第34話:素敵な部下(Who's That Women)

「まったく、女ってのは何を考えてるんだろうな。あんなに胸を強調する服を着ておきながら『見るな』って言う。そんなに見られるのが嫌なら、一年中タートルネックでも着てればいいんだ」

 ジェドはそう言って、椅子の背にふんぞり返った。この同僚と意見が一致するのは嫌だが、今日のところは『タートルネックを着てくれ』に賛成だ。

 このたび配属された新入社員は女性で、スタイルのよいアフリカ系。彼女の着ている服が襟ぐりの大きく開いたものではなく、タートルネックだったら、ジェドは馬鹿げた会話をおれに振ってこなかっただろう。彼は斜め前の空いた席に視線をやり「あんな巨乳がそこに座ったら、おれの仕事に差し障りが出る」と嬉しそうに言った。

 おれも同じ空間を見つめ「パーティションを高くしてもらうのはどうだ?」と、ジェドに提案。「向こうもきみを意識しないで済む」

 するとジェドは「余計なことを言うんじゃない」と渋面になった。「美人を見ながら仕事をすれば、おれの作業効率は200パーセントアップだ」

 巨乳で差し障りが出て、美人で作業効率がアップ。相殺されていつも通りってことか。新入社員は美人で巨乳。どうやらジェドの方がよく見てる。おれはそこまで確認する余裕はなかった。ただ『直属の部下を持つのは初めてだ』ということだけを考えていたからだ。新人といってもキャリアはあり、シーラの紹介によると、以前も同業に就いていたという。

 ジェドは「いよいよ、おれかおまえのどちらかがクビになるんだな」と冗談を飛ばしたが、それはいつも以上に笑えなかった。おれもジェドも上昇志向がまるでなく、そういう人間は会社にとって有益ではない。この国で人をクビにすることはとても簡単だ。目標を達成できなかったとか何とか、適当な理由をつけて解雇通達を突きつければいい。不当解雇に裁判を起こすこともできるが、勝てる見込みはまずないだろう。

 新しいデスクには歓迎の意を表す小さなブーケが置かれ、パソコンの画面にはハート型のポストイットがたくさん貼り付けられている。そこには同僚からのメッセージが書き込まれていて、おれも一枚書かされた。

【わかないことがあったら何でも聞いて。おれはきみの正面に座ってる。ディーン】

 ひねりも何もないが、相手がどんな人物かわかるまでは、下手なジョークは禁物だ。ちなみにジェドは【おれが寝てたら優しく起こしてくれ。斜め向かいにいるイケメン、ジェド】と書いていた。安定の馬鹿さ加減。

 ジェドはちょいと顎をしゃくり「おっぱいが戻ってきたぞ」と、おれに目配せする。

「おっぱいって言うな」

「本人の前では言わないさ。ええと、彼女の名前は……パム・グリア?」

「ジェイドだ。ジェイド・デイヴィス。さっき聞いたばかりだろ」

「わかってる。おれと名前が似てるもんな。一発で覚えたよ。やあ、ジェイド! 待ってたよ!」

 ジェドが手を上げると、ジェイドは軽く首を傾けた。笑顔はなし。ジェドの気さくすぎる態度に困惑しているのだろう。

 彼女はスターバックスのカップを持っていた。おれが目を留めると、ジェイドは“さぼっていたわけではない”とばかりに「コックスさんに買ってもらったんです」と言う。「彼女、とてもいい人ですね」

 ジェドはチッチと舌を鳴らし「シーラがいい人なのは最初だけだ。部下は皆、コキ使われてる」と苦言。その発言にジェイドは眉を潜めた。おれは「冗談だよ」とフォローする。「シーラはいい人だ。もちろんおれたちもね」

 ジェイドはこの会話を続けるつもりはないらしく、退屈そうに紙カップの縁を指でなぞっている。ジェドが言った通り、彼女は確かに美人だ。そして女優のパム・グリアによく似ている。初対面の相手から何度も言われ続けているであろうことを考慮し、あえて黙っていると、ジェドがさっそくやってくれた。

「ねえ、きみさ。パム・グリアに似てるって言われない?」

 黙っているジェイドに、「パム・グリア。若いから知らないか。タランティーノの『ジャッキー・ブラウン』に出てる」とぶちかます。

 ジェイドは面倒くさそうに「ええ、たまに」と答えた。

「やっぱりか」満足げに頷くジェド。目の前の女性が心に壁を築いたことに、まるで気づいていない。まぬけ男がさらなる地雷を踏む前に、話題を変えた方が良さそうだ。

「イヴ・サンローランが好き?」

「えっ?」ジェイドは驚いたようにおれを見る。

「そのネイル。モンドリアン風だから」

 ジェイドの爪には黒い線で幾何学格子が描かれ、カラーは赤、青、白の三色で構成されている。誰もが知るデザインだが、ネイルアートとなると珍しい気がした。

「サンローランが特別に好き……というわけではないんですが」自分の爪を見ながらジェイドは言う。「行きつけのネイルサロンでやってもらったんです。リクエストしたものではなく、ネイルアーティストのアイディアなので……。でもとても気に入っています」

「そのネイリストは最高だね。きみの雰囲気にぴったりだ。」

「ありがとうございます」

 ジェドはおれたちの会話についてこれず、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。まさかおまえ、ピエト・モンドリアンを知らないんじゃないだろうな? カンディンスキーと並ぶ、抽象画の旗手だぞ? しかし、この会社にいるからといって、誰もがアートに興味があるかといえば、そうではない。販売担当はともかく、内勤者の多くは『家から近い』とか『手頃な待遇』といった理由で仕事を選んでいる。経理や総務では、モネとマネの区別がつかなくても業務に支障はないからだ。

 おれは絵画芸術が好きで、このユニバーサル・アート社に就職した。新人のジェイド・デイヴィスは果たしてどちら側の人間か? 願わくば、芸術に造詣が深いとありがたい。少なくとも見た目に関してはかなり芸術的。ジェドより無知でも、ジェドよりマシだ。



 一日の終わりのディナーに、デリバリーのピザは最高の選択とは思えないが、ハラペーニョとサラミとチーズが疲れた身体を癒してくれるのは間違いない。炭水化物をアルコールと組み合わせれば、合法的に精神を高揚させることができるが、ハイになったからといって幸福度が増加するかといえば……。

 辛いピザを口に運びながら、おれはやっかいな仕事の愚痴をパートナーのポールにこぼしている。

「それでジェドは“美人と組めて最高だろ?”なんて言ってくるけど、最高なもんか。自分の仕事の合間にジェイドに仕事を教えなきゃならないし、何をどう指導するかのプログラムも自分で作ってる。給料は上がらないのにやることは増える一方だ」

「でも、彼女が仕事を覚えたら、きっと楽になるよ。いろいろ手伝ってもらえるわけだし」

 ポールはポジティブな見解を示したが、正直あまりピンとこない。おれの仕事は今まで順調だったし、増員が必要だと感じたことはなかった。それなのに何の相談もなく、突然新人をあてがわれる。上司のシーラに理由を尋ねると「そろそろあなたも人を育ててもいい時期よ」と謎の言葉で煙に巻かれた。会社の業績は上がっているので、増員の理由はそれだと思いたい。おれは自分の後がまを育ててやるほどお人好しではないんだ。

 ポールはレタスをついばみながら「ジェイドと仲良くできるといいね」と言う。「うちも定期的に他店舗と社員を入れ替えているけど、彼らはまったくの新人ではないから実務的に教えることはほぼないし、あっても皆でフォローできる。とても楽なんだ。ただ人間関係で問題が起きることはよくあってね。そういう意味では、新しい人とうまくやる苦労はどこも一緒かな。彼女、どう? いい人そう?」

「さあ、まだわからないな」

「どんな人?」

「仕事に熱意はあるみたいだ。初日から色々詰め込もうとしてる。“最初から飛ばすことはない”って言ったんだけど。おかげで帰宅が遅くなった。晩飯はデリで中華にするつもりだったけど、店が開いている時間に寄れなかったんだ」

「気にしないで。ピザも悪くない。おかげでハイカロリーを摂取する言い訳ができてよかったよ」

 ポールはまたしてもポジティブに返してきた。彼のこういうところが素敵だと思う。積極的に見習いたいが、今日は疲れすぎて愚痴しか出なかった。




 ジェイドがどんな人かとポールに訊かれ、言いそびれたことがひとつあった。それは『とてもセンスがいい』ということだ。

 素敵なのはネイルだけではない。今日、彼女が身につけているブラウスは袖に透け感があり、ベーシックな形でありながら、洗練された印象を与える。濃いブルーは彼女のチョコレート色の肌とよく合っていて、美意識の高さを伺わせた。

 ジェイドから“ランチをどこで食べるのか”と聞かれたので、よかったら一緒にと誘ったところ、彼女は少し考え「支度があるので先に店に行っててもらえますか」と答えた。

 オフィスの近くで一番おいしいベーグルの店を選び、テラス席で待っていると、ジェイドが現れた。肩に巨大なトートバッグをかついでいる。

「遅くなってすみません」

 ジェイドは重たげなバッグをどさりと椅子に置いた。ランチに出るには財布ひとつで充分だと思うが……何か事情でもあるのだろうか。女性の荷物について言及することは失礼にあたるので、とりあえずそこはスルー。この店のおすすめはスモークサーモンなんだよと、あたりさわりのない(しかし重要でもある)情報を流す。ジェイドはメニューを見もせず「じゃあそれで」と、素っ気なく決めた。

 オーダーが済むとテーブルに沈黙が流れる。デートではない状況で女性とランチ。外見を褒めるのはNG。無言で目を見つめ合ってロマンティックな時間を楽しむのもNG。プライベートについて踏み込むのは早急? となると、ここは仕事の話が無難だろう。

「そういえば、以前にも絵画販売の会社にいたそうだけど」

 おれがそう振ると、ジェイドは「バリュー・アートという会社をご存知ですか」と訊いてくる。

「知ってるよ。西海岸の絵画販売業者だ。あっちでは最大手だと聞くね」

「私、そこにいたんです。営業で年に100枚ほど販売してました」

「100枚? シルクスクリーンを?」

「主にシルクですが、原画も」

 おれたちの仕事は観光地でポストカードを売るのとは訳が違う。シルクスクリーンの価格は千ドルは下らない。原画となればゼロがもうひとつ足せる。それを100枚とは……盛っているにしてもかなりの数字だ。そんな有能な人間がなんだってうちの会社に? まさかヘッドハンティング?

 ジェイドは眉間にシワを寄せ「あそこは営業のノルマがキツいんです」とつぶやいた。

「ノルマだとしても100枚の販売数はギネスブック級だ。うちはノルマはないから安心して。もしそんなものがあったら、おれも間違いなく辞めてるだろうね」

「いえ、辞めた理由はそれではなく……」ジェイドはわずか口ごもり「上司と折り合いが悪くて」と言いにくそうに答えた。

 おれは「ああ……」とだけ返事。彼女の表情から察するに、この話題はここで終わらせた方がよさそうだ。

 ベーグルが運ばれてくると、またしてもテーブルは無言になった。仕事の席以外で仕事の話をするのは苦手だ。マンハッタンのベーグルに関するウンチクも、上司と部下という関係であれば、知識をひけらかす嫌らしいおっさんでしかない。

 ジェイドはさっさと食事を平らげると、ウエイターに皿を下げさせ、トートバッグからタブロイドサイズのバインダーを取り出した。

「これ、見ていただけますか」

 ジェイドはバインダーをめくり始めた。そこには様々なスタイルのイラストやタブローがファイルされている。おれはサーモンとクリームチーズのベーグルをもぐもぐやりながら「それは?」と訊いた。

「私が選んだ作品です。彼らは駆け出しの画家で、ひとりとしてエージェント登録していません。いわばシロウトです。カラーコピーなので色味は悪いですが、素晴らしいアートであることはわかって頂けるかと思います」

 ジェイドは作品を褒めそやし、作家のプロフィールをおれに紹介した。ひとりで喋りまくる彼女を制止するタイミングが掴めず、無理やり「ちょっといいかな」と割って入る。

「ええと……よくわからないんだけど、もしかしてこの作家たちとアーティスト契約をしたらどうかって話をしているの?」

 ジェイドは“今頃気づいたのか”という表情で「そういう提案のつもりですが」と答えた。

「いい絵かもしれないけど……それは企画部の仕事で、アーティストを選ぶ権利は社長とシーラにあるんだ」

「でも、社長は“誰であってもアイディアは歓迎する”とおっしゃってました」

「それはそうだけど……」

 入社したばかりで、他部署の仕事に口出しするというのは、あまりいいことではない。彼女を傷つけないよう、配慮しながらそのことを伝えると、ジェイドは“そんなことは言われなくてもわかっている”という表情で「ええ、それはもちろん」と頷いた。「ですからこうやってランチの時間を利用して、お話ししてるんです」

「じゃあ、これは雑談ってこと?」

「雑談ではないですが……興味を持って頂けたらいいなと」

「興味は持った。時期を見て、一緒にシーラに話しに行ってもいいと思う。きみが意欲的なのは素晴らしいよ。でも当面はまず自分の仕事を覚えるのが先じゃないかな」

 正面切って正論を伝えると、ジェイドはあからさまに表情を厳しくした。バインダーをカバンにしまい、まだ残っているコーヒーに目もくれず「そろそろ行きましょう」と席を立つ。少し怒らせてしまったかもしれない。

 ガールフレンドであれば『これからブルーミング・デールにでも行こうか?』と誘って機嫌を取っただろうが、ここではそういうわけにはいかない。何も間違ったことは言ってないわけだし、顔色を伺ってへつらうのは彼女に失礼だ。

『ジェイドと仲良くできるといいね』とポールは言ったが、友達でも恋人でもない女性と“仲良くする”のは思いのほか難しい。キスもハグもなし、甘いささやきも、香水のプレゼントも禁じ手で、いったいジェイドとどう仲良くしたらいいのだろう?




