番外編:クリスとディーン。(Poison Eye)
自分によく似た姿の人間が、この世には三人いるという。
おれは身長190cmで、体型は細身の筋肉質。白人、黒髪、目はブルーグレー。これだけの条件を満たしている人間は、この地球上に三人だけではないだろう。しかし姿形となれば話は別だ。今まで生きてきて『自分と似ている』と思える相手には会ったことがない。「お姉さんとよく似ていますね」とはよく言われるが、彼女の性別は女性であるため(おそらく。きちんと確認したことはない)胸や股間など、肉体的な相違は大きい(おそらく。これについても未確認)。
母は赤毛で背が低く、外見的な類似点はほぼ皆無。おれと似た男がいるとすれば、それは父親だろうと推測されるが、22年前に死んでいるため、検証は不可能。もし祖父と父がおれとそっくりだとしたら、この地球上にいるとされる三人のうち、二人はすでに存在していないことになる。
ディーン・ケリーはこの世に唯一。似姿のイケメンは存在しない。おれはそう信じていた。彼と出会うまでは。
「お願いです。作品のファイルを預かってくれるだけでいいんです。今すぐに目を通せなんて言いませんから」
目の前の男はバインダーを差し出し、思い詰めた表情をこちらに向けている。
「そんなに難しいことでしょうか? 棚のすみっこに置いてくれるだけで構いません。はるばるダブリンから来たんです」
おれは驚き「アイルランド?」と聞き返す。
「いえ、ジョージア州です」
「ええと……作品を預かってあげたいのは山々なのですが、社の方針として承諾しかねます。申し訳ありません。どうかお引き取りを」
押し問答の会場はユニバーサル・アート社のエントランス。画家と名乗る若者は「ここまで来たのに成果なしでは帰れません」と詰め寄った。額に汗が浮いているのは、夏の陽気のせいか、それとも緊張のためか。
男はバインダーをエントランスの鉢植えに立てかけ「作品は置いていきます」と宣言する。
「そんなことされたら困ります」
「あなたには迷惑はかけません。見なかったことにして頂ければ。誰かがこれに気づいてさえくれればいいんです。ぼくの名刺は挟み込んでありますから」
「それで何かが変わるとでも?」
「1パーセントでも可能性があれば、ぼくはそれに賭けます」
言い捨て、画家は去っていった。
ユニバーサル・アートは東海岸では最大手の絵画販売業社で、才能の押し売りはよくあること。その対応は新人社員であるおれに任されている。対処の仕方はただひとつ。心を鬼にして、とにかく追い返すこと。
「自称画家の売り込みに付き合ってる暇はない」というのは、シーラの弁だ。ボスである彼女から「作品の類は一切受け取らないこと」という指示を仰せつかっている。
植木鉢に寄りかかる青いバインダーを見て、おれはため息をついた。99セントショップで購入したであろうこのバインダーに、どれだけの情熱が詰め込まれていることか。ジョージア州のダブリンから来た自称画家の作品ファイル。ページをめくれば、彼の名前や作品が目に飛び込んでくるはずだ。見れば何らかの評価を下さざるを得ないだろうし、自分が追い返した男の名前など知りたくはない。シーラに相談すれば、捨てろと言うに決まっている。処分するのは忍びなく『クリエーターズ』とラベルされたファイル棚に置くことにした。1パーセントの可能性に協力したいわけじゃない。自分の罪悪感を軽減したいだけだ。
バインダーを棚に押し込んでいると「作品をチェックしてるのか?」と声をかけられた。
「やる気があるのは結構だが、売り出すアーティストを選ぶ権利はおれたちには無いぞ」
同僚のサイモンは黒々とした口髭を曲げ、にやりと笑ってみせた。
「社長やシーラの眼鏡に叶う作家のファイルは別室にある。“金を生む力のある芸術家”ってやつだ」
「ここにあるのは金を生む力がない芸術家ですか?」
「そうだ。気の毒だが、そこのファイルは誰も手に取ることはない」
おれはたった今置いた青いバインダーを見た。この棚はゴミ箱と大差ないらしい。植木鉢の横に放置した方がマシだったか。
サイモンは「いい作品って何かわかるか?」と質問を投げかけ、おれが考える前に答えを言った。「売れる作品だ。客が手元に置きたいと思い、実際に購入する作品。うちはミュージアムじゃない。いくら芸術性が高かろうと、売れなきゃ意味がないんだ」
もちろんそうだろう。これだけの流通とイベントの規模、印刷枚数などを計算すれば、採算を取ることが第一であるのは言うまでもない。しかし、高い芸術性を有する作品が商品としての価値がないとは、おれにはどうしても思えない。少なくともシーラは芸術性の高さを重要視しているはず。岩彩で描かれた抽象画や、重たいモチーフの油絵などは売りにくい作品だが、あえて取り立て、アーティスト契約を結んでいるのがその証拠だ。
サイモンは青いバインダーを引っこ抜き、パラパラとページをめくった。目を走らせ「どんな絵が売れるのか、正直おれには区別がつかないんだ」とつぶやく。「これはどうだ? ラクダと物売りの少年の絵。売れると思うか?」
「さあ、どうでしょう。売れるかそうでないかがわかったら、おれたち大金持ちになれるんじゃ?」
「はは、違いない」
サイモンは以前、額縁屋に勤務していて、そこでは絵の装丁やマットを切るなどの作業を受け持っていた。絵画にはさほど興味がなく、この会社に来たのはスカウトされて給料がよかったから。彼は近々ユニバーサル・アートを辞める予定だ。数年働いて、イベント業務は合わないと悟ったのだそう。
「あとはおまえに任せるよ。おれよりずっと芸術に詳しいし、絵画を愛してる。会社に貢献できる男だ」
おれはサイモンの後任として入社した。期待をかけてくれている彼に『自分もそんなに長くいるつもりはないんだ』とは、口が裂けても言うことはできない。
ダブリンから来た自称アーティストに情けをかけてしまうのは、その気持ちが少なからず理解できるから。なぜなら、おれも絵を描いている。
この会社に来たきっかけは、美術学校に在学中、パートタイムで絵の販売員をしたことに端を発する。売り上げ成績がよかったため、いい条件で就職を持ちかけられ、そのまま雇われたが、サラリーマン生活で人生を終えるつもりはない。将来は画家とまではいかなくとも、何がしかの作品を描いて、それで食っていけたらと願っている。できれば家具の組み立て説明描きとかではなく、作者の名前がわかるようなイラストレーターがいい。いずれアーティストとして独り立ちできるようになるまで、何らかの仕事をしなければいけないとしたら、ここはうってつけの職場だ。業界の事情を学ぶことができるし、必要な人脈も得られる。それにシーラのような美人が上司というのも悪くない話だ。
おれの入社理由はサイモンと似たり寄ったりだが、絵画への興味は彼を上回る。休日には美術館に足を運ぶし、自室の書棚は画集だらけ。最近は忙しくて絵を描く暇もないが、この仕事のおかげでアートから離れずに済んでいる。腰掛け仕事をしているからといって、モチベーションが低いわけじゃない。在籍するからには、会社に貢献するつもりはあるし、いつか辞めるにしても、ある程度の成績は残したい。業績を上げ、惜しまれつつ退社というのが、理想的な筋書きだ。
美術学校の卒業生が皆、画家を目指すわけではなく、多くはデザイン事務所や広告代理店に就職した。博士号があれば学芸員という道もあるし、卒業と同時に情熱を失って停滞することも珍しくはない。そんな中、アルバイトをしながら精力的に創作を続ける者もいる。同級生のマギーはウエイトレスの傍ら、グループ展にイラストを発表した。展示会の場所はロウアー・イーストサイドのギャラリーだ。エレベーターのない小さな建物だが、そこにはエネルギー溢れる若い作家の作品が、所狭しと並んでいる。
「ディーン! 来てくれて嬉しいわ!」
オーバーオール姿のマギーはいかにも美術学校出身といった風貌で、展示初日にも関わらず、ファッショナブルに装うつもりはないらしい。そんな彼女の作品は抽象画だ。『浮揚』と題された作品の前に立ち、おれはお定まりの質問をする。
「画材は何を使ってるの?」
「ウィンザー&ニュートンの水彩よ。ちょっと色味が強過ぎたかもしれない」
「製作日数は?」
「それが一ヶ月もかかったの。バイトがなければもっと早く、完璧にできるのに」
生活のための仕事などせず、絵だけを描いていたい。そうできたらどんなにいいか。創作活動をするアマチュアたちは、皆それを望んでいる。プロになればなったで苦悩は尽きないが、それでもおれたちは祈り続ける。『毎日創作に明け暮れる身分になれますように』と。
「外は暑かったでしょ? 喉が乾いてない? 夜にはオープニングパーティがあるから、いろいろ用意してあるの」
ギャラリーで昼間から飲酒というのは気が引けたので、炭酸飲料をもらうことにした。ソフトドリンクを取りにカウンターに向かうと、一枚の絵が目に入る。40号(1m×1m)くらいのキャンバスが、カウンターの陰に立て掛けてあった。夜の公園を描いたらしきそれは、モチーフこそありきたりだが、タッチが独特だ。3Dでもないのに、ただならぬ奥行きが感じられ、見ていると吸い込まれそうな錯覚に陥る。
おれは絵を両手で持ち、これは展示しないのかとマギーに聞いた。
「ああ、それ。うん、展示できないの。いい油絵でしょ。私の友達が持ってたから、貸してもらったの。でもいざ飾ろうとしたら、“やっぱり展示はしないでほしい”って」
「その友達が描いたのか?」
「ううん、彼女は私と同じダイナーで働いていて、絵は描かないわ。プレゼントされたんだって。既製品じゃないから展示していいって話だったんだけど、搬入してから断られたの」
「こんな絵、今まで見たことないよ。なんというか、衝撃的にすごい」
「でしょ。だから私も飾らせてと頼んだの。作家のプレートも作るし、ちゃんと紹介するからって言ったんだけど」
「展示できない理由は?」
「それはよくわからない。彼女の説明がちっとも要領を得なくて。絵をプレゼントしてくれた相手はボーイフレンドだって話だから、その人と別れたんじゃないかと私は睨んでいるんだけど。チラシにも載せてしまったから、展示しないのは不本意なのよね」
フライヤーには今回の展示がすべて載っていて、この作品は『無題』とされ、作家名は書かれていない。
「これを描いた人はデビューしてるのかな? うちと契約を結んでもらえないだろうか?」
「あなたの会社に? さあ、どうかしら。作者が誰かもわからないのよ。友達の彼氏はクリスっていうんだけど、その人が画家であるかはわからない」
おれは今一度、絵を眺めた。ジャンルは現代アートだが、古典的な趣もある。サインはなし。保護材も塗ってない。もしかしたら、これは描きかけなんじゃないだろうか。そう言うと、マギーは「でも、そんな中途半端に描いたのをガールフレンドに贈るかしら?」と疑問を呈す。
「その彼氏が描いたとは限らないんだろ」
「そうね」
クリスなんて名前は掃いて捨てるほどいる。重要な手がかりにはなりそうもない。だが、どうしても探し当てたい。この絵を見たら、シーラはびっくりするだろう。こいつと契約を結んだらすごいことになるぞ。
「その友達の名前は?」
おれはまずクリスを探すことにした。
作品展を見終わった後、その足でマギーのバイト先のレストランへと向かう。典型的なアメリカンダイナーで、客はまばら。マギーの友達はナンシーという。ポニーテールの女性店員にナンシーはいるかと訊ねると「私だけど?」という返事。一発で当てられた。こいつは幸先がいい。
