第五章 密室と五番目の解答


 暗闇の中に光が灯った。

 それはとてもとても弱い一粒の光。しかしその光は幾ばくかの時間を経て大きくなり、やがて黄金に輝く王冠になる。

 王冠を手にしたのは一人の少女。王冠を求め数多の勇者が彼女に戦いを挑んだが、それは彼女の不敗神話を作り上げる贄にしかならなかった。

 彼女は骸の山の頂上で叫ぶ――。

『この絶対王者・九珠藤立華を超える者はいないのかあっ!』

 MC役のアナウンサーの怒号を合図として、スタジオは激しい光と音に包まれた。

 先ほどまで王冠と少女のファンタジー調アニメを流していたディスプレイは一転して激しい炎の映像となり、天井の舞台照明が赤と青のコントラストで燃え盛るスタジオを演出する。

 四方八方から鳴り響く壮大なBGMは、観覧席に座る観客だけでなく、テレビの向こうにいる視聴者すらも虜にする……そういう「魅せる仕掛け」こそがBBBの売りのひとつだ。

 ――ここはサンセットテレビ十一階、E4スタジオ。

 百数十人の観客と、十数人のスタッフと、幾人かの関係者が集まる前で今、この一連の出来事に終止符が打たれる最後の舞台――BBB王座決定戦が始まろうとしていた。

『それでは今宵、絶対王者に挑まんとする一人の勇者を紹介しましょう』

 MCが厳かにそう言うと、先ほどまでの光と音は嘘みたいに静まり返る。

 数拍の間を置いて、暗闇がその大部分を支配する舞台セットのある一点に、眩いばかりの光が降り注いだ。

『一回戦、準決勝、決勝と、まさに破竹の勢いで勝ち抜いてきた現役高校生。しかし、その正体は十二歳にして数学界の頂点を極めた天才美少女……その名も【数学のプリマドンナ】瑞佳あざみ十六歳! 番組史上最年少の挑戦者が絶対王者の冠を狙う!』

 光の中に浮かび上がるあざみの姿。それを見て観客が大きな歓声と拍手で出迎えた。さすがBBBの観客、よく訓練されていやがる。あざみはいつもの無表情のままこちらを向いて、

「あのー、その数学のプリマドンナってやつ。恥ずかしいからやめてもらえませんか」

「うわあ、瑞佳ちゃんシーッ、シーッ! お願いだからそういうのは後にして!」

 小声でそう答えつつ、後ろのスタッフにカットのジェスチャを伝える榛原。暗闇の状態が長く続いたおかげか、俺も何とか目が慣れてきたようだ。

 舞台から一歩引いたところに立つ俺の隣には、いつものソフト帽を目深に被った耶俣の顔。少し離れたところには相馬刑事の姿も見える。榛原総監督の隣には横井ADが控えており、舞台裏のオールスターが一堂に会していた。

 一方、今日の主役の一人である瑞佳あざみは、舞台中央で不機嫌そうな表情を崩さない。あざみが今立っているのは裁判の証言台のような囲いの中で、椅子はおろか、早押しボタンなどのクイズ番組の定番装置の一つもない解答席だった。耶俣が小声で俺に訊いてくる。

「今日のはどういうゲームなんスかね? BBBは毎回趣向が変わるって聞いてますけど」

「いや、王座決定戦だけは変わらないんだ。いつもこのセットで、この演出だよ。MCが出す問題に答える形じゃないから、実際は長丁場になりそうだけど」

「へえ、クイズ形式じゃないんスか。それじゃ、どういう……」

 耶俣の続く言葉は、番組の演出によってかき消された。断続的な効果音とスロースタートなBGMが、徐々に会場の空気を盛り上げていく。舞台中央、あざみから五メートルほど離れた場所にスポットライトが点灯するが、照らし出された解答席は空席のままだ。演出が激しさを増す中、再びMCがマイクを握った。

『挑戦者を迎え撃つのは、もちろん我らが誇るあの人です。王座決定戦は十八戦にして不敗。IQは優に一六〇を超え、さらに進化に磨きをかける若き女王……その名は【絶対王者】九珠藤立華十七歳! 今宵も彼女の頭脳が世界を変える!』

 BGMのクライマックスに合わせた花火の爆発で、空席への視界が一瞬遮られた後。

 そこに立っていたのは、頭に乗せた王冠と、赤いマントで身を包んだ長髪の女性だ。

 彼女がマントを翻し、隠していた素顔を見せると、そこにあったのは九珠藤立華の不敵な笑みだった。

「はああ……ド派手ッスねえ」

 隣の耶俣が呆然とつぶやいている。……無理もない。この演出をテレビで毎回観ているはずの俺でさえも、生で見るコレがここまでド派手に映るとは思わなかったからな。

 BGMも落ち着きを取り戻した頃、舞台の袖から現れた黒服が九珠藤立華に近づき、彼女の王冠とマントを恭しく預かる。黒服はそのままセットの中央へ歩いていくと、一際高くなった台座の上にマント、王冠の順で丁重に置いた。

『ご覧ください。あの王冠こそ、この王国が絶対王者のものである証であります』

 MCによるナレーションが入る。天井から降り注ぐ淡い光に、装飾の宝石が怪しく輝く。

『絶対王者は、絶対であるからこそ王者。王者が破れることは、すなわちこのBBBという名の王国が瓦解することを意味します。しかし、挑戦者には王者を狙う理由がある。なぜなら、その王冠にちりばめられた金銀財宝、宝石の価値は、総額にして一千万円!』

 おお、とよく訓練された観客たちのどよめきが起きる。それと同時にテレビカメラ二台が別々の軌道を描いて舞台に寄り、あざみと九珠藤の顔を大きく捉えた。

『王国を打ち砕き、一千万円の財を成して帰るのは【数学のプリマドンナ】こと瑞佳あざみか。それとも、挑戦者を返り討ちにし、千年王国を築くのは【絶対王者】九珠藤立華か。永く続いた戦いもいよいよ大詰め。今宵、地上最強にして最高の頭脳戦が幕を開ける!』

 高らかに響くMCの咆哮に、俺は感慨深いものを覚えていた。

 長く続いた戦いも大詰めか……確かにな。

 この数週間、考えることが腐るほど多くて、俺みたいな馬鹿には辛い数週間だったよ。

 だが、それも今日で終わりだ。

 今日一日で、すべてのことに終止符が打たれる予感がする。

 俺やあざみにとってこの最終戦は、単なるBBBのクライマックスというだけじゃない。

 この数週間で出会った様々な出来事に対する、一つの結末が待っている気がするんだ。

 その形が、どういうものになるのかは分からないけれど。

 瑞佳あざみと九珠藤立華――。

 この二人の天才の邂逅こそが、全ての決着の誘因になることだけは間違いなさそうだった。

『それでは、王座決定戦……「オンリーワン・アンサー」、いよいよスタートです!』


 ◇ ◇ 


 時間は二十四時間ほど巻き戻って、土曜日の午後四時頃。

 先週ひと騒動あった森林公園から数百メートルほどしか離れていない場所にある葉月警察署の二階、刑事課の取調べ室に、俺とあざみは呼び出されていた。

 と言っても、別に逮捕されたというわけじゃない。むしろその逆だ。

 俺たちがいる場所は、正確には取調べ室の隣にある小部屋だった。六畳ほどの狭く暗い部屋で、外が見える窓がひとつもない密閉空間だ。唯一あるはめ殺しの一枚窓から見える隣の取調べ室のほうが明るいため、正直どちらが取調べ室なのか分からなくなるほどだった。

「マジックミラーはこっちの部屋が暗くないと効果が薄いッスからね。勘弁してください」

 後から部屋に入ってきた耶俣刑事が言う。俺とあざみは耶俣を一瞥してから、再びマジックミラー越しに隣の取調べ室を注視する作業に戻った。

 取調べ室の中には、女性が二人。一人は相馬刑事で、もう一人は扇儀桜良だ。

 瑞佳あざみの殺人未遂容疑で現行犯逮捕された彼女は、ここに留置されているのである。

「犯行の動機について、彼女は何と?」

 あざみが振り返らずに訊く。耶俣は例によって、帽子の中に指を突っ込んで頭を掻いた。

「だんまりって奴ッス。さすがメイドだけあって、粘り強いッスねえ、彼女」

「……メイド関係あんのか」

 俺が独りごちるが、誰も返事を返さなかった。

 互いを隔てる壁は肉声を通さないほど分厚いらしく、こちらの声はもちろん、あちらの声も聴き取るのは難しいらしい。マジックミラーの中では相馬が強い口調で何事かを話しかけているのが分かるが、桜良は横を向いたまま一向に口を開く気配を見せなかった。

