第38話 越えるための試練

 同じ頃、河南でも、行方の分からない周翼の事を案じている者がいた。


 楓弥が執務室に戻ると、杜狩は書類を手にしながら、難しい顔をして、何事か考え込んでいた。その目は、書類の上に止まってはいるが、どうもその書面を見てはいない様子である。

 杜狩が都から戻って以来、こうして仕事中に手の止まることは、一度や二度ではない。


「若様……」

「あん?」

 楓弥が声を掛けると、杜狩は夢から覚めたという様な顔で、彼女を見た。

「ああ、戻ったか」

「お手が止まっておられますよ。今日中にこの書類の山を決裁して頂かなくては……」

「……分かっている」

 言われて、渋い顔をしながら杜狩の口からは愚痴がこぼれる。

「だいたい、なんだって、こんなに決済書類が溜まっているんだ」

「それは、周翼様と若様が、揃って長期お留守になさったせいでしょう」

「だから、そういう時の為に、副官がいるのだろうに」

「副官殿をお責めになっては、お気の毒です。そもそも、若様が、引継ぎをちゃんとなさっていかれなかったのですから」

「それは、そうなんだが。……あんなに長びくとは、思わなかったからな」

「過ぎた事を言っても、仕方ありません。とにかく、目の前の事を片付けることが、先決ですよ」

「こっちの山は終ったから、各所に指令書を置いてきてくれ」

「畏まりました」

「使い走りなどさせて済まぬな。書記官達は、書類を片付けるので、手が一杯でな……だいたい、私がいないと、通常業務まで処理が遅くなるというのは、どういうことなんだか。奴ら、これ幸いと、遊んでいた訳ではあるまいな?」

 杜狩の言い様に、楓弥は苦笑する。

「部下の士気は、上司の存在に影響されるものですから……」


 杜狩の副官は、それなりに有能ではあるが、上の指示を仰がないと、何も決められない性質たちなのだ。要するに、留守番には不向きなのである。

「お前が官職に就いてくれれば、私はもう少し楽が出来るのだがな」

「私は、広陵からの移民ですから、官職には就けません」

「……つまらぬ事を言った。済まぬ」

「いいえ。若様のお手伝いをさせていただけるだけで、楓弥は満足なのですから」

 不用意な自分の言葉に、笑って答える楓弥の顔を、杜狩は吸い寄せられる様に見入っていた。

「……」

「若様…?」

 自分の顔を見据えたまま、不意に押し黙ってしまった杜狩に、楓弥はその様子を伺う様にしながら、その場に立ち尽くしていた。

「情けない……」

 杜狩の口から、ふと小さな声が漏れた。

 次の瞬間、杜狩は頭を抱え込み、堰を切った様に、言葉が溢れ出した。

「何をやってるんだ、俺は。自分だけお前の言葉に救われた気になどなって……俺が、俺が不甲斐ないばかりに、李炎様はお心を痛めてらっしゃるというのに……」



 李炎の信任を得て、周翼の供として都へ行ったのに、周翼を刺客から守れなかったばかりか、その行方すらも分からない状態で河南に戻った杜狩に対して、李炎は責めるどころか、その労をねぎらう言葉までかけたのだという。

 だが、責められなかった事が、かえって杜狩の気持ちを重くしている様に、楓弥には見える。


 確かに、今度の事は、杜狩にとがのある事ではない。杜狩が、どれほど懸命に周翼を探したかということは、周知のことである。結果、それでも見付からずというのだから、それは止む無しであろう――というのが、河南の大方の者の見方である。


 それが、河南の重鎮じゅうちん、杜礼の孫である杜狩と、新参者の周翼に対する、現在の河南における微妙な立場の違いでもある。だが、李炎の心の内を知る杜狩にとっては、自分の無力さが許せなかったのだ。


 李炎は、李笙騎の乱で全てを失って都へ逃れ、また今度は、宰相の子息となって得たものを全て失って、この河南に戻ってきた。

 その血故に、河南の主として迎え入れられはしたが、それは燎宛宮に対する、河南の不従の旗印としての役目ゆえである。河南の者にとっては、李炎の出自だけが、重要なのであり、彼がいずれ雷将帝に代わる存在になると信じるからこそ仕え奉っている。


