第40話 冥王との密約

 初めに目に映ったものは、幾つもの蛍火が揺ら揺らと薄暗い虚空をさ迷い飛ぶ様であった。

 一つ、二つ……と、その光は、幾度も消えそうになりながら、消えたと思えば、また弱い光を発して、頼りなげに漂っていく……


 緋燕ひえんは、そんな様をしばらく見ていた。半ば朦朧とした意識のまま、自分はどこにいるのか、と考える。四肢は力が抜けてしまった様に、動かそうと思っただけで、体中に鈍い痺れが走った。頭を回す事も出来ず、眼球だけが、辛うじて動く。だが、そうして、その目に映るものは、どこまでも続く、虚空と、蛍火のみだった。


 自分は、仰向けに、倒れているのだと、そう思う。ただ、背に大地の気配はなく、頼りなく浮遊している。そんな感覚である。これは、まるで……水に漂っている様な感じではないだろうか。何か心地いい、温かなものに抱かれている。そう感じたのは、水がかなり、生温かかったせいである。


「……ここは」

 発した声は、掠れて、我がものではない様な音となり、虚空へ吸い込まれていった。

 そのあまりの頼りない様に、緋燕は自嘲した。俺は、死んだのか……と思う。恐らく、緑星王の波動を受けて、何もかも、きれいに吹き飛んだのかもしれない。そんな事を考えていた緋燕の耳に、水を掻き分けて近づいてくるものの音が聞こえた。



 そちらへ目をやると、小船が一艘、こちらへやってくる。何だろうと思ううちに、その船は、緋燕の傍らに来て泊まった。

「緋燕様」

 覚えのある声が、彼の名を呼んだ。

「今、お助けします」

剛來ごうらい……か」


 かつて、羅刹には、三人の王がいた。

 緋燕と羅綺、そしてこの剛來である。


 剛來がここにいるということは、ここは、冥府なのか。剛來の手によって、船の上に引き上げられながら、緋燕は聞いた。

「……ここは、境海きょうかいです」

 境海……その名の通り、地上と冥府の境に、その二つの世界の隔てとして存在する海である。

「羅刹の者が、こんな所で、何をしている」

 問われた剛來が、虚空を見上げた。

「地上の戦で、あまりに多くの者が亡くなったでしょう……だから、ああして、冥府に辿り着けない魂が、行き場を失って、ここに漂っているのです」

 あの蛍火は、そういうものであったのか……緋燕は、感慨深げに蛍火を見た。

「それを集めるのが、今の私の仕事なのです」

 言いながら剛來が、網の付いた長い竿を緋燕に見せた。

「これで、あの光をすくい取って、冥府に送ってやるのですよ」

 緋燕が、剛來を見上げていた。彼が、言い出せない言葉を察した様に、剛來が頷く。

「それが、我が羅刹の一族に課された、罰なのです」

「……そうか」

 船に横たわったまま、こみ上げてくる無念の思いを押し込める様に、緋燕は目を閉じた。剛來はそれ以上何も言わず、無言のまま船を漕いでいく。


 羅刹は、冥府を守護する、誇り高き戦士の一族だった。それが、冥王の怒りを買ったが為に、こんな下人の境遇にまで、貶めらているのか。


……藍星王、お前だけは、決して、許さぬ……


 緋燕の中で、消えかかっていた復讐の炎が、静かに燃え始めた。



 藍星王は禁を犯し、一度死んだ者を冥府から連れ出し、地上へ連れ戻したのだ。そして、あろうことか羅刹王羅綺らきが、その手引きをしたのだという。――その罪により、羅綺は地上へ追放された。


 冥王の怒りは、それだけでは収まらず、羅刹の一族全てが罪を問われ、その償いをしなければならなかったのだ。

 だが、ただ一人、罪を問われなかった者がいた。それが、緋燕である。故に、緋燕は一族を裏切り、羅綺の行いを冥王に密告したのだと、そう思われている。そして緋燕は、裏切り者として一族から追われた。