「それでどうなんだ? 彼女とはうまくいってるのか?」

 ジェドはニヤつき、肘でおれの横っ腹をつついてきた。おれとしたことがうっかりしてた。この男とエレベーターで二人きりになることだけは避けるべきだったのに、奴が親切にも▲のボタンを押して待っていてくれたものだから、つい乗り込んでしまったんだ。

「彼女って?」

 あえて白ばっくれるおれに、ジェドは「ジェイドだよ。J.A.D.E. おまえの向かいに座ってる美女だ」と念を押す。

「ああ、彼女はとても仕事熱心だね」心の中で“おまえと違って”と付け加える。

「熱心か。そりゃいい。熱心な美女と仕事できるのはラッキーだもんな。だけど彼女、ちょっと固い感じだろ? ジョークを言ってやっても愛想笑いさえしない。仕事に真面目なところを見せようって腹かもしれないが、あんなにカチコチなのは疲れるだろうに」

 ジェドのジョークを聞かされたら、スポンジだってカチコチになる。ジョーカーですら真顔になるレベルだ。

 エレベーターを降りてさっさと歩き出すと、ジェドは「おいおいおい、待ってくれ」と前に回り込む。おれの腕を掴み、距離を縮め(おい、やめろ)小声で「ここだけの話、彼女とは何もないんだよな?」と、ささやく。

「何もって?(とりあえず腕を離せ)」

「そっちが先に口説いているなら、おれは男らしく引き下がる。でもそうじゃないなら……」

「待てよ、どういうことだ?(それはいいから、まず腕を離せ)」

「そういうことだ。わかるだろ?」と、ウインク。

「わからないな」おれは腕を振り払い、「急いでるんだ」と踵を返した。

 ジェドとロッカールーム・トークに興じるつもりはないし、ジェイドを口説くつもりもない。職場をデートアプリ代わりにする暇があったら、ピエト・モンドリアンでも調べておけよ。彼女と会話したきゃ、それぐらいのアート知識は必要だ。ジェイドのファイルはよく出来ていた。きっと様々な作品展に出向いているのだろう。モネとマネの区別がつく同僚に恵まれたことは、おれにとってたぶんラッキーなこと。ジェドが言うラッキーとは全く異なるし、質でいったら断然上だ。




 朝一番のメールで、作家からの馬鹿げた要求(サイン会の来場者を女性限定にしてほしい等)を、汚い言葉を使わずどうやって退けるか思案していると、パーテーションの向こうからジェドの声が聞こえてきた。

「近くにうまいメキシコ料理の店があるんだ。よかったらどうかな……」

 向かいはジェイドのデスクだ。ジェドは有言実行ぶりを発揮して、さっそく口説くことにしたらしい。

「もちろんおれの奢りだ。きみと仕事の話がしたいと思ってたんだ」

 “仕事の話”ときた。そう言えば彼女が断れないと思ってるんだろ。ジェイドの声は聞こえてこない。どんな表情をしているかは大体察しがつく。おれは立ち上がり「ジェイド」と声をかけた。ジェドはぎょっとした顔。ジェイドはパソコンから顔を上げ、こちらを見る。

「きみに頼みたい仕事があるんだ。ネット上で共有しているプログラムなんだけど……ちょっとこっちに来てもらえる? 直接見てもらった方が早いから」

 立ち尽くすジェドを置いてきぼりにし、ジェイドとおれはひとつの画面を見つめている。

「見てわかる通り、単純作業だけど、膨大な量だから時間がかかる。特に締め切りもないし、自分の仕事の合間にでも気長にやってくれればいいよ」

「わかりました」

 ジェイドは自分のスペースに戻り、急な仕事が入ったのでランチはデスクで摂るとジェドに説明している。よし、まずは色魔を退けた。部下をセクハラから守るのも、上司の仕事のうちと数えよう。




 ジェイドに強要したわけではないが、ランチ休憩をデスクで摂らせる結果になってしまったのは申し訳ない。せめて彼女の好きな食べ物を買ってきてあげようと考えたが、オフィスのどこにも見当たらない。探すのを諦め、外に出て通りを歩いていると、「ディーン!」と呼び止められる。

 声のした方を見ると、同僚のケイティとアンドレア、それにジェイドが、レストランのテラス席にいるのが目に入った。ジェドに“ランチはデスクで”と言っていたが、気が変わったのだろう。女子だけのパーティは、ジェドとのデートより百倍楽しいはずだ。

 ケイティは人目を気にせず「これからお昼なのぉ?」と大声を張り上げる。ケイティは太めの白人で、アンドレアは痩せたアジア系、ジェイドは黒人でスポーティな体型。これが映画なら、ステレオタイプな人種描写に苦情が寄せられることだろう。

 おれはケイティが声のボリュームを落とせる距離まで近づき「そのへんで何か買ってこようかと思ってたんだ」と答える。

「ねえ、よかったら一緒にどう?」とケイティ。

 おれは『いいね』と言いかけてやめる。ジェイドの表情を見てしまったからだ。それは不機嫌に歪んでいた。女性同士の交流を上司に邪魔されたくない気持ちはよくわかる。

「ありがとう。でも今日はやめておくよ。また次の機会に」

「そう、残念だわ」とケイティ。「またね」とアンドレア。ジェイドは一言も発さなかった。




 デスクでパックの寿司を食べながら、さっきのジェイドを様子を思い返す。あれは何というか……まさかと思うが、“おれに対する不快感”なのだろうか? 彼女が温めていた企画を無下に退けたが、それは遺恨となる充分な動機とは思えない。もし彼女がジェドとのランチを悪くないと思っていたら? ディーンがそれを邪魔したと? いや、その可能性は極めて低い。でもああした助け舟は余計なお世話だったかもしれない。

 ランチのゴミをダストシュートに捨てに行こうと、吹き抜けのある通路から狭い廊下に回り込む。ボソボソと話し声が聞こえたので、思わずそちらを見ると、そこにはジェイドとケイティがいた。立ち話をしていたであろう二人はおれに気づくとパッと離れ、バツが悪そうにこちらを見る。ひと気のない廊下の死角で二人は何を……もしかして遭遇してはいけない場面だったのだろうか。おれは寿司のパックを捨てる任務に意識を集中し、足早にそこを離れた。寿司など食べず、ジェドとメキシコ料理の店に行けばよかったのかもしれない。




 ピザ(またピザだ!)とオニオンリングとビールに添える話題は、ハイカロリーなメニューと同じくらい健康に悪い。午後いっぱいおれを悩ませた災いについて、愛するパートナーのポールに意見を求めると、彼は“やれやれ”と首を振り「なんというか、実にきみらしい悩みだ」と、ため息をついた。

「きみは自分が愛されることについて疑問がないんだよね」と苦笑い。「愛されるのが当然だから、人から嫌われると驚くし、納得がいかない。ぼくとは真逆の人生だなって思うよ」

 それはそうかもしれないが、今聞きたいのはおれに対する分析じゃない。ジェイドがなぜおれを嫌っているのかということだ。そうポールに伝えると、彼は「わからない?」と聞き返してくる。おれは世界一のバカになった気分で「ああ」と認めた。

「ええと、じゃあまず、彼女の企画を退けたこと。それはわかるよね?」

「そうだな」

「話を聞いていると、ジェイドはしっかりした女性みたいだ。だからプライドも高いと思う。次に、きみも感じているように、ジェドから守ってやろうという態度。大人の女性なら男からの誘いくらい軽くあしらえるよ。おそらくジェイドは“女の子扱い”は望んでないと思う」

「過干渉だったと?」

「かもしれない。そしてさらに……」

「まだあるのか」

「企画を自ら起こそうという人に、膨大な量の単純作業、しかも締め切りのない、どうでもいい仕事を押し付けたこと」

「あれはジェドを黙らせる口実だ。実際はやってもやらなくてもいい」

「でも彼女は傷ついたかも。嫌がらせと取ってもおかしくはないよ」

「嫌がらせ? まさか。そんなつもりは微塵もない」

「“つもり”のあるなしじゃないんだ。問題は彼女がどう受け取ったかってこと。きっとケイティって子に愚痴でも言ってたんだ」

 なんてこった。自体は思ったより深刻なのか。ピザが喉を通らなくなった。代わりに酒量は増えるため、差し引きゼロでダイエットにはなりそうもない。

「てっきりおれは……ジェイドとケイティが密会してるのかと思ったんだ」

 下衆にならないような言葉で見解を述べると、ポールは「それってセクシーな意味で?」と確認してきた。

「セクシーな意味で、だ。おれが現れると、ふたりともパッと離れた。こっそりイチャついてたのかと思うじゃないか」

 おれの空想に、ポールは「ねえ、これ何の心理テスト?」と笑って言う。「“女の子が二人、廊下の隅でコソコソしてます。いったい何をしているところでしょう? 1.セクシーな密会。2.男の悪口。3.スパイ活動。1を選んだあなたはオフィスラブもやぶさかではないと思うタイプのモテ男。2を選んだあなたは女嫌いのゲイ”」

「3を選んだやつは?」

「ミッション:インポッシブルシリーズの見過ぎ」

 なるほど。おれも3を選べるくらい能天気でありたかった。

「とにかく、自分になびかない女性をみんなビアンにしちゃうのはどうかと思うよ」

 心理テストの1と2、どちらが正解かはわからない。おれとしては切実に1であってほしい。嫌われているのは彼女が男嫌いのゲイだから。そういうことなら傷つかなくて済む。もっとも穏便な結論は3だ。その可能性も一応、残しておくくらいには楽天家であろうと思う。




「ちょっと話があるのでリフレッシュルームまで」と誘ってきたのは、ジェイドではなくジェドだ。長いこと彼と一緒に仕事をしているが、誘われたのは初めて。まったく喜ばしくないので断りたいところだが「仕事の話だ」と言われれば受けるしかない。

 ジェドがミーティングルームではなく、リフレッシュルームを選んでくれたのは、不幸中の幸いだ。リフレッシュルームは廊下に面した壁がすべてガラス張りで、外から見えるデザインになっている。もしジェドがおれに無礼な真似をしたら、廊下にいた者が証人となる。運よく誰かが通りかかればの話だが。

 ジェドはやけにシリアスな面持ちで「ジェイドのことだが……」と喋り始めた。彼女がスパイだという証拠でも見つけたのだろうか。

 椅子の背にふんぞりかえって腕組みをし「あまりにも酷すぎやしないか?」と眉を潜める。

「何が?」タートルネックを着てないことか?

「おまえが上司として威厳を示したいのはわかる。だが、あれはやりすぎだ。ジェイドに対して意地悪すぎる」

「意地悪?」

「あのデータ修正だよ。面倒で誰も手をつけたがらなかったやつじゃないか。とんでもない量の仕事を押し付けたあげく、昼飯の時間も奪うなんて、新人イビリも甚だしい」

「ちょっと待ってくれ。誰がいつ、昼飯の時間を奪ったって?」

「おれがランチに誘っても“忙しいですから”の一点張りだ。サンドイッチ片手にパソコンに張り付いて、せっせとデータを直してる。彼女は手を抜くってことを知らないらしい。とても真面目だ」

 ランチの時間を返上して作業してるだと? ジェドからの誘いを体よく断る口実にしているだけならいいが、本気でそうしなければならないとジェイドが思っているのであれば、大変なことだ。

「おれは新人イビリだなんてつもりはなかったし、ランチは普通にとるべきだ」

「そうだろ」頷くジェド。

「今はちょうどイベントがない時期で、ジェイドにやってもらう仕事はあまりない。きみもわかっている通り、もともと人員は足りているんだ。そこに突然、何の脈絡もなく配属された人間に、どんなことが任せられる? データ修正自体は退屈な仕事だが、それをやっているうち、会社のシステムがどんなものか、物流やイベントの流れも見えてくる。データを見ていれば、研修をせずして、全体が把握できるんだ」

「わかったよ。じゃあ彼女にそう言ってやれ」

 まったく悔しいが、今回ばかりはこいつの言う通りだ。おれは素直に「教えてもらって助かったよ」と礼を述べた。「ランチにも行かないなんて、ちっとも気づかなかった」

「今後はちゃんと見てやることだ。まあしかし、礼には及ばんさ。不当な労働から同僚を守るのは、おれの仕事のうちだからな」

 油断するとすぐにマウントを取ろうとするのがこいつの嫌なところだ。感謝の気持ちを帳消しにする才能に恵まれている男に、嫌味のひとつでもぶつけてやろうと「彼女にも手の抜き方を教えてやってくれ。得意だろ?」と言うと、ジェドはおれの皮肉をどう取ったか「ああ、ランチに連れ出して、のんびりさせてやるさ」とニンマリ笑った。例の心理テスト、ジェドは間違いなく3を選ぶに違いない。




 ジェイドと話す機会を設け、約束を取り付けた場所はリフレッシュルームではなく、ミーティングルームだ。ガラス張りではないので、中は見えない。ジェドの助言に従ってはいるが、ジェドに目撃されることはどうしても避けたかった。

 会議よろしく向かい合わせに座り、「仕事はどう?」「順調です」という紋切り型のトークから始め、「きみの休憩のことだけど」と、本題に入る。「おれが頼んだデータ修正のために、きみが休憩時間を返上してるって話を耳にした。もしそうだとしたら誤解させてしまったかもしれない。急ぎの仕事ではないつもりでお願いしたんだ。休憩はきちんと取ってほしい」