「あーあ、相馬さん、完璧に無視されてるじゃん。あれ絶対キレてるぞ」

「それでも、少しは話した言葉もあるのでしょう、耶俣さん?」

 あざみの問いに、耶俣はふむ、と少しだけ息を吐いて、

「一応、これまでの連続殺人事件の犯行については自供しているッス」

「マジで?」

 俺が驚いて振り返る。耶俣は深く頷いた。

「瑞佳サンを襲ったときに持っていたナイフの製造番号が、金澤さんのときに使われたナイフの製造番号の連番と一致したッス。どうやら何本かをまとめて購入していたみたいですね。購入した量販店のPOSシステムの記録を見せたら、エミーリヤさんの件も含めてあっさり認めたッス」

「……やはり、そうですか」

 あざみが然したる驚きも見せずに答える。予想していたってことか。

「ちなみに、連続殺人事件の動機は?」

「それがダメなんスよねえ。扇儀サン、動機はもちろんのこと、犯行時刻や手順、密室の作りかたまで、何一つ話してくれないッス。ただ自分がナイフで刺したの一点張りで」

「殺害された二人との関係性はどうなのでしょうか」

「主人の番組の出演者という以外は、扇儀サンと殺害された二名を繋ぐ点は見つかっていません。それは狙われた瑞佳サンも同じでしょ?」

 ……俺も、あざみが扇儀桜良と特別な知り合いだったということは聞いていない。サンセットテレビのオープンカフェで出会ったのが初めてのはずだ。

 あちらは社会人で、こちらは一介の高校生。襲う理由などあるはずもない。となると……。

「当然の帰結として、九珠藤立華さんが何らかの鍵を握っているわけですね」

 あざみのその言葉に、耶俣が相槌を打った。

「僕もそう思って、今週は九珠藤家回りをしてきたんスよ。扇儀サンは九珠藤家本宅の住み込みメイドッス。扇儀サンの人となりはもちろん、九珠藤立華サンにも話を伺えないかとさんざん電話したり、家に押しかけたりしてみたんスけど……」

「門前払いを食らったと」

「……はい。話はおろか、ここ一週間は九珠藤立華サンにも会えていないッス」

「弱い国家権力だな。家宅捜索とか、いろいろ方法はあるだろうに」

「令状申請ができないんスよ。九珠藤家に捜査のメスを入れるなんて以ての外、ってね」

 俺の疑問に、耶俣は苦笑しながら答えた。あざみがその言葉の意図を引き継ぐ。

「九珠藤家は政財界に強いパイプを持っている、ってことですね。そのパイプは県議や国会議員に繋がり、議員は警察に繋がっています。家宅捜索は諦めた方が賢明かと」

「お恥ずかしい限りッス……」

「でも、扇儀桜良が犯人ってことは間違いないんだろ。裁判ではっきりするんじゃないか?」

 俺がそう言うと、耶俣は険しい顔を作った。

「うーん、どうスかね……瑞佳サンへの殺人未遂だけなら起訴できそうですが、他二件の殺人事件については、供述だけではなんとも難しいッス。せめて殺害動機、そしてエミリーさんの件では死体遺棄方法の確立が必要でしょう。捜査本部も全力で証拠集めをしていますが……」

「なるほど、それで今日、私が呼ばれたんですね。公園の件の事情聴取にしては他の事件についても訊いてくるし、取調べ室の様子も見せてくれるし、変だとは思っていたんですよ」

 あざみが呆れた口調で言った。

「捜査協力の件、まだ諦めてなかったんですか?」

「僕は、捜査協力して欲しいとは一言も言った覚えはないッス。ただ、事件が無事解決すれば、あとはどうでもいいだけなんスよ。事件がちゃんと解決すれば……ね」

 耶俣は帽子を深く被り直し、目元をまったく見せないままで言う。

「ここで帰っていただいても結構ですが、殺人未遂の罪だけとなると、瑞佳サンを証人として法廷に呼ばざるを得ないでしょうねえ。なにせ連続殺人に関する物的証拠がありませんから。僕としても、何度も何度も学生の瑞佳サンを法廷に呼ぶというのは忍びないことではあるんでスけど」

「……まだ宵の口には早い時間ですよ、昼行燈さん?」

 あざみがそう言うと、耶俣はにやりと口元だけで笑った。

 昼行燈とは、昼間に行燈を灯しても意味がないことを指す慣用句だ。しかし、行燈とは本来、夜に火を灯すもの。夜の行燈は暗闇を照らすだけでなく、場合によっては近寄ってきた羽虫や蛾でさえも焼き殺してしまう。

 いつも帽子を目深に被り、視線すら合わせないこの男は、確かに今、俺たちに向けて行燈のような眼光で睥睨しているに違いなかった。

 あざみは肩をすくめて言う。

「捜査協力はできませんけど、九珠藤立華に話をする機会は作れるんじゃないですか?」

「と言うと?」

「明日のBBBの最終戦です。私と九珠藤さんは、明日三時からの収録に出演することになっています。家に閉じ篭っていた九珠藤さんと言えど、最終戦は出て来ざるを得ません」

「ああ、なるほど。……しかし、扇儀サンの逮捕以降、九珠藤サンの周囲にはSPがわんさか付いているって話ですよ。収録前後でも九珠藤サンに接触できるかどうか……」

「だから、収録前後じゃなくて、収録の時に訊いてしまえば良いのではないですか?」

「……え?」

 どういう意味? という顔で耶俣が俺を見る。俺に聞かれたって分かるはずもない。

 あざみは振り返り、暗闇の中で目を細めて、濡れた瞳に光を灯した。

「もう答えは見えているんです。あとは証明するだけでいい」


 ◇ ◇ 


 そして、それから二十四時間後。日曜日の午後三時三十分。

 舞台の中央では、二人の天才が向かい合っている。

 瑞佳あざみは赤と黒のチェック柄のブレザーに、丈の短いスカートという、おおよそ普段のこいつを知っている奴だと仰天するような服装で証言台を模した解答席に立っていた。もちろん自前などではなく、テレビの美術スタッフが用意した貸し衣装だ。見ようによってはスコットランドの民族衣装に見えなくもないが、MCの言うような「絶対王者に挑む勇者」の格好とも言い難い。そんな不思議な格好をしたあざみの表情は、いつもの平静さを保っていた。

 対する九珠藤立華は、完膚なきまでの白亜のドレス。まさに女王という言葉が相応しいような出で立ちだった。縦ロールを巻いた長髪がスタジオの空調に靡いて、まるで生き物のように揺れている。その顔に張り付いた蠱惑的な笑みは、ただ一点、瑞佳あざみにのみ注がれていた。

『まずは、ルールをおさらいしておきましょう』

 少し離れた壇上にいるMCが、高らかにそう宣言する。セットの上部に設置された巨大スクリーンに火が灯って、過去の試合映像と共にテロップが表示された。

『オンリーワン・アンサーは今までの予選と違い、挑戦者と絶対王者、互いが問題を出し合って勝敗を決するゲームです。挑戦者と絶対王者は、交互に出題者と解答者を務めます。出題も解答も、制限時間はどちらも一分。このとき、出題者はどんな問題を出しても構いません。出題者は事前に手元のフリップボードに答えを書いておき、相手の解答と同時に答えを提示します。どちらかが一問でも正解すれば、その時点でゲームは終了。たった一問の正解で勝敗が決するという、一発勝負のゲームとなっています』

