第二章 遊戯と二人の天才


「ねえねえ! ちょっと待って、待ってってば!」

 背中にかけられた声に反応して、あざみが振り向く。

 小走りで近づいてきていたのは、先ほどまでD2スタジオにいたBBBのディレクター、榛原裕介だった。

「どうしたんですか、ディレクターさん。そんなに息を切らせて……」

「いやっ、君さあ! スゴいねさっきの! さすがのボクも感心しちゃったんだな、コレが!」

「え、……何の話です?」

 息を弾ませつつ迫る男の顔に、あざみは一歩後退して俺の肩をバリケード代わりにした。

 ここはサンセットテレビ七階、屋上庭園に設けられたオープンカフェだ。

 屋上庭園はその名のとおり、人工的な緑地帯と広大なイベントスペースが青天井の下にある場所で、西のオフィス棟と東のスタジオ棟を繋ぐペデストリアンデッキとしての機能もある。そのため、今日は曇天にもかかわらず人通りはそれなりだ。逆に言えば、これほど多くの人間がテレビ局で働いているという証左であり、俺は改めてここが特殊な場所であることを思い出してしまう。

 この場所で待っているよう言い残した耶俣刑事と相馬刑事は、ほんの数分前に忙しく来た道を引き返していった。どうやら、先ほどあざみが示した密室の侵入方法を本当に犯人が実行したのか、鑑識を呼んで実況見分をするらしい。耶俣の車でここまで来ていた俺たちは、耶俣が戻ってくるまでこの場で茶を飲みつつ待機中、というわけだった。

「何の話って、もう、トボけちゃって! 警察も解けなかった密室のナゾをズバリ解明しちゃったじゃない。いやあ、久しぶりに興奮したね! キャメラ回しとくべきだったなあ!」

 榛原はひとり身悶えつつ、勝手にまくし立てている。キモいことこの上ない。ここがテレビ局でなければ即刻通報するところだ。あざみはぶすったれた顔のまま、一応の返事する。

「はあ、そうですか。それはご愁傷様です」

「もしかしてキミたちって、警察関係者……のワケないよねえ、どう見ても未成年だもの。するとアレか、少年探偵団? あ、古いか! 他局で言えば金田一少年ってトコロかな?」

「……ただの高校生ですよ。警察関係でも、探偵でも、芸能人でもありません」

「するってーと、モノホンのシロウトさん? いやーこれは、ますます気に入った! えっと、名前は確か……」

「瑞佳あざみです。で、こっちが桧愁院冬夜。あの、私たちに何かご用件があったのでは?」

 いつまでも呼び止めた理由を言わない榛原ディレクターに、そろそろ痺れを切らしたらしい。あざみの刺すような視線を受けて、ようやく榛原は本題を切り出した。

「君のような人材を求めていたんだよ。どう? 今からでもボクの番組に出てみない?」

「出てみないって……ひょっとして、BBBにですか?」

「そう! 絶対王者・九珠藤立華に挑むは天才高校生・瑞佳あざみ! いいねコレ、ラテ欄にびしっと映えるナイスキャッチー。視聴率もどかんと三十パー狙えると思うんだけどな!」

 虚空に虚構の新聞を広げ、ばんっと掌を叩きつける榛原ディレクター。はたから見れば、ちょっとした不審者だ。あざみは不快そうに眉を顰めながらも口を開く。

「しかし、BBBの収録は事件のあった日に終わったのでは?」

「いやいや、あの日はまだ一回戦だよ。あと二回、準決勝と決勝があって、決勝に残った素人王者が九珠藤立華に挑むってワケ。つまり収録はあと三回。まだまだテレビに映るチャンスはあるってコト」

「私は一回戦に出てもいないじゃないですか。急に準決勝から出られるものなんですか?」

 すると榛原は、脂ぎった顔をこちらに近づけ、声を潜めて耳打ちするように言う。

「大丈夫大丈夫、実は一枠、金澤さんの分が空いちゃったからね。そこは編集でなんとかするし、一回戦の様子はぶっちゃけダイジェストで流しちゃうから、モーマンタイなのよ」

「いや、それ無問題じゃねえし。つーか、番組放送中止になんねえのか、こういう場合は」

「んん? そういえば君は誰? ここは関係者以外立ち入り禁止だよ」

「首絞めたろかオッサン」

 あざみとは俺の肩越しに話をしていたくせに、今まで俺のことなど完全に眼中になかった榛原は、そこで初めてためつすがめつ俺の顔を見て、鼻にかかった笑いを漏らした。

「ああ、ダメダメ。テレビってそう簡単に出れるもんじゃないんだよ。特に今どき君みたいな茶髪クンは流行らないし、なによりジャニ系以外の男のコはなあ。ちょっとNGっていうか」