 ジェイドは眉根を曇らせ「休憩は普通に取ってますが?」と答えた。あれ……そうなのか。「誰がそんなことを?」

 根拠のない噂を流布した犯人の名前を聞かれたので、おれは慌て「あ、いや、そうか、それなら別に、いいんだ。よかった。休憩は大事だ」と取り繕う。ジェイドがもう一度『誰がそんなことを?』と言う前に、面倒なデータ修正の意味を伝え、イベントスケジュールの都合で仕事らしいことを任せてやれてないことを彼女に詫びた。

 ジェイドは毅然とした表情で「そのあたりは理解してますから」ときっぱり言い、「そんなことより……他の話をしても構いませんか?」と聞いてきた。

 “そんなこと”? このためにミーティングルームを予約したってのに、開始から10分かからず終わってしまった。彼女が“済んだ”と言うなら、この話はもういいんだろう。他の話題に移行できない理由は見つけられない。

「いいよ、何でも話して」

 ジェイドにスポットライトを明け渡すと、彼女は「うちで扱っている絵画の価格をどう思いますか?」と質問する。そしておれが答えるより先に「いいものだと我々はわかっていますが、一般から見たら高価すぎるんですよね」と結論。「値段を安くしろとは言いません。私も価値はわかっていますから。ただ、それとは別なプライスゾーンを設けてもいいんじゃないかと。若いアーティストの作品を手頃な価格で提供することで、新しい層を開拓できると思いませんか?」

 驚いた。これはあのランチのときにした話の続きだ。ジェイドはまだ諦めていなかったのだ。

「この企画は作家の育成も兼ねることができます。具体的な買い手がいるのといないのでは、成長の度合いが違うと思うんです。統計によると……」ジェイドは熱心に話し続けている。前の職場を辞めた理由は上司と折り合いがつけられなかったからと聞いたが、この調子で自論を展開していたのであれば、衝突する部分もあっただろう。前回おれは『自分の仕事を覚えるのが先』と制してしまったが、ここはきちんと説明した方がよさそうだ。

「きみの動機は素晴らしいし、アイディア自体は悪くはないと思う。でも、この件には予算が回らないよ」

「そんなに多くの予算はかからないはずで……」

「問題は予算の大小じゃない。この企画には、ゴーサインを出せるだけの説得力がないんだ」

「説得力……」

「“もう少し安かったら”と言う客は、値段が下がったところで買いはしない。安ければ売れるかといえばそうじゃないんだ。あっちは新人の作品だから100ドル、こっちは古株だから10万ドルなんてことはできない。作家が亡くなっている場合は別だけどね。ここでは価格を一定にしておく必要がある。うちの商品はポスターじゃない。ユニバーサル・アート社のブランド性で、市場の値崩れを防いでもいるんだよ」

「この企画は無理なんですか? さきほど“アイディア自体は悪くはない”とおっしゃいましたが?」

 ジェイドの目がきらりと光った。おれが心にもないお世辞を言ったとみているらしい。論破する意欲満々の目つきだ。

「アイディアの原石としては悪くないと思ってる。だが、実現に持っていくまでの道のりは簡単じゃない。シーラや社長を納得させる理由がないと」

「どんな理由なら納得してくれるでしょうか?」

「経済的効果。要は、企画が当たって金になるかってことだ」

 身も蓋もない話に、ジェイドは肩を落とし「結局はお金…なんですね……」とつぶやいた。

 うちの会社はアートに貢献してはいるが、国から予算が出ているわけじゃない。芸術文化活動以前に、経営の安定性を考えるのは当然のことだ。うまくいくかどうかわからない投資する余裕はなく、何より商品が売れないことには意味がない。

「安価な作品を見た客が『いつもの作品は高すぎる』と思うようになったら困るんだ。多額の販売コストをかけた商品には、ローンを組んででも手に入れたいと思わせる価値がある。例えば、この腕時計がそうだ」

 おれはシャツの袖を少し上にずらし、ロレックスを見せた。

「時間を知るだけなら、こんな高価な買い物をする必要はない。これは多くの技術者が長い時間をかけて磨き上げてきた芸術品だ。きみのネイルアート同様、おれを惚れ惚れさせてくれる」

 突然ネイルアートの話題になったことに動揺したのか、ジェイドは両手を机の下に素早く隠し「とてもわかりやすい……例えですね」と目を伏せる。彼女は照れているように見えたが、もしかしたら怒っているのかもしれない。『ジェイドは女の子扱いは望んでない』とポールは言った。爪を褒めたのはセクハラにあたるだろうか。彼女が男だったら、おれは“惚れ惚れする”という表現は使わなかったかもしれない。こういう例えは部下にするべきではないのかも……と、おれが明後日の方向に思いを巡らせていると、ジェイドは「それなら」と語気を強めた。「先行投資として話してみるのはいかがでしょう。社長はアートに人生を捧げたと公言しているほどの方ですし、理解を示して頂けるかもしれませんよね?」

「社長やシーラがきみの情熱にほだされることは考えにくいけど……」

「まるで結果がわかっているかのような言い方ですね」

「ずっと前に、きみと同じ企画を考えた奴がいるからね」

「それはどうなったんです?」

「今、説明した通り。実現するには困難って話を延々聞かされて終わりさ」

「ずいぶんお詳しいんですね。その人はまだ社に在籍してますか?」

「してるよ」

「誰なんです?」

「おれさ」

 ジェイドは目をぱちくりさせた。言葉を失う彼女に「きみの企画がいいものだってことはわかる」と、共感を伝える。「きちんとやれば利益だって出ないわけじゃない。でもそのためにはクリアしなければいけない問題がいくつもあるんだ」

「……わかりました」彼女の顔には、“よく理解した”と書いてある。やれやれ、よかった。この企画を実現化するのが難しいとわかってくれないと、おれがこれからしようとしている話に持っていくことができない。ここからがようやく本題だ。

「それじゃあ、この企画をおれたち二人でシーラと社長を説得できるまでに成長させるのはどうだろう。もし興味があればだけど」

 ジェイドは一瞬、固まったのち「あります! もちろん!」飛び跳ねんばかりの勢いで答えた。

「じゃあ、決まりだ。近いうち作戦会議でもしよう」

 話し合いはうまくいった。シーラと社長を説得できる企画なんてものが簡単じゃないことは誰よりわかっているが、こうなったらやるしかない。まあ、何というか、ジェイドの情熱にほだされたんだ。

 オフィスに戻ると、帰り支度をしたジェドが「長いミーティングだったな」と睨んできた。嫉妬しているのが丸わかりだ。

「帰らないのか?」と訊くと、おれを無視して「ジェイド、きみを待ってたんだ」と声をかける。「もう仕事は終わりだろ? よかったら食事に行かないか? ピザでもタコスでも何でも奢るよ」

「誘っていただきありがとうございます」とジェイド。「でも……」

 “でも”に続く言葉が出るより早く、ジェドは「でも何?」と詰め寄った。「まさかこれからデータ修正の仕事じゃあるまい? ディーン、それって急ぎじゃないよな? 居残りしてまでやるもんじゃないだろ?」

 ジェドはどうやってもおれを牽制したいらしい。しかしジェイドがやるべき仕事は今日はもうないんだ。彼を止めるうまい理由が見つけられないでいるおれの代わりに、ジェイドが答えを引き継いだ。

「いえ、そうではなく。ケリーさんと先に約束をしているので」

「こいつと?」ジェドは目を丸くした。

「新しい企画をまとめるので……ミーティングの続きになりますけど、もしよければ参加されますか?」

 ジェドは「あー……いや、やめておこう」と辞退した。会議という名のつくものにアレルギーのあるこの男が来るわけがない。

「おれはプライベートに仕事は持ち込まないタチでね。特に食事となれば尚更だ。脳味噌をきちんと休めないと健康に悪いからな」

 さっさと退場するジェドの背を見つめながら、ジェイドは「彼は仕事中も脳味噌を休めているように見えますけど」と、つぶやいた。

「いや、ああ見えて最低限は動いてるんだよ。“食事をしたら消化液を分泌しよう”とか、“生命維持のために呼吸を忘れない”とか」

「シャコガイと同程度には知性があるようで安心しました」

「じゃあ、行こうか。嫌いな食べ物はある?」

 おれがそう訊くと、ジェイドは申し訳なさそうに「真に受けられたらのでしたらすみません」と謝った。「さっきのは方便なんです。彼を遠ざけるための」

 おっと、そうきたか。少しは仲良くなれたと思ったが、つれない態度は変わらずだ。

「そうか、それならいいよ」

「すみません」

「気にしないで。別の機会にまた打ち合わせしよう」

「ええ、お願いします。できれば就業時間内に」

 釘を刺された。彼女はジェドだけではなく、おれともディナーを共にしたくないようだ。『ジェドは無理だが、自分は大丈夫』。心のどこかでそう思い込んでいたらしい。モテる男がやりがちな過信だ。今後は気をつけよう。




「昨日は楽しい夜だったか?」

 訊かれるだろうなと思ったことを、朝イチで質問してくるジェド。こんなにわかりやすい人間はめったにいるものではない。感情と行動が直結しているので、思ったことは全部口に出す。このやり方で今までよく無事で生きてこれたと感心するほどだ。

「軽く打ち合わせしてすぐに解散したよ。楽しいとか楽しくないとか、そういう話じゃない」

 昨夜はポールが遅番だったので、チャイニーズのデリで焼きそばとエビチリを買ってひとりで食べた。ディーンとジェイドの楽しい打ち合わせはジェドの頭の中にだけに存在する。

「それが本当ならもったいない話だ」とジェド。「おまえは勘違いしているかもしれないが、同僚と仲良くするのは別に悪いことじゃない。人間関係が良好であれば、いろいろなことがうまくいくんだ。仕事ってのはチームワークだからな。あまり潔癖にしてると、ジェイドは傷つく。おまえに嫌われてると思うだろう」

 全体的には正論だが、誰が言うかでこうも感じ方が変わるとは。これがポールの口から出たアドバイスなら真摯に耳を傾けただろうが、ジェイドにセクハラしている本人からだという事実がおれを萎えさせる。どこから突っ込んだらいいのかわからないので無視していると「自分の都合の悪いことには耳を貸さないタイプか」と嘲笑された。

 今さらジェドに嫌われたところで、痛くも痒くもないが、女の同僚となれば話は別だ。営業部のケイティが、廊下ですれ違っても挨拶をしてくれなくなった。彼女は本来愛想のいい人物だし、何度かランチを共にしたことがある。それがどうしたことか、目が合っても顔を背ける始末だ。おれの思い違いではない証拠に、他の人物とは普通に話しているのを目撃した。

 男の同僚にはやっかまれ、女の同僚には避けられる。前者は慣れっこだが、後者は心に重たくのしかかる。ポールが言った通り、おれは女性から愛されることについて疑問を持つことはほとんどない。そのため逆の状況となるとすぐにめげる。耐性がないぶん、打たれ弱いんだ。

 気を取り直して営業部に行くと「なんだか暗い顔してるな」と指摘された。気を取り直したつもりが、取り直せていなかったようだ。おれのことを気にかけてくれたのは、アフリカン・アメリカンのハンサムな男性、ミッチ・ジョーンズだ。

 ミッチから頼まれた画集を渡しながら「ちょっと落ち込むことがあって。でも大したことじゃないんだ」と答える。実際、大したことではない。妻と離婚調停中のミッチと比べれば、アイスクリームを床に落とした程度の話だ。

「そうか、男らしく耐えてるんだな。強い子だ。ご褒美に飴をやろう」

 ミッチはポケットからキャンディーをひとつ取り出し、おれの手に握らせた。

 思わず吹き出し「いつも持ってるのか?」と聞くと、「まあな、禁煙してるから口寂しいんだ」と白い歯を見せて笑う。

 ミントではなく、チョコレート味のソフトキャンディ。なんだかミッチらしい。彼は優しくてユーモアがある。営業部ではさぞかし人気があることだろう。……と、そういえばケイティも営業部だ。ミッチは彼女の上司。何か知っていることはあるだろうかと「そういえば、最近ケイティの様子はどう?」と、聞いてみた。

「ケイティ? 普通だが?」

「変わったところはない? 意味もなく不機嫌とか、目が合っても無視されるとか」

「特には気づかないが……彼女と何かあったのか?」

「いや、そういうわけじゃないんだ」

「揉めてるなら相談に乗るぞ」

 ミッチは親身にそう言ってくれたが、別にケイティと揉めているわけではない。隠すわけではないが、相談するべきストーリーもないので「機嫌が悪そうに見えたんだ。おれの気のせいならいいんだけど」と切り上げる。

 空気の読めるミッチは「そういえば、新しく来た人はどうだ?」と話題を変えてくれた。

「以前も同じような会社で働いていたんだって?」

「バリュー・アートの営業部にいたと言ってたよ」

「バリュー・アート。あそこはノルマが大変だってな」

 さすがミッチ。他社の情報にも通じている。ジェドはおそらく社名すら知らないだろう。

「彼女は…ジェイドっていうんだけど。年に100枚も売り上げていたって」

「マジか。すげえな」

「だから、ジェイドが望めばここに配属されると思うんだけど」

「どうかね。それはないと思う」

「なぜ?」

「彼女が黒人だからさ」

 思いも寄らない言葉に声を失う。ミッチも黒人なのに? 営業には何人も黒人がいるのに?