 俺の隣に立っていた耶俣は、巨大スクリーンを見上げながら、小声で俺に訊いてきた。

「どんな問題でも良いって……これ、ちゃんとしたゲームになるんスか?」

「なるよ。少なくとも、今まではそうだった」

「でも、例えば、僕の趣味は何ですか、みたいな問題でも成立するってことッスよね?」

 俺は前を向いたままで頷く。

「それでも、当てちまうのが九珠藤立華だ。今思えば、そのために収録外で俺たちに近づいてきたのかもな。相手の個人情報や趣味嗜好を押さえておけば、それだけ正解率が高まる」

「最初の出題で九珠藤サンが外したことはないんですか?」

「ある。それこそ結構な数を外しているよ。でも、代わりに九珠藤の問題を答えられた奴は、今の今まで一人もいない。これは当たるまで続くゲームだ。裏を返せば、自分の出題が当てられなければ敗北はない。解答の制限時間は一分間だから、一分で答えられない出題をすれば、まず負けることはないって言う持久戦のゲームなわけだ」

「一分で答えられないって、例えば何です?」

「前の放送では、タイの首都の正式名称と意味を答えろ、みたいな問題を出していたな」

「バンコクじゃなくて?」

「クルンテープから始まるほうのヤツ。言葉にするだけで一分かかるっていう問題だよ」

 こう考えると、このオンリーワン・アンサーは戦略と記憶力のゲームであることが分かる。事前にどれだけ出題数を頭の中にストックしておけるかも勝敗を分ける鍵だ。こんな薄氷の上を渡るような駆け引きを十八戦もこなしてきたのだから、九珠藤立華の底力を改めて思い知ったような気分になった。

『それでは、絶対王者戦を始めます。先攻は挑戦者・瑞佳あざみ。準備はよろしいか?』

 MCに促され、無言で頷くあざみ。あざみの手元には伏せられたテロップが置かれており、すでに発するべき出題の解答を書き終えているようだ。いつの間にか会場に流れていたBGMは止まっており、空気は緊張感に張りつめていた。

 スポットライトが照らすのは、あざみと九珠藤立華、そして中央の王冠の三方のみ。

 舞台照明が造り出した擬似的な青炎が、まるで小波のように会場を凪いでいる。

 スタジオにいる誰しもが息を呑む中――、

『いざ、頭脳系最強の座へ! BBB王座決定戦……スタート!』

 どぉん、と腹に響く和太鼓の音。

 スクリーンに映った六十秒のカウントが、一秒、一秒とその数を減らし始めた。

 あざみはしばらく無言で目を瞑っていたが、やがてゆっくりと目蓋を開く。

「問題は――」

 そして、あざみの口から発せられた最初の出題とは、

「どうして、扇儀桜良さんが殺人を行ったのか、ということです」

 俺たちの予想とはまったく異なるものだった。


 ◇ ◇ 


「扇儀桜良さんは、このBBBが始まるまで金澤さんやエミーリヤさんとは面識がありませんでした。ですが事実として、桜良さんは二人を殺害し、同じく面識のなかった私まで殺害しようとしました。事件を探るメソッドとしては、まずはここが最初の鍵となります」

 スポットライトが照らす中、淀みなくあざみが言葉を発している。

 会場内にいた出演者、スタッフ、そして観客すらも、呆然としたに違いない。

 なぜならオンリーワン・アンサーの一問目、あざみが唱えた最初の問題は、番組の趣旨とはあまりにもかけ離れたものだったからだ。

「私と金澤さん、エミーリヤさんを繋ぐ共通点は、オファーによって選ばれたBBB出場者という以外にありません。よって、殺害動機もここに起因すると考えられるわけです。それは何だと思いますか……九珠藤さん?」

 いきなりの出題。面食らっていた九珠藤だが、すぐに落ち着いた声で答える。

「さあ、分かりませんわ。というかその話、大丈夫ですの? 全国放送ですわよ?」

「そ……そうそう! 駄目だよ、ダメダメ! 一旦止めて!」

 我を取り戻した榛原が叫ぶが、カメラの電源が落ちるより早く、あざみは次なる言葉を紡いでいた。

「桜良さんはBBBとは直接関係がありません。それなのに、BBB出場者を狙った。……つまり、これは扇儀桜良個人の理由による殺人ではないのです。言い換えると、自分ではない誰かのために、BBB出場者を殺害したわけです。桜良さんが誰かのために働くと言えば、それはもう、思い当たる人物は一人しか存在しません」

「な……?」

 榛原が息を呑む。

 静寂が支配するスタジオの中、あざみの視線は真正面を貫いた。

「そうですよね、……九珠藤立華さん」

 その指摘に、会場の静寂という名の凪が、さざなみを引き起こした。

 九珠藤はわずかも表情を変えず、いつもの微笑を湛えたまま答える。

「桜良が私のために殺人を犯したと言うのですか、瑞佳さん?」

「そうです。得られた情報から導き出される仮説は、これ以外にありません」

 あざみの断言に、九珠藤は可笑しそうな表情を作った。

「面白い仮説ですわね。では、なぜお二人を殺害することが、私のためになるのでしょうか。この辺の予想も準備されていて?」

「ええ。……九珠藤立華という人間は、過程ではなく、結果を重視する生物です」

 あざみは、九珠藤のことを「生物」と呼んだ。その言葉に、再びスタジオが静まり返る。

「以前九珠藤さんは、私が犯人に興味がないことから、自分とは逆の考え方をする人間だとおっしゃいましたね? それは誤りです。私は、結果にも過程にも興味がない人間なんですよ。世界はすべてノイズだし、物事は数字としか映らない。でも、だからこそ分かることがある」

「分かること? ……それは?」

「九珠藤立華はBBBの絶対王者。負けることは許されない。だから、負ける前に殺すことで、結果的に勝ち上がることにしたんです」

 その理屈に、誰もが、絶句した。

 あざみは数拍置いて言葉を継ぐ。

「正確には、ゲームで負ける可能性を排除するため、より確実な勝ち方として殺害を選んだというところでしょうかね。貴女は九十九パーセントの勝率では満足できません。一般参加者が相手ならいざ知らず、招待選手が相手では、そのわずかな敗北の確率が致命傷となる可能性がある。だから、一番安直な方法として、対戦相手の排除を実行したのです」

「い……いやいや、ちょっと待てよあざみ。話が飛躍しすぎだろ、それ」

 気づいた時には、俺は思わず声を発していた。

 声が震えているのが自分でも分かる。なぜ震えているのかは分からない。だが俺の声は、静かなスタジオに大きく響いた。

「ゲームで負けたくないから、相手を殺す? 冗談だろ、そんなの常識的に考えられねえ。相手を排除するにしても、殺人なんて最終手段だ。人を殺すってそんな簡単な話じゃねえだろ!」

「いいえ。九珠藤さんにとっては、結果がすべてなのよ。ライバルの出場者がゲームを放棄してくれるのなら、その過程が辞退だろうと死亡だろうと、同じことだわ」

 冷たく言い放つあざみ。納得できないという俺の顔を見て、新たな言葉を投げつけた。

「じゃあ、例えば足を怪我させて欠場を狙ってみる? ……駄目だよね。生きている限り会場に現れる可能性はゼロじゃないわ。結果を求めるための過程が不足している。九珠藤さんにとって過程の選択などする価値が無いのだから、最も確実な方法を取るのは当然のことよ」

「最も確実な方法……それが、あの殺人だってのか」

 俺は呆然とつぶやいてしまう。

 結果の前には、過程の選択など無価値。だから、一番安易な方法で過程を求めた。

 相手を完全に排除するという、これ以上ない確実な方法で。

 ……なんだよ、その考え方。普通じゃねえよ。

 俺は、比喩でもなんでもなく、全身が総毛立つ感覚に捕らわれていた。

「まあ、随分と物騒な仮説ですね」

 九珠藤が口を開いた。その顔には笑みが張り付いている。

「それに、私がそのような人間だと瑞佳さんに思われているということ自体も心外ですわ。瑞佳さんの口振りだと、まるで私が桜良に殺人をお願いしたみたいじゃないですか」

 笑い声こそ上げないが、九珠藤は心底楽しそうにあざみに語りかける。まるで、あざみに敵意を向けられているのを楽しんでいるような口振りだった。

 俺には、こいつの感覚も理解できない。

 笑っていられるような状況でもないのに、なぜ九珠藤は笑えるんだ。

 俺は、今ほど天才という生物が、人間とは違う生き物であることを痛感したことはなかった。

「その仮説は、あくまでも扇儀桜良が思い込んでいる『私という人間の考え方』ということですわよね? 私がそのような考え方をしているか否かなんて証明することはできないでしょうし、そもそも、私がそのような考え方をしていると桜良に伝えたことはありません。もちろん、殺人教唆なんて以ての外です。それとも……瑞佳さんは、この私の主張を覆すような証拠でもお持ちになっているのでしょうか?」

