第一章 天才と第一の密室


 急にざわざわと色めき立った教室の空気に当てられて、俺の意識は夢から帰還した。

「んだよ、うるせーな……」

 突っ伏していた机から重い頭を持ち上げて、寝ぼけまなこを一度擦る。目の前に広がっているのは見慣れた一年F組の風景だ。教室の壁掛け時計が示す時刻は午前十一時五十分を少し回ったところ。窓から差し込む十一月にしては暑いくらいの日差しと、腹の奥でごろごろ鳴ってる虫の音に、あぁもう昼なのかと俺を起こした本当の原因に得心した。

「――ってか、マジなの? アンタわかる、アレ」

「ええ~、あんなん、分かるワケないよぅ」

 隣の席の女子と、その後ろのヤツのひそひそ話を耳朶が拾う。改めて周囲を見回すと、教室中でこんな感じの会話が囁かれていた。そりゃ小声も連鎖すれば騒然にもなろう。俺は椅子に座ったまま手を伸ばして、前の席の男を振り向かせた。

天川てんかわ……何の騒ぎだ、これ?」

「お前、また寝てただろう……。たまには黒板を見たらどうだ? 騒ぎの原因も分かるぞ」

 黒縁の眼鏡の奥で呆れたように目を細める天川直樹なおきの視線から逃れつつ、俺は背を伸ばして目の焦点を黒板へ。そこに白チョークで書かれた文字を斜め読んだ。

 

  ガウス平面上の任意の点Anが(A1=1 , A2=1 , An+2=An+1+An)となるとき、

  Bn=An+1 / Anとおく。

  このBnが囲む図形の面積Sを小数点第3位まで求めよ。

  ただしnは自然数とする。

 

「えーと……………………日本語?」

「日本語だ。……一応な」

 俺のつぶやきに答える天川。俺はもう一度文章を読み返し、その結論を口にした。

「いや、英語だろあれは。知らないのか? AとかBとか、アルファベットって言うんだぞ」

「とりあえず時間割表をよーく読め、桧愁院。今日の四時間目は英語ではなく数学だ」

 時間割表を見れば、確かにまだ数学の時間である。昼休みをすっ飛ばして五時間目になったわけじゃなさそうだった。

 しかし、なんだアレは。本当に数学なのか。

 確かに俺の成績は、上からよりも下から数えた方がはるかに効率的な順位に付けていることは紛れもない事実だが、問いの意味を理解できないほど日本語に不便していたことはなかったはずだ。それともアレか、ひょっとして理解できていないの俺だけ?

 人間の脳の標準稼働率は四割と言うが、俺の脳だけ一割程度なんじゃねーかなとそろそろ疑い出したところで、ばん、と教壇に手を叩きつける小気味良い音が教室中に鳴り響いた。

「さて、どうかな? そろそろこの問題を解ける人、いないか?」

 自信満々、はっきりとした口調でそう言ったのは、黒板の前に立つ白スーツ姿の男である。

 天川の真面目眼鏡とはひと味違う、細いフレームがWの字を描くデザインの眼鏡をかけており、その奥に浮かべている微笑はキザそのもの。おそらくナルシストの気も入ってる。こんな先生、この学校にいたっけな、と眉を顰めたところで、やっと思い出すことに成功した。

 そうそう、今日から赴任してきた数学教諭の烏丸からすま宗二そうじ――このクラスの新担任だ。

 元々このクラスの担任だった男性数学教師と女性副担任が先月結婚と妊娠を発表し、担任は隣町の高校へ転任、副担任は産休に入ったことで空位となった担任の席へ今日付けで納まったのが、このナルシス先生こと烏丸教諭その人だった。

 ええと、確かイイトコの大学の出でこれでも子どもの頃は神童と呼ばれたんだ、とかなんとか朝のホームルームで自己紹介していたような気がする。眠かったのでよく覚えていないが。

 パッと見は美形でスリムな体型だから女子から人気が出そうだと思っていたのだが、女子という生物は得体の知れない人間に対して慎重らしく、それほど騒がれることなく本日の半分を消化しようとしていた。やっぱりナルシストって点数低いんだなあと思う今日この頃である。

 そんな評価の中で始まった烏丸教諭の数学教室第一回目。どうやら授業の最後にインパクトのあるものを提供しようと考えたらしく、それが黒板に書かれた英字交じりの問題だった。

「これは難関大学の入試試験に実際に出された問題だけどね、実際よく考えればあながち難しい問題ってワケじゃないんだ。これくらい解けないと、少なくとも僕の大学には受からないぞ」

 そう言って、ふふんっと鼻を鳴らす烏丸教諭。なんで年端もいかない教え子に対してそう自慢げなのかは理解しがたいところだったが、ともかく、その問題に対し手を挙げる人間は一人も出てこないようだった。

「どうしたあ、みんな。誰もいないのか? 間違ってもいいから挑戦しようという者もいないかなあ? この問いを解いてもらうまで、僕の授業は終わらないよ?」

 えええー、と声の上がる教室。俺の腹はぐーと鳴った。

 授業が終わらないって……昼飯どーすんだよ。

 俺は再び天川の肩を掴んで引き寄せた。

「おい、お前どうなんだよ、学年十位の男」

「うーん……筋道は見えるんだけど、ちょっと難しいな。少なくとも、今の俺の頭じゃ無理だ」

 ……そりゃそうか。俺らはまだ高校一年だ。大学入試まであと二年もある。今の時点であの問題がスラスラ解けてりゃ受験勉強なんて必要ないわけで、そう考えると烏丸の言い分は不条理にも程があると言えるだろう。

 だが、烏丸は軌道修正をしようとしない。奴は本気でロスタイムに突入する気でいるらしい。

 再びざわざわと波立つ教室の中で、誰かがあいつの名前を小声で呼んだのが聞こえた。

「こりゃ、あざみちゃんの出番でしょ、ここは」

「……ええー」

 思いっきり嫌そうな声。しかし、もう一人の別の声が、誰かの言葉を後押しする。

「ええー、じゃないだろ。ウチらの貴重な昼休みが削られる方がええーだわ。あんた、分かるなら行ってきなさいってば。そーいうのを宝の持ち腐れって言うんだぞ」

「でも、あの先生面倒くさそうじゃない? ここで目立つと後々まで面倒くさそうな気が……」

「バッカ、今日の学食はデザート早いもの勝ちなの! とっとと授業終わらせて来い!」

 そんなアホみたいな会話の後、教室の中腹から立ち上がった女子が一人。

 身長は高くもなく低くもなく。華奢な右肩に側頭部で結った髪を垂らしたそいつは、ゆっくりとした足取りで黒板へと歩いていく。途端に静かになる教室だが、それは突然立ち上がったクラスメイトに対する吃驚によるものではなく、「あーあ、最終兵器が行っちゃったか」という半ば失笑のような脱力感に由来するものなのだが、果たして烏丸は気づいたかどうか。

 彼女は黒板までたどり着くと、烏丸に一瞥もくれず、チョークで一文だけ書き込んだ。


  ∴S=3.925

 

「じゃ、そういうことで」

 くるりと踵を返すサイドテール。一瞬呆気に取られていた烏丸が、慌てて声を荒げた。

「ま、待て待て! 途中式はどうした、解法の過程も書かないと意味がないぞ!」

「座標点をいくつか求めればわかりますが、Bnは円ですよね。円は(x-a)^2+(y-b)^2=c^2ですから、代入すると円の半径は√5/2です。あとはπ=3.14でπr^2=3.925となります。以上、証明終了」

 彼女は事もなげにそう言うが、聞いているこっちは理解不能だ。だが、烏丸は目を大きく見開き、わなわなと唇を震わせている。反論しないところを見ると、どうやら間違ってはいないらしい。なおも何か言いたそうにしている烏丸教諭に、彼女はにこりと微笑んで見せた。

「先生、京都大学の数学科にいらしたんですよね。ご専門は何を?」

「ふ、複素数だが……」

「ああ、それで。……先生、確かに問題自体はシンプルで悩む余地のない簡単なものだと思いますけど、複素数は三年生の選択授業で受ける内容ですよ。まだ三角関数しか学んでいない私たちに、虚数ⅰを含む問題を出すのはフェアではないと思いませんか?」

