エピローグ――瑞佳あざみに課せられた命題


 蛇足ではあるが、その後を少し語ろうと思う。

 俺たちが出演したBBBは結局、お蔵入りとなったようだった。まあ当然っちゃ当然だろう。出演者二名の死亡に加え、王座決定戦での挑戦者の試合放棄……あれが編集で何とかできるのなら、この世に収録なんてものは必要なくなるわけだからな。

 榛原総監督は一時期かなり落ち込んでいたものの、今ではもう復帰して新しい番組作りのために動いているらしい、ということを横井ADからのメールで知った。曰く、業界人は立ち直りの早さだけがウリだそうだ。羨ましい職場である。

 クリスマスを超えても公僕のお仕事というのは尽きないらしく、耶俣班の二名は忙しく事件の裏付け捜査に走り回っているようだった。たまに耶俣刑事から愚痴のメールが飛んできて、文章の結びに「蒼依サンには内緒でお願いするッス」という一文が付いてくるのがお約束となっている。まあ、そのメールはこの前、間違って相馬刑事に転送しちまったんだけど。

 九珠藤立華は、あの事件以後、まったくテレビに出なくなった。

 もともとレギュラー番組が年切り替えの時期にあったこともあるだろうが、それでも世間では様々な憶測を呼んだ。テレビ局内で起きた連続殺人事件については既に一部が報道されており、犯人が九珠藤立華の付き人であったことも周知されている。九珠藤粧業は「警察が捜査中に付きコメントは控えます」とありきたりな声明を発表したままで沈黙を守り、九珠藤立華についても今後の活動や現在の消息などは伏せられたままだ。一部には、九珠藤粧業が倒産するのではないかという、副次的な報道も世間に流布されている。

 しかし、人の噂も七十五日と言うように、テレビが年末年始を報じるのに忙しくなると、世間の関心は途端にこの話題から薄れていった。

 九珠藤立華も所詮はタレントの一人、代わりなど探そうと思えばいくらでもいるのだ。代わりがいるということは、代わる前の事象が塗り潰されていくということ。代わる前の痕跡は、もはやノイズ程度しか残らない。

 そうやって、世界は常に新しい情報によって塗り潰されていくものだ。

 ノイズが生まれるのは、自然の摂理に合致している。

 だから、俺はあざみの考えを否定しない。

 今だってそうだ。あっという間にクリスマスが過ぎ、あと数日で新年を迎えるというこの師走の忙しい時にあっても、俺はあざみに呼び出されたら飼い犬の如く尻尾を振って付いていくことしかできないのだから――。

「最近、独り言多いよね、冬夜」

「お前のお願いを拒否できない俺の弱さを嘆いているところだ。ほっといてくれたまえ」

「あっそ。ところで、ちゃんとパスポート持ってきた? 無いと成田に置いてくかんね」

「うむう……」

 俺はこれから待ち受けている苦難を想像して、思わず身震いをしてしまう。

 俺たちが今いるのは千葉県成田市、成田国際空港。言わずと知れた日本の玄関口だ。

 その搭乗ロビーで、出国ラッシュに沸く人々に囲まれながら立ち話をしている。

 普通、国際空港と言えば多国籍な人種が目に付くものだが、この日だけは勝手が違った。周囲にいるのは八割方が日本人だ。「出国ラッシュ」の名のとおり、海外への出国を控える人々でごった返しているのだった。

 しかも、そういう人々に限って軽装である。理由は単純明快で、主に暖かい地方への出国がこの時期の名物になっているからだ。だから、軽装こそがスタンダードであるはずだが……、

「何で俺たちは、逆に重装備なんですかね」

 対する俺とあざみの格好は、真冬どころか南極越冬隊に参加するような出で立ちだった。

「何言ってんのよ。これからロシアに行くのに、アロハシャツで出国する気?」

 あざみはいつもの呆れ顔を浮かべつつ、腰に手を当てて俺を見ている。俺は本日何度目になるか分からないため息を吐き出しつつ、ここ数日の変遷を思い返していた。

 なんでこういうことになっているのかと言うと、エミリーの妹に会いに行くためだ。

 あざみがエミリーの妹に連絡を取ったことに端を発し、紆余曲折を(あざみが勝手に)経て、あざみと俺、そしてあざみの妹であるひなたの三人でモスクワを訪れることに(あざみが勝手に)決まったのだった。