おれはフライヤーを見せて名前を名乗り、絵の所有者であるかどうかを単刀直入に訊ねた。
「これを描いた人について教えてもらいたいんだけど」
するとナンシーは顔色を変え「そんなの知らないわ。何も知らない」と早口で言う。
「そうなの? きみはマギーの友達だよね? おれも彼女の友達なんだ。マギーがきみからこの絵を借りたと言ってたんだけど……」
「マギーは同僚よ。でもそんな絵は知らない」
ナンシーの視線は泳いでいる。普通なら『それは何?』とか『どういうこと?』と聞くものだが、頭ごなしに知らないを連発するとは。それじゃ“知っている”と言っているようなものじゃないか。
「ねえ、安心してほしいんだけど、おれはきみと……クリス? 彼との関係を詮索するつもりはないんだ。ただ、純粋にこの作品に興味がある。とても気に入ったんだ。できれば描いた人に会いたい。クリスがこの絵の作者かな?」
ナンシーは嘘を付き続けられないと悟ったのか「あれはクリスからもらったの。本当よ」と認めた。
「描いたのもクリス?」
「あなたは誰? クリスの身内の人?」
「いや、赤の他人。さっきマギーのギャラリーで絵を見ただけなんだ」
すると彼女は安心した表情になり「なんだ、私はてっきり……」と息をついた。
「てっきり何?」
「あなたがクリスの家族かと思ったの。だってとてもよく似ているんですもの」
それは予想もしない言葉だった。姿が似ていることは、今回の捜索に役立つだろうか。
ナンシーは急に態度を変え「彼に会ってどうするのよ?」と尊大に聞いた。余裕が出たのは、クリスの身内ではないとわかったからだろうか。
おれは名刺を差し出し、クリスに仕事を依頼したいのだと話した。実際はまだ依頼の段階ではないし、おれにそれを決める権利もない。ただ、こう言えば彼女が協力的になると思っただけだ。
ナンシーは名刺の角を顎に当て、上目遣いでおれを見た。「教えてあげてもいいけど……」と、もったいぶり「その代わり条件があるわ」と言う。
「条件。いいよ、何?」
「私をクリスに会わせてほしいの」
「きみはクリスのガールフレンドだって聞いたけど?」
「そうだけど……今は拒絶されているから。クリスと会って話をしたいの。私は彼と別れたくないから。それだけよ」
拒絶されているのなら、面談は難しそうだ。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
「いいよ、協力する。きみに会ってもらえるよう、クリスに取り計らうよ」
クリスがなぜナンシーを拒絶しているのかはわからないが、こうなったら頼み込むしかない。それに大手絵画販売業者からのオファーとなれば、いくらかは興味を持ってもらえるだろう。
ナンシーが書いてくれたメモの住所はグリニッチ・ヴィレッジだ。煉瓦色の建物が立ち並ぶ景観は、古いヨーロッパの街並みを思わせ、どこをとっても絵になる眺めだ。芸術を好むニューヨーカーを多く惹きつけ、これまでにたくさんのアーティストを排出しているこの街に、クリスとやらは住んでいる。この区域に居を構えるのは、家賃の面で容易ではない。となると、彼はすでに大成している画家なのかもしれない。もしそうならいい恥晒しだが、ここまで来たのに会わないという選択はないだろう。あとは当たって砕けろだ。
アパートの階段をのぼり、古めかしいドアベルを押す。応答がないので、ノックを三度。声がけを二度。留守なのだろうか。
諦めて帰ろうとしたそのとき「誰?」と声がした。慌てて戻り、名を名乗る。
「ええと、突然すみません。私はディーン・ケリーといいます。ユニバーサル・アート社から参りました。クリスという方とお話をさせて頂きたいのですが……」
しかし応答がない。焦って早口になってしまったのがいけなかったかと考えていると、カチリと音がし、ドアがわずかに開いた。チェーンはかかったまま。扉の隙間から、男が覗いている。顔は影になっているが、目はしっかりとこちらを見ていた。
男は静かに、だが力強く「誰に頼まれてここに来た?」と言う。
頼まれて? 妙な言い草だ。ユニバーサル・アートに知り合いでもいるのだろうか。
「誰にも依頼されていません。自分の意志でここに来たんです。あなたがクリスさんですか?」
男は胡散臭そうに目を細め「だったらどうだって言うんだ?」と質問で答える。初対面なのに、なぜか敵意むき出しだ。
おれはフライヤーを見せ「この絵にお心当たりがあるかと思いまして」と訊いた。するとクリス(彼がクリスだと仮定して)は目を見開き、ドアをバタンと締める。交渉決裂かと思いきや、チェーンを外す音がし、ドアが大きく開かれた。現れたのは、おれと同じくらいの背丈の男。高身長で黒髪で、魅力的なルックス。自分に似ているかと言われれば、まあそんな気もする。
クリスはフライヤーをひったくり「これをどこで?」と、不躾に聞いた。
「アートのグループ展です。この作品は展示はされていませんでしたが……」
「絵はどこだ? 持って来たのか?」
「いえ」
「だったらなぜ来た」
「この絵の作者に会うために来ました。当社は絵画の販売を専門としていて、多くの作家とアーティスト契約を結んでいます。失礼ですが、あなたがクリスさんで間違いないですか? もしご興味がおありでしたら……」
「おれの絵を持ってここに来るんだ。話はそれからだ」
ドアは再び閉められ、いくらノックしても、二度と開くことはなかった。
“おれの絵”と言った。やはり彼がクリスなのだ。アーティストは気難しいと言われるが、まさかこんなに気性の悪い奴だとは。普通に会話ができるかどうか不安になってきた。
事の次第をマギーにメールし、例の絵を借りたいと相談する。マギーからの返信は『ナンシーの許可があれば』とのこと。そうだろうな。おれがマギーの立場なら、同じ返事をすると思う。
翌日、再度ナンシーを訪れ、絵をクリスに渡したい旨、説明すると、彼女は「絶対に駄目」と即答する。
「あれを返したら、私たちの絆は本当に切れてしまうわ。絵が私とクリスを繋いでくれているんだもの。何があっても渡さない」
「きみは彼に会いたいんだよね? 絵を持っていけば会うことができるから、その上でゆっくり話をしたらいいんじゃないかな」
それはまっとうな提案だったが、ナンシーにはおれの言葉が耳に入っていないようだ。
「あれを手放すんじゃなかった……マギーなんかに貸すべきじゃなかったんだわ……」とブツブツ独り言をつぶやいた。
確かに良い作品だが、この執着ぶりはどうだろう。絵を渡せばクリスに会えるというのに、本人に会うよりも、絵を所有していることの方が大切であるかのように彼女は言う。
「あの絵は特別なの。私に語りかけてくれる。クリスと私をリンクさせてもくれる。返すことはできないわ」
彼女の目には若干の狂気が見て取れた。できれば関わり合いたくないタイプの人物だ。
おれがそう思うと同時にナンシーは「あなたとはもう関わり合いたくない」と言う。「あなただけじゃない。私から絵を取り上げようとする人は皆、敵だわ。クリスに伝えて。絵が欲しければ、私と会うべきだと」
ナンシーに追い出され、ダイナーを出る。何だかちぐはぐな展開になってきた。クリスは『絵を持ってこい』と言うし、ナンシーは『クリスに会わせろ』と言う。要求は拮抗し合い、事態に進展はみられない。さて、どうするか……。
ナンシーから許可が出ない限り、絵を持ち出すことはできない。マギーに無理を言うこともできるが、それでナンシーとマギーの仲が悪くなることは避けたい。マギーの元から盗み出せば、おれと彼女の関係が悪くなる。残る手段はナンシーと会うようクリスを説得する……しかないが、あの様子では、どう考えてもスムーズに運ぶとは思えない。玉砕覚悟でクリスを訪ねると、前回同様、チェーンの隙間からこちらを伺い「絵は?」と訊く。
手ぶらの説明をしようと「今はまだ……」と言いかけたところで、ドアが開いた。クリスは「中へ」とだけ言い、部屋の奥へと消える。
中へ? 入っていいのか? 成果ゼロなのに? どういう心境の変化だろう? とにかく彼の気が変わる前に話をしなければ。
奥へ進むと、そこは広々としたワンルームだった。元は複数部屋があったのだろう。壁を撤去したらしき跡があったが、それは素人仕事でみすぼらしい。壁だけではなく、至るところに修繕の必要が感じられる。そしてこれだけ広いにも関わらず、家具の類はほとんどない。見える場所にあるのは、ベッドがひとつ。おびただしい数の絵のキャンバス。様々なサイズのイーゼル。そして描きかけの作品。この簡素さから察するに、ここは生活の場ではなくアトリエなのだろう。縦長の大きな窓からはよく光が入り、日中であれば自然光で作業ができる。絵を描くためだけに用意された空間だ。
クリスは箱からタバコを出して火をつけ、スパッと煙を吐いた。黒いTシャツにダメージジーンズ。まだ若いのに、キース・リチャーズのような貫禄がある。おれは名刺を出し「ディーン・ケリーです」と名乗った。クリスは一瞥し、興味なさげな風だったが、しつこく差し出し続けていると、仕方なく受け取った。
「お忙しいところ、突然おじゃまして申し訳ありません。こちらの作品は制作途中ですか?」
描きかけの絵は、およそ横に3メートル、縦に1メートル。ふたつのイーゼルにまたがってかけられている。群青色と苔色がまだらに塗られているだけで、まだ何の形も成していない。これが下描きだとしたら、いったい何を描こうとしているのだろう?
クリスから返事はない。おれは構わず話し続けた。
「ギャラリーであなたの作品を拝見しました。とても素晴らしいと感銘を受けた次第です。失礼ですが、どこかエージェントとアーティスト契約はお済みでしょうか?」
クリスは無言だ。何をどう言ったらこいつの興味を引くことができるだろう?
「当社は合衆国全土で絵画の展示販売を行っています。作品は委託ではなく買取で、一般的なアートディーラーとは異なり、アーティストの法的な権利は完全に保証されているんです」
契約できると決まったわけではないので、慎重に言葉を選びつつ、記憶にある限りの契約メリットを羅列する。しかしクリスは眉ひとつ動かさない。ひとりで喋って阿保みたいだなと思い始めたところで、ノックの音がした。「クリス」と女性の声。「クリス、いるんでしょ。ここを開けて」
おれは思わず声のする方に目を向けた。ドンドンと叩く音の後に「開けないとドアの前で火を炊くわよ」と脅迫めいた言葉が続く。クリスを見ると、彼は屈んでタバコの吸殻を空き缶に入れていた。
おれは「ナンシーでしょうか?」と思い当たる節を口にする。彼女なら火を炊くくらいやりかねないと思ったからだ。しかしクリスは「違う」と否定。ここへ来て初めて会話が成立した。
「出なくていいんですか?」と訊くと、クリスは身体を起こし「出たほうがいいと思うか?」と質問を返す。
「火を炊かれたら困るのでは?」
「それもそうだな」
どうやら納得したらしい。対応するかと思われたクリスは「おれはいないと言ってくれ」とシリアスな表情で言った。
「おれはもう引っ越した……いや、死んだと言ってくれてもいい」
「はあ?」
「頼む」
それだけ言い残し、クリスはバスルームへと消えた。どういうことだ? 玄関に出て『クリスは死んだので帰ってくれ』と言えってのか? そんな子供だましが通用するとでも?