 おれがそう言うと「だからだよ。何人もいすぎるんだ」とミッチは答えた。

「営業にはおれを含めて何人の有色人種がいると思う? ここでジェイドを入れたら半数を超える。うちの客は白人のアッパーミドルがメインだ。展示会場にいるスタッフが黒人だらけというのは問題だと、社長が判断したんだろう」

 普通に考えれば、ジェイドは営業に振り分けられるのが自然だ。でもそうはならなかった。理由は黒人だから。そんなことってあるのか。

 おれの思いを見透かしたように「よくあることだ」とミッチは言った。

「たぶん翌年の人員配置では、販売成績のよくない有色人種がヨソへ回される。それで代わりにジェイドが来て、白人と黒人の割合は6:4か、それ以下に保たれるだろう」

 なぜジェイドが運営部に来たのかとても不思議だったが、やっと謎が解けた。うちの部に当てられるべき理由があったんじゃない。営業に置けない理由があったんだ。販売の天才と契約したはいいが配属先に困り、とりあえず無難な場所に囲っておく。それは毒にも薬にもならない、ディーンの下……。

 なんなんだそれは。人を馬鹿にするのにもほどがある。彼女は物じゃないし、運営部は物置きじゃない。年間100枚販売の記録保持者はおれの下になどいるべきではないとは思うが、次の配置転換で本当にジェイドが営業部に行くとしたら……これから二人でやろうとしている計画はおじゃんだ。

 なんだか無性に腹が立ってきた。こうなったら企画をなんとしてでもモノにしてやる。うちに彼女が来たのは、“とりあえず”じゃない。この企画を作るために来たのだ。ジェイドの才能を社長に思い知らせてやる。




 休日は部屋にこもって読書三昧。お供はエスプレッソとマリベルのチョコレート。本を読みながらだと無限に食べてしまうので、5粒だけ皿に乗せる。ヘッドフォンで自然の音を聴こう。ハワイの波音はヒーリング効果満点だ。

 読書が進むにつれ、皿からチョコレートが消えていく。濃いエスプレッソから、ドリップ・コーヒーに変え、追加のチョコレートを3粒。飲み食いを忘れた頃に、突然背後から肩を叩かれた。不意打ちに悲鳴を上げ、振り返るとポールが目を丸くして立っていた。

「ごめん、驚かすつもりじゃなかったんだけど。声をかけても聞こえていないみたいだったから」

 おれはヘッドフォンを取り「いや、大丈夫だ。そんなに驚いてない」とクールに誤魔化した(誤魔化しきれていないかもしれない)。

「なに? 怖い本でも読んでたの?」ポールは手を伸ばして、本の表紙を確認した。「『成功する企画:秘密と戦略』……ビジネス書?」続けて、机の上にある書物にも目を留め、「『計画について知っておくべきすべてのこと』『スモール・プラン、ビッグ・ビジネス』」と、タイトルを読み上げる。

「どうしたのこれ? シーラに読めって脅されてる?」 

「そういうわけじゃない。ちょっと企画を立ち上げようかと思って」

「珍しいね。命令されてないのにそんなことするなんて」

「ジェイドに協力することになったんだ。儲かる企画を二人で作って社長に目にもの見せてやる」

「ふーん……モチベーションは何?」

「そうだな……“怒り”かな」

「怒り?」

「ああ、義憤だ」

 それはポールにとって想定外の答えだったらしい。ミッチから聞いた人種差別ついて説明すると、彼は「ビジネス書を三冊も買った理由がわかったよ」と頷いた。

「それで晩ごはんはどうする?」ポールに言われて気がついた。窓の外は夕闇に包まれている。

「もうこんな時間か。ピザのデリバリーでも……いや、このところピザばかりだな」

「スパゲティでも茹でようか? 缶詰のソースでよければ」

「いいよ、もちろん。ちょうど缶詰のソースが食べたいと思っていたところなんだ」

「調子いいなあ」ポールは笑い、「できたら呼ぶから、読書の続きをどうぞ」と出ていった。

 彼は気を使ってくれたが、読書の続きには戻れそうもない。集中が切れると、目に疲れを感じた。携帯を見ると新しいメッセージが1件届いている。差出人はミッチだ。その文は『差し出がましいと思ったんだが……』から始まっていた。


─── 差し出がましいと思ったんだが、ケイティにそれとなく探りを入れてみた。その結果、どうやらおまえは嫌われていることがわかった。───


 なんだって? 心臓がぎゅっとなったが、勇気を振り絞って先を読む。心拍数の安定よりも事実確認が優先だ。


─── 詳しくは聞き出せなかったが、ジェイドから何か聞かされて、それで彼女は怒っているらしい。女子っぽい連帯感ってやつだな。ケイティに直接の被害はないわけだから、怒りはそのうち醒めるだろう。女の感情は本当に面倒だ。同情するよ。───


 最後の言葉は心からの同情に違いない。妻に浮気されたミッチは、この上なく女性に苦労させられている。

 それにしても……ジェイドはケイティに何を吹き込んだ? 最初の企画提案を蹴った話を悲劇的に語ったのか? ジェドからのセクハラエピソードを、ケイティがおれのことと聞き間違えた? どちらもこれだという決め手に欠け、他には何も思い浮かばない。

 とにかく怒りの源は特定できた。こっちに落ち度はないわけだし、おれとジェイドが共同で企画を立ち上げたとなれば、ケイティも考えを改めるだろう。

 さて、社長とシーラが好みそうな企画とはどんなものか? 彼らの性格を慮って企画書を作るのは初めてのことだ。なぜかというと、おれもジェイド同様、自分がよかれと思う方向に突っ走る傾向があるからだ。インドに契約を取りに行ったときは『クビになっても構わない』という意気込みだったが、そんな手は何度も使えないし、本当にクビを宣告されたらオロオロするに決まってる。

 ビジネスの指南書、『成功する企画:秘密と戦略』にはこう書いてある。

『自分の望む結果を作るには、相手の気持ちに寄り添わなくてはならない。欲しい結果を手に入れるために、自分のエゴを手放す。相手に“折れる”のではなく、柔軟に“曲げる”のだと思ってほしい。つまるところ、“負けるが勝ち”だ。』

 おれにとっての“望む結果”は、企画を成功させて社長を唸らせること。それを採用してもらうには、自分らしいやり方を諦めることだって必要なんだ。




 珍しくビジネスマンらしい意気込みに燃えていると、さっそく心を挫くような事件が起きるのはなぜなのか。おれの人生に特化している不幸の習性なのか、それとも大多数の人間に起きることなのかはわからない。仮に大多数の人間に起きることしても、おれの不幸が減るわけではないので、パーセンテージを求めるという愚行はやめておこう。

 ジェイドに頼んだ例のデータ修正は、彼女の勘違いにより、修正されるどころか破壊されていった。データに紐付けされている一部の情報は不可視になっていたため、ジェイドは間違いに気づくのが遅れ、勘違いしたまま進められた作業は十数時間に及ぶ。これを直すのは、彼女がかけた時間の倍はかかるだろう。

「使いやすいようにしようと思ったんです」そうジェイドは説明したが、まだ来たばかりなのに、どの形式が使いやすいかなんてわかるわけがない。自分を有能だと信じているやつに限って余計なことをするものだが、ここまで失敗してしまったのは、上司であるおれにも責任がある。消えたデータを紙の書類と照らし合わせて復元していく作業は難易度こそ低いが、地味でやっかいな仕事だ。

 おれたちが二人きりで残業しているとジェドが知ったら、きっとロマンチックなことを想像するんだろう。いや、ロマンチックよりもっと際どい、ポルノ紛いのファンタジーだってお手の物だ。テレビドラマであれば二人きりの残業にはロマンスがつきものだし、あるいは変死体が発見されたりもする。しかし現実はジェドのお花畑な脳内とは違う。ジェイドはスパイじゃないし、ロマンスも起こり得ない。あるのは気の遠くなるような修正作業だけだ。

 ジェイドをと見ると、目にも留まらぬ速さでキーボードを叩いている。責任を感じているためか、根の詰め方がいつも以上だ。

 おれは立ち上がって伸びをし「少し休憩しよう」と声をかける。「どうせ今夜中には終わらないんだ。休憩を挟んでゆっくり確実に仕上げた方がいいよ」

 焦って作業をすれば、間違いに間違いを重ねてしまう可能性もある。彼女はこういうところで肩の力を抜くのが苦手なのだろう。

 椅子に座って肩をグルグル回していると、ジェイドが来て「これを……」と、紙の束を差し出した。

 一番上の用紙には【プランA (仮) 】とゴシック体で書いてある。

「これは?」

「例の企画です。あれからいろいろ考えました。見ていただけますか?」

 ダブルクリップで留められたそれをめくると、企画のコンセプトからメリット、かかる予算と添付資料、最終的なまとめに至るまでが書かれていた。

「各担当者は私が適任と思える人の名前を入れましたが、これはあくまでも暫定です。担当は社長がお決めになるかと思います」

 担当者の名前まで? ジェイドは彼らが抱えている仕事についてわかっているのだろうか? 暫定とのことだが、それなら空欄でいいはずだ。それに(仮)と題されている割には、どのページも完成していて、おれが口を挟むべき箇所はなさそうだ。

 ジェイドは目を輝かせ、「いかがでしょうか?」と、おれを見る。

「ええと……この企画については、おれもいろいろ考えていたんだけど……必要なかったみたいだね」

 そう言うと、ジェイドはハッとした表情になり「そんなことはありません」と早口で否定した。「これより良いアイディアがあれば、ぜひ聞かせてほしいです」

 “これより良いアイディア”か。普通だったら“アイディアがあれば聞かせてほしい”と言うところ、わざわざ“これよい良いアイディア”に限定しているのは、“これが最高のアイディアだ”と言っているのと同じだ。

「てっきりきみとおれとで一緒に考えていくのかと」

「私が先走ってしまったなら謝ります。この案を元に一緒に考えていきましょう。それで社長にうまく取りなして頂ければ助かります」

 社長にうまく取りなす。おれの役割はそこか。この企画はディーン&ジェイドじゃなく、彼女だけのもの。そういうことであれば、おれは企画の監修に徹した方がよさそうだ。せっかくやる気を出したのに意気消沈だが、それが彼女の望みであれば受け入れるしかない。

「企画書は後でちゃんと目を通すよ。この書類、自宅に持って帰っても構わない?」

「はい」

「コーヒーでも買ってこようか。きみの好みは?」

「カフェ・アメリカーノをお願いします」

「砂糖とミルクは?」

「どちらもなしで」




 気分転換に外に出たが、街の空気を吸っても気分は転換しない。頭の中はジェイドのことでいっぱいだ。

 企画作りに参加できなかったから落ち込んでいるのではない。残念なのは彼女に受け入れてもらえなかったことだ。二人で企画をやろうと話したとき、おれたちはひとつのチームになったと思った。しかしそれはこちらの思い込み。彼女はおれを協力者に認定したものの、相棒とみなしてはいなかったのだ。

 これは初めての感覚じゃない。今までもジェイドから感じたことだ。彼女には何というか……そう、“距離”を感じるんだ。企画をやりたがっているということは伝わってきたが、それ以外の部分で何を考えているのか一切わからない。この作業中も『疲れましたね』とか『お腹が空きませんか?』とか、その手の感情的なことは口にせず、会話は必要最低限。仕事中にベラベラおしゃべりするのはおれも好きじゃないし、彼女が寡黙でもまったく構わないが、日常的な会話がいくらかでもあれば、おれたちの間にある“壁のようなもの”は、徐々に取り払われていったはずだ。

 ジェドに同意するのは不本意だが、彼女が“固い”というのはうなずける。いつもキリッとした表情をして、笑ったところは見たことがない。ボトックスで表情筋に支障があるとか、宗教で笑顔を禁じられているのでなければ、いつかは笑いかけてくれるだろうが、楽しい談笑までの道のりは遠そうだ。




 無糖のカフェ・アメリカーノと甘いカフェモカを両手に帰還すると、ジェイドが脚立のてっぺんに立っていた。

 人は理解を超える光景を目の当たりにすると、一時的に知能がシャコガイと同レベルになるらしい。一瞬ののち、何が起きているのかを脳が処理すると、おれの喉から「なにしてるんだ!?」という大声が出た。一方、ジェイドはまったく落ち着いた声で「蛍光灯を取り替えているんです」と答える。彼女は天井に両手を伸ばし、ハイヒールは履いたまま。見るからに不安定な状態だ。さらによく見ると、新しい蛍光灯が一本、脚立に立て掛けてある。

「さっきからここの一本がチカチカしていたんです。気になりませんでしたか?」

 気づいてはいたが、目立って点滅していたわけじゃない。光が微妙にちらついているって程度だ。すぐに交換しなきゃいけないほどの緊急性は感じられなかった。

 おれはコーヒーを机に置き「今やらなくても、明日頼めばいい」と彼女に言った。「そういう仕事は清掃スタッフがやってくれる」

「お掃除の方に頼まなくても自分でできますから」

「そうだとしても……」言いながら脚立を支え、ジェイドを見上げる。タイトスカートの中が見えそうだ。「脚立の天板には乗っちゃいけないんだ。説明書にだってそう書いてある」

「もちろん知ってます。でも一番上に乗らないとうまくできなくて」

 この物言い。“知ってます”、“わかってます”。今まで何度聞いたことか。思い込んだら突っ走る。どうしても今、蛍光灯を取り替えたい。一度決めたら譲ることはない。データを“使いやすいように”としたのも彼女の勝手な判断だ。ジェイドは自分の考えがもっとも素晴らしく、他者の意見は必要としない。相手を説き伏せるために話をすることはあっても、意見を受け入れることはしたくないのだ。

「とにかく降りてくれ。おれがやるよ」

「大丈夫。すぐに終わりますから」

「そういう問題じゃない…!」

 きみが男の手を借りずとも何でもこなせるのはよくわかった! すばらしい! ウーマンリブの鏡だ! だからもう……頼むからやめてくれ!