「しかし……じゃあ君は、どうして解けたんだ?」

「先生っ。その子は特別なんだよ」

 はいっ、と手を挙げてそう言ったのは、先ほど彼女を半ば強引に送り出した女生徒の一人だ。そいつは挙げた手を握り、今度は人差し指を一本立てて、自分の顔の前でふるふると振った。

「先生がどんだけ頭のいい先生かは知りませんけどお? こと数学に関しちゃ、その子の右に出るのは無理だと思っておいた方が良いと思いますよ。なんたってその子は……えっとなんだっけ、ふぃーる? ふぁーる? ふぁーぶる? とかいう賞を歴代最年少で獲ったとかゆう、この葉月幕浜始まって以来の天才少女なんですから!」

「……フィールズ賞だ、バカを晒すな紅葉もみじ

 もう一つ後ろの席の女子からツッコミが入る。ああうんそれそれ、と手を打つ成瀬なるせ紅葉の様子を黙って見ていた烏丸は、まるで道化師が目の前で転んだ時みたいに吹き出した。

「フィールズ賞だって? ははっ、凄い冗談だな。フィールズは世界最高峰の数学者に贈られる、いわば数学界のノーベル賞だぞ。この賞を獲った人間は今までに四十六名。日本人だって四人しか受賞できていないんだ。それを、一介の女子高生が獲れるだなんて冗談以外の何物でも――」

「そうですね。当時は十二歳でしたから、高校生が獲ったという記録はないと思います」

 しれっと烏丸の隣に立つ彼女が言い放つ。こいつまで一体何を言っているんだと訝しげに口を歪めた烏丸だったが、ふとその表情が硬直し、何かを思い出して、次の瞬間顔色を失った。

 さすが難関大学の出身者様だ。頭の中で、その事柄に思い当たったに違いなかった。

 ――ミレニアム懸賞問題。

 それは、米国クレイ数学研究所が二〇〇〇年に発表した、計七つの未解決問題のこと。その解は予想されてはいるが、数学的証明が成されていないという、数学史上最も重要かつ難関とされる問題で、七つの問題のうち一つでも解法に辿り着いた場合、その者に懸賞金百万ドルが贈られるというものだ。

 数多の数学者が挑み、挫折していったこの問題の一つを――四年前、一人の日本人女性が読解、証明し、フィールズ賞を獲得したというニュースが世界中を飛び交った。

 実際のところは四年経った今でも世界中の数学研究機関が彼女の証明方法の是非を調べており、未だ完全に解法が認められたわけではないのだが、世界最高峰の問題を日本人が解いたということに誰しもが驚き――そして、それ以上にこの日本人というのが、であるという事実に世界は仰天した。

 様々な研究機関や団体が彼女を迎え入れようと殺到したが、彼女は「ただの中学生ですから」とすべてを一蹴。今では地元の公立高校の一席に座り、平凡な授業のノートをちまちま取っているという、何処にでもいるようで何処にもいない、唯一無二にして稀代の天才少女――。

 そいつの名前が、瑞佳あざみ。

 凡俗教師が出した問題を前にチョークの粉で指先を汚している彼女こそ、四年前に世間を騒がした張本人であることに今更気づいて、烏丸教諭は文字通り開いた口が塞がらなくなった。

「み、ミツカ……ミツカって、ああああの瑞佳か! 本物か? 本人かよ!」

「本物だし本人ですよ。それより烏丸先生、一つ確認しておきたいのですけど」

 瑞佳あざみは黒板上に「π」という文字を書き、再び烏丸の正面に向き直った。

「小数点第三位まで書け、という問題でしたので、円周率を3.14として扱ってみたのですが、問題なかったでしょうか。それとも、3くらいでまとめておいた方が良いですかね」

「いっ、いやいや、問題ないよ、うん! 円周率なんて近似値なら十分だ」

 なぜか少々どもる烏丸先生。あざみはそうですか、と頷いてから、πの周りに次のように付け足した。

 

 3.14<π<3.15

 

「な……なんだ、それは?」

 烏丸がその数列を見て言う。あざみは悪戯そうな様相を崩すことなく先生に笑いかけた。

「円周率って3.14の後も続いていくんでしょう? それってつまり、円周率は3.14より大きくて、3.15より小さいってことじゃないですか。それを分かりやすく証明してくれませんか?」

「円周率の証明か? はっ、そんなの簡単だ、オイラー変換を使えば――」

「ただし、私たちは高校一年生ですから。せめて中学三年生でも分かるくらい簡単な方法でお願いします。計算すれば3.14159263……になるからだ、みたいな解答はNGですよ。ちゃんと数学的な定義、仮定、帰納法をもって、円周率の範囲を証明してくださいね」

 にっこりとそう言うあざみと、対照的に笑みを失う烏丸。と同時にキンコンカンコンと四時間目終了の鐘が鳴り響いて、あざみはサイドテールと共にくるりと踵を返した。

「あ、それと。……もちろん、この問いが解けるまでお昼ごはんはお預けですよね」

 捨て台詞を残して教壇を下りる瑞佳あざみ。俺は、呆然自失している烏丸に多少の同情を禁じ得ないのだった。

 

 ◇ ◇


 さて、無事に学食で空腹を満たし、時間の空いた午後れい時半。

 教室棟とは少し離れた別棟の二階、非常階段脇にある小部屋の引き戸をがらりと開けた俺は、部屋の奥のテーブルで弁当箱をつついている瑞佳あざみと遭遇した。

「あれ……珍しいね。どうしたの? ここに来るなんて」

 あざみの大きな双眸が俺を捉え、話しかけてくる。昼でも薄暗い部屋の中には彼女一人。あとは奥の小さなテレビが光を放っているのみだ。俺が扉の前で直立不動していると、あざみはパイプ椅子に座ったまま小首を傾けた。

「なんで固まってるの? ハトが豆鉄砲食らったような顔してるよ」

「いや……人がいるとは思わなかったから。お前一人か?」

「テレビの中のペン様を除けば、脊椎動物は私一人だけね」

 弁当のおかずを口の中に放り込みながら、あざみの視線はテレビへと戻っていった。相変わらず人を食ったような喋り方をするやつだ。テレビの中ではアニメ調にデフォルメされたコウテイペンギンの着ぐるみが視聴者のお便りを読むという、世界観の怪しい教育番組が垂れ流されている。コイツの理解しがたい趣味はさておいて、俺はようやく部屋の中へと歩みを進めた。

「さてと、成瀬のヤツはどこに置きやがったんだ? いくらなんでも多過ぎだろ」

 俺は居並ぶ本の背表紙を片っ端から睨みながら、ため息を吐く。この部屋の左壁は、足元から天井まですべてスチールラックに占領されており、英字の専門書からファッション雑誌、コミック、小説、教科書まで、ありとあらゆる種類と大きさの本が所狭しと詰め込まれていた。

「ちょっと、なに勝手に他人様の部の本棚漁ってるのよ。目的を述べなさい」

 背中にまたしてもあざみの冷涼な声。俺は振り返らず、代わりに右手をぷらぷらと振った。

「漁ってねえよ。成瀬に貸したマンガを回収しに来ただけだ。あいつ、借りたものを素直に返した試しがないよな。もしくは、返せと言ったことを三秒で忘れる」

「ああ……あの子の祖先は鳥だからね。で、その本のタイトルは?」

 俺が貸していた本の名前を言うと、あざみは本棚を一瞥もせずに本の場所を言い当てた。

「……お前、すげーな。本のある場所を全部記憶しているのか?」

「うん? まあ、そうね。記憶しようと意識しているわけじゃないけど」

 目的の本を本棚から抜き出し、振り返ると、あざみはちょうど空になった弁当箱にふたを被せたところだった。次に部室備え付けの電気ポットを引き寄せて、手元の紙コップにその中身を注いでいく。紙コップの数は二つだ。俺は本をテーブルに置くと、あざみの真向いの椅子を引いて腰を下ろした。

「冬夜、お昼は食べたの?」

「ああ、学食な。お前こそどうした、いつもの二人とは別行動か?」

 いつもの二人とは、先の四時間目であざみの背中を押した、成瀬紅葉と守村もりむら由香ゆかのことだ。

 三人は共に、この自称・ミステリ研究部、正式名称・文芸部の部員である。

 友達と呼べる人間の少ないあざみにとって稀有な存在である二人とは、てっきり毎日昼飯を囲んでいるものだと俺は想像していたのだが。あざみは湯気の立ち昇る紙コップに息を吹きかけながら、首を振った。