ドアを叩く音は怒りの度合いと比例しているらしく、今や叩き破れそうなレベルへと達している。こういうのは放置するとエスカレートするんだ。そのことをおれは経験上よく知っているし、ここで無意味に焼死したくはない。仕方がないのでドアを開けることにした。
現れたのは、ショートカットを黄色に染めた女性。「いるならすぐに開けたらどうなの?」と文句を言う彼女は、ひと目みてわかるほどの美女だ。怒りに燃えた髪の毛が蛇のような女性を想像していたので、美人だとは意外だった。おれが「すみません」と謝ると「もういいわ。入っても?」と訊く。
「いえ、それはちょっと……」
「どうして? 誰か来ているの?」
「たぶん彼はお会いにならないかと」
「なんなのそれ? 相変わらずおかしなことを言うのね?」
相変わらず? それはどういう意味だろう?
「やっと会えたと思ったら、部屋にも入れてくれないの? 私とのことは遊びだったのね?」
「えっと、それはどういう……」
「いいかげんにして。あなたはいつもそう。都合が悪くなると人を無視したり、意味のわからないこと言い出して。変わっているのは知ってるし、そこが好きでもあるけど、たまに本当にイライラするわ」
彼女が何を言っているかようやくわかった。おれをクリスだと思い違いしている。見間違えるほど似ているとは思えないが、この人にはおれがクリスに見えるらしい。
「あの、人違いです。おれはクリスじゃなくて別人なので……」
「なにを言っているの?」
「ですから、おれはクリスじゃないんです」
至極当然の説明をしたつもりだったが、それは彼女の逆鱗に触れた。
「もうそんなたわごとはたくさんよ!」女性は金切り声を上げ、髪をかきむしった。「自分の分身がいるとか、向こうの世界に突き抜けるとか、そういう夢みたいな話はやめて!」
クリスのガールフレンドは皆こんなに頭がおかしいのだろうか? 彼女の狂気はナンシーの比ではない。これこそ“怒りに燃えた髪の毛が蛇のような女性”だ。
おれが面食らっていると、メデューサは「もう何も話すことはないってことね?」と結論づけ、おれの顔をぴしゃっと平手打ちした。
「せいぜい夢の世界に浸っているがいいわ!」
それが最終通告だった。名も知らぬ美女は、乱暴に階段を走り下りていった。
罵られ叩かれして、呆然としていると、背後からくっくと笑う声が聞こえた。
「手を出すとは思ってもみなかった」
振り向くと、クリスは「彼女、ひどい近眼なんだ」と説明した。「でもまさか間違えるとはね……」そしてまた笑い始める。
おれが暴力を受けた場面を目撃していながら笑うなんて、失礼にもほどがある。『すみません』とか『大丈夫ですか?』とか、何か一言あってもよさそうなものじゃないか?
頭に来たので「別れ話がすぐに終わって何よりでしたね」と嫌味を言うと「彼女とは付き合ってたわけじゃない」と言い訳する。「でも、こんなに短く済むと知ってたら、自分で出ればよかったな」
短く済むと知ってたら? なんなんだこいつは。相手に対する誠意ってもんがないのか。さっきの美人が彼女じゃないとしても、きちんと話をして帰ってもらうべきだろ。そもそも他人に対応させること事態、間違ってる。
クリスはタバコの箱を取り出し、一本咥えてから、こちらに箱を差し出した。代理で殴られてやったので、遠慮することもない。銘柄はロスマンズ。おれが愛好しているのと同じブランドだ。
クリスに火をつけてもらい、おれたちは共に煙を吐き出す。煙の向こうからクリスが「それより、あんた」と不躾に言う。
「ディーンだ。ディーン・ケリー」名を名乗るのはこれで三度目だ。名刺は完全に無意味だった。
「ディーン、あの絵を取り戻してくれるんだろうな?」
「取り戻す?」
「ナンシーが持ち去ったやつだ。あれはここから盗まれたものなんだ」
あの絵は盗品だったのか。そうと知っていたら、マギーに嘘をついてでも借りてきたのに。
「……盗まれたものだとは知りませんでした」
「知らなかった? じゃあここへ何しに来たんだ?」
それは前にも説明した。聞いていなかったのか、それとも忘れたのか。
「あなたの作品に魅了されました。それでお話をさせて頂きたいと。当社は絵画販売だけではなく、アーティストの制作をサポートしていて……」
「そういうのは興味ないな」
「契約だけして飼い殺しにするようなことはありません。仮に作品が売れなくとも、必要な画材の提供はさせて頂きます」
「もう帰ってくれ」
けんもほろろな態度に腹が立った。こっちはおまえの女に叩かれたんだぞ? 謝罪すらなく、ただ帰れと言われて『はい、そうですか』と回れ右するほど間抜けじゃない。
「あなたの絵を取り戻したら話を聞いてもらえるんですか?」
クリスはおれの言葉を無視し、おもむろにTシャツを脱いだ。靴は初めから履いておらず、床にミリタリーブーツが無造作に転がっている。画材が乗ったワゴンを引き寄せ、描きかけのキャンバスと向き合うクリス。バケツから絵筆を取ってウエスで拭き取り、パレットの絵具をつける。そして乾く間もなくどんどん色を重ねていく。キャンバスの乾燥を待たずに描いていく手法はアラ・プリマと呼ばれ、即興性が高く、感覚的な製作方法だ。
おれは背後からそっと近づき「ウエット・オン・ウエットの技法ですね。いつもプリマ描きを?」と話しかけた。「どちらの美術学校の出身ですか? 誰か師事する画家はいらっしゃるんでしょうか?」
「これ以上、口を利くなら出ていってくれ」
取り付く島もない。話をしたいのは山々だが、創作の邪魔をするのも忍びないし、ここは退散した方がよさそうだ。
「次回は絵を持って来ます」
クリスとの約束を果たすべく、グループ展に赴いたのは三日後のことだった。あの絵を貸してほしいとマギーに頼むと、彼女は肩をすくめ「それが持って行かれちゃったの。絵は盗まれたものだったみたい」と言った。
「あいつが来たのか?」
「あいつって?」
「クリス。絵描きの男だ。若くて、おれに感じが似てる」
「いいえ、そんな人じゃなかったわ。おじさんよ。長髪の巻毛で日焼けしていて、お金持ちっぽい感じで……名刺を置いていったの。これよ」
黒い紙に金で箔押しした名刺には、飾り文字で『ノワール』とだけ書かれている。これが名前だろうか。名刺なのに、名刺の役割を少しも果たしていない。いや、そんなことより、誰だかわからないやつに絵を横取りされてしまったのだ。仕事が立て込んでいて、ギャラリーが開いている時間に寄ることができなかったのが悔やまれる。
マギーに聞くと、その男は美術商だという。
「この絵の所有権は自分にあるとか言って。もう、ぜんぜん有無を言わせないのよ。なんだか怖かったわ」
クリスがノワールとやらに取り戻すよう依頼したのだろうか。いずれにしろ、絵を取り戻すという口実でクリスに会うことは叶わなくなった。美術商のノワールはギャラリーを構えているだろうか。クリスがそこで絵を売っているなら、うちの会社がもっといい条件を出すことで、契約に持ち込めるかもしれない。
心に響く作品に出会えることは稀で、それが手垢のついていない掘り出し物であれば尚のこと。クリスの絵画はもっと多くの人々に知られるべきだ。ノワールとかいう零細企業では、知る人ぞ知るで終わってしまうことだろう。
「ノワールは美術商じゃない。アーティストのパトロンだよ」
イアンはホットドッグにかぶりつき、そう言った。
「ついでに言えば、人の名前でもない。ノワールは芸術家のための工房なんだ。パトリック・ヴァンビルドという資産家が運営してる」
営業部のイアンはおれがパートタイムのときから世話になっている先輩だ。絵画に詳しく、キュレーターの資格を持っている。なぜそんな人がこの会社にいるのか謎だったが、案の定、イアンは辞職するという。次の就職先はメトロポリタン・ミュージアム。高学歴にふさわしい転職先だ。
もうすぐ辞めるサイモンと三人でランチを取ることになったが、サイモンおすすめのレストランは屋台のホットドッグ。おれたちは公園のベンチで爽やかなランチタイムを過ごしている。
「ヴァンビルドの工房はヒッピーの花園だって噂だ」とイアンは言う。「男も女も裸で工房をうろついていて、お互いを絵に描き合ってるらしい。そこらへんでセックスがおっぱじまったり、マスターベーションを見せびらかしたり、パフォーマンスで糞尿を垂れ流してるとも聞いたな。ウォーホルのファクトリーなんか目じゃない。遥か上をいく狂乱ぶりだ」
サイモンは顔をゆがめ「なんなんだそれは。変態資産家の娯楽なのか?」と、さも嫌そうに言った。
「金と暇を持て余すと、人間おかしなことをするようになるのかもしれないな」とイアン。
あの無気性なクリスがヒッピーの花園で性行為に及んでいるとは想像しにくいが、女性関係が派手なことは確認済みだ。あの常識の通じなさは、工房で培われたのだろう。
クリスについてイアンに訊ねると、彼は「噂は耳にしたことがある」と言った。「なんでも百年に一度の天才とかいう話だが、表舞台に出たことはないんだ」
するとサイモンが「表舞台に出てないのに、どうして天才だってわかるんだ?」と疑問を呈する。
「絵が外に出ていないだけで、作品を見た者は多数いる。おれは見たことはないが、業界では評判だ。おまえはクリスの絵を見たんだろ? 実際どうだった?」
おれは数秒、思案し「天才、だと思います」と答えた。
「やっぱりそうなんだな」と頷くイアン。サイモンは「どうなんだか」とニヤつく。彼はクリスの才能を眉唾ものだと思っているらしい。
「おまえはなぜクリスに興味を持ったんだ?」とイアン。
「彼の絵が素晴らしいからです。うちと契約してくれたらと」
「そうなったらすごいだろうな。しかし不可能だ」
「なぜです? ノワールはアートディーラーではないのに?」
「クリスはヴァンビルドの秘蔵っ子だ。他の作家であればいざ知らず、百年に一度の天才がうちと契約を結ぶとは思えないね」
「本人が望んでもですか?」
「それはわからないが、ヴァンビルドは手放すつもりはないだろう。クリスのことは、ダライ・ラマでも育てるみたいに大事にしてる。そいつを横取りしたとあったら、おまえ、殺されかねないぞ」
物々しい言い方をするイアンに、サイモンが「オーバーだな」と笑う。
「オーバーなもんか。ヴァンビルドはマフィアや秘密結社とも通じてるって話だ」
「だから、それがオーバーだっていうんだ」
