第三章 常識と三度の遊戯


 十二月に入って最初の土曜日。

 そろそろ冬も本番らしく、俺のいる十一階ラウンジの窓の外では、少し強めの寒風が空に浮かぶアドバルーンを揺らしている。大小様々なバルーンの下部にはロープが繋がれており、それらは階下に見える屋上庭園の至るところへと延びていた。

 今日からサンセットテレビの七階、屋上庭園では『サンセットワールドツアーズ』とかいうイベントが開催中だ。一般客に解放された空中庭園にはオランダを象っているらしい風車小屋や、トルコ料理のドネルケバブを派手なパフォーマンスで売る出店、ブラジル国旗の翻る巨大な半球状ドームなどの模擬建造物が所狭しと設営されている。今度行われるサッカーの国際大会をサンセットテレビが独占中継するらしく、それに関連したイベントというわけらしい。平日でも人の多い空中庭園だが、今日はそれに輪をかけて家族連れなどで賑わっていた。

「あら、あなたは確か……桧愁院さん、でしたよね」

 背中にかけられた聞き覚えのある声に驚いて、俺は慌てて振り返る。

 近づいてきたのは、普通はテレビの中でしか見られない有名人、九珠藤立華その人だった。

 いつかのメイド女性を背後に連れているのは同じだが、今日は先日よりも派手な衣装。背中に羽根を背負った純白のドレスに身を包んでいる。確か歳は十七と、俺とひとつしか変わらない年齢のはずだが、その雰囲気は妙に大人びていて、俺はなぜか一歩だけ後退してしまった。

「どうかしました? 驚いた顔をしてますわよ。私が話しかけたのがそんなに驚きかしら?」

 にこりと、テレビの中と同じように柔和に微笑む。俺はそんな彼女に苦笑しつつ、

「ああ、驚きだよ。あんたはあざみにしか興味がないと思っていたからな」

「ふふっ、そんなことありませんわ。あなたにも興味がありますのよ……桧愁院くん?」

 含み笑いを漏らしつつ、さらに近づいてくる九珠藤立華。顔に張り付けている笑顔は、数秒前と寸分違わず同じはずなのに、妙に妖艶なものを感じてしまう。俺はこのラウンジの東側、九珠藤が現れた廊下の先を見ながら話題を変えることにした。

「しかし、番組の主役がこんなトコにいていいのか? 収録中だろ?」

 このフロア―スタジオ棟の十一階では、現在、BBBの準決勝戦が収録中のはずだ。警察が占領中のDスタジオフロアに代わり、この先にあるE4スタジオがBBBの新たな舞台となったらしく、あざみもそれに参加している。九珠藤が今着ている服も番組用の衣装だと思うが、当の本人である九珠藤は大して気にする様子もなく、

「私の出番はひとまず終わりましたから、収録に支障はありません。桧愁院くんこそ、どうしてこんなひと気のない場所へ? せっかくなら会場で見学をしていれば良いのに」

「ディレクターのおっさんに、部外者は立ち入り禁止って言われたんだよ。今日の収録はスタジオを広く使うから邪魔になるって……。いたくてここにいるわけじゃねえの」

「……君、さっきからお嬢様に対して、やけに態度が不躾ではないか?」

 俺の不遜な態度が気に入らなかったのか、九珠藤の背後に控えていたメイドが急に声を荒げて進み出てくる。それを九珠藤は、片手でやんわりと制した。

「いいのよ、桜良。お控えなさい」

「しかし、お嬢様……」

「こういう態度で接してくれる人って、私の周りにいなかったから新鮮だわ。そもそもお友達というのは、こうやってくだけた言葉遣いで話すものなのでしょう、ねえ?」

 悪戯っぽく笑って同意を求めてくる。その仕草が可憐と呼ぶのにぴったりだったので、俺は密かに目を逸らしつつ言葉を返した。

「あー、俺の態度が悪いのは勘弁してほしい。自覚はあるが、治らないんだ。教養が足りないせいか、相手がどんなヤツでもこんな態度になっちまう。犬に噛まれたと思って諦めてくれ」

「面白い表現ですわね。そういう意味では、瑞佳さんも同じだわ。瑞佳さんがあなたを連れている理由、ほんの少しだけ理解できた気がします」

「俺を連れている理由?」

 オウム返しに訊いてはみたが、九珠藤は可笑しそうに笑うだけで答えてはくれなかった。なんとなく馬鹿にされている気はしたが、確証がないので反論は控えておく。

「で、今日の決勝戦ってどんなゲーム内容なんだ? あんたの出番が先に終わったってことは、タイムアタック系だったんだろ?」

「あら、よくご存知ですわね。今日は『ピンポイントナンバー』という、二人一組でクイズと計算問題を早解きするゲームでしたわ。誰かと協力してやるゲームなんて初めてで、ちょっとだけドキドキしましたわね」

「二人一組? それじゃ、九珠藤の相手役ってもしかして……」

 俺が九珠藤の隣のメイドを見ると、彼女は少しだけ頬を赤らめてそっぽを向いた。

「……か、勘違いするな。私はお嬢様の影だ。お嬢様をお守りはしても、表舞台には立たない」

「相手は番組アシスタントの方が務めてくれましたわ。本当は桜良にオファーが来ていたのだけれど、桜良が勝手に断ってしまいまして。あーあ、まったくもって残念ですわ」

「お嬢様、お戯れを……」

 桜良は消え入りそうな声でそう答えたきり、目を伏せて黙ってしまう。意外とからかいがいのある性格っぽい。それを知りつつ話を振る九珠藤も、なかなかの悪戯好きのようだ。

「そう言えば、先ほどスタジオを出る前に少しだけ瑞佳さんにお声をかけたのですけど、あまり相手にしてくださいませんでしたわ。瑞佳さんって緊張するタイプなのかしら?」

 などと、小首を傾げながら訊いてくる九珠藤。俺は不覚にも吹き出してしまった。

「ははっ、あいつに限ってそりゃねーな。世界中の研究者が自宅に押しかけても、眉一つ動かさずに追っ払うような女だぜ。どうせいつもみたいに、意味不明な数式でも頭ン中で考えていたに違いないさ」