 九珠藤の視線があざみを射抜く。あざみは少しだけ顎を引いて、肩の力を抜いた。

「……いいえ、証拠はありません」

「そうですか。残念ですわね」

「ですが、いくつか気になっていることはあるんです」

 あざみの口調が変わった。

 九珠藤は証言台に肘をついて、その上に顎を乗せてあざみを見る。

「面白そうだわ。ぜひ聞かせてくださらないかしら?」

「ええ、もちろん。……まずは、桜良さんの犯行時刻についてです」

 あざみは証言台に両手をついて、上目使いをするように九珠藤を見た。

「金澤さんの時の犯行時刻は午後五時。エミーリヤさんの時は午後六時で、共にBBB収録直後でした。桜良さんは九珠藤さんの付き人兼お抱え運転手。常に九珠藤さんの周囲に待機していなければならない人です。この犯行時刻の頃、桜良さんは九珠藤さんの隣にいましたか?」

「さあ……詳しくは覚えていないですけれど。桜良が犯人ということならば、その時間は席を外していたのでしょうね」

 わざとらしくとぼけてみせる九珠藤。あざみは続けて質問した。

「桜良さんがいないことを、不自然には思いませんでしたか?」

「いいえ。桜良だって人間ですもの、主人の元を離れたり、お手洗いにだって行きますわ」

「では、桜良さんが私を襲ったときはどうですか?」

 それまで遅滞なく答えていた九珠藤の言葉が、止まった。

「私が葉月市内の森林公園で襲われたのは、午後六時五〇分。BBBの収録が終了した五十分後ですね。サンセットテレビからは電車の乗り継ぎが一回ありますが、それでも車での移動とタイムラグはほとんどないと思います。さて、もしも私への殺害が成功した場合、桜良さんは九珠藤さんを送迎するためにサンセットテレビへ戻ったことでしょう。つまり往復一時間四十分という膨大な時間がかかるわけです。……分かります? 要するに、私をあの森林公園で襲うためには、主人をテレビ局に置き去りにして公園へ向かうしか時間的余裕はなく、かつ、主人を一時間四十分も待たせなければならないのです」

 あざみはそこで言葉を切って、改めて九珠藤を見つめた。

「どんな理由があるにせよ、一時間四十分も主人を待たせるのは不自然ですよ。つまり、この殺人計画は主人の理解無くしては成り立ちません。九珠藤さんも関与、もしくは黙認していると考える方が妥当です」

「……不自然と考えるのは貴女の主観によるものですよね? 私はそれくらい待てますわ」

 九珠藤が言う。あざみはその答えには触れず、次なる命題に切り替えた。

「それに、おかしいところはまだあります。桜良さんは、なぜ私が一人で帰宅しているというシチュエーションを狙ったのでしょうか?」

「それ、どこかおかしいんですの? 一人の時を狙うのは犯罪者の常套手段だと思いますけど」

 九珠藤の言葉に、あざみは首を横に振る。

「問題はそこじゃないんです。私は普段、冬夜と一緒に行動しているんですよ。それはテレビ局のスタッフ含め、ほとんどの人が認識しています。当然、帰宅時だって一緒だと思うのが普通のはずで、一対一という状況が作れない私の帰宅時を狙うのは、密室を作るような知能犯が選択するにしてはナンセンスではないでしょうか」

「うーん、一理ありますけれど、その日は結果的に一人で帰宅していたのでしょう? それを桜良は知っていたのではありませんか?」

「あの日、私が一人で帰ると決めたのは収録直後です。それを知っているのは冬夜以外に誰もいません。いえ、そもそも、私が冬夜と別々に帰るというシチュエーションを想像していないと、私の帰宅時を襲うという発想自体が出てこないはずなんです。その発想が出たということは、転じて言えば、私の心理を把握し誘導した人物がこの犯行を計画したと言えます」

「あざみの心理を……誘導?」

 俺のつぶやきに、あざみが答えた。

「私が冬夜を遠ざけるように仕向けた、ってことよ。三週間前、BBB決勝戦『メモリーチェイン』の一日目のとき、私は一人でこのスタジオへ来たよね。あれを見て、九珠藤さんと桜良さんは自分たちの企てが成功したと確信したんじゃないかと思う。私が冬夜を連れずに行動するようになったことを契機として、今回の森林公園での事件を計画したんじゃないかな」

「で、……でも、どうして、あざみは俺を遠ざけるようになったんだ? いや、それ以前に、あざみがそうするように誘導したって一体……」

「これよ」

 あざみは衣装のポケットから、四つ折りにした一枚の紙を取り出した。

 それは、例の『1+1=1』が書かれたナプキンだ。あざみはそれを指先に摘んで九珠藤に見せる。

「まさか、こんな紙一枚で私を誘導しようとしたなんて、恐れ入りましたね。最初からおかしいとは思っていたのですが、貴女の策に少しだけ乗せられてしまいました」

「……どういうことかしら? それは、桧愁院くんに贈ったもののはずですけど?」

 九珠藤が俺を見たので、俺は思わず心臓を服の上から押さえてしまう。あざみが口を開いて、

「貴女はこの紙ナプキンが私に見つかることを承知の上で、冬夜に贈ったんです。この紙が原因で私と冬夜は不仲になり、私は冬夜を遠ざけるようになりました。つまり、この紙が森林公園の事件の布石だったのです。おそらく、殺された二人にも同じような心理的誘導をかけ、殺しやすいシチュエーションを作ったのではないかと想像しますが、いかがですか?」

 九珠藤は答えない。あざみはさらに話を続けた。

「今思えば、車で葉月市まで送ってくれたのも、私の帰宅ルートを確認するためだったのですね。そうでなければ、東京住まいの桜良さんがあの公園で待ち伏せできたはずがありません」

「……凄い発想力です。面白いですわ」

 九珠藤が言う。証言台の縁に手を掛け、しなを作りながらあざみを睥睨した。

「しかし、それらはすべて想像の域を出ませんわ。思考というものは大変ね。想像はできても、証明することが難しい。その程度の論説では、私をどうこうすることはできませんわよ?」

「……しかし、貴女の話を聞く理由には十分ッス」

 それまで黙っていた耶俣が、一歩前へ進み出た。もうテレビ番組であるということを誰しもが忘れているようだった。

「というか、本当は遅いくらいなんですよ。貴女お付きの使用人が逮捕されたんだ。我々警察は貴女を調べる必要がある。九珠藤立華さん、警察署までご同行してくださいますね?」

「ええ。……もちろん、拒否いたしますわ」

 にっこりと笑いながら九珠藤が言った。

 その瞬間、スタジオの周辺に散っていた黒服の男たちが耶俣や俺たちの周りを取り囲む。手出しこそしてこないが、その異様な状況にスタジオの空気は一気に緊張した。

「そういうの、任意同行と言うのですよね。任意でしたら、拒否しても良いのでしょう?」

「……拒否する理由は何スかね。やましいことがなければ応じても良いのでは?」

「私、時間を無駄にする主義は持ち合わせておりませんの。瑞佳さんとお話しする時間は貴重ですが、あなたとお話しする時間に価値があるとは思いませんわ」

 九珠藤がはっきりと断言した。耶俣が苦虫を噛み潰したような表情を作る。

「それに、桜良は何と言っているのでしょうか。私が共犯だと言っていますか? 桜良は私の幼少からの親友です。桜良が私の出頭を望んでいないのに、私が応じるわけにはいきません。桜良は私のことを誰よりも案じ、誰よりも高潔であることを望む娘ですから」