「今日は駄目な曜日なのよね。あの二人は食堂へ行ったわ。どこぞのチャンネルの再放送を観ながらデザート食うんだー、とかで。金曜日のお昼は必然的に別行動になるのよ」

「どんだけこの教育番組観たいんだよ、お前は……」

「いいじゃない。ペンギンは過酷な環境下で生きる生物よ。それなのに、こんなに愛らしい姿に進化するなんて、生物学の神秘を感じるわ。神様って本当にいるのかもしれないよね」

 そう言って、くすりと笑う。こいつの笑顔を見られる人間は希少だ。思いがけない出来事に俺は内心驚いて、苦し紛れに紙コップの中身の紅茶を喉の奥へと流し込んだ。

 ――瑞佳あざみ。

 十六歳の高校一年生にして、稀代の天才少女と呼ばれた女。

「呼ばれた」と過去形なのは、今では滅多に呼ばれないという意味だ。

 全盛期だったのは小学生の頃で、当時のあざみは神の生まれ変わりなんじゃないかと、俺自身も畏怖するくらいの天才ぶりを発揮していた。事実、小学校入学の際の自己紹介で円周率を百桁ほど暗唱してクラスメイトを驚かせたのは六歳の時だし、算数の時間に話しかけて返ってきたのが未知の言語と数列で、小学校の教師が泣いて逃げたというのは有名な話だ。

 意思の疎通の取れない生物は、たとえ人間の姿をしていても、それは紛れもなく人外の類。

 他人を寄せ付けず、誰も理解できなくなった彼女を、もはや日本で教育することは不可能と考えた彼女の父親は、あざみをアメリカの大学へと留学させた。それが小学五年生の秋のこと。今考えれば、これがあざみの転換期になったのは言うまでもない。

 そして、わずか一年後。何食わぬ顔で葉月市へと帰ってきたあざみは、俺と同じ中学に進学した。こいつが帰ってきて何もないわけがない――と思っていた矢先に起きた騒動が、例のフィールズ賞のくだりというわけだ。

 だが、中学以降のあざみは自ら目立つ行動を取ることが少なくなった。生来の天才ぶりは健在ながら、いつも一般人と同じ言語を話すし、クラスメイトとわずかながら談笑もする。意思の疎通に問題がないなんて、まるで人が変わったかのようだった。

 どうして落ち着いてしまったのかは不明だが、とにかく、一般人に溶け込み始めた瑞佳あざみは、県内でも別段進学校というほどでもない公立高校に在籍し、今ではこうして趣味のペンギン番組をひとり部室に隠れて観るような女に成長してしまっている。俺は、この瑞佳あざみという幼馴染みを、未だに読み切れていないのが心の奥底で引っかかっていた。

「……あ。そういえば、お前の父ちゃんって京都大学の数学教授だったよな」

 何気なく思い出したので、訊いてみる。あざみは少しだけ口を尖らせて、俺を睨み付けた。

「……だから何?」

「もしかして、あの烏丸と知り合いなんじゃねえか? だからお前、さっきはあんな――」

「知り合いかどうかは知らないわ。ただ、習ってもいない虚数とかガウス平面とか、あんな意地の悪い問題を出す先生にちょっとした仕返しをしただけ」

 あざみが矢継ぎ早に言う。俺は苦笑して、椅子の背もたれに身体を預けた。

「数学の先生に数学の仕返しができるのは、お前くらいなもんだよな。大体、虚数ってなんだよ虚数って。それにアイだのエーだの、日本人なら日本語で問題出せっての」

「虚数の語源は中国語だけど、一応は日本語よ。アイは虚数単位。一五四五年にイタリアの数学者ジェロラモ・カルダーノが初めて使用した、実数ではない複素数のことを指すわ」

「……実数ではない、複素数?」

 聞きなれない語彙に思わずオウム返しをしてしまう。あざみは続けて、

「簡単に言うと、想像上の数というところかな。二乗するとマイナス1になる解を考えたとき、生じる一方の解であるルート-1を単位化したものが虚数ⅰなんだけど……冬夜、分かる?」

「うむ。とりあえず日本語ではないことだけは分かった」

 あざみは呆れたように息を吐き、手の中にあった紙コップをテーブルに置く。俺の紙コップも手元にたぐり寄せて、二つの紙コップを隣り合わせた。

「それじゃ、ここに一種類の紙コップが二個あるのは分かりますね。この2が答えになるような計算式を考えたとき、どういう式が成り立つと思いますか、桧愁院くん?」

「いくら俺が万年赤点組だからって、さすがにそれは舐め過ぎだろ。1+1=2だろ。あ、それと……1×2=2だ」

「そだね。でも、こういう式も成り立つんじゃない? (-1)×(-2)=2って」

「はあ? マイナス? 紙コップがマイナス2個ってなんだよ、意味分からんだろ」

「でも、答えは合っているよね」

 まあ、合っていると言えば、合っている。どちらも答えが2に変わりはない。

「物理的にありえない状況かもしれないけど、答えが合っているということは、つまりその過程も合っているということよ。ではこれを応用して、今度は同じ数を掛けるとマイナス1になる計算式を考える。x^2=-1だね。このxに入る数は一体何かな、桧愁院くん」

「ええと……」

 頭の中で計算してみる。まず1は駄目だろ。2以降の数も無理に決まっている。ではマイナス1ではどうだ。(-1)×(-1)=1……やはりマイナス1に至らない。小数点も駄目なら……。

「って、同じ数掛けたら絶対にプラスになんだから、マイナス1になる数なんてねーじゃん」

 俺がそう言うと、あざみはテーブルに落ちた紅茶の水滴を指先に付けて数列を書いた。

「そんなことないよ。答えは√-1。二乗を外すときは平方根って習ったでしょ」

「引っかけだろ。第一、√1=1だろ。だったら√-1も1になるんじゃないのか?」

「いいえ、√1と√-1は別のものよ。なぜなら、√1は二乗すると1だけど、√-1は二乗するとマイナス1だから。逆に考えれば√-1は、1とも、マイナス1とも違う数と言うことになる」

 そこで言葉を切ったあざみは、指先の水滴をテーブルにこすり付けて一本の横線を描いた。

「では、考えてみましょう。実数は数直線上で表せるのは知ってるよね。マイナス2、マイナス1、0、1、2、3……と続く一本の数直線を想像して。先ほど話に出たマイナス1も自然数1も、もちろん1.4142……である√2なんかもこの数直線上にあるわ。では、√-1は数直線上のどこにある?」

あざみの描いた水滴の数直線を凝視する。√-1は1でもマイナス1でもない。だが当然0ではないし、小数点でもないようだ。俺は早々に考えるのを放棄して、あざみの顔を見た。

「……どこにあるんだ?」

「答えは、ここ」

 あざみの人差し指は、ゼロの五センチ上あたり。数直線から離れた、何もない場所を示した。

「おいおい……。どこ指してんだよ、もはや数直線関係ねーじゃん」

「正確には、数直線から九十度回転した位置にある。自然数1に√-1を二乗、言い換えれば二回掛けることでマイナス1になるのだから、それは位置が百八十度回転したことになる。つまり、√-1はその半分、九十度回転した世界に存在するのよ」

「九十度回転した世界だって? そんなの、この世のどこにあるって言うんだ」

「あえて言うなら、私たちに認識できない別の次元。見ることもできない別の世界に、それは存在している。それを数値化した単位が√-1であり、虚数ⅰだ」

 少しだけ得意げに言うあざみ。いよいよオカルトじみてきやがった、という顔をした俺を見て、あざみは大学教授よろしく目を細め、人差し指を振りつつ講義を続けた。

「虚数は想像上の数だけど、必要のない数ではないのよ。たとえば電化製品に使われる電気回路のほとんどは、虚数を元にした計算で設計されている。虚数がなければテレビは点かないし、紙コップの中の紅茶も電気ポットで温められない。それどころか、発電所も電気を生み出せないね。私たちが今生きている文明世界は、虚数によって支えられているのよ」

「……なんとも、信じられない話だな」

 俺は再び椅子に背を預けて、ため息を吐く。目に見えない想像上の数が目に見える現実に影響を及ぼしているなんて、それこそ思いもしなかった考え方だ。

 あざみは椅子から立ち上がり、エンディングロールの流れるテレビを背にして俺を見た。

「虚数もそうだけど、この現実だって人間が『数』という概念で記号化した世界だわ。紙コップの存在は『二個』と数で定義され、それどころか、別次元の存在の有り無しでさえ数の計算を根拠に証明してしまう。数は普遍であり、元始のメソッドなのよ。つまりね――」