「何にしても、契約を取るなんて暴挙は忘れた方がいい。この業界には“暗黙の了解”ってものがあってな。『他社の作家には手を出さない』『あちらこちら複数契約を結ぶ作家は嫌われる』このあたりはベーシックルールだ」
イアンは親切心で忠告してくれているのだろうが、おれの心にはまったく響かない。彼はあの絵を見ていないから、そんなことが言えるんだ。クリスは本物の芸術家で、おかしな資産家に飼い殺しにされている。
おれもあと数年この会社にいたら、イアンのような考えを持つに至るのかもしれないが、今はまだ違う。年をとって保守的にならざるを得ないのだとしたら、今のうちに無鉄砲になっておいた方がいい。世間知らずが世間を変えることだってある。
サイモンはホットドッグの包み紙をくしゃくしゃと丸め「しかし、百年に一度の天才なんてのは大げさだよな」と評した。「そうやって作家の前評判を高めようとしているんだろう。一種の宣伝方法だ」
サイモンもまたクリスの絵を見ていない。おれは見た。あいつは間違いなく天才だ。大げさでも何でもない。どうしてもあの絵を、あの作家を手に入れたい。後になって気づくのだが、この感情はほとんど恋に近かった。こんなにも熱狂的に誰かを欲したことは、未だかつてない。『忘れた方がいい』とイアンは言ったが、そんなアドバイスは情熱の前には無意味だ。どんなに危険だとしても、近づかずにはいられない。そんなものが遂におれの人生に現れたのだ。
うちの会社と契約したいと思うアーティストはゴマンといるのに、クリスは少しも興味を示さなかった。それはノワール、資産家のヴァンビルドという後ろ盾があるからだ。ノワールが美術商であれば、画廊に偵察に行くこともできたが、ヒッピーの花園となると簡単ではなさそうだ。おそらく一般人は立入禁止。そうなると、おれはまたしてもクリスを訪ねるしかない。正攻法でうまくいくとも思えないが、他のやり方は頭に浮かばなかった。
鉄の扉をノックし、声をかけたが応答はない。どうせまた居留守を使っているのだろう。『開けないとドアの前で火を炊く』と脅すこともできるが、ここは穏便にスマートに「例の絵のことで話があります」から始めた方がよさそうだ。
ドアの向こうで聞き耳を立てているであろうクリスに向かって、彼が興味を持ちそうな単語『ノワール』や『ナンシー』などを織り交ぜて説明したが、物音ひとつ聞こえてこない。ここまで反応がないということは、本当に留守なのだろうか。アールデコ調のドアノブを回すと、意外にも扉が開いた。チェーンもかかっておらず、中に入ることができる。鍵をかけ忘れて外出したのか。これで中にクリスがいなかったら不法侵入で逮捕されるが、あの素晴らしい作品が見られると思うと、誘惑に抗えない。
「クリス……?」
たぶん在宅しているという勝手な憶測の元、そっと足を踏み入れる。前回と変わらず、絵の具の臭いが鼻を突く。クリスはいた。それは思わぬ格好で。彼は床に倒れている。
「ちょ……勘弁してくれ……」
一瞬で血の気が引いた。仰向けに横たわるクリスの傍らにしゃがみ込み、呼吸を確認する。息はしている。吐いた様子もない。皮膚は緑にも赤にもなっておらず、普通の顔色だ。胸は規則正しい呼吸で動いている。おれは落ち着きを取り戻した。こいつは眠っているだけだ。
「それにしても……普通、床で寝るか?」
広いオープンルームなので、部屋の隅にあるベッドがやけに小さく見える。そこにたどり着く前に睡魔に負けたのだろうか。
「クリス……起きてベッドで寝たほうがいい」
声をかけたが、目覚める気配はない。おれと同じ背丈の男をベッドまで運べるだろうか。いや、不可能だ。室内の温度は上昇している。とりあえず窓を開けて熱気を逃し、ウインドファンをつけて冷気を呼び込む。ベッドまで運ぶのは無理だが、せめて枕だけでもあてがってやろうと寝台に近づくと、それが絵の具で汚れているのがわかった。ちょっとどころではない。まるでアクション・ペインティングでもしたかのように、乾いた絵の具があちこちにこびりついていた。これは洗濯しても落ちないやつだ。こんな汚ないベッドでは、女と愛し合うことはできないだろう。もし許されるとしたら、それはクリスが画家だからではなく、単にイケメンだからに違いない。
枕をクリスの頭の下に挟み込んでやると、彼は目を覚ました。起きるなり、おれを見て「……絵は?」と訊く。
「絵?」
クリスは上半身を起こし「盗まれた絵を持って来たんじゃないのか?」と言う。
「持ってません。あなたの……ノワールがギャラリーに来て取り戻したそうですが……そのこと、聞いてないんですか?」
それを聞いたクリスの顔。人は絶望するとき、こんな表情をするのかと思わせる顔だ。突然おれの中に罪悪感が沸き起こり、自動的に「すみません」と謝っていた。「絵を持ってくるつもりだったんですが……でも、取り戻せたのは良かったかと。今はヴァンビルド氏の手元にあるはずです」
「おまえがパンに言ったのか?」
「パン?」
「パトリック・ヴァンビルドだ」
「いえ、自分は何も……ギャラリーに来た男がこの名刺を置いていったそうです。彼がヴァンビルド氏なんですよね?」
「本当にパンが絵を?」クリスは訝しげにおれを見る。「絵がなくなったこと、おれは誰にも言ってない。盗まれたと知っているのは、おれとあんたと泥棒の三人だけだ。どうしてパンがギャラリーに?」
「さあ……それは……なぜでしょうね?」
答えられないおれに、クリスはもういいとばかりに手を降って立ち上がった。キャンバスに向かい、描きかけの作品と向き合う。トロリーの上にある絵筆に手を伸ばそうとした瞬間、彼はバランスを崩した。がくっと膝を折り、床に手をつく。完全に倒れてしまう前に助け起こせたのは幸いだ。クリスは熱中症かもしれない。こんな暑い部屋で倒れていたのは、普通でないと気づくべきだった。
おれがそう言うと、クリスは「病気じゃない」と否定する。「一昨日から何も食べてないだけだ」
「なぜそんなことを?」と訊いたが、彼の答えは「絵を描くんだ。邪魔しないでくれ」という、ちぐはぐなものだった。
助け起こしたのに“邪魔”とは、酷い言い草もあったもんだ。おれが支えなかったら、こいつは再び床に倒れ込んでいたはず。病気じゃないにしても、空腹で倒れるとはよほどのことだ。
「絵を描く前に胃に何か入れるべきでは? まず先に水を飲んだ方がいい」
クリスは無言でおれの手を振り払い、尚もキャンバスに向かおうとする。まるでテンカウントを取られまいとするボクサーのようだ。
「そこまでするなんて……締め切りに追われているんですか?」
「締め切りなんてない」
「それなら少しペースを落としたらいい。倒れたら元も子もないでしょう?」
「おれは絵を描くんだ。邪魔をするなら……」語尾は掠れて消えた。邪魔をするなら出ていけと言いたかったのだろう。
結局、クリスは絵を描き始めた。室内はほどよく冷えてきたので、さっきよりは過ごしやすいが、三日も食べていないのだとしたら、またすぐに倒れてもおかしくはない。せめて水分だけでも摂らせようと冷蔵庫を開けたが、ミネラルウォーターは見当たらず。あるのはフライドポテトについてくるケチャップの小袋と、ミイラ化したチーズの欠片。食えるものは何もない。
クリスが絵を描いている隙に外に出て、サンドイッチと白ワイン(栓抜きと使い捨てのカップつき)を買ってきた。買い物には30分ほどかかったと思うが、彼はさっきと同じ格好で絵を描いている。倒れていないのはよかったが、二本の足で立っているからといって安心はできない。ここまで根を詰めているのは、どうにも見ていて不安になる。
ワインの栓を抜き、カップに注ぎ「どうぞ」と勧めると、クリスは受け取り、一気に飲み干した。やはり喉が乾いていたのだろう。続けてもう一杯を飲み干したところで「ついでに食事を」とサンドイッチの袋を見せた。クリスは素直に従い、袋を開けて食べ始める。おれたちは向かい合って床に座った。椅子がないので仕方ない。腰掛けられるベッドは遥か彼方にあるように感じた。
「なぜ絶食を? その方が精神が冴え渡るとか、そういうことですか?」
クリスは手酌でワインを注ぎながら「食事を制限すると意識が拡大する……」と、つぶやき「それは確かだが、今回は違う」と打ち消した。「食べ物を持ってきてくれる人がいなくなっただけだ」
食べ物を持ってきてくれる人。それって、おれを叩いたクレージーな女のことか。それともウエイトレスのナンシー。その疑問に応じるように「いつもは何人かいて……」とクリスは言う。そしてワインを口に含み、飲み干してから「でももういなくなったのかもしれないな」と独り言つ。
「ガールフレンドが食事を運んでくれていたんですね? ナンシーも?」
「ナンシーはダイナーの料理を持ってきてくれた。ポテトフライとか、ハンバーガーとか」
「彼女、怒ってましたよ。あなたが会ってくれないと」
「絵を描いているときは邪魔してほしくない。それなのに彼女たちは居座ろうとする。頼んでもないのに、この部屋にいろいろ持ち込むんだ」
「いろいろって?」
「自分の着替えや靴。それに家具。物入れとか、エアークッション。化粧品もだ。香水を振りまかれると匂いで頭が痛くなる」
「ガールフレンドってのはそういうことをするものですよ」
「おれは頼んでない」
「頼んでなくてもするものです」
「彼女たちはガールフレンドじゃない」
「“彼女たちはガールフレンドじゃない”。おれも高校の頃はそう思ってました。だけど相手にしてみれば関係を結んだ時点で、言い訳無用ってことになるんです」
「ファクトリーではそうじゃなかった」
「ノワールですか?」
「そうだ。ファクトリーではもっと……違うんだ」
ヴァンビルドのファクトリーはヒッピーの花園。おれはイアンの言葉を思い出し、そこでの関係性がいかに奔放なものであるかを思い描いた。
こいつがおれに似ているというのは、こういうところなのかもしれない。黒髪、長身、ハンサム、異性にモテる。女たちが望むような関係を疎ましいと思うタイプだ。
突然ドアがバンと開き、威勢のいい声が室内に響き渡る。
「ドアが開いていたぞ!」
両手いっぱいに買い物袋を下げた中年男はズカズカと上がり込み、野菜や果物が入ったビニール袋を無造作に床に置いた。
「不用心だぞ。いつでも鍵はかけておけ」
長髪の巻毛をひとつ結びにして、どことなく遊び人風だが、仕立てのいい服が彼をヒッピーならざる者に仕上げている。マギーの言った通りの風貌だ。こいつがパン───ノワールのパトリック・ヴァンビルドに違いない。