 この露骨すぎるほどの物言いの真意……俺にも理解できたぜ。

 要するに、桜良は決して口を割らない。

 九珠藤立華が共犯者かそうでないかに関わらず、扇儀桜良は自動的に九珠藤立華を護るのだ。

 だからこそ――九珠藤立華には、自分が捕まらないという絶対的な自信がある。

 殺人教唆の方法だって、この二人の間柄ならば如何様にも解釈可能だ。例えば、九珠藤がたまたま「誰々が邪魔だ」とか「誰々がいなければ」などとつぶやいた言葉を、桜良が勝手に鵜呑みにして、勝手に犯行を重ねただけ。……そういう論拠だって通ってしまうに違いない。

「だから、あなたがた警察は、私に指一本触れることができません」

 九珠藤は落ち着いた表情で、証言台の上から耶俣を見下ろす。耶俣も相馬も、険しい表情のまま動けない。それは、九珠藤の言葉が正論であることを体現しているようだった。

「どうしても私を警察署に連れて行きたいのなら、武力を行使するか、政治力で圧倒するか、権力を注ぐしかありません。もしも、それ以外の方法が欲しいなら……ふふっ、やっぱりアレですわね。これ、ちょっと言ってみたかったセリフですの」

 九珠藤はくすりと笑うと、凶悪的に妖惑的な笑みを浮かべて、断言した。

「私が桜良と共犯であるという、決定的証拠。それを提示することですわね」

「九珠藤……ッ」

 相馬がつぶやくが、その呻きは虚空に響くだけだ。暗闇の中、BBBの舞台照明が空しく蒼炎の演出を辺りにまき散らす中、それまで黙っていたあざみが口を開いた。

「それでは、最後の謎を考察してみましょうか」

「……最後の、謎?」

 九珠藤が訝しげに眉をひそめる。あざみは頷いて、視界の真正面に九珠藤を捉えた。

「エミーリヤ・クラトフスキーさんの、密室を作った状況についてです」


 ◇ ◇ 


 暗闇と静寂がその大部分を支配するE4スタジオ。この中で、収録の流れを無視した俺たちの行いに文句を言う人間は、もはや一人もいなかった。制作総指揮であるはずの榛原でさえも、固唾を飲んで二人の天才の一挙手一投足に注目している。

「……瑞佳。もしかして、密室の謎が解けたのか?」

 最初に口を開いたのは相馬刑事だった。あざみは頷いて、少しだけ態度を柔らかくする。

「ええ。……と言っても、事件を知ったあの日のうちには、もう分かっていたのですけど」

「な、何い?」

 相馬が目を大きく見開いた。あざみは再び九珠藤に向き直って、

「あの日はいろいろありましたからね。現場百回せずに情報が集まったのは僥倖でした」

「そうですか。リムジンの中での私の話が、少しは役に立ったのかしら?」

 九珠藤は笑みを絶やさない。あざみは首を縦に振って、YESの意思を示した。

「犯人である貴女が本当の解答を教えてくれるわけがないのですから、逆にそれがヒントになったのも確かです。もっとも、それほど難しく考える必要もなかったのが本音ですが」

「……それでは、桜良が密室を作った理由も?」

「はい。前述したとおりです。貴女は負けず嫌いな方ですから」

 あざみの視線は九珠藤に注がれたままだった。その表情には一点の曇りもない。

「私も金澤さんの時は、結果的に密室になっただけだと思いましたが、違ったんですね。密室にこだわらなければ方法はいくらでもある。それこそジャッキなど使わず、扉を壊して押し入ってしまえば良かったんです。でも、貴女はわざと密室になる方法での侵入を選択した。何故か、なんて野暮な質問だと思います。だって、これはオンリーワン・アンサーなのですから」

「……出題だった、ってことか?」

 相馬が探るような小声で言う。あざみはまた頷いた。

「そして、その密室を解いた人間が私だと知ったため、九珠藤さんは私をBBBの出演者に招き入れたのです。繰り返しますが、九珠藤さんは負けず嫌いな方です。今度は解かれない密室を作り、それを私に提示する。そのために用意されたのが、あのドームだったんですよ」

「つまり、なんだ? これはゲームだったってのか?」

 怒気を含んだ俺の声に、あざみは肯定も否定もしなかった。

「さてね。……でも、人の命を軽んじているのは間違いないと思うわ」

「私がではなく、桜良が……ですよね?」

 九珠藤は口を歪めてわらう。理由の正否なんて今さら話し合っても仕方がない。それを知ってか知らずか、耶俣が先を促すように口を開いた。

「話を進めましょう。……まず、エミーリヤさんの本当の殺害現場はどこだったんスか?」

「屋上庭園でしょう。建物の中ではなく、屋外です」

 あざみは姿勢を正して、答えた。

「呼び出すか、連れてくるかして犯行に至ったのだと思います。事件当夜は雨が降っていましたから、血痕を洗い流すにも絶好の場所でした」

「その辺は我々も予想していた。問題はその後だ」

 相馬が唸るように言う。あざみは落ち着いた口調で話を続けた。

「犯行時刻は、おそらく六時半前後。エミーリヤさんを殺害した桜良さんは、遺体をサッカードームスタジアム内のボールプールに沈めて隠しました。その後、九珠藤さんを自宅まで送り届けた後、再びサンセットテレビに戻ってトイレなどに身を潜め、局員が少なくなる深夜まで待ちます。テレビ局は不夜城ですが、さすがに十二時近くになれば警備員以外の人間は少なくなりますし、居残りの者もほとんどが就寝するでしょうしね。雨で屋外の視界が悪くなっているのも好条件でした」

 あざみはそこで一度言葉を切り、ぐるりと周囲の関係者に視線を巡らせる。

「そして、深夜。目的の時間になったのを見計らい、桜良さんは屋上庭園に侵入します」

「夜中に屋上庭園……その目的は、やはり――」

 耶俣のうわずった声に、あざみが頷いて答えた。

「はい、彼女の目的はたった一つ。密室の作成です」

 俺は無意識のうちに唾を飲み込む。それが喉を通る音が、やけに大きく感じられた。

「サッカードームスタジアムは、密室を作るには不都合な構造を有しています。これが一般的な部屋なら外から鍵を掛けるだけで密室が作れるのですが、あいにくとこの部屋は打ち掛け金具、つまり掛け金タイプの内鍵しかありません。鍵も鍵穴もないこの扉、一体どうやって鍵を掛ければ良いのでしょうか?」

「……もったいぶるな。それを聞きたくてここにいるんだ」

 相馬が焦れたような声を出す。あざみは相馬に振り返って、口を開いた。

「ところで相馬さん。なぜ桜良さんは、雨の降り続く深夜に現場へ戻ってきたのでしょうか」

「何を言っている? 密室を作りに来たと、君が今言ったばかりじゃないか」

「なぜ深夜なんです? 密室を作りたいのなら、別に殺害した直後でも良いですよね?」

 そう指摘されて、はたと考え込む相馬刑事。

「……深夜でなければ密室は作れなかった? いや、違うな……深夜なのは、人目を盗む必要があったからだ。つまり、この密室は人目に付く方法で作られているということか?」

「その通りです。あの部屋に鍵をかけるには、クレーンが必要になるからですよ」

「クレーン?」

 相馬が首を傾げる。その意図に先に気づいたのは、耶俣の方だった。

「イベントの設営のために使っているという、クレーン車のことッスか?」

「そうです。屋上庭園に持ち込まれ、事件当日もそこにあったクレーン車。桜良さんは様々な運転免許をお持ちだそうで、その中には大型重機の運転免許も含まれています。桜良さんは闇夜と雨音に紛れながらクレーン車を動かし、それをサッカードームスタジアムへと近づけました。これで準備は完了です」

 そう言えば、相馬と横井ADとでイベント会場を見下ろした時、確かにクレーン車があった覚えがある。クレーン車は元々屋上庭園の端に停めてあったはずなので、それほど移動する必要はなかったのではないだろうか。

 あざみはそこまで説明すると、次に耶俣の顔を視線に捉えた。

「耶俣さん。申し訳ありませんが、その帽子を少しお貸し頂いてもいいですか?」

「えっ、何スか? 事件と関係あるんですか、これ」

 耶俣はしぶしぶと言った様子でソフト帽を取り、あざみに手渡した。帽子の下にあった耶俣の髪はぼさぼさで、帽子がなくても目元が露出しないほどだ。どうやっても目元を見せない性分なのだろうか。