 ――ああ、出るぞ出るぞと予想できてしまって、俺は先に苦笑いを零してしまった。

 これから言うであろうその言葉は、あざみが昔から引用しているお決まりのフレーズ。

 元々は古代ギリシャの数学者ピタゴラスが残したとかいう名言らしく、小学生の頃のあざみが言うには滑稽以外の何物でもなかった言葉だが、今なら少しは理解できるかもしれない。

 紙コップから始まって最後は別次元の話にまで飛躍するという、こんなイチ高校の小部屋で語るには幾分スケールの大きい話ではあったが、あざみにとっては、これが日常なのだろう。

 虚数も紙コップも世界も異世界も、結局のところ論点は同じ。

 あざみの頭の中にあるものの正体とは、いつでもこれなのだった。

「世界は数で出来ている。世界の境界を越えても、その根源だけは不変なのよ」

 テレビの淡い光に照らされたあざみの顔は、やはり神様のように神々しかった。


 ◇ ◇


 空の雲が茜色に染まる放課後。

 グラウンドから昇降口を経由して職員室の前を通ると、またしても瑞佳あざみと遭遇した。口にマスクをして、両手に柄の長い自在箒を持っている。

「あれ、ひょっとして掃除当番?」

 俺の声に反応したあざみがマスクをずらしつつ顔を上げると、次の瞬間、その表情は驚きと不快を混ぜたものに変化した。

「うわ、きったな! ユニフォーム泥だらけじゃない!」

「おお、言われてみれば。やっぱガチの紅白戦だとスライディングにも熱が入りますな」

 俺は自分の薄っぺらいビブスを引っ張って、額の汗をぐっと拭う。最近サッカー部はサボり気味だったのだが、今日は紅白戦をやると聞いたので勢い込んで参戦したのだ。勢いが付きすぎてタオルを教室に置き忘れたのを思い出し、教室まで向かおうとした結果が、この邂逅というわけだった。

「ますな、じゃない。あぁあ……せっかく掃いた廊下に砂が……」

「人生とは無駄の繰り返しなのだ。だが、無駄も幾度と繰り返せば人生もいずれは良い方向へと……痛て痛でっ。おいやめろ箒のハケ先で突くな、突くならせめて柄の方で……」

 そんなときだった。


「きゃあああっ!」


 ――耳を劈くような悲鳴が聞こえたのは。

 俺を小突いていたあざみは一瞬硬直し、俺と顔を見合わせる。

「今の……成瀬の声か?」

「昇降口の外から、だったよね」

 あざみの反応は素早かった。そう呟くや否や、箒を放り出して廊下を駆け出していた。

 俺も慌ててあざみの背中を追う。上履きを履き替えている暇はない。居並ぶ下駄箱の列を抜け、昇降口を飛び出すと、あざみは一度立ち止まって大きく首を巡らせた。

 右手はグラウンドや体育館のある校庭方面、左手が駐輪場や正門の方向である。成瀬紅葉の姿は見えない。

「こっち!」

 あざみの脚は正門方向へと駆け出す。文芸部員がグラウンドにいる可能性を排除したのか、しばらく走ると、果たして正門のそばに成瀬紅葉と守村由香の姿を発見した。明らかにこの学校の関係者とは違う、大人の男女二人組が成瀬を取り囲んでいる。

 あざみは声を張り上げて、

「紅葉、由香っ! 大丈夫――あれ?」

 彼女らに近づくに反比例して、あざみの声量は半減した。

 大人の男女二人組は、ともにスーツ姿。顎に無精ひげを蓄えた三十代前後の男は、スーツの上によれよれのモッズコートを着込み、深く被ったソフト帽で目元を隠すという、一見すると一昔前の探偵のような風貌。一方の女性はブランド物らしい黒のパンツスーツに、きっちりと結い上げた黒髪、眼光の灯るきりりとした吊り目が印象的な二十代の美人さんだ。

 そんな、どこの誰とも知らぬ怪しげな男の手を、成瀬紅葉がかじっていた。

「……なにしとんだ、おまえ」

 俺の第一声は、そんな間の抜けたモノに堕落していた。緊迫感さようならである。

「成瀬紅葉さんのお友達の方ッスか。あのー、これ、なんとかしてもらえないですかね?」

 男が心底困ったように言って、噛まれた右手をぶんぶん振る。よほどがっちりホールドしているらしく、どんなに腕が振られても成瀬の歯は外れることがなかった。ちなみに腕に噛み付いているのではない。どちらかというと手を食べている感じだ。さながら釣り餌を丸呑みにする魚だった。

「おかしい……手をかじっているのに、悲鳴を出せるはずがない……」

「みつかー、真剣に考えるなー」

 険しい顔で考え込むあざみに、気の抜けた守村由香の声。とりあえず問題解決のため成瀬を蹴るかと思い始めた頃、吊り目の美人お姉さんが俺に近づいてきて、黒い手帳を突き付けた。

「私は警視庁刑事部捜査第一課の相馬そうま蒼依あおいだ。少し事情があって、成瀬紅葉さんに話を伺っている。君達、急で申し訳ないが、どこか落ち着ける場所を知らないか?」

「落ち着ける場所?」

 俺が訊くと、相馬と名乗ったお姉さんは軽く辺りを睥睨して、眉を寄せた。

「ここでは少々、目立ちすぎる」

 気が付くと、俺たちの周りには何事かと遠巻きに見る生徒たちが人垣を成していた。


 ◇ ◇


 で、移動してきたのはあざみと成瀬たちのホームグラウンド。夕闇でより一層の怪しさを増す別棟角の文芸部室である。蛍光灯で照らされた室内を物珍しそうに見回しながら、相馬蒼依を名乗る女性刑事は傍らの帽子男に声を掛けた。

耶俣やまた主任、よろしいのですか? ……勝手に学校の中になんて入ってしまって」

「うーん、まあ、大丈夫でしょ。お招きしてくださったのは生徒さんでスし」

 軽い口調で答え、守村に勧められるままにパイプ椅子に座る帽子男。公務員の鏡のような立ち居振舞いの相馬女史とはまったくの対称さだ。男は改めまして、と胸元のポケットから名刺を取り出し、机の真向いに腰を下ろしたあざみの前に音もなく置いた。

「僕は警視庁の耶俣えいむと言います。簡単に言うとお巡りさんッスね。以後お見知りおきを」

「えーと、刑事部捜査第一課六係ですか……主に強行犯を取り扱う部署ですね」

「強行犯って?」

 あざみの隣に座る守村由香が首を傾ける。あざみは名刺を見続けたまま答えた。

「簡単に言うと、殺人犯よ。……仮にもミス研部員なんだから知っときなさいって」

「え! ってことは、おっさんたち刑事なの? 殺人事件捜査してるの?」

 うわスゲー、と椅子から立ち上がり、目を輝かせる成瀬紅葉。耶俣は少しだけ得意げに、

「まあ、そうなるッスかね。おっさんではないですけど」

「というか、成瀬は相手が何者だか知らないで噛み付いていたのかよ」

 俺の指摘に、成瀬はくりくりの眼で俺を見上げながら、唇を尖らせた。

「だってよー、警察ですけど成瀬紅葉さんですよね、とか言われたら、逮捕されると思ってぎゃーってなるじゃん。だから捕まる前に噛み付いてやったわけよ、公僕と言う名の犬に逆にさ!」

「いや、その理屈はおかしい」

「あんた、公務執行妨害で留置所ブチ込まれるわよ」

 友人二名から反論され、成瀬は意気消沈して押し黙る。あざみは耶俣に向き直った。

「それで、どうして紅葉のところに来たんです? 何かしらの殺人事件と関係があるとでも?」

「お、鋭いッスね。ぶっちゃけて言えばそうです。下手すりゃ署で事情を聴きたいレベルッス」

「任意同行とは穏やかじゃないですね。未成年の学生を学校前で待ち伏せするくらいですから、よほど裏付けがあるのでしょう。詳細を教えていただけませんか?」

 あざみの射抜くような眼差しに、耶俣が一瞬喉を詰まらせる。そこに相馬が割って入った。

「学校にまで押しかけたことは謝罪しよう。成瀬紅葉の家は商店街の中央なので、張り込みができなかったという理由もあるがな。だが、部外者である君にそこまで教える義務は――」

