを思ってる。それは間違いないね?」

「もちろん、そうだ。裁判は財産分与だけじゃない」

「きみはいい父親だと聞いているよ」

「それもアイリーンが?」

「そうだ」

「リロイはそうは思ってない」

「そうだな。彼は反抗期だ」

 ノーマンはふーっと大きく息を吐き「馬鹿馬鹿しい。もうやめだ」と言った。「こんな話をするためにこの店に来たんじゃない。悠長におしゃべりなんかせず、さっさと犯してやればよかった。そうすれば聞けたのはあんたの悲鳴と喘ぎ声だけだ」

「おれがおとなしく犯られると?」

「おとなしくなければ拘束するまでだ。この部屋にはいろいろな道具が揃ってる」ノーマンは睨むようにエドセルを見つめ、口元に笑みを浮かべて「今からでも遅くないか?」と言う。エドセルの腕を強く掴み「おれはここの常連で、いつもチップを多く払ってる。従業員は言いなりだ。意味はわかるな?」と詰め寄った。

 エドセルは掴まれた腕を見つめ「この上、おれの身体の中にまで証拠を残すのか?」と剣呑に言った。怯えた様子はまるでない。それを見たノーマンはぱっと手を離し「冗談だ。真に受けるな」と笑ってみせた。義父の体内に自分のDNAを残すつもりは毛頭ない。虚仮にされた悔しさから、つまらない脅しをかけたまでだ。

「調停中はもっと慎重になった方がいい」というエドセルのアドバイスに、ノーマンはため息で応じ、頭を垂れて「とっとと出ていけ」と命じた。こんな会話はうんざりだ。

 エドセルは立ち上がり、ハンガーからジャケットを取って身につける。ノーマンは床を見つめたまま、動こうとはしない。エドセルは疲れ果てた男に「おれを口説いたことを恥に思う必要はない」と声をかけた。「この顔にはきみが長年連れ添った女の面影がある。アイリーンとは良い時期もあったはずだ」

 ノーマンは顔を上げず「良い時期の方が長かった……」とつぶやいた。

 エドセルは部屋を出、静かにドアを閉める。バーに続く廊下は古い建物の匂いがした。芳香剤の甘い香りは完璧に遮断されている。通路で店のスタッフらしき男とすれ違う。男は「よかったかい?」と気さくに微笑んだ。エドセルは応じず、そのまま外に出る。

 二人の邂逅はわずかなもので、感傷的になるほどの時間はなかったが、それでも彼らは強烈な印象と共に相手を記憶し、忘れることは一生ないのだと互いに思い至った。

 呪いのような棘が心に刺さり、好奇心の代償は大きすぎる。夜はまだ続き、朝は遠い。どうやら今夜は痛み分けのようだ。



・・・・エピローグ・・・・


 ディーンは麻のジャケットに顔を近づけて匂いを嗅ぎ「うわ……これどうしたの?」と顔をそむけた。

「ああ、済まない」とエドセル。「後で洗濯しようと思ってたんだ」

「アバクロのショップで葉巻を吸ったみたいな匂いがするんだけど? いったいどこでこんな匂いつけてきたわけ?」

 答えず無言で微笑むエドセルに、ディーンは「父さん、マンハッタンに来て不良になったんじゃない?」とからかった。「そもそもおれのジャケットを着て行ったこと自体、怪しいよね。まあ、ローマンには釘をさしておくよ」

 夜の外出は悪友のローマンに連れ出されてのことだろう。ディーンはそう判断した。彼は善良な息子で、他の可能性は少しも想像していない。

 ディーンは芳香剤の匂いがついたジャケットをランドリー袋に詰めながら「そういえば、今週末の食事、姉貴も来れることになったって連絡があったよ」と報告する。「なんでも調停がスムーズに行きそうだとかで、時間が空いたんだって。人数が増えたけど、レストランの予約は問題なかった」

「それはよかった」

「明日はノーマン義兄さんと弁護士を通さず、直接話をするって言ってた。いいかげんお互い疲れてきたんじゃないかな。協議の時間は短い方がいいに決まってる」

「憎み合う時間もな」そうエドセルが言うと、ディーンは「ほんとそれ」と同意した。

「ジャケットはおれが洗濯するよ」エドセルの申し出に、ディーンは「クリーニングに出すから大丈夫」と応える。「これを自分で洗うのは難しいと思うよ。麻素材はシワになりやすいんだ」

「そうか。そういえば、そう言ってたな」

「言ったかな?」

「ああ、いや、きみじゃない」

「誰?」

「秘密だ」

 ディーンは唇の端を上げ「やっぱり不良だ」と断定する。

「そうかもな」とエドセル。「クリーニングに出してくるよ」とランドリー袋を手に取った。芳香剤と葉巻の匂いは洗濯で落ちる。これで残るのは記憶だけだ。



END

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ニューヨーク・ラブストーリー(Guess How Much I Love You!) 栗須じょの @Jono

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