 おれが怒りを抑えていることに気づいたのか、彼女は「わかりました」と譲歩した。

 外した蛍光灯をおれに渡し、後ろを振り返るようにして降り始める。ハイヒールの踵が脚立を踏み外すと、ジェイドはバランスを崩した。おれは支えるつもりだったが、彼女は自分で体勢を立て直すことを試みる。それがいけなかった。無理に体をねじったせいで脚立は大きく揺れ……後のことはよく覚えていない。ただ、おれの背中が思い切り床に叩きつけられ、その上にジェイドが落ちてきたという状況はわかった。なぜか脚立はすっくと立っている。ふたりともしばらく声を出せずにいたが、脚立の凛々しさがおれを徐々に正気に戻してくれた。

「ジェイド、怪我は……?」

 彼女は上半身を起こし「ありません……おそらく」と答えた。

「そうか……」おれは横たわったまま、天井を見つめ「だから言ったんだ……」とつぶやいた。「“脚立の天板には乗っちゃいけない”。なぜかわかるか? こうなるからだ」

 今さらそんなことを言っても後の祭りだ。わかってはいるが言葉が勝手に湧き上がってくる。

「蛍光灯なんてどうだっていい……きみはこんなことで自分を証明する必要はないんだ……」

 背中が痛い。おれの背骨はクラッカーのように粉々に砕けているに違いない。

「ディーンさん……血が……」

 血? 身体を起こすと、刷毛で掃いたような血の跡が床についていた。

「やっぱり怪我してたんじゃないか! どこを切った? 見せてみろ」

「私ではなく……」

 言われ、自分の手のひらを見ると、それは血で染まっていた。割れた蛍光灯の上に手をついたのだ。

「ごめんなさい……」

 ジェイドは両手で口を抑え、ワナワナと震えだした。血を見たことがショックだったのだろう。パニック発作を起こしそうなほど、彼女は怯えきっている。

「大丈夫だよ。大した怪我じゃない」

 本当はかなり痛い。縫うほどではないが、苦痛を伴う怪我だ。だが正直になれば、彼女にさらなるショックと罪悪感を与えてしまうだろう。こらえろディーン。痛くても泣くんじゃない。優しい嘘がつけるおまえは男前だ。

「私……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 涙ぐむジェイドを落ち着かせるべく、おれは「大丈夫」と繰り返し言った。怪我をしていない方の手で彼女の肩を撫でさする。

 ジェイドが何度目かの「ごめんなさい」を口にしたとき、それは起きた。彼女の口紅の味を舌に感じ、ファンデーションの匂いを鼻孔に感じる。何の前触れもなくキスをされていた。

 唇が離れると、うっとりとおれを見つめたジェイドの顔が間近にある。

「ジェイド……落ち着いて……」

 彼女は吐息をもらし、おれの頬を優しく撫でてくる。

「ねえ、きみがパニックになっているのはわかるよ。脚立から落ちたんだ。だから普通の精神状態じゃない。そうさ、無理もない。だから落ち着いて……」

 たどたどしい言葉。パニックになっているのはおれの方だ。ジェイドはおれの頬に手を置いたまま「安心なさって」と優雅に言った。おれのシャツの裾を片手で器用にまくり上げ、手を入れて胸から背中に腕を回す。

 ジェイドはスパイじゃないし、ロマンスも起こり得ない? まったくおれの認識は甘かった。残業にはロマンスがつきもので、現実はジェドの空想の上をいっている。

 彼女の自尊心を傷つけることなく拒絶するにはどうすればいい? シャコガイの知性をフル回転させるおれをよそに、彼女はどんどん盛り上がっていく。タイトスカートの間からセクシーなガーターベルトと下着が見えた。そこに見たのは……なんだろうこれは。控えめに言っても、起立した男性器以外の形容詞が見つからない。

 股間を凝視するおれの視線に気づいたジェイドは、落ちた拍子にめくれ上がったスカートを直し、気まずそうな顔をした。

「ええと……言っていいかな? きみは……男性……」

「いいえ、男性でも女性でもありません。私はトランスジェンダーです」

 そうだ、トランス。トランスジェンダー。女性の身なりをしている男性を指す言葉だ。ジェイドはレズビアンではなかった。男性を好む男性……じゃない、トランスジェンダーだ。

 ジェイドは申し訳なさそうに「隠していたつもりはなかったんです」と弁明した。「見たままの私を判断してもらうことを望んでいたので」

 “見たままの私”はどう見ても女性だ。彼女にペニスがついていると見抜くには、特殊な才能が必要だろう。

「あなたは他の人とは違います」とジェイドは言う。

 他の人と違う? いや、そんなことはない。おれは平凡だ。きみを見抜く特殊な才能もないし、美貌のトランスジェンダーと比べたら凡愚の極みだ。

 いったいどこが他の人と違うのか、その説明があるかと思いきや、ジェイドは「私も昔は男でした」と、当然のことを言い出した。

「男だった頃は本当にダサくて。高校ではいじめられもしました。でも女の格好をするようになったら……皆の見る目が変わったんです。チヤホヤされて最初は舞い上がったけど、徐々に屈辱を感じるようになりました。私の中身は変わっていないのに、なぜなのかと。人は外見で判断するんだってこと、身に染みて理解させられました。男の人は私の胸を見てこう言うんです。『困ってることはない? 助けてあげるよ。その代わり食事に付き合ってくれ』……うんざりでした」

 ジェドの顔が脳裏に浮かぶ。いや、おれだって人のことは言えない。ポールと付き合う以前は、ジェドほどでないにしろ、美人と見れば喜んで近づいていったじゃないか。

 愚かな過去を内省するおれに、ジェイドは「でもあなたはそうではなく……」と、目をうるませる。

「チヤホヤするどころか厳しい態度を。あげくの果てに、私のことを叱り飛ばして」

「いや、叱り飛ばしたつもりは……」

「他の男とは違うと思いました。会った当初はハイブランドの腕時計をしていて、嫌な感じだと思ったんです。でも、あなたがアートの説明に自分の腕時計と私の爪を引用したのを聞いて、見栄でしているんじゃないとわかりました。アートとしてロレックスを愛しているんだと」

 ときどきこうやって誤解されるが、おれは単に腕時計のオタクだ。真相を知らなければ、イケメン+ハイブランドの腕時計は、嫌味な印象を受けるだろう。

「私も結局は外見で人を判断していたんですね……愚かでした」

 確かに愚かかもしれないが、先入観をまったく持たない人間はいないだろう。性別や人種、持ち物や話す言葉。あらゆる側面から、常に他人をジャッジしている。そして今、おれたちは“先入観”という呪いから解き放たれた。彼女は繊細な努力家で、おれは腕時計のオタクだ。

「あなたのことをよく知らずに、人に悪く言ってしまったこともあります」

「それってケイティのこと?」

「はい。ご存知だったんですね」

「急に態度が変わったからね」

「私、それは嫉妬だったと後で気づきました」

「嫉妬?」

「ケイティはあなたのことが気に入っているでしょう? きっと心のどこかに興味を失わせたい気持ちがあったんだろうと思います。私はあなたを嫌いなのだと思い込もうとしていたけど……」語尾が消えた。その続きは“言わずもがな”だ。

 ジェイドはおれに顔を近づけ、「ペニスのある女性を受け入れることはできませんか?」と迫ってきた。「生理こそありませんが、私はほぼ女性です。女性ホルモンを射っているので、これからどんどん女性的になる予定です。今はまだ男性っぽさを感じさせるかもしれませんが…」

 おっと、まただ。ジェイドは相手を説得しようとするとき、やたらと多弁になって力説する癖がある。

「ペニスのあるなしは関係ない」そう断言すると、彼女は明るい表情になった。

「だけど。きみとは付き合えない。言っておくけど、見た目の話じゃないよ。これから女性的になるって言うけど、今だってどこからどう見ても美しい女性だし。今だってまだ……」彼女の姿を改めて見つめる。美人でセクシー。やっぱりパム・グリアによく似ていた。

「……とても信じられないよ」

「だったら…」

「おれにはパートナーがいる。彼を裏切る真似はできない」

「彼?」

「おれはその……ゲイなんだ」

 ジェイドは声こそ発さなかったが、唇が『なん…(ですって?)』と動いた。今度は彼女がショックを受ける番だ。しばし呆然と口を開け、それからきゅっと引き結び、「私が言うのも何ですが……」と遠慮がちに切り出した。「人は見かけによりませんね……皆はあなたがゲイだということを?」

「いや、社内の誰も知らないと思う。ここでは誰にも話したことがないんだ」

「そうなんですね。カムアウトさせる形になってしまって申し訳ありません」

「それは構わないけど……本当にごめん」

「何がですか?」

「きみと特別な関係になれなくて」

「恋人がいるなら仕方ありませんよ。でも嬉しいです。“どこからどう見ても美しい女性だ”と言ってくれて。私のペニスを見た後でも、まだ女性と認定してくれているんですね」

「そりゃそうさ! きみから男っぽさを感じた瞬間は一度だってないし、きみのセクシュアリティがどこにあろうと、美しいことには変わりない」

「誰もがそのようにシンプルに考えてくれたらいいのですが……」ジェイドは苦笑し、「前の職場では化け物と言われました」と告白した。

「転職した理由は誹謗中傷を受けたからです。上司が私を好いてくれて、私も彼に好意を持ち、最初はうまくいっていました。でも私がトランスをカムアウトすると、彼は“騙された!”と怒り出したんです。そこからは最悪の展開で……。私のことは職場で知れ渡り、ひどい陰口を叩かれたんです。営業成績の件でも私は嫉妬されていましたから、上司を誘惑して騙したとか、売春をしているという噂まで立ちました。だからここにはやり直すつもりで来たんです。自分のことは絶対に隠し通すつもりで……」そこでジェイドは表情をこわばらせた。隠し通すことができなかったことに気づいたのだ。

「おれなら大丈夫。誰にも話さないよ」

 ジェイドは硬い表情のまま黙っている。そこで、おれはもう少し自分について話すことにした。

「おれはさっきゲイだって言ったけど、以前は女性にだけ目を向けていたんだ。でも親友の同性愛者……ポールっていうんだけど、彼のことを好きになった。それで恋人同士に。でも、自分のアイデンティティがゲイなのかはよくわからない。ポール以外の男には一度だって欲情したことがないし、たぶんこれからもそうだ。彼と別れたら……そんなことがないことを祈るけど。でもそうなったら、おれは女性と付き合うと思う。こういうのはバイセクシャルとも違うだろ? だから、きみみたいに“私はトランスジェンダーです”とはっきり言えることが少し羨ましくもあるんだ。自分はゲイもバイも名乗れない。社内にゲイを公表していないのは、そういう理由もある」

「他の理由もあるんですか?」

「他の理由は、個人的なことを友達以外にはあまり話したくないってだけ。おれの隣に座っているのはジェドだからね」

「それならよくわかります」ジェイドは納得し、「“ポール以外の男には一度だって欲情したことがない”……」と、おれの言葉を反芻した。「それは“世界で唯一のボーイフレンド”という意味ですね。ポールが羨ましい。彼はとても幸せ者です」そして、改めて「私も、あなたのことは誰にも何も言いません。もちろん今夜のことも」と誓いを立てる。

 おれたちは互いに秘密をわかちあった。それは意図しないことだったが、社内にひとりぐらい個人的なことを共有できる相手がいてもいい。その相手がジェイドであるというのは、おれにとって幸運なことだ。(もしジェドだったらと思うと寒気がする)

 それから傷の手当てをし、割れた蛍光灯を掃除して、キリのいいところまで作業をし(混乱しているのでミスがあるかもしれない。今日はもうダメだ)ジェイドをタクシーに乗せ、食事を取っていなかったことを思い出したので、24時間営業のカフェで軽食を取り、帰宅するとポールは眠っていて、朝起きるとすでに出勤していた。時計を見ると午前10時を過ぎている。完全に遅刻だ。

 昼過ぎにノコノコ出勤すると、ジェイドが「大丈夫ですか?」と聞いてきた。「お身体の具合でも?」

「いや、そうじゃないよ。うっかり寝過ごしただけだ」

「てっきり……いらっしゃらないかと……」

 “自分のせいで”という言葉を飲み込んだのがわかった。おれの寝坊で彼女を不安にさせてしまったようだ。昨夜は平和的に終わったが、ジェイドのトラウマが癒えたわけではない。おれとの関係が悪くなり、また職場にいられなくなることを、彼女が懸念しないわけがないのだ。

 ジェイドのためにもなるべく普通にしようと心がけたが、これがなかなか難しい。今まで距離があったのに、たった一晩で一気に縮まったんだ。いきなりフランクに接するのはおかしいし、だからといって前のように素っ気なくすると、彼女を傷つけてしまいそうだ。それにあのキス。唇を重ねた記憶は消しようがない。昨日の今日で普段通りに振る舞えるほど、おれは図太くはなく、ジェイドもそれは同じようだ。いつも以上につっけんどんな態度をしたかと思えば、「今夜も一緒に作業をされますか…?」と、熱い眼差しを送ってくる。

 ここで断ったら、昨夜のことを気にしていると思われるだろう。事実気にしてはいるが、悟られたくはない。逆に『そうだね、今夜も二人きりで残業しよう』と答えれば、何かを期待しているかのように受け取られかねない。そこでおれが選ぶのは、もっとも無難な回答───「今夜は人と食事の約束があるんだ」