男はおれを見「きみは誰だ?」と訊いた。「クリスの兄弟か? いや、歳が合わないな。従兄弟か? しかしよく似ている」
またしても似ていると言われた。いや、今はそんなことはどうでもいい。なんとか身バレせずにここを立ち去らねば。おれがスカウトマンだと知られたら一巻の終わりだ。
どう誤魔化すべきか考えていると、クリスが「ディーンは友達だ」と言った。
名前を覚えてもらっていたことにも驚いたが、それよりも庇われたことが意外だった。ここに胡散臭い業者が入り込んでいるとパトロンに言いつければ、おれを追い出すのに手間はかからなかったはずだ。
パンはおれを眺め回し「ほう」と音を発した。「そいつは珍しい。男の友達か」
クリスはぶっきらぼうに「何の用?」と訊く。
「何の用だと思う?」とパン。「おまえを叱りに来たんだ」そしてグループ展のフライヤーをクリスに見せ「絵を人に渡したな?」と詰め寄る。
「タウン誌を見て腰を抜かしたぞ。なぜこんなところに、おまえの絵があるのかと」
なるほど。ノワールはタウン誌に掲載された広告を見たのか。そいつはさぞかし肝を冷やしたことだろう。秘蔵の絵が美術学校を出たばかりの生徒作品と共に並ぶところだったんだ。憤慨するパンには悪いが、おれはちょっと愉快な気持ちになった。天才を独り占めしようなどと企むから、こんなことになる。クリスをいつまでも隠しおおせると思った大間違いだ。
パンは威圧的に「まだわからないのか?」とクリスに言った。「おまえの作品はおまえのものじゃない。自分勝手にどうこうできるものではないと何度言ったらわかるんだ?」
クリスはビニール袋の中をあさり、みずみずしい桃をひとつ取り出した。それに食いつき「そんなに絵が大事なら、おれを牢屋にでも入れればいい」と言い返す。
「そうしていいなら、やってやるぞ」
「たった一枚だ。しかも展示はされなかった。どこに問題が?」
「おまえの管理能力の話をしているんだ。簡単に身売りされたら迷惑だ」
「そんなに絵が大事? おれが身体を売ってもそこまで怒らないだろ」
「おまえの痩せた身体なんざ誰が買うものか。細切れにして精肉市場に出せば少しは値がつくかもしれんが」
「今の聞いたか?」クリスはおれの方を向いた。「絵が描けなくなったら、おれを肉屋に売り飛ばすつもりらしい」
なんなんだこれは? 親子喧嘩か? パンはクリスに人差し指を突きつけ「いくらわめいてもおまえが約束を破った事実は変えられないぞ!」と怒鳴った。「勝手に絵を売り飛ばすとは何事だ! おれがどれだけ情報漏えいに心血を注いでいるか知っていながら、この所行か!」
「ちょっと待ってください」おれはパンを遮った。「クリスは絵を売ったりなんかしていません。あの作品は盗難にあったんです」
「なんだと?」パンはおれを見、次にクリスに向かって「そうなのか?」と確認した。
クリスはなぜか悔しそうに「そうだよ」とつぶやいた。「女が勝手に持ち去ったんだ」
「そうか……だとしても、やはりおまえが悪い。女にうつつを抜かして、作品をちゃんと管理してなかったんだからな」
「男にうつつを抜かすのならいいってこと?」
「減らず口を叩くな」
盗まれたと知って毒気を抜かれたか、パンは静かに「今回だけは大目に見てやろう」と言った。「だがもしまたこんなことがあれば、おまえを館に連れ戻すからな」
パンが出ていくと、部屋の中は静まり返った。空調は冷えすぎている。日が傾き、キャンバスに塗られた色はワントーン暗くなった。
「……なぜおれがスカウトマンだと言わなかった?」
クリスはシャツの裾で手を拭き「パンに知れると話がややこしくなる」と言った。「わかっただろ。あんたの会社とは契約できない。おれはパンの所有物なんだ。ここで絵を描き続けると決まっている。それはおれの意志じゃなく、そうなってるんだ」
そうなってる? 契約は自分の意志ではないのだろうか。
「ちょっとよく……わからないな」
「家族に金を送ってもらってる。もしおれが逃げたら送金が途絶えてしまう」
「それで絵を?」
「絵を描けば金が入る。母親と弟がいるんだ。彼らは金を必要としてる」
ちょっと待て。そんなおかしい話があるか? 発展途上国の人買いじゃあるまいし、このアメリカでそんな話があるなんて異常にも程がある。
「クリス、それはおそらく違法だ。うちの会社には法律関係の部署もある。契約を結んでくれたら、うちの作家として擁護することができるんだ」
「それで? 次はあんたに飼われるのか?」
どうしてこの男はカチンとくる言い方ばかりするんだ。こんな調子じゃ、パンでなくてもブチ切れる。
「うちのは至極まっとうなアーティスト契約だ。人道的で作家の権利は守られる。あの奴隷商人と一緒にしてほしくないね」
「奴隷商人か」クリスは笑った。おれは笑えない。冗談を言ったつもりはなかった。
クリスは出し抜けに「パンはおれが嫌いなんだ」と言う。「おれが反抗的だから。あんたはパンの理想に近いんじゃないかな。モダンで礼儀正しいし、白いシャツとジャケットを着てる」
それは仕事帰りだからだ。毎日こんな格好なわけはない。だが、穴あきジーンズのクリスと比べれば、おれのファッションはフォーマルな方だろう。
「パンはおれにあんたみたいになって欲しいと思ってる。彼は白いシャツをおれに着せたがったよ。どうせ絵の具だらけになるのに。馬鹿げた話だ」
そこまで話すと、クリスはビニール袋から桃を取り出し、放ってよこした。
「もういいよ、帰ってくれ」
何? 話すだけ話して、あとは桃をやるから帰れってのか?
「そういうわけにはいかない」おれは腕組みしてクリスを睨みつけた。「いいか、おれはきみに貸しがあるんだぞ。きみのガールフレンドに引っぱたかれた。そのことについては何もなしか? それに盗まれた絵だって見つけてやった。取り戻すのは叶わなかったが」
めちゃくちゃな論法だとわかってはいるが、ここで帰されたら一巻の終わりだ。どうにかしてこいつと繋がりを持ち続けなければ。
おれは画材の乗ったトロリーを引っぱり、絵筆を取ってクリスに握らせてやる。
「そら、きみは絵を描くんだろ? 食料は冷蔵庫に入れてやる。だから心置きなく、創作に打ち込めばいい」
クリスはちょっと首を傾げ、不思議そうな顔をしたが、反論はしなかった。促されるまま絵を描き始め、あとはもう自分の世界へと没入していった。
おれは床から買い物袋を拾い上げ、パンが買ってきた食材を冷蔵庫につめる。キッチンをチェックすると、鍋やフライパンなどの調理器具は揃っていた。コンロは古いが、磨かれていて使えそうだ。プロパンガスの栓を開き、マッチで火を付ける。冷凍の鶏肉とセロリを塩と胡椒で煮込めば、チキンスープのできあがり。最低限の材料にしては、まともな食べ物だ。
調理が終わって、クリスをと見ると、熱心に筆を動かしている。悔しいが、本当にこいつは最高だ。作品が天才的なのは言うに及ばず、キャンバスに向かう姿すら神々しい。できることなら、彼を絵に描きたいくらいだ。
自分だけのアトリエで、ただ絵を描き続ける。ここだけ切り取ってみれば、それは優雅な暮らしに思えたが、さきほどのパンのやり取りを見るだに、クリスはあまり幸せではないのかもしれない。それでもこの環境を羨むアーティストは多いはずだ。たとえば、うちの会社に作品ファイルを持ち込んだあの男。いや、彼だけじゃない。美術学校の生徒たちは、皆それを望んでいた。創作活動だけで暮らしていくことは簡単ではない。それでもやらずにはおれないのだ。目の前の男はその情熱を確実に具現化している。
おれは真面目に仕事を覚え、会社員として着実に成長している。いつか絵描きになるときに、今の経験が役に立つかもしれないと思うと、デスクワークにも熱が入った。展示会場のレイアウトを考えたり、画家とメールのやり取りをするのは面白い仕事だ。とはいえ、ここに染まってしまうわけにはいかない。自分が何者であるか忘れることなく、目の前の作業を消化していこう。
上司のシーラがおれのところに来て「あなた、なかなかよくやっているわね」と褒めてくれた。「前回のレイアウトは社長も感心していたわ。さすが美術学校の出だと」
空間デザインは専門外だが、評価されると自信が湧いてくる。もしかしたら自分にはこっちの才能もあるのかもしれない。しかし調子に乗っているとは思われたくないので「この程度なら、誰でもできると思いますよ」と謙遜してみせた。するとシーラは「レイアウトだけならね」と意味深なことを言う。「以前にも何人か美術学校の卒業生を雇い入れたことがあったの。空間演出が得意な子もいたけど、仕事は不真面目だった。自分の才能にプライドがありすぎて、扱いづらかったわ。その子はグラフィック・デザイナーを目指していて、ここでの仕事は腰掛けだったのね。結局すぐに辞めてしまったわ」
仕事は腰掛け。それはまさしくおれのことだ。もしかして予防線を張られたんだろろうか。
「ここに来た美術学校出の皆が、画家やデザイナーになったんですか?」
「まさか。そんなわけはない」シーラは笑い「彼らはアーティストとしてやっていくことがいかに難しいかを、ここで学んだのね」と言う。「絵の仕事を貰えた子もわずかにはいたようだけど、ほとんどは別な業種に転職してる。自分の芸術を手放して尚、他人の芸術を支援するなんてことはやりたくなかったんでしょう。諦めた夢の近くにいるのは苦痛を生むものよ」
“絵の仕事を貰えた子”について詳しく聞きたかったが、そこまで踏み込むと、おれが腰掛けの同類だと見抜かれかねない。この話題はここまでにしておこう。
この会社にいるのは楽しいし、人生のプラスになっているとも思うが、ひとつの懸念が常に付きまとう。それは『おれは絵描きになれるんだろうか?』という将来の不安だ。美術学校を出ても、皆がクリエイターになれるわけではない。そんなことは百も承知だ。だからこそ、こういう場所にいて、何らかのコネやチャンスを掴めたらと願っている。
グラフィック・デザイナーを目指していたという誇り高い男は今、何をしているんだろう。すぐに会社を辞めたのは、彼の望みが叶ったからだと信じたい。『夢を諦めたけど、今は清掃員として幸せにやっているよ』というのは、おれにとって望ましい展開じゃない。シーラには悪いが、そう何年もここにいるわけにはいかないんだ。
