第四章 解答と死体の常識
「おい、この先は立ち入り禁止だ。黄色いテープが見えなかったのか?」
KEEPOUTと書かれた囲いを乗り越えたところで、目つきの鋭い女性刑事に行く手を阻まれる。俺と後ろのあざみの顔をじろりと一瞥すると、彼女は困ったように腰に手を当てた。
「というか、なんで君たちがいる? 私は呼んだ覚えはないぞ」
「何言ってんすか、相馬さん。耶俣刑事に呼ばれたんですよ。ここで事件が起きたって」
「主任が?」
相馬刑事はわずかに眉をひそめ、近くにいた制服姿の警官に耶俣刑事を連れてくるよう声をかける。警官は素早く頷いて、相馬の後ろに見える建物の中へと入っていった。
……いや、正確なところ、この建物を「建物」と呼んで良いのかどうか。
BBBの決勝戦本番を一時間後に控えた日曜日の午前九時、俺とあざみはサンセットテレビの七階、屋上庭園に設営された『ブラジル・サッカードームスタジアム』の前にいた。
ブラジル・サッカードームスタジアムとは、先週から開催されているイベント『サンセットワールドツアーズ』を構成する催し物のひとつだ。人工芝の上に設置された建物の外観は、白地に黒というサッカーボールを模した半球状の大型ドームで、二階建てに近いくらいの高さがある。しかし建材的には強化プラスチックか樹脂製かという安っぽい光沢を放っており、少なくともしっかりとした基礎があるような建物には見えなかった。おそらく、このイベントのためだけに建てられた仮設小屋なのだろう。正面に扉のない出入口が見えるだけで、その他には窓の一つも付いていないようだ。
近くに立つ看板の注意書きによれば、中は色とりどりのビニールボールが敷き詰められていて、児童が自由に飛んだり跳ねたりできるらしい。デパートの屋上などによくあるボールプールというやつだ。サンセットワールドツアーズが親子連れを想定したイベントであることを勘案すれば、おそらく休日ともなれば多くの子どもや付添いの大人たちで溢れ返るに違いない。
そんな子どもの遊技場であるべきサッカードームスタジアムの周囲には、取り囲むように紺色の制服を着た警察官が配置され、近づく人々に厳しい視線をねめつけている。
その警官たちをさらにぐるりと囲んでいるのは、黄色に黒字のバリケードテープ。
さらには本日のサンセットワールドツアーズは中止され、人の出入りさえ制限されている屋上庭園の光景は、何も知らない人々にも異常事態が起きていることを察知させるに十分だった。
「……おや、桧愁院クンに瑞佳サンじゃないッスか」
そんな、気の抜けるような声を出しながら、サッカードームスタジアムの入り口から耶俣刑事が現れる。俺は相馬の肩越しに口を開いた。
「耶俣さん、あの娘がここで殺されたって、本当?」
「待て待て、勝手に話をするな。……耶俣主任、どうして彼らをここに呼んだんです?」
怪訝そうに言う相馬を見て、耶俣は疑問符を浮かべたような表情を口元だけで作り、
「別に呼んではいないッスけど」
「はあ? 何言ってんの、ここで殺人事件が起きたから、あざみを連れてくるように言ったの耶俣さんじゃん」
「いえ、僕は瑞佳サンに連絡を取りたいと言っただけで。そしたら桧愁院クンが、今日はBBBの収録日だからついでに話すればいいんじゃね? とか言う話だったので……」
「だからこうして連れてきたんだろ?」
「いえ、だから僕は瑞佳サンの連絡先を知りたかっただけで……」
「え、でも……あれ?」
「……こんなことだろうと思ったわ」
眉間を指で押さえつつ、あざみが不機嫌そうな声を出す。灰色のワイシャツに赤のダッフルコート、ジーパンにスニーカーという、いつものボーイッシュな服装に身を包んだ瑞佳あざみは、俺の身体を押しのけて耶俣刑事に一歩近づいた。
「それで、私に御用とは何ですか、耶俣刑事? まあ、差し詰め関係者への事情聴取というところでしょうが」
「事情聴取?」
俺がオウム返しに訊くと、あざみはさして関心を寄せるでもなく答えて、
「有り体に言うと、私が殺人事件の容疑者の一人ってこと」
「……ほんっと、何もかんもお見通しッスね」
耶俣はばつが悪そうに、帽子を深く被り直した。
「ええっ、あざみが殺人容疑? どういうことだよ、耶俣さん!」
「おい、だから君は部外者だろうが。そもそもここは関係者以外立ち入り禁止だと……」
「あー、いいッスよ蒼依さん、彼に居てもらっても。責任は僕が取るッス」
「そう言って、主任が実際に責任を取ったケースは一度もありません」
相馬刑事にジト目で睨まれ、鳴らない口笛を吹きつつそっぽを向く耶俣。……ちょっとだけ実質上の力関係が見えた気がする。
「ま、まあ、ここで立ち話も何ッス。中で話しましょう。瑞佳サン、いいですか?」
耶俣がそう言ったので、俺は内心驚いてあざみの顔を見てしまった。
この先は殺人事件の現場だ。こういう場合、仮にあざみが容疑者ではなくとも、事件発生後間もない現場に一般人の足を踏み入れさせるのは異例ではないかと想像できる。だが、この件に対し相馬刑事が口を出さないところを見ると、何らか別の意図があるのだろう。
ましてや、エミーリヤ・クラトフスキーは準決勝であざみのパートナーを務めた娘だ。
またねエミリー、と照れくさそうに声をかけたあざみの姿を、俺は忘れてはいない。
数拍の沈黙を置き、口を開いたあざみの表情は、いつもと何一つ変わらない無表情だった。
「分かりました。入りましょうか」
◇ ◇
サッカードームスタジアムの内部は、思ったよりも広々としていた。
薄桃色に塗られた天井は高く、LED製の間接照明も優しい色合いだ。床には赤、青、黄色などの原色を中心とした大小さまざまなビニールボールが大量に敷き詰められており、掻き分けなければ床の色を確かめることはできそうにない。
半球状のドーム内部ということで、壁は天井と一体のなめらかな曲線を描いているが、よく見ると無数の正六角形のプレートを少しずつ角度を付けながら貼り合せることで、ドームの形状を維持しているのがわかった。そういえばサッカーボールの白地も六角形だったな。それに準じているのかもしれない。
「彼女……亡くなったクラトフスキーさんは、入り口から一番遠い壁の前に倒れていたッス」
入り口から一番遠い壁、つまり俺たちの真正面にある奥の壁には、二十インチくらいのテレビモニターが埋め込まれている。これが普段なら、四六時中楽しげな映像と音楽を流したり、サンセットテレビの魅力を伝える番組を流したりするのだろうが、今は音もなく、ただひたすらに黒い画像と沈黙を映していた。
「彼女は、どのように亡くなっていたのですか?」
あざみが振り返って訊く。耶俣に続いてドームに入ってきた相馬が手帳を取り出して、
「金澤碧のときと同様、背中からサバイバルナイフで心臓をひと突きだ。背中から心臓を刺突するのは、肋骨の配置や背筋などの人体の構造上、正面からと比べても医学的に難しいとされている。犯人は事前によほどの練習を積んだか、医者のような人体の専門家か、奇跡が二度起きたかのどれかだろうな」
「奇跡は二度起きません。つまり、金澤さんの事件と同一犯だということですね」
耶俣が無言で頷いた。
「ここ、ボールでいっぱいだけどさ、あいつはこんなところに倒れていたのか?」
俺の問いに、相馬が続けて答える。
「ボールに半分埋まるようにして倒れていたという話だ。今日の早朝、このイベントのスタッフの一人が、部屋の照明を点けようとスイッチに手を伸ばした時に発見したらしい。最初はそれが人かどうかも分からなかったそうだぞ」
相馬に言われて、俺はスタッフが発見したときの状況を想像する。朝日に照らされた室内で、冷たくなった人間を見つける気分はどういうものだったのだろうか。相馬は話を続けた。
「まだ司法解剖の結果は出ていないが、死後硬直の状態から、死亡推定時刻は昨日の午後六時から八時の間。生活反応のない打撲痕がいくつかあったため、別の場所で殺されてから移動させられたものと思われる。とは言っても、このテレビ局内に違いはないだろうがな」
「どうしてそう思うんだ?」
「ここはテレビ局の七階で、しかも事件が起きた時は夜ッスよ。普通、外で殺した人間を担いでテレビ局に侵入した挙句、七階のこんなトコまで運びます?」
なるほど、耶俣の言うことはもっともだ。午後六時も過ぎれば警備員が常駐するだろうし、その目を盗んでこのドームにまで運び入れるのはデメリットが大きすぎる。テレビ局内で殺害したからこそ、テレビ局内のこの場所に遺体を隠したと考えるほうが自然だろう。
「ここまで話して察したと思うが、つまり、犯人は午後六時から八時の間にテレビ局内にいた人間で、かつエミーリヤ・クラトフスキーがその時間もまだテレビ局内にいたことを知っている人間、ということになる」
相馬刑事はあざみの顔を見ながら断言した。あざみは無言のまま、相馬の視線を真正面から受け止めている。俺はその交差する視線の間に自分の身体を割り込ませた。
「エミリーがテレビ局内にいたことを知っている人間って、どういう意味だよ」
「聞けば、昨日はBBBの決勝戦初日だったそうだな。収録は午後二時から五時半までの三時間三十分。普段の彼女なら、収録が終わり次第まっすぐに帰宅するそうだ。だが、この日は六時以前にテレビ局を出たという記録はない。彼女がなぜ六時以降もテレビ局内に留まっていたのかは不明だが、彼女の行動を把握していない者が犯人なら、テレビ局から出たところを見計らって犯行に及ぶはずだ。だが、六時以降にテレビ局内で殺害しているということは、彼女が六時以降も局内にいることを前提とした殺人計画だったと結論付けることができる」