「そうですか……」ジェイドはがっかりしたようだが、すぐに切り替え「じゃあ、私も今夜は早くあがります」と言った。

「それがいい。昨夜は遅くまで大変だったからね。脳味噌をきちんと休めないと健康に悪い」

 おれがジェドの言葉を引用すると、ジェイドはわずかに笑みを見せた。いい調子だ。楽しい談笑まであと一歩というところか。さて、これから食事の約束を取り付けなければ。もちろん相手は決まっている。




 ポールは仕事を終えて家にいたが、頼み込んで出てきてもらった。レストランは会社の近くのテラス席。社内の人間が通りかかれば、おれが“人と食事の約束”を果たしていることがわかるだろう。アリバイは完璧だ。

「出てくるのに時間がかかってごめん。すっかりくつろぎモードだったから」

 ポールは白いカットソーにハーフパンツ、素足にサンダルというラフな出で立ちで現れた。くつろぎモードだったのに申し訳ない。急に呼び出したことを謝ると「職場で何かあったの?」と聞いてきた。

 おれは昨夜のことを話した。キスの部分も含めて、言いにくいことも包み隠さず。やましい部分はないのだから、妙な隠し立てはしない方がいい。

 説明を終えると、ポールは「きみはよかったの? 結果的に同僚にカムアウトする形になったわけだけど」と言う。会ったこともないジェイドのことより、繊細なパートナーのことが心配なのだ。

「別におれはゲイを隠してるわけじゃない。ただ職場では個人的なことを話さないってだけで。ジェイドが広めてくれれば、自分で言う必要がなくなるな」

「彼女は広めたりなんかしないよ」ポールはタコスにかぶりつき、それを飲み込んでから「でしょ?」と確認する。

「ああ、そう約束した」

「結果的にはよかったんじゃない? きみたちはチームなわけだし、お互いのことをよく知っていれば、“レズビアンかもしれない”なんて、見当違いの気遣いをしなくて済む」

「そういえばそんなことを言ったな。あれは本当に馬鹿げてたよ」

「ぼくのことを彼女に話してくれてよかった。きみがジェイドに協力的になったとき、ぼくは“モチベーションは何?”って聞いたんだ。覚えてる?」

「ああ」

「あのときぼくは、“どうせ彼女が美人だからだろ”って考えてた。でもきみには下心はなかったんだね。疑ってごめん」

「どうかな? わからないぜ。彼女のペニスを見てなかったら、どうなっていたことやら」

「そうやって言うときは、本当に下心がないってこと。もし少しでもあったなら、きみは“そうとも!あるわけないだろ!”ってムキになるからすぐわかる」そう言って、ポールはフフと笑ってみせる。「きみはデリケートだからね。恋人でもない人から強引に押し倒されるとビビっちゃうんだ。うっとりなんてしやしない。ジェイドから襲われて、恐怖の表情を浮かべていただろうなって思うよ」

「そうだな。もう少しで泣くところだった」

 ポールはジェイドとの出来事を怒らず、また嫉妬することもなかった。もしジェイドがトランスジェンダーではなく、普通の女性だったら、もしくは“白人の”女性だったらどうだろう? 彼は笑って済ませてくれただろうか。

 おれが過去に付き合った女性はすべて白人だ。黒人はおろか、アジア人もプエルトリカンもいなかった。マイヤはユダヤ人だったが、見た目は完全に白人だ。自分のことを差別主義者だと思ったことは一度もないが、白人ばかり恋人に選んでいるのは、無意識でそうした考えがあるのかもしれない。そんなことは考えたくもないくらい、恐ろしいことだ。

 誰しもが先入観を持つことをおれは知っている。ジェイドだって最初はおれを“金時計をみせびらかす嫌味な白人男”と思っていた。ポールは異性愛者の女性に厳しく、ゲイやレズビアンといったマイノリティには甘い傾向がある。おれのママも、おれが子供の頃には『道で悪そうな黒人のグループがたむろしていたら、その通りの反対側を歩くようにしなさい』と言い聞かせていた。“悪そうなグループ”ではなく、“悪そうな黒人のグループ”と限定していたのだ。(昔のマンハッタンは今よりずっと治安が悪かったのは事実だが、悪いグループは黒人だけじゃなかった)

 “自分は差別主義者じゃないから大丈夫”。そうした思い込みは油断につながる。不用意な言葉でジェイドを傷つけたくないと思うのなら、おれは今まで以上にこのことを真剣に考えなければならない。




 ドラマチックな夜から数日、手の怪我が癒える頃には、ジェイドもおれも互いを意識するということはなく、ごく自然な振る舞いをするようになった。これにて一件落着。……と言いたいところだが、おれのカルマはそう簡単にシャンティ(平和)にはならない運命のようだ。

 ミッチから届いたメッセージは、こんな出だしから始まっていた。


─── おまえに関するめちゃくちゃな噂を耳にした。気を悪くせず読むのは難しいと思う。───


 おれは寝る前の歯磨きをしながら、携帯でメッセージをチェックしていたのだが、これは片手間に読める内容ではなさそうだ。歯周病よりヤバそうな気配を感じ取ったので、デンタルフロスは省略だ。


─── おれが聞いたのは、だいたいこんな感じだ。『ジェドとディーンがジェイドを取り合い、その戦いでディーンが勝利したが、実はジェイドはおかま(おれが言ったんじゃないぞ。聞いたままの言葉だ)つまり、女装した男性で、ディーンがそれを知って尻込みしたのを恨みに思い、ジェイドはおまえを押し倒してレイプした』……と。聞いたのはここまで。他のことは知らない。いったい何が起きているんだ? ───


 “いったい何が起きているんだ?”だって? それはこっちが聞きたいくらいだ。

 おれは『寝耳に水だ。教えてくれてありがとう。そんな噂は信じなくていい』とだけ返事をしたが、“事実無根だろうな?”と追認されたら困る。この噂には微妙に真実が混ざっているからだ。しかしミッチは詮索することはなく、『わかった。他の誰かがこの件について話していたら、同じように“そんな噂は信じなくていい”と言うことにするよ』と書いてよこした。彼は本当にいいやつだ。根掘り葉掘り聞き出すことはせず、ただおれの味方でいてくれる。

 それにしても、噂の出どころは誰だろう? いや、その前にジェイドはこのことを知っているだろうか? ミッチの耳にまで入ったということは、噂好きの社員であれば皆、知っているはずだ。ここ数日、ジェイドの様子に変わったところは見られなかったので、まだ知らないという可能性もある。いずれにしても、確認しないわけにはいかない。明日はいつもより少し早めに出勤してくれるようジェイドに連絡し、翌日おれたちは人のいないオフィスで、この件について話し合った。

 朝の挨拶をするジェイドはいつも通りに見えたが、おれがこの話を振ると顔色を変えた。

「ええ、その噂でしたら知っています」と言い、「でも隠していたわけではなく」と付け加える。「私も昨日知ったばかりなんです。ケイティが教えてくれました。ディーンさんにお話するべきか迷っていたのですが……すでに広まっているんですね」

 おそらくケイティがミッチに話したのだろう。その逆は考えにくい。とすると、ケイティは誰から聞いたのか? その疑問の答えをジェイドは持っていなかった。

「ケイティは“誰から聞いたかは教えられない”と言うんです。秘密にすることを前提で話してもらったからと。彼女が聞いた限りでは、その話を教えてくれた人も、誰かからの又聞きだと言っていました。私にリークしたことがバレたらケイティの立場が悪くなると思ったので、問い詰めはしませんでしたが……」

「でも気になるよな」おれがそう言うと、ジェイドはこくんと頷いた。

「あの夜のこと、きみは誰かに話した?」

「電話で友達に。でも彼女はカリフォルニアに住んでいるし、私の勤め先の名前も知りません。ディーンさんは誰かに?」

「パートナーのポールには話したよ。それだけだ。あとは誰にも言ってないし、文章にも書いてない。ポールが言いふらすこともあり得ない」

「だとしたら……」ジェイドは思案顔で、「あの夜、私たちの他にも誰かがオフィスに残っていたんですね」と結論づけた。

 嫌なことだが、それしか考えられない。そいつがどこまで見ていたかわからないが、おれが押し倒されたことと、ジェイドの身体に男性の部分があるのは本当のこと。おれがジェドと争ってジェイドを取り合ったとか、逆恨みでレイプしたとかいう部分は、噂に尾ひれがついたのだろう。

 ジェイドは仕事の指示を仰ぐときのように「どうしたらいいでしょう?」と聞いてきた。どうするべきかはおれにもわからない。ただ、犯人探しが意味をなさないということだけはわかる。

「こういう噂はおれたちが黙ってさえいれば、いずれ消えるはずだ。目撃者を探す必要もない。何もやましいことはないんだ。いつも通り、堂々としていればいい」

「そうですね。私もそう思います。ただ……」と言いよどみ、「いずれ消える噂ならいいのですが」と、目を伏せる。

 ジェイドは過去にも同様の出来事を体験している。ひどい噂が原因で転職する羽目になったのだ。

 おれはジェイドの目を見つめ「以前とは状況が違うだろ?」と言った。「前のときはしつこく噂を振りまき続けたやつがいたんだ。悪意を持ってきみを追い込んだ。今回はそこまでのことじゃない。たまたま居合わせたやつが面白がって話をしたら、尾ひれがついただけ。そのうち皆、飽きるに決まってる」

「そうだといいのですが……」

 ジェイドはまだ不安そうだ。おれの言葉にもっと説得力があったらよかったのだが。だがこの時点で“絶対に大丈夫”と請け合うことはできない。彼女の心の傷は深いんだ。そんな根拠のない気休めは言うべきじゃない。

 マンハッタンは比較的マイノリティに優しい街だが、それでも差別が根絶されたわけじゃない。侮蔑というほどの強い感情ではないにしろ、興味本位で話のネタにしたり、奇異なものとして笑いものにしたりは見慣れたものだ。ブルース・ジェンナーがケイトリン・ジェンナーになったことを、大多数が“自然なこと”として受け入れるには、まだしばらく時間がかかるだろう。

 ジェイドとおれは噂など少しも聞いていないかのように振る舞った。この件について直接の問い合わせはないが、チラチラとこちらを伺う視線を幾度か感じる。それは何とも嫌な感じだ。言いたいことがあったらハッキリ言ったらどうなんだ? しかしこっちから文句をつけるわけにはいかない。今はただ黙ってやり過ごすのみ。数日もすれば、ディーンとジェイドは落ち目となり、 カーダシアン・ファミリーに再び注目が集まることだろう。

 好奇の眼差しでチラ見してくる奴は何人かいたが、その中にジェドは入っていない。彼も渦中のメンバーなので、この噂について憤慨するか、おれをからかってくるかのどちらかだと思ったのだが……。

 しびれを切らしたおれは、ジェイドがいないのを見計らって「最近、妙な噂を耳にしなかったか」とジェドに訊いてみた。彼はパソコンの画面を見ながら「知ってるよ」と答えた。「おれとおまえがバトルして、ジェイドが男だって話だろ?」

 さらりと言うので、おれは面食らった。概要の把握は完璧だ。

「そうか、知ってたのか……。で、どう思った?」

 ジェドは椅子をくるりと回し、おれの方を向く。「あのなぁ……」とあきれたように言い、おおげさにフーッとため息をついて見せた。「いいか? おれを見損なうなよ? そんなヨタ話を信じるほど幼稚な男じゃない。だいたいこの話は出だしがおかしい。おれがおまえに負ける? ハッ! そんなわけあるか! おれの腕の太さを見ろ! 戦いの末に誤っておまえを殺しかねないほど強いんだぞ?!」ジェドは鍛えた腕をぐいとおれの前に突き出した。確かにこれに締められたら、10カウントを待たずに死ねるだろう。

「まあ、世間ってのはそういうもんだ。美人はどこへ行っても目の敵にされるし、おれとおまえのようなイケメンも同様。妬みや嫉みを一身に受ける」

 ジェドがイケメンかどうかは議論の余地があるところだが、世間の妬みや嫉みについてはおれも実感している。ジェイドはその被害者だ。

「おれに関して言えば、くだらん噂を流すような雑魚は歯牙にもかけない。が、ジェイドは気の毒だな。転職早々、こんな目に合うとは。やっぱりおまえになど任せたりせず、おれが彼女を守ってやるべきだったんだ」

 おれが頼りないせいでこうなったと言わんばかり、ジェドはジェイドを哀れんでいる。おれはジェイドを守りきれなかった。あの残業の夜、もっと辺りに気を配るべきだったのかもしれない。社員なら誰でも出入りできる空間なのに、あまりにも不注意だった……なんて。思うわけないだろ馬鹿め。人生で悪いことが起きると、“あのとき、ああすれば防げたはず”と思いを巡らせがちだが、それはあまりにも己の能力を過信しすぎているとおれは思う。時として、厄災は誰にでも起こるもの。スーパーマンだって、ヴィラン(悪役)の行動を事前に阻止することは不可能だ。後悔先に立たず、失敗は次回ヘの教訓とすべし。おれとジェイドに起きたことはロマンスじゃない。完全にアクシデントだったんだ。




 驚きは九日しか続かない(訳 : 人の噂も七十五日)と言うが、十日経ってもおれたちはホットな話題で、未だ熱い視線が継続している。おれには誰も何も言ってこないが、ジェイドには違った。冗談めかして話してくる者。事実かどうか確認を迫る者。どちらも男性で、前者は親切めかしてあわよくばというケース。後者は性別を問題視せず、性交渉に挑もうとするケースらしい。