 あざみには簡単にオファーしたくせに、何とも都合の良いオッサンである。こういう人間の話は早々に切り上げるのが一番と、あざみは俺の肩からひょいと顔を出して答えた。

「申し訳ありませんけど、私はテレビに出る気は一切ありませんので。お断りします」

「えーっ、そんなこと言わないでさあ。もしもアレなら、どこかの芸能事務所も紹介しちゃうよ? 君みたいに可愛くて頭の良い子、これからの芸能界に必要だと思うしさ!」

「あの……話聞いてます?」

「そうだ、BBB以外の番組にも出しちゃうよ。そういや君、ペンペラー好きなんだっけ?」

 ぴく、とあざみの肩が震えたのが感じられた。俺は悪い予感に頭が痛くなる。

「ボク、ペンペラーのプロデューサーと仲良いんだよねえ。BBBと収録日が同じになることも多いし、ひょっとしたらペン様とお近づきになれちゃったりして! いい条件っしょ?」

「それは……ちょっと、考えますね……」

「おい、考えるな」

 俺はあざみの首根っこを掴んで、榛原から五メートルほど退避する。どうもここに居ては危険だ。俺は榛原に聞こえないよう、あざみに小声で囁いた。

「このオッサン、おまえがイエスって答えるまで付きまとう気だぞ。移動した方が良くないか」

「だね。ほとぼりが冷めるまで、ちょっと別の場所で――」

「……あら、総監督じゃありませんの。こんなところで、どうかされまして?」

 響き渡ったその声に、他のオープンカフェの客が急にざわめく。声のした方向に振り返ると、そこには白と赤のドレスに身を包んだ女性と、黒のメイド服を着た女性の二人組が立っていた。

 特に、そのドレス姿の女性には見覚えがある。整った目鼻立ちに輪郭の小さい顔、縦ロールを巻いた明るい色の長髪は、お嬢様然とした豪奢なドレスにあまりに似合い過ぎている。

 何より、オーラとでも言うのだろうか、彼女を包む空気自体に独特の雰囲気があり、そこにいるだけで花が香り立つような存在感を与えてくる彼女は、まさしくアイドルの名を冠するに相応しい風貌を兼ね備えていた。

「おーう、立華ちゃん。おはようちゃーん!」

 などと軽快に手を振る榛原ディレクター。その言葉で、俺はようやく彼女の名を認識した。

 彼女は、九珠藤立華。

 BBBの絶対王者にして、今売出し中のトップアイドルである。


 ◇ ◇ 

 

 九珠藤立華を引きつれて、屋外のオープンカフェから、屋内のカフェテリアへと移動した。ドレス姿の九珠藤と話すには、屋上庭園はあまりにも人が多すぎたことが理由だった。

 注文を取りに来たついでにサインをねだった女店員に九珠藤が快く応じると、女店員はきゃあきゃあ言いながらカウンターの中へと入っていった。カフェ内はパーティションである程度区切られているとはいえ、人の眼を遮るには限界がある。それでも人がなだれ込んで来ないのは、ひとえにテーブルから離れて立ち、眼光鋭く周囲を警戒しているメイド服女性の威圧感に他ならなかった。

「こうでもしないと、落ち着いて紅茶も飲めませんのでね。気苦労をおかけしますわ」

「ああ、いえ……」

 珍しく、あざみが委縮したような声で答える。さすがに「そんな格好のくせに目立ちたくないとか本気で思ってんのか」とは芸能人相手に言えなかったようだ。運ばれてきた紅茶に砂糖を一つ淹れ、一口付けた九珠藤は、改めて俺たちに向き直った。

「自己紹介が遅れました。九珠藤立華と申します。もしかしたら、ご存知かもしれませんけど」

「あ、私は瑞佳あざみです。隣は同級生の桧愁院冬夜。高校生です。お噂はかねがね……」

「あら、噂って、どんな噂ですの?」

 九珠藤が軽く笑って、あざみを見る。その笑顔はテレビで見るよりずっと華やかで、怖いぐらいに魅力的だ。

 あざみは一瞬だけ右上の虚空に視線を投げると、すぐに微笑みを返した。

「すいません嘘です。実は私、テレビを全然観ないもので。あなたが誰か知りません」

「うえッ?」

「ちょっ!」

「……まあ」

 榛原、俺、九珠藤と、三者三様の反応。中でも一番驚いたらしい榛原は、立ち上がって口角泡を飛ばした。

「しッ、知らないの? 九珠藤立華だよ? CM十本、番組レギュラー六本、CD売上げ百万枚の今をときめくスーパーマルチタレント! 天才系頭脳派アイドル九珠藤立華を?」

「ごめんなさい、新聞も雑誌も読まないので……。ペンペラーは好きで観るんですけど」

「あら、私もペンペラーは好きですわ。あのクラインの壺みたいな体型が愛らしいですのよね」

「……気が合いますね」

 あざみが少しだけ素の笑みを浮かべる。九珠藤立華が思っていたより取っ付きやすそうな性格で安心した。あざみの物言いは自身に悪意がなくとも、人を怒らせる場合が多いからだ。

「でも、あまり彼女の前でそういうことは言わないほうが良いですわ。私自身は問題ないのだけれど、私がトップアイドルであることにプライドを持っている変わり者がいますからね」

 九珠藤は少しだけ声を潜めて、ちょいちょいと人差し指をテーブルの外に向ける。そこに立っているメイドを指しているようだ。

 二十代前半と思われる彼女は、長身に流れるような黒髪、きっちりと背筋を伸ばした九珠藤に負けず劣らずの美人で、ただのメイドというより「メイド長」という感じがする。九珠藤の声が聞こえたのか、メイドは首だけを回してこちらを向いた。