「……その考え方は、些か性急過ぎますね」
それまで黙っていたあざみが口を開いた。
「五時半以降、なかなか外に出てこない彼女を探して内部に侵入した、外部犯の可能性もあります。それに、死亡推定時刻はあくまでも推定。午後六時以降に本当に殺害されたのかという疑問も残ります。正確な死亡時刻が判明していなくては、どれも推論の域を出ません」
「分かっている、裏付けは捜査の基本だ。だが、少なくとも君が収録直後にテレビ局から出ていないことは把握しているぞ」
相馬の鋭い視線が、再びあざみを貫いた。
「玄関ロビーの防犯カメラで確認した。君がテレビ局を出たのは午後六時二十五分。午後五時半になれば帰宅することは可能だったはずなのに、なぜか君は一時間ほどテレビ局内で過ごしている。その間、どこで何をしていたか……教えて貰おうか」
「なるほど、事情聴取ね」
俺が皮肉を込めて言う。相馬は俺を一瞥したが、あざみが口を開いたので視線を戻した。
「収録が終わって三十分ほどは、エミーリヤさんとお話をしていました」
「お……」
俺は思わず口を丸くしてしまう。相馬刑事は手帳を手にしたまま、話の続きを促す。
「……場所はどこで?」
「E4スタジオのある十一階ラウンジです。彼女が話しかけてきたので、それで」
「彼女とはどんな話を?」
「他愛のない世間話です。学校はどこなのかとか、クラスにはどんな人がいるのかとか。あと、エミーリヤさんにも妹がいるそうで、その話が大部分を占めました。私も妹がいるので……」
「共通の話題で盛り上がった、ってことッスね。そのとき、彼女に変わった様子は?」
「私は気づきませんでしたね。と言っても、彼女とちゃんと話をしたのは昨日で二回目です。普段の彼女の様子を知らないので、単に私が気づかなかっただけかもしれません」
淡々と相馬と耶俣の質問に答えるあざみ。その言葉には淀みがなく、不審な点は何もない。
だが、俺は逆に違和感を覚えてならなかった。
その理由は上手く言葉に表せないが……何がそんなに引っかかるのだろうか。
「……なるほど。それで六時まで話したと。では、六時二十五分までは何を?」
「エミーリヤさんと立ち代わりに九珠藤立華さんが来たので、少しだけ世間話をしました。時間にして十五分ほどですね。それだけです。後は普通に帰宅しました」
「ふむ……判断の難しい話だな。九珠藤立華のくだりは本人に確認すれば済むことだが、エミーリヤと話したというのは裏が取れない。それを証明できる第三者は近くにいなかったか?」
「収録直後は番組スタッフの数名が見ていると思いますが、通りかかった程度です。三十分間、近くでずっと見ているような人はいなかったように思います」
はっきりとそう言うあざみ。自分のアリバイを自分で否定するような物言いだ。相馬が次の質問を逡巡したのを見て、あざみは口を開いた。
「では、私から一つ訊いてもいいですか?」
「……なんだ?」
「耶俣さんは、なぜこの場所を私に見せたのですか?」
相馬が、ああ、やっぱり訊かれたか、という顔を作る。耶俣は帽子の隙間に指を入れて、わざとらしく頭を掻きながら答えた。
「いや、別に他意はないッスよ。外で殺人事件の話をするのも物騒でしょ? だから……」
「犯人が特定されていない状況で、警察が容疑者と思しき人間を犯行現場に連れてくるメリットは何でしょうか? ……考えるまでもないですね。犯人しか知らない情報を引き出ためです。警察が明示していない情報を容疑者が知っていれば、それは犯人足り得る証拠ですから」
その言葉に、耶俣が沈黙する。あざみはボールプールの中を歩きながら、話を続けた。
「では、警察が私に明示していない情報とは何でしょうか。そうですね……ヒントは二つありました。ひとつは扉のない出入口。そしてもう一つは、相馬さんの発言です」
「私の?」
相馬が目を見開く。あざみは首肯した。
「遺体の第一発見者はイベントスタッフだったそうですね。そのスタッフは、部屋の照明を点けようとしたときに遺体を発見したそうですが……それって少しおかしくありません?」
「おかしいだと? 何がだ」
相馬がそう言うと、あざみは突然、その場に背中から倒れ込んだ。
ぼふっ、と無数のボールが舞い上がる音。あざみは仰向けのまま、天井を見上げた。
「この部屋には入り口以外、扉や窓がありません。自然光の光源はそこだけなんです。天井の間接照明を点けない限り、部屋の中はいつも真っ暗だ。なのに、スタッフは照明を点ける前に部屋の奥にある遺体を発見した。これはどういうことなのでしょう?」
「それは……、そうだな、遺体はボールの中に埋まっていたんだ。そこの部分のボールが盛り上がるなり、なんなりで目に付いたんじゃないか?」
「それもどうでしょうね。実際に私を見てください。ボール、山になっていますか?」
山には……なっていない。あざみの身体の輪郭に合わせてボールは除けられている。あざみの身体に押しやられたボールは他のボールと混ざってしまって、見た目上の水平を保っていた。
「しかし、スタッフの発言に嘘は感じられません。となると、本当に暗がりの中、入り口からの自然光だけで遺体を発見したことになります。なぜそんなことができたのか? ……簡単なことです。スタッフは部屋に入る前から室内の異常を察知していたため、部屋に入るなり注意深く目を凝らした……だから、暗がりの中の遺体を発見できたのです」
「部屋に入る前から、中の異常を察知していた? それって、どういうことだよ?」
俺が訊くと、寝転んだままのあざみの顔が、入り口の方へと向いた。
「扉に鍵が掛かっていたからよ。だからスタッフは、部屋の中に誰かがいると思ったわけ」
「扉に鍵だって? 何言ってんだ、そもそもこの部屋には扉なんて……」
俺も入り口へ振り返ると、すぐそこに立っていた耶俣は苦笑いを浮かべていた。隣の相馬もふて腐れたような表情。その二人の顔で、俺はあざみの言葉が正しいことを直感した。
「ボールプールの部屋に扉がないなんて、そもそもおかしいんですよ。中で遊んでいたら、ボールが外へ跳んで行ってしまいますからね。扉がない理由は、こじ開けるのに取り外したからですし、こじ開けた理由も簡単です。外からは開けられない構造の鍵だったからでしょう」
「外からは開けられない構造って?」
「この前の事件と同じなんじゃないかな。つまり、閂よ」
「……そこまで分かるもんッスか」
耶俣は呆れたようなため息を浮かべる。あざみはボールの海から起き上がって、耶俣を見た。
「内側から閂が掛けられた部屋に、別の場所で殺害された遺体……。別の場所で殺害されたということは、その閂を掛けられたのは犯人だけということです。耶俣さんは既に分かっているのでしょう? これは、前回の事件を模倣し、さらに難易度を高めた密室だということを」
密室……密室殺人。
数週間前の事件を思い出して、俺は背筋が凍りつくような感覚を抱いた。
「密室殺人ってよく言うッスけど、部屋内で殺害した場合は、息の残っていた被害者が鍵を掛けて力尽きたというケースがあるッスからね。……でも、今回の事件は違う」
耶俣が帽子を目深に被りながら言う。真面目な話をするときの癖らしかった。
「遺体はそもそも動きません。いや、それ以前に、犯人はどうやって鍵を掛け、どうやって部屋から出て行ったのか? これは密室と言うよりは、不可能犯罪ってやつに近いのでしょう」
「それに、密室を造り出した意図も不可解だ」
続けて口を開いたのは相馬だった。
「前回の事件は結果的に密室になった……そう考えれば納得できるが、今回は明らかに密室にすることを前提に部屋を選んだように思う。というのも、この屋上庭園には他にも様々な仮設小屋が建っているが、鍵に閂を使っているのはこのドームだけだ」
「それって犯人は、前回と同じ状況で密室を造ること自体が目的だった、ってこと?」
俺の声に、相馬が頷いた。
「前回と同じ状況にすることで、同一犯に見せかける……つまり、前回の犯人に罪を被せようとした模倣犯の可能性も考えられるわけだ。だからこうして、瑞佳にも話を聞こうと……」
「でも、耶俣さんは本気で私が犯人とは考えていないわけですよね」
あざみが少しだけ笑みを浮かべて言う。相馬が耶俣に振り返った。
「主任、そうなんですか?」
「え? いやあ、別にそういうわけでは……どうしてそう思うッスか、瑞佳サン?」
「だって、私とは連絡を取りたかっただけなんですよね。耶俣さんは、成瀬紅葉の時みたいに、犯人とは直接会って話をするタイプです。そして、犯人の言動から犯行を特定する……そういう捜査スタイルを基本としています。今回はたまたま冬夜が私を連れて来たから試しで現場に入れたのでしょうが、この考え方から言えば、耶俣さんは私を犯人とは思っていません」
耶俣は観念したように首肯し、それを見た相馬が絶句している。……俺と耶俣が交わした一本の電話の内容から、よくもまあ考え付くもんだ。久しぶりに感心してしまった。
だが、瑞佳あざみとは、本来こういう人間なのだ。
一のことから十を見出す。
振る前のサイコロを見て、振った後のサイコロの目の総和を読み切る。
少しずつ、全盛期の頃のあざみに戻っている気がして、俺は密かに身震いをするのだった。
「……確かに、僕は瑞佳サンが犯人とは思っていません。なぜなら、まだ同一犯の可能性を捨て切れないから……というトコですかね」
耶俣が帽子をくいっと上げつつ答える。あざみはコートの裾をはたきながら立ち上がった。
「その理由は?」