「世界中の研究者が……? それって、どういう意味ですの?」

 きょとんとした九珠藤の顔を見て、しまった、喋りすぎたと今更ながらに後悔する。……あざみは自分の過去に触れられるのをあまり善しとしないんだよな。

 しかし、覆水は盆に返らない。最初は当たり障りない説明でなんとか逃れようとした俺だったが、九珠藤はあざみをBBBに誘った時のような強引さで迫ってきたので、俺はほとんどの情報を引きずり出されてしまった。

「ミレニアム懸賞問題を解いた天才少女……。その話は聞いたことがありますわ。……そう、だから瑞佳あざみという名に何か引っかかるものを感じたのかもしれません」

 顎に指を添え、考え込むような仕草を見せる九珠藤立華。いつもなら、その愁いさえ感じさせるような挙動に目を奪われるところだろうが、今は罪悪感でそんな余裕もない。俺が口止めの言葉を吐こうとすると、それに先んじて九珠藤がわずかな笑みとともに口を開いた。

「ご心配なく。あなたから聞いたということは内緒にしておきますわ」

「そうして貰えると助かる。あいつ、俺にだけは容赦ないからさ」

「幼馴染みなんでしたっけね。ふふ、少し羨ましいですわ。……お付き合いはなさらないの?」

「馬鹿言うな。俺とあいつはそんなんじゃねーよ」

 などと、思わず吐き捨てたが……そんなんじゃなければ、一体なんだと言うのだろうか。

 ただの幼馴染み?

 それとも友達以上恋人未満?

 ……どれも違う気がする。

 あえて言うならば「人間以上、非人間未満」くらいが、なんだか適当なように思えた。

「なら、私が桧愁院くんの恋人に立候補してみようかしら」

「お、お嬢様ッ?」

 俺がぎょっとする以上のスピードで、九珠藤の背後から鋭いツッコミが入る。九珠藤はくすくすと口を手で抑えつつ、俺に近づいて片眼を瞑って見せた。

「良い反応でしたわね。桜良のこの反応を見られただけでも価値はあるわ」

「……お前、テレビで見るより悪女だな」

「よく言われますわ。ねえ桧愁院くん、1+1はいくつだと思います?」

 唐突にそんなことを言われる。何のことか分からず困惑するが、一応答えておく。

「……2だろ、そりゃ」

「そうかしら? 私は1+1=1だと思いますけど」

「何言ってんだ? どこをどうやったら答えが1になるんだよ」

 俺がそう言うと、九珠藤は近くのテーブルの上に置いてあった紙ナプキンと鉛筆を取り、おもむろに数式を書き始める。紙ナプキンはごわごわしていて、かなり書きづらそうではあったけれど、九珠藤の紡ぎ出す文字は何一つ歪むことなく整列していた。

 書かれた数式はこうだ。


  x=1としたとき、両端にxを掛けて、x^2=x

  さらに両端から1を引いて、x^2-1=x-1

  因数分解して、(x-1)(x+1)=x-1

  両端を(x-1)で割ると、(x+1)=1となり、

  x=1から、1+1=1


「……え、あれ? なんでだ?」

 我ながら間抜けな声を上げてしまう。俺は紙ナプキンを手に取り、何度か計算を繰り返してみるが、あまりにも単純な計算ゆえに間違いようがない。九珠藤が楽しげに言った。

「常識なんてね、あまりにも脆いものなのですわ。それは1+1も然りだし、この間の殺人事件も然りだし、――あなたと瑞佳さんの関係も然りだわ」

 九珠藤のその声は、あくまでも楽しげなはずなのに。

 笑顔を浮かべる九珠藤の表情に、俺はなぜか、得体の知れない脅威を感じてしまった。

「私がその常識に取って変わる未来も、もしかしたらあるかもしれない。そんな可能性を、数学は教えてくれますわ。だから、私は――」

「……九珠藤さーん! 次のカット撮るそうですー、会場にお戻りくださーい!」

 そこに飛び込んでくる女性の声。声のした方向に視線を向けると、いつぞやの女性AD、横井弓が手を振っているのが見えた。九珠藤は何かを吹っ切るように踵を返して、

「時間のようですわね。……そうだ、桧愁院くんもご一緒にいかが? もちろん、私と一緒にテレビに映ることはできませんけれど」

「あ……ああ、あとで行くよ。あんたと噂になるつもりはないからな」

 九珠藤は最後に一瞥の笑みを俺に向けると、メイドと共に歩いていった。俺は残された紙ナプキンを持ったまま、近くのソファに座り込む。いくつかの溜め息の後、もう一度紙ナプキンを頭上に持ち上げ、天井のライトに透かしながら黙読を繰り返した。


 ◇ ◇ 


「はい、これで本日の収録は終了です。出演者のみなさん、お疲れっしたーっ!」

 威勢の良い榛原ディレクターの声が響いて、E4スタジオにわっと緊張の切れた空気が充満した。

 俺はステージから降りてこちらに近づいてきたあざみに声をかける。

「お疲れさん。どうだった、初テレビは?」

「科学誌のインタビューに答えるよりかは幾分マシね。多少は楽しめたわ」

 多少は楽しめた、なんて珍しい台詞だ。表情こそいつもと変わらぬ仏頂面ではあるけれど、あざみがそう言うということは、そういうことなんだろう。俺がどう返事しようかと迷っていると、遅れてステージから降りてきたらしい金髪の娘があざみに声をかけてきた。

「やったね、十七番ちゃん。キミってばちょーすごかったヨ。ワタシはいいパートナーに恵まれまシタ。成績トップってことは、テレビにばっちし映っちゃったカナ?」

「お疲れ様でした、十一番さん。成績が良かったのはあなたの実力ですよ」

「そおかなー? でも、十七番ちゃんみたいに頭の良い人に会ったの、ホント初めてヨ」

 日本語のイントネーションがどうにもおかしい金髪さんは、頬を興奮で上気させつつあざみに握手を求めている。長い金髪に符合するような白い肌と高身長。間違いなく外国人だ。あざみが言うように、ふくよかな胸には十一と書かれたナンバープレートが張り付けられていた。