「お嬢様、何か?」

「いいえ。何もないわよ、桜良さくら

 桜良と呼ばれたメイドはあざみを一瞥してから、再び周囲を警戒する作業に戻る。その姿はさながらSPである。俺はいろんな意味で気後れしていたものを取り返すように口を開いた。

「噂には聞いていたけど、マジでメイド引き連れてんのな……。メイド服着た人間なんて、コスプレ会場以外で見たのは初めてだ」

「彼女、扇儀おうぎ桜良は私が九歳の頃からの侍女ですわ。ちなみにあの服装は私の趣味ですの。彼女の服装に合わせて私の格好をコーディネートするのは、意外と面白いですのよ?」

 などと、微笑みながら言う。正直意味は分からないが、今の言葉は俺のつぶやきに返答したものだと気づいて、俺は少しだけ照れ笑いを浮かべることにした。

「九珠藤立華さんは、お嬢様なんですか?」

 次に見当違いの言葉を発したのは瑞佳あざみだ。その疑問には榛原が答える。

「九珠藤粧業って聞いたことない? 世界的化粧品ブランドの。彼女はその創始者のお孫さんなんだよ。今はえっと、十七歳だから……高校二年生だっけ?」

「いえ、飛び級で東京大学の数学科一年生です。授業に出る機会が少なくて、なんだかエセ大学生と呼ばれそうですけど」

「飛び級で、しかも東大かよ。天は二物を与えないんじゃないんだな……」

 神様が不公平であることを今更ながらに認識する。九珠藤は紅茶のカップを傾けて、

「でも、数学は面白いから好きですわ。自分の思う通りパズルが解けると、それだけで快感になるの。こういう仕事をしていなければ、本当は大学の研究室に籠っていたいくらい」

「へえ……それじゃ、円周率が3.141より大きく、3.142より小さいことは、どうやって証明します?」

「お、おい、あざみ……」

 唐突に何を言い出すんだこの数学バカは。しかもその問題って、数学の授業で烏丸に出した問題と一緒じゃねえか。しかも何気に一桁増やして難易度上げてるし。

 ハハハすいませんね気にしないでください、と言うつもりで口を開きかけた俺だったが、それよりも早く九珠藤の朱い唇は、あざみに向けてその回答を紡いでいた。

「半径1の円に内接する正n角形の周の長さをA、同円に外接する正n角形の周の長さをBと考えたとき、A<2π<Bが成り立ちます。n=96のとき、A=2n・sin⁡(π/96)からA=6.282、同様にB=2n・tan⁡(π/96)からB=6.284で、3.141<π<3.142です」

「ん? なにそれ。何かの暗号?」

 唯一話についていけていない榛原が間の抜けた声を出すが、当の出題者であるあざみには十分に伝わったようだ。あざみは前のめりになっていた身体を起こして、椅子に座り直した。

「……なあ。もしかして今の、合ってるのか?」

 俺の探るような声色に、あざみはわずかに頷いて九珠藤を見る。

「うん、正解よ。……天才系アイドルって冠詞、伊達じゃないですね」

「これくらい常識でしょう。アルキメデスの逸話を知っていれば誰でも答えられる問題です」

「でも、アルキメデスの漸化式では誤差が出て、小数点第三位までは求められない。正確な斬化式を知っていたとしても、常人が頭の中で計算するには負荷の重い問題のはずですよ」

「ええ、少しだけ脳のカロリーを使いましたわ。本来、私の専門は円周率ではないので……」

「ご専門って、もしかして、トポロジーですか?」

 一瞬、ぴたりと九珠藤のティーカップを持つ手が止まった。

 九珠藤はゆっくりと顔を上げ、あざみを見る。大きな瞳の奥に何かが映ったような気がした。

「……どうして、そう思いますの?」

「先ほどクラインの壺と言ってらしたから。クラインの壺は代表的なトポロジーです」

 九珠藤はしばらく無言であざみを見ていたが、やがて薄く笑顔を浮かべて立ち上がった。そのままメイドの肩に触れ、警戒の任から彼女を開放する。振り返って、榛原に話しかけた。

「ねえ総監督。金澤さんの代役を探されているのですよね? 総監督のその案、私も良いと思いますわ。金澤さんの代役に彼女はふさわしいと思います」

「お、やっぱ立華ちゃんもそう思う? だよねだよね、さすが立華ちゃん、分かってるね!」

「ちょっと待ってください。私はテレビなんて……」

 慌てて首を振るあざみだが、九珠藤は悪戯そうな笑みをあざみに向ける。

「急にごめんなさいね。でも、BBBは熱い頭脳バトルと高度な心理戦が売りの番組ですわ。裏を返せば、頭の良い人が出場してくれなければ番組は成立しないの。金澤さんは優勝候補の一人だった。その金澤さんの代理を探すというのが、どれくらい大変なことか分かるかしら?」

 あくまで楽しげにそう言う九珠藤だが、あざみを見つめるその瞳には有無を言わせない迫力がある。あざみが返答の機を逃した一瞬に九珠藤は踵を返し、最後にもう一度あざみを見た。