クリスの元に餌を運ぶガールフレンドがいなくなったのは好都合だ。これでゆっくり彼を口説くことができる。おれは部屋に香水を振りまくことはしないし、自分の衣類を置くこともない。彼の創作の邪魔にならないよう、家政婦の役割を務めよう。稀有な才能が栄養失調で失われないために、滋養のあるものを選んで買い与える。クリスは食材を絵に描きたがったが、これらは食べるためにあるんだと説得した。それにこの暑い部屋に置いておけば、静物の果物はあっという間に腐ってしまう。
クリスは片膝を立てて床に座り、その格好のまま食事をする。都合、おれも床に座る羽目になるのは閉口だ。バルコニー用の安いテーブルセットでも買ってやりたい気持ちになるが、それをやったらクリスのガールフレンドと同じことになる。
クリスはワインをラッパ飲みしながら絵を描いた。ドランカー画家とは退廃的だが、言うほど格好良くはない。
「水みたいにガブガブ飲むな」と注意すると「ケチくさいことを言うなよ、兄さん」と言い返す。
「ケチじゃない。ちゃんと味わって飲んだ方が旨いって言ってるんだ。見ろよこのラベル。美しいと思わないか?」
「興味ないね」
クリスと一緒にいてわかったことがひとつある。彼は食事に感動するということがない。高いワインを開けても馬みたいに飲み干すだけ。こうなるとワイルドを通り越して粗野だ。人間らしいマナーも何もあったものではない。彼に絵を指導した教師はさぞかし手を焼いたのではないだろうか。
サイモンから教えてもらった最高のホットドッグをクリスに与えながら、過去に誰に師事したのかを訊いてみた。
「きみの絵はルーツがわかりにくい。絵の勉強はどこでした?」
「学校には行ってない」
「誰かの個人指導は?」
「一度も」
「でも影響を受けた画家くらいいるだろ?」
「いるよ」
「誰だ?」
「レンブラント、ベーコン、ダ・ヴィンチ、ボス、ベラスケス、ゴーギャン、ルソー、ピカソ、ルドン、ジャスパー・ジョーンズ……」
読経のように名前を羅列し続けるクリス。どれも著名な画家だが、時代も作風もバラバラだ。こいつはただ知っている名前を上げているだけ。結局のところ、絵画の何たるかをまるでわかっていない。天才とはこうもピュアなものなのか。
クリスはホットドッグを平らげ「ちょっと服を脱いで窓のところに立ってくれないか」と言う。
「なんだって?」
「人体を描きたい。モデルになってくれ」
「ここで裸になれって? きみの前で? 冗談じゃない」
おれが断ると、クリスは目を丸くした。
「何、鳩が豆鉄砲を食らったみたいな顔してるんだ?」
「いや……モデルを断わられたのは初めてだったから。あんた変わってるな」
変わってるのはどっちだよ。
「ここでは皆、すんなり服を脱ぐっていうのか?」
今のは愚問だった。クリスの反応から察するに、たぶんそうなんだろう。
「まあ、おれだって頼めば、女の子たちは喜んで脱いでくれるけどな」
他愛もない下ネタに、クリスは「そういう意味じゃない」と嫌そうな顔をした。なんだ、案外かわいいところがあるもんだ。こいつは奔放な割に潔癖なのかもしれない。
「そうだ、ここでヌードモデルを務めたら契約してくれるか?」
「それはできない」と仏頂面。
「じゃあこっちもだ」
よく知りもしない相手に服を脱げというのはノワールの流儀だろうか。あそこはヒッピーの花園だとイアンは言っていた。
「ノワールのファクトリーに行ったことあるか?」とクリスに訊くと、「子供の頃はそこで絵を描いてた」と答える。
「ファクトリーはどんなところなんだ?」
「皆、絵を描いたりしてるよ」
「服は着てるのか?」
「どういう意味?」
「ノワールでは裸の男女がうろついていて、乱交パーティ会場さながらだと聞いた。それが本当なら子供がいていい場所じゃない」
「そんな噂が?」クリスは笑い、「おかしなやつはいくらでもいたけど、公開セックスはまだ見たことない」と言う。「もしファクトリーを見学したかったらパンに頼むといい」
ファクトリーに興味はあったが、おれの目的とはまるで関係のないことだ。ここにいるのはクリスを捕まえるため。その目的をパンに悟られるのはまずい。家族への送金をカタに束縛されているという話が本当なら、悪くてパンは刑務所送りだ。人買いからクリスを解放してやれば、感謝されこそ、恨まれることはないはず。クリスにはファクトリーとこの部屋しかない。世界はもっと広いのだと、彼に教えてやれたらどんなにいいか。
クリスは伸びをし「モデルになるつもりがないなら、もう帰っていいよ」と言う。
ガールフレンドもこの調子で追い出したのだろう。こいつに惚れていたら傷つく言い方だが、おれは一向に平気だ。最初こそ失礼な物言いに驚かされたが、今ではこれがクリスだとわかっている。それに邪魔をしているのはこっちの方だ。
「わかった。今日のところは引き上げるよ。次は何を持ってきてほしい?」
食に興味のないクリスのことだ。『別に』とか『何も』とか言うんだろうと予想したが、意外にも要望は得られた。
「チョコレートバー……」ぽつりとクリスはつぶやいた。それは『もう帰っていいよ』と言うのと同じ、相変わらず抑揚のない声だが、希望商品がキュートすぎる。まるで子供だ。おれはニヤけそうになる顔の筋肉をコントロールしつつ「チョコレートバーか。ブランドは何にする? マーズか、スニッカーズか」と訊ねた。
「どれでもいいから、たくさん買ってきてほしい」
「いいよ、任せておけ」
『もう来るな』とは言われなかった。例えチョコレートが目当てだとしても、受け入れられたのは喜ばしい。いや、“喜ばしい”なんて抑えた表現は適切じゃないな。本音を言えば、めちゃくちゃ嬉しい。女の子たちはこうやってクリスに夢中になっていったのかも。おれが男でよかった。もし女だったら、きっと面倒なことになったはずだ。
帰宅すると、郵便受けにポストカードが一通届いていた。作品展を知らせる内容で、差出人はマギーだ。彼女、この前グループ展をやったばかりなのに、もう次の展示に参加するのか。
マギーは年に数回、作品を出展していて、コンテストにも多数、応募しているらしい。同期の中ではトップクラスのバイタリティだ。一方、おれはしばらく絵筆を持っていない。焦る気持ちが湧き上がったが、彼女とおれは方法が違うのだと自分に言い聞かせる。何はともあれ、マギーの努力が実を結ぶことを祈ろう。焦る気持ちはあるが、友達の成功を願えないほど、ゆとりがないわけじゃない。
応援メッセージをマギーに送ると、すぐに返信があった。その内容は、今回のグループ展のチラシをおれの会社に置いてもらえないかという依頼だ。
うちの職場にはアート展のフライヤー置き場がある。それは誰でも持ち帰っていいし、誰でも置いて構わない。タダで置けるだけあって、そこはフライヤーの墓場と化している。
マギーにそう伝えると、それでもいいから置かせてほしいとのこと。チラシの受け渡しはどうするかと訊ねると『ハンバーガーを奢るから、営業時間内にお店に来て』という返事。
『じゃあ明日の夜に』と送信してから気がついた。マギーのバイト先にはナンシーがいる。“あなたとはもう関わり合いたくない”と言われたことを思い出した。こちらとしてもできれば顔を合わせたくないが、あの狭い店内で鉢合わせしないというのは無理がある。残念だがハンバーガーは諦めよう。チラシを受け取ったら即、帰宅だ。
夕食時のピークを過ぎたダイナーは落ち着きを取り戻し、マギーはシュガーポットにグラニュー糖を追加していた。
「ちょうどよかった、さっきまでマジで忙しかったのよ」とマギー。「座って待ってて。チラシを持ってくるから」
「あ……ちょっと待って」
「なに?」
「ナンシーは今日は?」
「ああ、ナンシー。いるわよ」
“悪いけど、彼女と顔を合わせたくないので…”と、おれが言うより早く、マギーは大声で「ナ〜ンシ〜!」と呼びつけた。
地獄の始まりかと覚悟を決めたが、現れたナンシーは以前と雰囲気が違う。髪を短く切ってさっぱりしたのもあるが、表情が別人のように明るかった。
ナンシーはおれに向かって「あら、マギーのお友達よね?」と微笑みかけた。
「その節はすみません。クリスの絵を取り戻すことができなくて」
おれが詫びると、彼女は「別にいいのよ」と顔の前で手を振った。
「……いいんですか?」
「ええ、もう忘れることにしたの。もともと絵画の類はそんなに好きな方でもなかったし。よく考えたら、絵を戻されても飾るところに困ったと思う」
「でも、あのときはあんなにも必要としていたのに? 絵を取り上げようとする人は皆、敵だとさえ言っていましたよね?」
「そんなこと言ったかしら?」首を傾げるナンシー。「でもそうね。あのときの私はちょっとおかしかったのかも。クリスと別れた悲しみで気が変になっていたんだわ」
なんだろう、この違和感は。いや、むしろこれが正常なんだ。この前の彼女は異常だった。それにしても、人間こうも変わるものだろうか。まるで憑き物が落ちたかのようだ。
ナンシーの変化をクリスに話すべきか。別れた女の話など聞きたがらないだろうが、身の安全が保証されたことだけは伝えておきたい。彼女は二度と絵を盗もうなどと思わないし、会いに来ることもないだろう。
床でのディナータイムに、ナンシーのことを話してみたが、クリスの反応は「そうか」だけ。無反応よりはいい。
おれはバケットにハムを挟みながら「彼女、健康的になってたよ。悪い男と別れたからかな?」と、ふざけてみた。するとクリスは「そうだな」と同意する。
「冗談だよ。きみは悪い男なんかじゃない。……ピクルスは?」
「ところがおれのせいなんだ。ピクルスは切らないでいい。そのまま食べる」
「……どういう意味だ?」
「パンに挟むより、丸のまま食べる方がいい」
「いや、ピクルスじゃなく。ナンシーがクレージーになったのはきみのせいだって?」
「そうだ」
「自虐なんて、らしくないな」
「自虐じゃない。事実だ」
「ナンシーが Crazy about you(きみに夢中)なのは見てわかったけど」
「あんたもおれといたら、そのうちおかしくなるよ」
「わけがわからない」
おれはクリスにサンドイッチを渡し「おれを狂わせたくないと思うなら、早いところ契約を結んでくれ」と頼んだ。
「“契約、契約”……他の言葉を持たないのか?」
「そのためにここにいるんだから言い続けるよ」
「どうして?」クリスはサンドイッチを頬張った。
「きみの絵が気に入ったからだ」
「それで?」
「うちと契約すれば、もっといい環境で創作活動できるようになる」
「もっといい環境って?」
「それは……」言葉に詰まった。おれはどんな環境を想像していたんだろう? テレビやソファのあるアップタウンの高級マンションか?