「第一に、前回の犯行を模倣しているとするなら、それは前回の犯行を知っていることに他ならないからです。そして第二に、今回の犯人は前回の密室が瑞佳サンによって破られたことも知っている。だから難易度を上げてきたんでしょうしね。要するに今回の事件は、瑞佳サンか警察かに対する、ある種の挑戦状なのではないかと考えています」
「挑戦状……」
あざみが考え込みながらつぶやく。耶俣は続けて、
「犯人が榛原ディレクターの呼んだBBBの招待選手ばかりを狙っているのも気になります。そして逆に考えれば、最初の被害者である金澤さんは、BBBの招待選手であったが故に殺されている。……招待選手の件を知らなかった瑞佳サンと桧愁院クンは、それだけで容疑者からは遠くなるというわけです。理解できました?」
「ええ。まだ完全にシロではないけれど、それに限りなく近い灰色だということはわかりました」
耶俣は満足そうに頷いた。相馬は口を尖らせていたが、一応は上司の話に納得したようだ。あざみは踵を返すと、二人の刑事の間を通ってドームの外へと退去した。
あざみの後ろに続いて俺も外へ出る。途端に降り注いでくる十二月の太陽。俺は手で庇をつくって、もう一度ドームへと振り返った。
白地に黒の多角形を組み合わせて作られた、昔ながらのサッカーボールのデザインを模したサッカードームスタジアム。中に入るまでは滑稽に見えていたはずなのに、今はなぜか不気味な印象しか伝わってこない。
あざみは携帯電話を取り出し、時刻を確認して、ドームの中の二人に声を掛けた。
「では、そろそろ行きますね。もう少しでBBBの決勝戦が始まりますので」
「ああ、そういえば、言ってなかったッスね」
ドームの入り口から顔を出した耶俣が、またもやポリポリと頭を掻きながら言った。
「決勝戦は順延ッス。……いや、もしかしたら、BBB自体無くなるかもしれないッスよ」
俺とあざみは、互いに顔を見合わせた。
◇ ◇
「なんたることだッ! ボクの、この榛原の作品が撮影中止になるなんて……放送日まで時間がないんだぞ、プロデューサーや他のスポンサーになんて言い訳すればいいんだ!」
撮影現場であるはずのE4スタジオでは、セットを組み立てる音や観覧者のざわざわといういつもの声は聞こえず、代わりにがなり立てる榛原ディレクターの声だけが木霊していた。
俺とあざみは榛原に気づかれないよう、スタジオの壁際に呆然と立っていた横井ADに声をかける。
「横井さん。榛原ディレクター、どうしちゃったんですか?」
「あ、瑞佳さん。その……事件を知った番組スポンサーの一社から、撮影を中止するよう要請が来たそうなんです。それを受けて、局の制作部もBBBを継続させるかどうか協議に入ったそうで……その結果が出るまでは、番組制作は一時中止となるそうです」
「それで榛原のおっさんが暴れてるワケか」
あれだけ自画自賛していた番組を取り上げられれば、そりゃ怒鳴りたくもなるものだろう。周囲に視線を巡らせると、少し離れたところに他の決勝戦出場者たちが固まっているのが見えた。
「エミリーさん、亡くなったんですってね……信じられないです……」
横井が両手をぎゅっと握り、悲痛な声を絞り出す。よく見ると目元が少し赤かった。
「エミリーさんは私より五歳も年下ですけど、人懐っこくて、よく私とお話ししてくれたんです。ロシアの話とか、妹さんの話とか……だから、なんていうか、すごく悲しくて……」
「そうですね。ロシアからの交換留学生ですから、国際問題になるかもしれません」
それに対し、的の外れたことを言うあざみ。……また、嫌な違和感が俺を襲う。
横井は泣きそうな顔のまま、口を開いた。
「聞いた話ですけど、また密室だったんじゃないかって……。金澤さんの時もそうだったから、もしかして、同じ犯人なんでしょうか?」
「そうかもしれませんね。警察は、まだ分からないと言っていましたけど」
「犯人、いつになったら捕まるんでしょうか……」
その言葉を最後に会話が途切れる。広いスタジオに響くのは榛原のブツブツとつぶやく声と、スタッフたちのひそひそ話だ。そういえば九珠藤立華の姿はスタジオ内に見当たらなかった。
しばらくの後、横井が勢いよくあざみの顔を覗き込んだ。
「瑞佳さん、ひょっとして、犯人の目星が付いてるんじゃないですか?」
あざみは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの無表情に戻って横井を見た。
「どうしてそう思うんです?」
「だって、瑞佳さんは警察も分からなかったペンペラーの密室を解いたじゃないですか。それに、九珠藤さんに聞きましたけど、瑞佳さんは外国ですごい賞を獲った有名な天才だって……。瑞佳さんなら、ひょっとしたらって思えるんです。ですから――」
「買いかぶりですよ、それは」
あざみは苦笑して、何を見るともなく前を向いた。
「私はただの高校生です。探偵でも警察でも、ましてや天才でもない。犯人を捕まえるなんて、もっての外です」
「でも……!」
「それに、犯人を捕まえるのは警察の仕事です。私が口を出せるような問題じゃない。エミーリヤさんのことで何か意見があるのなら、私ではなく警察に言うべきだと思いますね」
……そうか。
ようやく分かった、この嫌な違和感の正体が。
俺はあざみの肩を掴んで、こちらを振り向かせた。
「なあ、あざみ。少し冷たいんじゃねえの?」
「……どうしたの、冬夜」
あざみの顔には何の表情も浮かんでいない。それが、俺を一層腹立たせた。
「大した仲じゃないけどさ、俺たちなら少しは耶俣さんに話せるだろ。捜査協力とまではいかなくても、エミリーを殺した奴のこと、少しは調べられるかもしれない」
「調べる? 何言ってるのよ、それは警察の仕事だって言ったでしょう?」
「準決勝の時、エミリーはお前のパートナーだったんじゃねえのかよ」
「そうよ。でも、だから何? エミーリヤさんのために、弔い合戦をしろと言いたいわけ?」
「お前、なんでエミリーのことを、エミーリヤって呼んでるんだよ!」
俺の剣幕に、あざみが沈黙した。
そうだ、これが違和感の正体。
先週の土曜日、エミリーに手を振ったあざみの姿と、今のあざみがどうしても結びつかなくて、俺は心に棘が刺さったような気持ちになっていたんだ。
「……亡くなった方を愛称で呼ぶような、失礼な教育は受けていないわ」
そっぽを向いて、あざみが俺から離れる。俺は食い下がった。
「でもさ、お前、仲良さそうにしてたじゃねえか。そりゃ、友達と呼べるほど長い付き合いはなかったかもしれないけど……あいつのために、何かをしてやろうとは思わねえのかよ?」
「あいつのためにって、何? ……冬夜、感情的になっているよ」
あざみが顔を上げる。強い眼光が俺を射抜き、俺は一瞬たじろいだ。
「エミーリヤは亡くなったわ。それは悲しい。でも、亡くなった人間に意思はないのよ。弔いをして欲しいかどうかすら、生きている私たちには理解できない。亡者の意思を勝手に代弁する行為こそ、亡者に対する冒涜だわ」
「でも、成瀬が容疑者にされそうになった時は助けてやったじゃねえか」
「あれは、成瀬が生きていたからよ。生きている誰かのために働くならまだ良いわ。でも、エミーリヤは死んでしまった。死んだ人間のために働くなんて、それこそ意味のない行為だよ」
「じゃあ、このまま黙って見てろって言うのかよ。俺たちにも何かできるかもしれないのに?」
「そうよ。私たちの仕事は、事件を解決させることではないわ」
きっぱりと断言される。俺は言葉に詰まりながらも、反論した。
「……俺たちの仕事って、何だよ」
「高校生でしょう? 普通に学校へ行って、勉強をして、たまに部活をして、健全に暮らすことよ。そこには殺人事件に介在する理由はない。例え被害者が友人であったとしても、私たちの仕事以上に優先させるべき事項ではないわ」
それは、あまりにも悲しいんじゃないかと思う。
人間はロボットじゃないんだ。友人が死んで、悲しくて、ハイ終わり……なんて、そんな簡単に割り切れるほど単純な思考回路をしているはずがないんだ。
確かに首を突っ込むことが良いこととは決して言えないけれど、成瀬の時みたいに、俺たちにできることがあるのなら、何かをしたいと思うのが普通なんじゃないのか。
……それとも、瑞佳あざみは違うのか。
人生をノイズと考えている天才の思考においては、この事件すらも些末な出来事と一蹴できてしまうというのか。
人間と天才の間には、そこまで思考の隔たりがあるというのだろうか。
「……お前にとって、エミリーは、何だったんだ?」
俺が言う。あざみは一泊の沈黙を置いて、俺の問いに答えた。
「知人だった人だわ。でも、亡くなってしまったから、もう人ではない。死んでしまった人のために事件を解決しようだなんて、私には少しも理解できないわ」
……それが本音なのだとしたら。
俺は、こいつのことを、一生かかっても理解できないのだろうと、そう思った。
◇ ◇
その日の午後になって、警察の事情聴取はようやく終了した。
殺害現場が特定されていないこともあって、事情聴取はサンセットテレビ全域でかなり大規模に行われたようだ。テレビ局の正面玄関には入場規制が敷かれ、部外者が入ることはおろか、テレビ局員であっても外に出ることが許されない状態が続いた。一時期はテレビ局員より警察官の方が多いのではと錯覚したくらいだ。
番組スタッフや決勝戦出場者をはじめとしたBBB関係者の多くは、ようやく終わった解放感から、少し安堵したような笑みを浮かべてE4スタジオから退去していった。いくらそこが彼らのホームグラウンドとは言え、警察の事情聴取による緊張感が緩和されるというものではない。すっかり意気消沈した榛原も、ラウンジに来たところで大きなため息を吐き出していた。