「その種の男性はよくいるんです」とジェイドは言う。「いやらしい男に付きまとわれるのは、普段からのことなので、さほど気にしてはいませんが」

 おれとジェイドはまたしても早朝、一番乗りの出勤している。二人で話をするには、こうするしか他にないからだ。残業やランチを共にすれば、噂に燃料を注ぐことになる。就業時間内には仕事以外の会話をせず、親しげな雰囲気を出さないように努力したが、ジェイドによると「それはそれでわざとらしく映る」とのこと。

「結局、何をしても噂の裏付けだと、彼らは解釈するんです」

 仲良くしても“好きだから”。素っ気なくしても“好きだから”。その想像力はいったいどこから来るのか。クリエイティビティは他のことに使ってほしいものだ。

「いやらしい男たちにどう思われようと構いませんが、つらいのは女性からの言葉です」

 ジェイドはこの職場で親しいと言える友人はまだおらず、真相を話せる相手もいない。思いやりのある女性が『根も葉もない噂など気にすることはない』と勇気づけてくれても、それはジェイドを女性とみなした上での声がけだ。『私はあなたが男だなんて信じていないから』という体で来られると、ジェイドはもうカムアウトのタイミングを逸してしまうのだそうだ。

「この件について、“男って馬鹿よね”と共感を求めてくる女性もいます。でも私は“女性VS男性”の構図を作りたいわけではありません。でも、それを説明するには、パウダールームでの会話だけでは、時間が足りないんです。何より、女性専用の空間に、私(男)がいることを知られたらと思うと……今は味方をしてくれている女性たちがどのような反応をするか。私はそれが怖いんです」

 ジェイドが置かれている状況は、おれよりよっぽどシビアなものだ。黙ってさえいれば、おのずと時間が解決する。そういう段階はとっくに過ぎている。何らかのアクションを起こさない限り、この件は収束しないだろう。

 しかし、ここからどうすれば自体が好転するのか? フリーセルの手詰まり画面を見続ける間抜けの如く、ただ時間だけが過ぎていく。この出来事に神の介入はなく、まばゆい光の天使がおれたちを助けてくれることはなかったが、代わりにハンサムなミッチがおれをランチに誘ってこう言った。

「おれが思うに、おまえとジェイドは別れた方がいい」

 おれはチベットの水餃子に箸を突き刺し「別に付き合ってない」と答えると、彼は「そうじゃなく、部署変えをした方がいいって意味だ」と表現を変えた。

「ジェイドは前の職場で営業だったんだろ? おれのところへ異動するよう、次のミーティングで話をしてみることはできる。もちろん彼女が望めばだが」

 ミッチおすすめのチベッタン料理店は最高だが、食事のスパイスたる話題がこれでは、ゆっくり味わうどころではない。ほぼ自動的な動きで食べ物を咀嚼しながら、おれはぼんやりと「そうした方がいいのかもしれない」と、弱めの賛同を示した。そんなおれの態度を見て、ミッチは「嫌か?」と聞いてきた。言われ「いや、そんなことはない」と否定する。「彼女に営業の才能があるのはわかってる。うちにいても宝の持ち腐れだ」

「それなら、ジェイドに異動する気があるかどうか、おれから聞いてみてもいいか?」

「ああ、もちろん。そうしてもらえると助かる」

「おまえも同意なんだよな?」

 しつこく確かめるミッチ。おれがジェイドを手放したくないと思っているのを、彼は見抜いているのだ。

「同意だよ。反対する理由はない」

 営業部にいれば、彼女は目に見える形で活躍できる。ミッチはジェイドを守ってくれるだろう。これが一番良い方法だ。

 ミッチとランチをしたその日の夜、ジェイドから電話があった。

「ジョーンズさんから話を聞きました」と言い、「私は営業部に異動するべきだと思われますか?」と、単刀直入に訊いてきた。

 おれは「きみがそうしたいのなら」と、決定の100パーセントを彼女に託す。

 ジェイドは「では行きます」と手短に言い、「私のことで骨を折ってくれてありがとうございます」と礼を述べた。

 ぶっきらぼうな物言いだが、ジェイドは怒っているわけではない。これが彼女の話し方なのだ。やっと理解できるようになったというのに、もう別れが迫っている。それは思った以上にあっさりしたものだ。

 ジェイドがミッチからの誘いを蹴ってくれることを、おれは心のどこかで期待していたのかもしれない。 寂しく感傷的な気持ちになっているのがその証拠だ。

 この異動が彼女にとって良いものであるのはわかりきっている。一時の情に流されることなく、部下の成長にベストな選択をするのが上司の努め。ミッチから彼女に話してもらってよかった。もしおれから言えば、ジェイドは気を使って“ここに残る”と答えたかもしれない。それは他ならぬおれの未練のせいで。




 月に一度の定例会議は社内にオンライン中継され、各デスクのパソコンで見ることができる。勝手な決議や不正が行われないためだが、この退屈な動画を見ている社員が果たしているかどうか。列席しているにも関わらず『まったく興味がない』と豪語するジェドのような輩もいるくらいだ。

 ジェイドは定例会議に参加するポジションではないが、ミッチとおれで同席の許可を社長に申請した。この会社には人事部というものがなく、かつては存在したそうだが、憎まれ役を担当し続けた社員が鬱病になったとかで、以来、社長とシーラが人事を担当している。つまり、この二人さえ納得させればいいのだ。三人がかりで異動願いを申し出れば、社長もイエスと言ってくれるだろう。

 各部署からの定期報告が終わると、提案や要望の提出が行われる。何もなければここで終了だが、多くの部署が挙手すれば、それは長引く。ジェドは毎回おれに「うちから発言がある場合はスーパー手短にしよう」と念を押すが、大抵は自分が資料を作り間違えたりするなどで、無駄な時間をとっている。今日はジェイドの異動願いを社長が受理さえしてくれればいい。そうすれば“スーパー手短に済む”はずだ。

 ジェイドの異動についてをおれが述べると、社長からのコメントは案の定「次の人事異動で検討しよう」。ミッチの言う通り、成績の悪い有色人種をカットしてからでないと、新たな黒人枠は空かないのだ。さて、ここからがおれたちチームの腕の見せどころ。有色人種問題をウヤムヤにされないよう、おれたちは各自でシナリオをイメージしてある。

「次の人事異動は10月ですよね?」とおれは指摘した。「半年もうちにいたら、営業の腕が鈍ってしまうかもしれません。何より、半年以上も我が社の売上に貢献できないというのは、損失ではありませんか? 彼女が即戦力になりうる人材であることは、社長も幹部もご存知のはず。そもそも運営部は最初から人員は間に合っています。ここしばらく彼女に働いてもらってわかることは……」

「ちょっといいかな」まくしたてるおれの言葉を斜向いに座っている男が遮った。「なんだってそんなに急ぐ必要があるんだ?」

 ジェイソン・ブラー。噂が流れたとき、おれの顔をチラ見してきた奴だ。

「きみの部署に彼女がいたらまずい理由でもあるのか? まるで厄介払いみたいな言い方で、聞いていて不愉快だ」

「厄介払いに聞こえましたか? おれは適材適所の話をしているんですが」

「だったら次の人事異動のときでいいじゃないか」

 おまえ寝てたのか? それについては今さっきおれが説明しただろうが。 

「それに」とブラーは続けた。「営業の天才だというなら、半年程度で腕が鈍ることはないはずだ。それとも今すぐ異動しないといけない理由でもあるのか? もしあるならぜひ聞かせてほしいもんだが……」

 なんだってこう絡んでくるんだ、このハゲは。ブラーだかブリーだか知らないが(ブリー:Bullyは“いじめっ子”の意味)ジェイドが異動したところで、おまえの法務部には何の影響もないだろうが。

 おれは「さきほども言いましたが」と強調し「営業部には即戦力となり、運営部には宝の持ち腐れになるからです」と、これ以上ないほど簡素に説明した。これでわからなければ、こいつの頭の中身は水素ガスが詰まっているに違いない。

「今じゃなきゃ駄目だと?」と、ブラー。「そうですね」と、おれ。幼児の喧嘩っぽい応酬に、ジェイドがしびれを切らした。

「私が希望したんです。可能な限り早くしてほしいと。ケリーさんとジョーンズさんは私の希望を汲んでくれました」

 さらにミッチが手を上げ、ジェイドの言葉を補足するように「そもそもこの提案は自分が言い出したもので……」と切り出す。「彼女の素晴らしい経歴を知って、二人に頼み込んだ。戦力になる営業は何人いてもいい」

「何人いてもいいって、それは現実的じゃないだろ?」

 またしても別の奴が口を挟む。宣伝部のゲイリー・フライシャーだ。

「展示会場で、客より販売員の方が多いのはどうかと思う。ただでさえ、販売員を威圧的に思う客がいるんだ。ましてや……」と言いかけ、さっきのハゲとアイコンタクト。なるほど、そっちもチームってわけか。フライシャーが最後まで口にしなかった言葉。『ましてや……』は、『ましてや黒人では』と言いたかったのだろう。この人事異動がなぜそんなに阻止されなければいけないのか、理解に苦しむ。

 ミッチは「彼女を入れても営業の定員越えにはならない」と反論。「“営業は何人いてもいい”と言ったが、それはこれまでより多く会場に配置するという意味じゃない。イベントの規模に合わせて、今まで通り人員は調整する。営業の仕事は会場に立つ以外にもあるんだ」

 ブラーは手にしたボールペンで机をコツコツと叩き「どうも言葉が通じてないみたいだな」と苛立ちを見せる。「だから、なぜ今じゃなきゃ駄目なんだ? おれは“今すぐ彼女が異動するべき明確な理由を聞かせてくれ”と言っているんだよ」

 間違いない。こいつは引っ掻き回したいだけだ。ジェイドの異動を阻止すべき業務的理由などあるわけがない。人の人生をなんだと思ってやがる。

 ブラーはジェイドを舐めるように眺め、「まあ、この新人を擁護せんとする気持ちはわからないでもないが……」と、小声でつぶやいた。それに呼応してクスクス笑う声が聞こえると、シーラがぴしゃり「静かに」と諌める。これで誰も発言できなくなった。

 シーラは「埒が明かないわね」と言い「社長はどう思われます?」と、最高責任者に矛先を向けた。

 社長は50代だが、シーラより若く見え、地位に見合った貫禄はない。彼がここまで成功したのは、創設メンバーにいた双子の兄のおかげだが、兄が早逝してからは、引退した元重役連とシーラのサポートでやっていけている状態だ。

 皆が発言を待つ中、社長は机の上で手を組み「熱意はわかる」と同調した。「わかるが、今は単に異動の時期じゃない。希望した者がすぐに異動できるわけじゃないことは、ディーン、きみも知っているはずだ」

 名指しで注意された。社長の目には、おれが暴走しているように見えているのだろうか。

「それに……客を不安にさせる要素はないに越したことはない」

 おれは一瞬ぽかんとした。自分の耳と理解力を疑ったからだ。不安にさせる要素だと? マジでそう言ったのか?

「それはどういう意味ですか」問いかけるおれの声は普段より大きく、会議のメンバーが一斉にこちらを向いた。とがめるような皆の視線に構わず、おれは立ち上がり「不安にさせる要素とやらについて、もう少しご説明いただけますか」と訊ねる。「教えてください。いったい誰が、なぜ不安になるっていうんです?」

「ディーン・ケリー」シーラがおれの名を呼んだ。いつもだったらここで着席だ。しかし今回は絶対に座ってやるもんか。おれのプライドじゃない。部下の尊厳に関わる大事なことだ。

 心配そうにおれを見上げるジェイドに「きみのことを話しても?」と訊くと、彼女の瞳に怯えが現れた。

 おれは彼女の耳に唇を寄せ、「きみの過去や“何者であるか”はここで紹介するつもりはない」と告げる。「何が起きてもきみを守る。おれを信じて」

 ジェイドは小さく、だがしっかりと目を見て頷いてくれた。

 おれは皆に向き直り「まずはっきり言っておきたい」と宣言する。「最近流れている噂について。 ここで否定させてもらう。おれとジェイドはオフィスでセックスなんてしていない。ここ以外のどこででもだ」

 “セックス”という単語に、シーラは眉を吊り上げたが、“黙れ”とは言わなかった。

「ここ最近、おれはずっと考えていた。おれを含め、皆はここに何しに来てるのかってことを」一呼吸置き「素晴らしいアートを人々に紹介するため。そうだろ?」と確かめる。「そこに他人のプライベートを詮索したりする暇があるとは思えない」言って、おれはブラーを見た。彼はふてくされた顔をしている。

「ここにいるジェイド・デイヴィス、彼女は企画を起こそうと考えていて、そのアイディアをおれに共有してくれた。新しい作家を開発して、より多くの人にアートの楽しさをわかってもらおうとしていたんだ。まだ来たばかりなのに、この会社に貢献しようと頑張ってくれていた。おれが知る限り、誰より仕事に情熱のある社員だ。ジェイドはこの仕事とアートを本気で愛してる。そのことに性別や人種がどう関係あるっていうんだ?」

 ふたたび社長を見て「裸の彫像に“あれは不安になる要素だから下げろ”と言われたらどうします?」と訊ねる。「差別主義者のカスタマーが、黒人であるバスキアの絵を展示するなと言ってきたら? そういうクレームが来る前に、作品を撤去しておくべきなんですか?」

 社長は渋い表情で「そんなことはしやしない」と答えた。それはおれが望むギリギリの回答だ。会議の出席者が社長の言葉を了承と受け取れるよう「ご理解いただき、ありがとうございます」と礼を述べる。

 ミッチのニヤニヤ笑いが目に入る。ジェイドは唇を引き結び、息を止めているように見えた。

 おれは座りかけ、思い出したように「ああ、最後にひとつだけ」と立ち直す。「皆に言っておきます。もし仕事以外のことでジェイドを批判するのであれば、誰であってもおれが片っ端からケツを蹴り上げるので、そのつもりで」