「任意同行を拒否すれば、裁判所から令状を取る予定だったんじゃないですか? そうなれば、紅葉が犯人かどうかに関わらず、彼女の日常は崩壊します。家には家宅捜索が入り、取り調べは検察を含め十数日に渡るでしょうね。そんな予測が容易な状況を、私は友人として看過できません」

「おい、あざみ。それじゃまるで……」

 俺が言いかけると、あざみはその続きを俺に変わって言及した。

「状況的に明らかよ。この人たちは紅葉を殺人事件の犯人、つまり殺人犯と疑っているのよ」

「……へっ?」

 ひとり間抜けな声を出す成瀬紅葉。しかし、この場の空気を分かっていないのは成瀬だけらしく、部室には張りつめたような空気が一瞬のうちに形成された。

 そんな空気をごまかすように、相馬女史が苛立ったような声を出す。

「邪推だ。……あのな君、まだ彼女を犯人と決め付けているとは一言も……」

「あー、蒼依サン、もういいッスよ。あらましは僕から話しましょう」

「主任!」

 相馬が吊り目をさらに吊り上げて耶俣を見る。しかし、耶俣は諦めたように首を振って、

「だってこのコ、いい眼してるッスよ。少なくとも僕には、彼女を誤魔化せそうにありません」

 ただしオフレコッスよ? と帽子の隙間から笑顔を見せる耶俣。あざみは無言で首肯した。

「んじゃまあ、簡単に。……お嬢サン、『BBBビービービー』ってクイズ番組、知ってるッスか?」

「冬夜、知ってる?」

 隣の俺に首を向けてくるあざみ。こいつは普段テレビを観ないからな。俺は頷いて答えた。

「知ってる。『バーニング・ブレイン・バトル。頭脳系最強王者決定戦』ってサブタイの番組だろ。確か年四回、番組改変時期に二時間くらいでやっている一般人参加型の特番で、最終的には絶対王者のアイドルタレント・九珠藤くすどう立華りっかに勝てば賞金一千万円って触れ込みだ。芸能人も結構出演しているから、クラスでも観てるヤツ多いんだよな」

「そう、その番組ッス。先週の日曜日、そのBBBの収録がサンセットテレビのD1スタジオであったんですけど、……問題はその隣、D2スタジオで殺人事件が起こったんス」

「えっ! そうなの?」

 急に守村が驚きの声を上げたので、皆の視線が集中してしまう。当の守村が慌てて「なんでもないから続けて続けて」と手を振るジェスチャ。耶俣は気を取り直して話を続けた。

「ええと、そのD2スタジオにはBBBとは別の番組のための小屋がセットとして組まれていたんスけど、午後六時ごろ、収録準備のためスタジオにやってきたスタッフの間で、小屋の扉が開かない、とちょっとした騒ぎになりまして。そんで美術スタッフが扉をこじ開けたところ、小屋の中で血を流して倒れている被害者を発見した――というのが事件発覚の流れッスね」

「即死だったのですか? 血を流しているということは、外傷があったのでしょうが」

「死因は背後から刃物で心臓を貫かれたことによる出血性ショックだ。被害者の背中にはサバイバルナイフが突き刺さったままだった。解剖記録によると、ほぼ即死状態ということらしい」

 相馬があざみの質問に答える。あまり想像したくない状況に違いなかった。

「亡くなっていたのは金澤かなざわみどり、十八歳女性。海外の大学に飛び級で通う二年生で、BBB出場者の一人だったッス。死亡推定時刻は午後五時ごろで、BBBの収録が終わった時間と一致しています。つまり、収録が終わった直後、何者かと共にD2スタジオへ入り、小屋の中で殺害されたものと思われるッス」

「要するに、犯人はBBBの関係者の可能性が高いってわけだ」

 俺の言葉に、相馬が頷いた。

「もしくは、収録終了時間を知っているテレビ局員のいずれか、だな。D1、D2スタジオのあるフロアの防犯カメラを調べたが、BBB関係者かテレビ局員以外の怪しい人物は映っていなかった。何人かは非関係者がいたが、それら全員のアリバイは既に確認済みだ」

「防犯カメラに、D2スタジオへ入っていく人間の姿は映っていないのか?」

「残念ながら、D1およびD2スタジオ周辺には防犯カメラは設置されていなかった」

 俺は短い息を吐く。なかなかそう簡単には物事は解決しないらしい。

 短い静寂の後、あざみがはっきりとした声で、耶俣に訊いた。

「核心の話が抜けていますね。それで、この事件と紅葉にはどんな関係があるんです?」

「ああ、そうだったッスね。彼女に嫌疑を向けた理由は、主に次の二つです」

 耶俣はぴっと指を二本立て、それから帽子の奥の視線を成瀬と、そして守村へ向けた。

「一つ目。成瀬紅葉サンと守村由香サンは、共にBBBの出場者でした」

 あざみが一瞬驚いた顔を作って、それから二人を見る。守村はバツの悪そうな顔、対する成瀬はバカ丸出しのきょとんとした顔だ。あざみは守村に矛先を向けた。

「聞いていないよ?」

「言ってないよ。つーか、瑞佳ってテレビに出るのとか嫌いでしょ。だからアタシら二人だけで出て、テレビに映って脅かしてやったら面白いかと思って」

 あざみはもう一言、恨み節をつぶやこうとしたみたいだが、結局呑み込んだようだった。あざみがテレビや取材を嫌っているのは、仲間内では周知の事実だ。その配慮を前面に出されてしまっては、あざみとしても問責する言葉はない。次なる耶俣の言葉に注力する。

「二つ目――これが決定的なのですが、小屋の中に複数の成瀬サンの指紋が見つかりました」

「指紋……」

 あざみが誰に言うでもなくつぶやいた。守村は、あーあ、と独りごちて、頭を手で掻いている。どうやら知っていたらしい反応だ。それを横目で見ながら、耶俣は話を続けた。

「正確には、見つかったのはスタッフ数名と亡くなった金澤サン、そして成瀬サンの指紋です。スタッフと金澤サンの指紋があるのは仕方ないとしても、このD2スタジオと無関係な成瀬サンの指紋が見つかるのは不可解ですよね。我々は、この指紋を決定的な証拠と見ているんです」

「……紅葉、正直に答えて。BBBの収録後、貴女は小屋の中に入ったの?」

「え? うん、そりゃ入ったよ」

 あっけらかんと答える成瀬。この場の緊迫感などどこ吹く風と言うやつだ。一瞬呆れて絶句したあざみだが、なんとか気を取り直してその理由を訊く。

「だってさ、あの小屋って『ペンペラー!』に出てくる、ペンペラーハウスなんだよ」

「え? ペン様が住んでいるという、あの伝説の?」

 あざみの瞳が当社比三割増しに輝いた。ちなみにペンペラーとは、あざみが毎日のように観ている児童向け教育番組の名前である。その中でも、傍若無人で傲岸不遜、全人類奴隷化計画を裏で企むコウテイペンギンのペン様があざみの一番のお気に入りなのだが、そんなことはまったくもってどうでもよかった。というかあの伝説ってどの伝説だ。

「あざみがペン様LOVEなのは知ってたからさァ、なんかお土産の一つや二つは持って帰るべきだとあたしの第六感が囁いたワケよ。で、秘密裏にペンペラーハウスへとスネークしたってワケ」

「罪が一つ増えてるぞ、成瀬紅葉……」

 テーブルの向かいに立つ相馬女史が凄まじい形相で成瀬を睨んだので、成瀬はぎょっとしてあざみの背後へ緊急避難する。あざみのサイドテールの隙間からおずおずと顔を出しつつ、

「い、いやいや、ツミってないよ。ペンペラーハウスに入りはしたけれど、何もゲットできなかったんだもん。つーか真っ暗だったし、部屋ン中なんもなかったし。やっぱ収録毎に片付けちゃうんだろうな」