 そんな耶俣の容姿には一切触れず、あざみは証言台の上で手に取ったソフト帽を弄ぶ。

「つばが邪魔ですけど、とりあえずこれがサッカードームスタジアムだと思ってください。ところで話は変わりますが……横井さん、あなたは以前、このドームは空輸されてきたものだと仰っていましたね。そのとき、このドームは具体的にどうやって空輸されてきましたか?」

「え……? ぐ、具体的に……ですか?」

 突然話を振られて狼狽える横井だが、なんとか頭を捻って記憶を抽出したようだった。

「えっと……そう、ヘリコプターで輸送されてきました。こう、ヘリコプターからぶら下がったロープに吊るされて……。屋上に上げるため、完成品のまま運ばれてきたのだと思います」

「そのとき、ロープは何本でした? どのようにドームに縛り付けられていましたか?」

「確か……ロープは四本でしたね。ドームの四隅にそれぞれロープが縛られていて、その四本を束ねてヘリコプターが吊り上げていたように覚えています」

「四隅にロープが縛られていた? どういうことだ。あんな丸いもの、ロープが引っかかるような形状じゃないだろう」

「実はあのドーム、外壁の四隅に、ロープが縛り付けられるフックが付いているんです」

 またもや声を上げた相馬に、横井の説明を引き取ったあざみが解説した。

「ドームのような半球状の物体は、角がないのでロープで括りつけるのが困難です。あの形をバランスよく吊り上げるのなら、底の円の中心から数えて〇度、九〇度、一八〇度、二七〇度の位置にロープを取り付け、その四本をドームの上空一点で吊り上げるのが最良となります。そのため、ドームの四隅には吊り上げロープ用のフックが付いているんですね。これは物理的な観点から考えれば容易に予想できた解答です。私も先ほど、直接この目で確認してきましたので間違いありません」

「……それで?」

 相馬が先を促す。あざみは頷いて、手に持っていたソフト帽を証言台の上に置いた。

「さて、ドームの内鍵についておさらいしておきましょう。扉の内枠に取り付けられた内鍵は、掛け金と呼ばれる閂です。閂の棒は普段は重力に従い、下を向いてぶら下がっている状態ですが、鍵を掛けるときにはその閂を持ち上げ、二七〇度回転させて扉のフックに乗せることで鍵が掛かるという、シンプルな構造をしています。それゆえに、この鍵を掛ける方法はこの世に二つしかないのです」

「二つ?」

 相馬の声。あざみはソフト帽のつばに指を伸ばし、そして――、

「閂を回転させてフックに乗せるか、――か、いずれかです」

 くるりと、ソフト帽をひっくり返して一回転させた。

「た……建物を?」

「回すだと?」

 相馬と俺の驚きの声が、悔しいくらいに揃ってスタジオに響いてしまう。

 あざみはソフト帽に巻かれたリボンの結び目を俺たちに見えるようにしてから、再び証言台に置いた。

「このリボンをドームの扉の位置、真上から見た場合はアナログ時計の十二時の位置と認識してください。まずはマイナス九〇度、つまり九時の場所にあるフックにロープを取り付け、それをクレーンで引き揚げます。当然ですが九時部分の床は浮き上がり、まだ地面に着いている三時の位置を中心としてドームは傾きますね。このとき、ドームの中の閂も、重力に従って四十五度ほど傾いていることと思います」

 あざみの手の中で、ソフト帽の左肩がゆっくりと持ち上がっていった。扉に見立てたリボンの結び目も徐々に傾いていき、すでに手を離せばひっくり返るところまで到達する。

「そして、さらに傾けると三時方向の壁と地面が触れ、そのまま滑らかな球面に沿ってドームは転がります。ゆっくりやるにはクレーンの操作が多少難しいですが、各種機械運転士の免許を持っている桜良さんなら問題ないと思いますね」

 そう言って九珠藤を見る。九珠藤は答えず、顔にはもう笑顔は張り付いていなかった。

「転がりきると、ちょうどドームは完全に底が空を向いた状態になっているでしょう。このとき、中の閂の角度は一八〇度。扉から見れば真上を向いた状態です。では、ここで一度、九時部分に取り付けられていたロープを外し、今度は三時部分にそのロープを取り付けますね。それが済んだら桜良さんは再びクレーンを動かし、今度は三時部分を引き揚げていきます」

 完全に裏返っていたソフト帽を、今度は右肩――こちらから見えればまた左側なのだが――から持ち上げていく。帽子は左肩のつばを折り曲げ、再び半球面が上へ。こうしてソフト帽は、回転する前と同じように山が上、つばが下になった状態で証言台へと軟着陸した。

「これで元通りですね。さて、中の閂はどうなっているでしょうか。フックがなければ中の閂も同様に一回転しているはずですが、この扉にはフックがあります。したがって、今はフックに閂が引っかかって止まっている状態。扉に閂がかかった状態を再現できたという訳です」

「嘘だろ、こんな……こんな大がかりな!」

 悲鳴に近い声で相馬が叫んだ。あざみはソフト帽を持ったまま証言台から離れ、耶俣の元へと歩いていく。

「しかし、実現可能です。この方法が取られたという証拠は調べれば沢山出てくると思いますよ。例えば、ドームの真下に敷かれた人工芝。ドームを回転させているときには雨に晒されていたはずなので、当時降った雨の成分が残っているのではないでしょうか。ペンペラーの小屋と同様、ドームを動かしたという痕跡自体も探せば見つかると思います」

「し、しかし、もう事件の日から二週間経っている。証拠が見つかるかどうか……」

「他にも方法はあります。そうですね、ドーム内部の壁や天井に、ルミノール試薬などの血液反応が分かる薬品を使ってみても良いかもしれません。ドームを回転させている間は、エミーリヤさんの遺体も中のビニールボールと一緒に回転していたわけですから。天井の高い位置に血液反応が見られた場合、それはドームが動かされたという決定的証拠になるでしょう」

「……なるほど。エミーリヤさんの身体から見つかった、生活反応のない打撲痕。あれは遺体移動の時に付けられたものではなくて、ドーム回転の際に付けられた打撲痕だったわけッスか」

 半分呆れたように言いながら帽子を受け取った耶俣は、すぐさま帽子を定位置へと落ち着けて目深に被る。あざみは軽く頷いた。

「はい。だからこそのボールプールもあったのだと思います」

「というと?」

「屋外で刺殺したとはいえ、ナイフを抜いていないので、建物の回転の際にナイフが抜ければ部屋中に血が飛散してしまいます。天井に血が付いているのが見えれば、すぐに建物の回転の発想は出てきますからね。だから緩衝材として、ビニールボールが利用された。遺体の周囲をビニールボールが囲っていれば、たとえ遺体が天井を転がっているときでも、遺体はボールに守られて大きなダメージを受けずに済むわけです。……もっとも、完全に無傷という訳にはいかなかったみたいですが」

 あざみはそこまで言うと、踵を返して自分の証言台まで戻り、ようやく九珠藤立華の視線と真っ向から対峙した。

「いかがですか、九珠藤さん。私の仮説は」

「……そうですわね。少し驚いていますわ」

 そう言う九珠藤だが、顔には何の焦りの表情も浮かんでいない。むしろわずかに微笑しているくらいだ。

 九珠藤はくだらないとでも言うように息を吐いて、目を細めてあざみを見た。

「密室については理解できました。ですが、それが何の役に立ちますの? 重要なのは、私が犯行に加担しているかどうか、なのではなくて? 私の勝手な予想かもしれませんが、密室の作成方法を再調査したところで、私に直接繋がる手がかりは出てこないと思いますわよ」

「……そうですね。用心深い犯人なら、そうかもしれません」

 あっさりと九珠藤の言葉を認めてしまう。

 ですが、とあざみは続けて、

「それでも良いんですよ。言いませんでした? 私、犯人が誰なのかには興味がないんです」

「ああ、そう言えばそうでしたわね。忘れていましたわ」

「ところで、ひとつだけ訊いてもいいですか、九珠藤さん?」

 あざみの口調が軽いものに変わった。九珠藤が頷くと、あざみはこう言葉を続ける。

「確認なんですけど、エミーリヤさんの死亡推定時刻である午後六時半頃、桜良さんはエミーリヤさんと会っていたわけで、当然、九珠藤さんはその場に居合わせたわけはないですよね?」