「あなたとなら、面白い番組が作れそうですわ。それじゃ、またね……瑞佳さん」

 小さくバイバイと手を振って、カフェテリアを出ていく九珠藤立華。店の外では再びさざなみのような歓声が沸き、人ごみと共に遠ざかっていく。一難が去って、今度は番組の段取りを今にも説明したそうに目を輝かせている榛原の顔を見て、あざみは頭を抱えた。

「……なあ、あざみ。トポロジーってなんだ?」

「ごめん冬夜。ちょっと今は答える気力ない」

 大きなため息が向かいの空席に届く。テーブルの上には、空になったティーカップだけが残されていた。


 ◇ ◇ 


「ええ~ッ! 九珠藤立華と話したの? いいな、いいなあ!」

 週が明けて月曜の朝。珍しく登校時間より二十分も早く教室に現れた成瀬紅葉に土曜日の顛末を話すと、半ば予想通りの反応が返ってきて、自分の席に座ったままのあざみは呆れたような表情を作った。

「確かに美人だったけど、そこまで良いもんでもなかったわ」

「……つーか成瀬、九珠藤立華なら、BBBの一回戦のときに会場で見ただろ」

 あざみの後ろの席に座る守村由香がそう言うが、成瀬はぶんぶんと首を左右に振る。

「見ただけでしょ? あんなゲームの最中じゃ、ろくに話す機会なんてないって。あーでも、ナマ立華サマは可愛かったにゃあ……」

「九珠藤立華って絶対王者だろ? 一回戦から出てたのか?」

 俺が訊くと、成瀬はこちらを見て頷く。

「冬夜君、BBB観たことない? あの番組って、一般参加者同士のバトルを見るのもウリだけど、絶対王者・九珠藤立華の参考記録を抜けるかどうか、ってのもポイントじゃん」

「……そうだっけか。どうも三か月に一ぺんだと、細かいところまで記憶が……」

「今後の参考のために教えてほしいんだけど……BBBってどういう番組の流れなの?」

 あざみが首を傾けながら訊く。テレビをまったく観ないコイツならではの質問だ。俺たち三人は、あーでもないこーでもないと閑話を挟みながら、番組の概要を説明した。

 ――まず、おおよそ午後七時から九時までの、いわゆる二時間特番であるのは前述のとおり。

 司会役のアナウンサーの開会宣言から始まり、簡単な番組の趣旨説明、数人の注目挑戦者の紹介と続き、そして別撮りであるスタジオにて、数人のタレントが優勝する挑戦者を予想するまでが導入の流れだ。番組は基本、挑戦者たちがゲームに挑んでいる様子を別スタジオのタレント達が見て、感想を言ったり歓談したりという風景を交えながら進行する。

 その後、司会の「九珠藤立華を倒すのは誰だ?」という決まり文句を経て、本格的にゲームスタート。

 ゲームは全四回戦で、基本的に勝ち抜き戦だ。五十人近い挑戦者たちは一回戦で十六人に絞られ、準決勝で六人、決勝戦で一人となり、最後に絶対王者である九珠藤立華に一対一を挑むという展開となる。

 ちなみに、今まで十八回ほど放送した中で、九珠藤立華に勝った挑戦者はゼロ。

 元々は午後十一時帯で放送していた三十分のアイドルバラエティの一コーナーだったのだが、九珠藤立華の圧倒的な勝率と可憐な美貌、そして何より、その天才ぶりが話題となって誕生したのがこの番組なのだ。したがって、視聴者の多くは九珠藤立華が敗れるのを期待しているのではなく、九珠藤立華が「いかにして相手を圧倒して勝つか」こそが見どころになっている。言い換えれば、挑戦者は九珠藤立華が勝つための当て馬に過ぎないと言えるかもしれない。

 もちろん、そんな不遇のゲームに挑む挑戦者にもメリットは大きい。何しろ、九珠藤立華に勝てば賞金一千万円。それだけでなく、九珠藤が負ければ番組終了という触れ込みもあるのだ。

 九珠藤立華を中心とする番組のため当然の措置と言えるかもしれないが、この制作側の背水の陣とも言える状況が、世の並み居るクイズ好きを番組に集める。なにしろ、九珠藤立華を倒すことはクイズ好きの誉れなのだ。本気の勝負ほど面白い見世物はこの世にない。

 もちろん、九珠藤立華を守るために挑戦者はあらかじめ仕組まれているのでは……という噂も出回ってはいるが、今のところ、BBBは高視聴率をキープする名番組となっていた。

「……そのゲームの内容ってのは?」

 あざみの問いに、守村が答える。

「放送ごとに、毎回変わるんだよ。ちなみに私らが出たこの間の一回戦は『パーフェクト・モビー』っていう、変則的パズルゲームだったな。挑戦者一人ずつにバラバラになったロボットの胴体、腕、足が配られて、ロボットを完成させれば勝ち抜けってルールだったんだけど、コネクタの形がみんな違くてくっつかねーの。だから他の挑戦者から、自分のロボットの胴体に合う腕と足を持ってる人を見つけないとなんだけど、これが案外難しくて……」