 握手を終えると、金髪さんは俺の存在に気付いたらしい。むふう、と口をネコみたいにいやらしくひん曲げて、あざみの耳に口を寄せた。

「あれれ? もしかして、十七番ちゃんのカレシィ?」

「いいえ違います。私の付き人です」

「誰が相撲取りの内弟子だ」

 金髪さんは「ふーん?」と灰色の瞳をぱちくりと瞬かせた後、俺の前に進み出て頭を九十度前に倒す。なんともまあ度の超えた会釈である。頭を戻した金髪さんはにへらと笑って、

「コンニチハ、ワタシはエミーリヤ・クラトフスキーです。十七番ちゃんのパートナーね」

「パートナー?」

「今のゲーム、二人一組だったのよ。そのときの相手になったのが彼女」

 ああ、そういやそんなゲームだって聞いていたな。俺は一つ咳払いをしてから口を開く。

「桧愁院冬夜だ。あざみが世話になったな、十一番ちゃん」

「あざみ? それが十七番ちゃんの名前なん?」

 十一番ちゃんの首が九十度傾いてあざみの顔を捉える。なんだ、互いにまだ自己紹介もしていなかったのか。あざみは頷いて、自分の名前を名乗った。

「瑞佳あざみです。高校一年生。よろしくね、クラフトスキーさん」

「ダー、スパシーバ。エミリーで良いヨ。ワタシもあざみって呼ぶからね」

「分かったわ。エミリーはロシア人? 歳は幾つなの?」

「そです、ロシアからの交換留学生だヨ。歳は十六。えっと、モスクワ大学の一年生カナ」

「大学生? マジかよ、また飛び級か!」

 俺が驚いていると、エミリーはまたにへらっと笑って、

「今は東京大学の一年生ですヨー」

「しかも図抜けてやがる!」

 脳みその格差社会にまたもや打ちのめされる俺だった。

「あっ、いたいた、みっちゃん! よかったよー、いや、実にヴェリグーだったよ!」

 と、次に現れたのは総監督こと榛原ディレクターだ。あざみは三白眼で榛原を睨む。

「榛原さん、みっちゃんって私のことですか」

「いやー、瑞佳ちゃんとエミっちゃんを組ませたボクも天才的ディレクションだけど、まさか絶対王者・九珠藤立華の参考記録を抜くとは思わなかった! こりゃ放送が楽しみだよ」

「え、お前ら……九珠藤立華の記録抜いたの?」

 俺は目を丸くしてあざみを見る。一方のあざみは事の重要性を理解していない様子らしく、

「抜いたけど? なんか問題あるの?」

「普通、九珠藤立華の記録っつーのは抜けないもんなんだよ。番組史上初なんじゃねえか?」

「そう! 番組史上初だよ! ていうか君たちなんなの揃いも揃って! 特に瑞佳ちゃん、なんで十二桁かける十二桁の計算を一瞬で解いちゃうワケ? 普通ありえないでしょ!」

「そうですか? どちらかというと、答えの二十四桁の数字をマーカーペンで書くほうが重労働でしたね。実際には、エミリーの日付計算問題の方が大変だったと思いますけど」

「ンー、でも、三六〇〇京秒前が何曜日かなんて、大して難しい問題じゃないヨー。うるう年が四年に一度あることだけ忘れなければ、二、三秒で考え付くでショ」

 ……こいつら、揃いも揃って人間じゃねえな。

 そりゃ相方が番組アシスタントだった九珠藤立華では、勝てるものも勝てないわけだ。

「本来ならUCLAの天才・金澤碧と、MGUモスクワ大学の天才・エミリーの二大選手がどこまで九珠藤立華に迫れるかっ! という構成にするつもりだったんだけどね。金澤ちゃんがあんなことになって一時はどうなるかと思ったけど、こりゃ瑞佳ちゃんのおかげで編集も大変だなあ!」

「……榛原さん、不謹慎ですよ」

 あざみに諭されて、榛原が自らの手で口を塞ぐ。エミリーが不思議そうに首を傾けた。

「かなざわチャン? って誰?」

「いいのいいの、こっちの話」

 あざみが事件の話を避けようとしたそのとき、視界の端、撮影会場の出入口で、ちょいちょいと手を振って俺たちを呼ぶ男の姿が現れた。……警視庁の耶俣刑事である。嫌な話とはタイミング良く続くものだ。

 俺とあざみは互いに目配せをし、所用があるからと榛原に断りを入れて立ち去ろうとする。会場の出入口に近づいたとき、エミリーの元気な声が俺たちの背中に届いた。

「あざみーっ! また次、決勝でネ!」

「うん。またね、エミリー」

 あざみは小さく手を振って、会場を後にした。


 ◇ ◇ 

 

 俺とあざみ、そして耶俣刑事の三人は、十一階から離れ、いつか来た七階・屋上庭園のカフェテリアへとやってくる。店内はカップルや家族連れで平時の五割増の混雑ぶりだが、幸いと言うかなんというか、イベントの出店と客を取り合っているおかげで満席までは至っていない。運良く見つけたボックス席に俺たちは陣取り、耶俣は三人分の飲み物を注文した。

「今日は相馬刑事は一緒じゃないんですか?」

「刑事サンのお仕事は、犯人を捕まえることッスからねえ」

 真っ黒いコーヒーに入れた砂糖をかき混ぜながら、耶俣は帽子の下で笑う。

「瑞佳サンが犯人には興味がない、なんて言っちゃったもんだから、犯人挙げようと意地になって走り回っているッスよ。素人に負けたまんまじゃ警察の威信にかかわるみたいです」