「当然ですわ。そこに私がいたら、それだけで共犯者確定ですもの」

「ではもちろん、死体遺棄現場であるドームにも足を運んだことはない?」

「ありませんわ。警察の方が規制していますものね」

「ということは、ドームの中に入ったこともありませんよね?」

 あまりにも執拗なあざみの質問。九珠藤が口を結んで眉根を寄せた。

「……なんですの? 質問の意図が見えてきませんわよ、瑞佳さん」

「いえ、おかしいなと思いまして。……どうして中に入ったこともないのに、九珠藤さんは?」

「なんだ? いつ、そんなこと九珠藤は言っていた?」

 相馬が声をかけてくる。しかし、あざみが顔を向けた相手は、相馬ではなく俺だった。

「冬夜も聞いたよね? この間、リムジンで家に送ってもらった時に九珠藤さん、車内で言っていたじゃない。正六角形の貼り合わせで作られたドームだって」

 俺は頭の中のメモリをフル回転させる。確かに、そんなことを言っていた気もするが……。

「……でも、それ。良く考えたら、少しおかしくないか?」

「おかしい? 何がです?」

 九珠藤が俺を見て首を傾げる。俺は思ったことを、素直に口にしていた。

「だってサッカーボールって、

「え?」

「最近の真球ボールはまた違うんだけど、従来のサッカーボールってのは、白塗りの六角形と、黒塗りの五角形の組み合わせで作られているんだ。あのイベント会場にあったサッカーボールスタジアムも同じ。半球分しかないけど、ちゃんと六角形と五角形で作られてたぜ」

「そ、そうなのですか? 私、サッカーには疎いですから……見間違ったのかしら」

 九珠藤がはじめて狼狽した表情を見せた。そこに、あざみの言葉が入り込む。

「いいえ、九珠藤さんが間違うはずはありません。だって、九珠藤さんはトポロジー信者ですものね。位置情報を専攻する貴女が、五角形と六角形を違えるなんて有り得ませんよ」

 九珠藤がはっとした顔をして、あざみを見た。

 あざみは証言台に手をついて畳み掛ける。

「そう、九珠藤さんは見間違えてなんかいないんです。だって、サッカードームスタジアムの、事実、

「内部? 外ではなく……中か!」

 俺の言葉に、あざみが頷いた。

「あのドームは内壁と外壁のパネル構造がリンクしていないんですよ。九珠藤さんは、内壁を見ただけでサッカーボールの外壁も六角形だと勘違いしてしまった。いいえ、これは仕方のないことだと思いますよ。だって、九珠藤さんがサッカードームスタジアムの外壁を近くで見たときは、夜だったから。暗闇で、しかも雨が降っている状況では、ドームの外壁なんてろくに見えるはずがありませんものね。見るとしたら、そう……間接照明の点いている内壁しかありません。エミリーの遺体が置かれた、午後六時半のドームの内部しか、ね」

「そ、それ……は……」

 九珠藤の表情が明らかに変わる。

 誰も言葉を発しない静寂の中、あざみは手をついていた証言台から身体を引きはがして、大きなため息を一つついた。

「……以上です。これで良いですか、耶俣さん」

「あ、ああ……はい。ええ……」

 耶俣も上手く言葉を発せない様子だ。あざみが証言台に背を向けると、すでに落ち着きを取り戻している九珠藤の声がスタジオに響いた。

「……それが、なんですの? 確かに私の専攻はトポロジーですが、世の中のすべてがトポロジーで回っているわけではない。私だって、あらゆる全てをトポロジーに分類して視ているわけではありませんわ」

「そうですね。それが普通だと思います」

 あざみは背を向けたまま頷く。九珠藤は続けて、

「それに、私が共犯者であるという物的証拠は未だに見つかっていない。この程度の論証で私が共犯だと? 詰めが甘いのではないかしら、瑞佳さん?」

「大丈夫、分かっていますよ。……だからこそ、私は今、少し悲しいんです」

「……悲しい、ですか?」

 あざみは最後に振り返る。

 揺れる髪と、滲む瞳。

 そこに浮かんでいた表情は、抑揚のない、無感情な彼女そのものだった。

「貴女は、普通の人間に成り下がってしまったのですね。私にはそれが悲しくて――寂しい」

 九珠藤が、思わず絶句する。

 その言葉がどれだけの意味を含んでいるのかは、普通の人間である俺には分からないけれど。

 九珠藤立華の心臓を射抜くには、十分過ぎる言葉だったのは違いなかった。

「それに……少なくとも、私には世界は全て同じに視えています」

「全て同じ……何が……?」

 オウム返しのようにつぶやいた九珠藤に、あざみは空虚な笑いを浮かべて見せた。

「私、世界が数字にしか視えないんですよ。人も、鳥も、花も、何もかも……。おかしいですよね? 本当におかしいのは、貴女なんかじゃないんです。それを理解できる人間は、きっと、……貴女じゃなかったってことですよね」

 それが、あざみがこの事件で残した、最後の言葉。

 彼女は証言台から離れ、BBBのステージから降りると、撮影スタッフや観客の視線を無視したまま、出口へ向かって歩き出した。

 もうあざみは振り返らない。

 静寂と舞台照明の蒼炎が相剋を繰り返す世界から、瑞佳あざみは姿を消した。


 ◇ ◇ 


 午後六時。俺とあざみは、電車を乗り継いて葉月市へと帰ってくる。

 十二月も後半戦に突入しており、街の商店街はあと数日までに近づいたクリスマス商戦に向けての準備真っ只中だ。赤いのぼりも先週と比べて数を増し、街路樹のケヤキには青赤緑のLEDが競い合うように肩を並べて光っている。

 俺の一歩前を歩く瑞佳あざみは、サンセットテレビを後にしてからずっと無言だった。

 さっきから露骨なほど俺の前を歩くもんだから、スタジオを出て以降、一度もあいつの顔を見ていない。馬の尻尾みたいに揺れるサイドテールの先端を目で追うばかりで、まるで俺の方が届かないニンジンに引き寄せられる馬にでもなったような気分だった。

 駅前通りを南に進み、いつもの曲がり角を左へ歩く。目の前に広がったのは、繁華街と住宅街を隔てる都市公園――通称、森林公園だ。俺たちは微妙な距離感を保ったまま、もう命の心配をしなくても良くなった夜の森林公園の中へと歩き出した。

 レンガ造りの遊歩道の上を、黙々と進む。ところどころの街灯に、先週まではなかったはずの装飾が申し訳程度に施されており、それがやけに目を引いていた。商店街の方で余ったヤツを持ってきたのかもしれない。申し訳程度にしては金銀の折り紙で作られた飾りは綺麗で、思ったよりも存在感があることに俺は驚いていた。

 ――理解できる人間、か。

 さっきからずっと、あざみの言葉の意味を探している俺がいる。

 瑞佳あざみは天才だ。俺みたいな普通の人間とは、まるで違う未知の生物。それ故に理解できないのは当然だし、当然だからこそ理解したいとは思わなかった。

 だけど、それは俺の本音だったのだろうか?