「好きなだけチョコレートバーが食べられる環境かな」
冗談にして混ぜっ返したつもりだが、うまくいかなかった。クリスは「いいか」とおれの目を覗き込む。「この部屋が好きなんだ」と子供に言い含めるように説明した。
「もっといい環境がどんなものか知らないが、知る必要もない。たとえここに幽霊が出ようとも、引っ越すつもりは少しもない」
この部屋はクリスの住居だ。最初はアトリエだと思ったが、そうではなく、“アトリエ兼、住居”なのだ。人が住む部屋だと瞬時に理解できなかったのは、あまりにも何もなさすぎるため。椅子もダイニングテーブルもなく、空調は骨董品で、ドアは重たすぎる。しかしクリスは「ここよりいい環境は他にない」と断言する。
「初めて自分で借りた部屋だ」と、歌うようにクリスは言う。「前に住んでいた男は、ここにいると霊感が得られると話していた。だからおれに譲りたいと。ここはパンの屋敷よりずっといい。部屋が夕焼けで赤く染まる時間が特に気に入ってる。おれはその神秘の瞬間を、ここで待つのが好きなんだ」
こいつくらいの天才になれば、どこにいたってインスピレーションは得られるだろう。しかし本人がそう信じているなら、野暮は言うまい。
クリスはサンドイッチの粉を手で払い「神秘を感じたことは?」と訊く。
おれは「ないね」と答え、それからすぐに考え直して「いや……あるかも」と言った。
「どんな?」
「きみだ」
するとクリスはくすりと笑い「おれを口説いてるのか?」と言った。
「そうだな。契約を結ぶよう迫っているという意味では、口説いてる」
「口がうまいな」
「嘘じゃないぜ。本心だ」
おれは今まで、他の誰にもこんな感情を抱いたことはない。霊感と言うなら、今起きていることがそうだ。おれにとって彼こそがインスピレーション。ビートルズに初めて会ったブライアン・エプスタインも、きっとこんな気持ちだったに違いない。そして奇妙な外見の類似……。これはいったい何の符丁だろう? 神秘主義者のクリスがどう思うか興味があったので「最初におれに会ったときどう思った?」と訊いてみた。
「どう、とは?」
「きみのガールフレンドが間違えるくらい、おれたちはよく似てる。パンもおれを見て最初にそう言った。そんな風に誰かに似ているなんて言われたことは今までにない。吸っているタバコの銘柄まで一緒だ。なんだかゾッとするね」
どのような解釈が聞けるかと期待したが、クリスの答えは「別に似ていないよ」という否定だった。
「そう思うか? パンも認めたのに?」
「あんたはジャケットを着てるし」
「ジャケットだって? こんなもの脱げば……」
「そうだな、脱いで見せてくれ」
「おっと、その手は食わないぞ。危なく引っかかるところだ」
「裸を見せることが恥ずかしい? 単にデッサンしたいだけだ」クリスは懇願するような言い方になり「腕だけでもいい」と頼み込む。「できれば上半身、胸から肩の動きを確認したいんだ」
美術学校では何人もの裸をデッサンしてきたので、ヌードについては抵抗がない。それゆえ、クリスから“恥ずかしいのか”と聞かれると、妙にきまり悪く感じる。ヌードモデルに大騒ぎする一般人の無理解さを憂いていたはずなのに、いざ脱げと言われると、ものすごい抵抗感だ。
おれは意を決し「上半身だけなら」と承諾。立ち上がってシャツを脱ぐと、クリスはすぐさまクロッキーブックを手に取った。木炭ではなく鉛筆を握り「そっちに立って」と指示を出す。
「まず腕を上に向けて曲げてみてくれ……そうじゃなくて、手の甲を手前に……うん、それでいい」
ポーズを取っていると、クリスは鉛筆を持ったままこちらに来て「顔の前に腕を回して」と言う。油と汗の混ざった匂い。絵描きの香りだ。
クリスはおれの腕を持ち上げ「ここから、こうやって……上げてからゆっくり下ろして」と説明した。どうやら振り付けを覚えないといけないらしい。モデルは動かないものと思っていたが、こういうやり方もあるのか。美術学校では習わなかったことだ。
振り付けは難しくはないが「そこで止まって」と指示されたり「日没と同じくらいのスピードで」などと要求されるため、かなりしんどい。これならスピーディな動きの方がよっぽど楽だ。脇の下から肘にかけての筋肉がピクピクと痙攣し始めた。
「クリス……もう下ろしていいか?」
クリスはクロッキーブックに向かっている。
「おい、聞こえないのか? 腕がつりそうなんだ」
大きな声を出すと、クリスは顔を上げず「いいよ」と応えた。筆の動きは止まらない。
「ちょっと飲み物を取ってきてもいいか? ひと息ついてからまたポーズに戻るよ」
冷やしてあるビールを取りに行こうとすると、背後からクリスの声がした。
「彼女は明るくて優しかったんだ。絵を盗むような人ではなかった。おかしくなったのは、おれといたからだ」
一瞬、何の話かと思った。それは夕食時の会話の続きだった。
おれは「きみのせいじゃない」と気休めを言って、冷蔵庫に向かう。
冷たいビールを飲みながら、クリスの言う“神秘”について思いを馳せた。おれは絵を描く時『何を描こうか』と考えてからとりかかる方だ。マギーは「閃きが降りてきた!」と、創作の神様の話をするが、おれはまったくそういうタイプではない。だからと言って、霊感や神秘の存在を認めていないわけではなく、むしろ『そういうことが自分にも起きればいい』とすら願っている。
おれはクリスの絵を見つけ、クリス本人を見つけ出し、今は彼の部屋で絵のモデルをしている。それは不思議な導きだ。
空気を入れ替えるべく窓を開けると、気持ちのいい夜風が入ってくる。時折、聞こえる街の喧騒以外はまったく静かで、ゆるやかな時間の流れが目に見えるようだ。
窓枠にもたれかかってビールを飲むおれを、画家は懸命に描いている。どこか子供っぽく、風変わりなクリス。おれはこの男が好きだ。一緒にいることで頭がおかしくなるなら、なればいい。この完璧な瞬間が正気と引き換えなら、それも悪くはない。そんなことを考えるおれは、相当クリスに毒されているのだろう。
『アート・ヴィジョン・フェア』と題されたこのイベントは、規模こそ小さいが、品位あるパブリックショウだ。芸術に関する商談、情報収集を目的とした展示会で、出展者は画廊や美術館、芸術の文化財団。ゲストはすべて招待制で、アーティストも多数来場する。
このイベントのチケットはクリスから貰った。彼はこの手の催しに興味がないのだと言う。それはそうだろう。名刺を配りまくって企業に顔を売ったり、作品ファイルを持って自分をアピールするようなことは、クリスにはまったく似合わない。
彼から何かを貰うのは初めてのことだし、仕事に役立つかもしれないので、遠慮なくチケットをもらうことにした。プライベートなので、白いシャツは封印。グレーの麻ジャケットにTシャツとジーンズ。靴はレザーのデッキシューズ。これなら出展者に間違われることはない。うちの会社が出展していないことを確認したので、安心して見て回ることができる。
コンパニオンが配る無料のドリンクを片手にブースを見回っていると「おい」と声をかけられる。振り向くとノワールのパンがそこにいた。あまり会いたくなかった人物だ。
「きみはクリスの友達の……。すまない、名前を忘れた」
「ディーンです」
「ああ、そうだったな。ここで何してる?」
うっかりしていた。彼がここにいるかもという可能性に思い至らないとは、我ながら抜けている。ゲストパスでよかった。企業での参加だったら、二度とクリスに近づくなと言われただろう。
首から下げたゲストパスを彼に見せ「クリスからチケットをもらったので」と正直に言うと、パンは苦々しい顔になり「あの馬鹿めが……」と、つぶやいた。「あいつめ。おれの顔に泥を塗るつもりだな」
どういうことだかわからずにいるおれに、パンは「あいつにここへ来るよう命じたんだ。チケットはそのためのものだ」と言った。
「それは……知らないこととは言え、申し訳ありませんでした」
「きみは何者だ? なぜあいつと親しくしてる?」
「それは……」以前クリスは“友達だ”とおれを紹介した。それに倣って「クリスの友達だからです」と答えると、パンは「どうにも奇妙だ」と言う。
「きみのようなノーマルでフォーマルな男があいつの友達だと? いったいどこで知り合った?」
「共通の友達を介して……。あの、これって何の尋問ですか? おれがクリスの友達だとして、何か問題でも?」
「あいつはトラブルを引き寄せる天才だ。それに不審者が未成年者につきまとうのであれば、後見人としては黙っていられないからな」
「未成年?」
「あいつはまだ18だ」
18歳!? そんなに若いのか!? ……ワインを飲ませてしまったことは黙っていよう。
この場をどう切り抜けるべきか考えていると、助け舟が現れた。白っぽいブロンドの男が、親しげにパンに話しかけてくる。
「この時間からここにいるってことは、僕の講演を聴きに来てくれたわけじゃなさそうだな」
男の身なりは小ざっぱりしていて、金持ちヒッピーのパンとは対照的だ。ノーマルでフォーマルの称号は、彼にこそふさわしい。
「おまえの講演は退屈なんだよ」とパン。「どうせまた『労働者階級の絵画芸術』とかいう辛気臭いテーマなんだろう? あれは子守唄にもならなかった」
男はパンの嫌味に取り合わず、おれの方を向いて「やあ、見ないうちにずいぶん背が伸びたじゃないか!」と嬉しそうに言った。「こっちが老けるわけだな。元気そうで何よりだ」と笑いかける。
パンは男に「もういい、あっちへ行ってくれ」と手で追い払う仕草をした。かなり失礼な態度だが、男は気分を害するでもなく、おれに向かって「いつもこうだ」と苦笑する。
ノーマル・フォーマルが去り、おれはパンに訊いた。
「あの人はもしかして……」
「ああ、きみをクリスと間違えたんだろう」
これで四人目。やっぱりおれたちは似てるんだ。それなのに、なぜクリスは否定するんだろう? まあ、自分に似ていると言われて素直に認めたくない気持ちはわからないでもないが。
「あの男はコーエンといって、美術評論家をやっている。クリスを見出し、おれに紹介してくれたのが彼だ。もう10年近く前になるな」
「その頃、クリスはまだ子供だったのでは?」
「そうだな。10歳くらいだった」
「さぞかし美少年だったんでしょうね」
「とんでもない。無口で暗い顔つきの子供だったよ。大人を見る視線に蔑みが感じられた」パンは一呼吸おいて「だがそこが気に入った」と不敵に笑う。
子供から蔑みの目で見られて気に入った? 彼はマゾなのだろうか。
「おれとクリスは似ていると思いますか?」と訊いてみると、パンは改めておれを眺め「いいや」と首を振る。
「パッと見は似ていると思ったが、こうして話をするとまったく異なる性質だとわかる。まず目が違う。きみはずっと善良だ」
「クリスは邪悪だと?」
「邪悪……ではないな」パンは正しい表現を探し当てようと考え込み、続いて「あれは毒だ」と解答する。「あいつの目には毒がある。いかなる種類の毒かはわからん。酒や麻薬みたいなものかもしれんな」
なるほど、それは上手い表現だ。女達が彼を追い回すのは、イケメンだからという理由だけではない。クリスには何かしらの中毒性がある。おれが知っているだけでも二人、どちらも常軌を逸した発言をしていた。あれは毒の症状だ。クリスから一定期間、離れていたナンシーは正気を取り戻した。禁酒や脱ドラッグみたいなもので、しばらく毒に侵されなければ、問題はない。パンのような大人の男でさえ、蔑みの目つきで喜んでいるのだから始末が悪い。
クリスと知り合ったきっかけから話題が逸れて安心していると、コーエンが大柄な男を伴って戻ってきた。彼は目を輝かせ「こちらはフューゲル・コレクション美術館の館長の、クラウス・ゲルトナー氏だ」と男を紹介した。「きみとクリスにぜひ会いたいと言ってね。貴重な機会だよ」
館長は英語がわからないらしく、コーエンが通訳をしている。
パンは「グーテン・ターグ」と挨拶し「ドイツ語はこれしか知らん」と笑った。
館長はパンと握手をした後、おれにも手を差し伸べてきた。躊躇していると、パンがおれの脇腹を肘で突き「握手してやれ」と耳元に言う。