「……で、結果、二人そろって見事に一回戦敗退したと」

「フッ、言ってくれるな冬夜君……勝者がいれば敗者もいるものなのさ……」

 何かを悟ったようにつぶやく成瀬だったが、その眼には涙が浮かんでいた。

「ちなみに、全員参加型のゲームならそのゲームに、時間とか得点を競うゲームならその直前に、九珠藤立華も同じゲームをやるんだよ。そうやって参考記録を提示するわけ。それがもうメチャクチャ強くてさ、パーフェクト・モビーもトップで勝ち抜けだからスゴいよなあ」

「……それって、ガチなの?」

 俺が訊くと、守村は妙に神妙な顔になって、

「うん、ガチ。多分ヤラセとか一切なし。そんくれー、あの九珠藤立華ってバケモノなワケ」

「立華サマをバケモノとか言うな由香ッ! せめて神と言え立華神と!」

「神ねえ……。私は神なんかに興味はないんだけどなあ……」

 あざみが薄幸の少女よろしくため息なんか吐いたりしている。守村がどうしたの、と俺に訊いてきたので、九珠藤立華に勧められて準決勝に出ることになった経緯を説明すると、成瀬の喉の奥から普段の十倍くらいデカい声が辺りに木霊した。

「えええ~ッ! 九珠藤立華と友達になって、あまつさえ準決勝に飛び入り参加ああ?」

 教室中どころか隣と上下の教室にまで響き渡るような声に、周囲のクラスメイトも何だ何だと集まってくる。あざみにしてみれば最悪の展開。あざみは突っ伏して、机に顔を埋めた。

「もう、堪忍して……」

「……あの、もうホームルーム始まる時間なんだけど……」

 いつの間にやってきていたのか、教壇の前で完全無視を決め込まれていた烏丸先生が、か細い声を上げた。


 ◇ ◇ 


 今週は、学校で二者面談がある。

 葉月幕浜高校は一応は進学校ではあるのだが、葉月市からそう遠くない場所に京葉工業地域があることから高卒就職する生徒も少なくなく、それゆえに二年生からは進学クラスと就職クラス、そしてまだ態度を決めかねる生徒のための一般クラスと、進路ごとに学級を分ける制度を取っていた。

 そのクラス分けの一つの指標となるのが、今週から始まった二者面談だ。事前アンケートで生徒の希望進路を把握した担任が、一人一人に意思の確認をしていく。もちろん、この結果だけで今後のクラスが決まるわけではないが、大きなウエイトを占めているのは間違いなかった。

 ちなみに、二者面談は放課後、生徒を出席番号順に教室へ呼び出して実施される。三十人が所属する一年F組で、頭文字が「ひ」である俺こと桧愁院冬夜は二十九番目、「み」である瑞佳あざみは三十番目だ。つまり最後と最後から二番目。呼び出されたのは二者面談最終日である金曜日の、かなり下校時刻に近い時間だった。

「……終わった?」

 がらりと教室の扉を開けて廊下へ出ると、廊下の隅に置かれた椅子に座っていたあざみが訊いてくる。俺は頷いて、あざみの隣の椅子に腰を下ろした。

「おまえの頭で進学とか、何の冗談だって言われた」

「ふーん。で、なんて答えたの?」

「やっぱ茶髪はマズイっすかね、って答えたら、頭の色より中身のほうがマズイって」

「さすが烏丸先生。正しいわ」

「おい……」

 そんなやりとりをしていると、再び教室の扉が音を立てて開く。首だけを廊下に出した烏丸があざみを呼び、あざみは「じゃあ行ってくるね」と言い残して、教室の奥へと消えていった。

「……さて、と」

 俺は少しばかり思案して、椅子を教室の扉の前まで引きずっていき、音を立てないように注意しながら扉を開く。廊下の窓から差し込む西陽が教室の中に差し込まないか心配になったが、幸い二人には気づかれなかったようだ。僅かな隙間から奥を覗きこむと、椅子に向かい合って座る男性教師と女生徒のフォルムが見えた。

「――というわけで、君の場合は国語系さえしっかり点が取れれば、どこの大学だって狙えるレベルだ。……というか、なぜ現国がこんなに点数低いのかが疑問だが……」

「昔から苦手なんですよ、国語。特に登場人物の心理を考える問題。四つある選択肢のうち、少なくとも二つは同時並列的に考えている可能性があるんじゃないかな、って」

「そんな可能性はない。問題は問題だ。製作者の考える解答を当てるのがテストだ」

 なるほどお、と手を合わせるあざみ。……だが、俺は知っている。それは演技だ。

 あざみはいつも、満点を取らないようにテストの点を調整している。主要五教科を五百点にする実力がありながら、いつも九十点以下をキープするのがあいつのやり方だ。

 ミレニアム懸賞問題の件であざみが度を超えた天才であることは周知の事実だが、それはあくまで一年F組の限られた中での話。あいつは目立つことを極力避けるために、テストの点数すら欺いているのだ。

 だが、相手があざみの成績表を持つ担任教諭ともなれば、その嘘は砂上の楼閣より脆くなる。烏丸は悩ましげに頭を掻いた。

「……なあ、どうしてそんなに目立つのを嫌う? 過去に何か嫌なことでもあったのか?」

 あざみは答えない。肯定とも否定とも取れない無機質な空気。烏丸が続ける。

「君の経歴、資料で読んだよ。十一歳でアメリカのプリンストン大に編入し、翌年には三つの論文でフィールズ賞。いくつか特許も取っているそうだね。その後は一度京都に移り住んだが、一か月ほどでこの葉月市へ戻っている。……京都にいたのはお父さんの勧めで?」