「殊勝な心がけですね。では、耶俣さんは?」

「最終的に事件が無事解決すれば、あとはどうでもいいッス」

 相馬刑事とは別の意味で個性的な刑事である。俺たちを呼んだ理由を耶俣に訊くと、耶俣はよれよれのジャケットの内ポケットから、緩慢な動きで黒い手帳を取り出した。

「まあ、一応の報告をね。えーと……瑞佳サンの推測どおり、D2スタジオのセット小屋は動かされた可能性が高くなりました。実況見分の結果、セットとステージの接地面に、わずかなズレの痕跡が発見されたそうです」

「小屋を持ち上げて、降ろした時ですね」

「他にも、セットの壁にそれらしい傷がいくつか。セットを持ち上げた完全な証拠とまではいきませんけど、裁判で立証するには十分な内容だと捜査本部でも太鼓判をもらったッス」

「おお、すげえじゃん。金一封モノかな」

 俺がおどけて言うが、耶俣は唇をへの字に曲げてあざみを見た。

「ですが、これは直接犯人を特定する手がかりにはなりません。凶器となったナイフも半年以上前に都内で購入された量産品ですし、正直、犯人につながる証拠は皆無ッス。ですから――」

「だから、私のところに来たんですか? あんな台詞を言った以上、何か思い当たることがあるんじゃないかって」

 耶俣が帽子を目深に被り、口の端を歪める。驚きを通り越して呆れたような態度だった。

「……瑞佳サンって、本当は預言者か何かなんじゃないですか? 勘、良すぎッスよ」

「勘じゃありませんよ。当然の帰結だと思います。……それに、私みたいな素人に頼っても良いんですか? 素人に負けると警察の威信にかかわるのでしょう?」

「犯人を教えてくれと言っているわけではありません。ヒントが欲しいだけですよ」

 最終的に事件が無事解決すれば、あとはどうでもいい――か。なるほど、良く言ったものだ。

 あざみは紅茶に一口を付けると、はっきりとした声で話を続けた。

「残念ですけれど、これ以上、特に何も思い浮かぶことはありません。私は金澤さんがどんな人物だったのか知りませんし、誰に恨みを買っていたのかも分かりません。犯人に至るための情報を、私はあまりにも持ち合わせていない。必然、犯人が分かるはずもないんです」

「……なら、金澤サンに関する情報を渡せば何か分かるかもしれないと?」

「そうかもしれませんが、そもそも私、金澤さんに興味がありませんから」

 耶俣が次の言葉を失う。……まあ、そりゃそうだろ。ここまで断言されちゃあな。

 あざみは席から立ち上がり、カフェ入口のショーウインドウに入っているカットケーキを見に行った。残された耶俣はがっくりと肩を落とし、俺はコーラにレモンを絞った。

「……僕、瑞佳サンに嫌われているんスかねえ」

「大丈夫だろ。あざみがああいう態度を取るのは、今に始まったことじゃない」

 耶俣は右腕で頬杖をついて、俺の顔を覗き込む。

「ねえ、桧愁院クン。瑞佳サンとは長いんでしょ? なんとか乗せる方法はないんスか?」

「無理無理、あいつは興味がないことにはとことん興味がないんだ。なんつっても、人生自体がノイズだと考えているような奴だからな。俺が何を言ったって変わんねーよ」

「ノイズ? どういう意味ッスか」

「簡単に言うと、いろいろ知りすぎちゃって、もう知る必要がないんだよ、あいつは」

「……あー、なるほど。なんか天才っぽい悩みですねえ」

 その意見には同意する。ノイズに感じちまうと言うことはつまり、齢十六歳にして人生の消化試合に突入しちまったと考えているわけだ。なんともババくさいヤツである。

「でも、学校ではミステリ研究部に所属しているんでしょ? ミス研部員なら普通、この手の事件にはあえて首を突っ込みたがるのがお決まりだと思うんスけど」

「それが普通なのかは知らんが、あざみは人数合わせで入部したに過ぎないぞ。五人いないと部として存続できないらしくて、成瀬の奴に強引にな。ちなみに俺も幽霊部員」

「そうなの? それじゃ、何になら興味があるって言うんです?」

「あえて言うなら、数学だろうな。あいつは世界のすべてが数字に見えると言う奇病持ちだ。下手をしたら、周囲にいる俺たちだって数字に見えているのかもしれない」

 そう、あいつは物事を数字でしか捉えない。俺が「居る」か「居ない」かを、1か0か、としか見ていない可能性だってある。

 そう考えれば、物事に興味が湧かなくなると言うのも納得だ。俺を俺として見ていないのであれば、そこにいるのは俺でなくても問題ないのだから。

「でも、桧愁院クンは特別じゃないッスか? だって、今日は瑞佳サンにお願いされて東京くんだりまで連れてこられたんでしょ。他人に興味がないなら、BBBの出演者でもない君を誘ったりしないんじゃない?」

「さてね。俺とあざみは腐れ縁みたいなもんだ。ライオンにはシッポが付いていないと格好が付かないだろ? あざみがライオンだとしたら、俺はシッポってわけだ」

 ふむ、と耶俣は考え込む。そこで「そんなはずはないッスよ!」とか言ってくれれば、俺の耶俣刑事に対する好感度は音を鳴らすところなのだが、現実はそうもいかないらしい。

 あざみにとっての俺とは、一体どういう存在なのか。

 そんな命題、考える方が馬鹿らしいのだ。

 あざみの人生がノイズである以上、俺の存在もまた、ノイズなのだろうから。

「……そうッスかねえ。僕的には、男女の幼馴染みは互いに惹かれ合うってのが鉄板シナリオなんスけど。ちょっと設定が特殊すぎるのがいけないんスかね」

「それ、どこの出版社のシナリオだよ。少女マンガ読んでんじゃないすか、耶俣さん」

「桧愁院クン、いっそのこと、瑞佳サンと付き合っちゃうってのはどうッスか。瑞佳サンの人生観が変わるかもしれないッスよ」

「ハッ、それこそ馬鹿言え、だ。……第一、あいつに釣り合うような男なんて――」

 俺は耶俣の提案を笑い飛ばしつつ、コップの中身を一気に喉の奥へと流し込んだ。

「この世に一人だっているもんかよ」


 ◇ ◇ 


 休みが明けて四日後。瑞佳あざみの一週間の中で唯一の楽しみである金曜の昼がやってきたというのに、今日は珍しく文芸部室のテレビは消灯されたままだった。理由を訊いてみる。