「ボクの番組、一体どうなるんだろう……。午後からの会議で、ボクは何と言えば……」
そんな言葉をつぶやきながら、とぼとぼと廊下の奥へ消えていく。それをラウンジの椅子から見ていた俺は、隣に座る横井ADに小さな声で話しかけた。
「榛原さん、さっきからアレばっかだな」
「総監督って肩書ですけど、その上にはエグゼクティブ・プロデューサーがいて、さらにその上には局の制作部がありますから。電話で制作部長に相当絞られたみたいですよ」
「総監督と言えども中間管理職か。大人は辛いねえ」
「ああ、まったくだ。耶俣主任がもう少し真面目に働いてくれると、私も助かるんだがな」
さらに横井の横隣に座る相馬刑事が、ホットの缶コーヒーをまるで水でも飲むように一気に喉の奥へ流し込んで、ここにはいない上司の悪口と共にテーブルへ叩きつけた。
サンセットテレビ十一階のラウンジには、俺こと桧愁院冬夜、横井弓AD、相馬蒼依刑事という、世にも珍しい組み合わせが一つのテーブルを囲んでいた。
理由は明白だ。それぞれの相方である瑞佳あざみ、榛原ディレクター、耶俣永が出払っているためである。
あざみと耶俣は未だに事情聴取中。榛原は先ほど見かけたが、精神状態的にちょっと近づきにくいので、と言うのが横井の理由だ。
ラウンジで窓の外をぼうっと眺めていた俺たちに相馬刑事が自販機をご馳走してくれたので、自然と三人で座る流れになっていた。
「そういえばさ、主任ってどういう役職なの? ていうか耶俣さんと相馬さんの関係は?」
「なんだ桧愁院、関係って……。変なこと考えてんじゃないだろうな、おい」
相馬は顔をしかめて俺を睨む。パンツスーツにかっちりと身を固めた大人の女性という居住まいの相馬刑事だが、その顔立ちはよく見ると年相応より幼い。荒々しい口調さえ鳴りを潜めれば、良家のお嬢様と言っても差し支えないだろう。そんな美人さんが形の良い唇を開いた。
「主任とは、簡単に言えば班長のことだよ。通常だと四、五人くらいで班を組んで、捜査本部から指示された内容を調べるわけ。正式な階級で言えば、耶俣主任は警部補」
「でも、あんたらいつも二人組じゃん。他の班の人見たことないよ?」
「ウチの班は主任が独断専行タイプだから特殊なんだよ……なんというか、察してくれ」
相馬が重いため息を吐き出す。なるほど、管理職でなくとも中間層は大変ということか。
「まあ、そうは言っても独断専行な分フットワークは軽いし、主任もああ見えて鋭いところがある。課内では昼行燈なんて呼ばれてるけど、私はそこそこ尊敬しているよ」
「そこそこというところに、微妙な距離を感じますね……」
横井の指摘に苦笑で返す相馬。いつも目を吊り上げているだけの刑事かと思っていたが、話してみるといろいろ見えてくるところもあるようだった。
「お、バルーンが……」
相馬が窓のほうに顔を向けたので、俺もつられて外を見る。窓の外では、黄色と青の縞模様のアドバルーンが、今まさに空を昇っていくところだった。屋上庭園のイベント会場から揚げられていたバルーンだろう。横井が立ち上がって口に手を当てる。
「大変、紐が解けちゃったのかな。すぐに捕まえないと……」
「ああ、いや。下の紐を掴んでいる奴が見えるよ。結構大柄な男だ」
窓に張り付いて下を見ると、相馬の言うとおり、体格の良い男が紐の端を掴んでいるようだった。屋上庭園の端に停車しているクレーン車のアームに絡ませようと奮闘しているらしい。窓際までやってきた横井も下を覗き込んで、控えめな笑みを零した。
「あれ、
「へえ、そうなのか。……しかし、なんで屋上にクレーン車なんてあんだよ」
「イベントの設営作業用ですね。仮設とはいえ、世界各国の特色を盛り込んだセットはかなりの量がありますし、人力だけで動かすのは厳しいですから。ちなみに、あそこにある建物のほとんどは空輸だそうですよ」
「空輸? なにそれ、どういう意味?」
俺が首をかしげる。答えたのは相馬だった。
「ヘリコプターで運んできたってことだろ。組み立てが容易な建物なら分解して屋上庭園まで持って来られるが、例のドームスタジアムみたいな特殊形状じゃそれもできない。あそこは地上七階の屋上だから、ヘリコプターに直接完成品を吊るしてあそこに降ろしたんだろうさ」
「イベントひとつにそこまでするかよ。さすがテレビ局、やることが派手だなあ……」
俺が感心するやら呆れるやらしていると、相馬は何かに気づいたらしく、再び窓に張り付いて、眼下で依然奮闘中の麻生君をじっと見下ろした。
「……彼、もしかして、さっきの殺人の第一発見者か?」
「そうなんですか?」
横井は知らなかったらしく、目を丸くして相馬を見ている。相馬はジャケットの胸ポケットからスマホを取り出し、麻生君の映った画像を表示させて俺たちに見せつけた。
「やっぱりそうだ、間違いない。事情聴取のときにこっそり撮っておいて良かった」
「おい、それ盗撮なんじゃねえの? いいのか、警察がそんなことをして」
「第一発見者を疑うのは刑事の基本だ。それに、ドームの扉をこじ開けたのも彼だぞ」
相馬はスマホを操作して、別の画像を表示させる。次に映ったのは蝶番の外れた扉の画像だった。
扉はドームスタジアムの壁と同じ色をした強化プラスチック製で、小窓のようなものもない完全な一枚板。取っ手部分に金属のフックが付いており、そこに閂が引っかかる機構のようだ。
一方、出入口の戸枠に取り付けられた閂は長さ十センチ、太さ三センチ程度の円柱型で、やはり材質は金属製。根元が三六〇度自由に回転するようになっているため、それを金属のフックに乗せることで施錠できる。写真の中の閂は重力に従って地面へとその先端を向けており、閂の先端にはゴム製の重しも取り付けられていた。
「ぐるっと回してカチャンと引っかけるタイプか。たまに公衆トイレの個室とかで見かけるな。閂っていうより掛け金だよな、これ」
俺が言うと、相馬はわずかに頷いて、
「この麻生君、図体の割に気の優しい男で、最初はドームスタジアムの中に取り残された子どもが誤って鍵をかけてしまい、そのまま夜を明かしたんじゃないかと思ったそうだ。だから蝶番を壊して扉に隙間を作り、細い棒で掛け金を外して中に侵入したらしい」
「ああ、イベントの初日に似たようなことがあったって局員の間でも噂になりましたね。それで神経質になってしまったんでしょうか?」
横井の言葉に、相馬が再び頷いた。
「そうかもな。もっとも、ドアを破った時には他のスタッフも複数人が手伝っている。こいつ一人の独断で破ったわけじゃないから、この男は限りなくシロに近いとは思うが」
「ていうか、なんでこんな鍵なんだ? 夜とか、普段は鍵を掛けないのか?」
俺が訊くと、横井は少しだけ首を傾けて考えるそぶりを見せた。
「そうですね……貴重品もないし、場所も屋上ですから、複雑な鍵は必要なかったのかもしれませんね。そもそもイベント施設には、鍵が付いていないタイプが多いんです」
「余計なものを付けると管理が大変だし、特に子どもの施設なんかは、いたずらで不都合が起きる場合もあるからな。それでも鍵を付けるとなれば、やはりこういう内鍵になるんだろう」
いかにも警察の意見といった感じで相馬が言う。俺は続けて相馬に訊ねた。
「扉の隙間から針金かなんか入れて、掛け金を外すことはできないのか?」
「密室の作り方の話か? いや、それは無理だな。密室の謎については既にウチの鑑識が検証している。前回、どっかの誰かさんに出し抜かれたもんだから、連中、血まなこだよ」
「どっかの誰かさんって、誰ですか?」
横井ADが好奇心の笑みを浮かべる。前回の現場には彼女もいたはずなのだが、どういうわけか気づいていないらしい。俺は笑いをこらえ、相馬は苦笑をこらえながら話を続けた。
「血まなこになった結果、まず扉には隙間ができないことを確認したらしい。室内二か所にある外気取り込み用の換気口にはステンレスの網があるし、当然、今度の現場は床と壁が一体モノだ。外からジャッキを壁と地面の間に差し込んでも、床が一緒に持ち上がるから隙間はできない。完璧な密室だということが分かったと、顔を真っ赤にしながら鑑識の班長が報告しに来たよ」
「なんつーかその……鑑識さんたちには済まなかったと言っといてくれ」
あざみに敵愾心を刺激された結果、完璧な密室を自らの手で証明しちまうとは皮肉な話だ。
だが、完璧な密室などあるはずがない。現にエミリーの遺体はそこに存在していたのだ。内側から鍵をかけた後に外へ脱出する方法か、それとも外から鍵をかけた方法を見つけられなければ、犯人には近づけないような気がしてしまう。
「やっぱり、犯人を特定するほうが事件解決の近道なんだよ。密室の方法だって、そいつから聞いちまえば話は早いんだ」
空になったコーヒー缶をおもむろに放り投げる相馬刑事。小気味よい音を立てて、缶は見事に壁際のゴミ箱へと吸い込まれる。発言も態度も乱暴すぎると思ったが、俺は黙って頷いておいた。
「それには同意だな。エミリーのほうは特にだ。このままでいるなんて気持ちのいいものじゃない」
「そうですね。私も……このままだなんて、許せません」
両手をぎゅっと握る横井。少なからず、あざみのことを言っているのかもしれなかった。
「ちなみに相馬さん、あのドームに最後に近づいた人間は誰か分かってるのか?」
「証言を聞く限りだと麻生君だな。雨が降り出したから、昨日の午後五時でイベントを終了させたらしい。だが、本当のところは正直分からん。普段なら屋上庭園を近道として使う局員も多いそうだが、雨のせいで局員のほとんどが室内の通用路に回ってしまった。雨の夜では窓からの目撃証言も取れないし、濡れるのを厭わなければ犯行をするには容易い夜だったろうよ」