 成瀬のその言葉に、あざみが反応した。

「何もなかった? その……金澤さんの遺体も?」

「ねーよ。誰かいたら、ビビって逃げてるっつの」

 成瀬はバカだがそれ故に嘘を吐ける性格ではない。それを裏付けるように守村が口を開いた。

「アタシゃ止めとけって言ったんだけどさ、こいつ、気づいたらもう小屋の入り口から入ってて。仕方がないから、アタシはD2スタジオの入り口で誰か来ないか見張っていたんだよ」

「ねえ由香。大体どれくらいの時間、紅葉はペンペラーハウスの中にいたの?」

「んと……三分もいなかったな。マジ一瞬で帰ってきやがった。確かに『中に何もない』とか言ってた気がする。で、BBBのディレクターが近づいてきたから、ダッシュで逃げたんだ」

「……ふむ」

 あざみと守村の会話を聞いていた耶俣が鼻息を漏らす。帽子を目深に被っているせいで表情は見えない。対称的に、相馬蒼依の表情は強い疑念の色を隠そうともしなかった。

「嘘だな。高校生にもなって、そんな番組が好きな奴がいるわけがない。成瀬紅葉はBBB収録後、金澤碧をD1スタジオから連れ出し、小屋の中で殺害したんだ。守村由香が見張り役だったことに変わりはないかもしれんがな」

「ちょっと、言いがかりはやめてよ。第一アタシたち、その金澤さんって人と面識ないし」

「守村……お前と成瀬は、金澤碧と同じBBBの出演者だろう? それに金澤碧は十六歳にしてUCLAカリフォルニア大学へ入学した稀代の天才として有名で、今回のBBB優勝候補の一人でもある。収録中になんらかのトラブルがあった可能性は十分に想像できる」

 相馬の責めには澱みがない。「高校生にもなってそんな番組が」のところであざみのコメカミに青筋が立った気がしたが、まあ気のせいだろう。次第に熱の入った口論になりつつある彼女らの熱を冷ますように、耶俣がやけにのんびりとした口調で言った。

「でも、少々引っかかっていることがあるんですよねぇ」

「引っかかっていること?」

 俺が訊くと、耶俣は少しだけ意味深な笑みを口端に貼り付けながら頷く。

「いやね、話の始めに言ったでしょう? 美術スタッフが小屋の扉をこじ開けたって。それってつまり、内側から鍵が掛かっていたってコトなんです。でも、小屋の中に居たのは亡くなった金澤サンただ一人だった。犯人に刺され、犯人が小屋を出て行った後で彼女が鍵を掛けたのなら話は分かりますが、彼女は即死でした。当然、鍵を掛けている余裕なんてない」

「……つまり、これは密室殺人だと?」

 あざみの指摘に、耶俣は再び首肯した。俺は少しだけ考えてから反論する。

「そんなことないだろ。遺体が見つかるまでの時間を稼ぐために、犯人が外から鍵を掛けて出て行ったんだ。全然無理のないシチュエーションだぜ」

「ところが、そうもいかないんスよ。……この写真、ちょっと観てください」

 耶俣が内ポケットから一枚の写真を抜き出し、あざみの前に差し出す。

 俺がその写真を覗き込むと、そこには小屋の扉が映っていた。小屋の中から撮影したもののようだ。扉の内側、取っ手の部分には太く短い木材の棒が取り付けられており、戸枠の金具に渡せるようになっている。

「これは……かんぬき、ですか」

「そう、この扉の鍵は閂です。普通、番組のセット程度に鍵なんてものは取り付けないそうですが、『ペンペラー!』第五十八話でイワトビペンギンの岩田トビ男をペンペラーハウスから閉め出す、という演出上の理由から取り付けたものが、この閂だそうです。そして今回、扉を開かなくさせていた原因もこの閂でした。……この意味、分かるッスよね?」

「一般住宅のような鍵で開けるタイプではないし、扉に窓らしきものも見当たらない。物理的に、外から鍵を掛ける方法はないわ」

 あざみの言葉に、俺は再び写真の扉を注視する。確かに、鍵穴のようなものは見当たらなかった。

「それに、わざわざ密室にした理由も分からない。自殺を偽装したいのならともかく、凶器はナイフで完全に他殺と分かる状況ッスからね。なぜ密室なんて状況を造り出したのか……」

「主任、分からなくても無理はありません。何と言っても、この成瀬紅葉が犯人ですから。常識が通じないのも詮無いことかと」

「お……おおう、姉さん厳しいねェ」

 引きつった顔で言う守村だが、相馬の発言を否定する気はないらしい。

 しばらくじっと写真を見つめていたあざみが、不意に顔を上げて耶俣を見た。

「耶俣さん、他にも写真は持っていますか?」

「え? ええ、小屋周りの状況写真なら。あ、でも、ご遺体の写真はちょっと……」

「出せるものだけで構いません」

 耶俣が相馬に目配せをすると、相馬はバッグの中から四枚の写真を取り出して机に並べた。小屋の外観を撮ったものが三点に、遺体が運び出された後の内部を撮ったものが一点。小屋の造形はログハウス風で、床は内外共に黄色と白のモザイクタイルだ。児童番組らしいカラフルなタイルの上に血だまりが広がっている光景は、正直見ていて気持ちの良いものではなかった。

「現場の写真なんか見て意味があるのか? それとも、現場を見れば成瀬紅葉の無罪を証明できる、とでも言い出すつもりじゃないだろうな」

 馬鹿にするような口調の相馬女史。しかし、あざみは普段と変わらない表情のまま、

「別の意味で現場には行きたいですけど……そうですね。相馬さんのおっしゃる通りです」

「なに?」

「写真を見て確信しました。紅葉は犯人ではありませんし、この部屋も密室ではありません」

 抑揚のない、でも、はっきりとしたその言葉に、相馬が目を見開いた。

「……どうして、そう言い切れるんだ?」

「簡単な論理的帰結です。紅葉には犯行が不可能だった、だから紅葉は犯人ではない」

「えーと……それはどういうことッスかね、お嬢サン?」

 帽子を少しだけ持ち上げ、細めた目をあざみに向ける耶俣。あざみは計五枚の写真を手に立ち上がり、それを相馬の眼前に付きつけながら、こう断言した。

「答えはすでに出ていますよ」


 ◇ ◇


 サンセットテレビには、過去に一度だけ遊びに来たことがある。

 確か小学生の頃だったと思うが、町内会のツアーで見学会が開催されたのだ。高校生の今でこそ東京は電車で一時間の身近な街になりつつあるが、ガキの時分は東京を遠い存在に感じていたし、さらに東京のテレビ局となれば興奮は倍増、大はしゃぎで走り回った記憶がある。

 そのときにどんな場所を巡ったとか、どんな芸能人に会ったとかは忘れちまったけど。

「少なくともスタジオの中には入らなかったよな……うん」

 俺は初めての撮影現場に緊張しながら、D2スタジオの内部を見回した。

 一番目に付いたのは高い天井。壁はすべて暗幕で覆われ、天井から吊るされた無数のライトが眩い光を放っている。フロアはなかなかの広さだが、単管パイプで組まれた足場や音響機材、そして地を這う無数のコードのせいで、雑然とした狭さの方が際立っている印象だ。

 そして、このスタジオを最も占有している中央の物体こそ、俺たちがここに来た理由だった。

「うわあ、これがホンモノのペンペラーハウス……。スゴイなあ、カッコいいなあ……!」

「おい、写メ撮るな写メ。遊びで連れて来たんじゃないんだぞ」

 普段は絶対見せない恍惚の表情でスマホのカメラを構える瑞佳あざみと、昨日とまったく変わらないしかめっ面でそれをたしなめる相馬刑事。彼女らの目の前には、写真で見たのとまったく同じ形をしたログハウスが建っていた。いや、思ったより少し小さ目だろうか。

 一段高くなったステージ上に鎮座するログハウスは、近くで見ると、やはり「ログハウス風」であることが良く分かる簡素なものだった。丸太の組み合わせに見える外観はリアルに描かれた書き割りであり、材質もベニヤのように安っぽい。これがテレビカメラを通すと本物に近く見えるのだから、映像技術というやつに改めて感心せざるを得なかった。

「あー、まだ小屋に手を触れないでくださいね。責任者の方を呼んできたッスから」

 俺たちから少し遅れてD2スタジオに現れた耶俣刑事は、小太りでサングラスをかけた中年男性と、細身に短髪、腰にウエストポーチを下げた女性の二名を背後に従えて歩いてきた。俺は小屋から視線を外して耶俣に訊ねる。