「……サッカーの試合で潰れたのよ。理不尽ったらないわ」

「そうか、そりゃ残念だな。では仕方ない、今日はペンギンに代わってサッカーを……」

「ダメ」

「おい、リモコン隠すな! 今日はイタリア戦なんだぞ、なんで観ちゃ駄目なんだよ!」

「ペンペラーの前回放送を脳内再生するのに、サッカーのテレビ中継は騒がしすぎるわ」

 そんな無茶苦茶な理由に負けて、俺の昼休みは無言で購買のパンにかじりつく事に従事した。

 ペンペラーが休みなのは知っていたんだ。それを見越して昼飯を買い、文芸部室のテレビを独占しつつ昼食を、と考えていたのだが……まさか、そんな良く分からない理由でその野望が潰えるとは思わなかった。これなら学食で他チャンネルのテレビを観ている方が遥かにマシだ。

 普段のあざみは、恐ろしく無口である。

 狭い文芸部室で二人きり、テーブルを挟んで黙々と昼飯をかっ込む光景は、思っている以上に青春とは程遠い雰囲気で、俺のテンションはストップ安を記録していた。

「あー……その後、耶俣さんから、なんか連絡は?」

 重い空気に負けて、どうでもいい話題を振ってみる。あざみは箸を止めずに口を開いた。

「別に何も。捜査協力の件は諦めてくれたみたいだね」

「そっか。んじゃ、当面の面倒事はBBBの出演くらいなわけだ」

「……あんた、嫌がらせて言ってるでしょう?」

 気づくと、あざみがジト目で俺を睨んでいた。今の台詞のどこに睨まれるような要素があったのか。俺はパンの最後の欠片を口の中に放り込みながら、話の続きを促してみる。

「決勝の収録は明後日の日曜だよな。もうどんなゲームなのか内容訊いたのか?」

「収録は明後日ではなくて、明日よ。正確には、土曜日曜の二日間だけどね」

「二日間?」

 俺が顔を上げると、あざみは弁当のふたを閉めながら首肯した。

「昨日メールが来たの。決勝戦は『メモリーチェイン』っていう、事前に暗記した単語でしりとりをするようなゲームらしいわ。土曜日に記憶する単語が発表されて、翌日曜日にしりとり合戦。ここで最後まで残った挑戦者が、九珠藤立華との最終戦に進めるみたい」

「決勝戦がしりとりねえ……随分と気の抜けそうなゲームだな」

「そうね。しりとりに使える単語は、例えば熱帯魚の名前五〇〇種限定とからしいから、思うより早く日曜日の収録は終わりそうだわ」

「……え、熱帯魚の種類? 五〇〇限定?」

 ぎょっとして俺が訊くと、あざみはティーポットにお湯を注ぎながら淡々と答える。

「思いつくだけでもネオンテトラとかエンゼルフィッシュとかグッピーとか、語尾が限定される名前ばかりでしょう? 日曜日の本番では単語表を観るとかのカンニングはできないし、純粋な暗記力勝負と言うよりは、少ない語頭枠の取り合いになると思う。ある意味クジ運よね」

「クジ運って……熱帯魚の名前ばかり五〇〇も覚えるのか? そんなの無……」

 ……理、ということはないか。

 なんたって、コイツは部室の本棚の本の名前を全種類、どこにあるかも含めて全部覚えるような女だ。五〇〇くらいは訳もないのかもしれない。

「でも当日は熱帯魚じゃなくて、微生物の名前六八〇〇種かもしれないし、鳥の名前一万種かもしれないわ。とにかく、明日スタジオに行ってお題を確かめるしかないわね」

「さすがに決勝ともなると人外魔境だな……一般人が参加できるレベルじゃないだろ」

「榛原さんが言っていたけど、注目選手は一般応募じゃなくて、ほとんどオファーなんだって」

 まあそうだろうと納得する。仮にも熱い頭脳バトルが売りの番組で、成瀬や守村のような凡百が九珠藤立華の挑戦者になったとあっては、頭脳バトルもだだ滑りだ。だからこそ金澤碧やエミーリヤ・クラフトスキーのような選手を連れてきて、当て馬にするのだろう。

「でも、最近は九珠藤立華が強すぎてマンネリ気味だったから、今回は九珠藤立華に引けを取らない選手を本気で連れて来たって話だよ。榛原さん、視聴率回復に躍起みたい」

「ふーん……って待てよ。金澤もエミリーも、榛原がオファーした選手なんだよな?」

「そうみたいだね。榛原さんの脳内シナリオでは、九珠藤立華を加えた三人による、三つ巴の頭脳バトルを期待していたみたいだけど……あ、冬夜も紅茶飲む?」

 俺が頷いたのを見て、あざみは自分専用のカップの他、テーブルに置いた紙コップの中にも琥珀色の液体を注いでいく。紙コップの隣にテレビのリモコンが置いてあるのを俺は横目で確認しつつ、

「ということは、だ。……俺、金澤を殺した犯人が誰か、分かったかもしれないぜ?」

「え?」

 あざみは注ぎ終わったティーポットを持ったまま、驚きの表情を俺に向けた。俺は椅子から立ち上がり、テーブルを回り込むようにしてあざみの元へと近づいていく。

「俺はずっと気になっていたんだ。……なぜ犯人は外ではなく、わざわざ撮影の日にテレビ局内で犯行に及んだのか? それは、金澤がテレビ局に必ずやってくることをあらかじめ知っていたからだ。つまり、金澤をオファーした張本人である榛原こそが犯人――!」

「馬鹿ね。こんな事件が起きちゃったら、下手すれば番組存続の危機でしょ。はっきり言って、番組の中心人物である九珠藤立華や榛原ディレクターにはデメリットしかないのよ」