「そうか……。くそっ、なんかねえのかよ、何か……」
「あら、こんなところで何のお話ですの?」
そこに降ってくる、緊張感を欠いた流麗な声。俺はデジャビュを感じて振り返る。……そういえば、俺が声を掛けられるのはいつもここだったな。
「刑事さんを囲んで、ひょっとして事件のお話ですか? 素敵ですわね。今までは訊かれるばっかりだったので、今度はぜひ訊く側に回りたいわ」
薄い水色のドレスに身を纏い、いつものように黒いメイドを背後に連れた九珠藤立華は、まるで殺人事件とは似つかわしくない可憐な笑みを浮かべて、俺の肩越しに相馬を見た。
「……主任、聴取は終わったのですか?」
相馬が立ち上がって、扇儀桜良のさらに後ろを見る。ボリュームのある九珠藤のドレスの死角を覗くと、そこに立っていたのは耶俣刑事。それと瑞佳あざみの二人だった。……そうか、あざみと耶俣のマンツーマン事情聴取なんて、よく考えれば今更な話だ。九珠藤立華や扇儀桜良、もしかしたら他の決勝戦出場者も含めた合同の事情聴取が行われていたのかもしれない。
「はい、終わったッスよ。九珠藤サンも瑞佳サンも、扇儀サンもお疲れ様でした」
「はい、疲れました。とっとと帰りたいです」
仏頂面のあざみが不機嫌さ全開の声で応える。壁掛け時計の時間を見れば、すでにもう三時を回っている。いい加減、長居をしすぎたと言えなくもない。
「耶俣さんは、まだ捜査を続けるのですか?」
あざみが耶俣に訊いた。その真意は、車で家まで送ってって貰えないか、だ。過去何回か経験しているのでクセになってしまっているようだ。耶俣は帽子越しに頭を掻いて、
「いやあ、そうして文芸部の紅茶をいただきに行きたいのはヤマヤマなんスけどね。四時から捜査会議の予定でして。サボるとウチの課長と部下にいじめられそうで怖いッス」
「私がいつ主任をいじめたと言うんですか」
怒気のこもった声で言われ、耶俣が委縮している。耶俣が誰に怒られようが構わないが、ともかく今日の無料タクシーは諦めた方がよさそうだ。そう思ったところに、予想外の人からの声がかかった。
「お車の準備はできております。早速でよろしければ、ご案内いたします」
「……え? なに、桜良さん。お車の準備って……」
「私の車がお送りいたしますわ、瑞佳さん。それに桧愁院くんも」
九珠藤の大きな眼が俺たちを見る。あざみは両手を振って一歩後退した。
「い、いいですよ。電車で帰りますから。それに私たち、家は千葉ですよ?」
「構いませんわ。今日は事情聴取ばかりで退屈でしたし、それに、まだお話し足りないのです」
彼女が浮かべたのは九珠藤立華特有の蠱惑的な笑み。彼女のファンならば、これを向けられただけで卒倒し、あらゆる要求を断ることができなくなるのだろう。
だからこそあざみは何度も遠慮を続けたのだが、結局のところは押し切られる形で終息した。
たとえファンでなくとも、彼女の要求は断れないのである。
なぜなら、彼女が九珠藤立華であるから。
偶像に信仰が集まるように、彼女もまた、人を従わせる魔力を持っているのかもしれない。
◇ ◇
首都高湾岸線を東進してすでに三十分。扇儀桜良の駆る胴の長いリムジンは、東京湾の夕景を右手に望みながら、前方にぼんやりと美浜のビル街が見える位置にまでやってきていた。葉月市まであと十数分というところだろう。
「おい、葉月市のどこまで送ればいい? 家の近くまで行ってやるぞ」
運転席でステアリングを握る桜良が、後部座席に声をかけてくる。相変わらず主人以外には態度の悪いメイドだ。しかし背に腹は代えられない。俺は前方へ身を乗り出して、ウチの近所へ行くまでの道筋を指示してやる。桜良は片手でカーナビを操って目的地を設定した。
「ちなみに、この車って住宅街の交差点とか曲がれんのか? ウチの近所、結構狭いトコあるんだけど……」
「私の腕を舐めるなよ。……一応聞いておくが、一番狭いところの道幅で何メートルだ?」
「四メートル」
「そうか。ならば大通りで止めよう。そこからは歩いて帰れ」
無理なのか。まあ、葉月駅よりは近そうなので悪くない条件だが。
「しかし……メイドが運転するリムジンか。マジでファンタジーの乗り物だぜ……」
乗り出していた身を戻しながら、俺は改めて牛皮張りシートの感覚に酔い痴れる。リムジンの後部座席は中列と後列が向かい合う対面式で、俺の真向いに座るあざみはぼんやりと窓の外を眺めている。そして、その隣に座るのがこの車の主、九珠藤立華だ。
九珠藤はくすくすと笑いながら、俺の漏らしたつぶやきに答えた。
「私の送り迎えは、いつも桜良の運転ですの。こう見えて彼女、大型から二輪から、特殊車両に建設機械、果てには船舶免許まで、一通りの運転免許を持っているんですのよ」
「そこまできたら、メイドやらせとく方が損だろ……」
相変わらず何を考えているのか分からんアイドルである。
「それにしても瑞佳さん、全然喋りませんのね。事情聴取は堪えましたか?」
九珠藤が隣のあざみを覗き見た。九珠藤の言うとおり、あざみはテレビ局を出てからというもの、ほとんど口を開いていないように思う。テレビ局の地下駐車場に胴体の長いこの車が現れた際に驚嘆を漏らしただけで、それ以降は沈黙を続けたままだった。
あざみは胡乱げに首を回し、口を開く。
「そうですね、少しだけ。……まあでも、これで番組が中止になるなら、これ以上気疲れすることがなくなるので、少しは楽ですね」
「ちょっ、番組のメインパーソナリティの前で、なんつーことを……」
俺が慌てて九珠藤の顔色を窺うが、九珠藤はさして気にする様子もなく微笑んだ。
「正直な感想ですのね。しかし、その希望的予測が当たることはありませんわ」
「どうしてですか?」
「番組は継続します。メインスポンサーが首を横に振らなければ、制作部どころか警察だって、番組の中止を訴えることは難しくなりますわ」
「メインスポンサーって……」
言いかけて、はたと気づく。……そうか、BBBのメインスポンサーは九珠藤粧業。世界的化粧品ブランドにして、九珠藤立華の家柄が経営する大企業だ。
だからこそ、九珠藤立華はこの番組でメインを張れているという事実もある。実力と後ろ盾、その両方から支えられているからこそ、今の九珠藤立華があるのだろう。
「それに今回の事件は、番組の社会性や安全性が問われているわけではありません。あくまでも悪いのは殺人犯です。だから番組が消えるというのはお門違い。存続して然るべきでしょう」
「そりゃまあ、そうだろうけどさ」
俺が同意すると、九珠藤は頷いて、それから俺を真剣な目でじっと見つめた。
「しかし、番組を脅かす犯罪者が私の周りにいるということ自体、不快な話です。私も何とかして、犯人を捕まえるご協力をしたいとは思うのですけれど……」
「相馬刑事、かなり難しいって嘆いてたぜ。犯人どころか密室の手がかりすら掴めないらしい」
「密室……ですか?」
「あれ、耶俣さんとかから聞いてない?」
俺の問いに、九珠藤はきょとんとした顔のまま首を傾けた。どうやら現場はおろか、その場所が密室であったことも知らなかったようだ。俺が刑事たちから聞いた情報を話すと、九珠藤はシートに背を預けて足を組んだ。
「サッカードームスタジアム、ですか」
「そうだ。見たことないか? サッカーボールに似せて造った半球状の建物なんだけど」
「ええ、あの正六角形の張り合わせて造られた白地に黒のドームですわよね。十一階のラウンジの窓から見たことがあると思いますわ」
「そこには扉は一つしかないんだが、そこが密室だった。鍵は最近の公衆トイレで使っているような回転式の掛け金だ。外から鍵を掛ける手段はない。……何か思い付かないか?」
九珠藤は数秒だけ考え込むそぶりを見せると、すぐに顔を上げて俺を見た。
「そうですね。では磁石なんかはどうでしょうか」
「磁石?」
「扉の外から強力な磁石を当て、その磁力で留め金を回します。最近はネオジム磁石という強い磁力を発する磁石がありますから、そうやって外から鍵を掛けたのではないでしょうか?」
「ああ、なるほど。それなら――」
「無理ですね」
鋭敏な声が飛んでくる。否定したのはあざみだった。
「掛け金はオーステナイト系のステンレスです。ゴム製の重しがあるのもそのためでしょう」
「何? オーステ……ステステ?」
「一般的なステンレスのことよ。ステンレスは基本、磁石にくっ付かないわ」
あざみがそう断言する。一体いつの間に掛け金の材質など調べたというのか。あざみの少々冷たい態度にもめげず、九珠藤は矢継ぎ早に次の案を提示する。
「では、扉の枠ごと外してしまうと言うのはどうです? 金澤さんの事件の時と発想が似ていますが、あれがイベント用の仮設だというのなら、ある程度時間をかければ可能ですわ」
「それもないですね。今回はかなり綿密に警察の鑑識が調べたそうです。扉自体が技術的に外された形跡も、どこかの壁に穴を開けられたこともないと聞いています」
「それなら、最初から鍵が掛かっていなかった……イベントスタッフの偽称という可能性は?」
あざみがはじめて、真正面から九珠藤を見る。九珠藤は足を組んだまま涼しげな顔だった。
「扉の蝶番を壊した後、できた隙間に棒を入れて掛け金を上げたのですよね。では、その掛け金を上げたという証拠は? そこだけスタッフの証言を鵜呑みにしているのではないですか?」
「しかし、その場には複数人のスタッフがいました。彼ら全員が同じ証言をしているはずです」
