第39話 星狩りの雪
夜もだいぶ更けた頃、予期せぬ来訪者を迎えて、
「力を、お返し下さい」
楓弥の第一声と、その真っ直ぐな目に、九鉾は自分の予想が当たっていた事を残念に思いながら、それでも、弟子の説得を試みた。
「……本当に、それで良いのか?そなたの母は、命がけでそなたを守り、この地まで逃したのだぞ。力を使えば、追っ手に気付かれる。一度救われた命を、また危険にさらす事になるのだぞ」
「それでも、構いません。私の力があれば、周翼様の行方を捜すことが出来るのですから」
「この河南で、このまま穏やかに暮らす……という訳にはいかぬのか」
「それが、きっと私の性分なのですから、仕方がありません」
楓弥が挑むような目を向けた。
「それに、周翼様が戻られねば、その穏やかな暮らしとやらも、ままならないのではないのですか?」
「……逃げ続けるは、性に合わぬか……戦って、道を開く……それもよかろう。ただ、忘れるでないぞ。決して、力の強い者が勝つのではないということを」
「はい」
「力を使うからには、何としてでも周翼様を見つけ出すのだ。お前の身を守る術があるのだとすれば、それは、周翼様のお力以外にはないのだから……」
夜半過ぎに城から戻った杜狩は、先に帰っているはずの楓弥が、まだ戻っていないと聞いて、落ち着かない面持ちでいた。これまで、自分に断りもなく、出かけることなどなかった。
何かあったのだろうか……
そんな思いに取り付かれると、もう、居ても立ってもいられなかった。
心当たりとすれば、九鉾のところか……
そう思いたつと、杜狩は早速、九鉾の屋敷に赴いた。その屋敷に向かう道すがら、杜狩の心は次第に落ち着かない気分に支配されていく。
こんな夜更けに、楓弥が九鉾の元に行ったのだとすれば、よほどの訳があるはずである。その訳というのが、このところの、自分の不甲斐なさのせいかもしれないと、そんな風に思ったのだ。
思い返せば、自分でも大人げのないことであったと思う。楓弥に呆れられ、愛想を尽かされても当然だろう。
そんな訳で、取次ぎの者が九鉾を呼びに行く僅かな間も待ちきれず、取次ぎの者の静止も聞かず、勝手知ったる師匠の屋敷に、さっさと上がりこんだ。
「お師匠さま」
声を掛けるか掛けないか、という間合いで部屋に入ってきた不肖の弟子を、九鉾は半ば呆れた顔で見上げた。
「……礼儀作法も忘れたか。城詰めの役人が、そのような体たらくでどうする」
部屋の中では九鉾が一人、書物を広げていた。
「楓弥は……楓弥はこちらに来ておりませんか?」
弟子の台詞に、その来訪の目的を察した九鉾は、思わず笑い出した。
「……お師匠さま」
「そなたは、女嫌いなのかと思っておったが、どうやら楓弥は、そなたの眼鏡に適ったようじゃな」
師匠の言葉に、杜狩は決まりの悪そうな顔をした。
「そういう事では、ありません。あの者は有能ゆえ、この忙しい最中に、居なくなられては困るからで……」
「まあいい」
九鉾は座を立つと、杜狩に付いてくる様に促して、部屋を出た。
中庭に面した廊下を進む杜狩の頬を、冷気が掠めていく。身震いをして、ふと見上げた漆黒の空から、白いものが頼りなげに舞い落ちてきた。
……この河南で、雪を見るとは……
温暖な河南で、雪を見る事は稀である。故に、術師たちの間では、雪を凶事の先触れとして見る向きが多い。
星狩りの雪という言葉もある。
それは、大切な人との別離を暗示する言葉である。
「杜狩……」
格子のついた丸窓の前で、九鉾が足を止めた。その窓を少し開いて、杜狩に中を覗いてみろという風に合図をした。
「……声を立てるでないぞ」
師匠の言に頷いて、杜狩はその僅かな隙間から部屋の中を覗き込んだ。
……楓弥……
部屋の中に、楓弥が佇んでいた。
何かに集中しているその横顔は、真摯で、神々しくさえもある。
これまで、杜狩が見たことのない表情だった。その視線の先を追って、杜狩は眉をひそめた。素足の楓弥の足元に、銀色に光る水晶球が置かれていた。その水晶を中心にして、床には、術者の使う方位陣が描かれている。
しばらく、意識を集中するようにその水晶を見据えていた楓弥が、両の掌を向かい合わせるようにして手を前方に差し出した。すると、その手に吸い上げられる様に、水晶が宙に浮き上がった。
……これは八卦……なのか……
ただ驚くばかりの杜狩の目の前で、水晶は楓弥の手の高さまで浮き上がった。その水晶の中に、無数の光点が浮かび上がる。と、次の瞬間、水晶から光の粒が溢れ出し、部屋中に舞い広がった。楓弥の視線が、何かを探す様に部屋を一巡する。と、その視線が、ある一点に止まった。
「……指極の藍星……座し方は……岐水」
楓弥の口から呟き漏れた言葉に、杜狩は彼女がここで何をしていたのかを察した。楓弥は、周翼の行方を占っていたのだ。そして杜狩の見ている前で、楓弥は崩れ落ちる様に、その場に倒れ込んだ。
「楓弥!」
驚いた杜狩が部屋に飛び込んで、楓弥を抱き起こした。その体は氷の様に冷え切っていた。その体の冷たさに、杜狩の方も血の気が失せる。