 呆れたような表情を作ったあざみは、近づいた俺に紙コップを渡そうと手を伸ばしてくる。

「犯人を推理したいのなら、やはり動機の面から考えるしかないのよ。だから、私たちには推理は不可能。警察が金澤さんの人となりを調べ上げて、隠されたミッシングリンクを解明してもらうしか手はないと言える。今の私たちでは、金澤さんの事件を考えるだけ無益だわ」

「うーん、そうか。なかなか難しい……なっと!」

 俺は紙コップを受け取るふりをしながら、あざみの伸ばした手の横をするりと抜けて、テーブルの上のリモコンを素早く拾い上げた。あざみがパイプ椅子を鳴らして立ち上がる。

「ちょっと! 駄目だって言ってんでしょ!」

「いいじゃん、昼休み終わるまであと十数分しかないんだし。途中経過見るだけだから」

 俺は自分の椅子へと戻り、リモコンの電源ボタンに手を掛ける。あざみはなおも追い縋り、

「駄目よ。ペンペラーがない日はテレビを点けないって私の中のルールが――あっ?」

 そのとき、きっと、テーブルの脚か何かに引っかかったのだろう。

 突然あざみの身体がバランスを失い、こちらに倒れ込んでくるのは一瞬だった。

 どたんばたんと、パイプ椅子の転がる音。

 俺の視界は反転し、背中を強く床に打ち付けたことで目の前が真っ暗になるが、自分の身体にのしかかった柔らかな重みを感じて、逆に俺のまなこは目蓋を持ち上げる作業に没頭された。

「痛ったあ……」

 あざみの顔が、俺の視界のすぐ前にある。

 俺たちはただでさえ埃っぽい部屋で、埃を空中にまき散らしながら、折り重なるように倒れていた。

 こいつ、やっぱり……胸、ねえな。

「冬夜、大丈夫? 頭とか打たなかった?」

 そのままの体制で、俺の額に手を添えてくる。ひんやりと冷たい感触。あざみの華奢な身体は、まるで羽のように重みを感じない。睫毛の長さが分かるほど、顔と顔は接近していた。

 ――ああ、言っておくが。俺は高校一年生である。

 第二次性徴期はとうのとっくに突入しているし、彼女が欲しいと思った数は数えきれないほどだ。

 だから、いかに人間離れしたこいつが相手であっても、男とは違う構造の身体が密着し、俺の知らない匂いを放ち、しかもそれが誰もが認めるほどの美人とあれば意識しないはずがない。

 ……だというのに、どうだよ。

「あ、テーブルの上のお茶はこぼれなかったみたい。よかったあ」

 この美少女の形をした生物は、何一つ、俺と同じ心理を感じてはいないようだった。

「っとに、あんたが無理やりリモコンなんて取らなければ……ああっ?」

「な、何だ今度は、天変地異でも起きたか」

 あざみは突然俺の身体をまさぐって、制服のポケットから一枚の紙を抜き取る。床にぺたんと座り込んだまま、あざみは幾重にも折り畳まれていたその紙を広げると、そこに書かれていた数行の文字列を目の当たりにした。

「あ……それ、あん時の……」

 九珠藤立華がサンセットテレビで書いた、1+1=1の紙ナプキンだ。

 あの日以来、なぜだかこの数式証明が気になって、暇な時にたびたび見返すためポケットに忍ばせていたのだ。

 あざみは数秒だけその数式に目を通すと、膝の上に置いて俺を見た。

「なにこれ。ヘンな数式」

「だ……だろ? でも、筋は通っているんだよ。おかしいよな、1+1=1が証明できちまうなんてさ」

「筋は通っていないわ。この数式は、決定的に間違っている」

「何?」

 俺は慌てて床に座り直し、あざみの膝の上に拡げられている数式を再び見る。鉛筆で書かれた内容に変化はなく、俺は顔に疑問符を貼り付けてあざみに迫った。

「これのどこが間違っているんだよ?」

「ここ。両端を(x-1)で割ると、ってところ。ここだけが矛盾しているわ」

「矛盾って……どういうことだ?」

「忘れたの? x=1なんだよ。(x-1)に x=1を代入したら、1-1になって答えはゼロ。

(x+1)÷0=(x-1)÷0となって、1+1=1は成り立たないのよ」

「あ、そうか……2÷0=0÷0だもんな。つーか、なんか頭痛くなる計算だな、これ」

「そうね。この2÷0=0÷0には、数学基礎のありとあらゆる矛盾が詰まっている。これほど胸糞悪くなる計算式はないわ」

 あざみが眉をひそめて数式を見下ろしている。俺は面倒なことになりそうな予感をしつつも、一応そのココロを訊いてみた。

「簡単なことよ。2÷0の答えは存在しないし、0÷0の答えは無限にある。これがイコールで結ばれているのだから、それ自体が大きなパラドクスを内包しているわけよ」

「2÷0の答えは存在しなくて、0÷0の答えは無限にある……? 両方ともゼロで割ったら、単純にゼロになるだけじゃないのか?」

「違うわ。……数学の大前提として、あらゆる数はゼロで割れないという常識がある。例えば2÷0=αを、0×α=2と変換してみると分かりやすいわ。この αに入る数字は何だと思う?」

「いや……無理だ。αに入る数字は存在しない。何を入れたとしても、片方がゼロである以上、答えが2になるなんてことはありえないよな。だから『答えは存在しない』か……」

「では次に、0÷0=βを考えてみようか。先ほどと同じように0×β=0と変換した時、βに入る数字は、何?」

 こちらは逆に、βにはどんな数字でも入力できる。0×5=0でも良いし、0×100=0でも、もちろんアリだ。これが『答えは無限にある』の意味。ゼロの位置が少し違うだけで、まったく異なる解が現れるこの数式に、俺はなぜか少しだけそら恐ろしさを感じた。

「分かった? これがパラドクスの正体。絶対に壊せない常識の壁よ。これを堂々と数式に書いたのだから、これを書いた人間はよほどの常識外れか、よほどの天才のどちらかね」

 あざみのそれを聞いた瞬間……俺は、とっさに九珠藤立華の台詞を思い出していた。


 ――常識なんてね、あまりにも脆いものなのですわ。

 ――私がその常識に取って変わる未来も、もしかしたらあるかもしれない。そんな可能性を、数学は教えてくれますわ。だから、私は――

 