「ならば、その複数人のスタッフ全員が共犯と言う可能性はないのでしょうか?」
「全員だって?」
俺は目を見開いた。九珠藤は少しだけ悪戯そうな笑みを浮かべて俺を見る。
「可能性の話だけならば、もっといろいろな方法がありますわ。例えば、現場に無数にあるビニールボールのひとつにリモコンなどで遠隔操作できるロボットアームとCCDカメラを内蔵しておき、扉を閉めた後にCCDカメラの映像を見ながらロボットアームを操って掛け金をかけるのです。作業後はアームを折り畳みビニールボール内に収めて偽装、あとは隙を見てボールを回収すれば、密室トリックの完成です。……ああ、よく考えるとこれが一番現実的ですわね」
「ど、どこがだよ……。奇想天外にもほどがあるだろ」
「そうかしら? 技術的にも金銭的にも、悪くない選択肢だと思いますけど」
あざみは黙ったままだった。九珠藤を睨んだまま、何かを頭の中で巡らせている様子だ。こいつが反論をしないところを見ると、本当に現実的な方法なのかもしれない。
九珠藤立華は話を続ける。
「正直なところ、トポロジー的には密室自体が大して特異な問題ではないのです。単連結の二次元閉多様体が境界を持たないことは既に証明されたプログラムですわ。個人的にはせめてもう一次元、三次元閉多様体の同相が三次元球面であるという証明が必要であるのなら、考え方は変わってきますけれど……ポアンカレ予想のようにね」
「……つまり、密室を考えること自体に意味はない、と?」
あざみが訊くと、九珠藤は首肯した。
「瑞佳さんは犯人に興味がないみたいですけれど、私はその逆ですわね。n次元ホモトピー球面がn次元球面と同相という一般式さえあれば、過程はそこまで重要ではないのです。そういう意味では、私はあまり数学者向きではないのかもしれませんけれど」
瑞佳あざみと九珠藤立華の会話は続く。
……正直言って、何を言っているのか全然分からん。
口を挟むことすら躊躇われるような内容が飛び交う中、九珠藤の視線は俺に向いた。
「ああ、ごめんなさい桧愁院くん。少し意味のない話をしてしまいましたね」
「いや、大丈夫だ。理解する以前に日本語かどうかも怪しい話だったから」
「日本語よ。私たちを宇宙人か何かと勘違いしていない?」
あざみが口を尖らせるが、俺にしてみればお前ら二人は立派な宇宙人だ。
「ポアンカレ予想って知っています、桧愁院くん?」
九珠藤が話を振ってくる。俺は当然、首を横に振った。
「一九〇四年にフランスの数学者アンリ・ポアンカレが提出した、位相幾何学上の定義のひとつ。『単連結の三次元閉多様体は三次元球面に同相である』という予想のことですわ」
「……ほらな、やっぱ日本語じゃない」
俺の言葉に、あざみは続けて口を開いた。
「ちなみに、ポアンカレ予想は百年以上未解決となっていた数学界の難問中の難問で、ミレニアム懸賞問題のひとつでもあったわ。……前に少しだけ話をしたと思うけど?」
「ミレニアム? ああ、そういや何かの時に聞いたな……」
あざみが四年前に解いて脚光を浴びた、数学史上最難関の七つの問題か。
俺のつぶやきを聞いた九珠藤は、物思いに耽るように遠くを見た。
「確かに、ポアンカレ予想はかつてミレニアム懸賞問題の一翼でした。しかし、二〇〇二年にロシア人数学者グリゴリー・ペレルマンが解明し、その証明が正しいことが二〇〇六年に確認されたのです。今となっては過去の話ですね」
ロシア人数学者……か。ロシア人というところに、なぜか俺は奇妙な符合を感じてしまう。
九珠藤の説明は続く。
「簡単に言うと、三次元閉多様体という名の立体が単純な形であるとき、それはおおむね球体の表面の形をしたものに近いはずだ、というのがポアンカレ予想です。実際には三次元という部分をn次元に拡張できるのですが、三次元の証明だけが難しく、近年まで残っていました」
「n次元ってことは、二次元とか四次元、五次元は証明できていたってことか? どうして、三次元だけが難しいんだ?」
「では、二次元を例にして考えてみましょうか」
九珠藤はシートの肘掛けを上げて、現れたミニポケットの中から一つのビー玉を取り出した。
ビー玉は窓から注ぐ沈みかけの陽光を受けて、濡れるように七色の光を反射している。
「これが地球だと思ってください。桧愁院くんは地球のある一点……そうですね、世界で一番高い山の頂上にいるとしましょう。ここで桧愁院くんは一本のロープを取り出し、その両端を右手の中でしっかりと握って離さないとします。このロープは何万キロまでも伸びる魔法のロープで、しかもどんな木や建物にも引っかからない特別製ですが、唯一の条件として地面から離すことができません。さて、桧愁院くんは残った左手でその輪を世界中のある一点へ放り投げました。その後、このロープをたぐり寄せた時、このロープはどこかに引っかかってしまうことがあるでしょうか?」
「んなわけないだろ。さっき引っかからない特別製だって言ったばかりじゃねえか」
「引っかからないと思うのは、地球が丸いからですよね。では、もし地球がドーナツの形をしていたとしたら? 木や建物は大丈夫でも、大地のどこかには引っかかるでしょうか?」
「だから、引っかかるわけないって……いや、待てよ」
俺は考え方を改める。仮に地球がドーナツ型だったら地球の真ん中に穴が開いているわけで、投げたロープの位置によってはそこに輪が引っかかってしまうだろう。このロープが空を飛べるのなら宇宙空間を横断することもできるが、地面から離れないという条件がある以上は難しい。
「引っかからない、とは必ず言えませんよね。つまり絶対に引っかからない条件とは、地球が丸いことなんです。二次元とは面の世界のこと。地球は立体かもしれませんが、表面だけを見ればそれは『面』です。この地球の面のことを二次元球面と言います。そして、ロープで作った円のことを単連結の二次元閉多様体と定義し、この二つは同相であると考えるのです」
つまり、投げたロープがどこにも引っかからず回収できれば、それはどんな形をした球であっても同じことだと言えるというわけか。九珠藤は続けてビー玉をくるくると回し始める。
「これを踏まえて、一次元高くします。三次元は立体の世界です。ロープの扱いは同じですが、地球の表面が二次元球面だとしたら、三次元球面はどんな形をイメージしたら良いでしょう」
「えっ、それは……なんだ? 四次元の物体の表面をイメージしなくちゃいけないのか?」
しかし、四次元の物体とは何だろう。そもそも、二次元が面、三次元が立体だとしたら、四次元とはどんな形になるというのだろうか。三次元生物である俺にはまったく理解できない。
それまで黙っていたあざみが、人差し指を車の天井に向けて、俺に見せた。
「身近にあるじゃない。窓から見える景色の上よ」
「上?」
俺は窓を覗き込み、上を見る。
そこには紫色に染まる空と、ようやく瞬き始めた一番星。
……宇宙が、広がっていた。
「そう、宇宙です。このポアンカレ予想とは、宇宙の形を解き明かす学問なのですわ」
足を組んだままの九珠藤は、その黒い瞳の中に光を灯して俺を見ていた。
「宇宙に放ったロープが回収できる、つまり閉多様体であるとするならば、宇宙の形も球面であるという予想が成り立ちます。これがポアンカレ予想の本質。位相幾何学の到達点です」
……冗談みたいな話だ、と俺は思った。
だって、人類はまだ宇宙に飛び出してから半世紀しか経っていない。NASAの宇宙探査機ボイジャー一号が地球から一八〇億キロの距離を飛行しているが、それでも宇宙の果てに到達するには何万年、何億年という月日がかかるのだ。
だが、このポアンカレ予想は「宇宙の形が球体である」という事実を突き止めた。
宇宙に一歩も出ることなく、ただの論理的数式だけで、そういう結論を導いたのである。
実際には机上の空論だと言う声が上がるだろうが、それでも「分からない」から「分かる」という状態に達したことは大きい。それこそ人類の一歩も二歩も先へ行っていると言える。
……これが、天才という名の種族なのか。
三次元世界の住民でありながら、四次元以上の世界を見通せる俯瞰の力。
頭脳の回転数だけで世界を知覚し、形作り、そして俺たち一般人に道を指し示す。
瑞佳あざみと九珠藤立華という名の二人の天才は、そういう人種なのかもしれなかった。
「到着しました」
蚊の鳴くような桜良の声が聞こえて、リムジンがゆっくりと街路の路肩に停車する。俺とあざみは車から降り、最後に窓ガラスを下ろして顔を出した九珠藤にお礼を言った。
「それでは瑞佳さん、桧愁院くん。また来週、テレビ局でね」
「来週? もう決まっているんですか?」
あざみが訊くと、九珠藤は頷いた。
「多分決まりです。あなたとは決勝戦でも戦いたいものですわ。とても楽しいことになりそうだから」
「意味深なフレーズですね、それ」
一方のあざみは笑っていない。いつからか、九珠藤を見る目が心持ち険しかったようにも感じる。そんなあざみの様子を気にすることなく、九珠藤は小さく手を振り、窓を閉めた。
黒いリムジンが走り出し、やがてヘッドライトの運河に交じって見えなくなる。空をもう一度見れば、辺りはもう夜。光化学スモッグのせいで見えづらくなった星空だったが、それでも金星をはじめとしたいくつかの星々は、暗い空の中で強い光を放っていた。
「帰るわ」
あざみが歩き出す。俺たちの家は同じ住宅街の同じブロックだ。いわゆる近所の幼馴染みってヤツである。このおかげで、俺たちは十二年もの間、一緒に生きてこられたのだろう。