「ええ。でも、叔母にいつまでも妹を任せておくわけにいきませんでしたので」

「それじゃあ、今は叔母さんと、妹さんと、三人で暮らしている?」

「いえ、生家で妹と二人暮らしです。叔母は週に一度来ますけど。……学校にも許可は取っているはずですが」

「知っている。だが、なぜ瑞佳教授と一緒に暮らさない? お父さんが嫌いなのかい?」

「嫌いではないですよ。まあ、私のことを特別扱いするのは苦手ですけどね」

 乾いた笑いがあざみの口から洩れる。その後、僅かな沈黙。

 口を先に開いたのは烏丸だった。

「僕はエリート主義者ではないけどね、君の能力は人類の宝だと断言できるよ。その並外れた叡智は抑圧するべきじゃない。人類の未来や、社会のために捧げるべきものだ」

「私が進路希望票に『フリーター』って書いたのが、そんなに駄目なことだったのですか?」

「駄目だよ、駄目に決まってる!」

 どん、と見ている方が痛くなるような勢いで、烏丸が自分の膝を拳で叩いた。

「フリーターって君ね、いわば不定期労働者。言ってしまえば無職なんだよ? 君みたいな才能溢れる人間が、冗談でも書いちゃいけない。もっと長いスパンで考えるべきだ」

「それではまるで、フリーターや無職が社会奉仕をしていないように聞こえますね。世の中に専業主婦は一一〇〇万人以上いますし、失業者は二五〇万人います。彼らは罪なのですか?」

「罪ではないが、少なくとも君ほどの人間がそこに留まってはいけないと僕は思う。聞いたところによれば、国内外問わず様々な大学や研究機関から求められているそうじゃないか。それを全部断って、行きつく先がフリーターだなんて……教師として見過ごせるものじゃない」

「私の人生は私のものですよ。私がどうなりたいかは、私が決めるべきだと思います」

 抑揚のない声。そこには多少の感情の揺れもない。俺は目を凝らしてあざみの顔を見ようとしたが、サイドテールの陰に隠れてよく見えなかった。

「……お父さんとの確執が原因なら、僕が間を取り持ってもいい。僕は君のお父さんとは面識があるんだ。君のお父さんが何か進路を強要するようなことがあるのなら、僕が――」

「烏丸先生って、見かけによらず良い先生ですね」

 烏丸がはっとして顎を引く。あざみは口元だけでくすりと笑い、顔を上げた。

「ご心配なく。確かに父は私を研究者にしたいみたいですけど、強要されてはいません」

「だったら、なぜ……」

「ごめんなさい。フリーターというのは五十パーセント嘘です。本当は、自分が何になりたいか、どうなりたいかというビジョンがなかったから書いただけなんです」

 はっきりとそう言われ、烏丸は呆然と口を開けてしまう。あざみは首にかかった髪を払って、

「しかし今の私には、将来どうなりたいというビジョンを考えることはできません。そもそも、私には一般的な目標というものがないんです。進学することも、仕事をすることも、誰かと結婚することも、人生の到達点とは到底考えられない。なぜなら、それらは全て経過だから」

「け……経過、だって?」

「進学すれば、就職すれば、結婚すれば人生は終わりですか? 違うでしょう? 人生の最終的な目的は死ぬことです。生きることはその経過でしかない。人間の生の集合体が社会ではありますが、私個人にしてみれば、それは生きていることに付随するオプション、もしくはノイズです。何かを望もうと望まれようと、それは大局的に見れば誤差でしかないんです」

 生きることは、ノイズ。

 彼女は、確かにそう言い切った。

 しばらく絶句していた烏丸が、探るように低い声で訊く。

「君は……生きることすら楽しめないと、そう言うのか?」

「いいえ。楽しいという感情は理解できるし、それを欲する人の行動も理解できます。でも、それを楽しむこと自体ノイズなんです。人類の歴史に偉大な功績を残しても、私自身が死ねば、それは私自身にとってノイズでしかなくなる。だから、経過に価値を見出せないんです」

 あざみは首を回して、窓の外を見る。

 紫色の夕闇が、空を覆い尽くしていた。

「だから、私は目立つことをやめたんです。……いえ、目立たないことを楽しんでいるとも言えますかね。フィールズ賞を獲った十二歳の頃で、世の知識のほとんどは理解し尽くしました。これ以上を知ることは誤差でしかない。だから、私は平穏に生きることを甘受したんです」

 そして、あざみは振り返る。

 屈託のない笑顔。

 だが、その笑顔はあまりにも屈託がなさ過ぎて、逆に仮面のようだった。

「人生って楽しいですよね。こんな振れ幅の小さい日常でも、フィールズ賞を獲ったあの日と何一つ変わらない、同じノイズなのですから」


 ◇ ◇ 


 二者面談も無事終了し、さて帰ろうかと昇降口を出たところ、急な夕立に襲われた。しかも近頃で言うところのゲリラ豪雨だ。十一月も半ばを過ぎたというのに、これだから女心と秋の空は理解できない。傘を持っていない俺とあざみはたまらず校舎へと引き換えし、生活指導の先生に許しを得たうえで、下校時刻以降も雨宿りをすることになったのだった。