「楓弥!楓弥!しっかりするのだ。お師匠さま、これは、一体どういうことなのでございますか?」
杜狩の狼狽振りに、九鉾はやや呆れ顔で答える。この弟子の落ち着きのなさは、幾つになったら治るのか。などと思いながら、ため息の一つも洩らす。
「久方ぶりに力を使った故、消耗が激しかったのだろう……なに、心配せずとも、朝になれば目を覚ます」
言われて、改めて楓弥の顔を見れば、彼女は穏やかに寝息を立てていた。
「眠ってしまったのか……」
杜狩は肩で大きく息をした。
「しかし、お師匠さま。楓弥が、八卦師などとは、聞いておりませんぞ。もちろん、事情をお話いただけるのでしょうね」
その事情とやらを知れば、この弟子がどうするか、九鉾には簡単に察しがつく。
だが、この者が、今宵、この場所に居合わせた。それはおそらく、偶然ではないのだろう。楓弥の力が、杜狩をここに呼び寄せたのだ。当人に自覚はないのだろうが、楓弥は、心のどこかで杜狩の存在を頼りにしている。
……巻き込まれて、引き回されるもよかろう。おのれと向き合う、いい機会になるやもしれぬ……
「……八卦師ではない。楓弥は
「巫族……」
巫族とは、かつて西域に広がる
始皇帝に使えた軍師、
鴉紗が華煌の軍師となって後、その一族の一部がこの国に移り住み、八卦を広める一助となったと言われている。今では、広陵の山深い里にひっそりと住んでいるといわれる、謎めいた一族である。
「詳しい事情は知らぬが、楓弥の持つ力は、何か特別なものらしくてな。その力ゆえに、一族から追われておるらしい。それを、わしが匿っておった。力を封じ、身を隠しておったのじゃ」
「その力を使ったというのですか。そんなことをしては……」
「遠からず、追っ手が来よう」
「何故止めなかったのです。楓弥を、そんな危ない目に遭わせて……」
「欲しいものは、危険な橋を渡ってでも、手に入れる。それが、楓弥の本来の
「今更言われましても」
杜狩は苦笑した。師匠の方で、関わる様に仕向けたのだろうに。
屋敷に呼びにやった輿が来たという知らせに、杜狩は楓弥を抱きかかえて、立ち上がった。思わぬ感覚に、杜狩は思わず楓弥の顔を見る。
「……軽いな」
両の手にかかる重さを、ほとんど感じなかった。先刻は、気が動転していて、そんなことには気付かなかった。いつも傍らに居て、どちらかというと、勝気で、何事にも揺るがない、強い女だと思っていた。だが、この軽さは何だろう――その存在の儚さに、杜狩は楓弥を抱く手に力を込めた。
翌朝、楓弥が目を覚ますと、傍らには、杜狩が居た。杜家の屋敷の、いつも自分が寝起きしている部屋である。
「……若様……私は……」
「そなた、主に無断で外泊しようとは、どういう了見なのだ?」
「外泊……?ここは、私の部屋では、ないのですか?」
「誰のお陰で、自分の布団で寝られたのだと、思っている。覚えていないのか?昨晩のことを」
楓弥が天井を見上げて、しばし考え込む。
「昨日、九鉾さまのお屋敷にいらっしゃいましたか?」
「ああ、行った」
楓弥が、問い掛ける様に、杜狩の顔を見る。
「……話も聞いた。目が覚めたら、さっさと支度しろ、出かけるぞ」
杜狩の言葉に、楓弥が慌てて飛び起きた。
「……いけない。もう、登城のお時間ですか?」
「城へは、もう行ってきた。李炎様に、今一度、汚名返上の機会をいただいてきた。……岐水に行くのだろう?」
「……若様も、ご一緒に行かれるのですか?」
「当然だ。周翼様の事は、そもそも、私の失態だ。それを、お前に尻拭いさせる訳にはいかぬ。それにお前に手柄を持って行かれては、私の面目は丸つぶれではないか」
「しかし、お仕事は……」
「引継ぎなら、ちゃんと済ませてきた」
「でも……」
「……お前、鏡を見た事はないのか?」
「……?」
「こんな綺麗な娘が、一人でふらふらと歩いていたら、私なら真っ先に攫っていくぞ」
持って回った言い方に、寝起きの楓弥が、その意味を理解するのに、やや間があった。
次の瞬間に、盛大に笑い出した楓弥に、杜狩は、決まりの悪い顔をする。
「笑う所では、ないだろう」
「若様が、そんな事をおっしゃるなんて……」
楓弥は、すっかり笑いのツボに嵌っている。
「おい、真面目に、話を聞かんか」
「はい……すみませ……んっ。でも、若様。若様は、文官なのでしょう?用心棒としては、少々、頼りのうございます」
「そこまで、言うか」
楓弥の言い分に、杜狩は苦笑する。
「私を誰だと思っているのだ。河南の杜家の
即物的なもの言いに、楓弥はまた笑う。
「……そこまでおっしゃるのでしたら、一緒にいらしても構いませんが……命の保証は、いたしませんよ」
「笑って言う台詞では、なかろう」
楓弥がその力を使ったことで、追っ手が来るのだとしたら、一人でなど行かせる訳にはいかないではないか。
その身を案じて、
ただ待っているなど、
考えただけでも、
気がおかしくなりそうなのだから……
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