「耶俣さん、その人たちは?」

「サンセットテレビ制作部の榛原はいばら裕介ゆうすけディレクターと、横井よこいゆみアシスタントディレクターです」

「ヤマっちゃん。ディレクターじゃないよ、総監督って呼んでくれなくっちゃあ! 分かる? ボク、チープロも兼ねてるからねチープロ。そこんとこ大切よ? よろしくね!」

 ガハハと豪快に笑いつつ、耶俣の背中をバンバン叩く中年男。一方の横井という女性は、困ったような愛想笑いを浮かべるのみだ。俺は退避してきた耶俣に小声で訊いた。

「随分親しげですけど、もしかして、お知り合いなんスか?」

「事件当日に一度会ったきりッス。これが業界ルールってやつなんスかねえ……」

「榛原裕介はBBBの制作責任者。横井弓はBBBとペンペラーの担当ADアシスタントディレクターで、あの小屋の扉に鍵が掛かっていることを確認した当事者だ。つまり、この事件の関係者と言える」

 いつの間にか近づいてきた相馬刑事が説明してくれる。つまり、役者は揃ったということだ。

「じゃあ、瑞佳サン。さっそく始めてくれませんか?」

 耶俣に指名されたあざみが振り返る。そこに先ほどまでの緩み切った彼女は、もういない。悠然とした足取りで近づくあざみの姿を見て、榛原が耶俣の袖を引っ張りつつ囁いた。

「ね、ねえねえ、誰、この美少女ちゃん。まさか警察関係者じゃないんでしょ?」

「ああ、ええと、何と言いましょうか……」

「はじめまして。私は葉月幕浜高校一年、瑞佳あざみと申します」

 あざみが榛原の眼前まで進み出て、一礼する。その動きがあまりに自然だったため、榛原も呆気に取られて固まっているようだった。あざみは続けて、

「警察関係者ではありませんが、当該事件の参考人のひとりと考えてください。私がここに来た目的は二つ。このペンペラーハウスを見ることと、私の友人にかけられた容疑を解くことです。そのためには、お二人のご協力を仰がなければなりません。よろしくお願いします」

「あ、ああ……協力はするよ、うん。協力はするけどね……」

「ありがとうございます。では、まずはペンペラーハウスを見せていただきますね」

 くるりと踵を返し、あざみは再び小屋へと近づいていく。その場に残された俺たち五人は、わずかな目配せを互いに行った後、黙ってあざみの背中について行った。


 ◇ ◇


 ペンペラーハウスと呼ばれる小屋は、十畳ほどの広さしかない、文字通りの小屋だった。

 四面を囲う壁に窓はなく、出入口も一つきりだ。その出入口の扉には、写真で見た通りの閂が扉の内側にだけ取り付けられており、戸枠には壊れた受け金具がぶら下がっている。上を見ると天井がぽっかりと抜けていて、眩しいくらいのスタジオ照明が降り注いでいるが、事件当時はこの屋根も被せられていたそうだ。撮影セットだからこその自由度というところだろうが、事件当時が密室であったことに変わりはない。

 既に血痕もきれいにふき取られた内部の見学を終えて、俺たちは一度、小屋の外に集合する。最後に小屋から出てきたあざみが、横井ADに向かって口火を切った。

「それでは、順序立てて確認していきましょうか。……横井さん。ペンペラーハウスは、いつもこの土台の上に建てられているのですか?」

 あざみの言う土台とは、俺たちの足元にあるこのステージのことだ。黄色と白のモザイクタイルが敷き詰められたステージは、本来のスタジオの床から五十センチほど浮かせて建築されている。踏んだ感触からして、ステージの材料は木材だろう。横井が頷いた。

「そ、そうです。このD2スタジオは、ペンペラーの他にもいくつかの番組の収録に使われますので、タイルは適宜取り替えたりしますけど……基本的にはこの上に組みますね」

 おっかなびっくり、という様子で話す横井AD。年上の女性のはずだが、どこか不安げで頼りなさそうな印象だった。彼女の隣に立つ相馬刑事とはまるで正反対だ。

「このペンペラーのセットは、いつ組んだものですか?」

「じ、事件のあった日の午前です。BBBの収録後にペンペラーの収録が控えていましたから、BBBの前に組んでしまおうと……。事件後は警察の方に言われて、一度も解体していません」

「このセットは、組もうと思えば、誰にでも組めるものなんですか?」

「……君の考えは読めているぞ、瑞佳あざみ」

 あざみの質問を遮ったのは相馬刑事だった。彼女は一歩前へ出て、小屋の側面に手を触れた。

「ログハウス風に見えても所詮はセット。軽量のベニヤと合板の継ぎはぎがこの小屋の正体だ。犯人は小屋の中で金澤碧を殺害した後、扉に閂を掛け、壁か天井の一部を取り外して小屋から脱出する。その後、再び壁を取り付ければ密室の完成というわけだ」

 そこで一度言葉を切り、相馬はあざみに向き直る。

「だが、それが簡単にできるほど実際は甘くない。セットの壁を簡単に付け替えするなんて、一般人ではまず無理だろう。つまり、犯人はそれができた美術スタッフの誰か。成瀬紅葉ではありえない……君はそう言いたいんじゃないのか?」

 あざみは答えない。相馬はその態度を図星だと思ったのか、間髪置かず話を続けた。

「だが残念だったな。それくらいは警察も考慮した。鑑識が調べた結果、小屋の壁や天井を固定している金具に、取り外されたような痕跡は見つからなかった。無論、ステージの床もだ。つまり、セットは事件前から一度も解体されてはいないということだ。その論法は使えんぞ?」

 勝ち誇るような相馬の口調。あざみは顎に指を添えて、小さく考えるような仕草をした。

「うーん、別に、そういう切り口をする予定は始めからありませんでしたけれど……でも、その考え方は面白いですね。ではこちらも、一つ確認をさせてください。……耶俣刑事」

 あざみの視線は耶俣へ。耶俣は少しだけ帽子のつばを持ち上げて、あざみの顔を見た。

「耶俣刑事は昨日、小屋の中で成瀬紅葉の指紋が複数見つかったと言いましたね。それは、小屋のどの部分からですか? ……いえ、訊き方が違いますね。なぜ『複数の指紋が見つかった』と言ったのですか?」

「……どういう意味だ、それは?」

 相馬が怪訝な顔をしてあざみを睨む。耶俣は答えない。あざみは相馬を見て、答えた。

「小屋は閂によって密室状態になっています。紅葉が犯人であれば当然、その閂は紅葉が掛けたものとして扱うでしょう。それならば、耶俣さんは指紋を犯行の証拠として扱うため、必ずこう言うはずなんです。『扉の閂から、成瀬紅葉の指紋が見つかった』とね」

 相馬がはっとした顔をする。だが、俺にはまだ意味が分からない。あざみは続けて、

「しかし、耶俣刑事はそうは言いませんでした。なぜか回りくどく、指紋が出たと言うだけ。……それって裏を返せば、扉の閂からは指紋が出なかったという意味なんじゃないですか?」

「それ、は……」

 相馬が言葉に詰まる。耶俣はまいったなと頭を掻いて、白状した。

「いやあ、看破されてたッスか。その通り、閂からは成瀬サンの指紋は発見できませんでした」

「だ、だがッ! 成瀬が犯行を隠すためにふき取ったという可能性もあるだろう!」

 勢いに任せて相馬が言うが、後の祭りだ。あざみは首を振って、その反論を否定する。

「閂の指紋だけふき取って、他の指紋はふき取らなかったと言うつもりですか? 閂を触るときだけ手袋をしていたというのもナンセンスです。閂に紅葉の指紋がなかった理由はただ一つ――閂を掛けたのは紅葉ではないから。さらに言えば、扉にすら触っていないのでしょう」

 あざみは小屋の出入口に近づき、閉じられていた扉を開け放った。

「おそらく、扉が開けっぱなしの状態で紅葉は小屋の中に侵入した。そして、何も得ずに小屋から出た。だから壁に指紋はあっても、扉に指紋は付かなかった。……横井さんが来たときには扉が閉められていたのですから、必然的に、犯行は紅葉が立ち去った後に行われたんです」

 相馬は唇を噛んだまま、今度は反論をしなかった。あざみは再び耶俣に向き直る。

「では、耶俣刑事に重ねてお聞きします。閂には、誰かの指紋がありましたか?」

「鑑識の話では、いくつか見つかったそうッスね。そのほとんどが、セットを組み立てた美術スタッフのものだったそうですが、一つだけ、スタッフのものではない指紋があったッス」