「……九珠藤立華ね」

 あざみの突然の低い声に、俺は心底驚いて飛び上がってしまう。あざみは数式の書かれた紙ナプキンを力一杯握りしめながら、俺を射抜くような鋭い目で睨み付けた。

「やっぱそうなんだ。この紙ナプキン、サンセットテレビのロゴが入っているもの。字も女性的で、私の知らない筆跡だ。……ねえ、なんであんた、こんなの持っているワケ?」

「いや……そんなの俺が知りてえよ。たまたま会ったときに渡されただけだ。持ち歩いていたのも、ただ1+1=1が気になっていただけで……」

 あざみの睥睨は続く。……何で俺、こいつに怒られているんだろう。すっ転んで激突されて、痛い思いしたのは俺の方だっつーのに。だが、あざみの迫力の前に俺はそう反論できない。

 あざみは少しだけ睨む勢いを弱くして、覗き込むように俺を見直した。

「冬夜、九珠藤立華のこと、どう思ってるの?」

「え? どう思うって……なんだよ、そりゃ」

 そのとき、ちょうどのタイミングで予鈴の鐘が鳴る。昼休み終了五分前だ。

 あざみは俺の答えを待たずに立ち上がる。そのとき、紙ナプキンをスカートのポケットに乱暴に突っ込んだ。

「これは没収します。これ以上引っ掻き回されたら、たまらないもの」

「……なあ。お前、何でそんなに怒ってんだよ」

 俺の言葉に、あざみはキッときつい一瞥を返してくる。テーブルの上のカップや弁当箱を手早く片付けバッグにしまうと、あざみは文芸部室の出口に向かって歩き出した。

「あんたも早く立ちなさい。五時間目に遅れるわよ。それと――」

 部室の引き戸に手を掛けたとき、ちらりと名残惜しそうにこちらを振り返って、こう言った。

「明日の収録は、私一人で行くわ」


 ◇ ◇ 


「――つまり、瑞佳にそう言われて、今日は部活に出てくる気になったのか?」

 ユニフォームの上にビブスを羽織った天川直樹の言葉に、俺はこくりと頷いた。

「だって、暇じゃん」

「お前、完全にレギュラー獲る気ないよな」

 よく晴れた土曜日の午後、葉月高のサッカーグラウンドから少し離れた木陰の下で、天川はがっくりと肩を落とした。

 自分でも忘れそうになっていたが、毎週土曜日の午後は葉月幕浜高校男子サッカー部の練習日だ。強豪校が多いと言われる千葉県のご多分に漏れず、葉月高もそれなりに強い。ピッチ上では二年生を中心としたレギュラー陣が二手に分かれての紅白戦を行っており、一年生を含むサブメンバーはその応援に精を出している。辺りには勇ましい声の掛け合いと、少なくない見物客の声援が響いていた。

「三年生が引退した今、俺たち一年にだってレギュラーのチャンスはあるってのに……」

 そう言う天川の着ているビブスの色は、準レギュラーが付けることを許された黄緑色だ。こいつはテストの成績が学年十位でありながら、サッカーの成績も学年十位以内という恵まれた男なのである。あざみほどは勘弁だが、こいつくらいの非凡さには俺も恵まれたいものだった。

「おい、口に出ているぞ。ろくに勉強も練習もしない奴が何を言ってる」

「知らんのか天川。努力を持続させるのも、結果に反映できるのも立派な才能なんだぞ」

「お前がそんなんだから、嫁に嫌われたんじゃないのか?」

「……あざみは嫁じゃねーっつの」

 俺の抗議を受け流しつつ、天川はピッチの向こうにあるスコアボードの時計を見上げ、それからピッチとは反対方向となる東京湾の方角に視線を投げた。

「そろそろBBBの収録が始まるな」

 午後二時……決勝戦の一日目、記憶問題の出題がされる時間だ。あざみに聞いた話によると、記憶できる時間は三時間。絵と名前のついたプラカードがスタジオの壁じゅうに貼り出され、決勝に残った挑戦者六名と九珠藤立華の計七名が、同時に見て覚えることになるらしい。

 ちなみに本番である二日目は午前十時から行われ、やはり九珠藤立華を加えた七人全員で対戦する。そのとき、九珠藤の結果如何にかかわらず、挑戦者のうち五名が失格になった時点で優勝者が決定。翌週の絶対王者決定戦にて九珠藤立華と一騎打ち、という流れになるそうだ。

「……瑞佳、お前と喧嘩したせいで調子落としてなければいいけどな」

 天川が半分皮肉を込めた顔で言う。俺は東京湾に背を向け、ピッチの上を漠然と眺めた。

「いらん心配だろ。あいつは元々、自分ひとりで完結している奴だ。俺と喧嘩しようが何をしようが、あいつの調子が変わるなんてことはないんだよ」

「そうなのか? ……にしても、あの瑞佳が腹を立てるなんて珍しいな。正直俺は、お前の言うように、いつでも沈着冷静な人間なんだと思っていたよ。まあ、その方が人間らしくて親近感も持てるというものだが……桧愁院、嫁に一度や二度怒られたくらいで落ち込むな」

 鼻で笑いつつ、俺の肩に手を置いてくる天川。他人事だと思ってからかっているらしい。まったく友達甲斐のない奴である。それならば、と俺は開き直り、天川に訊いてみた。

「なあ……正直なところ、どう思う? なんで今話した流れであざみが怒るんだ? はっきり言って、俺にはまったく心当たりがねえわけよ、あいつが怒るポイントにさ」

「なんだ桧愁院……そんなことも分かっていなかったのか?」

 訳知り顔の天川が、眼鏡の奥を光らせる。俺は奴の胸ぐらに食いついて、

「分かるのか? それって一体?」

 天川は数秒ほどもったいぶるように時間を置いて、そして答えた。

「分からん」

「分からんのかよ!」

 胸ぐらをぐらぐら揺する俺。しかし天川はあくまで皮肉めいた表情を変えず、

「瑞佳と一番付き合いの長いお前が分からないのに、俺が分かるはずがないだろう。もしくは、付き合いが長いはずなのに分からないお前自身に、瑞佳は怒っているのかもしれないな」