 なぜ俺は、いつもあざみと一緒にいるのか。ただの幼馴染みだからなのか。一緒にいること自体が自然で当然だから、今でも慣習に従っているとでも言うのだろうか。

 それが慣習であろうが、なかろうが。……行動を起こすことには、原因がある。

 惰性でも、惰性に至る理由がある。それは言葉にすればチープな感情に起因しているということに疑いはないが、それでも見つめ返せば確かな目的があったのではないか。

(そう言えば……)

 口の中でだけ生まれた言葉を、俺はあざみに聴かれる前に、慌てて呑み込んだ。

 ――子どもの頃の、他愛ない話だ。

 近所の公園の隅で同世代の女の子が一人、地面にうずくまっていたのが妙に気にかかって、俺は他で遊んでいた友達をほっぽり出して声をかけに行ったことがあった。

 何してんの、と俺が訊くと、女の子は振り返って地面に書いた数字の羅列を見せつけて言う。

「理解できる?」と。

 数字の足し算すら分からない幼稚園児が、数字の羅列を見たところで何が分かるわけもない。

 だから俺は、素直にこう返したんだ。

「理解してやる」と。

 四歳児にして負けず嫌いなロッケンローラーみたいな精神に支配されていた俺は、その女の子の前で、確かにそう断言してやったんだった。

 理解できなくても、理解してやる。

 今分からなくても、いつか。

 だから――。

「あれからもう、十二年か……」

 俺のジジムサい台詞を聞きつけたのか、あざみが立ち止まって、振り向いた。

「なぁにぶつぶつ言ってんのよ。冬夜……変な顔してるよ?」

「安心しろ。変な顔は生まれつきだ」

「安心できないね、それ」

 そう言って、あざみは笑った。

 その笑い声には力がない。空元気とか、ため息交じりとかいう部類の笑いだった。

 瑞佳あざみは天才だ。だけど……やっぱ、人間だ。

 だって、これほど人間に近い姿をした生物を俺は他に見たことがない。宇宙人だってもう少し人間とかけ離れた容姿をしているはずだ。だったら「天才」とかいう生物だって、人間という生物のカテゴリーに括ってしまっても支障がないんじゃなかろうか。

 だってよ。……だってさ。

 理解してやると、俺はお前に言ったんだ。

 だったら、人間か人間じゃないかなんて一切無視で、

 お前をただひたすらに理解してやることこそが、俺こと桧愁院冬夜に課せられた命題なんじゃないかって、そう思うようになったのだった。

「……なあ、あざみ。変な顔は嫌いか?」

「えっ? う、うーん。そりゃ一般的な価値観から言えば、嫌いかも」

「OK分かった。お前と俺の間には相互理解が足りない。もう少し改善しよう」

「改善って、どうやって?」

「例えば、そうだな……俺と付き合ってみるとか」

 一瞬、時間が止まった気がした。

 四次元世界を超えて、時間は次の工程へ。

 目を大きく見開いて、二、三回、目を瞬いた瑞佳あざみが、次の瞬間に眉根を寄せた。

「……本気で言ってるの?」

「マジです。大マジ。言っただろ、俺たちには相互理解が足りないって」

「相互理解? え? マジなの。それって何なの? ……え?」

 あざみは手を握ったり開いたりして、どうしていいか分からず混乱していた。

 珍しい。とても珍しい光景だ。これを見られただけでも価値はあったと確信できる。

 だから、俺は余計な台詞を口走っちまったのかもしれない。

「理解してやるって言ったろ。それは昔だって、今だって変わらないさ」

 あざみの挙動不審が、止まった。

 俺に近づき、大きな目を向けてくる。正直言って、近すぎる。息が当たる距離だった。

 しばらくそうしていたが、あざみはすぱっと俺のそばから離れると、

「あ、冬夜だ」

 などと、意味不明な言動で俺の顔を指差した。

「え、なんスかそれ。どういう意味?」

「あのさ。どうして私と付き合おうとか言い出したの? 論拠立てて説明しなさい」

「説明ッ? いやっ、ちょっと待ってください。論拠立ててって小論文じゃないんだから……。そ、そうそう、もちろん好きだからに決まってるじゃないですか!」

「その好きって感情はラブなの? ライク? フェイバリット? それとも、テイク・トゥ? もしくは、もうすぐクリスマスだからとかいう最低な理由に起因しているの?」

「し、してねえよ。あの、その……もちろん、ラブ、ですよね。そりゃ……」

「それじゃ、私とキスしたいと思ってる?」

 ド直球が飛んできた。

 あざみが再び、俺の眼前数センチに迫ってくる。今度は本当にキスしてしまいそうな勢いだ。あざみの強い眼光がなければ、そのまま行ってしまっていたに違いない。

 だが、俺の危うい意志は、あざみの真剣な眼差しによって繋ぎ止められた。

「冗談じゃなくて。本気で考えなさい、冬夜」

「な、……なんだよ?」

「私のことを本当に恋愛対象として見てる? キスしたりデートしたりっていう、普通のカップルみたいな行動をする光景がイメージできる? その感情の正体に間違いはない?」

「本気で考えろって……そりゃあ……」

 あざみに言われたとおり、それをイメージしてみて、

「……あれ?」

 俺は、その感情の違和感に気が付いた。

 ……なんでだろ。別に、あざみとキスしたいとかは思わなかった。

 そりゃ、俺も高校一年生である。好きとか嫌いとかに興味を持って当然のお年頃であるはずなのだが、なぜか瑞佳あざみに対しては、絶対にキスしなければ我慢ならない、という感情はあまり湧いてはこなかった。

 デートだって、良く考えりゃいつも一緒にいること自体デートと言えなくもないし、かと言って一つのアイスクリームを二人で分け合うようなバカップルぶりを発揮したいとも思わない。

 しかし、だからと言って、瑞佳あざみが俺のそばからいなくなることは考えられない。

 この間、ここであざみが襲われた時もそうだ。

 俺の身体は、無意識の内に反応していた。

 あざみを護らなくちゃいけないと、俺の本能が訴えていた。

 この感情の正体は、何だろう。

 理解してやるっていう真意は、どこにあるんだろう。

 俺が呆然としていることに気づいたらしいあざみは、くすりと笑って俺を見上げた。

「冬夜、少しだけ勘違いしているよ」

「……勘違い? 何をだ?」

「私は、確かに世界が数字に視える。人も鳥も花も何もかも、数字の羅列でできているように視えてしまう。……でもね? だからって、何も見ていないわけじゃないのよ」

 そして、あざみは微笑んだ。

 クリスマス色の街灯を背に、今年一番の感情を込めた顔で。

「私にとって、私の人生はノイズかもしれないけれど、冬夜や、ひなたや、友達や、みんなの人生はノイズじゃないわ。そこに体温があることを知っているし、そこに何かがあるという証しが確かにある。だから、私は絶望なんかしていない。人生はノイズだけれど、無駄ではないのよ」

 ……そうか。

 その言葉に、俺は報われたような、納得したような、不思議な感情に満たされた気がした。

 というか……俺の勝手な勘違いだったんだな。

「人生がノイズだ」という言葉を、俺は勝手な先入観でネガティブに捉えていた。あざみは確かにそう言ったけれども、だからってノイズが悪いものだとは一言も言っていない。

 いや、むしろノイズはポジティブなものなんだ。

 だって、雑音ノイズは無ではない。確かにそこに「有る」という証なのだから。 

 だからあのとき、あざみはエミーリヤを再び「エミリー」と呼んだのだ。

 自分のためにはリソースを使わなくても、誰かのためならリソースを割ける。

 なんてシンプルな答え。まるで数学の問題みたいに、するすると解が下りてくるようだった。

「それで、冬夜? その好きという感情の正体は見つかった?」

 突然、話を戻される。俺は首を横に振って、NOの意思を示した。

「あんたはやっぱ駄目ねえ。だからいつまでたっても私の付き人から卒業できないのよ」

「誰が幕下力士だっつーの。それじゃ、お前にはこの感情の正体が分かるのかよ?」

 半ばムキになって言ってしまう。あざみは少しだけ、うーんと考えるそぶりを見せた後、

 突然、唇に触れるか触れないかくらいの、何かをした。

「なっ、なんだ今の?」

 俺は思わず飛びずさってしまう。

 あざみは悪戯そうな笑みを湛えたまま俺を見ている。

 俺が声を発しようとすると、あざみは踵を返して帰り道へと足先を向けた。

「じゃあ、帰ろっか。明日から二学期最後の週の始まりだよ」

「おい、待てよ。だから、俺の感情の本当の名前は、なんて言うんだって!」

「それは―私にもまだ、上手く言葉にできないかな」

「どうして?」

 俺が訊くと、あざみは首だけを回してこちらへ振り返った。

「だって、その言葉は数字でできているんだもん」

 言葉にできない感情の正体。

 それを知るには、俺たちはまだ、人生のノイズが足りないのかもしれなかった。

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