 皆の視線が耶俣に集まる。耶俣は多少もったいぶったように時間を置いて、答えた。

「金澤碧サンの指紋です」

「金澤碧って……殺された金澤碧か? それじゃ、閂を掛けた人間って……」

 俺の言葉に、耶俣がゆっくりと首肯した。

「ええ。……金澤サンが、自ら閂を掛けたとしか考えられません」

 それまで黙っていた榛原ディレクターが、額に大汗をかきながらあざみの方へ一歩進み出た。

「そ、それじゃ、金澤ちゃんは、自殺だったって言うのかい?」

「いえ、背後から刺されているのですから、自殺は確率的に低いでしょう。自ら閂を掛けて小屋に閉じ籠るようなシチュエーションで、思い当たるものは一つしかありません」

「そ……それは?」

「犯人に追われ、小屋に逃げ込んだと考えるのが、一番自然な流れです」

 あざみのその言葉に、俺は思わず小屋の中を見た。犯人に追いかけられ、必死の想いで逃げ込んだ部屋の扉に閂を掛ける金澤さんの姿を想像して、思わず身震いをする。

「それじゃ、なおさら不可解だ!」

 口火を切ったのは相馬刑事だった。

「では、犯人はどうやって部屋の中に入った? 金澤碧の気が急に変わって、閂を外したとでも言うつもりか? それならば、犯人は一体どんな人物だというんだ?」

「さあ、それは私にも分かりません」

「はあ?」

 あざみの返事に、相馬は苛立った声を上げてしまう。あざみはわざとらしくそっぽを向いて、

「そもそも、私の目的は紅葉の罪を晴らすことです。誰が犯人なのか調べるのは、それこそ警察さんのお仕事でしょう。私には正直、誰が犯人かなんて、一切興味がありません」

「き、君な。それでは、我々が君を連れてきた意味が……」

「あ、でも、この密室のつくりかたなら、もう分かっていますよ」

「……え?」

 しれっとそう言い放たれて、目を丸くする相馬刑事。あざみが横井に何事かを耳打ちで頼むと、横井は頷いてその場を離れていった。俺はあざみに近づいていく。

「何を話したんだ?」

「この密室をつくるためには――いや、正確には破るためには、かな。少し道具が必要なの」

 一分ほどで、横井は荷物を抱えて帰ってきた。数回に分けて持ってきたものは、セットの解体に使う大型のバールと、使い古された角材が一本、そして赤い塗装がされたジャッキだった。ジャッキはパンタグラフジャッキと呼ばれる、自動車のパンクを直すのに良く使われるやつだ。

「横井さん、ありがとうございます。ちなみにこれらは、どこから持ってきたものですか?」

「え? そのぅ、角材はそこらに転がっていたもので、工具は工具箱からですけど……」

「こういった工具類は、撮影所では日常的に使うものですか?」

「そうですね。収録用の美術品は外注がほとんどですけど、現場で調整したり、直したりということはしょっちゅうですから。ある程度のものは現場に置いてあるのが普通です」

「つまり、あなたのようなADさんでなくても、使うことは可能というわけですね」

「……おい、いったい何を始めるつもりだ?」

 いい加減、焦れた相馬が不満げに言う。あざみは振り返って、その場の全員を見回した。

「正直に言うと、今からやることは、これらの道具でなくとも実現可能です。犯人が行ったものとは別のやり方かもしれませんが、結果は同じなので方法の違いだけと認識してください」

「それって……この密室をつくる方法が、複数あるって意味ッスか?」

 耶俣の指摘にあざみは頷いてから、小屋の外壁に手をついてその場にしゃがみ込んだ。

「耶俣さんに現場の写真を見せていただいたとき、一番に気になったのは、この床なんです」

「床?」

「小屋の中も、そして外も、床は同じ模様をしていますよね」

「当たり前だ。小屋はステージの上に建っているのだからな」

 そう答えたのは相馬だ。あざみはまた頷きつつ、横井の用意したバールを手に取る。

「つまり、この小屋は四方の壁と天井だけがセットというわけです。床とセットは連結されておらず、床はステージとして独立している。低予算で児童向けの番組ならではの舞台ですね」

 あざみはバールの先端、釘抜き用に二股に分かれた爪を小屋の壁とステージの間に差し込む。次にバールの下に角材を置き、ちょうどテコの原理が最大限に働くように位置を調整すると、

「だからこそ――こんなことが可能になる」

 バールの逆端を、ぐいっと下へと押し込んだ。


 ぐらりと、思ったより軽い音を響かせて――小屋全体が、傾いた。


「ひいっ!」

 甲高い声を上げたのは榛原だ。だが、持ち上がったのは角材一個分、十センチ程度である。それでも女一人が大きな小屋を動かしたという目の前の現実は、想像よりインパクトがあったのは確かだった。あざみはバールを足で踏みつけたまま、俺に視線を送る。

「冬夜、ジャッキを小屋と床の隙間に入れて。さすがにこの体勢のままは疲れるわ」

「お、おう」

 俺は言われた通り、赤いジャッキを小屋の壁と床の間に差し込む。あざみはゆっくりと力を抜き、下敷きとなったジャッキの上に小屋の壁を軟着地させると、バールを壁から抜き取った。

 かくして、十センチだけ向こう側へ傾いた小屋の完成だ。続いてあざみは、ジャッキにハンドルを接続して少しずつ回していく。ジャッキのパンタグラフは徐々に足を閉じていき、わずかずつながらも小屋をぐいぐいと押し上げていった。

「まさか、小屋を動かすとは……! 建坪十三平米はあるんだぞ、この小屋は?」

 驚く相馬に、あざみは額に浮かんだ汗を服の袖で拭いつつ、答える。

「小屋と言ってもセットですよ。仮にですが、小屋の材質がすべて厚み一センチのラワンベニヤ製だった場合、一平方メートルあたりの重量は約五キロ。関東圏八畳間の壁一枚で約五〇キロ、壁四枚と屋根で二五〇キロです。このバールの長さが一メートルですので、支点となる角材を壁と逆端の相関距離一対九で配置すれば、二十五キロの力で小屋は浮き上がります。いえ、浮いたときに小屋の対角は地に着いたままですから、その半分の十二キロですね。私みたいに非力な人間でも、物理的に十分可能なオペレーションなんです」

 そう言って、再びぐっとハンドルに力を入れる。再び小屋は浮き上がり、傾きの角度もみるみるうちに大きくなっていった。

「ふぅ、このくらいでしょうか。現在で隙間の大きさは三十センチくらいですかね。もう少し上がりますけど、三十センチもあれば人間が這って潜り込むには十分な高さだと思います」

「ということは……犯人は、そうやって小屋の中に侵入したと?」

 耶俣刑事の言葉に、あざみはそうです、と頷いた。

「時系列を整理するとこうです。――紅葉がこの場から立ち去った後、犯人に追われた金澤さんが小屋に入り、鍵をかけて閉じ篭った。扉が開かないことから犯人は、小屋を持ち上げて中に入り、金澤さんを殺害した。そして入ってきたときと同様に小屋の隙間から外へ出て、小屋を元に戻し、立ち去った。……これで密室の完成です。いえ、元々犯人に密室を作る意図はなかったでしょう。自分で作った侵入口から出入りしただけで、扉は関係がなかったのですから」

「し、しかし……こんな小屋が持ち上がるなんて、普通、誰も考え付くはずが……」

「考え付きますよ。近づいて見れば小屋の材質は何なのか分かるし、質量も十分に計算できます。それに、道具を用いることは人間の根源的な叡智です。考えることを放棄しなければ、この結論に至るのは必然と言えるでしょう」

 然したる感慨もなく、淡々と言い放つ。その物言いは決して上から目線のようなものではなく、まるで当たり前のことを言っているような、そんな口ぶりだった。

 その場にいた誰しもが呆然とし、ただひたすら傾いた小屋と、瑞佳あざみを見るしかない。

 スタジオのスポットライトに照らされた彼女は、やはりいつものように無表情で。

「だから、いつも言っているじゃないですか――」

 まるで、俺たちとは違う生き物のように、その瞳だけが怪しく輝いていた。

「世界は、数でできているって」

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