「あー、それは……」

 ……あるかもしんない。

 ごくたまにだが、あいつは「相手も分かっている」ことを前提に話を進めるときがある。

 普段の授業なんかが最たる例だ。まだ習ってもいない公式を平気で使ったり、どこぞの学会で発表されたばかりの論文を取り上げたり。今は多少その傾向も収まっているが、子どもの頃なんかはそのせいで、相手との会話がかなり酷いことになることが度々あった。

 当然、その「相手」に当てはまる実例の数は、十二年も付き合いのある俺がトップなわけで。

 俺の鈍感さを、あいつが常々嘆いていることは知っていた。勉強なんてできなくて良いから、せめて会話は成立するようになってほしいと。他人に極力興味を持たないあいつが、唯一俺に向ける期待値がここなのだ。

 だから、これは無言の出題なのかもしれない。みなまで言わず、むしろ俺が率先して気づくべきだという回りくどい期待感の表れ。その可能性も捨てきれない……と言えなくもない。

「とにかく、瑞佳の怒った原因を探るしかないな。本人に訊けないのなら、今までの行動や怒られた時の状況を思い返してみるとか。今まで気づかなかったことに気づけるかもしれない」

「今まで気づけなかったこと、ねえ」

 俺は昨日の会話を思い出そうとするが、あざみが抱き付いてきたことと、1+1=1がスカートのポケットの中に詰め込まれたことくらいしか満足に浮かんでこない。その原因は何だろうと探るより早く、足元にサッカーボールが転がってきたので思考は解除されてしまった。

「……まあ、いいか。あざみもBBBで忙しいだろうし、また今度で」

「さすが桧愁院、考えるのを放棄するのが早いな」

 本日何度目かの皮肉が炸裂する。俺は天川に笑いかけてから、ボールをピッチで待つ先輩方へと蹴り返してやった。

 ……そう。俺は下から数えて学年十位の男なんだ。上から数えて学年十位の男とは思考回路が違うし、人類の上位に属しているであろう瑞佳あざみなんかとは比べようもない。

 今の俺にできることは、時間をかけてあざみのご機嫌を取ることくらいだろう。

 そうすれば、怒っていた過去なんていずれは風化してくれるだろうさ。


 ◇ ◇ 


 そんなこんなで土曜日の陽は沈み、午後五時になったところで大雨が降り出したのでサッカー部の練習は解散。五時半を過ぎた頃に、あざみから「収録終わった」という短い内容のメールが俺のスマホに届いただけで、それ以上の進展は何もなかった。

 俺は自宅のベッドに寝っころがりながら「お疲れ様」とメールを打ち、その後ろに「明日は付いて行かなくてもいいか?」と書いた一行を消してから、送信ボタンを押した。

 五分ほど待ったが返信がなかったので、俺は携帯を枕の横に放り投げて眼をつむった。家の壁を叩きつける雨のリズムに誘われて、眠気が全身を覆っていく感覚がする。……やっぱ久しぶりのサッカー練習が堪えたか。

 やれやれ、まったく。――ここ数週間は珍しいことの連続だぜ。

 殺人事件に、BBBに、九珠藤立華。

 普通の人生を歩んでいれば関わらないものばかりだ。

 だから、こんなにも体力的にも精神的にも擦り減っちまう。

 だが、こんな日々が長く続くはずもない。BBBの収録はそろそろ終わりだし、殺人事件だって俺たちの手を離れている。もう二週間もすればいつもの退屈な日々に逆戻りだ。

 退屈な日々が良いとは言わないけれど、非退屈な日々が続けば退屈が恋しくなる。

 非日常的なものなんて、瑞佳あざみだけで十分なんだ。

 だから、俺は日常に還ることを心から願う。

 あざみと、友人たちと、ただひたすら退屈に……過ぎゆく日々を。


 ◇ ◇ 


 翌日の早朝、なかなか鳴り止まない携帯の呼び出し音にたたき起こされ、俺は寝ぼけまなこを擦りながら通話ボタンを操作した。

「ふぁい、誰っすか?」

『あ、やっと出た! 僕です、耶俣です。桧愁院クン、起きてますか?』

「起きてねえっす……。なんで耶俣さん、俺の番号知ってんの?」

『この間、交換したばかりじゃないッスか! って、そんなのはどうでもいいッス。大変です、事件ですよ。また殺人事件。BBBの関係者が殺されたんスよ!』

「何? 殺され……って、え? 殺人?」

 朝方のまどろみに溶かされ、錆びついていた脳が、けたたましく回転を始める音を聴く。

 BBBの関係者。九珠藤立華、榛原ディレクター、横井AD……そして、瑞佳あざみ。

 様々な人の顔が脳裏をよぎり、俺の携帯を握る手は次第に握力を増していった。

「だ、誰なんだ? その、殺された人間ってのはよ!」

『番組出演者です。ええっと、名前は……』

 ごそごそと電話の向こうで何かを取り出す音がする。手帳でも引っ張り出しているのか。数秒でノイズ音は消え、切羽詰まった耶俣刑事の声が携帯を通して聞こえてきた。

『エミーリヤ・クラトフスキー、十六歳女性。ロシアからの留学生で、BBB決勝戦出場者のひとりです。背中をナイフで一突きにされている状況は、この前の殺人事件と同じッス』

 ――エミーリヤ、だって?

 俺は、目を大きく見開いた。

『分かります? 彼女は準決勝で、瑞佳サンのパートナーを務めていた方です。瑞佳サンにも連絡を取りたいんスけど、携帯の番号を知らないから教えてほしくって……。桧愁院クン? 聞こえているッスか? 桧愁院クン?』

「……ああ、聞こえている。聞こえているよ、耶俣さん」

 俺はベッドに座り直し、携帯を握りしめたまま、もう片方の手で顔を覆った。

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