 そこでシーラがついに声を上げた。「座りなさい、ディーン・ケリー」立ったままのおれに「“ケツを蹴り上げる”という表現はこの会議にはふさわしくないわね」と苦言し、「でも、的を得た話ではありました」と言う。「今日はこれまで。未決事項については、社長と私でよく話し合います。皆さんが下らない話題に興じることなく、仕事に情熱を燃やしてくれることを心から期待しています。今日はお疲れ様でした」

 彼女の言葉。それは命令だ。今後も下らない話題に興じるのであれば、鞭でひっぱたくぞという恫喝に違いない。これで噂は収まることだろう。

 会議室を出ると、ミッチがおれの肩を抱いてきた。

「さっきのスピーチには心を打たれたよ。大統領選に出馬するときは言ってくれ。おまえに投票する」

 嬉しくてたまらないという顔のミッチとは対象的に、ジェイドはハンカチで目頭を抑えている。涙声で「ありがとうございます」と言った後「私も投票します」とミッチに続いた。

「二票でどこまで行けるかわからないけど、支持者の意向は尊重するよ」

 緊張が解け、穏やかな空気になると、ジェイドは「お化粧を直してきます」と化粧室に向かった。

 ミッチは伸びをし「さぁて、これからどうなるか……」とつぶやいた。難癖をつけてきた二人はこちらに目もくれず、こそこそと去っていく。

「あの……ちょっといいですか」声をかけられ、振り向くと若い女性が立っていた。会議室にはいなかったメンバーだ。

「三票目かな?」と、ミッチがおれに目配せをする。

 女性はミッチをちらりと見て、それからおれに「ケリーさんにお話が……お時間は取らせませんので」と言う。

 彼女の深刻な表情にミッチは何かを察し「じゃあ、おれはもう行かないと」と席を外してくれた。

 おれたちは廊下の端に移動し(それは奇しくもジェイドとケイティが密会していた場所だ)「話って?」と彼女に聞く。

 おそらく初対面であろう女性は「私、あの、友達がいて……」と話しだした。「その友達が……。あ、友達ってこの会社の人なんですけど、でも名前は言えなくて、すみません、ええと、それで……」

 やたらテンパっている彼女を「落ち着いて」となだめ「時間はあるから急がなくていい。きみの名前は?」と聞いた。

「ルーシー・ウェインライトです」

「そうか、おれはディーン・ケリー。よろしく。会うのは初めてだよね?」

「ええ」と頷き「でも私は知っていますけど……一方的に。さっきのビデオ会議、見てました」

 あれを見ている社員がいたとは驚きだ。おれがそう言うと、ルーシーは「私もいつもは見てませんけど……同僚が“今回の会議は面白いぞ!”って教えてくれて。みんなで大盛りあがりでした」

 そうか。そりゃそうだろうな。シーラの前で“ケツを蹴り上げる”と言ったんだ。自分が中継を見る立場だったら、手を叩いて爆笑したはずだ。

「中継のこと、すっかり忘れてたよ。もう少し言葉を選ぶべきだったかな。ともあれ、報告ありがとう」

「あ、いえ、そうではないんです。話というのは、今回の噂について……です」

 心臓がドキンと強く打つ。今しがた終息したと思った事柄が、ここへきて蒸し返された。いったい何を言われるのか。おれは努めて平常心を保ち、彼女の次なる言葉を待った。

「私の友達の……名前は……ごめんなさい、言えなくて……。それで彼女が“見た”って言うんです」

 この噂がなかなか消えなかったのは、目撃者がいたからだ。噂の一部が真実でなければ、下らない憶測だと一蹴できただろう。

「そうか、やっぱり見られていたんだな……」

「ええ、あなたがレストランにいるところを」

「レストラン?」

「あなたが男性と一緒にレストランにいて、ジェイドのことを話していたのを、彼女は隣のテーブルで聞いていて。それで、すごくびっくりして、社内の何人かには話したけど、言いふらしたつもりはなかったと言っていました。噂を広めようとか、ジェイドを困らせる意図でやったわけではいと」

 なんてことだ。噂の出どころはおれだった。ポールと会話をしたレストランは会社のそばだ。職場の人間がそこにいる確率が高いとわかっていたはずなのに……。

 ルーシーは申し訳なさそうに「本来なら、言いふらした彼女が直接ジェイドに謝るべきなのでしょうけど……」と言う。「彼女、どうしても無理だと言うんです。責任を取らされると思っているみたいで。でも、私が代わりにあなたに話をすることには了承を得ています」

「それで充分だよ。犯人を特定するつもりはないから安心して。それより、ルーシー、こんな嫌な役割を引き受けてくれたこと、感謝してる。ありがとう」

 ルーシーは頬を染め、はにかんで微笑んだ。ここ最近、女性に避けられたり冷たくされたりが続いたので、彼女の反応は新鮮に感じる。女性からの承認欲求が久しぶりに満たされた。

 後から聞いたところによると、オンライン社内中継の瞬間最高視聴率は35パーセントを超えたらしい。数字だけなら、おれのスピーチはスーパーボウルに迫る勢いだ。わざわざおれのところに来て、支持を表明する者さえいる。視聴者を味方につけるわけではないが、ジェイドの異動はこれで決まりだろう。社長は日和見なところがある。ここで頑固になるのは得策ではないと思うはずだ。

「でも私はここに残ってもいいと思っています」とジェイドは言う。「離れようとしたのは噂が原因でした。でもディーンさんのおかげでそれは消えたわけですし……私がここに残っても差し支えありませんよね?」

「そうだね。異動が認められなかった場合は残留だ」

「私、本当に嬉しかったんです。初めて上司に恵まれたと思いました。“何が起きても守る”……それは私が心底求めていた言葉でした」そう言い、彼女はにっこりと笑った。初めて見る、心からの笑顔。それは晴れ晴れとしていて、とても美しい。

「その瞬間、私の闇は明るい夜明けになったんです。とても心強かった。あなたは私の理想の男性です」

「部下から好かれるのは嬉しいよ」

 ジェイドは寂しげに微笑み「わかっています。それ以上のものは手に入らないことは」と言う。「“世界で唯一のボーイフレンド”には敵いそうもないですからね」

 このとき、ふとジェドの言葉を思い出した。

『同僚と仲良くするのは別に悪いことじゃない。人間関係が良好であれば、いろいろなことがうまくいくんだ』

 シャコガイもたまにはいいことを言う。ジェイドとおれは仲良くなり、人間関係は良好だ。

「そうだ、例の企画だけど。これはおれたちの間だけに留めておくことはないかもしれない。仲間を増やして、もっとよりよい企画にすればいいんだ」

「それはどういうことですか?」

「例えば、広報部を巻き込むという手もある。アーティスト紹介という形でホームページに掲載するとか。自社サイトなら宣伝費もかからないし、普通の広告よりも見てもらえる。そこで人気が出れば、アーティスト契約に進められるかもしれない」

「それはいいですね。そういう実績があれば、企画にも説得力が出ます」

「ミッチや他のスタッフにも共有して、広くアイディアを募っていこう」

「はい」




 ジェイドはよく笑うようになり、女性だけでなく、男性の同僚とも親しく会話をするようになった。だからといって、すべての問題が消えたわけじゃない。これから社内で厳しい状況に見舞われることがないとは言えないし、世間に出れば冷たい視線にさらされることもあるだろう。

 テレビで見るトランスやドラアグは皆、強く逞しく、中傷などものともしない、やられたら百倍にしてやり返すようなキャラクターとして描かれている。だがおれが実際に接したゲイを始めとするマイノリティの人々の多くは、脆いハートを持ち、繊細な性格だ。ジェイドは人から傷つけられることを恐れ、見えない殻に閉じこもっていた。それは彼女本来の性質ばかりではなく、世の中によって作られたものでもある。マイノリティ差別を一度でも目の当たりにすれば、必要以上に警戒するようになるのは無理からぬことだ。

 物心ついて、自分が世間から差別される側だと気づくのは、いったいどんな気持ちなのか。それはほとんどの場合、いじめや中傷など、悲劇的な方法で知らされる。そんな厳しい状況下で生き残るには、強い精神が必要だ。

 おれは男で、白人で、アメリカ人で、身体のどこにも欠損がなく、平均的な知能指数で読み書きができ、毎日の食事にありつける。それは単に運がよかっただけだ。不利な条件から出発して、努力の末に勝ち取ったわけじゃない。ディーン・ケリーの立ち位置は、アメリカにいる以上、安全地帯とみなされている。

 ポールは元からゲイで、それ以外の選択は始めから存在しない。だが、おれは違う。女性ではなく、ポールを選ぶということは、あるひとつの選択を迫られるものだった。おれがポールを愛し、恋人にするというのは、安全地帯から出ることを意味している。マジョリティから、マイノリティへ。それによって生じる周囲の反応など、想像もつかなかった。

『ペニスのあるなしは関係ない』とジェイドに言ったが、それは間違いなく本心だ。性別の決め手となるのは、肉体ではないとおれは思う。それは決意だ。女として生きていくという決意さえあれば、その人は間違いなく女性。なりきるためにメイクをしたり、フェミニンである必要もない。もし自分が男性だと自認すれば、誰がなんと言おうと男だし、どちらでもないと決めたなら、無性の人と呼べるだろう。

 ジェイドには決意がある。人生を女性として暮らしていくという覚悟と、それに見合った行動が。おれにはそこまで明確なアイデンティティも強さもない。そうポールにこぼすと、彼は「でもきみは仕事に誠実だよね?」と言う。「それは明確なアイデンティティのひとつに数えられるんじゃない?」

 ポールはベッドに横たわり、シーツから片腕を出しておれの髪を撫でた。言葉だけでなく、彼の指先から、優しさと思いやりが伝わってくる。おれは撫でられながら「“仕事に誠実なディーン・ケリー”」とキャッチコピーを口に出す。「なんだか政治家みたいだな」

「政治家は最もきみにやってほしくない職業だね」政治家嫌いのポールはわざと顔をしかめて見せる。出馬しても彼からの票は期待できそうにない。

「それに……忘れているかもだけと、もうひとつあるよ」

「なんだ?」

「ポール・コープランドの恋人」

「ああ、それは最高のアイデンティティだ」

 するとポールは両手で顔を覆い「自分で言っておいて何だけど……恥ずかしい」と照れた。彼は世界一愛らしい恋人だ。

 おれはポールの強さに励まされ、人生を共にすることを選んだ。誰かを愛するには覚悟がいる。相手を好きだという気持ちだけでは到底続かない。長く一緒にいるうち『相手のことを好きだと思えない日』だってやってくるからだ。怒りや嫉妬、互いの未熟さ。そんなものが、関係性を壊していく。

 ポール・コープランドの恋人。このアイデンティティに見合う自分で居続けよう。おれは世界で唯一のボーイフレンドにキスをした。それは心からの誓いを込めて。

 彼といられるなら、差別も何も怖くない。愛の強さは闇を明るい夜明けに変える。この屋根の下は安全地帯。二人がひとつになって眠れる場所だ。



+++エピローグ+++


 定例会議から一週間後、シーラが『ジェイドの異動の件』の報告に来た。

「結論から言うと、彼女にはまだ今の部署にいてほしいの」

 確実に異動できるものと信じていたので、おれは少なからず混乱した。いったいどのような経緯で却下に至ったのだろう?

「それはなぜです? 営業は定員オーバーですか?」

「いいえ、そういうことではなく……申し訳ないけど、今日の段階ではまだ説明できない。ただ、この決定が人種差別や性差別などに基づくものでないことは断言できます」

 今日の段階では説明できない? 断っておいて? そんなことあるのか?

「あまり詳しくは言えませんが」と前置きし「今現在、水面下で進んでいるプロジェクトに関わることだからです」とシーラは言う。「ちょっとまだどうなるかわからないので、はっきりしたことが言えないのよ」

 さっきから“まだ”と何度も使っている。どうやらシーラも困っているようだ。珍しいこともあったもんだ。

「口外禁止なんですね?」

「そうよ」

「でも、どこかの時点でジェイドの収まる先を決めて頂かないと困ります。次の人事異動まで待たないと駄目ですか?」

「いいえ、そんなには待たせない。なるべく早く決めるよう、社長にも働きかけるので、心配しないで。それで……彼女はどうかしら。もし営業に移れなかった場合は?」

「ジェイドはうちに残ってもいいと言ってました。営業に行けなかったからといって、辞めるとかいうことはないと思います」

「それはよかったわ」シーラが安堵したのがわかった。異動願いを却下したことで、ジェイドが辞職することを懸念していたのだろう。

「彼女にもあなたにも決して悪いようにしません。だからもう少し待ってほしい。これは私からのお願いです」

 命令ではなく、頼み事だ。シーラから初めて本気で“お願い”された。

 水面下で何かが動いている感覚は不気味なものだが『決して悪いようにしない』という彼女の言葉を信じよう。信じる他にどうしようもない。

「わかりました。ジェイドにはおれから説明しておきます」

「そうして頂戴」

「本当にお願いします。おれはともかく、ジェイドのことは…」

「わかっています」シーラは遮り、鋭く言った。「あなたのこともジェイドのことも、きちんと取り計らいます。もしそうならなかったら、私のケツを蹴り上げてくださって結構よ」

 ケツという単語を彼女から聞かされるとは思ってもみなかった。尻を賭けるほど請け合えるのなら心配無用だ。

 何が起きてもジェイドを守る。彼女の良き上司であること。これもおれのアイデンティティだ。



END

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