 船が桟橋に、軽くぶつかって泊まった。

 緋燕が目を開けると、冥府の役人が二人、そこに待ち構えており、体がまだ動かせない緋燕を丁寧な手つきで持ち上げると、側に用意されていた輿に寝かせた。

 緋燕が首を傾けると、その様子を見守っていた剛來と視線があった。

「理由をお聞かせいただける日が、いずれ来ると、私はそう信じております」

「……剛來」


……この密約の事は、他言はならぬ。羅綺と羅刹族を救いたくば、我が意に従え……


「羅綺と共に、必ず戻る」

「緋燕様……」

「それまで、一族の事、頼んだぞ」

「はい」

 剛來の瞳が輝いた。

 ささやかな希望を残していくだけが、今出来る、せめてもの償いだった。


 輿が閉じられた。ここに迎えを寄越したというのなら、自分はまだ必要とされているのだ。また、約束を果たしてもらう望みはあるということだろう。あの冥府の王に。

「お気をつけて……」

 剛來の声を聞いて、緋燕は眠りに落ちていった。




 再び、意識を取り戻した時、自分を覗き込んでいた者の顔を見て、緋燕は身を固くした。

「よくもまあ……生きていたものだよ」

 冥王が呆れた様な口調で言った。

「覚醒半ばとはいえ、相手は星王だぞ。あの場合、何を置いても、逃げるのが筋だろう」

「……」

「相手が、緑星王だったから良かったものの、あれが、赤星王なんかだったら、ひとたまりもなかったぞ」

 言いながら、冥王は拳を上に向けて、パッと開いて見せる。

「……手加減したのだと?」

「緑星王は、優しいからね。なんたって、癒しの姫だもの」

 そこで、言葉を切って、冥王は緋燕を見据える。その表情は笑顔だが、目は笑っていない。

「ま、その怪我じゃ、当分、仕事はむりだな。しばらく、養生するといいよ」

「お待ちください」

 無理に体を起こそうとして、体中を激痛が走り、緋燕は顔を歪めた。

「……お待ち……を」

「その体では、使い物にならない、と、そう言っているんだよ」

「しかし、私は……」

「……まあ、愛しい者を一刻も早く救い出したい、という気持ちは、分からなくもないけどね」

「冥王様……」

「私とて、同じだ」

 冥王が遠くを見る様な目をして言った。

「……」

「藍星王は、中々油断がならない。万全を期して掛からないとね。いいね?」

「……はい」

 身を横たえて、深くため息を付いた緋燕を一瞥して、冥王は部屋を後にした。


 地上での戦は、一区切りついた。しばらくは、互いに体勢を立て直す事になるだろう。緋燕の傷を癒すくらいの猶予はある。だが、地上の様子が見えぬというのは、やや不自由でもある。燎宛宮の太后は、身の程をわきまえず大きな力を使ったせいで、こちらも使い物にはならない。


 新しく目となる者を探さなければならない。――我が器となる者。

 天暮てんぼの星の者を。




 劉飛の西畔行きの日が正式に決まり、彼が西畔への旅支度をしていたところへ、黒髪の少年がやってきた。

「伝令か?天海様から何か?」

 劉飛が尋ねると、少年は敬礼をして、よく通る声で言った。

「本日を持ちまして、劉飛少将殿の副官を拝命いたしました」

「お前……」

 劉飛が何か気付いたように、少年の顔を見据えた。

「まさか、華梨殿?どっ、どうしたんだ。その格好は……」

 長かった髪を少年のように刈り込んで、皇騎の兵服を纏った華梨に劉飛は言葉を失った。


「天海様のたってのお願いなの。劉飛は危なっかしいから、面倒見てやってくれって。帝国宰相に頭を下げられたら、断れないでしょう?」

「それにしたって……」

「それにね、ただ、ぼんやりと都で待っていたって、仕方ないかなと思うから。外に出ていれば、どこかで偶然出会う……なんてこともあるのかしら……とか、考えてみたり」

 冗談めかして言う華梨に、劉飛は複雑な顔をした。

「そうやって、ずっと待ち続けるのか……周翼の事を。あいつは、もう帰って来ないって、はっきりそう言ったんだぞ」

「待つ、というのではないの。もう一度、めぐり逢える様に、少しでも可能性のある方へ動いて行くだけ」

「……本当に、好きなんだな」

 感心したように言う劉飛に、華梨が切り返す。

「あなたも、でしょう?」

 そう問われて、劉飛は自分の中の、本当の気持ちにようやく気付いた。


「……ああ、そうだな。忘れようと思ったけど、忘れられなかった。憎もうと思ったけど、憎み切れなかった。この六年、本当に楽しくて……俺は、あいつが、本当に好きだったから……その想い出を、捨ててしまうことなんて、出来はしなかった」

「周翼様だって、きっとそうだわ。あなたが大切に思う、その想い出と同じものを持っているんですもの。遠くにいても、その心はきっと近いところにあるはず……」

「心が?」

「そう信じていて。人の思いは、願いを叶える力にもなるのだから」


 だから、私は信じ続けている。

 あなたの事が、好きだったということを。

 忘れないように、繰り返し繰り返し。

 自分に言い聞かせて。

 いつか、

 この思いが届くまで……


「信じることが、力になる、か」

 ただ打ちひしがれていた心に、温かい光が差し込んでくる。そんな感じがした。


……きっと大丈夫だ。周翼がいなくても、俺はやっていける……


 そう信じて、歩き出すこと。全ては、そこから始まるのだから。

「……一つだけ言っていいか?」

「……?」

「今後、一切髪を切らない事。今度、あいつに会うまで。周翼は、長いのが好きなんだから」

「あら、それは知らなかったわ」

 華梨が笑った。

 それにつられて、劉飛の顔に、久し振りの笑顔が戻っていた。



    【 七星覇王伝 第一部  完 】

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七星覇王伝1 抹茶かりんと @karintobooks

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