だが、その「人種」という名の溝は、未だに開いたまま。
俺はあざみの一億分の一も理解できていない。
住宅街へ続く公園内の並木道を歩いていくあざみの背中を、俺は追うことができなかった。
◇ ◇
時間は進んで、次の日曜日。十二月も中盤を過ぎ、肌寒くなったその日の午後。
「ハイ、みなさんお集まりですね! それじゃサクッと始めちゃいましょう!」
妙にハイテンションな榛原ディレクターが柏手を打って、眼前に居並ぶ俺たちに声をかけた。
サンセットテレビ十一階、E4スタジオ。もはやお馴染みとなったBBBのセットの中には、見ているだけで目が疲れそうな小さいパネルが壁いっぱいに並んでいる。パネルの中に納まっているのは、水中で撮ったらしい様々な形の魚の写真だ。そんな青一色で染まったスタジオを背景に、榛原は上機嫌な声を張り上げた。
「えー、一時期は撮影を休止していましたBBB決勝戦ですが、制作部およびスポンサー様からの許可が下りまして、晴れて今日から再開となります。出演者、スタッフみなさん、張り切ってヨロシクお願いしちゃいますよ?」
俺たちの後ろで、横井ADをはじめとしたスタッフ全員も、よろしくお願いします、と合唱した。BBBスタッフにとっては待ちに待った収録なのだろう、気合がいつもと違う気がする。
……となると、テンションがおかしいのは俺だけ、となるのだろうが。
「あの、榛原さん……ちょっと訊いていいっすか?」
俺が片手を上げると、榛原はニヤけ面でこっちを向いた。
「ちょっとー、駄目っしょ桧愁院くん、総監督って呼んでくんないと。分かる? 総監督ね」
「ああ、じゃあ総監督。なんで俺、ここにいるんすかね」
俺は隣に立っているあざみや九珠藤を含めた、出演者六人の顔を睥睨しながら口を開く。豪奢なBBBセットの中に立っているのは、榛原を除けば俺たち出演者七人だけだ。
天井から降り注ぐスポットライトの熱さを感じながら発した俺の質問に、榛原は「こいつ何言ってんの?」という殴りたくなるような表情で答えた。
「君も出演者なんだから、当たり前でしょ」
「はぁ……はあああ?」
お笑い芸人張りにリアクションをしてしまう俺。
「聞いてねえぞ!」
「言ったよ。君も出演るからスタジオに来てねって。じゃあなんで君ここに居るワケ?」
「えっ? いや、呼ばれたから来ただけで……だ、第一、なんで俺なんだよ? 俺は一回戦も準決勝も出てねえぞ。それなのにイキナリ俺なんかが決勝に出てたら不自然だろ!」
「大丈夫大丈夫、それは編集で何とかするからさ。今は出演者の頭数を揃える方が重要なの。だってホラ、準決勝で六人勝ち抜けってやったのに、決勝で五人しかいなかったら、それこそ不自然でしょ?」
つまり、俺はエミリーの代役と言うことか。しかし、
「それにしたって俺はないだろ! こんな高レベル連中とゲームなんてやれるかってんだ。自慢じゃないけど、俺はこの前の中間考査で五教科中五教科が赤点だったんだぞ!」
「本当に自慢じゃないわね……」
あざみが憮然とした顔でつぶやき、他の出演者がくっくっと笑いを堪える。なんだかえらい墓穴を掘ったような気がするが、今はそれどころではない。そろそろ俺の相手が面倒臭くなったらしい榛原は、セットから退避しつつ口を開いた。
「大丈夫だって適当で。どうせ君が王座決定戦に進めるなんて万に一つも思ってないから。そんじゃそろそろ本番やっちゃうよー。キャメラマン、照明、チェックよろしくー」
はーい、と大きな声で応えるスタッフ。俺の扱いがスタッフレベルでも酷すぎる。
榛原が自分の定位置らしき大型テレビカメラの横でメガホンを取ったとき、天井のライトが縦横無尽にスタジオ中を照らし始めた。
まだカメラが回ってもいないと言うのに、俺はなぜか緊張に胸が痛くなる。
「MCさん、準備OK? 音響とナレーターも大丈夫かなー? では進行本四番どおりに。出演者の皆さん、席に着いてスタンバッってくださーい」
榛原がそう言うやいなや、セットの端からADが数名近づいてきて、俺たちをセットの中央にある円卓の椅子へと導いた。椅子は七脚で、俺の右隣は瑞佳あざみ、真向いは九珠藤立華だ。照明は光量が抑えられた水色に染まり、まるで海の中にいるような錯覚に囚われた。
俺を椅子に着席させた横井ADは、台本を俺に見せながら口を開いた。
「答える順番は時計回りで、桧愁院さんは瑞佳さんの次になりますね。この『メモリーチェイン』で使える単語は、地球上の魚の名前二万五〇〇〇種類。お手付きは一度で失格ですから注意してください」
「ホワッ? 魚の名前二万五〇〇〇種類ィ?」
俺が素っ頓狂な声を出したので、横井が驚いて台本を取り落した。
「どっ、どうかしましたか桧愁院さん?」
「どうかしましたよ! つーか、熱帯魚じゃなかったのか? あ、いや、そうじゃなくて、俺が魚の名前二万五〇〇〇種類も知ってるかつーの! おいコラ榛原あ!」
「総監督だって言ってるでしょ? 熱帯魚ってのはあくまで説明上の例だって」
榛原がメガホンを肩に担ぎながら、面倒そうに答える。
「第一、たった五〇〇種類じゃすぐにゲーム終わっちゃうじゃない。このメモリーチェインは二万五〇〇〇種類の中からどれを記憶にストックして本番に臨むかっていう、戦略性の高いところが醍醐味のゲームなんだからね」
「その前に俺は一種類も覚えていない!」
「冬夜、ぎゃーぎゃー騒ぐなっての。何種類かは元から分かるでしょ? アジとかサバとか」
あざみが隣の席から冷静に言う。……ああ、そうか。そういえば隣はコイツだった。ってことは、あざみのパスが上手ければ俺にも勝ち上がりのチャンスがあるってワケだ。いや別に勝ち上がりたいわけじゃないけど。
「よし、それじゃ本番行くよ! 五秒前……三、二、一!」
否応なく始まった。
けたたましいファンファーレに、耳を劈くようなBGM。セットの至るところに取り付けられたディスプレイがBBBのロゴを映し出し、天井の照明は唸りを上げて回転した。
ほんの数秒間で、まるで別世界に来たような感覚。
すべての音響はあっという間に静寂を取り戻し、暗闇に沈むスタジオの中、唯一の光となる青い深海の照明が俺たちを映し出した。
円卓に注がれる合計四台のカメラのレンズ。
カメラの上部に取り付けられた赤い光が、まるでアンコウの提灯のように輝いていた。
『BBBの挑戦者を決める戦いも、残すところ決勝だけとなりました。この中で絶対王者・九珠藤立華に一対一を挑むのは、一体誰か? BBB決勝、メモリーチェイン……開演です』
司会役のアナウンサーが厳かに言い放ち、再び照明とBGMがスタジオを包む。
これが……テレビの現場。
年末特番として全国放送される予定のBBBの生収録だ。
声を上げることもできないこの状況で、やっぱり何で俺なんかがテレビに映っているのかをしつこいくらい頭の中で繰り返しながら、俺はバクバク言ってる心臓を服の上から掴んでいた。
「……桧愁院くん、リラックス、リラックス」
真向いの席に座る九珠藤立華が、小声で話しかけてくれる。あれくらいの声なら大丈夫なのか。俺はなんとか頷きを返して、視線を上げることに成功した。
『――ということで、このゲームは準決勝で六位通過だった八番さんからのスタートです。八番さん、準備はよろしいですか?』
司会役の問いかけに、俺の左隣の女の子がはいと答える。……そうか、この席の並び順は、九珠藤を除いて、準決勝で勝ち抜けの遅かった順なのか。だからエミリー役の俺とあざみが最終番手、ある意味上座ってわけだ。数合わせの扱いにしては厚遇過ぎて涙が出そうだった。
『それでは、いざ頭脳系最強の座へ! BBB決勝戦……スタート!』
どぉん、と大きな和太鼓の音と共に、ゲームは開始されたらしかった。
正面上方のディスプレイには「あ」という文字と、三十秒の制限時間が表示され、テレビカメラが八番の娘の近くへと肉薄していく。
八番の女の子は、数秒ほど考え込んだ後、顔を上げてはっきりと答えた。
「アイナメ」
ディスプレイの画面が切り替わり「カサゴ目アイナメ科・アイナメ」という文字と共に、その名前の魚の写真が表示される。ピンポン、と正解らしき効果音が鳴って、スポットライトは八番の子から、その左隣の男の頭の上に移動した。
男は幾ばくも時間を掛けずに、マイクに答える。
「メジナ」
スズキ目メジナ科・メジナの文字と、黒い魚の写真。こちらも正解の効果音。次の番手である九珠藤立華へとスポットライトは映り、その後も滞ることなくしりとりは進行した。
ナンヨウハギ、ギンダラ、ライギョと続いて、次は瑞佳あざみの番。
あざみは、ちらりとこちらを見たあと、抑揚のない声でこう答えた。
「ヨーロッパオオナマズ」
「ズっ?」
ピンポン、と正答音が鳴って、ディスプレイに巨大でグロテスクな魚の写真が表示される。というか、こんな魚見たことも聞いたこともねえぞ。なんてマニアックな魚を選びやがるんだあざみの奴は。
「というか、ズ? ズって……スじゃ駄目なんだよな?」
話半分で聞いていたルールだと、濁点や半濁点はそのまま使えってことだったはずだ。だから最後の文字が濁音・半濁音の単語は、ライバルにぶつける武器となりえるとかなんとか……。
「……謀りやがったな、あざみ」
俺は隣を睨むが、つーんと澄ました顔で前を向くばかりだった。
『さあ、どうした十一番。残り時間十秒を切ったぞ?』
司会役の声ではっとする。ディスプレイに浮かんだ制限時間は、残り八秒だ。
俺はさんざん口の中でズ、ズ、と唱え続けて、最後に絞り出した答えがこれだった。
「ズワイガニ!」
ブーッ、と押し潰すような音が鳴って、ディスプレイにでっかいバツが表示される。あざみが小さな声でつぶやいた。