 そんな中で、李炎がたった一つ、失わずにいたもの。それが、周翼なのである。周翼は、李炎の心の拠り所なのだ。その周翼を、李炎からと言われていたにも関わらず、自分は見失ってしまったのだ。杜狩の心の中は、取り返しのつかない事をしてしまったという気持ちで一杯なのである。


「……若様」

「どうして、あの時……」

 繰り返される後悔の言葉に、楓弥はため息をついた。杜狩にとっては、恐らく初めての大きな失態なのだろう。自信家で、負け知らずな者にとっては、たった一度の失敗が、身に堪えるものなのだ。

「先にも申しあげましたが、失敗を悔いてばかりでは、事態の解決にはなりません。どうか、先の事をお考え下さい」

 楓弥の言葉に、杜狩が憔悴した顔を向ける。

「しかしなあ……李炎様の胸中を思うとやりきれないんだ。俺が、もう少ししっかりしていれば……」

「たら、れば、は、もうお止め下さい。若様が河南に戻られたのは、李炎様のご命令。もうその時点で、周翼様の件は、若様の手を離れたのではないですか?今は、ご自分のお仕事に集中なさって下さい。周翼様が戻られない今、若様がしっかりして頂かなくては、河南の行政が滞ってしまうのですよ」

「そんなことは、分かっている。……大体、周翼様は、無事だというなら、何で便りの一つも寄越さないんだ……」

 杜狩の言葉に、楓弥が眉をひそめる。


「周翼様は、ご無事なのですか?」

「……燎宛宮の八卦師が言うには、生きてはいるという話だったが……それ以上の事はな」

「それは、つまり……周翼様は、自ら身を隠されたと?」

「恐らく……」

「そのお話を李炎様には……?」

「言えると思うか?」

 捜索は、まだ都の周辺で続いている。だが、闇雲に探して見付かるものなら、とうに見付かっているはずだ。

 だからこそ、周翼は自らの意思で、李炎の元を去ったのではないかという思いが、杜狩の中で日増しに大きく膨らんでいる。それゆえに、杜狩の苦悩も、益々深まっていくのだ。


……周翼様ほどの八卦師が、自ら身をお隠しになったというなら、恐らく、見つけるのは難しい……


 楓弥がそう思う横で、杜狩は、また大きなため息をついて、考え込んでいる。

「若様」

「お、ああ……」

「書類を届けて参ります」

「ああ。頼む」

 楓弥は書類を手に執務室を出た。



 外に出た途端、回廊を吹き抜ける風の冷たさに、楓弥は思わず身震いをした。

 暮れ掛けた空には、陽を遮る灰色の雲が広がっていた。その僅かな雲の切れ間から漏れ出した光が、雲の端を朱に染めている。


 歩く先の回廊に、人影があった。

 回廊の手摺に身をもたせかけて、彼も又、空を見ていた。


「……こんな所で、物思いをなさっていては、お風邪をお召しになりますよ、李炎様」

 不意に声を掛けられて、少年は驚いた様にこちらに顔を向けた。

「ああ、そなたか」

 楓弥の顔を見て、李炎は安心した様な笑みを見せた。


 よそよそしい河南の城の中で、李炎は杜家の者たちだけには、気を許していた。前河南領官の杜礼が後ろ盾になってくれたからこそ、自分は河南領官として、この場所にいることができるのだという思いが、李炎の中には強くある。加えて、杜礼の孫の杜狩は、裏表のない気質で、何かと李炎の相談に乗ってくれ、李炎にとっては兄のような存在になっていた。そして、その従者の楓弥は、気立てが良くて、折あらば、こうして自分を気遣ってくれる。