 そして、今はまさに飛行機の搭乗時間待ちをしているところ。ひなたがロシアに持っていくお土産を物色しているため、二人で荷物番をしているというわけだ。

「私、アメリカは慣れているんだけど、ロシアは初なんだ。ちょっと楽しみだよね」

 俺とは対照的に、なぜかテンションが上がる一方の瑞佳あざみ。俺はおずおずと口を開いて、

「ところで、俺たち三人だけで大丈夫か? ロシア語とか全然喋れないんだけど……」

「大丈夫よ、私とひなたは喋れるから。昨日、会話本買って覚えたから、もうバッチリ」

 昨日買って今日までに覚えられるなんて、人外様は偉大である。

 あざみは鞄から昨日買ったという会話本を取り出して、何度か読み返したのであろうページを再び開く。それに視線を落としながら、誰に言うでもなくつぶやいた。

「エミリーの代わりに、いっぱい話をしなくちゃ」

 その横顔は、まさに年相応の高校生の顔。

 無機質な天才少女と言うレッテルなど、ノイズでしかないという確かな証だと俺は思った。

 ……俺たちは、あの事件以降、まだ何も変わっていない。

 いや、違うかな。

 変わっている最中なのだろうと、あざみの横顔を見ながら、俺は勝手に思うのだった。




 ◆ ◆ 


 私たちが日本から出国する、少し前。

 九珠藤家が独自に作った個人事務所の一室に、私は無断で入っていく。

 いくつかの扉を経て目的の応接室にたどり着くと、そこのソファに座っていた九珠藤立華に私は近づいていった。

「な……瑞佳さん? どうしてここに?」

 突然の来訪に、驚いて立ち上がる九珠藤立華。私は挨拶もそこそこに、九珠藤の目の前のテーブルへ数枚の書類を並べて見せる。

「九珠藤粧業ですが、私が買収させてもらいました。これで、この前の事件の家宅捜索が受けられますね。なお、事件が無事解決すれば、グループは返却しますのでご心配なく」

「……は? な、何を言っているの? そんなことできるわけ――」

「既に半分以上の株式は押さえました。方法は少し強引でしたけどね。その後の株価や株主総会での反発はまあ、ペナルティだと思って諦めてください」

 私はそう言って、広げた書類の数枚を指で指し示す。持ち株の移動票と、買収にかかる基本合意書、そして契約書だ。祖父の印鑑と社印が捺された書類を見て、九珠藤は絶句した。

「ば、馬鹿な……こんな短時間で……? それに、これだけの資金、どうやって……」

「実はこの前、私が解いたミレニアム懸賞問題の実証がようやく済んだと連絡がありましてね」

 私は、言った。

「賞金の百万ドルを元手に、国内外の先物と為替で増殖させ、物価指数オプションで金融価値を引き出したんですよ。馬鹿にならない借金と手数料でしたが、一年ほどで何とか返せるとは思います」

「借金? 冗談でしょう? 借金をしてまで、私の家の家宅捜索をしたかったと言うの?」

「はい」

 私が即答すると、九珠藤立華は目を見開いた。

「私はお金には興味がありませんし、犯人にも興味はないんです。でも、今度エミリーの妹さんに会いに行く約束をしましてね。事件が完全に解決していないのに、妹さんに会いに行くのは後ろめたい気持ちになって、それで、少し思い切ってみようかと考えたわけです」

「あ、ありえないわ……あの程度の事件のために、そんな……」

「価値は人それぞれですよ、九珠藤さん。貴女が他者に比べて自分を重んじるのと同じで、私は自分に比べて他者を重んじるんです。これは、その結果に過ぎません」

 そして、私は続ける。

「貴女はお金が大事ですか? 自分の地位が大事ですか? 自分の環境が変わることが怖いですか? 私はそうではありません。だって、私はノイズであり、数です。ノイズは拡散するものだし、数は変わるものでしょう? なぜ変わることを恐れる必要があるでしょうか?」

 もう用事は済んだ。

 私は半身を翻し、部屋を出て行こうとする。扉に手を掛けたところで、ソファに座ったまま呆然自失といった顔をしている九珠藤立華に、私は笑みを贈った。

「何も恐れる必要はありませんよ。私たちは生きているのですからね。生きていれば、何だってできる。これ以上生きることだって、死ぬことだってできるんです。自らの形を改変できるという自由……トポロジー信者にとって、これ以上幸せなことはないですよね?」

「幸せ? 変わる……ことか?」

「はい。だって、変われないのがトポロジーの限界ですから。その限界を突破できるってことは、次元を一つ越えることができる。数を自由に選び取ることができるんです。やっぱり、それこそが数学の到達点であるべきですよね。だって――」

 部屋を出て、扉を閉めながら、世界の真理を口にした。

「世界は数で出来ているんですから」


 音を立てて閉まるドア。

 後には、密室が残った。



〈了〉

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天才・瑞佳あざみの密室-Property of genius domains- 宮海 @MIYAMIX

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