 現在、時刻は午後五時半。雨雲の影響もあって窓の外はとっぷりと暗く、遠くに見える街の灯り以外に光源はない。否、窓に張り付いた雨粒が室内の蛍光灯の光を反射しているくらいだ。

 俺とあざみは文芸部室のいつもの椅子に座り、いつものテーブルを間に挟んで対峙している。テーブルに置かれたマグカップからは僅かな湯気と、ダージリンの香り。雨のせいで肌寒くなった空気を紛らわせるように、部の備品で淹れた紅茶を互いに無言で啜っていた。

「……そろそろ、乾いたよね」

 あざみは椅子から立ち上がり、本棚にひっかけたハンガーに吊るしていたブレザーの様子を見に行く。今のあいつは白のワイシャツに黒のジャージを肩に引っかけただけの無防備な格好だ。いつものサイドテールは紐が解かれ、濡れた髪はうなじに張り付いている。その横顔はなぜかいつものあざみとは別人のようで、俺はむず痒いような妙な気分を味わっていた。

「ああ、まだ駄目だなあ。こんなことなら、ウチから電気ストーブを持ってきとけば良かった。ひなたが使っていないのがちょうど一個あったし」

 ひなたというのは、あざみの妹の名だ。現在、中学二年生。姉以上に無口で無愛想な娘だが、姉以上に美人で家庭的でもある。俺は手の中の紙コップを指で弄びながら、口を開いた。

「そういや、いつもひとりで食ってる弁当はひなたが作ってるのか?」

「……当番制です。あんた、いつも二言三言多いよね」

「そういう性分なんだ。仕方がないと思ってくれ」

「大丈夫よ、知っているから。もう十年以上、一緒にいるもんね」

 幼馴染み――世間でそう言えるほどの長い年月を共有してきた俺たちだが、どうも俺的には幼馴染みと言うことに抵抗がある。それは一体なぜだろう、とよく考えたものだった。

 今では、その答えはある一つの結論に辿り着いている。

 だが、それを肯定したら、瑞佳あざみは「人間」ではなくなるのだ。

 だから、俺はその結論を口にしない。代わりのことで口を開くのが精いっぱいの抵抗だった。

「そういや、BBBの収録、明日だよな」

「ううっ、嫌なこと思い出させないでよう……。気が重いなあ」

 あざみは再び椅子に座り直し、オーバーに頭を抱えて見せる。俺は苦笑した。

「こうなったら、覚悟を決めるしかないんじゃね? なんなら、わざと負けちまえばいいし」

「……ねえ、冬夜。私の代わりに出る気ない?」

「アホか。九珠藤立華はお前を直々にご指名だろ。俺が出られるワケないだろうが」

 あ……そうだ。九珠藤立華で思い出した。

 この際なので、訊き逃していたことを訊いてみる。

「なあ、この間、サンセットテレビのカフェで言ってた、九珠藤立華の専門の話。……なんだっけ、トッピロキーだっけ? あれって何のことだったんだ?」

「トッピロキー? ……ああ、トポロジーのこと? 位相幾何学の別名よ」

 興味なさげにあざみが吐き捨てる。そんな投げやりに位相幾何学と言われても、何のことやらまったく理解できない。俺がもう一度訊くと、あざみはようやくこちらを向いて話し始めた。

「位相幾何学は、数学的幾何学の分野のひとつ。位置概念に特化した学問として知られるわ」

「位置概念? なんだか、また頭の痛くなりそうな話だな……」

「難しいことないわよ。たとえば、そうだな……これがいいかな」

 あざみは空になったカップをテーブルに置く。取っ手の付いた普通のマグカップだ。それと、後ろのパソコン棚から取り出したのは一枚のCD。この二つを並べて、俺の前に差し出した。

「さて、形も大きさも異なる二つの物体。この二つは、同じモノ? それとも違うモノ?」

「……何の冗談だ。こんなもん、まったく違うものじゃねえか」

「冬夜的にはそうかもね。ところが位相幾何学的には、まったく同じものと定義されるの」

「え? なんで?」

 あざみはマグカップを持ち上げて、取っ手の輪越しに俺を見た。

「想像してみて。カップの底がぐーっと厚くなって、カップ本体をぐにゃっと丸め、それからぺったんこにすれば、CDと同じ形になるでしょ? だから、マグカップとCDは同じモノよ」