「カニって……魚じゃないじゃん」
……わあってるよ、んなこと。
こうして俺のテレビ初出演は、一分と経たずに終了した。
◇ ◇
決着は一時間ほどでついた。瑞佳あざみの圧勝だった。
正確には、最後まで残ったのはあざみと九珠藤立華の二人だった。決勝戦は、挑戦者が残りひとりになるまで続けられるのがルールだったので、二人の決着は王座決定戦へ持ち越しとなったようだ。
スタジオに眩いばかりの照明が灯り、セットから降りてきた瑞佳あざみを出迎えたのは、榛原総監督の上機嫌な笑い声だった。
「お疲れさま! いや、よかったよ瑞佳ちゃん。来週の王座決定戦が楽しみになってきたね」
「私は別に楽しみじゃないですけど……」
肩を組まれそうになって、それを自然な足取りで回避するあざみ。その後ろでは、悠然とセットから離れた九珠藤立華が、扇儀桜良の差し出すタオルを受け取っているのが見えた。
「さて、もう六時か。瑞佳ちゃんはこれからどうする? もしもまだ晩御飯がアレだったら、この総監督自ら奢っちゃうよ? 美味しいシースーのお店なんか、どう?」
「アレとかシースーって何ですか。申し訳ありませんが、このまま帰らせていただきます」
あざみはぺこりと頭を下げた。榛原は残念そうに息を吐いて、俺を見る。
「うーん、もしかして、先約……じゃないよね?」
「おいおっさん、なぜ俺を睨む」
邪な考えで誘ってんのはあんたの方じゃねえのか、このロリコンが。
あざみが榛原にもう一度頭を下げ、スタジオの出口へ向かって歩き始めたので、俺も慌ててあざみの背中を追いかけた。もう少しで肩が並ぶというところで、あざみが俺のほうを見る。
「今日はあんたも一人で帰りなさい。私は私で勝手に帰るから」
「えっ、なんでだよ。今日は耶俣さんもいないから、電車で帰るしかないんだぜ? それなら帰り道一緒じゃねえか。そりゃ飯おごれるほど金はないけど」
「そんな期待、最初っからしていないわよ」
ひどい言われようだ。だが、あざみがこう言い出した以上、俺がいくら説得しようと考えを曲げないであろうということは分かっている。俺はしぶしぶ承諾した。
「でも、どっか寄る予定なのか? どこか行くならついて行ってやるぞ?」
「必要ないわ。そもそも、どこかに寄る予定もない。ちょっと一人で帰りたい気分なのよ」
あざみはそう言い切ると、それじゃあね、という言葉を言い残して足早にスタジオから去って行った。俺は主人に置いていかれた子犬のごとくその場に立ち尽くしていたが、スタジオの片付けが始まって騒がしくなってきたことに気づいてスタジオを出る。そこにはもうあざみの姿はなく、白い廊下に見知らぬスタッフが歩いているだけだった。
「ったく、なんなんだよあざみの奴」
この前から……あの1+1=1の紙ナプキンを見た日から、あざみの様子はどこかおかしい。
余所余所しくなったというか、避けられているというか。
他人のことに無頓着なあざみだからこその取っ付きやすさが今まであったのに、その取っ付きの良さが消えている感じがした。
何が彼女を変えたのだろうか。それとも、変えてしまった原因は何なのだろうか。
……やはり、天才を理解しようとするのは不可能なことなのか。
少しだけ自信を喪失している自分に気が付いて、俺は柄にもなく自嘲した。
「なんだよ……やっぱ俺、あいつを理解したいんじゃん……」
自分のことも分からなかった奴が、あいつのことを理解するなんて無理な話なのかもな。
一抹の寂しさを感じたところで、ふと、ポケットの中の携帯が震えているのを感じた。メールの着信だ。俺は携帯を取り出して、早速届いた文章に目を通す。送信主はあざみだった。
『私を尾行しなさい。帰る道順はいつものとおりで』
「……は?」
文章はこれだけだ。
もちろん、これが何を意味しているかなんて分からない。俺はメールを何度も読み返したり、アドレスを確認したりしたが、結局文章以上のことは汲み取ることができなかった。
なぜ直に言わず、メールで指示するのか。自分の尾行をさせる意図は何なのか。そもそもどうして一人で帰ると言い出したのか。すべてが不明だ。
……だけど。
「これは、俺が必要とされているってことじゃね?」
不可解さと同時にほんのわずかな喜びを感じるあたり、俺もやっぱり犬と変わらないんじゃないかと改めて自嘲して、俺は携帯を握りしめた。
◇ ◇
改札を通り過ぎた瑞佳あざみは、葉月駅から大通りへ出る。
葉月市は京浜工業地帯のベッドタウンだ。それなりに街も発展しており、夜七時が近づいたこの時間でも閉まっている店はほとんどない。繁華街の軒先にはクリスマスセールを謳う赤いのぼりが至るところに立っていて、そろそろ年の瀬であることを否が応にも感じさせた。
しばらく大通りの歩道を南に進むと、次にあざみの脚は東を向く。大通りの東側に広がるのは、ベッドタウンの名を体現する住宅街だ。あざみの家がある場所でもある。その入り口のひとつである森林公園の中へ、あざみは迷うことなく入っていった。
森林公園にはひと気がなく、静寂に包まれている。周囲に立ち居並ぶのは枝葉が伸び放題の小高木に、葉を枯らした広葉樹。あとは申し訳程度に配置された街灯が照らす、レンガ造りの遊歩道だけだ。その遊歩道の上を、あざみはゆっくりとした歩調で進んでいた。
それにしても、静かすぎる夜である。通りを一本隔てるだけで、これほどまでに違うものなのか。もっともこの森林公園は、繁華街と住宅街を分けるために設けられたという話だから、元来どおりの機能を発揮していると言えなくもない。
だが、それは別のデメリットを引き起こす。
いくら水銀灯が遊歩道を照らそうが、夜道が整備されていようが。
ひと気がないということは、助けを呼ぶことができない状況にある、ということだ。
あざみが公園の中央あたりまできたところで、それは起こった。
あざみの死角となる後方から飛び出してくる、黒いフードを被った人影。
黒いジーパンに黒いパーカー、黒い手袋をした人影の手には、唯一黒に染まっていない物体が握られていた。
銀色の光を放つ、鋭利な先端を持つ金属片。サバイバルナイフだ。
声も上げず、足音も立てず。
黒いフードを被った人影は、一直線に瑞佳あざみの背中へ突撃した。
それだから――。
「俺がいるんじゃねーか!」
俺は高木の陰から飛び出して、ナイフを持つ右手を思いっきり蹴り付けた。
「ぐうッ!」
唸るような声と共に、彼方へと吹き飛んでいくサバイバルナイフ。思った以上に上手くいった。俺は立ち止まったあざみを背中に庇い、正体不明の黒ずくめと対峙する。
「てめえが例の殺人犯か?」
俺の質問に答えず、黒ずくめは背中の鞘から新たなナイフを抜き出し、俺の方へと突き付ける。二本目があるとは、なんとも用意周到な殺人犯だ。俺はあざみに小声で囁いた。
「あざみ、俺の背中から離れんなよ」
「大丈夫よ、問題ない。だって……」
あざみがその言葉を言い終わる前に、黒ずくめが突貫してきた。
捨て身で突っ込んでくる相手ほど御し難いものはない。こういう場合は一度避けるのがセオリーだが、俺の背中にはあざみがいる。絶対に逃げるわけにはいかない。
俺は腕の一本も持っていかれるのを覚悟の上で、黒ずくめを受け止めようと――。
「そこまでだッ!」
鋭い怒声が響いた瞬間、辺りの茂みから四、五人の男が一斉に飛び出し、黒ずくめに次々と体当たりしていく。そして、あっという間に黒ずくめを組み伏してしまった。
突然のことに驚き、開いた口が塞がらなくなる俺。
「すまん、少しタイミングが遅れた。主任の合図が遅すぎるのが原因だ」
続いて現れたのは相馬刑事だった。手にはトランシーバを持っている。俺が目を見開いたままあざみを見ると、あざみは普段と何も変わらない顔のまま答えた。
「警察の方々には、あらかじめここで待機していて貰えるよう、耶俣さんを通じて頼んでおいたのよ。犯人が私を狙うなら間違いなくここだろうって」
「ってことは……おまえ、自分が狙われてたの知ってたの?」
「ええ。それと、犯人の襲撃タイミングもね。予想が外れた場合の保険としてあんたに尾行させてたんだけど、私の予想が当たって良かったわ」
そう言ってあざみが不敵に微笑む。その表情は、とても命を狙われた奴の顔じゃない。俺が戦慄しているのを尻目に、あざみは地面に押し付けられている犯人へと近づいていった。
「貴女たちは計画どおりにコトを進めて来たと思っているのでしょうが、今回は私の方が一枚上手だったみたいですね。そうでしょう……桜良さん?」
「さ、桜良だって?」
俺は驚いて黒ずくめを見る。組み伏していた刑事の一人が黒いフードをはぎ取ると、その下からは黒い長髪を束ねた顔見知りの女性……扇儀桜良の顔が現れた。
「……くそっ」
桜良は顔を歪めてもがこうとするが、刑事に四人がかりで抑え込まれているため、身じろぎひとつできないでいる。あざみは膝を折り、桜良の顔を覗き込みながら口を開いた。
「ねえ桜良さん、私が貴女たちと呼んだ意味、分かります? 私には既に見えているんですよ。この事件の結末が」
桜良があざみの顔を見て、息を呑んだ。俺の方からはあざみがどんな表情をしているのか、窺い知ることができない。
あざみは不意に立ち上がり、暗い空を見上げて、何かを探すように視線を宇宙へ彷徨わせた。
「……そろそろ、フィナーレが近いわね」
そのつぶやきは、誰に向けたものだったのか。
パトカーのサイレンの音が聞こえてくるまで、あざみは延々と空を眺め続けていた。
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