おれは小声の英語で「いいんですか?」と訊いた。
「構わん。どうせ二度と会いやしない」
なんたる大雑把さ。まあ、いいか。ここで握手して何かが起きてもおれの責任じゃない。
コーエンと館長が去ると、入れ違いに別な男が話しかけてきた。
「やあ、偉大な男がこんなところにいるとは!」大げさに腕を広げ「商業主義に鞍替えしたとは知らなかったよ」とパンに言う。表情こそ親しげだが、その言葉にはトゲが感じられた。しかしパンも負けてはいない。「おまえはイベント業者に鞍替えか? そんなにカツカツだとは気の毒に」と、憐れむような視線を向ける。
「きみのように親の遺産があるわけではないのでね。いろいろ手広くやっているんだ。今年はライヴペインティングの企画を出した。来場者は誰でも自由に描いていい」
それはさっき見た。巨大なパネルに布が貼ってあり、すでにいくつも絵が描かれていた。サインこそないが、誰の作品だかすぐにわかるものばかり。名だたる作家が“ラクガキ”と称し、筆跡を残している。誰でも自由に描いていいというが、よほど自信がなければ、こんなところに描き込めるものではない。
「タダで描かせて来場者に販売か? なんともはや、さもしい企画だな」
パンの辛辣さに男はムッとし「売りはしない」と否定する。「あくまで遊びだ。楽しんでもらうために設置したんだ。イベントが終われば絵は破棄する」
「後日イーベイに出品されていたとしても見て見ぬふりをしてやるよ」
男はパンの言葉を聞きながし「いい機会だ。クリス、きみのタッチを見せてくれないか」と、おれに言う。
今度はパンがムッとする番だ。「せっかくだが、こいつはこんなところで曲芸させるために連れてきたんじゃない」
しかし男は尚も食い下がる。「固いこと言うなよ。ただの遊びだ。これがきみのデビューになるわけじゃない。気負わずにやってくれ」
男の目つきには悪意があった。それは明確におれとパンに向けられている。
「構わないだろ? 絵を描いてみせてくれよ。まさか影武者じゃあるまい? なあ、“クリス”?」
こいつ、おれがクリスじゃないとわかった上でこんなことを言っているのか。パンに恥をかかせようって魂胆だ。
おれは怒りに任せて歩き出した。背後から「その気になってくれたか」と喜ぶ男の声と「下らん! やめておけ!」というパンの声が聞こえた。
パネルには『誰でもご自由に!』と書かれ、その下には画材が置いてある。絵の具はアクリルガッシュ。油彩は匂うし乾きにくいため、このような場所でのライヴペインティングには不向きだ。
おれは新しい筆を選び、絵の具を紙パレットに絞り出した。あととにかく無我夢中。アクリルは水で薄めたりはせず、ナイフと筆で荒っぽく仕上げる。油彩風のタッチはこれで表現できる。しかしクリスがアクリルを使ったのを見たわけではない。あの表現形式をどこまで再現できるか……。いや、考えるんじゃない。迷っている暇は一秒もないんだ。こういうのはスピードが命。モタモタしていたら本物でないと気づかれてしまう。
勢いだけでやっつけて、どうにかそれっぽい雰囲気になってきた。描き上げたと気づいたのは、拍手の音が聞こえたからだ。イベントのスタッフらしき女性と、さきほどのコーエンが手を叩いていた。パンは腕組みをしてニヤニヤ顔。男は口を開けて間抜け面を晒している。
コーエンが陽気に「ブラボー!」と叫ぶ。会釈しそうになったが、それはクリスっぽくないので、あえて無表情で筆を置いた。本人ではないのでサインは入れない。みんな入れてないんだから問題ないはずだ。それに“クリス”はまだデビューしていないわけだし。
予想外の出来事に、嫌味男は「……どうも」と微弱な謝辞を述べ、他には何も言わなかった。
「この絵は絶対に破棄してくれよ」とパンが念を押す。「もし後々どこかで見かけることがあれば……犯人がおまえじゃないとしても、おまえを厳重に処罰する」
ヴァンビルドがマフィアと懇意だという話が本当なら、この脅しは効果てきめんだ。男は「見損なうな」と捨て台詞して去っていった。
パンは笑いを噛み殺し「まったく……馬鹿な真似を……」と頭を振る。「あんな奴の言うことなど、意に介することはなかったんだ。だが……胸がすいたよ。きみが絵を描いているときの、奴の顔ときたら……」パンは思い出し笑いをし、それから大きく息を吐いて「いやあ、傑作だった」と称賛した。
“傑作”というのは作品に対してではない。この大胆なイタズラについての評価だ。おれの絵は酷いもので、タッチこそ似せてはいるが、クリスの足元どころか、半径10メートルにも及ばない。ライヴペインティングという言い訳がなかったら、即バレていたことだろう。
「しかし驚いたな」とパン。「絵が描けるとは思ってもみなかった。しかも上手いじゃないか」
素人にしちゃ上手いが、プロとして見たら下手くそだ。何より、おれの作品にはオリジナリティがない。子供の頃にコミックを模写してばかりいたせいだろうか。人まねは得意だが、個性を出すのはとても苦手だ。学校では『ルノワール風の夜警』や、『ゴッホによるモナリザ』などを描いてクラスメイトのウケを取っていたが、教師は「贋作絵師にでもなるつもりか?」と皮肉を言った。
音楽ならコピーバンドという手もあるが、絵の模写はどんなにうまかろうとパロディか贋作どまり。画家として食っていくには、自分の画風を見つける必要がある。
おれがそう説明すると、パンは「クリスも元々は模写ばかりだった」と言う。「磔刑のキリストだとか、有名な宗教画を真似て描いていたが、あいつにオリジナリティはまったくなかった」
「本当に?」
「ああ、奴が10歳くらいの頃の話だがな」
これには苦笑させられた。天才は10歳の頃からルーベンスやエル・グレコを描いていたのだ。とてもおれなどが及ぶものではない。
「奴はファクトリーで成長できた。きみもうちに来るか? 独自性を伸ばしてやれると思うが」
出し抜けに誘われ、言葉を失う。おれはずっと昔から、この瞬間を待っていた。誰かが自分の才能を見つけ出し、手を伸ばして引っぱり上げてくれることを。
望んでいた夢のような展開に、おれは「……やめておきます」と自然に答えていた。
「絵を売るのがおれの仕事なんです。ユニバーサル・アートに勤務しているので」
「ユニバーサル・アート? そうなのか? ではきみは同業というわけだな?」
「まあ、そうですね。クリスを引き抜こうと画策してたんです」
「そうか。うまくいったか?」
「いいえ、全然」
「そうだろうよ」パンは自信満々だ。クリスを略奪されることについて、少しも危惧することはないと言いたげだった。
「商売敵であることを隠していてすみません」
「なに、構わんさ。それにきみは敵ではない。敵はさっきの男で、同業者はおれの仲間だ」
「クリスと契約を結ぶのはあきらめますが、クリスと同じくらい素晴らしいアーティストを探し出そうと思います」
「それはぜひ見つけてほしいね。でないと、この業界は衰退の一途だ」
パンは嫌味で言っているのではない。彼は懐の広い男だ。大金持ちってのは、とかく余裕があるものなのだろう。
おれは会場を後にし、その足でクリスの元に向かった。
「おまえのせいでとんだ災難だ」と文句を言うと「てっきり楽しんでくれたかと」と、本気だか冗談だかわからないことを言う。
「本来ならおまえがあそこにいるべきだったんだ。約束をすっぽかして何をしてた?」
いや、聞くだけ野暮か。こいつがここですることは決まっている。
クリスは「これを仕上げてた」と、小さなキャンバスを差し出した。そこには床に転がったワインの瓶が描かれている。
「まだ乾いてないから触らない方がいい」
「これは?」
「おれの絵が好きだと言ってくれただろ」
静物を描く場合、ひとつのモチーフのみというのは珍しい。それだけで画面を構成するのは難しいからだ。クリスが描いたのは空の瓶だけ。それなのにこの迫力はどうだ。こんな描き方、こんな発想の仕方があったのかと息を呑むばかりだ
「契約はできない」とクリスは言った。「だから、これで許してくれ。絵をあんたにやったことはパンには内緒だ。パンだけじゃない。誰にも言うな。殺される」
「……冗談だろ?」
この絵をおれに? いやいやいや、駄目だ。もらえない。殺されるからじゃない。こんなすごいものを独り占めするってことがだ。
「受け取れないよ。おれには無理だ。国家機密でもかかえた気分だ」
「あんたのために描いたんだ。いらないなら処分してくれ」
人のために何かしそうもないこの男が、おれのために絵を描いた。モチーフはおれが“美しい”と言ったワインの瓶。18歳の若者からのプレゼントを突き返せるほど人非人じゃないが、いい作品は皆で共有してこそ価値がある。これは美術館行きの芸術だ。
クリスは携帯を取り出し「パンが写真を送ってきた」と、画面を見せる。そこにはおれの下手くそなライヴペインティングが写っていた。
「絵を模写されたのは初めてだ。あんたは芸術家なんだな」
「芸術家じゃないよ。ただ美術学校に通っていただけで……」
「それって芸術家だろ」
この男の前で芸術家などと、一体誰が名乗れるだろう? 絵の上手い下手だけじゃない。クリスの精神性は芸術と深く結びついている。絵が得意だということと、芸術家であるということは、まったく別な次元に位置するもの。そして彼は……陳腐な言い方だが、芸術そのものだ。
「おれは絵を描くのが好きな絵画販売業者だ。きみみたいな素晴らしい作家を見出して、世に送り出す。たくさんの人にアートの面白さを知ってもらうのが使命なんだ」
「そうか、かっこいいな」
「かっこいい?」
「使命があるなんてクールだ。おれはただ絵を描くだけ。目的は何もない」
「ただ絵を描くだけだって?」おれは苦笑し「わかってないんだな……」と頭を振った。
おまえよりかっこいい男はそうそういない。10歳だろうと、18歳だろうと。いつか80歳になっても、おまえはずっとかっこいいままだ。
なあ、クリス。神秘なんか待つ必要はない。おまえこそが神秘だ。おまえの絵には霊感がある。いつかそのことがわかるだろうか。
クリスと同じくらい素晴らしいアーティストを探し出すとパンに言ったのは、まごうことなき本心だ。それが本心であることに自分でも驚いたが、今では何だかしっくり来る。
物心つく前から絵を描き続けたおれにとって、“絵を描かなくなる自分”というのは想像もつかないことだった。“お絵かきの好きなディーン”、“絵のうまいディーン”。いつしかそれは強固なアイデンティティとなり、おれを奮い立たせると同時に、縛り付けてもいたように思う。
描かなくなった自分に価値を見いだせなくなるのが、おれは怖かった。しかし、アイデンティティは多様に変化するものだ。これから生涯、長い時間を生きるうち、自分でも知らなかった自分に出会うことになるだろう。その見知らぬ自分を恐れることなく受け入れられれば、きっと人生は豊かなものになる。
クリスはおれのTシャツの裾を引っ張り「絵の具がついてる」と指摘した。そして僅かに笑みを浮かべ「おれたちは似てる」と、つぶやく。
それが外見についてではないことはわかっていた。彼が認めてくれた道を、おれはこの先、歩んでいく。いつかまた会うことがあれば、そのときはクリスの半径10メートル程度には到達した自分でありたいと願う。
このときクリスから貰った絵は、誰にも見つからないよう、厳重に保管していたが、あるとき突然手元から消えてしまった。あんな大事なものを処分するわけはなく、どうして無くなってしまったのか、今も皆目見当がつかない。
ずっと後になってクリスは行方不明になったので、おれはクリス本人が絵を持ち去ったのだろうと結論づけた。神秘主義者の彼なら、それくらいやってのけると思えたからだ。
手元には何も残らず、ただ記憶の中に彼はいる。クリスは神秘の中に溶けて消えた。それはまったく驚くべきことじゃないとおれの霊感が告げている。
END
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