「いやいや、そりゃおかしいだろ。だったらこの世のものは全部同じものになっちまう」

「ううん、距離が伸縮するのは問題ないけど、合体したり分裂するのはルール違反。あくまで位置が変わるだけで形が揃えられるものを、位相幾何学的に『同相』と言うのよ」

 まったく意味が分からない。俺が渋い顔をしていると、あざみはマグカップから顔を離した。

「たとえば二つの三角形があったとして、その全部の辺と全部の角の角度が両方とも同じ場合、それをユークリッド幾何学上の『合同』と言うでしょ?」

 ユークリッド幾何学が何のことだか分からんが、まあ合同なら中学で習ったから大丈夫だ。

「で、角度は同じだけど辺の長さが違う場合。それは形が似ているから『相似』となる」

「ああ、単純にスケールダウンしただけの図形だからな。それも分かる」

「じゃあ、辺の長さも角度もてんでバラバラの場合は? この二つの図形に共通点はない?」

「うーん、そうだな……ただの三角形同士という以外には……」

「それでいいのよ。同じ三角形という共通項。その共通項だけに着目して、同じ図形として考えるのが位相幾何学なの。さっきのマグカップとCDもそう。いろいろな辺や面の形を変化させたとしても、輪が一つという共通項だけ変わらなければ、それは『同相』と呼べるわ」

 なんともアバウトな考え方をする学問だ。俺はCDを手に取り、穴越しにあざみを見た。

「まあなんとなく分かったけど……そんな学問なんて、何の役に立つってんだ?」

「代表的なのは、パソコンのディレクトリね。パソコンでフォルダーを作ったら、その中にまた整理用のフォルダーを作ったりするでしょ。でも、そのフォルダー一つ一つには広さという概念がない。容量の大きいフォルダーでも、小さいフォルダーの中に納まってしまう。これって現実的に考えたら不可思議な状況だけど、すごく分かりやすい構造だから世界中のOSで使われている。この構造こそ位相幾何学から生まれたものなのよ」

 他にも、身近なところに位相幾何学は溢れているとあざみは言った。たとえば、電車の路線図なんかもそうだ。あれに描かれるのは駅名とそれを繋ぐ線だけで、線自体は実際の距離を現していない。だが、そんな簡素なものでも人々は電車がどこへ向かうかを理解できる。

「この位相幾何学は、スイスの天才数学者レオンハルト・オイラーが二五〇年前に端緒を開いた新しい学問であるけれど、これからの数学界で最も注目を集める学問だわ。この位相幾何学に属するポアンカレ予想は、かつてミレニアム懸賞問題のひとつだったこともあるくらい」

「伝説の七問題の一つかよ……そりゃすげえのを研究してんだな、九珠藤立華は」

「もっとも、アイドル業が忙しくて肝心の研究はできていなさそうだけどね」

 立ち上がりながらあざみは言った。ほんの少しだけトゲのある言い方だったような気がする。気が合うとか言っていたはずなのだが、もう気が変わったのだろうか。

 俺は、空のマグカップを手に電子ポットのある棚へ歩いていくあざみの背中に声をかけた。

「あざみから見てどうだ? 九珠藤立華は、天才だと思うか?」

「さあね。でも、普通の人間とはちょっとだけ違うのは確か」

 普通の人間、か。……あざみが言うと、それだけで含みがあるように聞こえてしまう。

 思い出されるのは、先ほどまでの烏丸との会話。

 あざみにとって、生きることはノイズだと言う。

 普通の人間なら、将来の夢を訊かれて、医者とか公務員とかサラリーマンとか、とにかくそんな職業を思い浮かべるのが一般的だ。そして、そこに繋がるための道筋を想像して、進路希望票には進学か就職の二択を書き記す。

 もちろん俺みたいに将来的な職業が思いつかない奴が、とりあえずで進学と書く場合もあるだろうし、さらにヒネている奴が「フリーター」と書く場合はあるだろう。

 だが、あざみの場合は違う。職業を決めるという考えすら人生にとって無意味と捉えている。

 いや、そもそもこいつは根本的に生きている理由を持っていない。

 死ぬために生まれて来た、なんて哲学者の言葉っぽくて多少は面白いけれど、本気でそれを是とする人間はいない。だったら今すぐにでも自殺すればいい、なんて冗談半分の台詞を吐かれて終わりだ。あまりにも普遍性のない言葉は、かえって現実感を失うだけだ。

 俺たち「普通の人間」は、そういう普遍性という名のルールの中で生きている。

 じゃあ、あざみのような「普通ではない人間」は、どんなルールに従っているのだろう。

 あざみは死ぬために生きていると言った。ではなぜすぐに自殺しないのか。

 あざみが今生きている理由って、一体なんなのだろうか。

「……どうしたの? 私のことじっと見て」

 マグカップに新たな紅茶を淹れたあざみが振り返る。俺はかぶりを振って、窓の外に視線を投げた。

「いやー、雨止まねえなあ、と思って」

「そうだね。……でも私、雨って結構好きだよ」

 好き、という言葉に、なぜかどきりとしてしまう。

 俺は目を盗んであざみを見る。あざみは湯気を立てるマグカップを手に窓まで進み出て、幾重にも連なる雨粒の筋を指でなぞった。

「だって、ゼロとイチが落っこちてくるみたいでしょう?」

「ゼロと……イチ?」

「私には雨が0と1の連続体に見える。0を書き換えていく1の連続は、それだけで綺麗だよ」

 ……やはり、俺とあざみの間には、絶対的な壁があるのか。

 距離的にはこんなにも近いのに、とても遠くから言われているような感じだ。

 位相幾何学によれば、距離はなんの意味も持たないという。

 俺とあざみは、0と1くらい、大きな隔たりがあるのかもしれなかった。

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