「……星見でございますか?」

「義姉上に星見の仕方ぐらい、習っておくのだったなと……そう、思っていたのだ……そうすれば、周翼を探すことができるのにと……らちもない事を、考えていた」

「きっと、ご無事でいらっしゃいます」

「取って付けた様な、気休めはいいよ……周翼が戻らないのは、きっと、神が私に与えた罰なのだろう……私が、周翼を信じ切れなかったことへの」

 李炎が寂しそうな顔をして言った。


 李炎は、まだ十四。人の心は常に同じ方を向いていると、まだそう思っていてもおかしくない年である。好きか嫌いか。すべてが、そのどちらかに振り分けられると、まだ、信じている。人の心は、同時に相反する思いを抱え、常に揺れ動くものだと、そう気付くには、まだ若すぎるのだ。


「李炎様。神は罰をお与えになったのではなく、試練を課されているのだと、楓弥はそう思います」

「試練?」

「周翼様は、必ずお戻りになられます。そう、お信じ下さい。信じ続けなければ、この試練は越えられません。その心のあり様が、強い意思となり、物事を動かすのです」


……義姉上と、同じ事を言う。……しかし、帝王兵書の一節とは……


「楓弥は、博学なのだな。その物怖じしない口の利き様といい……義姉上に、似ている」

 李炎が笑った。

「身をわきまえず、口が過ぎました。お許し下さいませ……」

 楓弥は、畏まって頭を下げた。

「いや。構わない……楓弥がそう言うのならば、信じよう。周翼は必ず戻ると」

 冷気を帯びた風が、回廊に佇む二人を、なぶるように吹き抜けていく。


 すでに陽は落ちて、空を覆う雲は、次第に灰色から暗灰色へと変わっていく。雪でも舞いそうな気配だ。李炎がそんな事を考えていると、傍らで、楓弥が、小さなクシャミをした。見れば、微かにその身を震わせている。

「楓弥……」

「はい?」

 名を呼ばれて、楓弥が顔を上げるよりも先に、ふわりと、柔らかく、暖かいものが、彼女を包み込んだ。思わず取り落とした書類が、足元に散らばった。

「……楓弥は、温かいな。そなたと話をしていると、何だか心が温かくなる」

「李炎様……」

 李炎の温もりは、楓弥の冷え切っていた体にも、温かさをもたらした。心地よいその温かさに、楓弥はしばらく身を委ねていた。


 李炎の鼓動が、近くに聞こえた。そこに流れる血ゆえに、この少年は茨の道を行くことを選んだ。この河南の主として、河南を支えるという宿命を、自ら選んだ。それは、自身に流れる血ゆえに、正義を行うのが自分の使命であると、そう信じているからなのか……


 楓弥は、李炎の宿命を思いながら、自らの宿命を省みていた。そして気付けば、自分がかつて心の奥底に封じた疑問が、ふと口をついて出ていた。


「……李炎様は、ご自分の血を厭わしいと思われた事はないのですか?この様に、辛い試練ばかりをもたらす宿命を……」

 楓弥の問いに、李炎が答えるまでに、少しの間があった。

「……女子おなごには分かりにくい例えかもしれぬが、名刀を手にしたら、それを振って見たくなる……自分に世界を動かす力があるのなら、動かしてみたい。男とは、そういうものなのだ……確かに、この血ゆえに、失ったものは多い。しかし、この血ゆえに、私は力を与えられた。傷つくことを恐れて、その力を使わずにしまい込んでおいては、何も変えられぬ」

 李炎の答えに、楓弥は思わず微笑んだ。


 この少年は、宿命でもなく、使命でもなく、ましてや正義の為でもなく、だた、野心の為に道を行くのだという。綺麗事ではない。その潔さが気に入った。


……私の宿命も同じだ。逃げてばかりいては、何も変えられない。そう、力は、使うためにあるもの……


 だが、このままでは、李炎様は河南の盾として、利用されるだけの存在になってしまうだろう。

 周翼様には、是が非でも戻っていただかなくてはならない。


……その為になら、この身を捧げても、決して悔いることはない……


 楓弥の思いに応える様に、回廊を一陣の風が吹き抜けた。

「風が……」

 その風が、床に散らした書類を吹き上げていく。それに気付いて、李炎が慌てて拾い集めに走る。首尾よく捕まえて、得意げな顔をする李炎を、楓弥は微笑ましく見ていた。

 そんな楓弥の心の中に、一つの大きな決心が生まれていた事を、李炎は気付くべくもなかった。

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